唯識に学ぶ・誓喚の折々の記

私は、私の幸せを求めて、何故苦悩するのでしょうか。私の心の奥深くに潜む明と闇を読み解きたいと思っています。

第二能変 所依門 (143) 結び

2011-07-30 17:29:12 | 心の構造について

P1000453 鶴見緑地にて P1000454        P1000452    

「依彼転」の示す意味を汎く説く。

 「此の能変の識には、三の所依を具せりと雖も、而も依彼転という言は、但前の二を顕せり。」(『論』第四・二十六右)

 (この第二能変の識、即ち第七識には三つの所依を備えているといっても、本頌の「依彼転」という言葉は、ただ前の二つのみを指し顕しているのである。)

 「彼」 - 第八識を指す。

 「彼依」 - 第八識と第八識中に保持された第七識の自種子に依って、ということ。

 「依」 - この中第七識の自種子が第七識の因縁依、現行第八識が第七識の増上縁依(倶有依)である。

 『論』の示す意味は「依彼転」の「依」は因縁依と増上縁依(倶有依)のみを指しているということであるという。

 これまで「依」については等無間縁依を含め三つの依の説明がされていました。依全般に説明されていましたのでこれが「傍論」になるわけです。しかし、第七識の依は因縁依と増上縁依(倶有依)と等無間縁依の三つであるにも関わらず、「依彼転」の「依」は初めの二つのみを指しているのは何故かという質問が出されます。

 「問、何が故にか唯だ彼の初の二依のみを説く。」(『述記』第五本・十九左)

 「此の識の依と縁との同なることを顕さんが為の故なり。」(『論』第四・二十六左)

 (それは、この識の依と縁とが同じであることを顕そうとするためである。)

 「依彼転」の示す第七識の依は因縁依と増上縁依(倶有依)の二つのみであることの理由を説明しています。三つの理由が述べられる内、この科段は初の理由になります。

 「述して曰く、此れに二の解有り。」(護法の解釈と安慧の解釈)

 護法の説明は総聚を以て分別すべきものではないとし、二つの解釈がなされます。

  •  第一の解釈 「依と縁とが同じである。」。依と縁と同じ因であることを顕す。(「縁」は因縁依・「依」は倶有依) 第七識の「縁」も「依」も同じ第八識であると。第七識の因縁依は種子識である第八識であり、種子を保持する第八識自体分は倶有依である為、「依と縁との同なることを顕さんが為の故」と説かれている。 
  •  第二の解釈 「種子は識の自体に離れざるが故に亦名づけて縁と為す。即ち是れ正義なり。」 「依」とは因縁依と倶有依の二つを指す。「縁」とは所縁と理解する。第七識の所縁が第八識の見分であることを指す。「依」も「縁」も総聚でいえば第八識であることを顕そうとしていることになる。

 この第二釈が正義であるということは、後に第七識の所縁を説くところで、「第七識の所縁は第八識の見分である」という正義に依って云う。従って、前滅の第八識自識は第七識の所縁とはならないので、「第八識に依って」という「依」から等無間縁依が除かれるのである。

 安慧の解釈は次回に譲ります。 

                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                         

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第二能変 所依門 (142) 結び 

2011-07-29 20:43:09 | 心の構造について

 「自下は第三に下を生じ総じて結す。」(『述記』)

  (まとめて結ぶ。「依彼転」が示す第七識の所依は因縁依と倶有依であることを明らかにする。)

 「傍論は已に了んぬ、応に正論を弁ず応し。」(『論』第四・二十六右)

 (「此の識の依に因って、遂に広く分別するを以て傍論と名く。」これはすでに述べ終わった。今まさに正論を述べることにしよう。)」

 第二能変の所依を明らかにする(彼の所依には三種あること)しているのが、これまでの説明になりますが、これらはすべて傍論であるという。そして今まさに正論を述べようとしているわけです。

