唯識に学ぶ・誓喚の折々の記

私は、私の幸せを求めて、何故苦悩するのでしょうか。私の心の奥深くに潜む明と闇を読み解きたいと思っています。

初能変 第二 所縁行相門  廃立 (5)

2015-02-28 16:29:07 | 初能変 第二 所縁行相門
 
 真宗宗歌を聞きながら静かにお読みいただければと思います。真宗宗歌をclickしてみてください。

 「初めのは必ず実用有り。後のは但し境のみと為る。」というところをみておりました。
 初は因縁変で、因縁変の場合は必ず実の働きがる、この働きを用という言葉で押さえられていますが、具体的には実の種子である。阿頼耶識の中に蓄えられているすべての種子が対象となって現在してくるとうkとですから、他から何かを持ってきて現在するということはないわけです。種子(習気)から現行が生ずるということを因縁変と押さえられているわけです。
 「因縁の勢力(セイリキ)に随って故(カレ)変ず。」と云われています。
 後は分別変で、分別変は境(対象)と為る。これは、
 「分別の勢力に随って故変ず。」
 分別は自他を分ける作用ですが、自他分別を平等に分けているのではないのですね。自と他を分ける時に何が作用しているかと云いますと、思量なんです。「思量するを以て性とも業とも為す。」マナスという第七識の働きが関与して他を配下に置くのです。自は独裁者です。自分にはむかう者は切って捨てるんですね。恐ろしいことですが、私の心の中では、いつでも自他を秤にかけて裁量しているんです。解り易い表現ですと、悪代官です。最初から裁きは決定しています。自分が正しいと云う立場です。この心を『述記』は「籌」(チュウ)という「はかりごと}という字を当てて、「籌度心」(チュウタクシン)と表しています。
 「分別変とは、諸の強籌度(ゴウチュウタク)する義なり。」(『述記』)
 策略を回らす、自分の利益の為にですね。名利心とか功利心とか勝他の心が働くのですね。これらの思いで作り上げられていくのが分別変と云われていることなのです。このことを、
 「即ち、六七識なり、自の分別に随って作意(サイ)を生ずるが故に。此れに由って六七無等を縁ずる時影像の相分は実体有ること無し。」(『述記』)
 因縁変は本質相分(ホンゼツソウフン)、分別変は影像相分(ヨウゾウソウフン)ということになります。分別変は本質を変えてしまうということなんです。自分の都合に依ってですね。その働きを担っているのが、第六意識と第七末那識になるのです。
 ここで説明されるのが、以前三類境について述べましたことが出てまいります。性境・帯質境・独影境です。前に戻って読んでいただければと思います。
 この三類境につきまして、太田久紀師は『抄講』巻第五p91~95に解り易く説かれています。    (つづく)

 真宗宗歌(歌詞付き)
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大坂坊主BAR staff 日誌 (6)

2015-02-28 16:09:14 | 大坂坊主BAR staff 日誌
 
「うれしいひなまつり 」リトミック・季節の歌


 4月8日はお釈迦様の誕生会
 龍谷大学学友会宗教局主催 灌仏会(花まつり)2014


3月3日はひな祭りですが、4月の8日はお釈迦様がお誕生になられた日で、花まつりとして祝っています。
 


 先日お見えになられましたお客様からお写真を送っていただきました。紙面を借りてお礼申し上げます。ありがとうございました。
 

 今日(日付は変わりました。2月28日のことです。)は早くから女性二名のお客様に来店していただきました。いろんな話をさせていただく中で、孤独という問題が出てきました。友人たちは結婚をして家庭をもっているが、私はまだ独身で、このままいくと、いずれ一人ぼっちになってしまう。そんなことを考えていたら孤独に耐えられない自分がいると気づきました、どうしたら孤独と共存できるのでしょうか、ということなのです。週末は法話タイムはないのですが、店主の妙様が法話されたらいかがですかと問いかけられましたので、孤独という問いに対して法話をさせていただきました。皆様方はどのように答えられるのでしょうか。
 坊主BARのいいところは、素朴な質問が素直に出てくることでしょうか。こんなことを聞いたら恥ずかしい。いまさら仏教とは何?とも聞けない、ということがなのですね。時には大外から変化球が投げ出されてきます。ズバットです。迂闊な受け答えはできません、本当に真摯に、真剣に取り組んでいかなければならない場所、それが坊主BARなんですね。いい勉強をさせていただいています。
  
 次回は3月7日(土曜日)に入らさせていただきます。 
 
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初能変 第二 所縁行相門  廃立 (4)

