唯識に学ぶ・誓喚の折々の記

私は、私の幸せを求めて、何故苦悩するのでしょうか。私の心の奥深くに潜む明と闇を読み解きたいと思っています。

阿頼耶識の存在論証 滅尽証(11)

2017-11-11 18:26:18 | 阿頼耶識の存在論証
  
 後半は、有部の主張の問題点を挙げて論破する科段になります。
 護法は五つの問題点を挙げて論破しているんですね。
 第一は、如想起滅難
 「是れ則ち心行のみを滅せりとは説く応からず、識と想等とは、起滅すること同なるが故に。」(『論』第四・四左)
 有部の論者よ、心行のみを滅せりと説いてはならない、何故なら識と心行とは起滅を同じくするからである。心行については先に述べていますが、『述記』の説明は受と想のみが心行であるといいます。
 つまり、有部は、滅尽定に於いて六識は滅しているというのは、六識で働いている受の心所と想の心所のみが滅せられているのであって、六識は滅せられていないと主張しているのですね。滅尽定においても六識は働いているというのですが、ここに矛盾点があると護法は指摘しているわけです。
 その答が、「識と想等とは、起滅すること同なるが故に」なのです。
 識が滅したら心行も滅し、心行が滅したら識もまた滅する、起滅を同じくするからである。しかし有部の主張ではそうならないんですね。ここが論破の第一の問題点であるとします。
 ここの論点は起滅ですね。生ずることと、滅することは同時であると云っているわけです。」
 滅尽定に於いて受の心所・想の心所が滅せられている「ということは、識もまた滅せられて』いるという云いことなんですね。
 逆の発想からしますと、受及び想の心所が滅せられているということは、とりもなおさず、識も亦滅せられているというになるんだと。ただね、有部は滅尽定に於いても、六識は滅していないと主張することと、滅尽定では、すべての心行が滅せられていると主張する学派と矛盾する主張になるわけれす。」
 
 
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阿頼耶識の存在論証 滅尽証(10)

2017-11-07 20:29:38 | 阿頼耶識の存在論証
  
 前々回からのつづきになります。
 有部の説を論破する一段です。
 初めに有部の主張を説明します(初に宗を叙ぶ)。後に有部の主張の問題点を挙げて(難を申ぶ)論破します。
 前科段において護法が正義を述べ諸部派の主張を論破しましたので、それに対しての有部からの反論になります。
 「若し謂く、後の時に彼の識還って起こること隔日瘧(カクジツギャク)の如くなるを以て、身に離れずと名くといはば、」(『論』第四・四左)
 ・ 隔日瘧(カクジツギャク)とは、キャクニチカギャクとも読みますが、日を隔てて一回、時を定めて起こる病のこと。つまり、一定の間隔を開けて起こる病のことを云っています。瘧は起こること。
 意訳をしますと、もし有部の主張が、滅尽定より没した後の時に(彼の識=六識)が還って起こることは、恰も隔日瘧のようなものであるから、経典に「身に離れず」と説かれていると主張するのであれば、
 ここまでが前半です。
 前科段で、護法が滅尽定では六転識はすべて滅すると説いてきたわけです。滅尽定に入ると、六識が滅するわけですから、六識の所依も滅してしまいまう。つまり、滅尽定では末那識は働かないのです。そして阿頼耶識は捨せられていますから、純粋意識のみが滅尽定の所依となっているのですね。そこが第八識の存在論証になるわけです。そうしますと、有部の主張が成立しないのです。経典に「識は身を離れない」と説かれているのは、滅尽定でも識が存在することを述べられているのですが、六識が滅した状況では、有部の主張は成り立たないのです。
 それに対して有部の、経典に説かれていることの解釈が「後の時に彼の識還って起こること隔日瘧(カクジツギャク)の如くなるを以て」経典には「識は身に離れない」と説いているのである、と主張するのです。
 つまり、定から出ると、六識がまた働きますから、一定期間は働いていないが、定からでると再び活動する、例えば隔日瘧という病のようなものであって、滅尽定では六識は滅していても( 瘧 )を前提としている、そのことがとりもなおさず「識は身を離れない」ということである、と。
 次科段においてこの主張に対して、五つの難を挙げて論破します。
 (1) 如想起滅難(ニョソウキメツナン)ー 想の如く起こして滅せずという難
 (2) 寿不離身難(ジュフリシンナン)ー 寿は身を離れずという難
 (3) 応非有情難(オウヒウジョウナン)ー 有情に非ざるべしという難
 (4) 根寿無持難(コンジュムジナン)ー 根等は持無しと云う難
 (5) 経言無属難(キョウゴンムゾクナン)
ー 経に属無しと云う難
      ・
 余談になります。有漏・無漏ですが、有漏は不可知だろうと思います、知り得ることが出来ない、それがどうして知り得ることが出来るのか、それが無漏の世界からのメーセージだと思うのです。有漏は有為法・無漏は無為法です。私たちの生存している世界は有為転変しています、常に変化していますが、変化は変化しないものの上に成り立っている。変化は無常、不変化は常です。実は、常に於に無常を感ずることができるのでしょうね。無常を感ずるのは、常に触れているからだと思います。無常を感ずるからこそ、涅槃に指向できるのでしょう。無常を感ずることが無かったなら、煩悩が漏れていることが分からないでしょう。煩悩は、私は間違っていないという意識ですね。いつでも、私は正しいという立場に居ませんか。自己肯定の意識です。
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阿頼耶識の存在論証 滅尽証(9)