 「述して曰く、此の識の依に因って、遂に広く分別するを以て傍論と名くなり。諸識の所依なりというを総じて頌を説いて曰く、

       五には四あり、 六には二有り、 

       七と八には一つの倶依なり

       及び開導と因縁とあり

       一々に皆二を増す。

問、上に依を説くに遂に三種あるが如し。此の頌の中に依彼転と言うは、何れの依に約して説く。」(『述記』第五本・十九右)

 諸識の「依」についての護法の正義を述べる。

  •  五識には四つの倶有依がある。(同境依で五根、分別依で第六識、染浄依で第七識、根本依で第八識)
  •  第六識には二つの倶有依がある。(一は意根であり第七識、二は根本依で第八識)
  •  第七識と第八識は互いに倶有依となる。
  •  「及開導因縁 一々皆増二」というのは五識と第六識、第七識、第八識に、さらに依として開導依と因縁依の二つを加えるということ。

 「一々に皆二を増す」ということは五識には四つの倶有依があるが、その他に開導依と因縁依の二つを加え、六つの所依があるということです。従って六識には四つの所依があり、第七識と第八識にはそれぞれ三つの所依があるということです。 

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第二能変 所依門 (141) 開導依 その(46) 護法の正義を述べる(20) 

2011-07-28 23:20:48 | 心の構造について

 第三に護法の正義を結ぶ

 「故に自類を以て依となすと云う、深く教理に契えり。」(『論』第四・二十六右)

 (上来述べてきたことを以て正義を結ぶ。ゆえに自類を以て開導依とする。これは深く教と理にかなうものである。)

 「述して曰く、第三に正を結するなり。故に知る、八識の自類を以て依と為すと云う。深く教・理に契へり。並びに違すること無きが故に。)

 護法正義

  •  因縁依 - 種子
  •  増上縁依(倶有依) - 五識の倶有依は五色根と第六識と第七識と第八識であり、所依の種類の別が有る。五根は五識に対し同境依・第六識は分別依・第七識は染浄依・第八識は根本依である。 第六識の倶有依は第七識と第八識であり、第七識の倶有依は第八識である。そして第八識の倶有依は第七識となる。
  •  等無間縁依(開導依) - 五識の開導依は五識それぞれの前念の自識・第六識は前滅の第六識・第七識は前滅の第七識・第八識は前滅の第八識で、八識各自の自類を以て等無間縁依となる。

            ―     ・     ―

 今日、三重県員弁の「なんだかんだ亭」主宰の松村さんから『聞光』第八号が送付されてきました。その中で改めて教えられることは訓覇先生のことです。宗務総長を務められていた時は、厳しく、そして、とても怖いという色眼鏡で以て勝手に偶像を作り上げていましたが、本当はとても思いやりがあり、優しく、気遣いの細やかさがあった人であったということです。「お前が何も喋らんで、俺が喋ったんや。俺んとこの門徒やで、ひいきしやったやぞ!」と言われた事が忘れられません。」と述懐したおられる増田友子さんの言葉が印象的でした。

 「生まれる」ということですが、「生まれる」ということはやはり頭で考えたことですね。私は、「否応無く生まれてしまった」そして今日まで命を永らえている。ただ何となく意味も無く時が過ぎ去ったのであろうか、という問があるんです。生まれたからには生まれたことの意味が有ると理由付けをしたいんです。無理やりです。しかしそこには無味乾燥とした砂漠しかありません。そしてその砂漠を見つめることなく、パラダイスを夢見て我が身勝手に生きているのです。そして苦しんでいる。苦しんでいる理由が我執だと。簡単にいうけれども、我執がわかったら仏でしょう。我執という言葉が独り歩きをして「我執なんだ」と理由付けをし、聞法の理由付けにしているのではないのか、と思うんです。それよりも、さりげなく「ひいきしてやったんやぞ」という言葉に菩薩の優しさを感じますね。訓覇先生が怖いというのは自分の本当の姿を見透かされるからでしょうね。先生の前へ着飾っていっても、すぐに裸にされてしまうからでしょう。それが怖いのですね。裸になりたくない自分がそこにいるのです。私も裸になりたくありませんから思いっきり着飾っています。着飾った上に仏法という鎧を身に纏っているのですから始末がわるいです。安田先生は「手をはなせ」と教えてくださっていますが、手を離せないんです。怖いんです。「手を放したら落在するのでしょうが」、と理屈をつけます。それでもまた今日も鎧を身に纏って書き込みをつづけます。『聞光』ゆっくり読ませていただきます。     合掌