2015-02-28 11:19:24 | 初能変 第二 所縁行相門
 http://youtu.be/_zv8bCakElM

  初めに、因縁変を明らかにし、後に分別変を明らかにする。
 「初のは必ず用(ユウ)有り。後のは但だ境のみと為(ナ)る。」(『論』第二・三十二右)
 因縁変には必ず体用(自体と作用)があり、前五識と第八識等を所変の境として、自然に因縁の力によって識が変化することで、識の境となったものには必ず実際の働きがあるとされます。例えば、第八阿頼耶識でいいますと、阿頼耶識が変化して、阿頼耶識の対象(境=所縁)となった身体や器世間には具体的な作用があるということです。
 「等」は等取という、~などという意味になります。ここで云われる「等」は、阿頼耶識の所縁と、前五識の所縁と五倶意識同縁の心心所の所縁と定心の所縁とが因縁変となるとされます。
 「其の所応に随って、五識相応の心心所と及び第八識の体と五倶の意識と、或は定心との所縁は実の種生在るは皆因縁変なり。余は実の用無し。・・・彼の実体の種子の因に随って生ずるが故に境に用有り。」(『述記』第三本・八十三左)
 五識の対象について少し説明しますと、五識が認識する対象は何かということになります。五識が能縁という主体的な働きであり、対象は所縁といい、客観的なものということです。所縁行相門で云いますと、能縁は=行相というわけです。
 五識はいうまでもなく、眼識(視覚)・耳識(聴覚)・鼻識(嗅覚)・舌識(味覚)・身識(触覚)で、それぞれの対象である所縁は、色(いろとかたち)・声(こえやおと)・香(かおり)・味(あじ)・触(かんしょく)です。そして五識・五境の門となるのが五根という感覚器官なのですね。ですから根・境・識の三つが和合して初めて認識が成り立つといわれているのです。五識で捉えられた対象は本質(ホンゼツ)として現量(ゲンリョウ)なのです。分別を加えることなく、自然に対象と和合して一体なのです。本来のありのままの姿(相)を五識は描いているのですね。現量とは無分別のことです。
 しかし、現実はそうようには働きません。何故でしょうか。ここに表層の意識と深層の意識を結ぶ接点があるのですね。第六意識の存在です。第六意識は「一切法を所縁とする」と云われています。私を取り巻く現象的存在と、非現象的存在のすべてを含んだものを対象としているのです。ここに五倶の意識の中の五同縁の意識が因縁変であるとされるのです。「倶」は同時にという意味になりますから、五識とともに同時に働く意識を五倶の意識と呼ばれています。そして五同縁の意識ですが、これは五識と同じ対象を把握する意識で明了依(ミョウリョウエ)と呼ばれています。五識と同じ対象を明瞭ではっきりと認識する作用をもった意識ということになります。
 もう一つ、定心の所縁です。これは定中の意識に当るのかもしれません。意識独自の働き(独頭の意識)の中の定中の意識のことで、禅定中に起こってくる無念無想の意識、意識ではあるけれども、意識から解き放たれた意識ですね。この意識の所縁とは分別が超えられています、任運に法爾に起こってくるものですから因縁変である。ただその他の因縁変と違うのは、仏道修行の中で起ってくるものということですね。
 「変に必ず用有り。又独頭の意是れ業果心は因縁変の故に亦用あるべし。・・・因縁とは法体実に真の種子によって生ず。真の種子によって生ずれば所変の用有り。」(『樞要』(巻上末・五十二右)と。
 現行は、夢・幻から生ずるということはなく、必ず種子から縁生することを云っているのですね。因縁によって、種子から現行へと変化するものは自然である、「任運の義」と云われています。阿頼耶識が所縁とする種・根・器は任運に阿頼耶識が変化したものということになりますから、問題は阿頼耶識ですね。転識という課題があります。識が転じて智に変わる。パリナーマ、転変ですね、ここに生きることの原点があるのではないでしょうか。生まれ甲斐というか、生き甲斐ですね。転変を明らかにするところに聞法の課題があるのでしょう。行の問題ですね。
 同じことの繰り返しになりますが、種子生現行が任運であれば、現行熏種子も任運ですね。表に現れるのを現行、種子から表に現れる相が現行、現行したものはすぐさま種子として阿頼耶識に熏習されていく。この循環が因縁生といわれているものです。種子については、種子の定義と種子の六義を学びましたし、熏習についても所熏と能熏の四義についても学びましたのでここでは省略します。私は過去の経験のすべてを背負って生まれてきたということですし、その中の一つの性格が生れ持ったもの、本能とか才能とか云われているのですが、これは外的条件ではないのです。「有漏の識の変」ですから、様々な条件の中から道を求める御縁をいただいていくのですね。
 外的条件ではないと云いましたが、運命論とよく似ているんです。ここが紛らわしい所ではあります。生老病死はある意味決められた過程ですから運命なのです。どうすることも出来ません。しかし本当にそうなのかということです。運命というのは、私の思いで生老病死を計っているわけです。計は量と同義語ですが、合体すると計量です。量ることのできないものを量っていることが運命論という考え方になるのではと思いますね。運命とは決められたもの、覆すことのできないものというイメージでしょう。運命だから諦めましょう、というわけです。諦は明らかにするという意味であって、あきらめるということではないのですね。運命に立つ、運命が立脚地になる。ここに仏道の入り口があるんですね。運命は決定ではなく、仏道の入り口だと。
 清沢満之師の言葉が響いてきます。大谷大学教員エッセイ、今日の言葉より抜粋させていただきました。味読してください。

「独立者は常に生死巌頭に立在すべきなり。」
清沢満之『臘扇記第二号』 (『清沢満之全集』第8巻425頁)


