唯識に学ぶ・誓喚の折々の記

私は、私の幸せを求めて、何故苦悩するのでしょうか。私の心の奥深くに潜む明と闇を読み解きたいと思っています。

唯識入門(31)

2020-06-28 12:16:18 | 『成唯識論』に学ぶ

 今日は。中一週あきましたが、前回のつづきを述べてみたいと思います。
「了」(りょう)についての説明です。了とは、了別、つまり物事、対象を区別する働きを持つものという意味です。それは認識主体である見分(けんぶん)になります。見分は常に認識対象である相分(そうぶん)と一緒に働いています。私たちが誤解をするのが、相分と共にですから、相分(認識対象)が存在すると錯覚を起こすのですね。これが二分説になるのですが、二分説では認識の在り方が十分に説明がつかないわけです。
 そこでですね、陳那論師が二分は自体から生ずると見抜かれました。自体分から認識するもの、認識されるものが転じているのだと。このような構造ですと、認識の在り方は、自体分、つまり自分から生まれているんだと、自己責任に於いて認識判断を行っているのが私であるということになります。これが三分説になります。
 『論』の説明ですと、
 「了」についての所論は、「了」とは、異熟識(ただいま現在の私)が、自分の所縁(対象)に於て、了別の用(働き)をもつことであって、四分の中では、見分に摂められる、と説かれているわけです。
 そして、「然も有漏の識の自体生ずる時に、皆所縁・能縁に似る相現ず。」(有漏の認識作用は、自体が生ずる時に、皆な必ず所縁・能縁と云う対立した相を現わす。)
 この「自体生じる時」という自体は、自体分(自証分)といいますが、これが私たちが認識するときの軸になるわけです。自体を中心に、外の境が実在すると思う対象の相を「相分」と名づけられ、そして実に外に認識する対象が実在すると思う働き、能縁の側面を「見分」と名づけられているのですね。自体を軸として、相分・見分が、外境は実在すると認識するのです。これが迷いの根本構造になります。二分の相は体に対して云われるわけです。体もまた実体化されているわけです。その体の上に現れる二分の相とは、私たちの外境は存在すると妄執している相なのですね。妄執している相が相分・見分として現行しているのです。これが三分説になるわけですが、二分説は、識の体は、能縁の見分が自体であり、相分が相であるわけです。二分説は、難陀の説になりますが、見分を相とはみないわけで、体であると。対象化しない、実体ではなく、作用であるとみているわけです。私たちに認識の底には、このように、二分に見ていくという構造があって、ものを知るということが成立しているのです。これを、
 「識に離れた所縁の境有りと執する者、彼説く、外境は是れ所縁なり。」
 私とは無関係に外の世界は存在する、私の主観を抜いて外境は有ると執着する見方です。しかし実際は主観の相違によってものの見方が違ってくるのですね。私の見ている世界と、他の人が見ている世界は違うのです、千差万別です。ですから、「識に離れた所縁の境有りと執する」ということは間違いだといえるわけです。
 これに対してですね、相分は所縁であり、見分は行相である、と見ていく有り方ですね。「識に離れたる所縁の境無しと達せる者」は、「相と見との所依の自体をば事と名づく、即ち自証分なり」と。
