唯識に学ぶ・誓喚の折々の記

私は、私の幸せを求めて、何故苦悩するのでしょうか。私の心の奥深くに潜む明と闇を読み解きたいと思っています。

第三能変 第八倶転門 (3) 随縁現 (3)

2016-11-30 21:29:36 | 第三能変 第八倶転門
  

 昨日の八識と生縁についての説明になります。どんな縁があれば起きるのかを説明するところです。
 「眼識の場合は九つの縁が必要なのです。「空」は空間です。「明」は明るさ。空間と明るさが無かったなら眼識は働きません。眼と対象の間にある一定の空間がないと見えません。また闇では見えませんか、明るさが必要です。「根」は眼根、「境」は見る対象。「作意」は見ようとする働き。見ようとする働きがないと見えません。「第六」は意識。眼でみるのは色彩だけです。判断力があるのが意識ですが、黒板に何か書いてあるのを認識するのは前五識です。書いてあることに分別を加えるのが意識です。五具の意識と呼ばれています。そして意識を支えているのが染汚性をもった第七末那識ですし、その底に第八識が動いています。
 第八識が具体的に意識を動かしてきます。ものの見方そのものが、過去の経験を踏み台にして動いてくるのです。そして現在の現行が種子として、未来の果を決定してきます。
 生きるって、ほんまに厳しいですね。油断が自分の人生を形成しているといっても過言ではないようです。
  
 「縁と云うは謂く作意と根と境との等きの縁ぞ」(『論』第七・九左)
 (意訳) 諸識が生起する縁とは作意と根と境とそれぞれの識生起の等きの縁に依るのである。眼識は九縁・耳識は八縁等という衆縁所生という。 
 
 その理由を述べるます。
 「謂く五識身は内には根本識に依り、外には作意と五根と境との等きの衆縁の和合するに随いて方に現前することを得。此れに由って或る時には倶なり或る時には倶起ならず。外縁の合することは頓・漸有るが故に」(『論』第七・九左)
  (意訳) 五識身は内には阿陀那識に依り、外には作意(能令心驚覚といわれ、遍行の一種・深層の阿頼耶識のなかに種子として眠っている心を驚かし喚起して目覚めさせ、目覚めた心を対象に向かわしめる心作用である)と五根と境との等きの衆縁の和合するに随って識は現前する。いろいろな条件が重なって動くときも有るが、動かない時も有る。五識は縁の具不具に由って現前することは多少有るのである。
 
 「述曰。五識は内には本識に託すと云う、即ち種子なり。外には衆縁に籍るに由る。方に現前することを得と云う。種子は恒なりと雖も、外縁の合するに頓漸あるを以て、五を起し、或いは四・三・二・一の識は生ずるが故に。或いは五より一に至って生ずること不定なり。故に或いは倶、或いは不倶なり。七十六の解深密に説く。広慧、阿陀那を依止と為す。建立と為すが故に。若し、その時に一の眼識の生ずる縁、現前することあれば、即ち此の時に於いて、一の眼識は転ず。乃至、五の縁が頓に現前すれば、即ちその時に於いて、五識身は転ず等と説けるが故に。五識は縁の具と不具とに由るが故に、生ずること多少あり。或いは倶なり、倶ならざることもあり」(『述記』第七本・四十九左)
 『論』に「内・外」と言われていますが、どのような意味があるのか、ということは、『演秘』に答えられています。
 「答。二釈あり。一に云く。十二処に約すして、本識は意処の所摂なるが故に、内と為す。作意は法処なり、故に外と名くるなり。 二は唯、第八識の若しは種、若しは現は生ずる根本なるが故に、独り名けて内と為す。所余の諸縁は根本に非ざるが故に皆、名けて外と為す。論は後に依って説く」(『演秘』第六末・二左)
 内には阿頼耶識を種子とし、外には縁をまって生ずる、ということですね。縁は多いのです。前にも説明していますが、眼識は九縁の和合によって現前します。私が今ここに存在しているという事は衆縁が和合して「今、ここに」というご縁をいただいて存在しているのです。私の意思だけでは動かないのですね。条件が変われば、どのようにでも変わるということです。私たちは外の出来事について批判を繰り返しますが、縁をいただいていないだけのことで、縁が整えば人を千人殺すことも可能なのです。ただ人がよくて殺すという行為に及ばないということではないのです。よく考えてみる必要があります。

 ブログを綴っていまして、一番学ばしていただいているのが僕自身なのですが、一番理解していないのも僕なんです。分かったつもりでいるのですが、わからんですね。
 第三能変で語られる前六識の所依は、根本識に依止(所依)しているのだと。その根本識とは阿頼耶識ではなく阿陀那識である。
 阿陀那は第八識の異名です。七つ挙げられていましたが、阿陀那は「種子と及び諸の色根とを執持して壊せざらしむるが故に。」このように説かれていました。
 アーダーナの音写ですね。意味は維持する、保持すること。第八識は種子と有色根とを保持し、維持している。つまり、命の相続の面から阿陀那識というのだと。
 そうしますと、前六識は、私の身体や人格を維持している働きに依止しているといえます。私の中で生き続けている種子を因縁依として、現行の第八識を増上縁依(倶有依)中の共依として起こっている、動いているわけです。
 眼・耳・鼻・舌・身・意の六つの心は阿陀那識に依って、依り所をして動いている。そして、この六つの心は「根本識(阿陀那識)を以て共と親との依と為す。」共と親を依り所としている。
 共は共通、前六識は阿陀那識を共通の依り所としている。
 六識といえばですね、なにか当たり前のように、朝、目を覚ましますと働いて有るものだと簡単に思っていますが、目覚めは「覚める」という、眠りから覚めるということは、眠りの中に第八識が動いているということですね。第八識を依り所として前の六つの心は動いている、この点から「共」という言葉で押さえられている。
 私の意思を超えた世界の出来事の中で、命は支えられているのですね。
 そうして、眼を覚ました時に、いろんなことを見聞きします。僕でしたら、先ずスマホを見ます。テレビをつけます。コーヒ飲もうか、朝マックにしようかと悩みます。これらは自の種子から生み出されてくるのですね。経験値を踏み台にしてスマホを見たり、テレビを見たりしている。学びもそうです。
 今日も学びのお誘いがありましたが、月末ということもあってお断りをしました。これも経験なのです。断ったということが種子として熏習されます。また学びは学びとして熏習され、学びの深さにつながっていきます。
 つまり、種子が直接的な依り所をして六識が動いているのです。これを「親」という言葉で押さえられているのです。
 前六識でもって、私の生活全般を言い表しているのですが、私の生活そのものが、私の第八識を離れてはないということなんです。そして現在しているのは、自らの種子を依り所として現われているのです。
 なにか大事なことを教えているように思いますね。
 認識が起るということは、自の第八識から起こり、それが認識する、認識されるという時に、自の種子を依り所として世界が展開されていくのでしょうね。
 このことは、真宗的にいえば、回向の世界ですね。廻向の世界を、自分の世界に置き換えてしまうのが自力という執心ですね。唯識では遍計所執性と押さえているのです。
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第三能変 第八倶転門 (2) 随縁現 (2)  

2016-11-29 21:27:21 | 第三能変 第八倶転門
  

 「五識は縁に随って現ず」のところを読んでいます。
心の動くのは随縁現である、縁に随って動くということです。「衆縁(シュエン)の和合するに随って方に現前することを得」ということです。
衆縁は、さまざまな縁という、補助原因をいいます。また、「縁によって生ずる」、生縁(ショウエン)ともいわれます。ものごとが生ずる因の総称です。
「心心所法の起ること四の縁に籍る」わけです。
 四縁とは、因縁・増上縁・等無間縁・所縁縁の四つで、諸識が生起するには所依と生縁が不可欠なのです。
 所依は因縁依(種子依)・増上縁依(倶有依)・等無間縁依(開導依)の三種の依と説かれます。
 その理由は、「依」は広く四縁に通ずるけれども、「所依」と云う場合には、四義を具さなければならないといわれています。
 •(1) 決定の義ー或る時は依られ、或る時は依られない  という不定のものは所依とはいえない。
 •(2) 有境の義ー認識される対象をもっていること。
 •(3) 為主の義ーよく主となるものでないといけない。
 •(4) 心心所をして自ら所縁を認識するものでないといけない。
 の四つです。
 
 前六識は第八根本識の中の各自の種子を因縁依とし、現行の第八識を増上縁(倶有依)とする。
 ・ 前五識の倶有依  
 (A)不共依―同境依―五根を云う。五識と同じく現前の境を認識するから同境と名づく。 
 (B)分別依―第六識をいう。
 (C)染浄依ー第七末那識をいう。五識が有漏となるのは末那識が染汚であり、五識が無漏となるのは末那識が浄であるからであり、出世の末那といわれます。
 (D)根本依―第八識をいう。五識はこの根本識に依って生起するからである。
 (B)・(C)・(D)は共依と名づける。五識は皆、共に所依と為すからである。
 
 ・ 第六識の倶有依   
 (A)不共依―第七識をもって第六識の倶有依と為す。相順(そうじゅん=互いに一致していること。因と果の関係)と計度(けたく=分別すること。三世にわたる事柄を思考すること。第六識と第七識が計度分別を為し、前五識と第八識には計度分別は無い)の故に。
 (B)共依ー第八識をもって第六識の共依と為す。
 
 ・ 第七識の倶有依―根本依の第八識のみ
                      }
 ・ 第八識の倶有依―末那識のみ       
 この二つの識は常に間断なく任運にして一類である。(任運は分別に由って起こらないこと。 一類は無始以来変わることなく相続していること。)
 開導依(等無間縁依)とは、ある心が滅してそこに余地を開くことによって次の刹那の心が導かれて生じるから、一刹那前に滅した心を開導依という。「開導」は「開避引導」の略。前滅意をいう。諸の心心所は皆この依に託し、これを離れては生起しない。