 パソコンや携帯電話など、さまざまな情報機器を通して、私たちは世界中の人たちや見知らぬ人とも簡単に繫がることができるようになりました。しかし一方でメールの返事がないと不安になったり、匿名の他者による書き込みで傷つくなどのさまざまな問題も起きています。繫がりやすくなればなるほど、孤立することが怖くなるというのは不思議なことです。

 孤立と独立とはちがいます。「孤立」とは、ただひとりで助けのないことです。「独立」とは、他に依存したり束縛・支配されないことです。独立した自分があって、はじめて他者に依存することなく本当に関わり合うことができるのではないでしょうか。

 明治時代、「独立」をテーマとした二人の思想家がいました。一人は福沢諭吉であり、もう一人は大谷大学の初代学長・清沢満之です。福沢は、学問によって個人が経済的にも政治的にも精神的にも独立自尊であることを目標としました。しかし清沢が求めた独立は、それとはまったく異なり、他人や外の物や自分の思いに縛られない生き方でした。

 上に掲げたことばは「独立しようとする人は、いつでも生と死との切っ先に立って在るのがよいだろう」という意味です。清沢は、生と死といういのちの事実をしっかりと見つめることによって、他人や外の物ばかりでなく、自己の思いにも振り回されることのない本当の自己に向かいあうことができるといいます。

 このことばは、清沢の三六歳から三七歳までの『臘扇記』(ろうせんき)と名づけられた日記のなかに出てきます。「臘扇」とは一二月(臘月)(ろうげつ)の扇を意味し、「必要のないもの」をたとえています。そのころの清沢は、家庭的にもさまざまな問題が山積し、また当時は感染力が強く大変に恐れられた結核を患い、他人の中傷や排除のただ中で孤立していました。しかし清沢は、そのことを縁として本当の独立とは何かを求めました。そして本当の独立のためには自己の信念の確立こそが大切だと改めて気づいたのです。このことばも、その思索のひとつとして記されています。

 私たちは、他人に依存し、その評価に振り回されがちです。一人ひとりが独立した自己であって、はじめて、他人に支配されたり、また他人を支配することなく、ともに繫がりあうことができる、このような清沢の思索に心を寄せてもよいのではないかと思います。

 
 
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初能変 第二 所縁行相門  廃立 (3)

2015-02-26 20:57:22 | 初能変 第二 所縁行相門
 
   2月7日(土)~4月5日(日)
   只今開催中
    特別展
     尾張徳川家の雛まつり

 
 u>「二つには分別の勢力に随って故れ変ず」(『論』第二・三十二右)

 二つ目に分別変が説かれます。分別をして変化するのですが、主体は私です。私がいろいろ考えて分別をして、それによって変わっていく、『述記』には「作意(サイ)して生ずる心なり。」と釈しています。作意は、考える、思考する、思索することです。私の心を働かすマナスカーラという原語からも伺えますが、マナスとは思量する、自分にとって一番都合のいいことを愛して止まない心から生じたものが変化したことを分別変と表しているのでしょう。
 もう一つの意味が、遍行の心所の中の作意の働きです。種子生現行する前の種子ですが、種子は衆縁を待って現行するわけです。衆縁を待つと云う時にですね、私たちは、現に生きて動いているわけです。その作用を担っているのが作意なんですね。常に阿頼耶識に働きかけて、阿頼耶識を目覚めさせ、対象に向かわしめる作用を持った心所であるわけです。

