唯識に学ぶ・誓喚の折々の記

私は、私の幸せを求めて、何故苦悩するのでしょうか。私の心の奥深くに潜む明と闇を読み解きたいと思っています。

第三能変 ・善の心所 慚と愧の心所について (4)

2013-05-31 23:33:23 | 心の構造について

 「論。謂依自法至息諸惡行 述曰。謂於自身生自尊愛。増上於法生貴重。増上二種力故。崇賢重善。羞恥過惡。謂作是意言。我如是身乃作諸惡。彼法甚好次依用之。即雖依周・孔之書皆名貴法。世禮儀故。然以刑防惡如國法律。即是後文世間愧攝。」(『述記』第六本下・八左。大正43・435a~b)

 (「述して曰く。謂く自身に於て自を尊愛することを生ず。増上と法とに於て貴重することを生ず。増上との二種の力の故に、賢を崇し、善を重じ、過悪を羞恥す。謂く是の意を作して言く、我是の如きの身を以て乃ち諸悪を作んとや。彼の法甚だ好し。須らく之を依用す、即ち周孔の書に依ると雖も、皆法を尊ぶと名づく、世の礼儀なるが故に。然るに刑を以て悪を防ぐ、国の法律の如きは、即ち是れ後文の世間の愧に攝む。」)

 前回も述べていますが、慚の心所は、「自と法とを尊し貴する増上に依って」と説かれています。これが因になります。自と法との二種が述べられていますが、この自と法は、法に依って明らかになった自(わが身。自身)と、自が法を証明しているのですね。自と法が離れてあるものではないということです。法に依って明らかになった自に於て自身を尊し愛することができるということなのです。そのことが法を貴び重んじることになるのです。増上は自と法にかかります。自と法との増上縁に依って、「賢と善とを崇重する」という果が生じてくるのです、果が因となって過悪を羞恥するという慚(愧)心を生みだしてくるのですね。この恥じる心が、恥じることのない心を対治し、諸々の悪行を止息させ、人間として生まれてきた意味を回復させてくれるのですね。「自と法との増上に依って」「恥じる心」が生じてくるということが大事ですね。自己中心的なものではないということです。自己中心的思考における恥じる心は、恥じる心をも利用します。慢心なのです。

 「君子は周して比せず」(『論語』・君子は誠実で親密であり、一部の人だけにおもねらない)という、孔子等の思想は、世の礼儀であり、法を尊ぶという意味では、大変に重要な教えというものである、仁・義・礼・智・信という儒教の教えも大切な世の規範となるものであるということを述べています。しかし悪を防ごうとする抑止力となる刑法は世間的なものに他ならず、愧に摂めるべきものである、という。

 (参考)

 「仁義礼智信」とは儒教でいう五常の徳(人間が守らなければいけない5つのルール)といいます。
 「仁」 思いやりの心 憐れむ心がやがて「仁」になる
 「義」 世のためになる人としての道 不善を恥じ憎む心がやがて「義」になる
 「礼」 礼儀正しいことはもちろんで謙虚、感謝の心 へりくだり人に譲る心がやがて「礼」になる
 「智」 正邪を正しく判断すること 善いこと悪いことを論じる心がやがて「智」になる
この「仁義礼智」を体の四肢になぞらえて、四端(したん)といいます。
 これに
 「信」 嘘をつかないこと 信念・信条
を加えて五常の徳と説かれています。

 