 これは何を言い表しているのかといいますと、後念の心心所を引導して障りなく生起させる前滅の心なのですね。意根を指します。ですから開導依なくしては心心所は生起しないのです。 
 護法の正義 - 開導依の三義
 「開導依とは、謂く有縁の法たり、主たり、能く等無間縁と作る。これ後に生ずる心・心所法に於て、開避し引導するを開導依と名く」(『論』巻第四・新導本p169)
 •(1) 有縁の義 - 心心所に限定され、色・不相応・無為等を簡ぶ。
 •(2) 為主の義 - 心王に限られ、心心所法を簡ぶ。
 •(3) 等無間縁の義 - 異類と他識と倶時の心心所と及び、後時の心を前心に望むことを簡ぶ。
 と説明されます。また開導依は必ず等無間縁であるけれども、等無間縁は必ずしも開導依でないといわれます。この項については第二能変の所依門に詳細されています。
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第三能変 第八倶転門 (1) 随縁現 (1)  

2016-11-28 22:02:47 | 第三能変 第八倶転門
  

 有所依とは「所依を有していること。心が生じる依り所である感覚器官(根)を有していること」なのです。
 所依に三種有り(心が生じる三つの因)、と説かれていますが、(1) 因縁依(種子依)・末那識の依り所 (2)増上縁依(倶有依) (3) 等無間縁依(開導依)といい、自己はどう生きているのか、そしてどう生きなければならないのかと云う問題が、この「依」という問題なのですね。自己と関わりのないところで述べられているのではなく、主体的に自己存在の在り方を問うているのです。我執の問題です。阿頼耶識から末那識が生まれ、その末那識が阿頼耶識を対象として自分を汚していく。これが循環していくわけですね。これが所依の問題です。
 ここにまたですね。根本識に依るということがありますけれども、また五識が五根に依り、意識が意根に依るということもある。倶有依ということです。「依」に根本依として四依がいわれます。(1) 同境依 (2) 分別依 (3) 染浄依 (4) 根本依で、五識のいずれかが生じるための四つの所依である。 第六識は阿頼耶を根本依、末那識を染浄依としているのです。
  ―  第三能変 第八倶転門 (1)  ―
  ―  随縁現 (1)  ―
 「随縁現と云う言は、常に起こるものに非ずと云うことを顕す」(『論』第七・九左)
 (意訳)五識は縁に随って縁ず、ということは、常に現起するものではないということを顕しているのである。
 「五識は縁に随って方によく現起す。これは常に生ずるもにに非ずということを顕す。縁は恒にあらざる故に。第六意識もまた縁に随って方に現ずと雖も、時に縁は恒に具す。故に言わざるなり。・・・この五識は多く間断するに由るが故に問、何者を縁とするや」(『述記』第七本・四十八左)
 五識は常に起こらない、ということは、縁に随っていろいろなことが起こってくるということですね。縁がなければ起こらないが、縁が起きると様々なことが起こるということになります。いつも働いているというわけではないということです。「何者を縁とするや」と。どんな縁があれば起きるのか、という問が出されます。
 内に種子をもっているけれども、縁がなければ現起しない、種子だけで生ずるのではなく縁をまって生ず、と。
 『歎異抄』第十三条の親鸞聖人のお言葉が心に響きます。「故聖人のおおせには、「卯毛羊毛のさきにいるちりばかりもつくるつみの、宿業にあらずということなしとしるべし」とそうらいき」(真聖p633)と。
 「縁」の問題は次の科段で述べられますが、ここは内に阿頼耶識を種子とし、外には縁を待つ。縁を待って生ずる、といわれています。
 「縁と云うは、謂く作意なり。根と境との等きの縁ぞ」(『論』第七・九左)
 「眼識は肉眼に依るは九の縁を具して生ず。謂く空と明と根と境と作意と五は小乗に同なり。若し根本の第八、染浄の第七、分別倶の六、能生の種子を加えるならば、九の依をもって生ず。若し天眼ならば、唯、明、空を除く。
 耳識は八に依る。明を除く、
 鼻舌等の三は七に依る。また空をも除く。至境を方に取るを以ての故に。第六識は五の縁に依って生ず。根は即ち第七なり。境は一切法なり。作意と及び根本の第八なり。能生は即ち種子なり。五の依を以て生ず。
 第七、八は四縁を以て生ず。一に即ち第八、七識なり。倶有依となる。根本依なし。即ち倶有依となすが故に。二に随って取るところを以て所縁と為す。三に作意、四に種子なるが故に、四縁あるなり。
 或いは説く。第八は四に依る。第七は三に依る。即ち所依を以て所縁と為すが故に。これは正義による。
 然るにもし等無間縁をとれば、即ち次の如く、十、九、八、六、五、四の縁を以て生ず。即ち所託の処をみな名づけて縁と為す。故にこの別あり。故に論に等という」(『述記』第七本・四十九右)
 『述記』の説明をまとめますと、次のようになります。
•眼識(九) 空・明・根・境・作意・第六・第七・第八・種子
•耳識(八) 空・〇・根・境・作意・第六・第七・第八・種子
•鼻識(七) 〇・〇・根・境・作意・第六・第七・第八・種子
•舌識(七) 〇・〇・根・境・作意・第六・第七・第八・種子
•身識(七) 〇・〇・根・境・作意・第六・第七・第八・種子
•意識(五) 〇・〇・根・境・作意・ 〇・ 〇・ 第八・種子
•末那識(三)〇・〇・根・〇・作意・ 〇・ 〇・ 〇 ・種子
•阿頼耶識(四)〇・〇・根・境・作意・〇・ 〇・ 〇・種子
  深浦正文『唯識学研究』下・p336より引用
 前五識は縁がなければ起きない。縁あれば起こり、縁なければ起こらないということですね。条件が整わないと働かないのです。例えば眼識ですと、九つの条件が整わないと眼の働きは作用しないということです。条件が整えば、否応なしにはたらくのです。空とは空間です。明は明るさですし、根・境・識が和合してものを見るという動きが出てきます。そして、作意です、見ようとする心の働きです。それがなにものであるかを判断するのが第六意識です。その第六意識は深層の第七末那識を所依としていますし、第七末那識は第八阿頼耶識を所依・所縁としてわたしの意識構造が成り立っている。
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 「虚仮はなれたるこころなり」
「虚仮」というのは、真実に対しての虚仮です。「真実の信心なり」という「真実」という言葉から「虚仮はなれたるこころなり」と。虚仮というのは何かといえば、ふたつならぶことであり、ふたつならべるこころなのでしょう。それを虚仮、と。その虚仮を離れたこころ、だからふたつならぶこともない。二人が並ぶということもないわけですね。一人で充分という意味になるわけです。
「『虚』は、むなしという。『仮』は、かりなりという」
「虚は、むなし」。先程申しましたように、むなしい。他の人と並べての一人はむなしいですね。多くの中の一人というのはむなしい、それから「仮は、かりなり」という、一人というその一人、一つというその一つは、二つ、三つと数えられるうちの一つのことですね。ですからそういう場合、相対的にいえば、一というのは二に対する一と。これは仮なのですね。その場合は仮という意味が、出てきます。絶対という意味では、一ということもいえないわけです。ですから一という時には、二、三、四に対する一ですから、仮という意味があるわけですね。二に対する一は仮なんです。二に対しない一、これが「実」なのですね。二に対しない一というのは、もはやそこに二、三、四、五というものはない。どこへいったのか。どこへもいきはしないまま、仮であった、と。二、三、四も仮であったということです。仮に立ててあったのだという時には実の中に皆おさまって、実と一つになってしまうわけですね。」(蓬茨祖運述)
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第三能変 第七所依門 (2)