 「作意とは謂く、能く心を驚するを以て性と為し、所縁の境の於に心を引くを以て業と為す。」
 
 「驚する」とは心を始動せしめ、対象に向かわしめる心作用ということです。
 私の認識する対象は多様なわけです。その中から瞬時に何を了別するかを選択しているのですね。それが作意になります。作意を働かしている原動力が第七末那識という自我意識です。ですから作意は自我意識の赴くままに自己関心事や興味のあることに、心を働かせるのです。警覚(きょうかく)の作用といわれます。心の働く時には必ず作意の心法は働いていると云う事になります。
 遍行には五つ数えられます。触・作意・受・想・思ですが簡単に説明しますと、「触」は触境ですね。「境に触れ令むるを以て性と為し。受と想と思等の所依たるを以て業と為す。」 境は外界であり、対象ですが、その対象に触れること、認識を可能としている心所が触の心所なのですね、この触が受・想・思の所依となるということです。触がなかったなら、受も想も思も起こってこないのです。ですから、花を見る、雲を見る、或は音を聞くということが可能なのは、「触」の心所が深層で働いているからなのです。鼻を見るという眼識、音を聞くという耳識、匂いを嗅ぐという鼻識、味わうという舌識、暑い、寒いと感じる身識、意思表示を行う意識もですね、「触」の心所が基盤となっているということなのです。どうでしょうか、当たり前と思っていることがですね、命の働きとして与えられているということなのですね。
 作意は「触」とともに、同時ですね。心を動かしていく働きです。この行為が生れてくる背景にですね、いろんな条件が重なってきます。若い時は視力は1,5位でよく見えていましたが、最近は老眼が進んで老眼鏡を手放せません。何もかも霞んで見えなくなっています。見るという一つの事をとっても、私が見る対象は日に日に変化しているわけです。難しい言葉では、根・境・識の三和合といいます。この三和合が変異に分別して境に触れ令む、ということなのです。だから日に日に同じ道を通って仕事場に向かっているわけですが、同じだと思っているだけなんです、実は違うんですね。絶対化という問題が潜んでいます。
 そして「触」が所依となる受・想・思です。受は受け入れる、領納することです。「順と違と倶非との境の相を領納するを以て性と為し」といわれています。対象に触れたことを領納する。すべてですね、取捨分別は行わないで、すべてのものを受け入れる、これが受の性です。「愛を起こすを以て業と為す」といわれています。業は何かと云いますと、執着です。同時にです。ここでもですね、三法展転因果同時ということですね。受は執着を起こすわけです。三受相応とか、五受相応といいますが、苦・楽・捨・憂・喜・捨という、触れることにおいて受け入れるということが起こってくる、その時に五受という具体相が表面化してくんですね。
 次に「想」ですが、順次に起こってくるということで説明されますが、説明です。実際は同時なんです。言葉によって言葉を離れた世界を表現しているわけです。受までは、はっきりとしてた具体相はないわけですが、「想」に至って、認識の具体相が出てきます。僕はパソコンの前に座っているわけですが、パソコンである、椅子である、キーボードである、参考書である等々ですね。これを「境に於て像を取ると以て性と為し」といわれています。業は何かといいますと、名言です。言葉を以て認識するということですね。「種々の名言を施設するを以て業と為す」ということです。
 五番目が「思」の心所です。行動を起こすとか、意思決定ですね。私たちは意思決定も、意識で行っていると思うんですが、そうではないということを教えています。一言でいえば条件内存在です。意思決定があっても条件が整わなければ行動を起こすことは出来ません。「心をして造作せ令むるを以て性と為し」と。意思決定は、善・悪・無記のいずれかに決定する作用ですね。そして具体的な行動に移していくわけです。
 そしてこれらの五遍行が第八阿頼耶識と倶に働いているということです。意思決定をし、具体的な行動として動くのは阿頼耶識の具体相なのです。何をいっているのかといいますと、私たちは阿頼耶識を所依、依りところとして現実生活を送っているということなのです。本来は、我執を超え、法執を超えて「いのち」は与えられているということなのでしょう。
 阿頼耶識と共に生まれ、阿頼耶識と共に生かされているということになりましょうか。善導大師は『観経疏』序文義に「既に身を受けんと欲するに、自の業識を以て内因と爲し、父母の ・血を以て外縁と爲す。因縁和合するが故に此の身有り。」と、内因と外縁の因縁和合に深い恩をいただいておられます。自分は自分の生まれたいという意思決定により、父母の力を借りて生み出されてきたんだという自覚です。
 その事の意味する所は、迷いの世界に自らが望んで、自らの業を背負って彼岸の世界を明らかにする為に生まれてきたんだということでしょう。いつの間にか経済優先になって本来のあり方を喪失してしまっているわけですが、亡き父は最晩年に、我が身を以て生きるとはこのようなことだ、と教えてくれました。夢幻は覚める時が来る、その時に自分の人生は豊かであったと言えるのか、「勉、答えられるか」。「俺の人生は何であったのかわからん。早くお迎え来んかな」としみじみ語っていました。終戦から日本復興の為に粉骨砕身してこられた父の言葉には重みがありました。私を育てるために一生懸命であり、それが生き甲斐で違いなかったのでしょうが、人世も終焉に近づいた時に、父から出た言葉が「虚しい」ということだったのです。
 何故、そういうことになってしまったのか。そのことに答えているのが分別変です。襟をただして学んでいかなければと思います。またまた脱線してしまいましたが、大事な所だと思いましたので書き綴ってみました。
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初能変 第二 所縁行相門  廃立 (2)

2015-02-25 21:27:30 | 初能変 第二 所縁行相門
   

 「変」と云うことについてですが、本識である阿頼耶識が生ずる時ですね、生まれた瞬間です。世界の生起に関するすべてを背負って生まれてきた。分別は働いていないように思うのですが、本能的に分別が働いている、ここが迷いの原点になるのでしょうか。「自体生ずる時、内に種と及び有根身を変為し、外には器を変為す。」と『論』には説かれていましたが、この「変」について『述記』は「一切不離識」という立場から、「識体が転じて二分に似る」という定義から、自体分の具体相ですね、自体分が見分と相分にとに変化して現れるということを述べています。さらに『述記』は「 變有二種 一者生變。即轉變義。如次前説。變謂因・果生熟差別。等流・異熟二因習氣名因能變。所生八識現種種相。是果能變。故能生因説名能變 二縁名變。即變現義。是果能變。且第八識唯變種子及有根身等。眼等轉識變色等是 此中但言縁故名變。」(変に二種有り。一には生変。即ち転変の義なり。・・・変と云うは、謂く因と果との生熟する差別なり。等流と異熟との二因の習気を因能変と名づく。」生変とは、転変ともいい、阿頼耶識の中の習気(種子生現行の種から現行する過程を習気と云う)から現行識としての阿頼耶識と七転識が生ずることを表しているのです。これが因能変にあたります。能変に因と果の二つあるわけですが、先ず因能変がいわれ、次に果能変が説かれます。
 「所生の八識の種々の相を現ずるは是れ果能変なり。故に能生の因を説いて能変と名づく。
  二つには縁ずるを変と名づく。即ち変現の義なり、是れ果能変。」
 二つ目の意味は、縁変です。変現とも云われています。因能変において生じた八識は、それぞれ見分と相分とに変化し、見分がそれぞれの対象である相分を認識する、ということなのです。
 「且く第八識が唯だ種子と及び有根身等を変じて、眼等の転識が色等を変ずる是れなり。」(『述記』第三本・三十七左)
                執受
     阿頼耶識   {
                器