2017-11-01 22:29:32 | 阿頼耶識の存在論証
 
 「真宗の教えはおまかせですね」とよく聞くのですが、お任せとはどういうことなのでしょう。僕はね、お任せは、任せられない自分が居る、任せるといっても、任せることに執している自分が居て、自分の都合でしか任せられない、臨終の一念までね。どのような事情があってもですね、自分の好都合・不都合の物差しは自分なのですね。自分は固定的に存在していると固執している末那識の為せるすべですね。「真実信心の天を覆えり」です。ここがはっきりすると、それだけでいいのでしょう。
 思い起こしますと、自分が一番苦しかった時は自分が一番立っていた時でしたね。自分の苦しみの深さが、執らわれの深さでもありました。仏陀釈尊は、苦しみをを通して、苦しみの大地に立てる道を教えてくださっていたのです。
 私たちは、外界をさまざまな思いをもって色づけしていますが、外界は無色透明、晴天なのでしょう。例えば台風のようなものですね。台風には自分で進路を決めることは出来ないですね。いろいろな要素が加わって発達しますが、進路は高気圧に引きずられて進んでいるわけです。台風を煩悩、高気圧を我執としましょう。煩悩は外界の諸条件を加味して身心を煩わせ、悩ますのですが、我執の度合いに依って煩悩の起こる範囲がきまるわけです。
 最大の我執は貪欲ですが、怒りは貪りが満たされない時に顔を出します。怒りは外に向かっていきますので、すぐにわかります、これを麤(ソ)といいます。粗いわけです。そこで火に譬えられます。貪りは心の中に潜行しますから、分かりにくいですね。足るを知らないのが特徴です。細やかな動きですので、細(サイ)といいます。これは水に譬えられます。私たちは、貪りと怒りの狭間で愚痴っているのが現状ではないかと思います。
 すべては因果撥無の見解、無我であり、無常を生きる存在を、実我実法と執する邪見が引き起こすのですね。宗祖は「邪見憍慢悪衆生」と押さえてくださっています。愚痴の具体性は言語をもって表現するという言になりますが、その時の依り所が邪見なのです。邪見は奢り、高ぶりを起こします。そして時には増上慢・時には卑下慢として、どこまでも自分を立てていきます。我愛です。我愛は自尊損他の感情です。実はここが大切な教えを聴く要だと思うのですが、自尊損他の感情は、実は自損損他なのです。先に僕はブーメラン現象と云っていましたが、自分の刃が、自分に戻ってくる、それが苦しみを引き起こしてくる因であるのです。
 ブログをなかなか更新できないでいるのですが、ボチボチ綴っていきます。
 
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阿頼耶識の存在論証 滅尽証(8)

