唯識に学ぶ・誓喚の折々の記

私は、私の幸せを求めて、何故苦悩するのでしょうか。私の心の奥深くに潜む明と闇を読み解きたいと思っています。

日曜雑感

2017-06-25 12:03:49 | 雑感
 
 朝からあいにくの雨模様です。梅雨前線北上で梅雨空が続きそうですね。
 今朝中部地方を中心に震度五強の地震がありました。被災地の皆様にはお見舞い申し上げます。
 今日の雑感は、読者の方からの投稿を紹介します。在家の方ですが、よく学ばれている、本当に刺激を与えてくださっている方です。
 この投稿は妄想ですと仰られたのですが、妄想では書けないと思います。若し妄想であれば、妄想であると知り得る自分に出遇れたということでしょうね。投稿していることが我見であると知り得ておられるのかどうかは聞いてみなければ判りませんが、深い眼差しをもって書いておられます。
 どうぞ、最後まで読んであげてください。

 「人生ただの死ぬまでの暇潰しか?と思ってましたが、最近は多くの縁があり、そうでもないのか?と思うようになりました。独りでは生きられないし、死ぬことすら出来ないのか。と最近は感じています。
他者との縁、ご縁は自分自身が招いているのだと感じています。
生きていく上で最大の悩みは人間関係でしょうか。最近特に感じます。自分自身が招いていて、それで苦しんでいる。おかしな話です。しかし、今見ている世界は自分自身が作った世界、とすれば、他者も自分自身が作っているものなのでしょうね。
自分自身が今見ている世界は自分自身しか見えない、他者と同じ景色を見ていても異質なものとして捉えている。
 私は、他者と世界を共有する事は出来ないのか、という問いを持ち考えています。
 例えば、お酒を飲める人であれば、お酒は自分自身の世界の中にありますが、飲めない人にとってはその世界の中にはありません。下手をすると毒にしかお酒は感じられません。僕自身飲めないから本当にそう感じています。
 ではどうすれば、他者と世界を共有する事が出きるのでしょう。
 他者すら自身の作っているものと理解し、また他者の全てを知る事が不可能だと、理解しなければならないのでしょうか。あいつはあんな奴だ、彼は、彼女は本当はあんな奴だ、と決めつけない事が重要だと思っています。
他者を自身の決めつけによって作る。これはどういった感情から生まれてくるのでしょうか?
自身を守るといった感情からだとおもいますが、他者の性格を決めつける事によって、自分自身の考えは正しい。としていると思われます。自分自身の考えだけに囚われているだけかもしれませんね。そうしなければ、自分自身が無くなるといった恐怖心にかられるのかもしれません。
他者との関係は非常に難しく、しかし生きていく上では絶対的に必要なものです。関わっていないつもりでも、電車に乗れば、車両を作った他者がいるわけで、関わっていると考えられるのではないかと。生きていくとは、他者との関わりを遮断することは不可能ということになるのでしょうね。
他者との関係は非常に難しく、いざこざも起こる。しかし他者との関わりを完全に遮断する事は不可能。ということは、人生は苦痛だけしかないのでしょうか?そうではないでしょうね。全ての問題を外の責任とするからでしょうね。自分自身は悪くない、下手をすれば悪くない、ではなく全く悪くないと決めつけている自分がいます。ここに苦しみの原因があるのでしょうね。
結局は自分自身だけの考えに囚われていないか?と問われているのでしょうね。僕自身も過去の経験から自身の考えに囚われていました。他者が僕自身を教えてくれていたのにそれを否定し、自身の考えに囚われていました。反省すべき事です。
人はどうしても過去に囚われてしまうのではないかと。過去の経験からしか物事は判断出来ないと思われます。知らないものは判断のしようがありません。
過去の経験から判断する。これが物であればまだ良いのかもしれません。しかしこれが他者を判断する場合、自身の過去の経験から他者の性格を作ってしまうのは危険な事でしょう。他者を自身の都合の良いように作ってしまい、自身の作った他者との違いがいざこざを起こすのでしょうね。
自身と他者だけの問題でおさまっていればまだよいのかもしれません。周囲の他者が入って来るとまた問題は大きくなるでしょう。何故ならいる人間の数だけ他者が作くられてしまうからです。しかし多数人間がいても二つの意見になります。善か悪か。です。中間は存在しないと思います。誰かを悪としなければならないのが自分の正体なのかもしれません。では誰が悪になるのか?です。
 自分自身を見ようとしない人間は、他者のせいにして、自身の全てを正当化します。少しでも批判されれば、他者を攻撃します。これは臆病という感情から起こってくるのではないかと思います。私自身がそうですが。
自分自身を見ようとしている人間は、外に原因があるのではなく、自分自身に原因があったのではないか?と考えると思われます。しかしこの考えも両刃の剣で、いつも他者のせいだった。と考える危険性があると思われます。自分自身を責めすぎると、自身に閉じ籠ってしまう危険性もあり、非常に難しい事と思われます。
最後に、人のご縁とは何か?自分自身を知らせてくれるのは他者しかいない、しかし他者すら自身の都合のよいように作っている。また、過去に拘りすぎて他者の言葉をちゃんと聞いているのか?また自分自身を守る為に、他者を犠牲にしてはいないか?を自分自身に問いたいと思います。
 他者を助けたい、悩んでいる人にサポートの手を差し伸べたい、この思いは、一番の自分勝手な感情なのかもしれないと感じます。助けて頂いてるのは自分自身なのに。です。」