2016-11-24 22:27:46 | 第三能変 第七所依門
  

 ― 所依門 ・ 根本識に依止す ―
 「已に六識の心所相応することをば説きつ。云何が現起する分位をしるべき。
 頌に曰く、
 根本識に依止す 五識は縁に随って現ず
 或いは倶なり 或いは倶ならず 濤波の水に依るが如し
 意識は常に現起す 無想天に生るると
 及び無心の二定と 睡眠と悶絶とをば除く」(『論』第七九右)
 「根本識に依止す」と述べられています。依止とは所依のこと。杖託(じょうたく 一 杖の力に依る)の義にして所依を云う、といいます。
 根本識とは、染浄の識のために依となる第八阿陀那識を指します。これが前六識の所依なのです。
 この所依に二つあり、
 一つには種子の第八識に依る(種子頼耶)因縁依といわれます。転識が生じる為の因となります。
 二には現行の第八に依る(現行頼耶)増上縁依中の共依です。転識が生じる為の縁となります。
 阿陀那識は第八識の別名です。「或いは阿陀那と名く。種子と及び諸の色根とを執持して壊せざらしむが故に」(『論』巻三・八識別名)、阿陀那識の名の由来は『解深密経』によります。
 「阿陀那識は甚深細なり、一切の種子は暴流の如し」(『論』巻三・第三教証)。八識別名を立てるのは、第八識の特徴によって名前が変わるといわれています。“阿陀那識は生命を持続する、人格を持続していく、という角度から捉えたときに阿陀那識という。根本識というのは、私の人格や生命を持続していく角度から捉えたものなのです”(大田久紀氏)
 表層の前六識は何を根本として働くのかというと、阿陀那識から生じるものであるという見方ですね。「五識随現縁」といわれますように、心の働きは「倶或不倶」なのです。生じたり生じなかったりするわけです(有間断)。そして前五識の場合には「縁に随って現起す」といわれ、第六意識は「常に現起す」といわれています。
 「根本識に依止すとは、この句は下の第六識にも通ず。二は倶に第八識に依止するが故に。その共依を顕す。然るに依止に二あり。一に種子の第八識に依る。即ちこれ因縁の親しき依なり。阿毘達磨経の中の無始時来界なり。二に現行の第八に依る。即ちこれ増上縁依なり。即ち達磨経の中の一切法等依なり。六転識は、みな本識の種子と現行とに依って、現起することを得というなり。五十一に、阿頼耶識あるに由るが故に、五根を執受す。乃至、この識あるに由るが故に、末那あることを得。第六識はこれに依って転ず等と説くは是なり」(『述記』第七本・四十六右)
 所依門とは「根本識に依止す」の一句で、前六識は根本識である第八識を因として生じるということを表しているのですね。根本識から転変してきた心ということなのですね。前六識は転識といわれます。この転識されて認識が成り立っている世界が、私が認識している世界なのです。
 阿陀那の名の由来は『解深密経巻第一』の「心意識相品第三」に述べられています。唯識転変の由来を示して迷悟の文斎を明らかにしています。「此の識、身に於て随逐し、執持するが故なり。・・・阿陀那識を依止と為し、建立と為すが故に、六識身転ず。謂く、眼・耳・鼻・舌・身識と意識となり。・・・瀑流に似たる阿陀那識を依止と為し、・・・一切種子は瀑流の如し」と。(国訳大蔵・第八・p17)
 「無始時来界 一切法等依 由此有諸趣 及涅槃証得」は『摂大乗論』第一(大正31・382)に『大乗阿毘達磨経』の詩句の中で説いている、と述べられ、『論』」巻第三に第一教証として引用されています。(この心の領域は、始めのない過去以来、すべての存在の依りどころであり、これがあるからこそ、生命の六っの種類(六道)の差異があり、また涅槃を得るということもある。もろもろの存在は、アーラヤによって存在する。それは、一切の種子ともいうべき情報集積体であるがゆえに、アーラヤと名づける」)
 表層の前六識は阿陀那識を依止(所依)として働くのですが、この前六識は共通して第八識を所依となすのです。深層の一番深い所を依り所として前六識は働く。こういう意味で「共」というのです。「共と親との依」と云われていますから、全部共通ではないのですね。「種子の第八識に依る」、種子が直接的な依り所となって前六識が働きますので、それを「親」というのです。次の『論』の科段に詳しく説かれてきます。
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第三能変 第七所依門 (1)

2016-11-23 21:30:38 | 第三能変 第七所依門


『成唯識論』巻第六に入ります。善・煩悩・随煩悩・不定と記されていきますが、大方の説明は前にしています(善については2009年10月12日の書き込みより、煩悩については2010年1月7日・随煩悩については2010年1月21日よりの書き込みになります。)ので、省略させていただいて、『唯識三十頌』第十五頌から学んでいきたいと思います。
 『唯識三十頌』 第十五頌
  依止根本識 五識随縁現
  或倶或不倶 如濤波依水
 (五識・意識は阿陀那識に依る。種子は因縁依・現行は増上依。五識は種子を内縁とし、作意・根・境等を外縁として生ず。或いは五識と倶なり。或いは一・二・三・四の識と倶ならず。濤波の水に依るが如く、五識は第八識に依るのである。)
 八識の依止と所依について大事なことを教えています。
 五識・意識 ― 阿陀那識に依止す。
 種子 ― 因縁依
 現行 ― 増上依
 
 第三能変 所依・倶転・起滅門を明かす。
 第三の能変を九門を以って分別(区別)していますが、初めの六門は論第五より此に至るまでに解説し終りました。今此の次の頌に三門を明かにします。第七所依門と第八六識倶転門と第九起滅分位門とであります。
「すでに六識の心所と相応することをば、云何が現起する分位を知るべきなり」(『論』第七九右)
 前段までに、六位五十一の心所法を述べてきました。次に第十五頌・第十六頌において、意識起滅の分位を明らかにしてきます。心所法の精密な分析が終って、三能変の識について、五識及び意識の現起の分位(起滅の分位)が説かれるのです。『論』には「云何が現起する分位をしるべし」といわれています。
 『述記』には「前の第五巻(十七・新導本p211)より已来は第三能変を解す。彼の第二の頌(論五、二十一、心所相応門・新導本p215)より已後、これに至る已前は、六位の心所と倶なることを明かし訖る。今は、第七門の六識の共依と、第八門の六識の倶転と、第九門の起滅の分位とを明かす。これに二頌あり。これは前を結んで後を生じ、問いに寄せて徴起す。次に正しく答し、後に本文を釈す」と、成上起下の義を明らかにしています。問いは「唯、現起の分位ありと雖も頌中の義に所依と倶転とあり、現起の相は顕なり。依と倶とは隠なるが故に」と、心が起きるのは何故か、ということを明らかにするのである、と云われています。
 「根本識に依止す 五識は縁に随って現ず或いは倶なり或いは倶ならず 涛波の水に依るが如し」(第十五頌)
 「意識は常に現起す 無想天に生るると 及び無心の二定と 睡眠とをば除く」(第十六頌)
 心が起きるのは、どのようにして起こるのか、という問いに答えて、心が起き、働くのは縁に依って起きるのである、ということを二頌で以て明らかにするところです。
 五識は縁に随って現じ、意識は常に現起するという。五識は縁に随って、ということですから、起きる時も有り、起きない時も有るということです。しかし意識は常に起きているといわれます。ただし生無想天・無心の二定・睡眠の時は除かれるといいます。ともかく、前五識と第六意識とを分けて現起の分位というものが説かれているわけです。
 「依止根本識」が第七所依門で、六識の所依は根本識に依ることが明らかにされています。
 「五識は縁に随って現じ、或いは倶なり。或いは倶ならず。濤波の水に依が如し」が第八倶転門になります。ここでは、五識が倶であるか、不倶であるかは縁に依ることが明らかにされ、
 意識の方は、生無想天・無心の二定・睡眠と悶絶を除いては常に起こっているを明らかにしています。これが第九起滅門になります。
 明日から、第七所依門について読んでいきたいと思います。
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第三能変 不定の心所について復習。

2016-11-22 21:25:56 | 第三能変 不定の心所
  


 2016年4月16日より第三能変不定の心所の投稿がstopしておりましたが、『三十頌』第十五頌より再開したいと思います。はじめに復習の意味で、不定の心所をまとめてみました。第十五頌・第十六頌を読みおわりまして、第十七頌のつづきに入りたいと思います。
 
