唯識に学ぶ・誓喚の折々の記

私は、私の幸せを求めて、何故苦悩するのでしょうか。私の心の奥深くに潜む明と闇を読み解きたいと思っています。

第三能変 善の心所  第三の六 八識分別門 (2)

2014-01-23 22:24:28 | 第三能変 善の心所 八識分別門

 第二師の説(護法正義)

 護法は説く。五識にも軽安は存在する、と。何故ならば、定に引かれて善であるものは、また調暢であるからである。また成所作智と倶にあるものには、必ず軽安が存在するからである、と。

 「五識にも亦軽安有り」という理由に二つ挙げています。

 第一の理由は、「定に引かれて善なる者は、亦調暢なること有るが故に」(定によって引き起こされた善である五識には調暢があるからである。)

 第二の理由は、「成所作智と倶なるには、必ず軽安有るが故に」(成所作智と倶にある五識<五識転じて成所作智と為る>は必ず軽安があるからである。)

 第一の理由から、『述記』には、護法の解釈(善であるもの)について、「もの」の解釈に三つあると述べています。

  1.  「唯だ仏に在り、意の引に由るが故に、五(識)に軽安有り。又五識成事智は倶に軽安有るが故に。」(無漏の五識)
  2.  「定所引の善に軽安有りとは、此は因位に在る有漏の五識なり。(有漏の五識)
  3.  「此の中に五識の色界に在るは、彼に鼻舌無し。文の中の言は総なるも、理実には三識(眼識・耳識・身識)なり、前文(軽安無しの義)に違せず。(有漏の三識)

 護法の正義は、有漏位・無漏位と通じて五識には軽安は存在すると説き、第二の釈を正義とされます。「定所引の善に軽安有り」というのは、身は欲界にありながらも、定によって引き起こされた善の有漏の五識の中には調暢があるので、そこには軽安は存在するというものです。(定によって引き起こされていない有漏の五識には軽安は存在しないということになります。)

 第一の解釈は、仏果から説かれていることになります。無漏の五識は調暢であるから、そこには軽安は存在し、成所作智と倶である無漏の五識には必ず軽安は存在すると釈しています。

 第二の解釈は、上記に述べた通りですが、有漏位・無漏位ともに軽安は存在するというものです。

 第三の解釈は、五識の色界について述べられています。色界には鼻識及び舌識は存在しない(鼻識・舌識は欲界にのみ存在する)ことから、眼識・耳識・身識の三識を指し、この三識には軽安は存在すると述べてるのです。

 「論。有義五識至必有輕安故 述曰。此有三解。一云此唯在佛。由意引故五有輕安。又此五識成事智倶有輕安故。初約他引立宗。後論自倶引證。總約佛位。此解破前佛無無漏五識身解。即順三界分別之中。欲無輕安 第二又解。定所引善有輕安者。此在因位有漏五識。身在欲界定所引善五識之中。非無調暢。即如通果天眼・天耳。善者有輕安。無記者即無。破前所説因位五無。在果許有。此據因位。若在佛果此爲正義。或初地時。成所作智倶必有輕安故 若作此解。違前所説欲無輕安中第二正義。鼻・舌二識欲界所繋。有輕安故。彼前但據一切異生。及下意識。説之爲無。據理聖者後得智引五有輕安。不相違也。前文但對彼初師説。非爲盡理 第三又解。此中五識在色者。彼無鼻舌。文中言總。理實三識。不違前文。」(『述記』第六本下・四十三左。大正43・442c)

 (「述して曰く。此に三解有り。一に云く、此れは唯仏にのみ在り。定に引かるゝに由るが故に、五識に軽安有り。又此の五識の成事智と倶なるには、軽安有るが故に。初は他の引に約して宗を立つ。後は自と倶なるを論じて証を引く。総じて仏位に約す。此の解は、前の仏に無漏の五識身無しという解を破す。即ち三界分別の中に欲界に軽安なしというに順ぜり。
 第二に又解す。定所引の善に軽安有りとは、此は因位(十地)の有漏の五識に在り、身が欲界に在って定所引の善の五識の中には調暢無きに非ず。即ち通果の天眼天耳の如し。善のものには軽安有り、無記のものには即ち無し。前の所説(第一解)の因位の五識には無し、果(位)に在って有りと許すを破す。此は因位(五識)に
據る。若し仏果に在って此れを正義と為す。
 或は初地の説きより成所作智と倶なるには、必ず軽安有るが故に。若しこの解を作さば、前の所説の欲(界)に軽安無しという中の第二、正義に違すべし。鼻舌二識の欲界所繫なるに軽安あるが故に、彼の前(五識に軽安無しの義)は唯一切の異生と及び下の意識によって之を説いて無と為す。理によっていはば、聖者の後得智に引かれたる五識に軽安あり、相違せざるなり。前の文(欲界に軽安無し)は、但だ彼の初師に対して説く。理を盡せりと為すに非ず。
 第三に又解す。此の中に五識の色界に在るは、彼に鼻舌無し。文の中に言は総なるも、理実には三識なり、前文(軽安無し)に違せず。」)