                眼根
     眼識     {        }根・境・識の三和合
                色境

     乃至

     末那識   ―――  阿頼耶識の見分を縁じて自の内我と為す。
 
 前に説かれていたことですが、これを前提として、「有漏の識の変に略して二種有り。」を考えます。外人からの問いに答えてのことですが、迷いの心は阿頼耶識が変化して現れる、変化することは、変えて現していくということです。変えてというところに末那識が隠れているのです。自分の心で変えて、自分の心で変えたものを対象化して認識を起こしている。それが迷いだと。

                因縁変  ― 任運の義 (三法展転同時因果)
     変      {
                分別変

 「有漏の識の変に略して二種有り。一つには因と縁との勢力に随って故れ変ずる。」(『論』第二・三十二右)
 
 因縁変は任運生だと。種子が衆縁を待って生起するのは、考えて起こってくるのではなく、自然に阿頼耶識は見分・相分という認識対象を変現する。それが因縁変だと。いうなれば、私と云う限定された個人は、私にまで届いた命のすべてを引き受けて存在している、その存在性は分別できるものではない。私の思いで量ることのできないものである。これが有漏の識の因縁変と云われるのであると云われます。迷いそのものが因縁変であるということですね。ここに転ずる世界を求める縁があるわけです。  (つづく)
 
      
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初能変 第二 所縁行相門  廃立 (1)

2015-02-24 21:10:07 | 初能変 第二 所縁行相門
   

 「何が故に」と入る前に、阿頼耶識の所縁、対象は種・根・器であると前回までに述べてきました。このところで、太田久紀師は『抄講』の中で次のようにまとめられています。紹介しますと、
 「所縁は対象。阿頼耶識は何を対象tするのか、それを一言でまとめれば、種子と有根身と器界であると。種子は自分の中に溜め込まれており経験と素質です。有根身は身体、それから私共の周囲を取り囲んでいるのが器界であります。これが阿頼耶識が対象とするところである。自分の経験を頼りにしてものを考えていく。自分の身体というものを深い意識の底で私共は意識している。器界は器物の世界、物質の世界は外にあるように思っているけれどもそうではなくて、私共の心の中で捉えられたものである。・・・阿頼耶識という非常に深い心の世界で、それを今阿頼耶識と呼んでいるわけですが、私共は知らず知らず無意識のうちにこういうものを対象としている。これが阿頼耶識の所縁であると。ですからここに机なら机、黒板なら黒板というものを見ます時に、私達が直接見るのは眼識で見るわけです。ところがその前に唯識は阿頼耶識が机というものを捉えているというのです。阿頼耶識が捉えたものを私共が目で見ていく。こういう二重の構造で私達はものを見ている。・・・机ぐらいならいいんですけれど、例えば今お釈迦様がいらしてここでお説法をなされたとしましょう。その時お釈迦様の声を聞くのは耳識であります。耳識、耳で聞くわけです。ところが耳で聞く時、それと同時に阿頼耶識で聞いていく。阿頼耶識で聞いていくということは、仏様の教えをそのまま正直に耳で聞いているんではなくて、深い潜在的な意識の世界で、自分の都合に合わせて聞いているということです。これが二重構造になるのです。自分の都合に合わせて聞いていく。そして自分の都合に合わせて聞いたものを私共は聞く。これは二重になって聞いている。自分の都合で聞きますから、お釈迦様の教えを受け乍ら、教えをそのまま真っ直ぐに頂くのではなくて、自分の思いで曲げて聞いてしまう。お釈迦様の教え、仏様の教えを聞く時に私共は知らず知らずのうちに自分の都合、自分の先入観、自分の主観、そういうもので捉え乍ら聞いていく、それが唯識だと。この『成唯識論』の最後に仏様と出会うところがあります。勉強して、修業をして、そして仏様に出会います。その時一体どういう形で出会うのか、この時にも私の心で出会うのです。私の心で仏様に出会う。私のほうに、もし仏様の教えを頂く力が無かったならば、たとえお釈迦様の目の前で聴聞しましても、その教えはこぼれてしまう。『成唯識論』の最後の所でそういうことが説かれております。最後までお前の心だと。お前の心でお釈迦様の教えを聞くんだというのです。自分の心の中で曲げて聞くと今申したんですが、その曲げ方です。それを「変」という字で唯識は表します。・・・能動的に外の世界を変えていく、それで能変というのだと。」(p80~82)
 
