唯識に学ぶ・誓喚の折々の記

私は、私の幸せを求めて、何故苦悩するのでしょうか。私の心の奥深くに潜む明と闇を読み解きたいと思っています。

因縁依のまとめ ・ 『唯信鈔文意』に聞く (18) 観音の智慧

2011-01-30 16:43:32 | 唯信抄文意に聞く

      ー 因縁依(種子依)のまとめ ー
 因縁依は種子生現行・現行薫種子・種子生種子の各種相望の因縁に通じるのですが、種子依という場合、現行薫種子には通じないのです。今は三類の因縁に通じるので因縁依と云うのですね。
そして種子生現行を生ずる因果について因果異時・同時の両説があるといわれていました。難陀・最勝子の因果異時の説を挙げて護法が論破しています。因果異時とは、種子が滅して始めて現果を生ずるのであるとする説で、難陀等が教証・理証を以て主張しています。教証として、『雑集論』に説かれている「種なくして已に生ず」という言を挙げています。最後蘊をもって種子生現行の異時であることの教証としているのですね。二乗無学の最後の五蘊は前刹那の種子から生じ、その種子はすでに滅して、現在の五蘊のみが已に生ずることを顕す、というわけです。理証として種と芽の喩えを以て因としての種と果としての芽は同時ではなく、種が滅して後、その芽が生ずるのであると主張しています。この教証と理証を以て種子生現行の因果もまた異時であるというのです。それに対して、護法は、そうではないのだ、因果には同時と異時の二種がある、因果異時というのは、種子の自類が相続する時のみに云われることである、種子生種子という、前念の種が滅して後念の種が生ずるということのみである、ということであって、種子生現行の因果は必ず同時因果である、と云います。例として、焔と炷とのように互いに因となることを挙げ、また青蓮根等のように種と芽が同時に存在する植物もあることを以て、難陀等の説は能立法不成の過失・所立法不成の過失・不定の過失を以て、理に合わないと論破しているのですね。

        『唯信鈔文意』に聞く (18)

          蓬茨祖運述 『唯信鈔文意講義』より

  「観音・勢至は、かならずかげのかたちにそえるがごとくなり。」
 観音・勢至と申しましても、いずれも一方は差別の智恵、観音は差別の世界を照らす智恵であり、勢至は平等の世界を照らす智恵です。差別の世界を照らすという意味で慈悲という意味になるでしょうね。

 差別ですから、貧乏なものもあれば金持ちもある。健康なものもおれば病にかかったものもおる。そうすると、貧乏なものは苦しみ、病のものは悩んでおるわけですね。その悩んでおるということは、本当に悩んでおるかと申しますと、差別で悩んでおるですね。金持ちのものをみて悩むいうのが、貧乏人の悩みでございます。金持ちがおらなければ、貧乏人もまたないわけなんですね。金持ちが世の中におりますから、それをみて貧乏人というて見下げもしましゅし、また見下げられて、自分と自分を見下げて、また悩むということでしょうね。病人は病人で健康なものをみて悩む。外に健康な人がおらなければ、なにも悩むということはないですね。けれども、外に健康に人がおるから悩むのであります。でも一人だって、腹がいたかったり、頭がいたかったりすれば悩むにちがいないといいますけれど、それはもう健康なものと比較しての話であって、腹がいたくなってきたということだけであれば、なにも驚かんですよ。痛いのは、じっと我慢するよりしかたないものですから、我慢するのは荷物かついでいるようなものです。荷物かついだら重いですからね。かついだ荷物の重さを我慢するよりほかありません。汽車に乗って立っているのと同じことです。立っているのはいらいですけれど、腰かけがあるからえらいのであって、腰かけもなければ立っておることはあたりまえ、我慢するのはあたりまえのことです。それこそ生きている証拠といってもいいのです。

 ですから、その点を見てみるというと、動物たちは病気になって苦しまんですよ。だまって静かにしております。まあうめきますけれど、あれは歌みたいなものです。人間は七転八倒する。虚空をつかんで苦しむという。なぜかというと、「たすけてくれ」というわけなんですね。やはり、それで悩むのです。あるいは死にはせぬかと思ったりします。動物は死にはせぬかという思いもおこらんです。だから、じっとしておる。それで人間より早く治ってしまう。死ぬときも苦しまないで早く死んでしまう。人間は死ぬのにしても長くかかって死ぬ。ゆっくり苦しんで、注射じゃ、切開じゃと、体をおもちゃにされて、そのあげく、さらに強心剤うたれて、最後に「どうも」と医者から頭を下げられておしまいですわね。まったく、人とくらべての悩みです。その差別を照らす智慧ですね。

 観音さまというのは、平生、そういう医者をたのんだり、金をたのんだり、薬をたのみにしたり、そういうようなことがつまり観音さまの御利益だというふうになっていったのですね。ところが、観音さま自身が差別を照らす智慧であって、我々の悩みというものがただ単に病なら病、食物の不足とか、寒さとか住まいのこととかで悩むのではない。差別の念によって悩む、差別のおもいによって悩んでおるのだということを知らせるのが、観音の慈悲なんですね。

 それが常識的に観音さまの御利益は病気を治す、災難を救うて下さるというようなことになって、それで『壷坂霊験記』などができるわけですね。盲目の人の目があいた、観音さまのご利益だというのですね。そうすると、みんながありがたいというておるんですがね、おかしなもんです。それよりか、自分の目の開いていることを喜ぶかというと、ちっとも喜ばん。当たり前にしています。目のわるい人に対して気の毒だと思うだけのことです。しかし、気の毒だと見ておる方も気の毒な存在でありまして、その目で何が見えておるかといったら、まともなものは何一つ見えない。そういうようなことがあるんですね。

 観音は差別、勢至は平等、これは裏表なんです。平等を照らす智慧ということは、つまりすべてのものは、みなあるがままにして空であるという、あるがままが空であるということです。空のままが諸法として存在するのだ。存在する面からいえば観音ですね。存在するままが空だという面からいえば、これが勢至なんです。仏教のいわゆる智慧の両面でございますね。したがって、

 「不可思議の智慧光仏の御なを信受して、憶念すれば、観音・勢至は、かならずかげのかたちにそえるがごとくなり」ということもまた当然のことでございます。不可思議の智慧ですから、不可思議の智慧が憶念せられるときには、観音・勢至がかげのかたちにそえるがごとくであるということです。これは、きわめてそうなくてはならん。こういう意味になります。  (つづく)

          ー  雑感  ー

 息子のそれからのことですが、何かいってくるかなと思いつつ見守っていました。昨日のことですが、「お父さん、アルバイト復帰する」といってきました。「どうかしたのか」と問うてみましたら「みんなのお陰かな」というのです。日ごろからアルバイト止めたのは僕の我が儘だといっていましたが、僕の我が儘では済まされない問題に気づかされたみたいです。友達とか、アルバイト先の従業員の方々の支えがあって今の自分が生かされているんだ、ということを身で感じたみたいです。特に我が儘の要因であった店長が影からアルバイト復帰に向けて会社に働きかけをしていてくれたことをしって、自分の怠かさを痛感したのでしょう。またしばらくしたら問題を起こすでしょうが、見守っていこうと思います。

 一週間、唯識と蓬茨先生の講義を書き込ませていただいていますが、唯識を背景に蓬茨先生のお言葉が身に響いてきます。また蓬茨先生のお言葉から唯識を学ぶという循環がたいへん大切なことではないかと思っています。

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『唯信鈔文意』に聞く (17) 憶念の世界

2011-01-23 19:06:08 | 唯信抄文意に聞く

20081004_02 蓮如上人筆 『歎異抄』

 『唯信鈔文意』に聞く (17)

           蓬茨祖運述 『唯信鈔文意講義』より

 「観音勢至自来迎」(憶念の世界)