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「無慚無愧のこの身にて」

2013-05-31 00:14:04 | 生きることの意味

 「第六意識の中で善の心所は語られるのか」

 私たちの心は前五識(眼・耳・鼻・舌・身識)と第六識・第七<wbr></wbr>識・第八識の八つの心をもっているのですが、信・慚・愧・念・定<wbr></wbr>・慧という善の心所はどこに働くのかと云う問題があります。第七<wbr></wbr>識・第八識は位に随って有る場合とない場合が有るということです<wbr></wbr>。位というのは有漏位(煩悩の有る位)・無漏位(煩悩の穢れがな<wbr></wbr>い位)のことです。根本煩悩は我執ですから、ここは我執が有る場<wbr></wbr>合は善の心所は働かないというのです。そして無我の境地になりま<wbr></wbr>すと十一の心所はすべて働くといっています。第七識も第八識にも<wbr></wbr>我執が働いているときは善の心所は働かないといっているのです。<wbr></wbr>働いているのは善でも悪でもない無記の心は働いているというので<wbr></wbr>す。命は善でも悪でもなく無記(善とも悪ともきめることができな<wbr></wbr>いこと)なのです。ですから我執も無記になります。しかし我執そ<wbr></wbr>のものは無記なのですが、我執が起こって...いる時は煩悩が働いていますから、善の心は起きないのです。「法<wbr></wbr>」を立場とする無漏位の境地に立ちますと善の心所はすべて働くこ<wbr></wbr>とになるのですね。そして意識ですね。第六識が働くときは十一の<wbr></wbr>心所すべてが働くといわれているのです。こうして仏教の勉強をし<wbr></wbr>、また聞法をするということには善の心所が働いていることになり<wbr></wbr>ますね。聞法をしようという意思決定が私の上に善の心が自ずとし<wbr></wbr>て働いてくるのですね。前五識はどうかといいますと、護法唯識で<wbr></wbr>は共に働くといわれるのです。善の心所すべてが働き動くというわ<wbr></wbr>けです。これはどのようなことであるのかといいますと、前五識そ<wbr></wbr>のものは感覚作用ですが、第六識の影響下にあるわけです、第六識<wbr></wbr>に支えられて前五識は働いているという関係になります。「成所作<wbr></wbr>智(じょうしょさち)」とありますが、この智慧は前五識が転じた<wbr></wbr>ものなのです。(前五識が転じて仏智として顕れたものー仏の四智<wbr></wbr>の一つ)表層の意識から深層の意識へと自分を見つめる眼差しが深<wbr></wbr>まっていくのですが、深層の意識では善の心所は働かないというの<wbr></wbr>です。これは何故かといいますと、命の根源は善悪を超えた平等の<wbr></wbr>世界を戴いているのですね。しかし第六意識は善悪の判断を常にし<wbr></wbr>ているわけです。ですから第六識ですね。ここに心所として善が置<wbr></wbr>かれているのですね。この表層の意識なのですが、これは第八阿頼<wbr></wbr>耶識を根本識として影響を受けているのです。「五識は縁に随って<wbr></wbr>現じ」・「意識は常に現起す」といわれています。深層の阿頼耶識<wbr></wbr>を因とし、さまざまな縁を補助因として五識は表面に現れてくるこ<wbr></wbr>とになるのです。これを転識といいます。意識は自ずから分別を起<wbr></wbr>こすことが出来、「内外門に転じ」といわれ、自己の内と外を対象<wbr></wbr>とすることが出来るので有るといわれているのです。ですから「多<wbr></wbr>くの縁を籍りず」と意識が生ずるためにには多くの縁を必要としな<wbr></wbr>いといわれているのです。阿頼耶識を根本原因とはするのですが、<wbr></wbr>意識の働きは私の精神生活にとっては大変重要な役割を持っている<wbr></wbr>のです。表層から深層へという流れは第六識がキーポイントになり<wbr></wbr>、第七識で我執として色づけされ、第八識に種子として薫習される<wbr></wbr>のです。聞法するという行為も意識から生まれてくるということが<wbr></wbr>大変意義のあることでしょう。