 能変の変の「変」について二つの「変」あると説かれてきます。一つは因縁変、もう一つは分別変です。先ず問い、外人からの問いになります。
 「何が故に此の識(第八識)は心(心王)と心所等とを変似して所縁と為ること能わ不るや。」(『論』第二・三十二右) 
 「述して曰く。等とは即ち不相応行と及び諸々の無為と無法とを等取して問いを為す。(『述記』第三本・八十二左)
 第八阿頼耶識は心王(心)と心所(心の働き)を自分の対象としないのか、という問いかけです。これは阿頼耶識の所縁は種・根・器であると云われていることへの疑念ですね。ここでは心心所は阿頼耶識の対象ではないと云っているわけですが、私たちは普段から自分の心を見て、心の動きに従って生活をしていますから、心も阿頼耶識の対象となっていいのではないかというのですが、散乱麤動する心をとらえることが出来るのでしょうか。一瞬たりとも同じ心は存在しないのですね。常に変化している、それが因縁変か分別変によると説かれてきます。

 「心をもって心を求むるに不可得」 慧可
 
 「達磨面壁す、二祖雪に立ち、臂を断つて云く、弟子、心未だ安んぜず、乞う師安心せしめたまえ。
磨云く、心を将(も)ち来たれ、汝が為に安ぜん。
祖云く。心をもとむるに了(つ)いに不可得なり。
磨云く、汝が為に安心せしめ。竟(おわ)んぬ。
(達磨は少林寺に留まって日々面壁坐禅をしていました。
そこへ修行中の二祖がやってきました。
彼は雪降る中に長く立ち、自ら臂を切断し、達磨に差し出して言いました。
「私は、心が未だ不安であります。どうか私のために安心させてください。」と。
すると達磨は、「それではおまえさんの心をここへ持ってきなさい。安心させてあげるから。」と答えました。
二祖は、「その心を探しているのですが、とんと見つかりません。」と言いました。
達磨は「さあ、もうちゃんと安心させてあげたよ。」と言いました。)

  (つづく)
 
 
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初能変 第二 所縁行相門 第三・総料簡(8)

2015-02-23 20:37:36 | 初能変 第二 所縁行相門
  
 日々出会いの大切さを感じながら、いつでも流されてしまう自分がいる。あぁあの時はよかったな、なんであんな失敗をしたんやろ、と後悔の念ばかりが先立つのですが、昨日はいい出会いをいただきました。この出会いの為にはどれほどの御縁をいただいたのでしょう。ありとあらゆる働きが御縁となって「眼を覚ませ」と私を支えていてくださる。そんな言葉に出会いました。 作者は大原千里さんです。

 先日来、業力所変と定力所変について考えているのですが、今日の画像の言葉は端的に業力所変の意味を表しています。業力所変は決定したことなんです。変えることは出来ない事実なんですね。私たちは取り返すことのできない生き方をしています。何か大切なものを置き忘れたから、引き返して取りに行こうとすることは出来ない。業は業として受け止めていかなければならない。業を背負って生きている、生きていることは業を清算しながらも、また新たな業を作りだしている。どこで踏みとどまったらいいのだろう。人生を見直しながら変えることは出来るのだろうか。そんな問いかけに答えているのが、定力所変、ということなのでしょう。定の力に由って、世界が変わることを意味しています。同じ環境、同じ境遇であっても、受け止め方が変化するのです。環境が変ったり、境遇が変ったりするのではありませんが、すべては仏法に出遇う御縁であったという気づきを得るのでしょうね。それが定の力であると云われていることだろうと思います。自分を脅かすものは、自分であったという頷きですね。
 気づきを得るまでは、すべては外に問題があって自分は犠牲者であるという認識です。それが実は外に問題があるわけではなかった、すべては自分が、自分の思いが、自分さえよければいいと云う物差しで量ってきたんだというところに、自らの業は自らが背負っていかなければならないんだと手が合わさっていくことが出来た。ここが定力所変の意味するところでしょう。
 業力と定力とを併せて、略していうならばこの識(第八識)の所変の境(対象)は何かという質問が出されています。
 「謂く、有漏の種と十の有色処と及び堕法処の所現の実色となり。」
 と答えられていますね。有漏の種子と十の有色処(五根五境)、つまり眼根・耳根・鼻根・舌根・身根と色境・声境・香境・味境・触境です。そひて根と境が相応して識が生れてきます。眼識乃至身識です。そして次ですね。「及び」とあります。これは意根と法境です。此処に意識の問題が出てきます。堕は摂められると云う意味です。法処に摂められる、ということを堕法処といっています。また法処に摂められる色という意味で、法処所摂色とも云われています。これは五根五境に摂められるものではなということを表しています。
 定というのは第六意識によって起こってくるんだ、定は法処に摂められるものである。対象はなんであるかというと、所現の実色であって幻のようなものを対象としているのではない。本はあるではないか、スマホもあるではないか、実に有るものを対象として意識は起こっている、けっして架空のものを対象として起っているのではないと喝破しています。実色を対象として、見方が変わる、同じ経本をみても、ただの本と見るか、人生の指針としての教本と見るか、坊主BARでもお写経の会がありますが、取り組む姿勢は專注不散、心を一点に集中して経典に向かいますね。そうしますと世界が変わるんです。一枚の紙が輝き、硯が、筆が輝いてくるんだと思います。
 僕にはよくわかりませんが、一度お聞きしたいと思いますけれども、大原さんも一枚の紙に向かわれ筆を走らされる時は、ただの紙、ただの筆ではないように思います。そこには願いがあるからですね。「どうか、本当のことに触れてください」という自分の思いを超えて願ですね。願が私を動かすんだと思います。
 次回は、仏法以外の外道からの質問に答えて、阿頼耶識の所変の変について、阿頼耶識の所変は見・相二分ですが、体の変は能変であるということ。そこに因縁変と分別変という二つのあり方がある。阿頼耶識は有漏の識、迷いの識であって、迷いを成り立たせているのに因縁変と分別変があるということが説かれてきます。随分ややこしい所ではありますが、少しづつ見ていきたいと思います。
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古希