 「それから次に、「観音勢至自来迎」と出てきます。「自来迎」、ここから出てくる問題が、なかなか、これからなごうございます。

  「『観音勢至自来迎』というは、この不可思義の智慧光仏の御なを信受して、憶念すれば、観音・勢至はかならずかげのかたちにそえるがごとくなり」

 ここのところは、別の版では、「南無阿弥陀仏は智慧の名号なれば」とあります。この「智慧の名号」といわれておりますままが信心の意義をもっております。他力信心の意義をもっております。「智慧の名号」とどうしていえるかといえば、南無阿弥陀仏は真実の信心という智慧を衆生にあらえるといういわれのもとに成就した、と。なぜかなれば、如来の智願海というものによるからであると。それですから、「この不可思義の智慧光仏の御なを信受して」とありますね。「この不可思義の智慧光仏の御な」ということは、南無阿弥陀仏ということでございますね。南無阿弥陀仏と信受してと、「信受して」ということがあるから、南無阿弥陀仏は不可思義の智慧光仏の御なといえるのでございますね。信受できなければ、南無阿弥陀仏は、やはり口にとなえておる南無阿弥陀仏ということでありまして、称えておる人と称えられておる南無阿弥陀仏とは別なものである。

 しかし、南無阿弥陀仏という御なによって信心をえた人は、また「憶念」ですね。憶念ともうしますのは、その信受したこころが続くわけであります。たえず憶念せられる。おもいだされるわけですね。一貫して信じたままが続くのじゃなく、それなら憶念とはいわれないのですけれども、そこには我々の常識的な生活というもの、生活というものがわが身にあるわけでございますね。したがっていろいろな問題にたずさわらなくてはならぬ。一人ぼう然とおるわけじゃなくて、社会とか職場とか、兄弟とか、友人とか、いろいろなものの中におるのでありますから、往生をえたというても、それは信心をえたことであって、その信心のままに固定しておるということは不可能である。また固定しておるようなものであるならば、信心ではないわけです。ただちに現実の普通の人間生活というものにかえる。そうすれば、ものごとにたずさわるときには、それに心をくばらねばなりませんので、そんなときに、心をそこに向けなければ、かえって智慧がないことになります。まあ酔っ払い運転になってしまいますですね。心に南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏といって本願のことばかり思って運転しておったら、酔っ払い運転になってどうなるかわりませんですね。酒飲んでそんなふうになったのも同じことです。本人のことはそれでよかろうけれど、あとは迷惑ですね。

 そういうときに、やはり車の方に心を向けて、前方によく注意をしませんと、信心持ったわが身がどこかへとんでいってしまいますからね。信心だけがどこかへ行くわけないですから。体はばらばらになって、信心だけふらふらと泳いでまわるわけにはいきません。ですから、やはり社会生活にかえるわけですね。そこに安住できなくて悩んでおった者が真実信心をえたといたしますというと、得たならば現実生活にかえることができる。そして、ものごとに雑念を持たないでぶつかって行くことができる。時に雑念もおこってくるであろう。いろいろなことに思いあぐねる。人間同士のことですから、いろいろなことが出てまいります。けれども、その中から思い出される。憶念とはそういうことですね。思いだされるのです。なくなってしまわないで、思い出される。思いだされて念ぜられるのだ、と。思い出されて念ぜられるのです。わかりやすくいうと、三昧、三昧境ですね。いわゆる念仏の三昧境みたいなものです。心が統一せられるわけですから、ことごとに心がひろがって、統一せられるような状況になります。

 憶念せられてくる。憶念ということは、忘れないという意味になりますが、忘れないということは、思い出すということで、昔はこういうことはよく逆に言った。「思い出さねばこそ忘れない」などと。思い出さんからからこそ忘れない。これはまちがいです。思い出さねばこそ忘れないということは、はじめからないということです。それこそ思い出すことはないから、忘れることはないですね。はじめから覚えがないんですから。それはもう絶対に忘れません。そうでしょう。大体財布など持っておらんものが忘れることないでしょう。持っておればこそ、おいてきたというんです。時計持たぬものが、時計忘れたということはないですわね。思い出さねばこそ忘れないというのは、早くいえば、ないということです。昔の人はよくそういうことをいうたが、それはまちがいであって忘れるんですよ。けれども思い出す。忘れたから思い出す。

 それからふつうなら思い出してあわてるのですね。「取りに帰る」とか、「よわった」とか。「帰るまでに誰か取ってしまいはしないか」とかいうのです。この場合、思い出すというのは念ずるの念ですね。念はいわゆる一念です。一念ですから一種の三昧ということにもなりますけれども、三昧ということでは似合わない言葉ですけど、説明のために申しますと、心がはじめの安心の状態にたちかえるわけですね。そうすると、今まで自分の行き悩んでおったことについても明らかにそれを見ることができるようになる。こういうことが憶念の意味でございますね。それを「ねてもさめても」ということで、忘れるということがよく問題になりますですね。

 そういうことを問われたことがありました。長浜別院夏期講習会の時でしたか、その別院のお同行さんの方から質問があって、「ねてもさめてもへだてなく南無阿弥陀仏をとなうべし」という御和讃があるが、どうも分からないというのですね。「分からんとおっしゃいますけど、ようわかった御和讃ではですか」というと、「いやわからんのだ」と。「分かっているでしょう。ねてもさめても、となえよということが分からんのですか」と。「いやその言葉のわけは分かっとるんだ」と。「言葉のわけは分かって、まだ何か分からねばならんことがあるのですか」といいますと、それが「ねておるとき、どうしてとなえられるのか」と、こういう質問でした。「なるほど」と思いました。そういわれてみkればそうだ。ねているときも称えよというんだと。ねたらとなえられん。ぐっと、ねてしまったらね。それで私、「じゃ、ねてはとなえられん、たしかにとなえられませんか」と。「はい、となえられません」というのですね。「それじゃ、しかたがない。御開山にかわって、ねたときだけはよろしゅうございます。許してあげます。おきているときだけでよろしい。おきている間だけとなえなさい。それでいいでしょう」といいましたら、「それならいい」、というんです。

 それから私は、「本当によろしいか」というたんですね。「はぁ、おきている間だけはとなえられますから」と。「それは、たしかか」と問いますと、「たしかです」と。それで、「それじゃ、ご飯たべておるときに、どうしてとなえられる?」。「南無阿弥陀仏・南無阿弥陀仏というて食べられますか。咬む時は南無阿弥陀仏というておったら咬めないでしょう。かまずに飲んでしまうかもしらんけれども、飲むときは念仏やめんならんが、どうしますか」。そんなこと申しましたら、「はぁ、そういわれればご飯たべておるときもとなえられん」と。「そうだろう。おきているときでもこまる。じゃあ、まぁ、ご飯たべるときだけはしかたがない。これは命にかかわるから。これも堪忍してあげます」というて、そのあとで、「ものいうときは、どうするか」。人としゃべっておるときにですね。しゃべりながら南無阿弥陀仏いわれぬ。しゃべるのをやめてとなえねばならん。南無阿弥陀仏・南無阿弥陀仏・では人にわからん。「どうするか」。「それもこまる」。「じゃ、ものいうときもよろしい」と。こういうふうにいうていったら「となえるときは、ろくにないではないか」ということになる。「そこまで考えてのことか」といったら、「考えたことなかった」という。

 「ねてもさめてもへだてなく」ということは、これはそのお同行さんが考えているような意味とはちがうんですね。もって楽なんです。それは、ぐっとねてしまったときは、称えようと思っても称えられんし、ご飯たべるときも、ものいうてるときも称えられん。そのほか、称えられんときばかりで、称えられるときなんか、めったにあるものんでない。我々一体、一日にどれだけ称えるか。朝と晩、必ず称えるか、朝と晩すら称えておらんものが多いでないか。称えんものを見て、なげかわしさのあまりに称えるのでないか。そんなこと話してたら、「そうじゃ」、というとったです。理屈というものはおもしろいものですね。おしてゆくというと、つまってしまいます。