2017-10-25 22:01:19 | 阿頼耶識の存在論証
  
 ブログの更新ができていません。ここしばらく聖典と向き合う時を持つのより先に寝込んでいます。疲れからなのですが、年度末決算からずっと忙しさが続いておりまして、特にここ二三日自分の能力を超える量の仕事が舞い込んできました。有難い事で喜ばなければならないのですが、これがですね、喜べないんです。実に勝手です。残業をして帰宅をしたら、食事をとって風呂に入って寝るだけ。これもご縁なのでしょう。嫌なら断ればいいだけの話です。それが出来んという所に、ご縁によって自我分別の心がはっきりしてきますね。
 必死ぶりの投稿です。
 護法の正義を述べ、諸部派の主張を論破します。「此れは正義を述して諸部を遮しつ」(『述記』)
 「若し微細に一類に恒に遍して、寿等を執持する識在ること有りと許さずんば、何に依ってが識は身に離れずと説ける。」(『論』第四・四右)
 (もし微細に一類に恒に三界に遍く存在し、寿等を執持する識が存在することを認めなかったならば、何の識に依って、経典には「識は身を離れない」と説かれているのか。)
 この「何の識に依って」という識は、「常に無記一類にして性変易せず、復是れ恒にして断ずること無し。體三界に遍じて処としてあらずということ無きを以て」という識こそ、第八識であり、第八識の存在を認めないのであれば、経典に説かれている「識は身を離れない」という説明がつかないことになる。大筋はこういうことだと思います。
 先の科段でも説明しましたように、滅尽定では六識は滅せられているのです。しかし滅尽定でも、「識は身を離れない」といわれていることは、六識は滅せられても、滅せられていない識が存在するというわけですね、そうでないと、滅尽定の説明ができないですね。
 「識は身を離れない」という識の定義は、
 微細である。 - 麤に対します。
 一類である。 - 動に対します。
 恒には恒相続、絶えまなく相続していること。
 遍は三界に遍く存在していること。
 そして、
 寿等を執持していること。
 寿は命根。
 等は、等取のことで、根、煖、種子を等取する。
 五色根、種子は第八識の所縁の相分ですね。これに由って、六識が滅せられている滅尽定でも、生命が宿っているのは第八識の存在があるからだと論証しているのです。生命が宿っているのは暖かさ(体温)があるということですが、生命は五根と体温によって保持されているということになります。
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阿頼耶識の存在論証 滅尽証(7)