2015-02-22 18:02:38 | 古希を祝ってもらう
 古希の祝辞を数多く寄せていただきましてありがとうございました。12日は大坂坊主BARで、14日は千林のカドモツ食堂で、昨日は森小路のMobでそれぞれの趣向を凝らして祝っていただきました、身に余る光栄です。ありがとうございました。また、本日は法友が長年温めてきた連載ものの『アポロンの雄鶏』が刊行する運びとなりました。そんな余韻に浸りながら、二日酔いの身を癒す為にお昼は鴫野の名店仙酔庵でお蕎麦(二八手打ちそば)をいただき、大阪城公園・梅林を散策してまいりました。記念に写真を貼り付けて我愛を満足させたいと思います。お付き合いいただければ幸いです。
 
 
 

 
 

 (『アポロンの雄鶏』FBよりシエアさせていただきます。)
 
 平成27年 2/22 (日)
 
 企画から丸一年、ようやく本日
 
 『アポロンの雄鶏』01刊行です。
 
 心というはたらきについて
唯識の観点から河内勉氏がおはなしをしてくださいます。
ユイシキと言われても、それは聞き馴染みのない言葉かもしれません。
古臭く、しかつめらしい学問のように感じられるかもしれません。
それがどこか遠い別の、わたし以外の心の問題を説くのなら
それはそうかもしれません。

“ちょっと簡単”に、難しい唯識を。
他ならない自己のその難解な心の問題を
氏の紡ぐ連載の中に見つめてゆければとおもっています。

続いて真宗大谷派僧侶の松本曜一氏は看取りの観点からおはなしをされます。
死生観と云うものは様々ですが、氏は看取りから、死から生を眼差して此の課題を観察されます。
看取りと聴くと、死に直結し死に際した態度のように捉えがちですが
死に様から今此処の生き様をさぐり訪ねてゆく、死の行儀と其の死に呼応する行儀の全体性からわたしたちが生を見詰めてゆくと云うのは、実に生気に充るアプローチです。

死に生を教わる、死に問い生に応えていく姿勢を氏の円かな語りに訊ねたいとおもいます。

どうぞお手にとっていただければ幸いです。

お近くの書店、コンビニエンスストアには無いので
お気軽にお問い合わせ下さい。
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初能変 第二 所縁行相門 第三・総料簡(7)

2015-02-20 22:10:29 | 初能変 第二 所縁行相門
 
   もうすぐ雛祭りですね。 
 今日は総料簡の第二段になります。所変の境について説かれます。業力所変・定力所変の境となるものは如何。
 「略して此の識の所変の境を説かば、謂く有漏の種と十の色処と及び堕法処(ダホッショ)の所現の実色(ジッシキ)となり。」(『論』第二・三十一左)
 以上、業力所変と定力所変を説いてきたが、業力と定力を併せて、総合して略していうならば、第八識所変の境、第八識が対象とするものはなんであるのかという問いですね。
 つまり、有漏の種子である。無漏の種子は第八識所変の境ではないということ。無漏は仏の識所変であるということです。第八識の体は能変と云われていますが、所変の相分が境です。これが内外に分かれて説かれていました。種・根・器ですね。この種は何を指すのかというと、有漏の種子である、と。そして十の有色処(ウシキショ)。色を有する処で根と対象ですね。、即ち五根・五境です。有色処は十二処なのですが、物資的ではない意根と法境とを除いた物質的な十の処(眼・耳・鼻・舌・身の五根と色・声・香・味・触の五境)を有色処と云われているのです。
 また眼・耳・鼻・舌・身識の対象である色・声・香・味・触の五つは、欲望の対象となって心を汚すところから塵に喩て五塵(ゴジン)とも云われています。そしてこの五塵は内外に通じ、五根は唯だ内のみであり、唯だ実境を縁とすると説かれます。
 次の堕法処の堕は「是れ摂の義なり」と云われていまして、摂めると云う意味ですね。法処に摂められる色で法処所摂色(ホッショショショウシキ)とも云われます。これは定力によって起こってくるものです。これに五つありまして、(1)極略色 (2)極逈色(ゴクキョウシキ) (3)受所引色 (4)定所生色 (5)遍計所起色(ヘンゲショキシキ)の五つで、『対法論』第一及び『瑜伽論』巻第五十四等に説かれています。「極略色と極逈色はただ第六意識分析して極微に成るが故に」。分析(ブンシャク)とは、色を、それを構成する要素に細かく分けることを云いまうが、色の最小単位を極微と云われています。木端微塵とはこういうことを表しているのでしょう。もうこれ以上細かく分けることは出来ない単位ですね。そして極微は、第六意識によって事物を分析して心の中に仮に作りだされた影像にすぎないと主張します。
 定は第六意識によって起こってくる、五根・五境に摂められるものではないということですが、どこに摂められるのかと云いますと、法処ですね。第六意識の認識対象が法処であり、実色を対象としている。幻のようなものを対象としているのではないということになります。 (つづく)
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初能変 第二 所縁行相門 第三・総料簡(6)