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第二能変 所依門 (140) 開導依 その(45) 護法の正義を述べる(19) 

2011-07-27 21:52:26 | 心の構造について
 
「言は総じて意は別なり、亦相違せず。」(『論』第四・二十六右)
 (『瑜伽論』の記述は言総意別によって説かれている。従って護法説に相違するものではない。)
 「述して曰く、(『瑜伽論』巻第五十二)彼の論は言は総じて六識に遍ずれども、意は乃ち六識の自類を説いて各々相望するなり、亦理に違せず。即ち総じて意の言く、若し諸識生ずといはば、意は決定せる識を取って一切を取るにはあらず。今総じて言うが故に諸識生ず等といへり。『摂論』第一に一法としても未だ達せず未だ遍知せずと云う意の如し。」(『述記』第五本・十九右)
 『瑜伽論』の記述は異類の識が等無間縁や開導依になるという意味で説かれているものではなく、その真意は前滅の眼識は後滅の眼識の等無間縁となる、乃至。自類の等無間縁の意味で説かれているのである、という。従って『瑜伽論』の記述は護法説に相違するものではないといい、難陀等或いは安慧等の主張を論破するものである。
 『述記』の「如一法未達未遍知意者」とは、
  「無着は八を小の為に説かずということを明かす。無性は外の経を以て難を為すを挙げて、而も為に之れを通ず。今略して引いて云はく、彼の本論(『摂論』巻第一)に、復次に何故に、声聞乗の中には、此の心を阿頼耶識と名づけ、阿陀那識と名づくと説かざるや。此れは深い細の境の所摂なるに由るが故なりと云へり。無性は(『無性摂論釈』巻第一)外の経を引いて難ずるを牒して云はく、「我一法として未だ達せず、未だ遍知せざる等を説かずと説くが如しとは外難の意を釈して云はく、頼耶は深細にして小の為に説かずんば、即ち小乗の人は第八を見ざるべし。云何んぞ惑を断じて阿羅漢と成るべけん。何の所以とならば、世尊の説くが如し、我一法として未だ達せず未だ遍知せずして阿羅漢と成るとは説かず(達は通達、無間道・遍知は解脱道、すべての煩悩を断じたと遍く完全に知る智慧)。我は唯説いて一切の法に於いて已に達し已に遍知して方に能く惑を断じて阿羅漢と成ると言う。・・・・問、別を以て総を詮わすという其の意云何。答、総は是れ別の真実性なりということを顕すが故に。・・・・」(『演秘』第四末・八左)
 「今『瑜伽』の文も亦復是の如し。意は前の各自の別識を後の各自の別識等無間縁と説くが故に。総処に於いて説く。若し彼六識を此の六識が為に等と云う。此れは是れ別意の言声の総処に於いて転ずるが故に。又此に「言は総じて意は別なり」と云うに三有り。
 一に前の第三を会して云く、若し此の識の無間に諸の識決定してせいずと云うは、若し此の識と云う及び諸識は皆是れ総じて語と云へり。意は各別の八識を説く。此の総じて声を挙げたり。諸の識は互いに縁と為ると許すと謂うには非ず。
 一は云く、第三の意別を解す。後の識は定んで生ずと説きて、無学最後心を簡とし、然も総の諸の識の生ずる声を挙げたり。
 一は云く、前の又「此六識為彼六識」を会す。意は別に各自の六識を説かんと欲して彼の総の声を挙げたり。意は別の六に目たり。此の六の言に総じて八識を含めて言総意別と謂うに非ず。難とならば、(『瑜伽論』巻第五十二)五十二の初に諸の心・心所の無間に後の諸の心・心所生ずと云うを挙げて、通じて八識を詮ず。重ねて復た此の六つと彼の六つと言うは、三乗によって通じて説けり。故に八に通ぜず。」(『了義燈』第四末・二十四右)
 上記のように「この六識は彼の六識の等無間縁と為す」と説かれるなど、異類の識が等無間縁になるというように解される文言がありますが、まとめて述べればこのような表現になるのであって、真意は別であると解されます。
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第二能変 所依門 (139) 開導依 その(44) 護法の正義を述べる(18) 