2017-10-22 15:47:49 | 阿頼耶識の存在論証
 
 今読ませていただいています滅定証は、第七末那識の存在論証であります二教六理証の第四二定差別証と不可分の関係にありますので、その箇所を少しみていこうと思います。  
 第四の二定差別証は、無想定と滅尽定との相違から、第七末那識の存在を明らかにしているわけですが、もし染汚の第七識の存在が無いならば、染汚心を滅せない無想定と、一切染汚心を起こさない滅尽定との区別がつかないことになることを述べています。
 簡単に述べますと、
 ・無想定 - 外道や凡夫が修する定。無想天を真の解脱・涅槃と考えてそこに出離しようとする思い(出離想)によって六識の心の働きを滅する禅定。
 •滅尽定 - 心・心所が滅した定。止息想によって心の働きを滅して入る禅定。前七識が滅し、第八阿頼耶識は滅していないとされる。
 尚、護法は滅尽定では第七識の染汚面が無くなると云う立場ですが、安慧は第七識そのものが無くなると云う立場を採っています。
 小乗に於ては、無想定と滅尽定を無心定といい、もの二つを称して二無心定という。何故ならば、この二つの定は六識と相応する心所を滅することは同じであるからです。その体数は二十二(六つの心王と遍行の五と、別境の五と、善の十一)を定の体とし、「彼の二定の中、倶に六識を滅す、六識を滅することは同なり。」と、二つの定には、滅する心所の体数では異なることがない、という。しかし護法は、末那識の有無において無想定と滅尽定では異なりが有るとするのですが、小乗のように、末那識の存在を認めないという立場の小乗では、この二つの定に相違がなくなり同一の定となると批判しています。
 この二つの定の特色は無心定ということです。無心というところで共通しているわけですが、そしたらどこでその違いがあるのでしょうか。先に述べましたように、無想定は凡夫・外道の定で、滅尽定は聖者の定であるわけです。滅尽定は「阿羅漢と滅定と出世道とには有ること無し」といわれていますように、末那識は滅定には存在しないのです。ここで問題にされていることは、若し末那識の存在がなかったならば、この二つの定の区別が成り立たない、同じであると。
 又、この科段では染汚心が問題にされています。前科段では「意」という問題に答えていましたが、ここではその意について「染汚された意」として取り上げられています。『摂論』巻第一に「無想定は染意の所顕にして滅尽定には非ず。若し爾らざれば此の二種の定は応に差別無かるべし。」(染汚された心が存在すると知ることができるのか、もしこの心がなかったならば、「意」という名に意味がなくなってしまう。そして、無想定と滅尽定との区別がなくなってしまう。なぜかというと、無想定は染汚された心から現れるものであるが、滅尽定はそうではない。もしそうでないとすれば、このふたつの定に区別がなくなってしまうのである。)無想定には染汚の意が有り、滅尽定の場合には、染汚である限りの末那が滅せられるところに成り立つのです。末那識を認めなかったならば、二定を区別する根拠がなくなってしまう、ということを批判しているのです。
  『倶舎論』による無想定と無尽定の解釈は、
 前半は、無想定についてです。無想定を修した果(異熟果)として無想天という色界第四禅天の中の広果天に生れると説いています。この天に生れると、五百大劫の間無心となる、と限定されているわけです。外道・凡夫はこの無想天を真の涅槃処と誤認して、ここに至らんとするのでしょうが、これは疑いなのですね。「生死輪転の家に還来ることは、決するに疑情をもって所止とす」と、迷いから一歩も出るものではないと。しかし、誤認しているけれども、解脱を求める心にかわりはないのですから、有漏であっても、善であり、異熟ですから無記なのです。第四静慮地を涅槃地と錯誤しているわけです。
 無想定は色界第四静慮を所依地としています。善であり、無想天は異熟果であるから、無記性であることを述べています。無想定は何れの受に順ずるのであるのかというと、唯順生受である、と。若し一度この無想定を修すると、次の生に無想天に生ずるとされ、決して見道に入ることが出来ないので、この無想定は凡夫の起こす定であり、聖者の起こす定ではないとされます。ただ無心に変わりはないのですから、初得の時は一世を得し(法倶得(ほうぐとく)-善でもなく悪でもない無記の法を得るありよう)、後、第二念以後には法後得(ほうごとくー善悪の法が過去に滅した後、その法を人が得るようなありかた)もあるけれども、無心であることから、法前得(ほうぜんとくー人が善悪の法を得るようなありかた)は無いとされます。三種の得が述べられています。法前得・法倶得・法後得です。
 後半は滅尽定についてですが、『論』の記述は、
 「滅尽定も亦然り、静住の為なり、有頂なり、善なり、二受と不定となり、聖なり、加行に由って得す。成仏得なり、前に非ず、三十四念なるが故なり。」と。
 滅尽定はどうかというとですね、滅尽定もまた無想定と同様に無心であるということです。先にも述べましたが、無想定は出離想作意を先として解脱を求め修するのですが、滅尽定は止息想作意を先として静住する為に止息想を修するといわれています。無色界第四有頂天を所依地としています。これも亦善であり、何受かというと、二受(順生受・順後受)と不定(順不定受)である。聖者の修する定である、と。
 無想定の所依地は色界第四静慮     
 滅尽定の所依地は無色界第四有頂天
 共に三性では善性です。