 六位の心所の中、遍行・別境・善・煩悩・随煩悩と説かれてきました。最後が不定の心所になります。
 不定とは、読んで字の如く、定まっていなということですが、何が定まっていないのかといいますと、三性ですね。善か悪か無記かが定まっていない心所のことなのです。それが、悔・眠・尋・伺の四つなのです。
 もう少し詳しくいいますと、『論』には「論に曰く、悔・眠・尋・伺とは、善・染等に於て皆不定なるが故に。触等の定めて心に遍ずるが如きに非ざるが故に、欲等の定めて地に遍ずるが如きに非ざるが故に、不定の名を立つ。」(『論』第七・初右)と説いています。
 先ず、「善・染等に於て皆不定なるが故に」です。染は悪と有覆無記をさしますが、三性は善・悪・無記であってですね、善はどこまでいっても善、煩悩の心所は染という具合に定まっているわけです。六位の心所の中で最初の遍行は八識すべてに相応するわけですから、見方によっては不定のように捉えられますが、どの識に於いても遍行の五は具体性をもっているわけです。善とともに働き、悪とともに働き、無記とともに働いているのが遍行なのですが、不定は善につけば善になり、染(悪と有覆無記)につけば染になり、無記につけば無記になるという性格を持ってますので、不定と名づけられているのです。
 最初に「二に各々二あり」と述べられていますが、これは後程解釈されますが、「ニに各々ニあり」は悔と眠が一組で尋と伺が一組になり、それに煩悩に穢されている場合と、穢されていない場合、即ち染汚か不染汚かが定まらないから不定といわれるわけです。四種の心所が不定であることを示して、悔・眠と尋・伺のニはニ種各別で『述記』には十義の類別あることをしめしています。
 本科段より、『成唯識論』は巻第七に入ります。
 「已に二十の随煩悩の相を説けり。不定に四有り。其の相如何。」(『論』第七・初右)
 「頌に曰く。不定とは謂わく悔(け)と眠(めん)と尋(じん)と伺(し)とのニに各々ニあり」(『論』第七・初右)  「ニ各ニ」(ニに各々ニあり)は不定の意義を顕わしています。
 「論に曰く。悔(け)と眠(めん)と尋(じん)と伺(し)とは善・染等に於いて皆不定なるが故に。」(『論』第七・初右)
 初めに頌を釈し、後に意義をただします。
 「善・染等皆不定」といいますのは、此の三界と性と識は皆、不定であるからと云われています。善・悪・無記の三性において、染は不善と有覆無記を表しますが、それが定まっていないということになります。不定の四は三性を通じて性格が定まっていないのです。「信等」は善の心所ですから、いつも善です。また「貪等」の煩悩は染の心所ですから、いつも染です。しかしここでいわれる不定の四はどちらにも動くのです。どのようにでも変わり得る性格をもっているのが、悔(け)と眠(めん)と尋(じん)と伺(し)の不定の心所であるといっているのです。善につけば善になり、染につけば染になるという性格です。それでは一つ一つ見ていくことにします。
 「不定」の心所にはいります。はじめは「悔」についてです。
 「悔というは、謂く悪作(おさ)なり。所作の業を悪(にくむ)で追悔(ついけ)するを以って性と為し。止を障うるをもって業となす。」(『論』第七・初右)
 「初めに悔眠を解す。・・・悔は謂く悪作というは、体(悔)をもって因(悪作)に即す。即ち諸論に説く悪作と云うは是なり。悪作は悔には非ず。悔の体性は追悔するもの是なり。・・・悪作の体は何を以って性と為す。悪とは嫌なり。即ち所作の業を嫌悪す。緒の所作の業を心に起こして嫌悪し(因)、已て之を追悔する(果)。方に是れ悔の性なり。若し所作是れ悪なるときは名づけて悪作と為せば、即ち悔の体は唯善なり。ただ悪事を悔するが故に。若し所作を嫌悪するならば、体、寧ぞ悔にあらざるや。これ悔の因といわんや、若し先に所作を悪むで、方に悔を生ぜば、悪作(因)は悔(果)にあらず。その悪作の体は何ぞや。この義まさに思うべし。」(『述記』)
 悪作(おさ)は「悪作は我作す所を悪しきことしたりとして後に悔やむ心」といわれ、自分がかって為した行為を嫌悪して追悔することなのです。作した事・作さなかったことに対して悪む作用をいい、嫌悪を因とし追悔は果となるのです。ここで倶舎と唯識の解釈の違いについて説明をしておきます。読み方は倶舎では「あくさ」と読み、唯識では「おさ」と読みます。その解釈は倶舎では「悪事をなした事を悔やむこと、即ち悪事の所作を後に追憶して後悔する、」と考えますが、唯識では「作した事を悪むこと、即ち自分の作した行為を憎む」と解釈します。悪むから後悔が生まれるのだと考えたのです。
 作したこと(悪事を作した事を嫌悪して後悔する)を嫌悪する。
 作さなかった事を後悔する(善・悪ともに作さなかった事を後悔する)
 善の悪作と不善の悪作があるのです。悪を作さなかった事を後悔することは不善の悪作になります。
 唯識でいわれる「作したことを悪む」ということは大事なところですね。後悔すると云われるでしょう。悪むは後悔というわけにはいかにと思うのですね。もっと深い意味が有っていわれているのでしょう。後悔は自分にとって「しまった」という思いが残りますね。「すみません」と云う中に自分の思うように行かなかったという後悔です。どこまでも自己中心に考えます。「悪む」というのは懺悔という心が働きます。根底に無我の理が働いていて善悪共に後悔をするということなのではないでしょうかね。
 「外に賢善精進の相を現ずることを得ざれ、中に虚仮を懐いて、貪瞋邪偽、奸詐百端にして、悪性侵め難し、事、蛇蝎に同じ。三業を起こすといえども、名づけて「雑毒の善」とす、また「虚仮の行」と名づく、「真実の業」と名づけざるなり。もしかくのごとき安心・起行を作すは、たとい身心を苦励して、日夜十二時、急に走め急に作して頭燃を灸うがごとくするもの、すべて「雑毒の善」と名づく。この雑毒の行を回して、かの仏の浄土に求生せんと欲するは、これ必ず不可なり。何をもってのゆえに、正しくかの阿弥陀仏、因中に菩薩の行を行じたまいし時、乃至一念一刹那も、三業の所修みなこれ真実心の中に作したまいしに由ってなり、と。おおよそ施したまうところ趣求をなす、またみな真実なり。」(『信巻』真聖p215)
『述記』に慚・愧について、「悪作の善なるものは是れ愧なり。悪を拒むを以っての故に。不善なるものは是れ無慚なり。賢善を顧みざるが故に。無記なるものは是れ慧なり。」と。所作を嫌悪するということは、自分のなした悪の行為を後悔し憎むという意義があるといいます。
 作すということは所作のことですが、所作が後悔を生みだしてくる。悪(お)が後悔の因になる。因に依って(依因)悔を生じ、悔を生じてくるのが悪という構図になります。「其の実は悪とは即ち是れ悔なり」と悪即悔ということに、ただ反省・後悔ということではなく無限の大悲に自身を問う歩みをしていかなければならないという事を示唆しているのではないかと思うのです。どちらにでも傾いていく後悔の心は、「この心を機縁として真実に触れていきなさい」ということではないのかな。
  悔は「止え障えるを以って業と為す」(『論』第七・初右)と。
「述して曰く、是れ五蓋(ごがい)の中の止の相に非ず。止の相は定と慧とに通ずる故に。心を止下せしむる故に。今、止というは即ち奢摩他能く心を止住す。止下せしむるに非ず。」(『述記』第七本・四右)
 五蓋とは心を覆う五種の煩悩のことです。蓋は「止」「妨害」と云う意味で、貪欲蓋・瞋恚蓋・ 小沈睡眠蓋・掉挙悪作蓋・疑蓋の五種。ここで云われることは五種の煩悩の相ではないという事です。それは止相は心を止めるということですから、定と慧に通ずるので、煩悩の止相ではないということになります。
 「悔」は定まらないという性質を持っていますので奢摩他を障碍するということになります。
 「悔」は奢摩他(定)を障えるを業と為す、と云われるのです。
 「此れは即ち果に於いて因の名を仮立す。先の所作の業を悪むで、後に方に追悔するが故に。先を作さざるを悔るをも亦、悪作に摂む。追悔して言うが如し。我先に是の如き事業を作ざるは是れ我が悪作なりと。」(『論』第七・初右)
 悪作が因で、悔の体が果になります。「悔に悪作と名づけるは因に従って名と為す。まず所作を悪むとはその因を顕し、後、方に追悔し、その果を明かす。」(『述記』)
 追悔とは後悔のことです。「作したことを悪(にく)む」と解釈されます。
 「所作を悪む」ということですが、作してしまったことを振り返って反省するということなのです。「にくむ」と云われますからただ単に反省するのではなく、善の心である慚愧が働いているのです。所作が因で、「悪む」が追悔で、果を顕わします。「追」は追体験といいますか、自分の作したことを、もう一度思い返し「悪む」という意識が生まれてくるのですね。「悔過」(けか)につながるのですね。過ちを悔いることです。そして悔い改めるということになるのですね。このことが追悔するということになります。ただ第六意識で懺悔が成り立つと云われているのです。
「悔と眠とは第六識とのみ倶なり。」(『論』第七・四右)
日常生活と共に意識されることが出来るのが懺悔心だと云っているわけです。これは私たちの日常の心で出来るんだと教えています。ここでも、罪を悔いることが出来るのか、出来ないのかは私の責任ということになるのです。決断は自らに委ねられているのですね。
 また『述記』には『顕揚論』から「已作と未作とに於いて追恋するを体と為す。障える業にも亦、奢摩他を障うといえり」をあげています。作した行為と、未だ為さざる行為に於いて追恋することが本質であり主体なのです。これも悪作に摂めるのであるといわれているのです。要するに、すでに為した行為と(~をしてしまったという後悔)、為そうと思ったけれども為さなかった行為(~をすればよかったという後悔)をも悪作であるということになるのです。これが不定の一番目に云われる「悔」の心所になります。
不定という心所は私の一挙手一投足、作したこと、作さなかったことも悪作になるということは、そこに心の働きにより、次の行為につながることになるのでしょうね。「所作というは、要ずしも先に有事の已作を悔むのみを名づけて悪作となすにあらず。」その理由は先に作さざりしを悔やむも又悪作というのである、というのです。次に行為につながるということに於いて止を障えるといわれるでしょう。奢摩他を障碍するのが「悔」ですから、不善であり、有覆無記になりますね。このことは私の生活に大きな示唆を与えていると思うのです。私の作したこと、作そうとおもったことに於いて、間断なく業を生みだしているのですね。間断なくという事ですから、真実を覆ってしまうのです。心の深層に深く横たわる私へのこだわり、自我愛、執着が善なるものも染にしてしまうのでなないでしょうか。「悪作の善なるものは是れ愧なり」といわれますが、その愧をも覆ってしまうのが染心なのでしょう。染心が私の心を支配して、あたかも染心が私であるが如く装ってしまい、真実を見る眼差しを覆い隠してしまっているのです。
 染心はただ不善です。現在及び未来に対して悪をもたらすものです。已今當の過去・現在・未来にわたり末那識相応の我執によって真実を覆い隠されたことを以って已造・未造の業をつくるのですね。宿業は非常に明るいところに立つ心です。宿業の自覚により闇を破るのですね。「無明の闇を破る」のは「宿業にあらずということなし」という眼差しから生み出されてくるものだと思いますね。「本願力」というのは無覆無記のパワーだと思います。どこかにあるものではなく、私にあって、私のものではない力でしょう。掴むのも離すのも我執です。「掴むことも、離すこともできません。」ということが本願に頷くということではないでしょうか。慈恩大師の釈門を読ませていただき「不定」の心所・「悔」が私に教えていることの意味を感じました。
 眠(めん)の心所に入ります。
 『二巻鈔』には「次睡眠(スイメン)ノ心所ト云ハ、心ヲクラカラシメ、身ヲ自在ニアラザラシムル心ナリ。人ハ睡(ネム)ルコノ心所ノ起(オコル)時ナリ。」と教えています。
 つまり、睡眠という心が起こると、心が暗く狭まり、身体がしびれ自由がきかなくなるということです。思い当たる節がありますね。講義の最中、眠ってはいけないと思い、先生の話を目をほじくるようにして聴こうとしていてもですね、身が眠っていますから、意識作用は働いていても、正常には働いていないということになります。これを禅定にあてはまますと、禅定を障える働きを持つのが睡眠ということになりますね。心をくらます心作用と云えると思います。
 詳しく言いますと、『論』には、
 「眠というは、謂く睡眠(すいめん)なり。自在にあらず。昧略(まいりゃく)にならしむを以って性と為し」(『論』第七・初左)
 昧は暗いという意味。ここでいう睡眠は心をくらます心作用のことで、心が眠っている状態を云います。眠っている状態のことを昧略と言い表しています。