 ですから、これは忘れていたことを思いだすということなんだ。「ねてもさめても」というときは、ねるときも、目をさましたときも思い出してとなえよということなんだ。夜ねておって、目がさめたら思い出して称える。「へだてなく」とは、何も口がへだてなくじゃないですね。そうじゃない。「へだてなく」というのは、念仏によって、我々が憶念する。憶念の世界には、忘れたときも、思い出したときも、かわりがない。そういう世界が憶念という世界である。ま、そんな話をしたことがございます。ですから、この「憶念」ということは、非常に大事なことでございまして、そこに、この観音・勢至という意味が、次に出てくるようでございますね。 (つづく)

 参考文献 (親鸞仏教センター 『唯信鈔文意』試訳 (4) を参照してください。) HPは http://shinran-bc.higashihonganji.or.jp  です。 

 「『観音勢至自来迎』というは、南無阿弥陀仏は智慧の名号なれば、この不可思議光仏の御なを信受して、憶念すれば、観音・勢至は、かならずかげのかたちにそえるがごとくなり。」(真聖p548)

 (『観音・勢至自来迎』というのは、南無阿弥陀仏は智慧の名号であるから、不可思議光仏(阿弥陀如来)の御名を信じて、憶念ずるならば、観音菩薩と勢至菩薩は、影が必ず形に添うように、その信ずる人にはたらいてくるのである。)

 

 

 

 
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『唯信鈔文意』に聞く (16) 第三講 その(1)

2011-01-16 22:35:27 | 唯信抄文意に聞く

  『唯信鈔文意』に聞く (16)

           蓬茨祖運述 『唯信鈔文意講義』より

 第三講 その(1)

          ー 称名のみ、往生を得 

 偈文の第三句目に入りまして、

  「『但有称名皆得往』というは、『但有』は、ひとえに御なをとなうる人のみ、みな極楽浄土に往生すとなり。かるがゆえに『称名皆得往』とのたまえるなり」

 ここで注意すべきは、「『但有』は、ひとえに御なをとなうる人のみ」とあるところであります。称名という問題ですね。称名が行であるという場合に、昔から行と信との関係がややこしく論じられるのであります。しかし、この「ひとえに御なをとなうる人のみ」とあるところを注意しますと、この「御なをとなうる人」ですね。称名といいましても、ただあるのではない。「となうる人」と。人のない称名というものも考えられるわけでしょう。南無阿弥陀仏ということも、いろいろ考えられますのは、となえる人のない称名というものが考えられますので、それで混乱するわけですね。となうる名号と、それからとなうる人ですね。となうる人という、この人あって行といえるのでありまして、人なくして行ということはありえないわけです。この人というところに信という問題が問われてくる。称えておるけれども、はたして称えたというだけで救われるのであろうかという問題が出てくるわけですね。それはどこまで追求しても救われるということの証拠はつかめない。その証拠は信より外にないわけですね。

 その信ずるということが、どういう内容であるかといえば、すなわち名号のいわれを受け入れたというこころでありますね。名号のいわれを受け入れたというときには、その受け入れた即座に、時をへだてず、所をへだてず、即座に往生が得られる。それが信。その信といわれたもの、そのことでございます。

 ところが、その人と切りはなされてしまって、名号とか、称名とかいう場合、南無阿弥陀仏という六字が考えられたり、称名といえば、口にあらわれる、口でとなえられるというような、そういう意味で考えられたりするわけで、口でとなえるところの南無阿弥陀仏によろずの功徳がおさまっているのだということになるわけですね。そうすれば、本当にそうであるかどうかということになります。本当かどうかは分からない。いつ分かるか。いつまでたっても分からぬわけですね。なぜかと申しますと、いわゆる往生できるかできないかという問題ですから、その功徳によって救われるということは、なにか目の前に奇瑞というものがあらわれるならば、その奇瑞を見て救いということを信ずることができるけれども、奇瑞も何もなければ、救われるということは、いわゆる往生ということですから、往生はいつするのかといえば、いのち終るときですね。いのち終る時に往生すると申しましても、いのち終る時は息が切れてしまうことでありますから、どうにもならんですよ。息が切れてしまったんではしようがないです。息が切れてからあとのことは、息が切れてみなくては分からんですね。往ってみなくては分からんですけれども、往ってみなくてはといって、往けるはずもないですし、しかたなく息が切れるんですから、そういうことになってしまいます。ですから、そこに奇瑞というものを立てねば、御利益ということを信じられないという問題がございます。そこに臨終来迎ということが、かりにもうけられるということも理解できるのであります。

 命終わるときに化仏が来迎せられる。阿弥陀如来、観音、勢至ですね。その来迎を拝むということが、つまり救いの証拠である。往生できるという何よりの証拠であるということになるわけですね。ところが、その来迎ということも、その場になってみなくては分からんわけですから、はなはだ危ないわけです。拝んだといたしましても、これもつくりものかもわからん。ほんとにあらわれたという証拠がないですね。化けてきたのかもしらん。人間がですね。両方にお稚児さんを二人つれて、真中に阿弥陀さんになってですね、それで息が切れるときは大体ボ-ツとなっていますからですね、そういうところへ音楽とともにふらりふらりあらわれて、「おまえを迎えに来たぞ」というてやるわけですよ。そうすると喜んで、安心して死ねるという。まあ、どうやらこうやら安心して死んだろうというようなことですね。ですから、そういう意味におきまして、この救いのしるしということが人間にはいつも要求せられますから、現代においても同じことでございますね。奇跡ということなくして誰もご利益ということを受け入れないわけでしょうね。とにかく何でしょう、今まで腰が立たなかった病人が、たとえばお題目となえたら腰が立ったなんてですね、そういうことがご利益があったということですね。これがご利益だと。これをつまり救いのしるしというわけですね。

 ですから、ここで問題として取りあげられますのは、いま「人」と、称する人、となうる人ですね。「御なをとなうる人のみ」というところに往生があると宗祖がいわれたことですね。「みな極楽浄土に往生すとなり」と。この往生は信心のことでございます。そのときに往生をうると。奇跡というなら、この御なをとなえたという刹那に往生が得られたという奇跡にまさるものはない。臨終まで待つ必要はない。来迎というものをたのむ必要はないというわけですね。

 そういう意味で、この短いお言葉ですけれども、この「但有」という説明は、ただ「称名だけで」といわれないで「称名する人のみ」と。ただ「称名するひと」でもいいのですけれども、「のみ」と。そこにつまりいわゆる信心ですね。ですから、人というところには、正定聚の機という、定まっておるということでございます。ここに問題があたえられております。

 みなをとなえて極楽に往生するということは、信心のほかにはありません。ふつうはいろいろ往生したといっても、常識上は死ぬときはみな各個バラバラで死んでゆくんですから、何時はじまりという具合にゆかんでしょうね。「あすの朝五時にみなまいってこい」というようなわけにはいかんでしょうね。こちらで決めるわけにはいきません。時間が決められるような往生なら、もっと前に往生しなくてはいけませんね。

 この問題は、学校へ入学するというようなことでしょうね。あの学校へ入学すれば、朝何時に家を出んならんということになりましょう。入学しないものは何時ということはないわけです。そういう意味で真実信心という問題が、この「人」というところで注意せられておると見てよいのではないかと思います。

 「かるがゆえに 『称名皆得往』 とのたまえるなり」ですから、このままが、 「称名皆得往」というままが、信心の内容になります。    (つづく)