 「無慚無愧のこの身にて」

 善の心所である慚・愧について学ばせて<wbr></wbr>いただいていますが、今、思う所を少し述べてみまう。私は<wbr></wbr>いつも「支えられてある命」の恩徳を忘れ、自分が生きていると思<wbr></wbr>っています。誰にも迷惑をかけず、私は私の力で生きているのだと<wbr></wbr>自負しているのです。自分の力で何でもできると自負しているのな<wbr></wbr>ら、満足をして生活をしているのかといえば愚痴や不満といった、<wbr></wbr>やるせなさを伴った生活をしているのです。これは「支えられてあ<wbr></wbr>る命」に反逆している相であると思うのです。「そうではなかった<wbr></wbr>んだ」という反逆者の自覚が慚愧を生み出してきます。この慚愧が<wbr></wbr>非常に大切な心のあり方であると教えられています。「慚」という<wbr></wbr>のは「自と法との力に依って賢・善を崇重する」「自」とは自身、<wbr></wbr>「法」とは仏の教え。私たちの中にある善を求める心と仏の教えに<wbr></wbr>依って恥を知るということです。「慚」も「愧」も恥じるこ...と、という意味です。「愧」というのは「世間の力に依って暴悪を<wbr></wbr>軽拒する」「世間の力」とは世間体です。世間の人は自分の事をど<wbr></wbr>のように見ているのか、よく見せたいという力に依るわけです。自<wbr></wbr>己の問題と、世間体とに依って悪行を止息する、悪いことをしない<wbr></wbr>、そして乱暴な行いや、軽はずみなことはしないということになる<wbr></wbr>わけです。自己の内面に依って「慚」、自己の外面に依って「愧」<wbr></wbr>、ともに恥じる心です。これが人として人を継続していく力になる<wbr></wbr>わけです。その逆が無慚無愧で「人と為せず」といわれる所以なの<wbr></wbr>です。 「大王、諸仏世尊常にこの言を説きたまわく、「二つの白<wbr></wbr>法あり、よく衆生を救く。一つには慙、二つには愧なり。「慙」は<wbr></wbr>自ら罪を作らず、「愧」は他を教えて作さしめず。「慙」は内に自<wbr></wbr>ら羞恥す、「愧」は発露して人に向かう。「慙」は人に羞ず、「愧<wbr></wbr>」は天に羞ず。これを「慙愧」と名づく。「無慙愧」は名づけて「<wbr></wbr>人」とせず、名づけて「畜生」とす。慙愧あるがゆえに、すなわち<wbr></wbr>よく父母・師長を恭敬す。慙愧あるゆえに、父母・兄弟・姉妹ある<wbr></wbr>ことを説く。善いかな大王、具に慙愧あり、と。乃至 王の言うと<wbr></wbr>ころのごとし。(『涅槃経』・真聖P257)
  心の働きは不思議ですね。瞬時に変化しますから。どうしてでしょ<wbr></wbr>うか。これは考える以前の問題でしょうか。僕なんかは、いつも起<wbr></wbr>こってしまった事を考えていますから、何とか理屈をつけて解釈し<wbr></wbr>ています。あとから、あとから解釈するものですから、解釈するこ<wbr></wbr>とに忙しいのです。それが人生と思っていますから、いつも暗いの<wbr></wbr>ですね。実際は自分で思い考えるより先に自我意識は反応している<wbr></wbr>んですけどね。それに素直になればいいのですが、素直に成れない<wbr></wbr>自分がいるのですよ。例えば「ほめられる」と「わかってくれてい<wbr></wbr>る」とのぼせ上がるますし、反対に「けなされたり、怒られたり」<wbr></wbr>しますと、瞬時に頭から血の気がひいて落ち込みます。我執が乱高<wbr></wbr>下するんです。我執って面白いと思うのはへこたらないですよ。く<wbr></wbr>じけません。立ち上がるのです。怒られても、けなされても上を見<wbr></wbr>つめています。慢心と教えられていますが、「ほめられる」と有頂<wbr></wbr>天、「けなされる」と卑下慢と、どちらもしたたかに私の考える以<wbr></wbr>前に行動を起こしているわけです。それともう一つ不可解なことが<wbr></wbr>あります。朝、隣人に挨拶しますでしょう。反応がないんですよ。<wbr></wbr>機嫌が悪かったりしてね。こんな時も「何で」と考えてしまいます<wbr></wbr>。自分の都合によって心はどのようにでも変化するのですね。です<wbr></wbr>から何をしでかすか、わかりません。他人事はいかようにも批判す<wbr></wbr>るのですが、評論家になればプロです。しかし自分のことはわかり<wbr></wbr>ませんね。自分の生活は何?後片付け?受け止めることができない<wbr></wbr>ものですから、火の粉を振り払うようにあくせくしているわけです<wbr></wbr>。それで苦しんだり悩んだりしてストレスがたまっていくのです。<wbr></wbr>そのストレスを何かによって解決しようとしているのです。「何か<wbr></wbr>によって」というのが問題ですね。満たされない問題を代役によっ<wbr></wbr>て一時満たそうというものですから無理があります。次から次へと<wbr></wbr>代役を求めてさ迷よはなければなりませんからストレスが沸騰する<wbr></wbr>のです。いずれ爆発します。そうしたら何が満足させるのかという<wbr></wbr>ことになりますね。親鸞聖人は「煩悩の所為なり」・「いよいよ往<wbr></wbr>生は一定とおもいたまうべきなり」と言っていますが、すごいです<wbr></wbr>ね、瞬時に起こってくる様々な心の変化は「煩悩の所為」であり、<wbr></wbr>それだからこそ「いよいよ往生は一定」であるというのですから。<wbr></wbr>煩悩が悪いわけではないのでしょう。確かに煩悩はわたしの身心を<wbr></wbr>煩わしますが、それに振り回されるのは私の都合ですね。どんなに<wbr></wbr>辛いことであっても喜びを感じることもありますでしょう。その反<wbr></wbr>面、目の前のものを取ってと言われて不快感を催すこともあります<wbr></wbr>ね。すべて自分の都合に合わせているのです。それがわかればいい<wbr></wbr>のですね。そこに慚愧心がいただかれ、無慚無愧のこの身がいただ<wbr></wbr>かれるのです。親鸞聖人は今ある事実を解釈するな。煩悩のなせる<wbr></wbr>行為であると直視せよ、と教えているように私には思えます。
 「無慚無愧のこの身にて
   まことのこころはなけれども
   弥陀の回向の御名なれば
   功徳は十方にみちたまう」(『正像末和讃』)

 
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第三能変 ・善の心所 慚と愧の心所について (3)

2013-05-29 23:02:39 | 心の構造について

 『演秘』に「疏に即是れ二縁とは、顕揚の自と法と等の二は、是れ慚の縁なり」と説明されています。

 慚が、自と法とを縁として生起することを此の科段で述べています。

 「謂く、自と法とを尊し貴する増上に依って、賢と善とを崇重し、過悪を羞恥し、無慚を対治して、諸の悪行を息む。」(『論』第六・二左)

 自とは自身です。慚は自身において自ら尊愛することを生ずるものであり、法において貴重することを生ずものである、と説かれています。「増上」は自と法とにかかる縁ということです。これに依って(自と法とを尊し貴する増上力)賢と善とを崇重し、過悪を羞恥し、無慚を対治して、諸々の悪行を止息させるのである、と。

 自と法の二種を挙げて、慚の心所の意義を明らかにしています。ここでいわれている自は、我執の自という意味ではありません。法に依って見出された自という意味になります。機という意味ですね。機の深信です。機・法の二種の深信が、自ずと自を尊し貴する増上縁となり、賢と善とを崇重し、過悪を羞恥する心が生れるといわれています。これが因ですね、因となって、無慚を対治し、諸々の悪行を止息させるのであるという果を生み出してくるのです。