 「これは身を不自在ならしむ。坐してまた睡るが故に。乃至、よく他が揺動すれども、また覚めざるを等なるが故に。これは心を極めて闇(昧)、軽(略)ならしむるを性となす。」(『述記』)
 自在と云う事がいわれています。自在は自由とは違って束縛の中の自由とでも言ったらよろしいのかなと思いますが、田舎に行きますと最近ではあまり見かけなくなりましたが囲炉裏の天井から自在が吊下がっていて自由自在に高さが調整できるのですね。変幻自在とも云いますように、どのようにでも変化ができることが自在といわれるのでしょう。「自在ならず」ということは、私は毎日の如く経験をするのですが、眠ってはいけないと思いつつ、うとうととしてしまいます。心が働かなくなるのですね。自分では仕事をしているつもりなのですが、実は堂々巡りの繰り返しなのです。眠気が襲ってきますと身の自由がきかなくなります。昧は暗いという事ですので、軽(略)だんだんと暗くなってくるのが睡眠と云うことになります。これもよくわかります。眠気が襲ってきますと目の前がだんだんと暗くなり意識が薄れて、いつの間にか眠っているのです。しかし鼾(いびき)をかいて熟睡をするという事ではなく、心が眠っていく状態ですので意識の底で眠ってはいけないという作用が有るのですね。ですから、うとうとしながら「はっと」するわけです。睡眠とはそのような性質をもっているのでしょう。
 「観を障うるを以って業と為す」(『論』第七・初左)
 先の「悔」は「止」を障うるとありましたが、この「眠」は「観」(毘鉢舎那)を障うると云われます。「即ち毘鉢舎那なり。これは別に観を障う。蓋のうちよく(掉)挙を障うが如くにあらず。挙は定と慧とに通じ心をして高ならしむ。(『述記』)
 睡眠は観察(かんざつ)を障碍するのです。観察は心を深く観るわけですから、眠っていては観察はできません。掉挙は「行捨と奢摩他とを障うる」といわれていました。仏道修行を妨げる働きが掉挙といわれ、奢摩他(止)を障碍するのです。「心をして境に於いて寂静ならざらしむを」といわれていますから、睡眠が観を障碍するという事とは違うというわけです。
 「奢摩他」について、
 「云何が作願する、心に常に作願したまへりき、一心に專念して畢竟じて安樂國土に往生して、實の如く奢摩他を修行せむと欲ふが故にのたまへり。」(『浄土論』真聖p138)
 「奢摩他」を譯して止と曰ふ。止は心を一處に止めて惡を作さざるなり。此の譯名は大意に乖かざれども義に於て未だ滿たず。何を以て之を言ふとならば、心を鼻端に止むるが如きをも亦名けて止と爲す。不淨觀の貪を止め、慈悲觀の瞋を止め、因縁觀の癡を止む、是の如き等をも亦名けて止と爲す。人の将に行かんとして行かざるをも、亦また名けて止と爲す。是に知ぬ止の語は浮漫にして正しく奢摩他の名を得ず。椿・柘・楡・柳の如きを皆木と名くと雖も、若し但木と云ふときは焉んぞ楡・柳を得んや。奢摩他を止と云ふは、て三の義有るべし。
 一には一心に專ら阿彌陀如來を念じて彼の土に生と願れば、此の如來の名号及び彼の國土の名号、能く一切の惡を止む。(妙声功徳)
 二には彼の安樂土は三界の道に過たり、若し人亦彼の國に生ずれば、自然に身口意の惡を止む。(清浄功徳)
 三には阿彌陀如來正覺住持の力をして、自然に聲聞・辟支佛を求むる心を止む。(主功徳)
 此の三種の止は、如來如實の功徳より生ず、この故に「欲如實修行奢摩他故」と言たまへり。(聖全1p315)
 前後しますが「悔」は「障止為業」と云われて、「奢摩他」を障碍するということでした。上の文章は『浄土論』の作願門の教えで、釈文は『浄土論註』によります。奢摩他は「止」と訳され心を一つのところに止めて悪を作さないことで、貪・瞋・痴を止むこといわれているのです。親鸞聖人はこの奢摩他・毘婆舎那は還相回向の利益として「証巻」に引用されています。その心は「化身土巻」に述べられていました。「宗師(善導)の意に依るに、「心に依って勝行を起こせり、門八万四千に余れり、漸・頓すなわちおのおの所宜に称いて、縁に随う者、すなわちみな解脱を蒙れり」(玄義分)と云えり。しかるに常没の凡愚、定心修しがたし、息慮凝心のゆえに。散心行じがたし、廃悪修善のゆえに。ここをもって立相住心なお成じがたきがゆえに、「たとい千年の寿を尽くすとも法眼未だかつて開けず」(定善義)と言えり。」「余」が大事ですね。「余はすなわち本願一乗海なり。」と示してくださっています。『論註』に曰わく、「還相」とは、かの土に生じ已りて、奢摩他・毘婆舎那・方便力成就することを得て、生死の稠林に回入して、一切衆生を教化して、共に仏道に向かえしむるなり。もしは往、もしは還、みな衆生を抜いて、生死海を渡せんがためなり。このゆえに「回向を首として、大悲心を成就することを得たまえるがゆえに」(論)と言えりと。(真聖p285)
「毘婆舎那」は「観」と訳されます。正しい直観で明らかに観察することですね。「眠」はこの「観」を障碍すると云われているのです。作すこと、作さざることに悔いることが「止」を障え、「睡眠」が「観」を障えるといわれているのです。これは修行にとっての大敵ですね。真面目に修行をすればするほど「解脱」の問題は行を覆い被さってくるのではないでしょうか。親鸞聖人は徹底的に自身の心を観察されていたのでしょうね。『浄土論』・『浄土論註』のお心を御読みになり還相回向の徳として自身の解脱(救済)の道を教えてくださいました。その道は「念仏成仏是真宗」の一言で言い尽されますが、この功徳は「たとい睡眠し懶堕なれども二十九有に至らず。」と。もう迷いの世界には戻らないということなのです。ここを押さえて「正定聚住不退転」と云われているお心ではないでしょうか。
 修行に於いて睡眠は如何に大敵かは様々な論書に端的に教えられています。例えば『観念法門』に「若し比丘・比丘尼・優婆塞・優婆夷、是の三昧を行學せんと欲はん者は、七日七夜、睡眠を除去して、諸の亂想を捨て、獨一に處止して、」といわれていますように、睡眠は一瞬にして迷いの世界に後戻りさせてしまうのです。
 「謂く睡眠(すいめん)の位には身をして自在ならざらしむ。心をして極めて闇劣(おんれつ)ならしむ。一門のみに転ずるが故に。」(『論』第七・初左)  
 「上の不自在を釈す。身不自在とは制せられ自ら専ならず。心の不自在とは心が極めて闇劣なるなり。一門のみに転ずるとは、ただ一の意識のみにあり。都て五識になし。闇劣に転ずるが故に。明了なるときなし。余の心が、また五識にもあるを別んがためなり。闇にして劣昧なること有り。明了なる時なきが故に。」(『述記』第七本・五右))
 「身をして自在ならざらしむ」という、睡眠は体の自由を奪っていくのですね。動かなくなってきます。
心が正常な働きをしないのは心が極めて暗くなってだんだんと動かなくなる状態をいいます。指も手も動きませんね。命令系統が断絶しているのでしょう。「心が極めて闇劣(おんれつ)ならしむ」です。意識のみが動いていて五識は働きません。この時の意識は朦朧状態です。説明しなくてもよくわけあることです。日常茶飯事に起こってきますし、聞法のときなど、本当に眠くなりますよね。聞かなあかん、聞かなあかんと思いつつ眠っています。手に鉛筆を持ったままでね。いやはや滑稽なんですがね。
 「一門のみに転ずる」と云われるのは、心は一つのものにしか動かなくなるのです。ここで云われます睡眠は普通の生活の中での睡魔とは随分様子が違います。煩悩・随煩悩・不定の心所はおしなべて見修所断の修行の中で問題になる事柄なのです。睡眠は暗くなるといわれますから意識が薄れてくるのですね。はきりしていた意識が劣ってくるということですね。
 「ただ一の意識のみにあり」という、闇劣か明了かとはっきりしているのです。禅定は明了なわけです。明了ということは六識すべてが生き生きと明らかに動いている、睡眠は暗くなるということに於いて禅定とは違うと云っているのです。
 「昧と云うは定に在るを簡び、略と云うは寤(さ)めたる時を別(わ)く。令(りょう)と云うは睡眠は体・用(ゆう)無きに非ざることを顕す。」(『論』第七・初左)
 三昧は禅定ですから睡眠は禅定ではないというわけです。そして醒めているときは心が生き生きとして働いているわけですから、それとは違うと、生き生きと働いていない時であって、生き生きとしている時ではないと言っているのですね。何故このようなことを云うのでしょうか。それは「体・用が有る」からだというのです。独自の働きが有るというわけです。睡眠と云う独自の働きが有って他の意識が左右されるのですね。他の意識が薄れて眠くなるのではないのです。睡眠と云う状態が他の意識を眠らせるのです、と教えています。「眠」という心所が有るということになりますから、定に簡ぶのです。
 睡魔という眠の心所があって、眠が働いてきて初めて眠りに就くことが出来るんだと教えています。ですから眠が働きませんと眠りに就くことはできません。いくら眠りたいと思ってもダメなんです。逆にですね、絶対に今日は先生の話を聞き逃すまいと思っていても眠の心所が動き出しますと抵抗ができません。ギブアップです。
 重ねて学習しますが、
 「昧と云うは、定に在るを簡ぶ。略というは寤(さ)めたるを別(わ)く。令(りょう)と云うは睡眠(すいめん)は体・用(たい・ゆう)なきに非ざることを顕す」(『論』)昧は暗い、略は「はぶく」と云う意味なんです。心の働きが劣ってくる、或いは、せばまってくることで、だんだんと眠くなり(前五識の働きが無くなって)、心が働かなくなる様子を睡眠と顕したのです。心の働きが劣ってくると云うのは、眠っている時は五識がはぶかれ第六意識だけが働いていることを云います。寤めている時は六識すべてが働いているわけです。このことを『述記』では「専注すること微細なりといえども、然も定と不同なり」といっています。「定」は「心を専注して散ぜらしむる」と云われていました。定と睡眠は似て非なるものであるということですね。睡眠はただ暗いということなのです。寤(さめる)は眠りからさめるということ、そして悟るという意味が有りますね。ねてもさめてもということです。寤寐(ごび)といわれます。
 「弥陀の報土をねがうひと/外儀のすがたはことなりと/本願名号信受して/寤寐にわするることなかれ」(高僧和讃・真聖p498)
 といわれていますから、「昧とは定に在るを簡ぶ」そして「寤たる時を別けるなり」といわれるわけです。
 「余の散心は闇なることを有りといえども、しかも軽略ならず(心が暗くせばまっているのではない)」(『述記』第七本・五右)
 定心・散心ともに修に関わる問題ですから、六識は働いていると云っているのです。「令」の言を置くのは睡眠は有体であるからで「方に身等をして不自在ならしむる等の用あり」と。体が有って五蘊を束縛する用・働きが有るというわけです。
 「無心の位に有るのは此の名を仮立せるなり。余の如く蓋纏(がいてん)なるを以て心と相応すべきが故に。」(『論』第七・初左)
 経量部の説は睡眠は実体として有るのではなく無心の位に仮に立てたものであると主張しているのです。この仮立するというを恐れて「令」の言をおいているのですね。いろいろな考えが有るのですが何が正しいのかはっきりと確かめる必要がありますね。余の如く蓋纏(がいてん)なるを以って心と相応すべきが故に。」蓋は五蓋ですね。「心を覆蔽し善をして転ぜざらしむ」のが蓋の働きなのです。
 五蓋とは
・ 貪欲蓋は、境界を貪するに由って出家を楽うを障う。
・ 瞋恚蓋は、犯を諌めるを瞋するに由って正行を覚るを障う。
・ 惛沈睡眠蓋は、惛沈は止を障え沈没を引くが故に。    
・ 悼挙悪作蓋は、悼、悔は挙を障え散乱を引くが故に。
・ 疑蓋は、疑は不決定なり、捨の位を障うが故に
 これらの五蓋は「止・挙・捨」の三位を障えるのです。「出家を楽うを障う」・「正行を修することを障う」・「正定に入ることを障え」るのです。止・挙・捨を修するのに障碍となるのに纏の心所が有るのです。纏に八種数えられます。「惛沈・睡眠・悼挙・悪作・嫉・慳・無慚・無愧」です。「その心を纏繞(てんじょう)して善品を修するにおいて、よく障となるが故に。」修を為そうとする心に纏わりついて妨げる煩悩が纏といわれるのです。
 惛沈・睡眠は「止」を障碍し、 
 悼挙・悪作は「挙」(努力をなし、または働きをなす心の状態)を障碍し、
 嫉・慳は「捨」(転捨ー煩悩などを滅し捨て去ること・迷いの状態を転じ捨て去る)を障碍するのです。
 疑は二利平等なるを捨と名づけるに依って、二利(自利利他)を障碍するのです。
 無慚・無愧は尸羅(しら、シ~ラの音写で戒のことですね。)を障碍するといわれています。
 尋(じん)と伺(し)について、
 「尋ト伺ト、物ヲイワントテ万ヅノ事ヲ押シハカル心ナリ。其レニ取ッテ浅ク推度(すいたく)スル時ヲバ尋ト名ヅケ、深ク推度スル時ヲバ伺ト名ヅク。」(『法相ニ巻抄』)