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第三能変 善の心所  第三の六 八識分別門 (1)

2014-01-22 21:36:45 | 第三能変 善の心所 八識分別門

 第六門 八識分別門について 

 十一の善の心所について『成唯識論』にしたがってまとめて見たいと思います。八識における善の心所の相応を述べています。

 

 ①「此の十一種は。前に已に具に、第七・八識にては位(クライ)に随って有・無なりということを説きつ。第六識の中においては、定の位には皆具す。若し定に非ざる位ならば、唯だ軽安のみを闕(カ)きたり。
 ②有義は、五識には唯十種のみ有り、自性散動(ジショウサンドウ)にして軽安無きが故にと云う。
 ③有義は、五識にも亦軽安有り、定所引の善なる者は、亦調暢有るが故に、成所作智(ジョウショサチ))と倶なるには、必ず軽安有るが故にと云う。」(『論』第六・十一左~十二右)

 私たちの心は前五識(眼・耳・鼻・舌・身識)・第六識・第七識・第八識の四つの心をもっているのですが、善の心所はどこに働くのかと云う問題があるのですね。それに答えているのが本科段になります。

 先ず最初は、①について述べます。

 第八阿頼耶識と、第七末那識については、「前に已に具に説きつ」(前にすでに詳細に説いた通りである)と前置きをし、第七識・第八識は位に随って、有る場合と、無い場合が有るということを述べています。位というのは有漏位(煩悩の有る位)と無漏位(煩悩の穢れがない位)のことです。有漏位では阿頼耶識に善の心所は相応しない。無漏位になった時に、阿頼耶識はただ善性となるから五遍行と五別境と善の十一の心所が相応する。

 末那識については、未転依の位では善の心所は相応せず、転依した平等性智が起こった時は五遍行と五別境と十一の善の心所と相応する、といわれています。

 第六意識に於ては、定位には善の心所には十一みな相応し、定位でない場合(散位)には、ただ軽安を闕いた十が相応すると述べています。

 根本煩悩は我執ですから、ここは我執が有る場合は、善の心所は働かないというのです。そして無我の境地になりますと十一の心所はすべて働くといっています。即ち第七識も第八識にも我執が働いているときは善の心所は働かないといっているのです。働いているのは善でも悪でもない無記の心は働いているということになります。命は善でも悪でもなく無記(善とも悪ともきめることができないこと)なのです。ですから我執も無記になります。しかし我執そのものは無記なのですが、我執が起こっている時は煩悩が働いていますから、善の心は起きないのです。「法」を立場とする無漏位の境地に立ちますと善の心所はすべて働くことになるのですね。そして意識ですね。第六意識と善の相応については、定の位にあっては十一の心所すべてが働くといわれているのです。前五識はどうかといいますと、二説が出されています。第二師の説が護法正義になります。

 ②について

 第一師は、五識はただ善の心所は十種のみあると主張しています。五識は自性が散動であるために軽安がないからである、という。

 この師の説は、十八界の中、十五界(五根・五境・五識)は有漏であり、又、仏に無漏の五識は無いという立場になります。有漏の五識はその自性は散動である為に、有漏の五識には軽安は存在しないということですから、有漏位・無漏位とも軽安は存在しないということになり、有漏位には軽安を除いた十の善の心所があるという主張になります。