 二定の同異については、共に不相応行であり、無心定であり、異熟果を招く、性は善である、そして加行得であるという点では同である。二定共に欲界と色界とで起こる、無想定は欲界・色界で初起するといわれるが、滅尽定の初起はただ人中であるという。
 相違点は、無想定は出離想作意といわれ、入涅槃の目的で入定するが、
 滅尽定は止息想作意といわれ、ただ静住する目的で入定する。
 末那識の存在がなかったならば、二無心間の差異もないことになる、という一段が説明されているのですが、末那識の染汚性の有無が問題とされているわけです。無想定前六識を滅しているけれども、末那識の染汚性を滅していない為に外道や凡夫は、無想定を真の涅槃と考えて無想天に生れようと修するのです。真宗の教えを聞いていてもですね。こういう問題があるのではないでしょうか。浄土を実体化して、そこに生れたい、蓮の台に座って悠々自適に暮らしたいという思いですね。このいう時の聞法は無想定で、その果は無想天なのでしょう。しかし滅尽定は末那識を滅した定なのです。ですから、聖者は、滅尽定が涅槃の寂静に似ている為に、滅尽定に入ることを欣うのである、と。
 「此れ若し無くんば、彼の因も亦無かるべし。」(『論』第五・十三右)
 (此れ(末那識)が、もし無かったならば、彼(加行の区別)の因もまた無いであろう。)
 加行の区別が生じる根拠である六識の有漏・無漏の別もまた末那識によるのである、と。
 結論は、
 「是の故に定んで、別に此の意有るべし。」(『論』第五・十三右)
 (このようなことから、必ず、他の識とは別に、この意(末那識)は存在するのである。
 このことは、私の現存在に即して述べていると思います。実際には末那識の可否によって、滅定と無想定の区別がり、加行や三界・九地・依身の区別が有るのですね、そうしましたら、末那識の存在が無かったならば、これらの区別はないことになります。原因・根拠もないことになるわけです。しかし、実際には、これらの区別はあるわけですから、現実に即して末那識の存在が証明されていると思うのです。
 この二定の相違は末那識の有無によるのです。無想天は凡夫の望む世界ですね。いうなれば無我夢中の中に身を置く状態でしょう。夢は覚めるものです。元の木阿弥という、これは無心ではあっても、無心の下で我執の染汚性をもつ末那識が働き続けているからなのです。そうですから、聖者は無想定を厭い、滅尽定を欣うのです。末那識の存在がなかったならば、聖者はなにも無想定を厭う必要はないのです。
 無想天は、すでに説明していますように、色界第四静慮・第三広果天の高勝処にある天といわれています。無想定を修して生れる天です。三界は虚妄顛倒処といわれますように、迷いの境界ですから、たとえ六識が滅せられているとはいえ、有漏であって迷っている存在なのです。これはとりもなおさず迷いを生じさせる働きを持つ末那識の存在があるということの証明になるのです。
 小乗諸部派の主張では、無想天や無想定には末那識は存在しないと述べています。末那識の染汚性(我執)は存在しないはずであるから、涅槃と同じ状態になり聖者が訶し厭うことはないことになる。しかし聖者が無想天を訶し厭うということがあるのはどうしてなのか、という問いが出されているのです。その答えが聖者が無想天を訶し厭うのは我執が有るからであり、末那識の染汚性が存在していることの証明になるということを明らかにしているのです。
 六識相応の我執は、五位無心に於て、「意識は常に現起す。無想天に生れると及び無心の二定と睡眠と悶絶とをば除く」と述べられています。意識は常に現行しているのですが、例外が有るのですね。それが五位無心といわれていることなのです。ですから、小乗のように六識のみを論ずるなら、五位無心においては、我執は存在しないことになるのですね、そうしますとね、凡夫であっても、涅槃・解脱と同じような我執の無い状態ということになってしまうのです。それに対し、末那識は「恒審思量」といわれていますように、間断することがないのです、恒に審らかに阿頼耶識の見分を対象として我であると執着する働きを持って心を染汚しているのです。そうしますと、小乗では説明がつかなかったことが、末那識の存在を認めることに於て明らかになると説明します。
 五位無心が述べられる中で、睡眠と悶絶ですね、極重睡眠と極重悶絶の時は無心であるといわれていますが、この時に末那識の存在がなかったならば、染汚心が滅せられて無漏の状態になったといわなければなりません。しかし、そうではないということが説かれているわけです。染汚の第七識は存在し我執相続しているのである、と。
 『述記』に「六識無きことは亦二の解有り。一には一生の長時なり。二には初・後を除く故に長時と言う。」と解釈されていますが、
 「一生の長時なり」というのは、無想天に生れた有情は、一生を通して心心所を滅すという意味なのですが、凡夫なのですね。夢から覚めるということが起こるのです。無想果から没してまた欲界に生れるといわれていますね。一生の間、第六意識の心心所を滅しているとはいえ凡夫である、と。無心であっても染汚である、我執が働いているのであるということだと思います。
 この科段を参考として、元に戻りますが、護法の正義を述べて、小乗諸部派が主張します六識のみの論証を論破していきます。一言でいいますと、「何に依ってか識は身に離れずと説ける」ということに答えているのです。
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阿頼耶識の存在論証 滅尽証(6)