 尋と伺という心所は、言葉を用いてすべての事を推し量る心だと云われています。そこで、浅く推し量る心を「尋」と名づけ、深く推し量る心を「伺」と名づけているのです。『成唯識論』をみてみましょう。
 「尋と云うは謂く尋求(じんぐ)なり。心をして悤遽(そうこ―せわしき様子)にして意言の境(意言の対象)に於て麤(そ―粗い)に転ぜしむるを性と為す。伺と云うは謂く伺察(しさつ)なり。心をして悤遽にして意言の境に於いて細に転ぜしむるを以って性と為す。」(『論』第七・二左)
 悤遽 ― 悤は忙しいとかせわしいという意味の字ですし、遽も慌ただしいとか忙しいという意味の字です。 
 心が忙しく慌ただしく動く、何に対して忙しく慌ただしいのか、『論』は「意言の境に於て」悤遽であると云っていますね。
 対象は言葉です。それを「意言の境」といいます。
 太田久紀師は「対象は言葉、意言の境です。言葉が言葉を対象にして動いていく。言葉を対象としながらいろいろと選び分けていく。ここではこの言葉を使う、ここではこれは使ってはいけない。言葉を自分で選ぶ、したがって悤遽なんです。悤も遽もあわただしいという意味。心の中ではいろいろと言葉についての詮索をしながら、心でものを考えていく。言葉は境でもあります。同時に動く心自体も言葉によって動いていきます。私達がものを考えるときには考える働きの中に言葉が有る。言葉無しにものを考えるということは私達はしませんね。独りで考えている時にも、言葉が選ばれて、言葉が並べられて、そして判断をしたり思索をしたりします。言葉を対象にして動くこと自体も言葉によっているのですけれど、仮に分ければ意言の境。対象に向かって動いていく心の働きを尋と伺という。同じ働きです。」と教えてくださいます。
 つまり、尋と伺はともに意言の対象(言葉)に於いて悤遽に転ずるのですね。せわしく・あわただしく心が忙しく揺れ動くのです。意言は心のつぶやきといいます。私たちは言葉を通して何事も判断しています。心の分別をデジタル化していろいろなことを考えているのですね。言い換えれば言葉を用いないと何事も考えられないのです。この言葉を名言といいあらわされていますが、言葉を通していろいろなことを求め、考えていく、それによって心が動いていくのです。これを尋と伺の二つの言葉に分けられて説明されています。意言の境と云われますから、心の中で描いた言葉、心のつぶやきが言葉を対象として動いていくのですね。それがせわしいのです。あわただしく、忙しいのですね。間断なく心は動いていますからね。「意言の境に於て悤遽に転ず」と押さえられているわけです。
 「ニの行相は同なり。故に一処に明かす。尋とは尋求なり。即ち七分別のうち尋求分別等なり。「心をして悤遽」の「悤」は迫、「遽」は急なり。意言の境とは意即意識なり。遍縁なるを以っての故に。これに三解あり」(『述記』第七本・十右)
 七分別(しちふんべつ)とは、七種分別のことで、七つの愚かさを云い、有相分別・無相分別・任運分別・尋求分別・伺察分別・染汚分別・不染汚分別の七をいいます。『瑜伽論』巻第一・(本地分中意地第二の一)に詳細が述べられています。そこでは「云何が所縁を分別するや」と問いが立てられて、「七種の分別に由る」と答えられているのです。
 尋求分別とは「諸法に於て観察尋求(かんざつじんぐ)して起る所の分別なり、」(存在するものが何であるのかと観察し追究する思考のこと)
 意言と言の字を加えた理由について三の理解が示されます。
• (1) 喩に従う。意識とおよび相応法とは、よく境を取るが故に。言説の言と相似す
• (2) 境に従う。言説の言はこれ声の性なり。この言が意の所取の境となる。言に従って名となす。ただ意言となづく。
• (3) 果に従う。意に由ってよく言説等を起こす故に意言となづく。意所取の境を意言の境と名づく。
 また一切の心所法等に通ず。しかも意のみこれ主にして勝れたる故に偏にとく。いまこの境は一切法に通ず。(『述記』第七本・十右)
 言葉を起こす因が尋・伺なのですが、遍行の心所の中の「想」も言葉を起こす因なのですね。「種々(くさぐさ)の名言を施設するを以って業となす」意識と相応する想のみが言葉を起こす因となるわけですが、この想を疎因として、尋・伺を親因となって言葉が具体性をもつわけです。尋求し伺察することがなかったならば言葉は具体性をもってこないのです。概念的思考が起こるのは尋求し伺察する心所があるからなのです。
 「此のニは倶に安・不安に住する身心の分位が所依たるを以って業と為す。」(『論』第七・二左)
 「身心もし安なるときは、徐緩なるを以て業となす。身心が安から不るときは悤遽なるを以て業と為す。倶に思と慧とに通ず。あるいは思をば安と名づく。徐にして細なる故に。思量の性なる故に。慧を不安となづく。急にして麤なる故に。簡択性なる故に。身心は前後に安不安あり。みな尋と伺による。故に所依と名づく。」(『述記』第七本・十一右)
 尋と伺は思(意志)と慧(知恵)との両方から構成され思の働きは徐(おもむろ)で細(深い)く、慧の働きは急にして粗いことから、徐緩(おもむろにゆるやか)で深く細やかに働く意志が安住をもたらし、性急にして粗く浅く働く知恵は不安住を引き起こすと考えられました。「思うこと深ければ慧発して安心なり。正しく慧を用いれば徐なり」「思が慧に随うときは不安なり」と説かれました。また尋が麤と云われるのは欲界のみに働き、伺は初禅に通じるといわれるところから分けられているとも云われています。
 「此のニ(尋・伺)は倶に安・不安に住する身心の分位の所依たるを以って業と為す。並びに思と慧との一分を用いて体と為す。意言の境に於いて深く推度せざると。及び深く推度すると。義類別なるが故に。若し思と慧とに離れて尋と伺とのニ種の体類の差別は。不可得なるが故に。」(『論』第七・二左)
 推度(すいたく)は推理のこと。「推度とは、先に対象を観察して判断決定をひきだすことである」と云われます。深く推理をしないのが「尋」で、深く推理をするのが「伺」ということになります。意識が働いていると云うことは言葉に依るわけです。言葉でもって対象を観察しています。言葉に依ると云う事はそこに分別が働きます。分別によって安心や不安に住します。『述記』には「安なるときは、徐緩を業となす。身心が不安なるときは、悤遽を業とす。ともに思、慧に通ず。」というわけです。
 「深く推度せざるを思となづけ、深を慧となづくというは、これにニ義あり。
•(1) 思は全に推度せず、深く推度せずとなづく。細に推度をなすにあらず。慧に翻じて義となす故に。対法論(『雑集論』第一)に推度せずというが故に。(「尋とは思に依り慧に依るとは、推度と不推度の位に於いて、その次第の如く、追及する行相意言分別なり。伺とは思に依り慧に依るとは、推度と不推度の位に於いてその次第の如く伺察する行相意言分別なり。)
•(2) 思は慧に深く推度すること有るが如くにあらずといえども、また浅く推度す。」(『述記』第七本・十一左)
 尋・伺は浅・深に推度するのであり、「対法に推度せずというは」、これは深く推度しないということです。そして尋・伺は思及び慧のニを離れて体・用、類の別であることは無いのです。思と慧との一分を体とするのですね。別体を立てないのです。尋は浅く推理し、伺は深く推理追求するのです。
 『倶舎論』に「尋伺の別とは、謂く心の麤細なり。心の麤性を尋と名づけ、心の細性を伺と名づく。」(巻四)と云われていました。尋は意言の境を粗く考える事で、伺は意言の境を微細に考察することなのです。尋は尋求(尋ね求める事)・伺は伺察(よく考える事)と説かれています。いずれも思と慧との両者から構成されますが、「慧」は「急にして麤なる故に」、慧を不安と名づけ、「思」は「徐にして細なる故に。思量性なる故に」安と名づけると。身心が安・不安を起こすのは、尋伺によって所依となると云います。即ち尋伺が徐に細なるときは身心は安住し、悤遽(そうこ―あわただしい)であるときは不安住であるのです。
 『雑集論』(大乗阿毘達磨集論)に、尋については「思に依り慧に依るとは推度と不推度の位に於いて、其の次第の如く、追求する行相意言分別なり。」と云われています。粗く働いている心の中の言語活動なのです。そして伺は「思に依り慧に依るとは推度と不推度の位に於いて、其の位の如く伺察する行相意言分別なり。」といわれ、心の中の細やかな言語活動なのです。推度とは先に対象を観察して判断決定することなのですが、尋は不推度といわれ、いうならば、いきあたりばったりです。何も考えなくして判断をし決定してしまう心の麤(粗さ)ということになり、深く推度するのが伺なのです。伺は意言の境を微細に考察することなのですが、意識の境ということになり、言説は意識に依って発起するから果に依り意言の名を立てているのです。いずれにしても心の中の活動はであれ、細であれ分位できるものではありません。単刀直入に推度することもありますし、深く考察をして推度することもあります。いつでも何かを未だ発動しない言語活動に於いて考えています。それが浅か深かは縁によるのでしょう。自分の心を満たすものとの出会いは安でしょうし、反対に満たさないものとの出会いは苦痛でしかありません。私たちは四六中この思・慧を所依とする尋伺に振り回されているのではないでしょうか。ここに「何故」という問いが回向されてくるのです。聞法はこの問いを聞く歩みになるのですね。聴くことを通して聞こえてくる声に耳を傾けなければなりません。「耳の底にとどまる」のは、聴こうとする姿勢が、自ずから仏言が聞こえてきた証になるのでしょう。
 「述して曰く、自下は第三に二各二を解し、尋伺を後に説くが故に。行相は同じきが故に。尋と伺とは初の二なり。染と浄とは後の二の文なり。文は易し知る可し。」(『述記』第七本・十二右)
 『三十頌』に出てまいります「二各二」とはどのような意味なのかが問われてきます。これに三説あり、第三説が正義とされます。
 「二各二」は悔・眠・尋・伺の四種の心所が不定であるという意義を説き、「二」は悔・眠の二と尋・伺の二に各々二種各別の意義が有ることを顕しています。 
 「二各二とは」について
 •第一説 「有義は尋と伺とに各染・浄の二種差別有りと云う。」(『論』第七・二左)
 前の尋と伺には染と浄の二類が有るのだという説になります。
 次が
 •第二説 (初めに前師を破す。)「有義は此の釈は正理に応ぜず。悔と眠とにも亦染と浄との二有るが故に。応に説くべし。前の如き諸の染の心所に是の煩悩と随煩悩との性有り。此の二(煩悩と随煩悩)に各不善と無記有り。或いは復た各纏と及び随眠と有りと云う。」(『論』第七・二右)
 (染の心所に貪等の煩悩と忿等の随煩悩が付随し、それに不善と無記との二の性質が備わっている。或いはこの二に各現行の纏と種子の随眠の二が有ると云う。
 纏は煩悩に纏わりついているものと云う意味になります。煩悩の異名。八纏・十纏を数えます。無慚・無愧・嫉・慳・悔・眠・掉挙・惛沈・忿・覆を十纏といい、自らの内心に潜んでいる悪への傾向が自らの身心を纏って自在にさせないことから名づけられました。随眠は悪への傾向で内在している煩悩のことです。表に現れていない内在化している煩悩のことを意味します。前の二(尋・伺)を煩悩と随煩悩と解釈し、後の二(悔・眠)は、その煩悩・随煩悩の二に不善と無記との二、もしくは現行の纏と種子の随眠の二が有りと解釈しています。
 • 第三説(正義) 「有義は、彼の釈も亦理に応ぜず。不定の四の後に此の言有るが故に。応に言うべし。二とは二種の二を顕す。一には謂く悔・眠となり。二には謂く尋・伺となり。此の二の二種は種類各別なり。故に一の二と云う言は二の二種を顕す。此れに各二有り。謂く染と不染となり。善と不染との各唯一のみなるが如きに非ざるが故に。或いは唯染を簡ぶが故に。此の言を説けり。有るところに亦説いて随煩悩と為すが故に。」(『論』第七・二右)
 安慧の説といわれ、これが正しい説です。「悔・眠」を一種類として染と不染が有り、「尋・伺」を一種類として染と不染とが有るということです。二種類の二とはこのことですね。上の二は悔・眠・尋・伺で、下の二は染・不染です。「種類各別」といわれますのは『述記』に十義顕されています。類別しますと(1)界繋の種類が別 (2)思と慧とによる種類が別 (3)仮実の種類が別 (4)断ずる時の種類が別 (5)上地の起と不起と種類が別 (6)支と不支と種類が別 (7)纏と蓋との性の種類は別 (8)語行と非行と別 (9)定散門に通ずることは別 (10)無漏に通ずる類が別ということで、「これに由って二の二は別なり」と云われます。四共に各々染・不染に通じるというのが勝義になります。悔・眠と尋・伺の二種類は染にも浄にも通じるのです。煩悩は染ということで一定していますが、この二種類は一定していないのです。ある時は染。ある時は浄と定かでないところから不定と名づけられました。
 
