唯識に学ぶ・誓喚の折々の記

私は、私の幸せを求めて、何故苦悩するのでしょうか。私の心の奥深くに潜む明と闇を読み解きたいと思っています。

第三能変 第九 起滅分位門 (7) 五位無心 (5)

2016-12-13 22:17:37 | 第三能変 第九・起滅...


  第二師の説は初中無心義、末後有心義であるという。次に第三師の説(「大乗中有は生支に摂するが故に」という、中間無心義)が述べられます。
 「想を離れて心が安和であるということで、無心という。これが解脱と考えらている」ということには、現在の世相に大きな示唆を与えているようです。また信仰の落とし穴のように思われます。
 私たちの身近な希望は病気をしないで、長生きで、豊かに暮らしたい。昔の言葉では無病息災・家内安全でしょう。意識の底で幸福になりたいという、それは私の欲が叶うことが幸せであるということでしょう。ですから、病・老・死は意に背くわけです。そこに何の疑いも抱いていないということ。病・老・死を回避するような願望を抱いているわけでしょう。このような、道理に反した心の間隙をついて新興の宗教が 「この信心で幸せになりますよ」 と、チームワークよろしく洗悩攻撃がはじまるわけです。その行きつくところが「幸福」という錯覚に陥るということになります。無想天とはそのような処ではないでしょうか。思いの中で描いた世界のように思います。
  ―  無想天・一期有心無心義 ・ 第三師の説 ―
 「有義は生ずる時にも亦転識あり。彼の中有には必ず潤生の煩悩を起こすが故に」(『論』第七・十一右)
  (意訳) 第三師の説くところは、無想天に生じる時にもまた現行識は存在する。それは死有と生有の間の中有には必ず潤生の煩悩を起こしているからである。
 •中有 - 旧訳では中陰という。生存の四つの在り方の一つ。死有と生有の中間の存在で、死の瞬間から次の生を享けるまでの間の時期をさす。三界のなかの欲界と色界の有情にのみあり、無色界の有情にはないという。
 参考文献
 「述曰。第三師の説。末後の有心は前の第二の所解に同なり。違せる論もまた彼の如く説くべし。ただ初生の有心は前師と別なり。これは初生にもまた識ありというが故に。死の時に亦するなり。然るに上座部等は、かの中有にもまた心あることなしと説けり。この前師もまた此の計を作さんかと恐れるが故に、中有の末後は有心なりと説けり。大乗の中有は有支に摂するが故に(論八・十六・六)。かの中有の末心は必ず潤生の煩悩を起こすが故に、無想天もまた有心なり。かの中有は彼処に摂するが故に。第五の対法等に、中有の末心は亦ただ染なりと説けるが故に。もし生も亦有心なりと争わば、いま量を為して云く」(『述記』第七本・五十七左)
 •「大乗の中有は有支に摂するが故に」の文(広く十二支を明かす)を指し、惑・業・苦を総と名づけ、十二支を別と名づける。(新導本・巻第八p14・選註pp183)この中,所生支に「所生支とは、謂く生と老死なり。是れ愛と取と有とに近く生ぜらるる故なり。謂く中有より本有の中に至るまでに未だ衰変せざるこのかたは、皆生支に摂む。諸の衰変する位をば総じて名づけて老と為し。身壊し命終するをば乃ち名づけて死と為す」と。惑・業・苦の三つを能引支・所引支・能生支・所生支の四つに分け十二縁起を配当して説明されています。この中、所生支は11番目・12番目の生・老死になります。無明から始まって生・老死にいたる迷いの生存の展開を明らかににしているのです。生・老死は所生の果報であるので所生支といいます。
 『演秘』の釈
 「論に、 「必ず潤生の煩悩をおこすが故に」 とは、瑜伽論五十九(正蔵30・629c)を按ずるに、結生相続(けっしょうそうぞく - 再び生まれること。 七種の結生相続が説かれる) するに略して七種あり。一に纏(てん)と及び随眠(ずいめん)の結生相続、謂くわく諸の異生なり。ニにただ随眠のみの結生相続、謂く聖迹(せいしゃく)を見たるものなり。三に正知にして入胎する結生、謂く輪王(転輪王)なり。四には正知にして入往する結生、謂く独覚なり。五に一切の位に於て正念を失わざる結生、謂く諸の菩薩なり。六は業に引発せらるる結生、謂く菩薩を除く。七には智に引発せらるる結生、謂く諸の菩薩なりと云えり。
 又 対法論(正蔵31・714c)の第五に云わく、中有の初めの相続する刹那は唯無覆無記なり。是れ異熟の摂なるを以ての故に。此れ従り已後は或いは善と不善と無記となり。その所応に随いて彼の没心を除く。中有の没心は常に是れ染汚なるを以てと云えり。故に知る中有に心有るなり」(『演秘』第六本・三左)と。
 『演秘』の釈から窺えますことは、
 中有に於ける意識の滅・無心は常に染汚性をもっているのであり、無心ではあっても、無心を成り立たしめている染汚心があるという、故に中有には無心ではなく心有るということなのです。
 中有という考え方は古代インドの哲学であるウパニシャッドでは、意識の状態を、覚醒・夢見・睡眠・第四に分けて考えられていました。いわゆる輪廻思想です。この思想が仏教に融合して生死輪廻の生存の在り方を四有として、特に小乗仏教において論じられていたようです。四有とは中有・生有・本有・死有の生存の在り方をいいますが、有情はこの四つの生存の在り方を繰り返しながら生死輪廻すると考えられていました。
 生死輪廻から解脱するにはどのようにしたらいいのか、この願望から無想定を起こして無想天に生まれようとしたのでしょう。そこでは意識を滅するができるのだと。しかし無想天にとどまる限り夢見のなかに生存を閉じ込めるわけですね。でも、眼が覚めたら意識が回復するのは何故かという、迷いの世界に再び生をうけるのは、そこに無意識ではあっても、何らかの意識が働いているのではないのかという問いが、深層に働く意識を見い出してきた。無想天という色界第四静慮の広果天という天界、所謂、絶えず心に想念がない状態であっても、我に関する執着が有る、と見い出したのですね。それは末那識が存在するからだと。寝ても醒めても、さらには生死輪廻していても、審らかに執拗に自分だと思いつづけるマナスがあるからだと。人間の心の深層の領域に染汚された意(マナス)が働き続けているということを、唯識の初期の論者は発見してきたのでしょう。

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