2015-02-19 23:37:34 | 初能変 第二 所縁行相門
 昨日の投稿に墨林師がコメントを寄せてくださいました。いじわるですね。でも僕にとっては大事なことを仰っていただいています。コメントの内容は、
 「滅罪の問題はどのように理解できるのでしょうかね。滅罪の主体は我ではなく、我を超えた世界によって成立するのでしょうね。罪の概念はどこにあるのでしょうかとも思います。やはり仏智疑惑でしょうか?」というものです。 
 僕は教理的にはお答えするつもりはありません。それは教学的には遥かに先輩ですし、在家止住の私が詮索する事柄ではありませんので差し控えますが、墨林師は私にとっては誤魔化しがきかないほど僕の半生を知っておいでになります。
 その過程も折を見て話さなければならないと思います。僕は、罪と云う問題を主体的に取り上げられたのは親鸞聖人が初めて明らかにされたのではないのかと思っています。確かに『論註』には八番問答が設けられていますので、そこで罪の問題は説かれているとは思いますが、「出離の縁なし」と言い切られたのは宗祖親鸞聖人であろうと思います。罪と云う問題は、為した行為の結果として罪の問題が取り上げられているのではないと思っています。墨林師は教誨師を長年勤められていますので、罪の問題についての所論は僕の出る幕ではありません。ただね、贖罪ということがありますね。罪は償ったらジエンドだと。その時の罪は客観視されたものですね。それも大事なことではあると思いますが、客観視された罪の問題は、自己弁護だと思いますね。これは僕自身の事ですがね。罪は償っても消えないものがある。「廻心懺悔」といい、「廻心皆往」と云われますが、それは如来にしていえることですね。私の立場からですと、傲慢きわまりないことです。罪は消えるものでは無く、仏法に出遇うことに於て鮮明に、罪という問題がクローズアップされるのではないでしょうか。僕はいうなれば、いつ後ろから刺されてもおかしくない生き方をしています。またそれでいいと思っています。それだけのことをしてきたのですからね。僕がこのようなブログを書くことは許せない、或はよく平気で書けるよね、と思っておいでになるかたも少なからずおられると思います。
 僕はね、こんな僕でも親鸞聖人に出遇うことに於て「無茶苦茶な人生でも、生きることには意味があるんだ」と教えていただいた。このことは本当に有り難いことであったと思っています。已造業は消え去ることは出来ません。消え去ることは出来ないということも教えていただいたことであります。忘れてはいけないんですね。罪は償ったらそれでいいというのは間違いだと思います。それは我愛ですね。我愛は我愛の為にはなんでもやります。本当はこんなことはやりたくないけれども世間が悪いという責任転嫁から発生してきます。教えに出遇っていないからですね。
 滅罪と仰っていただいていますけれども、滅罪はあってはならないこと、しかし、罪を背負っては生きていくことが出来ない存在が有情と云う存在でしょうね。そこに如来の働きがあるのでしょう。僕は、僕自身の生き方の中で、僕のような生き方をした者であっても、人として生まれさせていただいた意味を知ることが出来るんだということに、如来の大悲をいただかせています。僕からの立場ですと、恥を忍んで生きている、なんでやなん、僕だけが悪いのかという弁護が先に立ちます。
 教学的には仏智疑惑ですが、僕は仏智疑惑を知る為には三十年の歳月を要しました。まあ訓覇先生から「長い道のりやったな。よう戻ってきた」と仰っていただいたことが如来の声として大事に大事にさせていただいています。
 僕はまだ行動をはじめてはいませんが、自分の思いから人生を破滅に追い込んでおられる方々がたくさんおいでになると思っています。自己破産者もはっきりをした数は知りませんが、裁判所にはなんとか人生をやり直したいと云う思いで駆けつけておられる方々がいられます。法に触れて裁かれることはないのですが、法に触れているんです。そのことのもっている意味を知ることの大切さを教えているのは真宗と云われる仏教であると思いますね。僕は、僕の生き様の中で、真宗に出遇うことがなかったならば、人生は退転するんだということを伝えていきたいと思うんです。
 唯識でいうなれば、ものすごくうがった言い方かもしれませんが、阿頼耶識は無漏識(アーナーダ識)が有漏識に働きかけている相であると思うんです。そこに気づきを得た時に「慚愧心」をいただくことができるんだろうと思います。いただいた慚愧心は如来の心ですね。如来が背負ってくださいます。僕からは背負うことのできない慚愧心ですね。そこに慚愧心を頂くことができるんであろうと思いますね。
 我愛が見えるか見えないか、我愛が見えたらと云ったら、それもまた我愛である。どこまでもどこまでも我愛しかないという気づきが帰依三宝という姿勢を生み出してくるんであろうと思います。
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