 ③については、次の機会に述べたいと思いますが、雑感を記しておきます。

 前五識そのものは感覚作用ですが、第六識の影響下にあるわけです、第六識に支えられて前五識は働いているという関係になります。「成所作智(ジョウショサチ)」とありますが、この智慧は前五識が転じたものなのです。(前五識が転じて仏智として顕れたものー仏の四智の一つ)表層の意識から深層の意識へと自分を見つめる眼差しが深まっていくのですが、深層の意識では善の心所は働かないというのです。これは何故かといいますと、命の根源は善悪を超えた平等の世界を戴いているのですね。しかし第六意識は善悪の判断を常にしているわけです。ですから第六識ですね。ここに心所として善が置かれているのですね。この表層の意識なのですが、これは第八阿頼耶識を根本識として影響を受けているのです。「五識は縁に随って現じ」・「意識は常に現起す」といわれています。深層の阿頼耶識を因とし、さまざまな縁を補助因として五識は表面に現れてくることになるのです。これを転識といいます。意識は自ずから分別を起こすことが出来、「内外門に転じ」といわれ、自己の内と外を対象とすることが出来るので有るといわれているのです。ですから「多くの縁を籍りず」と意識が生ずるためにには多くの縁を必要としないといわれているのです。阿頼耶識を根本原因とはするのですが、意識の働きは私の精神生活にとっては大変重要な役割を持っているのです。表層から深層へという流れは第六識がキーポイントになり、第七識で我執として色づけされ、第八識に種子として薫習されるのです。聞法するという行為も意識から生まれてくるということが大変意義の有ることだと思います。五識は「濤波の水に依るが如し」といわれますように、波が起こるには水という縁がなかったら起こり得ないのと同じように、五識は縁によって現れてくるのです。ですから現れる時もあり現れない時もあるわけです。意識の状態に依るわけです。その意識は深層の意識である第八識に影響を受けて目覚めている時はいつでも起こっているのです。その意識に善の心所が備わっているということは非常に意味のあることになります。第八識は純粋の自己ですからね。聞法も第八識に依るわけでしょう。ですから「聞法する」という意識が可能となるわけです。大事だと思います。横道にずれますが清沢先生に「天命に安んじて、人事を尽くす」というお言葉があります。「私が一身の行為についていうならば、人事を尽くして安んじることにすぎないようにみえるのだが、私はむしろ、天命に安んじて人事を尽くすといいたい。・・・まず天命に安んじるのでなければ人事を尽くすことができないからである。」(『転迷開悟碌』から)私はずいぶん前からこのお言葉には触れてはいましたが「人事を尽くす」という意味を読み切れていなかったようです。「天命に安んじる」だけを読んでいたのです。「人事を尽くす」という意識が大事なのでしょう。天命に安んじてそのままではないのでしょう。信心もそうでしょう。「獲得」せよといわれていますね。獲物を奪い取るがごとくということですね。これは命がけですよ。一命を落とすかもしれないのです。獲得ということは、能動的ですね。意識の働きだと思うわけです。この働きは第七識にとっては非常に厄介なのではないでしょうか。我執で持って色づけしようとするわけですが、判断に困るのではないでしょうか。それは究極の我執は究極の安らぎだからだと思うからです。意識で思うことが能動的に第八識に種子として蓄えられるということがあるのではないかと思うのです。それが聞法という縁に遇うことに於いていよいよ信心獲得という方向に進んでいくのではないでしょうか。また天命に安んじることに於いていよいよ人事を尽くしていける道が開かれているのではないでしょうか。

 意識と第八識の関係になるのではないでしょうか。意識したこと、経験のすべてを第八識は種子として蓄え縁に応じて意識に働きかけるのです。この働きは無間断ですね。この中立ちの役割を第七識が分担しているのです。この識は無始無終、無間断で、自己を思い続けているわけです。「自分さえよければいい」と思い込んでいる心なのですが、「そんなことはない、人のことも考え、思いやりのこころもある」と反論が返ってきますが、そのことが、自我愛なのでしょう。自我を満足さすための手段としているのです。これはみえません。見えない心なのです。その心が見えた時、「さればよきことも、あしきことも、業報にさしまかせて、ひとえに本願をたのみまいらすればこそ、他力にてはそうらえ」という視線、眼差しが生み出されてくるのではないでしょうか。そのはじめの一歩が「豊かな人生を生きるために」という問いを意識的に持つということが大切ではないかと思うのです。そうでなければ「善悪の宿業をこころえざるなり。よきこころのおこるも、宿善のもよおすゆえなり。悪事のおもわれせらるるも、悪業のはからうゆえなり」という御文は読み切れないのではないでしょうか。(『歎異抄』第十三条より)

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