 参考文献 

   親鸞仏教センター  http://www.shinran-bc.tomo-net.or.jp 
 『唯信鈔文意』 試訳をめぐって

を参照してください。 

         

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『唯信鈔文意』に聞く (15)

2011-01-09 23:53:56 | 唯信抄文意に聞く

3mini 『唯信鈔』 重要文化財 西本願寺蔵

   広島大学 佐々木教室提供

  『唯信鈔文意』に聞く (15)

    蓬茨祖運述 『唯信鈔文意講義』より

   ―  信心の智慧  ―

  「一切諸仏の智慧をあつめたまえる御かたちなり。」

 これは、誓願の尊号はですね、諸仏のすぐれたもの、それは智慧でございますね。もっともすぐれた諸仏の智慧、一切諸仏の智慧を選択摂取せられた。諸仏の智慧は平等でございます。したがって、集めても集めても智慧は平等ですね。平等でありますけれども、しかしその平等の智慧を差別の衆生にことごとくめぐむという、その智慧がつまり尊号になるわけですね。

 諸仏の智慧は、弥陀の智慧も、釈迦の智慧も、薬師如来の智慧も、智慧というたら平等の智慧です。なぜかと申しましたら、法性法身のほかにないんですから。一切衆生ことごとく平等である。餓鬼も畜生も、修羅も人間も、声聞縁覚もみなこれ平等である。法性法身ということですね。そのほかにないんです。いくら集めたって、集めんのと同じことです。けれどもそれを衆生にめぐむ。衆生にめぐむという、この利他の面に於いて 「諸仏にすぐれて」 と出てくるわけですね。諸仏にすぐれて、どのような悪人にも、どのような凡夫にも、一切諸仏の智慧をですね、無限に無限を足しても無限でありますからですね、一切諸仏の智慧をこの凡夫にですね、智慧もなにもないものにそっくりめぐむという、そういう智慧なんですね。そういう智慧のかたちを示されるのが、誓願の尊号であるということでございます。 「一切諸仏の智慧をあつめたまえる御かたち」。 「あつめたまえる御かたち」、 これは尊号ということなくしてはいえないのでございますね。尊号あって、はじめていえるのであります。

  「光明は智慧なりとしるべし。」

 光明というものは、単にものを照らすだけが光明とおもわれますから、それで、 「智慧なり」 と、特に仰せになった意味は、ここに言葉はありませんけれども、信心の智慧という意味で見てもよいかと存じますが、お言葉ありませんから、必ずそう見ねばならぬというわけでもありません。

 大まかに 「光明は智慧なり」 と、ここでいわれているものがらは、信心の智慧ですね。そうしますと、光明は信心の智慧であるとすれば、本体は無碍光仏。御かたちの本体は、というたら尊号ということになるわけであります。ふつうは光明というたら、照らされることしか考えませんですね。ですから智慧とおっしゃった。さとるのだと。さとる智慧なんですね。法をさとる智慧。法性法身をさとる智慧。ふつうはただ照らされるという。阿弥陀如来の光明に照らされるとこういうておるのですけれども、照らされるのは照らさないところがあるのです。照らされたときにはですね。太陽の光とこの智慧の光と同じことでして、照らすといえば必ず照らさぬところがあるのです。

 智慧ということになったら、これは照らされるだけでなくして照らす。照らされることが同時に照らすという意義ですね。照らす意義があることをいわれるのであります。

 以上で大体初めの二句 「如来尊号甚分明、 十方世界普流行」 ということを解釈されました。

 これは 『唯信鈔』 の 「五会法事讃」 の偈文の前のところに、

   「まず第十七に諸仏にわが名字を称揚せられんという願をおこしたまえり。この願、ふかくこれをこころうべし。名号をもって、あまねく衆生をみちびかんとおぼしめすゆえに、かつがつ名号をほめられんとちかいたまえるなり。しからずは、仏の御こころに名誉をねがうべからず。諸仏にほめられて、なにの要かあらん。」

 とありまして、それから、

  「『如来尊号甚分明 十方世界普流行 但有称名皆得往 観音勢至自来迎』(五会法事讃)といえる、このこころか」

  申しまして、十七願の意義を示されるために、この偈文というものをあげられたということでありますから、宗祖の御釈もそういう意味におきまして、特にこの偈文をもとにして、真宗の根本教理をお示しになっておられるわけであります。

 ですからこういう文章で、われわれが心得ねばならぬことは、真宗の教相が宗祖によって教えられておる、門徒の人はその教えによって真宗の教相をならい、学習しつつ、そこに真実の教行証という意義にうらづけられて、自分達のこの生活の営みというものがあるのだという、そういう喜び、そういう大きな一つの世界観ですね。広い世界観というものをもつことができたという、こういうところを我々としては注意すべきであろうと存じます。  第二講 完了 次回から第三講、偈文の第三句目に入ります。

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『唯信鈔文意』に聞く (14) 空に沈む

2011-01-02 16:17:27 | 唯信抄文意に聞く

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阿弥陀如来像  鎌倉ー南北朝時代

           東本願寺蔵  (中日新聞提供)

 蓮如上人自筆六字名号

本願寺蔵

    ー      ・      ー

 『唯信鈔文意』に聞く (14)

        空に沈む

       蓬茨祖運述 『唯信鈔文意講義』 より

 「なぜかというたら、生まれて死ぬるものばかりですから、生まれて死ぬるものが、生まれて死ぬものがないんだということをつきつめてゆきますと、空。空という表現になりますでしょう。空であると。あるがままが空であると。いまわれわれがここにあると申しているが、実はないんだと。空なのだと。個々の存在、空なのだと。自分がおると思っているのが空なのだと、こういえるんですね。これもまた空に堕すんだと。空なのだというと、その空に沈んでしまう。空に沈んでしまうとどうなるか、困ることができてくる。沈むということは、息ができんことになるんです。

 なぜだというと、腹がへってくるとどうする。 「俺」 がおらんのに腹がへってくる。困りますね。 「ほっておけ、実はないんだから、そんなもの、かまうこといるものか」。 死んでしまいます。 「どうせなくなるんだから。ないものがなくなっても、もとどおりだ」 ということは、これは空見。空に堕する、という。自分だけはそれで、やせ我慢でおれるんです。自分だけ、やせ我慢しとおせるのです。つまり、おるから苦しむんです。この世におるからで、おらなくなればもう何も苦にやむことはいらん、と。これでは、 「空に沈む」 というんです。わたくしども、しばしばこの手つかうんです。わざと使うんです。人が何か苦情をもってきたりなんかする。よく聞いてあげる。 「もうしばらく待ってみたらどうだ」 というてやるんです。 「もうしばらく待ったってどうかなるか」。 「いやいや、もうしばらく待てば、どうかなるんだ」。 「どうなる?」。 「相手が死ぬだろう。あるいは君が先かもしれん。それまで待て」。 これにはよわってしまいますね。 「そういうことをいうから話にならん」 と。 「しかし、そうでないか。むこうが死んでしまえば、それでよいのだろう。問題はそれで解決。君が死んでしまったら、やはり問題はそれで解決。どっちでもよい、死ぬまで待てば、そう、青筋立てなくてもすむんだから」 と。そういうと、もういやな顔をして、それで 「私」 の問題は解決するですわね。厄介払いできます。いやな問題もってきたときには、よく聞いてやったあげくそういうのです。それで、もうあきれはてて行ってしまいます。

 「空に沈む」 ということはそういうことになるのですね。そういうことにこだわっておってはだめですね。問題がおこったらそんな、むこうが死ぬまで待っておるというようなこと、智慧のない話ですね。