2011-07-26 20:57:44 | 心の構造について

P1000446  『瑜伽論』(巻第八十五)の記述は言総意別(言は総じて意は別なり。論の表現はまとめて説かれているが、その真意は別である。)による。

 『瑜伽論』に説かれている文、記述をを示す。

 「『瑜伽論』に、若し此の識の無間に諸識決定して生ず、此れを説いて彼の等無間縁と為すと説き、又此の六識を、彼の六識の等無間縁と為す、即ち此れを施設して意根と名くることは、」(『論』第四・二十六右)

 (「『瑜伽論』に「この識の無間に諸識が決定して生じる。これを説いて彼の等無間縁とすると説く」と。「又、この六識を彼の六識の等無間縁とする。即ちこれを施設して意根と名づけれ」と説かれているのは、」)

 『瑜伽論』巻第八十六の記述

  「(「復た四縁あり、能く諸行をして展転し流転せしむ。何等をか四縁と為す。一には因縁、二には等無間縁、三には所縁縁、四には増上縁なり。即ち此の四縁に略して二種あり、一には因、二には縁なり。因は唯だ因縁、余の三は唯だ縁なり。又因縁とは、謂く諸行の種子なり、等無間縁とは、謂く前六識等及び相応法等無間縁に滅し、後の六識等及び相応法等無間に生ずるなり。・・・」

 『瑜伽論』巻第五十二の記述

  「復た次に云何んが等無間縁なる。謂く此の諸の心・心所の無間に彼の諸の心・心所生ず、此れを説いて彼が等無間縁と為す。若し此の六識彼の六識の等無間縁と為れば即ち此れを施設して名づけて意根と為し、亦は意処と名づけ、亦は意界と名づく。」

 前段において「殊勝の増上縁に依って説く」とのべられていました。そのことを具体的に示す為に『瑜伽論』の記述を以て説明します。

 この『瑜伽論』の記述は異類の識が開導依となるということの文献的根拠を示すものですが、護法はこれらの記述は開導依を示す記述ではないと次の科段に於いて説明します。

 「述して曰く、八十五巻に四縁を広く分別する義有り。正しく此れと同なり。大論第五と『顕揚』十八との如きに云く、此の心・心所等しく無間に乃至決定して生ず。阿羅漢の後の心は即ち此の縁に非ず、生ぜざるを以ての故に、卒爾心の後に定んで意識生ずといへり。又五十二には又此も六識等を意根と名づく等と説けり。皆諸識相望して縁と為せり。何が故に今の時に別識を縁と為さずと云うや。」(『述記』第五本・十八左)

 聖教にはすべて諸識が相い望んで等無間縁となると説かれているが、何故に汝、護法は諸識を等無間縁とすることはないと説くのであろうか。

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第二能変 所依門 (138) 開導依 その(43) 護法の正義を述べる(17) 

2011-07-25 22:00:25 | 心の構造について

P1000439_3                                                                                                          蓮の花も今が見頃でしょうか。少し遅いかもしれません。「咲くやこの花館」前の蓮の花です。昨日の夕刻に北東にある「北東池」に愛犬とともに散歩に出かけました。当然蓮の花は閉じていましたが多くの蕾を凛とさせ明日の開花を待っている様子でした。