 自証分は自覚作用であるということです。見分・相分は自内証であって、外的関係ではないと明らかにしているわけです。そうしますとね、私たちの認識はどのように成り立っているのでしょうか。私が見ているという認識はありますが、それは外に実在としての環境世界が有るという関係に於いて認識が成り立っています。外境を所縁とし、相分を行相・見分を事とみている有り方なんです。このものの見方が間違っていると指摘しているのが三分説になるのです。 
 所縁(対象)は相分・行相(作用)は見分という見方は、相分という心の影像、主観によって捉えらえたものを見ていることになります。自分が心の中に捉えた映像を、自分が認識して知るという構造です。これが識の本質になるわけです。この本質を自体分といいます。この自体分が無かったなら、見・相二分は外界の存在になり、外界は実在と見るという錯誤を生じるわけです。自体によって二分が成り立つのですね。自分が自分を知っている、他人は騙せても自分は騙せない、騙したことを自分は知っている、自分は自分から逃れる術はないというのが自体になるわけですね。道理です。自証をもって自体とする、これが道理である。見・相二分の所依が自体である。二分では判然としなかった識の構造が、体は識、用は二分ということで諸法唯識が成り立つのです。
 三分は、陳那菩薩が経に依って道理を立てたいわれています。「然も心と心所とは、一々生ずる時に、理を以て推徴するに三の分有り。」といいますが、何故三分を立てるのか、という問いが出されます。「所量と能量と量果と別なるが故に、相と見とは必ず所依の体有るが故に。」と答えられています。量とは認識することで、所量・能量・量果で一つの認識が成り立つといわれています。認識されるものを所量、これは相分に当たるわけです。そして認識するものを能量、これは見分にあたり、認識の結果を確認する心の働きを量果といい、自証分にあたるのですね。果によって、能・所が完成する、量果によって、能量所量が完成するのです。認識は量果によって成り立つのです。量果が無ければ、能量所量は成り立たないのですね。そして量果が因となって、能量所量が働くのです。これを『述記』には、「相分と見分と自体との三種は、即ち所能量と量果と別なり。・・・・・若し自証分無くんば、総見の二分は所依の事無きが故に、即ち別体を成じて心外に境有るべし。今所依有りと言うが故に、心に離れて境無く、即ち一体なり。」と。「・・・・・」に喩が出されています。「尺丈を以て物(反物)を量る時、物(反物)を所量と為し、尺(ものさし)とは能量と為し、数を解するの智は名づけて量果と為すが如し。」と、反物と尺があるだけでは量ることはできないのです、そこに量る人がなければならないのです、量る人があって初めて能量・所量が意味を持ちます。量る人、即ち自体があって、見・相二分が成り立つのです。
 これは教証として、『集量論』の伽他の中に説かれているのですね。「境に似たる相は所量なり。能く相を取ると自証とは、即ち能量と及び果となり。此の三は体別なること無しと云う。」と。「今此の三種は体是れ一識なり。識に離れざるが故に、之を説いて唯と為す。功能各別なり。故に説いて三と言う。」と『述記』の中で慈恩大師は説明されています。
 またにします。