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第三能変 ・善の心所 慚と愧の心所について (2)

2013-05-28 22:26:26 | 心の構造について

 「論。云何爲慚至止息惡行爲業 述曰。下第二段慚・愧合解。於中有二。初別解。後總解 依自法力者。顯揚云。依自増上及法増上羞恥過惡。即是二縁。今此乃顯慚之別相。即是崇重賢・善二法。謂於有賢徳者若凡若聖。而生崇敬。於一切有漏・無漏善法。而生崇重。此是慚之別相。至下當知。對治無慚其義可知。與止息惡行爲所依。由此故惡不轉。顯揚皆例於信起五業。初皆所治別業。即皆同此。」(『述記』第六本下・八右。大正43・435a) 

 「論云何爲慚至止息惡行爲業」(「述して曰く。下は第二段、慚と愧とを合して解す。中に於て二有り、初に別して解し、後に総じて解す。自と法との力に依るとは、顕揚に云く、自の増上と及び法の増上とに依って過悪を羞恥すと云えり。即ち是れ二縁なり。今此れ乃ち慚の別相を顕す。即ち是れ賢と善との二法を崇重す。謂く賢徳有る者(ひと)の、若しは凡、若しは聖に於ては、崇敬することを生じ、一切の有漏無漏の善法に於て崇重することを生ず。此は是れ慚の別相なり、下に至ってまさに知るべし。無慚を対治すとは、其の義知るべし。悪行を止息するが與に所依と為る。此に由るが故に悪転ぜず。顕揚には皆信に例して五業を起こすと云えり。初は皆所治の別業なり。即ち皆此に同なり。」)

 『述記』の所論によりますと、「慚」の別相とは、「賢と善との二法を崇重す。謂く賢徳有る者(ひと)の、若しは凡、若しは聖に於ては、崇敬することを生じ、一切の有漏無漏の善法に於て崇重することを生ず」と述べています。

 「賢と善」を、「慚」の別相とし、「恥じる」という働きを慚と愧の通相とするという、前日に述べた通りです。

 そして、何を業とするのかといいますと、「悪行を止息させる」という意味をもつということになります。「此に由るが故に悪転ぜず」と、「慚」による為にということになりますが、「悪行を止息するが與に所依と為る」ことに依って悪行は働かない、悪行が働いていたとしても、悪行を止息させるのが「慚」の心所であると述べています。

 能対治が「慚」、所対治が「無慚」ということになります。この所は、『顕揚論』巻第一(大正31・481b)に「皆信に例して五業を起こす」と説かれていると『述記』は述べています。

「慚者謂依自増上及法増上羞恥過惡爲體。斷無慚障爲業。如前乃至増長慚爲業。如經説慚於所慚。」

 「慚とは、謂く、自の増上と及び法の増上とに依って過悪を羞恥するを体と為す。
 ① 無慚の障礙を断つを業とする。
 ② よく菩提を得、資糧を円満するを業と為す。
 ③ 自他を利益するを業と為す。
 ④ よく善道に趣かせるを業と為す。
 ⑤ 慚を増長させることを業と為す。

 この「慚」の心所は、親鸞聖人の御了解と共に、真宗におけるボランテイアを考える上で大変示唆に富んだ所論であると思います。

 

 

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第三能変 ・善の心所 慚と愧の心所について (1)

2013-05-27 22:39:14 | 心の構造について

 下は第二段 慚と愧について合わせて説明する。

 初に別解・後に総解

 「云何なるをか、慚と為す、自の法との力に依って賢と善とを崇重(すうじゅう)するを以て性と為し、無慚を対治し悪行を止息すを以て業と為す。」(『論』第六・二左)

 崇重(すうじゅう)とは、賢人と善とを尊び重んじることをいい、慚のありかたを指す。『顕揚論』巻第一に「自の増上と法の増上とに依って、過悪を羞恥すといえり」と述べられているように、慚とは、自の増上と法の増上とに依って賢と善を崇重することを本質的な性(働き)とする。そのことに於いて無慚を対治し、悪行を止息させ、過悪を恥じることが起こってくるのを業とする心所である、と説かれています。

 慚・愧という心所は、親鸞聖人も大切にされている善の心所ですが、親鸞聖人は慚愧をどのように解釈されているのでしょうか。

 『安心決定鈔』(真聖p944)に「慚愧の二字をば、天にはじ、人にはず、とも釈し、自にはじ、他にはず、とも釈せり。なにごとをおおきにはずべしというぞというに、弥陀は兆載永劫のあいだ無善の凡夫にかわりて願行をはげまし、釈尊は五百塵点劫のむかしより八千遍まで世にいでて、かかる不思議の誓願をわれらにしらせんとしたまうを、いままできかざることをはずべし。機より成ずる大小乗の行ならば、法はたえなれども、機がおよばねばちからなし、ということもありぬべし。いまの他力の願行は、行は仏体にはげみて功を無善のわれらにゆずりて、謗法闡提の機、法滅百歳の機まで成ぜずということなき功徳なり。このことわりを慇懃につげたまうことを信ぜず、しらざることをおおきにはずべしというなり。「三千大千世界に芥子ばかりも釈尊の身命をすてたまわぬところはなし」(法華経)。みなこれ他力を信ぜざるわれらに信心をおこさしめんと、かわりて難行苦行して縁をむすび、功をかさねたまいしなり。この広大の御こころざしをしらざることをおおきにはじはずべしというなり。このこころをあらわさんとて、「種々の方便をもって、われらが無上の信心を発起す」(般舟讃)と釈せり。

