唯識に学ぶ・誓喚の折々の記

私は、私の幸せを求めて、何故苦悩するのでしょうか。私の心の奥深くに潜む明と闇を読み解きたいと思っています。

『唯信鈔文意』に聞く (17) 憶念の世界

2011-01-23 19:06:08 | 唯信抄文意に聞く

20081004_02 蓮如上人筆 『歎異抄』

 『唯信鈔文意』に聞く (17)

           蓬茨祖運述 『唯信鈔文意講義』より

 「観音勢至自来迎」(憶念の世界)

 「それから次に、「観音勢至自来迎」と出てきます。「自来迎」、ここから出てくる問題が、なかなか、これからなごうございます。

  「『観音勢至自来迎』というは、この不可思義の智慧光仏の御なを信受して、憶念すれば、観音・勢至はかならずかげのかたちにそえるがごとくなり」

 ここのところは、別の版では、「南無阿弥陀仏は智慧の名号なれば」とあります。この「智慧の名号」といわれておりますままが信心の意義をもっております。他力信心の意義をもっております。「智慧の名号」とどうしていえるかといえば、南無阿弥陀仏は真実の信心という智慧を衆生にあらえるといういわれのもとに成就した、と。なぜかなれば、如来の智願海というものによるからであると。それですから、「この不可思義の智慧光仏の御なを信受して」とありますね。「この不可思義の智慧光仏の御な」ということは、南無阿弥陀仏ということでございますね。南無阿弥陀仏と信受してと、「信受して」ということがあるから、南無阿弥陀仏は不可思義の智慧光仏の御なといえるのでございますね。信受できなければ、南無阿弥陀仏は、やはり口にとなえておる南無阿弥陀仏ということでありまして、称えておる人と称えられておる南無阿弥陀仏とは別なものである。

 しかし、南無阿弥陀仏という御なによって信心をえた人は、また「憶念」ですね。憶念ともうしますのは、その信受したこころが続くわけであります。たえず憶念せられる。おもいだされるわけですね。一貫して信じたままが続くのじゃなく、それなら憶念とはいわれないのですけれども、そこには我々の常識的な生活というもの、生活というものがわが身にあるわけでございますね。したがっていろいろな問題にたずさわらなくてはならぬ。一人ぼう然とおるわけじゃなくて、社会とか職場とか、兄弟とか、友人とか、いろいろなものの中におるのでありますから、往生をえたというても、それは信心をえたことであって、その信心のままに固定しておるということは不可能である。また固定しておるようなものであるならば、信心ではないわけです。ただちに現実の普通の人間生活というものにかえる。そうすれば、ものごとにたずさわるときには、それに心をくばらねばなりませんので、そんなときに、心をそこに向けなければ、かえって智慧がないことになります。まあ酔っ払い運転になってしまいますですね。心に南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏といって本願のことばかり思って運転しておったら、酔っ払い運転になってどうなるかわりませんですね。酒飲んでそんなふうになったのも同じことです。本人のことはそれでよかろうけれど、あとは迷惑ですね。

 そういうときに、やはり車の方に心を向けて、前方によく注意をしませんと、信心持ったわが身がどこかへとんでいってしまいますからね。信心だけがどこかへ行くわけないですから。体はばらばらになって、信心だけふらふらと泳いでまわるわけにはいきません。ですから、やはり社会生活にかえるわけですね。そこに安住できなくて悩んでおった者が真実信心をえたといたしますというと、得たならば現実生活にかえることができる。そして、ものごとに雑念を持たないでぶつかって行くことができる。時に雑念もおこってくるであろう。いろいろなことに思いあぐねる。人間同士のことですから、いろいろなことが出てまいります。けれども、その中から思い出される。憶念とはそういうことですね。思いだされるのです。なくなってしまわないで、思い出される。思いだされて念ぜられるのだ、と。思い出されて念ぜられるのです。わかりやすくいうと、三昧、三昧境ですね。いわゆる念仏の三昧境みたいなものです。心が統一せられるわけですから、ことごとに心がひろがって、統一せられるような状況になります。

 憶念せられてくる。憶念ということは、忘れないという意味になりますが、忘れないということは、思い出すということで、昔はこういうことはよく逆に言った。「思い出さねばこそ忘れない」などと。思い出さんからからこそ忘れない。これはまちがいです。思い出さねばこそ忘れないということは、はじめからないということです。それこそ思い出すことはないから、忘れることはないですね。はじめから覚えがないんですから。それはもう絶対に忘れません。そうでしょう。大体財布など持っておらんものが忘れることないでしょう。持っておればこそ、おいてきたというんです。時計持たぬものが、時計忘れたということはないですわね。思い出さねばこそ忘れないというのは、早くいえば、ないということです。昔の人はよくそういうことをいうたが、それはまちがいであって忘れるんですよ。けれども思い出す。忘れたから思い出す。