唯識入門(30)

2020-06-13 09:24:45 | 『成唯識論』に学ぶ
 おはようございます。自粛要請も全面解除になり、何故か新型コロナが終焉したかのような感がありますが、終焉していませんからね。お一人お一人の行動の自粛が求められますね。たとえワクチンが開発されたとしても、新たな感染症が必ず生まれてきます。それは人間が環境と共存する姿勢を失って、人間が環境を破壊する限り、環境と人間の行動の摩擦から必然的にもたらされるものだと思います。いうなれば、感染症はどこかから来たのではなく、人間が人間自身の中から生み出してきたものであるという自覚が必要だと感じます。
 唯識は四分義に於いて警鐘をならしています。単純には、いのちは何を対象にして動いているのかということです。いのちの対象は自らの経験したことと、この身体です。そして共通するいのちの大地、つまり環境です。これを対象として動いています。自らの人格は、自らが作り出しているのです。決して他に依って動かされることはありません。
 唯識はいのちの根源を阿頼耶識と押さえています。非常に現実的です。迷ったり、苦しんだりしていることを大切にしています。その構造を四分義として表しているのです。
 阿頼耶識には、二つの側面があることを述べていましたが、『論』には「阿頼耶識は、因と縁の力の故に自体生ずる時、内に種と及び有根身とを変為し、外に器を変為す。即ち、所変を以て自らの所縁と為し、行相は之に杖して起こることを得るが故に。」と説かれています。
 阿頼耶識の所変とは、外界(外の環境)は、阿頼耶識が投げ出したものということなのです。外の世界があって、外の世界に依って私は左右されていることを否定しているのです。しかし、変化したものと云われても、外の世界に依って動いている自身が居ると思っています。これを迷いの種(因)だと教えています。この方程式によりますと、この迷い、苦しみの因を対象として人格を形成してくわけですから、結果は迷い、苦しみしか生まれてきません。
 一番はっきりしている世相では、何事も自身の優位性を求めて、他を利用しているでしょう。新興宗教で云えば、どちらも利用する関係で成り立っています。この方程式では、永遠に安らかな人生は送れませんね。
 ちょっと難しくなりますが、阿頼耶識の所変を阿頼耶識は自らの所縁としていることを説明したいと思います。
 阿頼耶識から変化したものを、自らの認識対象としているということです。そして、阿頼耶識の所縁を大きく分けて、執受と処になります。内的なもの(執受)に、種子と有根身が有ると述べられているわけです。種子は有漏の種子ですね。煩悩に染汚された行為の結果しか阿頼耶識の中に植え付けることはないのです。「諸の種子とは、諸の相と名と分別との習気なり。」と云われる所以です。これは、すべての有漏の善等の諸法の種子であり、無漏の種子は植え付けられないのです。それ故、『瑜伽論』等には、「遍計所執の妄執の習気なり」と述べているのです。
 有根身は、根(感覚器官)を有する身体ですね。五色根と根依処とに分けられます。根は、又、勝義根と扶塵根とに分けられますが、勝義根は真実の根、淨色所造と云われています。これは何を意味するのでしょうか。五色根(眼根・鼻根・耳根・舌根・身根)といわれる根そのものは宝石のような光り輝くものであることを、ヨーガ行者は発見したのでしょうね。そして、根を助けるものを根依処と云われ、扶塵根(ぶちこん)とも云われています。これら執受と処は、微細には働き、広大であるところから、認識されることはない所から不可知(ふかち・知りえることは無い)と云われるのです。
 このことを前提として、「了」について考えてみます。
 「了とは、謂く、了別、即ち是れ行相なり。識は了別を以て行相と為すが故に。」と。了別とは、ものごとを認識する働きの総称で、識の働きのことですが、これが「識の自体分が了別するを以て行相と為るが故に。行相と云うは見分なり。」と云われます。ものごとを区別して知る働きは見分に摂められるのである、と。     
 「此の中に了とは、謂く異熟識いい自の所縁に於て了別の用有るなり。此の了別の用は見分に摂めらる。然も有漏の識が自体の生ずる時に皆な所縁能縁に似る相現ず。」 
 私たちがものごとを認識する時には所縁・能縁という形をとるわけです。そして、所縁に似る相を相分といい、能縁に似る相を見分というのだと。所縁と能縁は別別に起こることはないのです。同時であって異時ではないわけです。それがですね。自体が生ずる時に、所縁・能縁という形を取ると云われているわけですね。「識は外境に似て現ずる」、外境に似て現れるものは相分ですね、そこに見分が働いている、と云われているのですが、こういう所に問題が生まれてきます。
 またにします。週末大雨予想です。自粛をしながら、自らをみつめるいい機会になるといいですね。合掌

唯識入門(29)