                 P1000441_2 Hasu0721_3_3                  昨日と今日は「天神祭り」です。今日の本宮祭は船渡御と大川での天神祭り奉納花火がPM7.00~PM9.00に打ちあがりました。

              -     ・     -

 唯識に学ぶ  ・  「第五に、これより以下は諸教と相違するという批判に答える。」

 「問、『解深密』(巻第一)等に五識は意の引に由ると、大論の第三(『瑜伽論』)に五識は意の尋求心を引いて生ぜしむとす。『仏地経』と『荘厳論』とには平等智の初めて起こるとき第八が初て浄を得る時とを説き、『摂論』(第三巻)には染汚に依ると、『対法』には悲願に依る等の如し。皆、諸識の互に相引て生ぜしむることを云う。此れ豈異類を依とすと教える文に非ずや。今何ぞ翻じて解するや。」(『述記』第五本・十八右) 

 護法の説に対する批判は、聖教を引いて論証するわけです。聖教は『解深密経』巻第一・『瑜伽論』巻第三及び巻第七十六・『仏地経論』・『荘厳論』・『世親摂論』・『無性摂論』・『雑集論』を引用し異類の識を以て開導依とすることができるという根拠を示し護法説は聖教に違背し誤りではないのか、という。この批判に答えて次のように云う。

 「然も聖教の中に、前の六識いい互に相引起こす、或いは第七・八は六・七に依って生ずと説けるは、皆、殊勝の増上縁に依って説けり、等無間には非ず、故に相違あらず。」(『論』第四・二十六右)

 (聖教の中には「前六識は互いに相い引き起こす」、或いは「第七識や第八識は第六識や第七識に依って生ずる」と説かれているのは、すべて殊勝の増上縁に依って説かれているのであって、等無間縁に依って説かれているのではない。そうであるから、護法の説く自類を以て開導依とするということは聖教に違背するものではない。)

 「述して曰く、此の前に引ける所は皆、殊勝なる増上縁の中に依って、相引生するをば名づけて無間とす、と説けり。実は是れ此の等無間縁には非ず。故に彼に違せず。」(『述記』第五本・十八右)                                                       

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『唯信鈔文意』に聞く (43) 第五講 その(4)

2011-07-24 17:39:35 | 信心について

P1000440_2  今日も真夏日ですね。ここ鶴見緑地では多くの子供たちが朝早くから水遊びに興じていました。

 暑い暑いと愚痴をこぼしているのは大人だけかもしれません。子供たちは暑さと共存して自然と水遊びを楽しんでいます。

 あるがままの姿、それを南無阿弥陀仏と表現したのでしょうか。南無阿弥陀仏とは言葉ですが言葉を縁として、あるがままの自己に目覚めよという呼びかけを内実としているのでしょう。生きとし生きるものすべて、存在のすべてに呼びかけている如来の名告りですね。

               -    ・    -

       『唯信鈔文意』に聞く (43) 第五講 その(4)

                     蓬茨祖運述 『唯信鈔文意講義』より

 ですから、十方の諸仏がみなわが名を称揚・讃嘆しなければ、ほめたたえて、わが名を称えなければさとりを開かないという誓願を立てられたのだと。いつかというたら、いつかわからない。そんなことはいつかわからない。いつかわからん昔である。そうして、その誓願が成就をした、と。いつ成就したかということになりますと、誓願を設けられたときに成就したわけです。

 誓願を設けられて、永劫の修行をして、そして十劫の昔に正覚を成就せられたと、こう説いてあるのですが、それは従因向果に合わせたのです。従因向果に合わせなければ分からんからでしょう。因から果に向かうという、そういう人間の常識に当てはめなければ理解ができませんから、永劫のあいだ修行して、そして弥陀の名号に万善万行を摂めて、一声称えた人に満足が摂まる、成就するということを誓われて、そしてそれが出来上がったのが十劫の昔であると、こういうふうに『大経』に説かれているわけであります。