 と、述べておいでになります。

 『成唯識論』の解釈では、慚とは、「自と法との力によって賢と善(賢者と善法)とを崇敬し重んじること」と説明しています。「恥じる心」は賢・善とを崇敬し重んじるところから生じるのである。慚の別相は、「賢の徳のある人の、若しは凡、若しは聖において、崇敬を清じ、一切の有漏無漏の善法において、崇重を生ず」といわれています。

 「過悪を羞恥す」(過失や悪を恥じること)は、慚・愧に通ずる働きなのですね。通相といいます。通相であって、慚・愧の自相ではないということです。そこで慚・愧の自相は「かかる不思議の誓願をわれらにしらせんとしたまうを、いままできかざることをはずべし。・・・謗法闡提の機、法滅百歳の機まで成ぜずということなき功徳なり。このことわりを慇懃につげたまうことを信ぜず、しらざることをおおきにはずべし。・・・広大の御こころざしをしらざることをおおきにはじはずべしという・・・」

 この「恥じる心」は如来の恩徳を崇重することにおいて、「いままできかざることを」慚愧する心をいただけるのですね。

 『顕揚論』の主旨は「自の増上」とは、自の善心を増上縁とする、「法の増上」とは、教法を増上縁とする。このことに依って「過悪を羞恥す」ることができるといわれています。自の増上縁と法の増上縁とに依ってということです。

 そして、「慚」は「悪行を止息する」ための所依となり、過悪は転じられるのである、と。  (つづく)

 

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『阿毘達磨倶舎論』に学ぶ。 本頌 (28)  第一章第四節

2013-05-26 19:21:39 | 『阿毘達磨倶舎論』

 『倶舎論』、久しぶりの更新です。

 十八界の分類的考察 第四十二頌

 一眼で見るか、二眼で見るかの問題(前半)

 「或二眼倶時 見色分明故」

 (「或は二眼倶時なり、色を見ること分明なるが故なり。」)

 二眼見の方が色法を正しく見る、一眼見では明確ではない、ということを明らかにしています。

 後半は、根が境に接触するか否か(至境不至境)の問題。

 「眼耳意根境 不至三相違」

 (「眼と耳と意との根が境は不至なり、三は相違す。」)

 不至 - 六根の中の、眼と耳と意の三つの根の境は離れている。根が距離を置いて認識する対象(境)をいう。

 それに対して、至境とは、鼻根、舌根、身根の三つの根と境は距離を置かない。直接に認識されるものである。

 第四十三頌

 前半は、根と境の量の問題(等量境不等量境を説く)。

 「応知鼻等三 唯取等量境」

 (「応に知るべし、鼻等の三は、唯等量の境を取る」)

 鼻等の三根(鼻根・舌根・身根)は至境を認識するから、これは等量境を認識するのである。根と境が等量であるということ。それに反して、眼・耳の二根は、有る時は小量を認識し、有る時は等量を認識し、有る時には大量を認識でするから、不定である。意は質礙のないものであるから、その量を定められない、という。

 後半は、意識の依り所は直前の瞬間に過去した意であり、前五識の依り所は現在の根であることを述べる。)

 「後依唯過去 五識依或倶」

 (「後の依は唯過去なり、五識の依は或は倶なり」)

 六識の所依を説いています。

 第六意識は過去の意根に依る。

 前五識の所依は現在倶生の五根であるけれども、また、意根にも依る。所依が二種あるので倶という。

 倶は、四句分別を以て答えている。

 四句分別とは、二つの概念、有と無と云う場合、有(有る)、無(無い)、有亦無か(有り且つ無)、非有非無(有るのでもなく、無いのでもない)というように、二つの概念をもって物事を四つにわけて判断する方法。

 一に、眼識の所依であって眼識の等無間縁でないものを倶生の眼根という。

 二に、眼識の等無間縁であって眼識の所依でないものを無間滅の心所という。

 三に、眼識の所依であって、また眼識の等無間縁であるものを過去の意根という。

 四に、眼識の所依でもなく、また眼識の等無間縁でもないものを、その他を非有非無という。耳識・鼻識・舌識・身識も同様である。

 意識の所依は定んで意識の等無間縁である。しかし、意識の等無間縁は必ずしも意識の所依ではなく、無間滅の心所である。

 これが『倶舎論』で説かれる、六識の所依の問題の答えです。この説は大乗に至って問題視され、意根の所依は第七末那識であることが明らかにされます。

 