 それで方便法身ということは利他、利他ということの意義なのですね。利他のために方便法身というのをもうけられるのである。そこに誓願というものが出てくるわけです。誓願というものをもうけてそこに方便法身というものを成就せられる。その方便法身がつまり智慧のかたちですね。智慧のかたち。つまり智慧のかたちは光明のかたちですから、ここに無碍光仏とか、あるいは無量光仏とか出てくるわけです。かたちはかたちだけれども、しかしかたちに即して無限ということが語られるのです。

 「御かたち」 とあります。 「御かたち」 は、荘厳という意味になりますね。このかたちはそのまま利他でありますし、したがって慈悲でありますね。利他ということは、つまり慈悲であります。大慈大悲であります。慈悲でありますからして、こんどは方便であります。慈悲によってもうけられたかたちである。方便である。ですから、智慧と慈悲と方便という。こういう意義が出てまいります。その意義をもっておるのが、この如来の尊号でありますから、したがってこの如来の尊号は、如来の誓願ですね。

 如来の尊号は、そのまま如来の誓願でありますから、それで、 「この如来の智願海にすすめいれたまうなり」 と結ばれてあります。 「智願海」 というこらどういうものかと想像すると、なにか太陽の光っておる大海原でも頭に思い浮かべねばならぬようですけれども、そう思い浮べたってさしつかえはないのですが、それよりも尊号ですね。尊号の誓願を指されるのでございますね。誓願海、智願海と申しましても、名号をもって一切衆生をことごとく無上涅槃にいたらしめんという誓願ですね。その誓願の尊号、具体的には尊号ですね。その誓願の世界、その西岸は、すなわち智慧の世界です。如来の智慧の世界でございます。その誓願海、つまり如来の智願海にすすめえええええええいれたまうのである。その智願海にすすめいれられて、智願海に入ったという自覚が、自力の智慧をもっては大涅槃にいたることなしということになるわけですね。 「自力の智慧をもっては、大涅槃にいたることなければ」 とありますが、むしろ、これは自覚でございます。如来の智願海に入ったという自覚でございますね。」     (つづく) 次回配信は 1月9日(日)

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『唯信鈔文意』に聞く (13)

2010-12-26 15:47:32 | 唯信抄文意に聞く

Img_1467341_57430272_0 Img_1467341_57430272_7  安居院 聖覚法印ゆかりの地

 安居院 西法寺(京都・大宮通り鞍馬口下がる東入る新町)

  「聖覚は藤原通憲の孫で、父澄憲は類まれな雄弁と呪力で雨を降らせたとして有名な天台の僧でしたが、聖覚も父に劣らぬ説教名人で、法然の瘧(おこり)を直した呪力の持ち主でした。聖覚は法然上人の弟子で、無二の親友親鸞を法然上人に引き合わせました。一の谷の合戦で平敦盛を討った熊谷直実を法然上人に紹介したのも聖覚で出家した直実は蓮生坊を名乗りました。
 往時の安居院は声明、唱導、法説、読経で名高く、父澄憲は唱導の名手で安居院流唱導の祖です。聖覚はそれを盛んにし皇室や公家とのつながりも強く、法然、親鸞の浄土門の立教には陰に陽に協力されました。」(西法寺掲示板より)

       『唯信鈔文意』に聞く  (13)  

   蓬茨祖運述 『唯信鈔文意』講義より

無碍光仏の御かたち

「無碍光仏の御かたちは、智慧のひかりにてましますゆえに、この如来の智願海「にすすめいれたまうなり。」 「無碍光仏の御かたち」と申します、この 「かたち」という意味ですね、これは、かたちということになったら有限なものですね。つまり限定、かぎられる。かたちというものはかぎられる。無碍光仏にはかたちがあるとすれば、有限なものだということになるわけですね。かたちがないものだ、無限だと。形が無いということになれば、このかたちのないものは、かたちを本としておるところの凡夫には、かたちのないものには到底ふれることはできない。しかし、かたちがあるものであったならば、これは有限であるから、それによってさとりを得たといたしましても、そのさとりは有限でなくてはならぬ。こういう問題があるわけですね。 いま無碍光仏は誓願によって、このかたちをもうけられた。一切衆生、かたちあるところの生死の衆生、よろづの衆生を、大涅槃に導くためのかたちをもうけられたのだと。これによって、有限なる衆生はふれることができるということですね。しかしふれたものが有限だけであるならば、限られたものにすぎませんから、大涅槃にいたるということはできない。つまり窮極には、窮極と申しますのは、おんづまり、おんづまりには、やはり生死を断じたとはいえないということになるわけですね。断じたか、断じないか、はっきりしないことになるわけです。ここにそういう難儀な問題があります。 ところが 「無碍光仏「の御かたち」 はどういうかたちかということについて、 「智慧のひかりにてまします」 と。無碍光仏の御かたちは智慧のひかり。まあ智慧もひかりも同じものですね。智慧のかたちでまします。智慧のかたちは、すなわち光のかたち。ここに先程来のもとになっているこの誓願の尊号ですね。誓願の尊号ということがあって、はじめてこの無限のものが有限のかたちをとりつつ、有限のものをおさめとり無限に帰せしめるという、そういうかたちというものが示されることであります。 あとになって出てまいりますが、 「無碍光仏の御かたち」というときには、ここには法性法身と方便法身という二種の身というものを如来は持たれるのだという。諸仏如来は二種の身を持たれる。或いは諸仏菩薩は二種の身を持たれる。これは、法性法身というのは、かたちのない方ですね。無限の意義をもっておるものですね。かたちがない。法性法身にはかたちがないいろもない。かたちもない。いろがあったり、かたちがあったりするということはつまり有限である。有限であるということは無上とはいえないわけです。無上という以上は、法性法身、かたちというものがない、いろもないという意味になります。方便法身というのは、これはかたちがあるわけですね。 この法性法身というものは、これは一切衆生ことごとく法性法身というものをもたないものはないといえるのでございますね。しかし、その法性法身ということに迷いを生じたのが衆生としての意義であります。いろもなければかたちもないところに、生まれ死んだrりすることはないわけですけれども、そこに生まれるということが衆生というものでございますね。衆生は生まれてきたもの。生まれるということがあれば死ぬるということがあるわけです。展転無窮である。限りがない。我々がこの世に生まれてきた、そうすれば死ぬという。生まれてこないときは何もなかった。死んでは何もなくなってしまう。こういうんですが、それが迷いなんですね。生まれてこなかったときには何もなかったのではない、生まれて今も何もないんです。死んでからなくなるのではない。死なぬ前も、何もない。今も、何もないものなのです。 今はあると思っておるでしょう。生まれぬさきは何もなかった。死んだらまた何もなくなってしまう。土にかえるだけで、自分というものはなくなってしまう。生まれぬさきもなく、死んであらもないなら今もない。ないものをあると思うとるだけです。それが衆生ですね。ですから、生死の衆生、と。これがそのまま法性法身であるということが、大乗の意義ですね。大乗における衆生というのは、生死がないという。生死のままが生死がないというのが大乗の衆生の意味です。 『論註』 にこのことが出ています。 「小乗では、あまたの生死を受けるがゆえに衆生という。大乗では、不生不滅の義を衆生という」と。 「不生不滅」 ということは、これ、ないということでしょう。生せず滅せずですから。生じたと思うておるものはないのだ。死んでさきがなくなると思いているものもないんだと。不生不滅の義を衆生という、と。こういうふうにいうておりますですね。大乗の意味の衆生というのは法性法身ですから、こらは阿弥陀如来に限らず、諸仏に限らず、あらゆる衆生ことごとく法性法身でないものはないということなんです。しかし、それに迷うておる。つまり迷うておるということは、そういうことの認識がないんですね。つまり、それを知ることができない。そういうことについて、我々は大きな無知を知恵としておるのですね。その衆生をたすけるために、法性法身より方便法身というものを出されるのだ、と。 「法性法身に由って方便法身を生ず」 ですね。 「方便法身に由って法性法身を出だす」 です。方便法身は法性法身にかえってくる。これが自利と利他にあたるわけですね。法性法身は自利、方便法身は利他ですね。 「この二つの法身は、異にして分かつべからず。 一にして同じかるべからず。」 二にして分かつべからず、です。一つであって同ずべからず。一つだとうて、法性法身一つということにしてしまったら、法性性身もなり立たなくなるのですね。 (つづく)