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雑感 ― 覚書 ―

2016-11-18 22:26:00 | 『成唯識論』に学ぶ
  

 - 依止について -
 「依止とは、謂く前の六転識なり。根本識を以て共と親との依と為す」(『論』第七・九左)
  「述曰。七転識の中、前の六転識なり。第七を除くなり。第七識は縁ずること恒に礙りなきを以て。又彼の(頌)文に於て、已に依彼転縁故と明せり。故に第七識を除く。
 「依止」とは、表層の六識(眼・耳・鼻・舌・身・意)は阿陀那識を依り所として働く。そして共通して第八識を依り所とする(増上縁)。親(しん)とは、「親しく」「直接に」「現前に」という意味で、「此の中、何の法を名づけて種子と為すや。謂く本識中の親しく自果を生ずる功能差別なり」(『論』第二・十四)と説かれています。第八識の中の種子が前六識を生んでくるのです(第八識に執持されている種子のこと)。それが現前に現行(種子生現行)してくるのです。種子が直接的な所依(親因縁)となります。直接的な依り所となるので親といわれます。
 (転識とは、阿頼耶識(潜在的な根本心)から転じて生じた七つの識で、七転識といわれ、転識と阿頼耶識はとは相互に因となるのです。「阿頼耶識と諸の転識とは互いに縁性と為りて転ず」といわれます。また、阿頼耶識を所依となし、転識を能依となす、ともいわれます。)
 「七転識」といわれていますから、第七末那識も転識なのです。転易(てんじゃく)し間断(けんだん)するので、転識と云われます。
 第七識は「間断なしと雖も而も転易すること有るを以て転識と名づくるが故に」といわれます。第八識との関係で「依彼転縁彼」といわれ、阿頼耶識を対象といているのです。第八識(彼)に依って転じて第八識を縁ず」と。「依彼転とは、此の所依を顕す。彼と云うは謂く即ち前の初能変の識なり」と。この第七識は第八識の種子と現行の両方を所依とするのです。
 「諸の心・心所をば、皆有所依と云う。然も彼の所依に総じて三種有り」(『論』巻第四・十三右)
 「有所依」とは、『述記』には「能く所依を有するが故に。・・・心・心所法をば、有所依と名づけ等と云へり。・・・然るに彼に所依と言うは、唯倶有依に約して説く。・・・眼識の倶有依と云うは、謂く眼なり。等無間依と云うは、意なり。種子依と云うは、謂く阿頼耶識なりと云う。この中の三の依は、三縁に約して名を作れり」と説かれています。また『瑜伽論』巻第一に「彼の識の所依に三つある。一つには倶有依であり、根である。二つには等無間依であり、意根である。三には種子依である。一切種子を執受する所依であって、異熟に摂められる阿頼耶識である、と説かれています。
 有所依とは「所依を有していること。心が生じる依り所である感覚器官(根)を有していること」なのです。つまり、生存のよりどころとしての身体を依止とする。
 所依に三種有り(心が生じる三つの因)、と説かれていますが、(1) 因縁依(種子依)・末那識の依り所 (2)増上縁依(倶有依) (3) 等無間縁依(開導依)といい、自己はどう生きているのか、そしてどう生きなければならないのかと云う問題が、この「依」という問題なのですね。自己と関わりのないところで述べられているのではなく、主体的に自己存在の在り方を問うているのです。我執の問題です。阿頼耶識から末那識が生まれ、その末那識が阿頼耶識を対象として自分を汚していく。これが循環していくわけですね。これが所依の問題です。
 ここにまたですね。根本識に依るということがありますけれども、また五識が五根に依り、意識が意根に依るということもある。倶有依ということです。「依」に根本依として四依がいわれます。(1) 同境依 (2) 分別依 (3) 染浄依 (4) 根本依で、五識のいずれかが生じるための四つの所依である。 第六識は阿頼耶を根本依、末那識を染浄依としているのです。
          種子識 ― 因縁 ― 親依           
 第八識  { 
          現行識 ― 増上縁 ― 共依
 第八識の種子は自己の種子であって、他の種子を持ってくることはできませんから、共依というわけにはいきませんね。因縁依といわれます。第八識の中の種子が前六識を生んでくるのです。「ものはもの自身からものになる・・・他から演繹されない」と安田先生は教えておられます。「各別の種なるが故に」です。そして前六識は第八識を離れてはない、ということ。眼・耳・鼻・舌・身・意という六つの心は共通して第八識を所依とするわけですから共依といいます。現行の本識が共依ですね。
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覚書 (十一月度講義概要)