 

 

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唯識入門第六回目講義概要 分別起の我執について

2013-05-22 23:45:09 | 唯識入門
 

分別起の我執について
 倶生起に対して今度は分別起の我執についてです。
「分別の我執は亦現在の外縁の力にも由るが故に、身と倶にしも非ず。要ず邪教と及び邪との分別を待って然して後に方に起こるが故に分別と名づく」
分別の我執は、「亦」といわれていますように、虚妄熏習の内因力と、現在の外縁の力にも由るのである、と。内因力の種子と邪教等の外縁との二縁に由って生起するということなのです。『述記』には「内縁には必ず籍る。兼ねては外縁にも斥る。故に外縁に於に亦の字を説く」と説明されています。
内因とは、阿頼耶識の中の種子を内的な原因で内縁といい、それより他の外的な原因を外縁といいます。そして「内的な因(自の種子)と(現在の)外縁とより生じるが故に縁生と名づく」、因を縁起、果を縁生と分けられて説かれていますが、生まれるということは、自の業種子と父母を縁として生まれてきたということなのです。生まれながらにして外縁を待ってということが分別が起こるということは必然なのです。
倶生起の我執は、「身と倶」といわれていましたが、分別起の我執は「身と倶にしも非ず」といわれて、倶生に異なることを顕しています。
「要ず」以下は分別の義を顕しています。「分別」は、邪教の分別と邪思惟の分別という後天的な分別を待って起こる、これが分別起の我執である、と。
邪教とは、仏教以外の諸思想の説なのですが、どうでしょうか、仏教以外ですから、西洋の諸思想や古代ギリシャの思想も含まれますし、古代インドのバラモンの思想も当然含まれています。それて邪分別ですから、自我意識に色づけされた自分の考えですね、これを邪分別といわれています。大まかに言えば、無我ではなく、有我を立てた思想全般ということになります。次に、
「唯だ第六意識の中のみに有ること在り」と説かれています。
分別起の我執は、唯だ第六意識のみに存する有間断にして麤猛のものである、ということです。これは執の所在を明らかにしています。「間断なり、麤猛なり、故に此の執有り」と。(『述記』第一末・十五右)

そして第六意識以外の諸識は、浅であり、浅は前五識・第八識を指し、細(第七識)なり、及び相続(第八識)するから、横計(おうけ)という、間違って考えるという邪分別を起こすことは無い。邪分別は必ず間断し麤猛である。第八識は浅にして間ではない、前五識は間では有るが浅である。第七識は倶に無い、従って分別起この我執は第六意識のみに在る我執である。
分別起の二種の我執について
「此に亦二種あり。一には邪教に説く所の蘊の相を縁じて、自心の相を起こし、分別し計度して、執して、実我と為す。二には邪教に説く所の我の相を縁じて、自心の相を起こし、分別し計度して、執して実我と為す」
 と二種の分別起の我執が述べられています。
 一は、即蘊の我、これは前回述べました。五蘊そのものが我であると分別し、計度して実の我であると執着しているのです。
 二は、離蘊の我です。
 我と五蘊の関係から、我の三種を説く。(前回)
 即蘊 - 身と心とがそのまま我であるとする説。
 離蘊 - 五蘊を離れて独立して有るとする説。
 非即非離蘊 - 五蘊に即するものでもなく、離れるものでもないとする説。
 それぞれ個別に説明されます。
 先ず、即蘊の我を破す。
 我が五蘊に即するというのであれば、五蘊と同じく常・一ではないであろう、と。我とは常・一の義といわれていますから、五蘊もまた常・一でなければならないのです。しかし、五蘊は積集の性(仮和合)と言われていますから、無常です。無常をもって常・一の我とはいえないということです。「又」と、五蘊それぞれについて論じられます。
 「内(うち)の諸色」(肉体・五根と扶塵根)も「外の諸色」(外の物質)のように、質礙(ぜつげ)
 質礙(ぜつげ)― 物質(色)が有する二つの性質(変壊と質礙)の一つ。物のさまたげる性質。同一空間・場所を共有することができないこと。
 同一空間・場所を共有することをさまたげるものは、我ではない、ということ。 尚、変壊は、事物・事象が変化して壊れること。苦が生じる因となる。
 「心」は心王・識
 「心所法」は、受・想・行 (余の四蘊)
 これも亦た、実我ではない、なぜなら、余の四蘊は衆縁(さまざまな縁)をまって生ずるから、相続しませんし、断絶がありますから、我とはいえないですね。
 「余の行」 諸行無常の行、有為法のことをいっています。最初の二つ以外の有為法(心不相応行法)と、「余の色」、外の諸色と法処所摂の色(五根と五境)五根は眼・耳・鼻・舌・身とその対象、色・声・香・味・触、それに意識の対象となる特別なもの、意識の所縁の色を法処所摂色といわれています。意識の対象となる特別の物質。、「第六識の無辺法界の事をしる中に有る色法なり」(『二巻抄』)法処とは意識の対象となる法という領域で、五識の対象とはなりえない、ただ意識の対象となるもの、という意味です。これらが、「覚の性に非ざるが故に」、覚性とは、心・心所のことで、「非」ですから、心・心所とは別なもの、たとえば虚空のようなもので、これを我というわけにはいかない。
 五蘊に即するのでもなく、離れるのでもなく、というのであれば、我とはいえない、「瓶等の如く」とは仮法ですから、仮法をもって我とすることはできない。
「故に彼が所執の実我は成ぜず」と。成り立たない。
 と説かれていましたが、そのような自心の相を起こして、分別し計度して実我と執しているのが分別起の我執ななおです。計度は簡単にいいますと、自分の損得勘定ですね、自分にとって、損か得かの判断を刀として分別していることなのです。
 しかし、この分別起の我執の行相は麤である、麤とはあらいこと、細という、微細のような目にみえないものではなく、麤猛という荒々しいものですから、断じ易いといわれます。見道に於いてその種子を断ずることが出来るのである。
 「此の二の我執は麤なるが故に断じ易し。初の見道の時に、一切の法の生空真如を観じて、即ち能く徐滅す」と。