 参考文献 『浄土論註』 (聖全Ip298) 「衆多の生死を受くるを以ての故に名づけて衆生と為るが如きは、此は是れ小乘家の三界の中の衆生の名義を釋するなり、大乘家の衆生の名義には非ざるなり。大乘家に言ふ所の衆生は、『不增不減經』に言たまふが如し。「衆生と言ふは即是不生不滅の義なり」。何を以の故に、若し生有らば生じ已て復生に无窮の過有るが故に、不生にして生ずる過あるが故なり。この故に无生なり。若し生有らば滅有るべし。既に生无し何ぞ滅有らむことを得む。是の故に无生无滅は是れ衆生の義なり。『經』(維摩經卷上意)の中に「五受陰、通達するに空にして所有无し是れ苦の義なり」と言ふが如し。斯れ其の類なり。」 

 『教行信証』証巻(真聖p290・聖全1-p337) 

「諸仏菩薩に二種の法身あり。一つには法性法身、二つには方便法身なり。法性法身に由って方便法身を生ず。方便法身に由って法性法身を出だす。この二つの法身は、異にして分かつべからず。一にして同じかるべからず。このゆえに広略相入して、統(つうずる)に法の名をもってす。菩薩もし広略相入を知らざれば、すなわち自利利他にあたわず。」

        ー   ・   ー

       我が身と共に生まれ

       我が身と共に生き

       我が身と共に死す                                  

       それが法蔵菩薩 

       いろもなくかたちもましまさぬ

                   誓喚

        ー   ・   ー                                                                                                                                                      

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『唯信鈔文意』に聞く (11) 文意の特徴

2010-12-12 22:09:07 | 唯信抄文意に聞く

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    親鸞聖人得度の地、青蓮院

ー 『唯信鈔文意』に聞く (11) ー

  蓬茨祖運述 『唯信鈔講義」 より

 文意の特徴

  『甚分明」というは、『甚」は、はなはだという、すぐれたりというこころなり。」

 「『甚」は、はなはだという」。これは文字の意味ですね。「すぐれたりという」ことは、やはりものがらが尊号ということによっていえるのでございますね。「はなはだ」というても、必ずしもすぐれたとはいえませんですね。いろいろなことに「はなはだ」は使われますから、「はなはだわるい」ともいえますですね。ですから「すぐれた」と必ずしもいえないのですけれども、ものがらが尊号であるということから、「すぐれたり」というこころが「はなはだ」というところにあるといえるのであります。

  「『分』は、わかつという、よろずの衆生とわかつこころなり」

 この「わかつ」ということが一番分かりにくいのですが、「よろずの衆生」ということは、これは詳しく申しますと、よろずの生死の衆生でしょうね。ですから、よろずの衆生とわかつ、生死の衆生とわかつということは、これはよろずの生死の衆生をたすけるということでありますけれども、生死の衆生を生死よりわかつわけですね。ですから、よろずの衆生の生死を断つわけでございます。よろずの衆生を生死よりわかつ。「よろずの衆生とわかつ」ですから、分かりにくいのですけれども、よろずの衆生を分かつわけですね。それは、生死の流れより衆生を分かつ。ですから生死を断ずるのですね。これは、先の無上大涅槃に至らしめるこころであります。生・老・病・死の四つの流れより衆生を分かちとることですね。そういう意味を述べられたのでありましょう。

  「『明』jは、あきらかなりという。十方衆生を、ことごとくわかちたすけみちびきたまうこと、あきらかなり。」

 「わかち」は、さきほど申しあげましたように衆生を助けることでございます。助けるについては、衆生の生死を断ずることなくしては、助けることはできません。衆生の迷い、無明煩悩こごとく、仏力を以て断ずるんですね。名号不思議の力を以て衆生の煩悩を断ずる、そういうことを分かつ、と。したがってそれはそのままたすけることなんです。たすけるこ自体が「みちびきたまう」ことですね。教えみちびくわけですね。そういうことが明らかであるということ。

  「たすけみちびきたまうこと、すぐれたまえりとなり」

とありますのは、先にありました 「大慈大悲のちかい」 であります。そのために誓願をもうけたもうた大慈大悲ですね。助けるというだけが大慈でなくして、助けるまでに誓願をもうけて導きたもうた仏力の遠くして深いことですね。そのことについて諸仏如来にすぐれておるということを述べたのが、この 「如来尊号甚分明」 という一句の意味である、というふうに解釈されております。

  「如来尊号甚分明」 という言葉自体は 「如来の尊号、はなはだ分明なり」と、それで一通りの意味は済んでしまうわけです。如来の尊号というものは、はなはだその功徳たるものは分明である。「分」 も 「明」 もあきらかですね。すぐれて明かである。功徳がすぐれて明らかだというだけで、その意味は済むのですけれども、そこに真宗の意義をはっきりと打ち出されてあることがこの 『文意』 の特徴であります。『唯信鈔』の方は、そこまで導いていくという文章でありますから、そこにニュアンスが違ってくるわけです。そのニュアンスの違いというものも、今この一句を説明されていう内容と、それから 『唯信鈔』 とを比較してみますと、その違いがわかります。

 そういうふうにして、この解釈がすすめられてまいりまして、次第に真宗の一流の法門ですね、真宗独自の教義の内容、教理の内容と申しますか、それを教えられております。その点を注意しつつ見ていってくだされば、 『文意』 に述べられてあります聖人のお言葉、そのおこころもやや心得やすかろうかと思われます。 次回配信は12月19日になります。

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『唯信鈔文意』に聞く  (10)

2010-12-05 14:08:59 | 唯信抄文意に聞く

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               真宗本廟 御影堂

   ー  『唯信鈔文意』に聞く (10) ー

 如来の尊号(大慈大悲の御ななり)

   「この如来の尊号は、不可称・不可説・不可思議にましますゆえに、一切衆生をして無上大般涅槃にいたらしめたまう、大慈大悲の御ななり」

 この如来の尊号は、南無阿弥陀仏という尊号ですね。その他にないという、このただ一つの無碍光如来の南無阿弥陀仏という尊号は、「不可称・不可説・不可思議にましますゆえに、一切衆生をして無上大般涅槃にいたらしめたまう、大慈大悲の御ななり」と。

  「不可称・不可説・不可思議にましますゆえに」というところは、さきの「仏になりたまうてのちの御な」という意味にあたるのであります。

 それから、「一切衆生をして無上大般涅槃にいたらしめたまう、大慈大悲のちかいの御ななり」とあるときは、これは「いまだ仏になりたまわぬときの御な」ですね。仏になりたまわぬときに、一切衆生をして無上大般涅槃にいたらしめずんば、仏にならじ、と誓われた。いかようにして大涅槃にいたらしめるかといえば、わが名を十方の諸仏に称揚せられる。その称揚讃嘆せられた名をもって、衆生に聞かせて、その名号の功徳によって、一切衆生を無上大涅槃にいたらしめようと誓われた。そういうわけで、ここに「ちかい」ということですね。いわゆる「誓願」ということが、まず出てきたわけであります。