 これは、従因向果の頭しかないものですから、お説きになるときはそういうふうに説かなければ説明にならないわけです。するとこんどは説明にひっかかるわけです。永劫のあいだ修行をしたということにひっかかったり、それからどういうわけで一声称える念仏に万の徳が摂まるなどということがありうるのか、そういうことが出来るのかというようなことにひっかかったりするのです。いずれも本願にひっかかったわけではない。自分の常識にひっかかっているのです。自分の常識にひっかかるのでございます。常識上で理解しようとして理解できないからひっかかるのです。

 本願が永劫の修業をして成就したということは、何をいおうとするのかといえば、十七願というものを設けられたということが、すなわち名号の成就である、と。つまり「一乗大海」というものが成就しておるということをいわれるのでございます。つまり、仏教というものは、もともと一乗の教えであり、したがって男女貴賎・大小の区別なく、みな等しく成仏するに足る教えなのだということでございます。いまさら人間の常識で考えるような、一を積んで十にして満足するようなものじゃないんです。ですから、十七願から因に向かってくるわけです。因に向かうわけです。因に向かうというのは、いわゆる因は衆生でございます。衆生に向かう。衆生を利するために向かうということを十七願をもってあらわされる。十七願をもって仏教というものの意義をあらわされておるわけです。こちらからですと、因は衆生から仏に向かうんです。衆生から仏に向かうわけでしょう。果は仏果です。そうすればまずここにどうしても自利。どうしてもこれは自利になるわけです。自らさとる。自らの煩悩を解脱する。自ら利する。まず自分を利するということです。そうすれば当然、声聞・縁覚という道に入らざるを得ないのです。人のことをかもうておったら仏道は求められません。西行法師みたいなものです。

 西行法師が無常を感じて出家しようとした。そうしたら妻子がまとわりついた。妻子のことをかわいそうと思ったら出家なんかできやしない。それよりも自分がいま無常を逃れようとする方が大事だ。急いでも無常を逃れねばならんと思うた。妻子をけとばして出家をしたというわけです。

                     (つづく)

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第二能変 所依門 (137) 開導依 その(42) 護法の正義を述べる(16) 

2011-07-23 22:35:14 | 心の構造について
 「問。何時にか依と為る。過去は無なるが故に。」(『述記』)
 「彼いい先に滅せんとせし時に、已に今の識に於て為に開導してしが故に、何ぞ煩わしく異類を以て開導依と為す。」(『論』第四・二十五左)
 (彼(前滅の識)が先に滅しようとする時に、すでに今の識に於いて開導しているので、どうして煩わしく、わざわざと異類の識を以て開導依と為すのか。)
 「先に滅しようとする時に」というのが「今の識に対して開導している」というのが護法の問いに対する答えですね。「念仏もうさんとおもいたつこころのおこるとき」・「すなわち摂取不捨の利益にあずけしめたまうなり」です。前か後かという問題ではないのです。即時です。「おこるとき」すなわち「あずけしめたまう」という利益があるということです。ですから「異類を以て開導依とする」必要がないわけです。信心には条件は無いということです。無条件、それが信心です。私たちはどうしても条件をつけたがるのですが、それがはからいですね。分別です。いつでも尺度は自分にあります。自分に尺度がありますから無条件というわけにはいかないのですね。しかしそれは誤りであるということも、また唯識から教えられます。
 「述して曰く、曾現在に住して滅せんとせし時に、已に能く依として今の時の識に於て開導と為すが故に、彼、設い若し去らずんば後に生ずることを得ざるが故に、前の理と教とに由って故に知んぬ異類の識を仮って開導依と為さずということを。」(『述記』第五本・十七左)
 