2017-10-16 20:12:36 | 阿頼耶識の存在論証
 
 「謂く、眼等の識は行相麤動(ギョウソウソドウ)なるを以て、所縁の境の於(ウエ)に起るときに、必ず労慮(ロウリョ・疲れ倦むこと)す。彼を厭患(オンゲン・きらうこと)するが故に、暫く止息(シソク・やむこと)せんと求めて、漸次(ゼンジ・次第に、だんだんと)に伏除(ブクジョ・取り除くこと)して都尽(トジン)の位(すべてを滅し尽くした処)に至る。此の位に依って滅定に住する者を立つ。故に此の定の中には、彼の識いい皆滅しぬ。」(『論』第四・四右)
 意訳は先に述べていますが、『述記』の釈からすこし詳しくみていきます。
 初めに「眼識などの認識対象は」と問いが出されています。認識対象は「所縁の境」です。所縁も境も認識対象になります。
 「眼識等の諸識は二の行相有り」、それが麤(ソ)であり、動であるのですが、行相が麤動でありますと、必ず労慮するといわれています。労というのは、疲惓のことであり、慮とは、麤動のことであると釈していますが、麤動は散乱のことですね。本来ですよ、心が散乱しますと疲れ倦むんですね。しんどいわけです。このしんどさが、麤より細に至る道筋を開いてくるのですが、「凡夫は愚にして知ることなし」と「聖者は慧にして厭を生ず」と。同じ事柄なのですが、眼が外に向いているのと、脚下照顧ですね、内に向いている違いは大きいですね。
 聖者は「暫く止息せんと求めて漸次に伏除して、麤より細に至り無相の想を縁じて都盡の位に至る」と云われています。
 「厭患」が鍵になりますね。聖者は、行相麤動なることを嫌い厭うわけですが、凡夫は意に介さないのですね。そして同じことを繰返しているのです。将来を考えると云いましても、きつい言い方になりますが、火葬場一直線の人生しか考えてないんですよ。どのような生き方になるのか、どのような死に方になるのか、ご縁の問題ですから分別の差し挟む余地はないんですね。
 今ね、人生の方向が定まるということが一番の問題なわけです。そうしますと、散乱麤動する心を厭うわけです。厭う心が(散乱麤動する六識による労慮を)止息しようとする心が生れてくるのですね。此れが修道の出発点になります。聞法も同じ歩みですね。
 凡夫が労慮しないという理由は、我愛だと思います。我は常・一不変のものと執していますから、我を揺り動かすのは、外界の存在だと決めつけているわけでしょう。凡夫も労慮しているんですよ。ただね、労慮は内なる問題から出てくるのか、外界が影響を与えていると考えているのか、ですね。
 六識と云いましても、前五識は第六意識の影響下にあります。「濤波の水に依るが如し」です。前五識が揺れ動くのは意識に依るんだと。その意識も、第七識・第八識を所依とし、所縁としているわけですが、凡夫はこのような心の構造に無知であるということなのですね。ですから、本当は六識に依って疲れ倦んでいるのですが、自分が理由であるという言が理解できない為に、厭うことはないと云われているのです。
 他人ごとにしますと、仏法を学んでいても、外道になります。
 親鸞聖人はこれを非常に危惧されました。特にこれは現今の問題ではないでしょうか。仏法は刃ではないということですね。
 「五濁増のしるしには
   この世の道俗ことごとく
   外儀は仏教のすがたにて
   内心外道を帰敬せり」
 「かなしきかなやこのごろの
   和国の道俗みなともに
   仏教に威儀をもととして
   天地の鬼神を尊敬す」 (『正像末和讃』より)
 耳を傾けなければなりませんね。
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阿頼耶識の存在論証 滅尽証(5)

2017-10-13 22:24:18 | 阿頼耶識の存在論証
 
 唯識無境ということは、第八識という、私の「いのち」を支えてくれている根本なる識で浄なる性質であり、善・悪・無記と転易しない無垢なるもの、境と一体のものの性質から、無境と云い表されているように感じます。私たちの分別意識からでは、境という対象物は有りますね。例えばもうすぐ紅葉の季節になりますが、青いサングラスをかけて鑑賞したら、紅葉はどのように見えるでしょうか。確かに、紅葉は境として存在しているのですが、私の分別意識に依って紅葉そのものを見ているわけではないのです。「サングラスをかけて」と云いましたが、サングラスはどこにかけているのでしょう。身に依っているわけですね。この身が第八識の所縁になって境を認識しているのです。つまり第八識は紅葉に働きかけて、捉えた紅葉を何の分別も加えずに、第八識が認識しているわけですね、これを行相見分といいますが、根本の動きの中では、サングラスはありません。分別意識は無いということですね。
 青き色には青き光、黄なる色は黄なる光、赤き色には赤き光、白き色には白き光。ありのまま、そのままを認識しているのが第八識なのですね。こおような性質を無覆無記と云われ、感情も、苦楽に執されることなく捨受なのです。この第八識が私の流転と共に一体となって流転してくださっているわけですが、この流転は考えられたものなのですね。想に依って引き起こされてくるのですが、背景は触・作意・受の心所です。これは生まれてきたことと関係します。人間としての境涯は有漏の身であるということですね。つまり、煩悩と共に生まれてきたのです。サングラスをかけて生まれたということです。こサングラスの正体が「我」です。我は感情と共に動きます。触・作意に依って受が働くのです。
 紅葉は紅葉なんです。これが本質です。本質は無漏ですね。浄なるものです。浄という本質の上にサングラスをかけているのです。ここで見えてくるのが影像ですね。私たちは、影像を本質と錯覚を起こして境は有るんだと、その境に依って私の意思が左右されてくると思っているのですね。ですから、私には「我」は見えません。
 ただいえることは、対象物が有ると思っているのは、私のサングラスをかけて見えている像なのです。対象物そのものの姿を捉えているのではないのです。捉えているのは、私のかけているサングラスですから、外に有ると思っている対象物は、自分の意識に他ならないのですね。
 四六時中、私は、私の意識と対峙しながら向き合っているのです。
 具体的に、仕事のことでいいますと、先月は年度末ということも手伝って、納期をせかされました。そうしまうと、時間が有りませんから(ここだけの話ですよ)手を抜く、手抜きです。横着ですね。取り合えず納品します。内心はクレームか無ければラッキーと思っているのです。しかしそうは上手くいきません、必ず少なからずですがクレームがきます。担当者からお叱りを受けることになりますが、最初からお叱りを受ける覚悟はできているんですがね、お叱りを受けると腹が立つわけです。「急がすからだ」とね。しかし不良は不良です。いいわけは利きませんが、腹が立つわけです。自分が立っているなぁと思うのですね。そこで、自分に帰ることが出来るんですね。唯識無境は、このようなことを教えているのではと思うことです。
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阿頼耶識の存在論証 滅尽証(4)