 誓願の御な、誓願の尊号ですね。一方から申しますと、不可称・不可説・不可思議のゆえに、この尊号は一切衆生をして無上大涅槃にいたらしめたまうのだ。また一方から申しますと、無上大涅槃にいたらしめたまう、大慈大悲のちかいをおこされたのだと。その誓いのときのみなですね。まだ仏になりたまわぬときのみなですね。仏になりたまわぬときのみなということで、ちかいのみなという意味をあらわし、仏になりましたときの号という意味で不可称・不可説・不可思議の功徳ということをいわれるのであります。

 これは、先に申しました聖覚法印が結論とされるところをまず出されるわけであります。ですから、真宗の教義と申しますか、法門というものが、まずこうして簡明にうち出されております。次に、

  「この仏の御なは、よろずの如来の名号にすぐれたまえり。これすなわち誓願なるがゆえなり」

 と結ばれます。「この仏の御なは、よろずの如来の名号にすぐれたまえり」。これは「尊」というところですね。「『尊』は、とうとくすぐれたりとなり」ということについて「よろづの如来の名号にすぐれたまえり」といわれるわけですね。それから、あとの「名号」ということの解釈ですね。「号は、仏になりたもうてのちの御な」、「名は、いまだ仏になりTまわぬときの御なをもうすなり」ということですね。それを結ばれて、「これしなわち、誓願なるがゆえなり」と、こういわれるのであります。

  「誓願」ということが、この如来尊号ということを基礎づけておる。如来尊号というものが南無阿弥陀仏であるとどうしていわれるかというと、誓願、これには誓願がある。南無阿弥陀仏にはには誓願がある。ですから誓願という意味が、この「如来尊号」という四字によってあらわされると申しますか、あるいは誓願ということなくして、如来尊号というものは、一切諸仏如来の名号にすぐれたいということはいえないわけですね。そういう意味をのべられるのであります。

 如来尊号というだけで、誓願ということが思いもよらぬときには、単に言葉のあやにすぎないわけですね。釈迦の尊号も弥陀の尊号もかわりない。むしろ釈迦の尊号の方が何か現実感があるように思われる。身だの尊号というと、抽象的な意味に思われるということになりますが、誓願という意義をもつならば、誓願という意義をとりあげますと一切如来にすぐれた尊号であるという意義が明瞭になる、こういう意味になります。 (つづく) 蓬茨祖運述 『唯信鈔文意』講義より転載

       ー   雑感   ー

 一週間経ちましたが息子からの返答はありませんね。母親にはそれなりの答えを出してはいるようですが、自分を育ててくれている意味がなかなか理解できないようです。身が頷けないというところですね。頭ではわかるということをよく聞きますが、これは自分勝手な解釈ですね。身が頷くことがなければ、何もわかっていないということですよね。もう少し様子を見守ろうと思います。

 僕はこの数十年の間に叔母・叔父の五人の臨終に立ち会いましたが、ずっとですね、ひとつの課題をもっています。亡くなっていかれるその瞬間は、なんともいえない形相ですが、一筋の涙とともに穏やかな顔にもどられるのですね。わたしの課題は、「一筋の涙」の指し示している意味ですね。棺の中の様子からは窺い知ることができないところなのですが、僕には「浄土」という、「人が人として生まれてきた意味は浄土を明らかにすることだよ」と聞こえてくるのです。唯識でも教えられることは、私が私の思い描いた世界に生まれること、その願いは菩提とはいわないのだ、と。三界というのは私が作り出した世界ですね。三界が存在して私が存在する、ということではありません。三界そのものが私の業が作り出す世界で、迷妄の世界ですね。私の作り出した迷妄の世界に夢を託するのではなく、迷妄の世界を作り出している自身の姿を、問いとして持ちなさい、と聞こえてくるのです。「問いを縁として開かれてくる世界、そこがあなたの居場所であることを深く信じよ」というのが遺教ではなかったかと。 

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『唯信鈔文意』に聞く

2010-11-28 21:16:06 | 唯信抄文意に聞く

      - 『唯信鈔文意』に聞く (9) -

 尊号の歴史 

  「『如来尊号甚分明』、このこころは、『如来』ともうすは、無碍光如来なり」

 はじめに、この 『如来尊号甚分明』 という偈文を引かれまして 「このこころは」 と、 一句のこころを述べようとせられますについて、そのうちで、この如来ともうすは無碍光如来である、と。

  「如来」とあっても、必ずしも無碍光如来とはいえない。釈迦如来もありますし、薬師如来もあります。あらゆる諸仏はみな如来でるといえますから、如来とあるからというて、無碍光如来といえないのでありますが、ここで如来といわれてあるのは無碍光如来のことだと、こういわれるのであります。

 ここに、はじめにありましたように、一つを選ぶ、二つならべざるこころなり、とあります意味がおのずからありまして、如来とあれば、諸仏如来かずかぎりなくあるわけですが、そのうちで無碍光如来という一仏を指すという意味であります。

  「『尊号』というは、南無阿弥陀仏なり。」

 「無碍光如来なり」といわれてありますから、尊号というのげ、また無碍光如来でもあるわけでありますけれども、偈文が如来・尊号と分けてありますから、特に如来と尊号と二つ分けて、それで南無阿弥陀仏の六字というものをここにまず述べられるわけであります。無碍光如来も尊号ですが、くわしくいえば帰命尽十方無碍光如来とか、南無不可思議光如来という、これは同じことでありますけれども 「南無阿弥陀仏なり」 といわれるのは、これはただ南無阿弥陀仏という六字を出してこられたわけでなくして、南無阿弥陀仏と申しますのは、もとは法然上人の 『選択集』 の冒頭、いわゆる標挙と申しますが、 『選択集』 の一番はじめに 「南無阿弥陀仏」 とおかれてあります。それから 「往生之業 念仏為本」 という割註が入っておりますが、それから、これは宗祖が法然上人からじきじきに書いていただかれた、その名号ですね。真影を写さしていただいおたときに書いてくださった 「南無阿弥陀仏」 と、 本願加減の文、 「若我成仏十方衆生」 以下の文ですね。そういう意味で、単に六字の名号をもってきたというよりも、宗祖がいただかれて、つたえられておるところですね。いただき、つたえられておる尊号の外にないということですね。自分が上人より頂戴したところの 「南無阿弥陀仏」 という六字より外に尊号というものはないのだと、こういう意味がうかがわれるのであります。

 したがって、この南無阿弥陀仏に歴史があるわけですね。南無阿弥陀仏「という尊号には歴史がある。仏陀の三経、浄土三経という歴史も、この尊号をもとにして説かれてあるということ。七祖の伝統もこの尊号をもとにしての伝統である。こういう意味がうかがわれるのであります。次に、

  「『尊』は、とうとくすぐれたりとなり。『号』は、仏になりたもうてのちの御なをもうす。」 

 「尊は、とうとく」という意味は、この上ないという意味になりますでしょうね。無上という意味になりますが、「すぐれたり」ということは、一切のものにすぐれておる。尊号というもののなかでも特にすぐれておると、こういう意味でございます。だから、すぐれておるということ、それ以上に尊いということですね。尊いということには、諸仏の名号以上に、そこに本願というものがある。いわゆる選択本願というものがあるわけでありますから、諸仏の浄土あるいは諸仏の行を選択摂取して、そして立てられた本願であり、その本願によって成就したところの尊号であると、こういう意味で「とうとくすぐれたり」ということがいわれるわけであります。

  「『号』は、ぶつになりたもうてのちの御なをもうう。 『名』「 は、いまだ仏になりたまわぬときの御なをもうすなり」

 これは何をいわれるかと申しますと、 「仏になりたまうてのちの御な」 ということは、いわゆる仏としての徳が成就しておるということ。この尊号には、仏としての一切の徳が具足しておる、そなわりたりておるという意味をいわれるのであります。