 余談

 「問うて云く。諸仏の経は何を以ての故に初めに如是の語を称するや。答えて云く。仏法の大海には信を以て能入となし、智をもって能度となす。如是とはこれ信なり。若し人、心中に信ありて清浄なれば、この人よく仏法に入る。若し信なければ仏法に入ること能わず。不信の者は、是事、是の如くならずと言う。」(『大智度論』巻第一)
 智とは智慧、縁起の法です。これを般若の思想というのです。また中観・中道ともいいます。これが釈尊の目覚められた法だというのですね。所依の経典は『般若経』紀元前二世紀ごろに生まれました。縁起の法はどのようにひらかれるのかというと、それは智慧による、と。
 信とは智慧なのですね。智慧はなにかというと、心を清浄にするという働きをもつということなのです。信とはチッタプラサーダ(心澄浄)だと。心澄浄が自相・自性である。
信の対は不信ですね。不信は真理に対する否定、真理を否定することに於いて心が穢されてくる。信は智慧だといいましたが、智慧でないものを疑と、疑からは善は生じないといわれています。なぜかといいますと、「疑とは、諸諸の諦と理に対して猶予するをもって性と為し、能く不疑の善品を障うるをもって業と為す。謂く、猶予の者には、善生ぜざるが故に。」
 信ずるというのは、何を信ずるのかということですね。実・徳・能を信ずる。実有を信ずる、これが信の因となります。
 1.実有を信忍する。-事実として存在している真理(真に存在するもの)を信じ理解する。信忍は仏の慈悲を信じて、安らいだ心。(三忍の一つ。三忍とは真理を悟る三種の智慧のことで、信忍・順忍・無生法忍のこと)『正信偈』には「韋提と等しく三忍を獲、すなはち法性の常楽を証せしむ、といえり」(真聖P207)と述べられてあり、信心に賜る智慧のことです。
 2.有徳を信楽する。-徳は三宝(仏・法・僧の三宝)のこと。徳あるものを信じ尊ぶということ。楽(ぎょう)は喜び慕うという意。
 3.有力を信欲する。-信欲は信心への意欲、信じようという願いのこと。有力は自分に善を修める力が有ると信じること。そしてその力を得ようとする意欲のこと。
「信」の内実は智慧だと思うのです。親鸞聖人は智慧の念仏といわれます。「智慧の念仏うることは/法蔵願力のなせるなり/信心の智慧なかりせば/いかでか涅槃をさとらまし」と和讃のなかで教えてくださっています。わたしたちの方向性は大般涅槃なのですね。その大般涅槃に至る道が智慧の念仏といわれ、信心の智慧といわれるもので、法蔵願力より賜わるものであるといわれているのです。「信は願より生ずれば/念仏成仏自然なり/自然はすなはち報土なり/証大涅槃うたがはず」といわれているのです。『愚禿鈔』には「本願を信受するは、前念命終なり。・すなはち正定聚の数に入る。・即の時必定に入る。即得往生は後念即生なり」と述べられ、真実信心の大切さを教えてくださいました。
 私たちの根源的要求は私の根源からの求めてやまないものなのですね。その要求は「~の為に」といった功利的なものではないということでしょう。私のエゴはいつでも自分のために利用しようとします。仏法をも手段とするのです。しかし私はいったいどうなりたいのでしょうか。何を求めているのでしょうか。「仏道を習うとは自己を習うことだ。自己を習うとは自己を忘れることだ」とは道元の仰せであります。自分の欲望の為にすべてを利用しようとしても、欲望は際限なく無崖底の闇にさ迷うだけなのです。「自己を問う」ことがない限り私たちはどんなに頑張ってみても現在に落在することはないのでしょう。そのような,さ迷ういの人生を翻す働きをもったのが「信」なのです。「心をして浄ならしむるは信なり」とは唯識からの提言です。私たちには限りない欲望と共に、また限りない善を求める欲求があるのです。仏道を求めるのも善の欲求です。

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第三能変 ・善の心所 信について (18) 信の作用 (16)