 それからふつうなら思い出してあわてるのですね。「取りに帰る」とか、「よわった」とか。「帰るまでに誰か取ってしまいはしないか」とかいうのです。この場合、思い出すというのは念ずるの念ですね。念はいわゆる一念です。一念ですから一種の三昧ということにもなりますけれども、三昧ということでは似合わない言葉ですけど、説明のために申しますと、心がはじめの安心の状態にたちかえるわけですね。そうすると、今まで自分の行き悩んでおったことについても明らかにそれを見ることができるようになる。こういうことが憶念の意味でございますね。それを「ねてもさめても」ということで、忘れるということがよく問題になりますですね。

 そういうことを問われたことがありました。長浜別院夏期講習会の時でしたか、その別院のお同行さんの方から質問があって、「ねてもさめてもへだてなく南無阿弥陀仏をとなうべし」という御和讃があるが、どうも分からないというのですね。「分からんとおっしゃいますけど、ようわかった御和讃ではですか」というと、「いやわからんのだ」と。「分かっているでしょう。ねてもさめても、となえよということが分からんのですか」と。「いやその言葉のわけは分かっとるんだ」と。「言葉のわけは分かって、まだ何か分からねばならんことがあるのですか」といいますと、それが「ねておるとき、どうしてとなえられるのか」と、こういう質問でした。「なるほど」と思いました。そういわれてみkればそうだ。ねているときも称えよというんだと。ねたらとなえられん。ぐっと、ねてしまったらね。それで私、「じゃ、ねてはとなえられん、たしかにとなえられませんか」と。「はい、となえられません」というのですね。「それじゃ、しかたがない。御開山にかわって、ねたときだけはよろしゅうございます。許してあげます。おきているときだけでよろしい。おきている間だけとなえなさい。それでいいでしょう」といいましたら、「それならいい」、というんです。

 それから私は、「本当によろしいか」というたんですね。「はぁ、おきている間だけはとなえられますから」と。「それは、たしかか」と問いますと、「たしかです」と。それで、「それじゃ、ご飯たべておるときに、どうしてとなえられる?」。「南無阿弥陀仏・南無阿弥陀仏というて食べられますか。咬む時は南無阿弥陀仏というておったら咬めないでしょう。かまずに飲んでしまうかもしらんけれども、飲むときは念仏やめんならんが、どうしますか」。そんなこと申しましたら、「はぁ、そういわれればご飯たべておるときもとなえられん」と。「そうだろう。おきているときでもこまる。じゃあ、まぁ、ご飯たべるときだけはしかたがない。これは命にかかわるから。これも堪忍してあげます」というて、そのあとで、「ものいうときは、どうするか」。人としゃべっておるときにですね。しゃべりながら南無阿弥陀仏いわれぬ。しゃべるのをやめてとなえねばならん。南無阿弥陀仏・南無阿弥陀仏・では人にわからん。「どうするか」。「それもこまる」。「じゃ、ものいうときもよろしい」と。こういうふうにいうていったら「となえるときは、ろくにないではないか」ということになる。「そこまで考えてのことか」といったら、「考えたことなかった」という。

 「ねてもさめてもへだてなく」ということは、これはそのお同行さんが考えているような意味とはちがうんですね。もって楽なんです。それは、ぐっとねてしまったときは、称えようと思っても称えられんし、ご飯たべるときも、ものいうてるときも称えられん。そのほか、称えられんときばかりで、称えられるときなんか、めったにあるものんでない。我々一体、一日にどれだけ称えるか。朝と晩、必ず称えるか、朝と晩すら称えておらんものが多いでないか。称えんものを見て、なげかわしさのあまりに称えるのでないか。そんなこと話してたら、「そうじゃ」、というとったです。理屈というものはおもしろいものですね。おしてゆくというと、つまってしまいます。

 ですから、これは忘れていたことを思いだすということなんだ。「ねてもさめても」というときは、ねるときも、目をさましたときも思い出してとなえよということなんだ。夜ねておって、目がさめたら思い出して称える。「へだてなく」とは、何も口がへだてなくじゃないですね。そうじゃない。「へだてなく」というのは、念仏によって、我々が憶念する。憶念の世界には、忘れたときも、思い出したときも、かわりがない。そういう世界が憶念という世界である。ま、そんな話をしたことがございます。ですから、この「憶念」ということは、非常に大事なことでございまして、そこに、この観音・勢至という意味が、次に出てくるようでございますね。 (つづく)

 参考文献 (親鸞仏教センター 『唯信鈔文意』試訳 (4) を参照してください。) HPは http://shinran-bc.higashihonganji.or.jp  です。 

 「『観音勢至自来迎』というは、南無阿弥陀仏は智慧の名号なれば、この不可思議光仏の御なを信受して、憶念すれば、観音・勢至は、かならずかげのかたちにそえるがごとくなり。」(真聖p548)

 (『観音・勢至自来迎』というのは、南無阿弥陀仏は智慧の名号であるから、不可思議光仏(阿弥陀如来)の御名を信じて、憶念ずるならば、観音菩薩と勢至菩薩は、影が必ず形に添うように、その信ずる人にはたらいてくるのである。)

 

 

 

 

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