 長文読ませていただきました。ありがとうございます。
 この文章は聞法の積み重ねの上での素直な気持ちを表現しているものと思いました。
 倫理的な側面が前面に出ていますが、大切なのは!何を鏡として自分を写し出しているのかです。
 唯識を学んでいただいて、具体的には他者が鏡になるということですね。
 例えば、他者を攻撃する、その気持ちはわかりますが、貴方の言われるように、他者は自分が作った影です。他者を見ているわけではありません。自分自身の心の影を見ているにすぎないのです。他者を攻撃しても、ブーメラン現象、自分が傷つくだけです。自傷行為ともいえます。
 自傷行為は、自分の都合が物差しになっています。なかなか見えてこないのですが、貴方の考え方の中にすり替えが伺えます。
それは、貴方自身がもうすでに気づいておられることかもしれません。私は、「あなた方のお陰で目が覚めました」という視線が必要だと思っています。それがほんとうの我愛ではないでしょうか。
又の投稿お待ちいたしております。南無阿弥陀仏
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雑感

2017-04-04 23:35:50 | 雑感

 ブログに、にしはら君が貴重なコメントをくれました。国土はfieldと翻訳されている文献があります、と。国・国土のことですが、僕たちのイメージとしてはどうでしょうか。僕は、日本国・米国・英国等の国家を思い浮かべてしまうのですが。国家は国土の上に立っているわけでしょう。counntry或はlandと翻訳されます。浄土はcountryなのでしょうか。本願文でも先ず国土荘厳が説かれます。「たとい我、仏を得んに、国に地獄・餓鬼・畜生あらば、正覚を取らじ」。そして国中人天に対して願いがかけられますね。依正二報は相離れずことを以て国土が語られているわけですが、土は本来無分別ですね。そこに国家を形成するのは人間の分別の上に立っている事柄でしょう。歴史的にみても国家は流動的です。分別起のものですね。有漏の種子に依って共依されている環境であるわけです。
 有漏の種子に依って覆われてしまっている環境も、fieldとしては無分別であるわけです。野原とか地面と翻訳されますが、国土荘厳は、野原とか地面が持っている無分別性を明らかにしようとしたのではないのかなと思っているんですが。そこに還れば平等の大地、水平の地平が存在する。それは存在性を超えた無為無漏の真如法性の世界であるわけでしょう。清浄仏国、つまり浄土と翻訳されていることなのでしょう。浄土はcountryではなくfieldだと。土の叫び、それが本願なのかも知れませんね。
 そしてそこに還れば、還った功徳として、土の叫びが与えられるのではと思うわけですが、国中人天から十方衆生に呼びかけられ、二十二願を境に菩薩衆へ、そして国土清浄にして、やがて国中人天へ願いがかけられる、これらは、counntry或はlandの出来事ではなく、fieldとして人天としては還っていくべく場所であり、菩薩としてはそこから願いをかけ得られる場所として、国土はfieldと翻訳されたのではないのかな、と。にしはら君のコメントから伺いました。
 国土荘厳が問題なのではなく、人間の分別心が領土の奪い合いになり、政争の具になり、境界のいざこざになる愚かさを、国土荘厳をあらわすことにおいて彼岸は此岸の問題であることをはっきりさせたのではないでしょうか。
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初年度講義概要 第二能変 初講