 「『名』は、いまだ仏になりたまわぬときの御なをもうす」というのは、これは本願です。「仏になりたまわぬとき」というのは、本願ですね。 「わがなを」 という。わが名というのは、仏になりたまわぬときのちかいの名ですね。ですから 「十方無量の諸仏にわがなをほめられん」 という、そういう本願ですね。その本願を指されているわけであります。

 ただ、号と名を二つに分けて 「号は、仏になりたもうてのちの御な」、「名は、いまだ仏になりたまわぬときの御な」というだけでは、どこかの辞書にでも、名というものにそんな意味があるか、号というのにそんな意味があるかと、そういう辞書でもくらんならんようなことになってしまいますが、辞書をくってもそういう訳は「はっきり出てこないと存じます。そういう意味ではなくて、号という字、名という字の意味ではなくて、名号、南無阿弥陀仏の名号という意味ですね。単なる名ではない。単なる号ではない。我々がものに名前をつけるという、そういう後からつけた名ではないということですね。

 そういうわけで、この仏の功徳が具足しておるということを、名号ということであらわし、それから名というところでは、本願をあらわす。本願によって誓われたところの名、その本願が成就して仏となられての名、と。号も名も一緒ですけれども、そういうふうに南無阿弥陀仏という名号について、果と因という意義をのべられておるわけであります。 (つづく) 蓬茨祖運 述 『唯信鈔文意講義』 より

           ー  雑感  ー

 私事なのですが、息子がアルバイトにいっていまして、やめたいといってきました。学生ですからやめてもいいわけですが、その理由が問題でしたので話し合いをしました。やめたい理由は「自分がアルバイトに行っている店の店長とのコミュニケーションがうまくいかず、気に入らない」というものでした。いろんな例をあげてやめたい理由を語っていました。ずっとうなずきながら聞いていたのですが、お父さんの言うことを少し聞いてくれるか、と、「話を聞いていると少し問題があるように思う。やめることに関しては反対はしないが、その理由が問題やな」と。「それは自分が働いて楽しい時はいい店であり、そうでないときは働きたくない店になる。 “なんでやろな” その理由がわかったらやめてもいい、と伝えました。少し考えさせて、といっておりましたが、どのような答えをもってくるのか楽しみです。

 私たちは順境のときには何も問題は発生しません。いうなれば人間としての心の成長が止まってしまいます。そこには知らず知らず自分だけの世界を作り出して関係性を破壊していっているのですね。そこに逆境という必然としての環境が出てくるのでしょう。逆境は自分が自分に出会える唯一の機会なのですね。息子のことでいいますと、「もう店にいくのがいやだな」と思っている “今” が大事な自分に出会える機会なのです。店長との関係がうまくいかないということには、店長に問題があるわけでなく息子の中に店長を受け入れる器がないということが問題なのですね。店長は息子に試練を与えてくれていると思っています。息子の答えはどのようなものまのかはわかりませんが、また報告させていただきます。

 仏陀といい、諸仏といい、仏教に出会えさせていただいたよき人というのは、自分にとって都合のいい存在ではないのですね。逆にいうなれば、自我心にとっては都合の悪い存在です。自我心と真っ向向き合い “本当の自己” に出会える機会が生存の意味なのでしょうね。

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『唯信鈔文意に聞く』 (8)

2010-11-23 21:40:07 | 唯信抄文意に聞く

      ー 『唯信鈔文意』に聞く (8) 

誓願の尊号
  「この如来の尊号は、不可称・不可説・不可思議にましますゆえに、一切衆生をして無上大般涅槃にいたらしめたまう、大慈大悲のちかいの御ななり」
 この如来の尊号は、南無阿弥陀仏という尊号ですね。その他にないという、ただ一つの無碍光如来の南無阿弥陀仏という尊号は、「不可称・不可思議にましますゆえに、一切衆生をして無上大般涅槃にいたらしめたまう、大慈大悲のちかいの御ななり」と。

  「不可称・不可説・不可思議にましますゆえにというところは、さきの仏になりたもうてのちの御な」という意味にあたるのであります。
 それから、「一切衆生をして無上大般涅槃ににいたらしめたもう、大慈大悲のちかいの御ななり」とあるときは、これは「いまだ仏になりたまわぬときの御な」ですね。仏になりたまわぬときに、一切衆生をして無上大般涅槃にいたらしめずんば、仏にならじ、と誓われた。いかようにして大涅槃にいたらしめるかといえば、わが名を十方の諸仏に称揚賛嘆せられた名をもって、衆生に聞かせて、その名の功徳によって、一切衆生を無上大涅槃にいたらしめようと誓われた。そういうわけで、ここに「ちかい」ということですね。いわゆる「誓願」ということが、まずでてきたわけであります。
 誓願の御(み)な、誓願の尊号ですね。一方から申しますと、不可称・不可説・不可思議のゆえに、この尊号は一切衆生をして無上大涅槃にいたらしめたもうのだ。その誓いのときのみなですね。まだ仏になりたまわぬときのみなですね。仏になりたまわぬときのみなということで、ちかいのみなという意味をあらわし、仏になりましたときの号という意味で不可称・不可説・不可思議の功徳ということをいわれるのであります。
これは、先に申しました聖覚法印が結論とされるところをまず出されるわけであります。ですから、真宗の教義と申しますか、法門というものが、まずこうして簡明にうち出されております。次に、
  「この仏の御なは、よろずの如来の名号にすぐれたまえり。これすなわち誓願なるがゆえなり」
と結ばれます。「この仏の御なは、よろずの如来の名号にすぐれたまえり」。これは「尊」というところですね。「『尊』は、とうとくすぐれたりとなり」ということについて「よろずの如来の名号にすぐれたまえり」といわれるわけですね。それから、あとの「名号」ということの解釈ですね。「号は、仏になりたもうてのちの御な」、「名は、いまだ仏になりたまわぬときの御なをもうすなり」 ということですね。それを結ばれて、「これすなわち、誓願なるがゆえなり」 と、こういわれるのであります。

 「誓願」ということが、この如来の尊号ということを基礎」づけておる。如来尊号というものが南無阿弥陀仏であるとどうしていわれるかというと、誓願、これには誓願がある。南無阿弥陀仏には誓願がある。ですkら誓願という意味が、この「如来尊号」という四字によってあらわされると申しますか、あるいは誓願ということなくして、如来尊号というものは、一切諸仏如来の名号にすぐれたということはいえないわけですね。そういう意味でのべられるのであります。

 如来尊号というだけで、誓願ということが思いもよらぬときには、単に言葉のあやにすぎないわけですね。釈迦の尊号も弥陀の尊号もかわりはない。むしろ釈迦の尊号の方が何か現実感があるように思われる。弥陀の尊号というと、抽象的な意味に思われるということになりますが、誓願という意義をもつならば、誓願という意義をとりあげますと一切如来にすぐれた尊号であるという意義が明瞭になる。こういう意味になります。  (つづく) 蓬茨祖運 述 ・ 『唯信鈔文意』講義より

 (追伸) 今週の書き込みがずれ込みました。風邪をひきまして休養をとらせていただきました。ウイルス性の風邪などに感染しますと、年老いた父に感染しないかと本当に心配します。皆様方も体調管理には十分気配りをなさいまして「仏願の生起本末」を御聞き取りいただきたいと念じます。

 また今週(28日)は親鸞聖人の祥月命日にあたりますね。各地の真宗寺院では「報恩講」が勤修されていますが、御本山のHPには「宗祖親鸞聖人の御祥月命日11月28日までの一週間七昼夜、真宗本廟で報恩講が勤まります。報恩講は、宗祖が出遇われた念仏の教えに、私たちが遇いえたことを慶び、その恩徳に報謝する真宗門徒にとって大切な御仏事です。皆様の参詣をお待ちしております。」と記されていました。結願日中は日曜日も重なって大変混雑するでしょうが、私も参詣したいと思っています。

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