2017-10-10 22:21:29 | 阿頼耶識の存在論証
 
 第一に総論として諸部派の、滅定の中に在って本識無しという主張を論破し、滅定でも存在する心は第八識しかありえないことを明らかにする。第二に有部の主張を論破し、第三に経量部の本計(ホンケ・根本の主張)を論破し、第四に経量部の末計(マッケ・根本主張に対する付随的主張)を論破する一段。
 第一の総論になります。
 諸部派は、滅定では転識はすべて滅すると主張した、六識のみで識体系を述べる説をまとめて論破しています。
 「謂く、眼等の識は行相麤動(ギョウソウソドウ)なるを以て、所縁の境の於(ウエ)に起るときに、必ず労慮(ロウリョ・疲れ倦むこと)す。彼を厭患(オンゲン・きらうこと)するが故に、暫く止息(シソク・やむこと)せんと求めて、漸次(ゼンジ・次第に、だんだんと)に伏除(ブクジョ・取り除くこと)して都尽(トジン)の位(すべてを滅し尽くした処)に至る。此の位に依って滅定に住する者を立つ。故に此の定の中には、彼の識いい皆滅しぬ。」(『論』第四・四右)
 (意訳)
 つまり、眼等の識は行相(認識する有りよう。相状)が麤(あらい)であり動(変化すること。転易)である為に、所縁の境(認識対象)に働きかける時には、必ず疲れ倦むのである。聖者は六識の「麤と動」による疲れ倦むことを厭いきらうために、暫く麤であり、動である六識による疲れ倦むような活動を止めんとして、次第に取り除いてすべてを滅し尽くそうとする直前の心に至り(滅尽定に入る直前の心で、微微心という)そして滅尽定に入るのである。この微微心の位に依って滅尽定に住する者を立てるのである。このように、滅尽定の中には、彼の転識はすべて滅するのである。
 本科段は、滅尽定では転識はすべて滅することを証明し、滅してもなお滅尽定が修されるのは何に依るのかを明らかにしているのです。
 滅尽定とは、部派では、心・心所が滅した定と云われています、止息想に依って心のはたらきを滅して入る禅定をいいますが、唯識は八識のなかの転識の働きが滅するのみで、阿頼耶識は滅していないと云います。滅尽定では遍行の受と想とを滅した禅定であるといわれて、滅受想定とも言われています。苦楽を感ずる感受作用と、言葉による概念的思考を起して心を騒がす相とを嫌って、この受と想との二つを滅する滅尽定を具体的に滅受想定と云っていkるのです。
 『論』では「行相麤動」と云われていますが、行想は行相見分のことです。「眼等の諸識」つまり六識には二つの行相が有ることを明らかにしています。一つは麤であり、二つには動である。麤は相貌が知りやすい、細やかな動きをせず、荒々しいのですね。よく見えるわけです。静に対する動になります。動は転易のことです。或る時には間断することがあって、或る時にはしばしば、その性を変化させる(転易)のである。そして、有る処には有ること無し、縁おおくして散乱する、と云われているのが「動く」の意味なのです、
 つまり、
 (1) 間断がある。
 (2) 三性(善・悪・無記)を変える。
 (3) 三界において存在しないところがある。
 (4) 多くの所依、所縁に依って初めて生起しえるので散乱する。
 のが「動」の内容になります。ここをもって六識は行相は散乱し麤動であると云われているのです。生滅変化が著しいということですね。 (つづく)
 
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阿頼耶識の存在論証 滅尽証(3)