2016-11-13 10:38:33 | 『成唯識論』に学ぶ
  

  別釈
 (1) 通名 (凡夫から仏に至る迄)
心 - 積集(シャクジュウ)
    集起(ジュウキ或はジッキ)生起すること、生起し勢いを増すこと。
   チッタの語源{集める」業の結果である種子を集め起こす。
   →現行阿頼耶識
阿陀那(アーダーナ) - 執持(シュウジ)・第八識の相分。「摂して自体と為して安と危とを同ず」(セッシテジタイトナシテアントギヲドウズ)
所知依(ショチエ) - 『摂論』真諦訳では「応知(オウチ)」(応に知るべきもの)。応知とは三性(依他起性・遍計所執性・円成実性)を言う。三性の依止が第八識。依止とは、生存の依り所である身体。身に備わったもの。
種子識 ― 一切種子識
 (2) 局名(ゴクミョウ) 局はゴク(呉音)。漢音ではキョク。くぎるという意味。通に対して局
阿頼耶 - 能蔵・所蔵・執蔵の義 ― 我愛執蔵現行位(ガアイゲンギョウシュウゾウイ)
 一切法が能蔵、第八識が所蔵の関係(受熏の義)
 「自の内我と為す」(執蔵)
 能蔵は所有権を主張しませんが、所蔵する側が所有権を主張します。この上に能蔵が成り立ちます。
 異生(イショウ・凡夫のこと)と有学位にのみあり。
 第七識の我執が無くなりますと、能蔵・所蔵の義はあっても、阿頼耶の名は捨せられます。第七識の煩悩の現行はありませんから、阿頼耶とは言われないのです。
異熟識(イジュクシキ) - 善悪業果位(ゼンアクゴウカイ)
 異生と二乗(ニジョウ・声聞と独覚)と諸の菩薩
 八地以上の菩薩は分段生死(ブンダンショウジ)を離れ、変易生死(ヘンヤクショウジ)として菩薩道を行じます。
無垢識(ムクシキ) ― 相続執持位(ソウゾクシュウジイ)
 無漏法が所依止となる。如来地のみにあり。
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雑感 (2)

2016-11-12 22:58:22 | 『成唯識論』に学ぶ


 よくある粗相なのですが、貴重な体験をさせていただきました。過去にも同じようなことを二度しておりますが、今回は慌てました。それというのも、仕事を終えて、お腹の調子もいまいちだし、何か暖かいものでも食べようかと、S君にラインを入れました。快く受け入れてくれ、地下鉄難波駅で待ち合わせをしました。ここまでは良かったんです。
 おでんでも食べようかと三っ寺筋へ向かったのはいいのですが、何か変な感じがして、ズボンのポケットを触ってみたんです。そしたら有るべきものが無いのです。「あ、財布が無い」とつぶやきました。「え、どうしたんだろう」、いろんな思いが交錯して頭が真っ白になりましたね。
 S君も心配してくれて、「よく捜して、ほんまにありませんか。心当たりがありませんか?」と。
 ところがですね、僕は、ポケットに入れていると思い込んでいますから、落としたのか、ひょっとすると自転車のかごの中(洗濯物をかごに入れていましたから)、それとも難波駅の混雑の中ですられた?いずれにしても無いわけです。
 これは方向は定まっているのですが肝心の中身が抜けているので、目的地にはたどり着くことが出来ないという結果を引き起こしてきました。
 財布が無いという気づきが自の執を暴き、慌てふためくという闇(無明)を現出しました。ここで、闇は真実がわからないという所から引き起こされてくる問題であることがはっきりするわけです。
 S君には「ごめん、今日は無しということで、あとで連絡入れる」と言って、とりあえず引き返したのです。財布をポケットに入れたのか、入れなかったのか、頭がグルグル回っているのです。このグルグルは真実に触れなければ解決できないことなのです。
 もともと財布を持ってでなかったとすれば、そこで安堵します。
 しかし、持って出て無いとすれば、後の対応というか、行動を取らなくてはなりません。
 どちらにしても、方向がはっきりするわけです。
 それまでは疑心暗鬼ですね。
 私たちの日常生活は疑心暗鬼なのではありませんか。財布で喩ましたが、私たちにとって財布が無いというのは「仏・法・僧」の三宝を見失っていることだと思います。見失っていることがはっきりすれば、一応の道筋は立ちます。
 「本当に大事なことが見つかったら、のうのうと生きてはおれんやろ。何が大事なことか捜すやろ」と教えて頂いておりましたが、まさに、財布が無いから、S君すまんが立て替えてくれるか」といって食事にいきますか、ということですね。行かないですね。
 しかしね、私たちは、これを平気で行っているんですよ。先ほど疑心暗鬼といいましたが、疑いが無いということが疑心暗鬼なのですね。
 「私は間違っていない」という執という問題があります。
 「もし、私が道を踏み外しているとしたら、社会に問題がある」という問題のすり替えです。
 財布が無いということも、財布が一人で右に行ったり、左にいったりはしません。落としたとしたら、僕が落としたのです。忘れたとしたら僕が忘れたのです。もし掏られたとしたら、掏られるような態度を取っていたのでしょう。
 「わからなくなったら、はじめにかえる」とは安田先生のお言葉ですが、会社にもどればはっきりすることなのです。「生きること、生まれてきたことの原点にかえる」ことが絡んだ糸をほぐすことになるのでしょう。
 会社に戻って、ロッカーを開けましたが見当たりません、やばい。作業場かな?作業場にも無い。着替えをしてどこに置いたんだろうと考えてもわからない。いよいよ警察に届けなければならないかと思って、ふと月曜日に出荷しなければならない商品の中を覗いて見ますと、なんと、そこに置き忘れていたんです。何故かわかりませんが、置いたんですね。すっと安堵です。
 はっきりすれば安堵する。「大安慰を帰命せよ」とのお言葉が響いてきますね。
 日常生活の中から「問い」を持つことの大切さを、財布の一件で教えられました。
 お休みなさいませ。 南無阿弥陀仏
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雑感 (1)

2016-11-10 21:30:27 | 『成唯識論』に学ぶ
  

 今回は、「阿羅漢位捨」、阿頼耶識という名は阿羅漢の位において捨すということが如何なる意味をもつのでるかを尋ねたいと思います。いままで、ずっと第八阿頼耶識と云う名で第八識を理解してきました。
 しかし、ここにきて、阿頼耶識の名を捨すと、名を捨てるんだと。これはどういうことなんだと。阿羅漢位に達すると第八識がなくなるのかとおいう疑問が出てきますが、『論』は「然も阿羅漢は、此の識の中の煩悩の麤重(ソジュウ)を断ずること究竟(クキョウ)して盡くせる故に、復た阿頼耶識を執蔵して自の内我と為さざりぬ。斯の永(ヨウ)に阿頼耶の名を失するに由りて之を説いて捨と為す。一切の第八識の体を捨するもには非ず。勿(マナ)、阿羅漢いい識として種(シュウ)を持すること無く、爾の時に便ち無余涅槃に入りなむ。」と説明しています。
 阿羅漢位に入ると、阿頼耶識という名は捨てられるが、第八識までも無くなるのではない、呼び名が変わるんだと。
  
         心
         阿陀那
         所知依  } 一切の位に通じる(凡夫から仏位まで)。
         種子識
 第八識  {
         阿頼耶  我愛現行執蔵位  異生と有学       第七地迄
         異熟識  善悪業果位    異生と二乗と諸の菩薩  第十地迄
         無垢識  相続執持位    仏果位         一切種子識

 

 阿陀那というのが少し解りにくいと思いますが、第八識の所縁(相分)の内の執持である五色根と種子を指しています。つまり身体を執持している。現行の種子は人格形成の原動力となるものですから、常日頃の行動が刹那刹那に人格を成立させていることになります。
 この種子を溜めていくという面から「心」と呼ばれます。
 所知依は染・浄の依りところとなる面からの呼び名です。
 種子識は意識の働く所ではなく、自然にということの呼び名です。「諸の種子を任持するが故に」といわれています。「~の意識の「~」が種子になります。
 この四つは、すべての人の性質で共相ですね。
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