2013-05-22 21:43:26 | 心の構造について

 護法、論破して言う。

 「彼の二の体に離れては順の相無きが故に。此に由って応に知るべし、心を浄ならしむるいい是れ信なり。」(『論』第六・二左)

 彼(欲・勝解)の二の体を離れては順(随順)の相(自相)は無いからである。即ち、随順の自相は欲と勝解の働きであって、信の働きではない。これによって知るべきである。心を浄らかにするのが信である、と。

 「論。離彼二體至心淨是信 述曰。論主難云。若離欲・解決非順相。非彼二故。如受・想等。故論但言離彼二體無順相故。由此應知心淨爲信。忍可及欲是信之具。正理論師以忍可爲信。即當此勝解也。」(『述記』第六本下・七左。大正43・ 435a)

 (「述して曰く。論主難じて云く。若し欲と解とを離れて決して順の相に非ず。彼の二に非ざるが故に。受想等の如し。故に論に但だ彼の二の体に離れて順の相無きが故に、此れに由って応に知るべし、心の浄なるを以て信と為す。忍可及び欲は是れ信の具なり。正理論師忍可を以て信と為すは即ち此の勝解に当たるなり。)

 忍可とは、勝解のことです。忍可と欲は信の具であると説明しています。具ですから、まあ材料ということになりますね。信そのものではなく、信の具材、信が備えていうものということになります。他の大乗の異師や大衆部の論師の主張は、信の因(忍可)と信の果(欲)を信の自相と錯誤しているのである、と論破します。正義は、信は心を浄らかにする働きである、と。

 

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第三能変 ・善の心所 信について (17) 信の作用 (15)

2013-05-22 00:02:44 | 心の構造について

 護法の論破

 「若し印して順ずるならば、即ち勝解なるべきが故に。若し楽うて順ずるならば、即ち是れ欲なるべきが故に。」(『論』第六・二左)

 もし信が、印して順じるものであるならば、それは即ち勝解に他ならない。そして、信が楽って順ずるものならば、それは即ち欲に他ならないのであって、信ではない。

 前科段において、大衆部及び大乗の異師の説として、「信は随順することを以て自相とする」と主張していましたが、護法はこれを論破したことをうけて、更に反論をするという構成になっています。「その体は欲と勝解ではない」と。体は欲と勝解でなないという反論に対して護法は論破します。随順の体こそが勝解や欲に他ならない、と。

 随順に二種あるというのが護法の正義になります。一には印順は、つまり勝解である、信が印して対象に順じるものであるならば、それはつまり勝解に他ならないのである。二は、楽順(楽って順じるものであるならば)つまり、これは対象を楽うものであるから、欲の心所のことである。

 従って、「信の体は随順することをもって自相とする」という限り信は勝解と欲の心所と同じことなり、それは信ではないと論破します。

 「論。若印順者至即是欲故 述曰。論主難云。隨順有二種。一者印順即是勝解。印而順彼故。二者樂順即是欲數。樂於彼法即是欲故 若彼救言二倶之順體是信。非即欲・解。」(『述記』第六本下・七左。大正43・435a)

 「若彼救言二倶之順體是信。非即欲・解。」(若し彼救して二倶なるの順の体是れ信なり。即ち欲と解とに非ずと言わば)

 「二倶(勝解・欲を同時に備えたものが)なるものが随順の体なのであって、これが信である、随順の体は欲と勝解なのではない」というのであるならば、と大乗からの異師の再反論が提出されています。

 

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第三能変 ・善の心所 信について (16) 信の作用 (14)

2013-05-20 23:29:19 | 心の構造について

 大衆部の説を挙げ、次に論破する。

 「有るが執すらく、信は随順するを以て相と為すという。」(『論』第六・二左)

 大乗の異師、或は大衆部の論師は、法に随順することを信の自相とすると説く。

 「論。有執信者隨順爲相 述曰。或大乘異師。或是大衆部。以隨順彼法是信相故。」(『述記』第六本下・七右。大正43・435a)

 (「述して曰く。或は大乗の異師、或は大衆部なり。彼の法に随順す、是れ信の相なるを以ての故に。」)

 「応に三性に通ずべし、即ち勝解と欲なるべし。」(『論』第六・二左)

 大乗の異師等の主張であるならば、信はまさに、三性に通ずることになるであろう。即ち悪にも通じてしまう、信が三性に通じるのであれば信の体は、即ち勝解と欲とになるであろう。

 しかし信の自相は勝解や欲ではないことはすでに述べた通りである。信の体は欲ではない、また勝解は三性に通じるが、善の心所である信が三性に通じたり、悪に通じるということにはならないのである。

 「論。應通三性即勝解欲 述曰。境有三性故隨通三。若許爾者應勝解・欲 彼若救言雖言隨順體非解欲者。」(『述記』第六本下・七右。大正43・435a) 

 (「述して曰く。境に三性有り。故に随って三に通ずべし、若し爾なりと許さば、応に勝解と欲なるべし。彼若し救して随順すと言うと雖も、体は解と欲とに非ずと言わば、)

                        つづく

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