2020-06-07 22:01:40 | 『成唯識論』に学ぶ
 今晩は、ちょっと間隔があきましたが、四分義についての序説を述べてみたいと思います。
 四分義は何を現わそうとしているのか、ここが一番の問題だと思います。
 四分義は、私たちの認識の構造の心の奥深くに横たわっている自己中心的な思いによって成り立っているという問題を抉り出しているのです。
 第八識の行相と所縁、働きと、対象は何かという問題ですね。心は必ず何かを対象として認識をしているのです。『成唯識論』では、「謂く、云く」と答えています。
 『三十頌』では「謂く不可知の執受と処と了となり」と述べられていますが、注釈は「了」から解釈されています。
 不可知というのは、阿頼耶識の認識と認識の対象とのありようをを表す概念で、阿頼耶識の行相(認識作用)は微細であり、阿頼耶識の所縁(認識対象)、阿頼耶識は何を対象としているのかというと、執受と処と了である。執受とは種子と有根身、これは微細に働く、処は有情の所依処で器世間のことだと云われています。了というのは、「了と云うは謂く了別」、これは行相であり、識は了別するということが行相になると云われているのです。
 先ず、「種子と有根身」ですが、種子は、「謂く諸の相と名と分別との習気なり」と、私たちの経験のすべてが種子として蓄積されているということ、これが習気といわれるものです。それと、有根身、「諸の色根と及び根の依処となり」と。所依処は識の相分であり、外境、外の世界をあらわします。
 執というのは、「摂の持の義」、受は、「領の義・覚の義」である、「摂して自体と為し、持って壊せざらしむ、安危共同にして而も之を領受す、能く覚受を生ずれば名づけて執受と為す。」と云われ、種子と有根身と阿頼耶識は、安らかな時にも、危険な時にも、一体となって働くいく、これが識の根底に於て「暴流の如く」動いていると教えているのです。 
 覚受とは、感覚のことですね。身体が苦・楽などを感じること。生きているということは、覚受が働いていることになります。
 今夜も友と阿頼耶識について話し込んでいました。阿頼耶識の三相と本願の三心について、阿頼耶識は三世を包み、一切の経験を受け入れているのは、現在の立ち位置が覚りに向かえというシグナルを送っているということなんだと。それが法蔵菩薩の今現在の思惟ということになり、法蔵菩薩は、今、現に生きて働いている。法蔵菩薩という表現をとっているけれども、いのちの要として、阿頼耶識という苦悩を背負いながら、安楽解脱身を目指せと。それが安養浄土からの呼びかけなんでしょう。
 阿頼耶識には、二つの側面があることを述べましたが、『論』には「阿頼耶識は、因と縁の力の故に自体生ずる時、内に種と及び有根身とを変為し、外に器を変為す。即ち、所変を以て自らの所縁と為し、行相は之に杖して起こることを得るが故に。」と説かれています。
 阿頼耶識の所変を阿頼耶識は自らの所縁としている、と説かれています。阿頼耶識から変化したものを、自らの認識対象としているということです。そして、阿頼耶識の所縁を大きく分けて、執受と処になります。昨日述べた通りです。ただ、内的なもの(執受)に、種子と有根身が有ると述べられているわけですが、種子は有漏の種子ですね。煩悩に染汚された行為の結果しか阿頼耶識の中に植え付けることはないのです。「諸の種子とは、諸の相と名と分別との習気なり。」と云われる所以です。これは、すべての有漏の善等の諸法の種子であり、無漏の種子は植え付けられないのです。それ故、『瑜伽論』等には、「遍計所執の妄執の習気なり」と述べているのです。
 有根身は、根(感覚器官)を有する身体ですね。五色根と根依処とに分けられます。根は、又、勝義根と扶塵根とに分けられますが、勝義根は真実の根、淨色所造と云われています。これは何を意味するのでしょうか。五色根といわれる根そのものは宝石のような光り輝くものであることを、ヨーガ行者は発見したのでしょうね。そして、根を助けるものを根依処と云われ、扶塵根とも云われています。これら執受と処は、微細には働き、広大であるところから、認識されることはない所から不可知と云われるのです。
 このことを前提として、「了」について考えてみます。「了とは、謂く、了別、即ち是れ行相なり。識は了別を以て行相と為すが故に。」と。了別とは、ものごとを認識する働きの総称で、識の働きのことですが、これが「識の自体分が了別するを以て行相と為るが故に。行相と云うは見分なり。」と云われます。ものごとを区別して知る働きは見分に摂められるのである、と。     
 「此の中に了とは、謂く異熟識いい自の所縁に於て了別の用有るなり。此の了別の用は見分に摂めらる。然も有漏の識が自体の生ずる時に皆な所縁能縁に似る相現ず。」 
 私たちが物事を認識する時には所縁・能縁という形をとります。そして、所縁に似る相を相分といい、能縁に似る相を見分というのだと。所縁と能縁は別別に起こることはないのです。同時であって異時ではないわけです。それがですね。自体が生ずる時(認識が生まれるとき)に、所縁・能縁という形を取ると云われているわけです。「識は外境に似て現ずる」、外境に似て現れるものは相分ですね、そこに見分が働いている、と云われているのですが、こういう所に問題が生じているわけでしょう。
 またにします。おやすみなさい。