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第二能変 所依門 (136) 開導依 その(41) 護法の正義を述べる(15) 

2011-07-22 23:08:09 | 心の構造について

 間断する五識も亦同様である。(前五識が間断し再び生起する時の開導依についての護法の説。)

 「間断する五識も応に知るべし亦然なり、自類心が中に於て隔たることをすること無きを以て、無間と名づくるが故に。」(『論』第四・二十五・左)

 (間断する五識もまた同様である。自類心が中間で隔てることがないことを以て無間と名づけるのであある。)

 間断後に生起する五識は前滅の五識を開導依とすると、護法は説きます。

 「述して曰く、第六の意を以て同法と為すが故なり。但し自類の心が中に隔たることを為すこと無し。故に無間縁と名づく。」(『述記』第五本・十七左)

 無間とは時間的に間断のないこと。「一刹那に五識身が生じ已って、此れより無間に必ず意識が生ず」・「五識の無間に生ずるところの意識は、唯、過去の境を縁ず」と。

 五識が滅した後、再び五識が生起する間、異類の識がその中間で介在しないことを無間といい、前滅の五識を五識の開導依と為すことは、とりもなおさず無間を縁として生起するということです。ここも八識倶起・八識倶転を真実として説いているのです。

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第二能変 所依門 (135) 開導依 その(40) 護法の正義を述べる(14) 

2011-07-21 21:18:08 | 心の構造について

 「自下は第四に後に起こるときには、他に由るべしと云う難なり。」(『述記』)

 (その四は、前六識が生滅した後に生起する時には異類の他識を開導依になるはずであるという批判に答える。)

 「問う、五位の無心より出る時の如きは、六は七・八先より有るに由るが故に生ず、何ぞ第六いい七・八を以て依と為さざるや。」(『述記』)

 護法に対する問いが出されます。『三十頌』第十六頌・「意識常現起 除生無想天 及無心二定 睡眠與悶絶」と。五位無心の時は意識は消滅しているわけですが、その時にも第七識・第八識は意識の底で活動し続けているのです。そして五位無心から出る時は、また第六意識が生起し活動すのです。そしたら再び活動する第六意識は何を開導依とするのか。一旦消滅した第六意識を開導依にすることは出来ないはずであるので、意識の底で活動をし続けていた第七識・第八識を開導依としているはずである。にもかかわらず、異類の識を開導依とすること、即ち第六識が第七識・第八識を以て開導依と認めないのか、という疑問です。これに答えるのが自下の科段になります。)

 「無心の睡眠と悶絶との等き位には、意識断じぬと雖も、而も後に起こる時の彼の開導依は、即ち前の自類なり。」(『論』第四・二十五左)

 (無心の睡眠と悶絶などの位には意識は断絶するといっても、後に第六識が再び起こる時の第六識の開導依は断絶する前の第六識(自類)である。)

 護法の回答は前滅の第六識が再び生起する第六識の開導依となる、という。

 「述して曰く、彼の位は断じぬと雖も而も後に起こる時の彼の開導依は、唯已前に初に定に入らむとせし時の自類を以てのみ依と為す。『対法』第五に説くが如し。」(『述記』第五本・十七左)

 「論に無心等位と云うより即前自類と云うに至るは、『対法』も此れに同じ。彼の論の第五を按ずるに、等無間縁というは、謂はく中に間隔無きこと無間に等しきが故にといへり。・・・是の故に一相続の中に於て、前心を後心に望むるに、中間に余の心の隔つこと無きが故に是れ等無間縁なりと云へり。・・・」(『演秘』第四末・七右)

 『対法論』第五 - 『雑集論』巻第五(大正31・714b)

 これは、一刹那前の前滅の第六識が後念の開導依となるのと同じことで、意識が消滅し、再び五位無心より出定する時には前滅の第六識が開導依となるのである、と。即ち前の自類を以て開導依となる、というのが護法の開導依説であり、これが正義でああるわけです。

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