2017-10-04 21:13:35 | 阿頼耶識の存在論証
 
 「寿」について、有部は命根であるといいます。『倶舎論』に「命根は體即ち寿なり、能く煖及び識を持つ。」と述べられています。煖と識とを保つ働きをもつものが寿と云われているのです。又、『中阿含』や『長阿含』には、寿煖識の三法が身から離れる時が、即ち死する時であると説かれているのです。有部は寿は実有であり、寿が煖と識とを維持し、煖と識とが寿を維持すると説いています。
 「命根は體即寿なりと云う。大乗は前は種子は是れ寿なりと説く。即命根なるが故にと云う。」(『述記』
 種子は名言種子です。第八識の中に蓄えられている名言種子が一期の間、相続させる作用の上に仮に立てられたもの、つまり分位仮立法とであるといいます。
 経量部は命根無しと主張していているのですが、そうすれば、何を以て寿とするのかと云いますと、色・心の断じない上に於て仮立されたものだと主張しているのですね。色は身体、心は受・想・思、或は受・想・思・触の三大地法及び四大地法を心行としています。
 このことを踏まえて本文を読みますと、部派でも滅尽定では身行・語行・心行はすべて滅していると説いているのですね。つまりですね、「滅尽定に住する者は、身と語と心との行が皆滅しないということはない、滅する。しかし、寿は滅しない。また煖を離れない。根は変壊することは無い。識は身を離れない」と。すべては滅した中でも「識は身を離れない」というのは、六識が滅した状態の中でも、身を離れない識が存在すると契経は述べているのですが、それが第八識の存在なのですね。
結論が、
 「若し此の識無くんば、滅定に住する者、身に離れざる識というもの有るべからざるが故に。」(『論』第四・四右)
 もしこの第八識が無かったならば、滅尽定に住する者の、身に離れない識というものはないであろう、ということなのですね。逆にいえば、第八識の存在が無いならば、滅尽定も成り立たないということになりますね。
 迷いもね、六識で迷っているのですが、迷いの根拠が第八識なのです。第八識は無覆無記という浄なるものですが、なにものにも覆われることのない識が、識の上に覆ってくるものがある、それが染ですね。第八識は分水嶺ですね。すべては依他起の上に成り立ってくるのですが、第八識を知る知見が円成実と云う智慧を生み、第六意識でのみ考えるところに遍計所執という闇を招来してくるのでしょう。
 無碍の光明は大円鏡智ですね、すべてを映し出す知見が闇の正体を暴いてくるのですね。
 「無碍の光明は、無明の闇を破する慧日なり」(総序)
 闇は触れないと破られることはないのですが、触れることにおいて闇がはっきりするわけですね。
 はっきりすると、智慧の光に依って知らしめられたということなのでしょう。
 意識で考えると云うのは、どこまでいっても我見ですね。身見でもあります。身に執着している見解ですね。その背景に愛着と慢心が潜んでいるのですね。そして道理を否定します。死んだら終わりという虚無思想、ニヒリズムに陥ります。
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阿頼耶識の存在論証 滅尽証(2)

2017-10-02 20:58:41 | 阿頼耶識の存在論証
  
 本文に入ります。
 「又、契経に説かく、滅定に住せる者(ヒト)は、身と語と心との行を皆滅せずということ無し、而も寿(ジュ)は滅せず、亦は煖(ナン)を離れず、根は変壊(ヘンネ)すること無し、識は身に離れずと云う。」(『論』第四・四右)
 また、ある滅定を説く経には次のように説かれている。
 (第一は滅尽定について)滅尽定に住せる者は、身と語と心との行が皆滅しないと云うことは無い、滅するのである。しかし、寿は滅しない、また煖(あたたかさ)を離れない、根は変化し壊れることは無い。識は身を離れない、と。
  『述記』の釈には、
 「述して曰く。自下は第九に滅定をいう契経なり。此の定に入りぬる者(ヒト)は身行の入出の域を滅しつ、・・・行とは因の義なり」と。滅定を説く経典には、「滅尽定に入っている者の身に離れない識があると」説かれていることを教証として挙げています。それが転識ではなく、第八識であるということになります。
 「身と語と心との行」とは、身行と語行と心行のことで、行とは因の意味であるということです。少し詳しくいいわすと、身行とは、身を動かせる因であり、語行とは語は言語ですから、言語を働かせる因(言語表現の因)、心行とは精神活動の因という意味になります。
 そして部派仏教では身行を入出息、語行は尋伺とし、愛と想のみを心行として『述記』は釈しています。これは経量部の主張になります。有部は十大地法を以て心行とし、心の有無に随って心行の有無もあると考えられています。
 「此れが中に亦十大地を以て倶に心行とする有り、心に随って有無なるが故に。然るに勝れたる者に随って唯受と想とをのみ説いて以て心行とせり。」(『述記』第四末・十二左)
 またにします。
 
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