2017-01-08 11:23:18 | 雑感
  

  本年度正厳寺作までの講義は、第二能変からになります。第二能変は幾度となく読ませていただいておりますので、今回は少し丁寧に読みこなせたらと思います。「唯識に自己を学ぶ」或はブログにも投稿しておりますが、幾度となく読むことが大切な作業となります。またか、と思われるかもしれませんが、読んでも分からないところが多々あります。繰り返しの作業の中から、何か得られるところがありますならば幸いです。
  第二能変については、2011年1月1日より、ブログで更新しています。
 第二能変を釈す ・ 八段十義について
是の如く已に初の能変の相をば説く。第二の能変の其の相云何。」
(第五頌~第七頌)
 頌曰     次第二能変  是識名末那
        依彼転縁彼  思量為性相  第五頌
        四煩悩常倶  謂我癡我見
        并我慢我愛  及余触等倶
        有覆無記摂  随所生所繋  第六頌
        阿羅漢滅定  出世道無有  第七頌
 「頌に曰く、次は第二の能変なり。是識をば末那(まな)と名けたり。 彼(第八識)に依て転じて彼(第八識)を縁ず。思量するをもって、性とも相とも為す四の煩悩と常に倶なり。謂く我癡と我見と、並びに我慢と我愛となり。及び余と触等と倶なり。有覆無記(うぶくむき)に摂む。所生(しょしょう)に随って繋(けい)せらる。阿羅漢(あらかん)と滅定と、出世道とには有ること無し。」
 

 初能変・五教十理証を結んで、第二能変が述べられます。 初能変の結文は、
 「別に此の識有りという教と理顕然(けんぜん)たり、諸の有智の人、応に深く信ずべし。」
 (眼等の六識とは別にこの、第八識が存在するという教と理も明らかである。由って諸々の有智の人は心にしっかりと深く第八識が存在することを信受すべきであろう。)
 第八識の存在証明を受け、第二能変のその相はどうであろうか。 「其の相云何」で始まる。第二能変は『三十頌』では第五頌・第六頌・第七頌の三頌で、『成唯識論』では八段十義(十門)・二教六理証によって論じられている。
 初に相を十門に分け、その視点で第二能変が論じられるわけです。
 「述して曰く、下は問いに依って辨ず。此れは三の頌に依って其の第七識を十の門をもって分別するなり。初に第二能変を挙げて末那の名を出し、二に所依を釈し、三に所縁を解し、四に体を出し義を釈し、五に行相を釈し、六に染と倶ということを顕し、七に触等と相応すといえり、八に三性において分別し、九に界地において分別し、十に隠顕において分別す。即ち是れは伏断する位次なり。」(『述記』)
 『論』の長行釈の論述から「八段を以て十門を釈」されています。八段は、一に能変の体を出し名義を釈し、二に所依を明かし、三に所縁を解し、四に自性・行相門。五に染倶・触等門、六に三性門、七に界繋門、八に起滅分位門の八段を以て第七識を明らかにしている。次に第七識の存在証明として二教六理証が論じられます。二教六理証として、第七識の存在証明が必要なのか、という問いが出てきます。部派仏教から大乗仏教への大きな転換期に、部派仏教で詳細に解明されてきた六識の存在証明は必要とせず、その深層にある第八識(と第七識)の存在を証明する必要があったのですね。部派仏教ではその存在は認められていない為、論証し、部派の教説を論破する必要があったのです。その為、第三能変においては六識の存在証明は必要とされなかったのですね。
 十門が八段になる理由
 十門中の第四の自性門と第五の行相門が一つになって、第四段の自性・行相門に配当されている。自性門においては識の体、即ち自体分(自証分)を述べ、その働きである見分に関する論述であるので、一つにまとめられて、第四段の自性・行相門として述べられている。そして、第六門の染倶門と第七の相応門が一つにまとめられ、第五段・心所相応門として述べられる。第六門と第七門は識と相応する心所について論じられているので、一つにまとめ得られることから、第五段として述べられ、八段十門として分類されているわけです。
 • 第一段・出能変体釈其名義 ― 第二能変 是識名末那 ―(第五頌)1、標名門
 • 第二段・所依門 ― 依彼転 ―(第五頌)2、所依門
 • 第三段・所縁門 ― 縁彼 ―(第五頌)3、所縁門
 • 第四段・自性行相門 ―思量為 { 性 - (第五頌)4、自性門               相 - (第五頌)5、行相門
 • 第五段・心所相応門 ― 四煩悩常倶 我癡我見 并我慢我愛 ― (第六頌)6、染倶門  
 及余触等倶 ― (第六頌)7、心所相応門
 • 第六段・三性分別門 ― 有覆無記摂 ― (第七頌)8、三性門
 • 第七段・界繋分別門 ― 随所生所繋 ― (第七頌)9、界繋分別門
 • 第八段・起滅分位門 ― 阿羅漢滅定 出世道無有 ― (第七頌)10、隠顕門(起滅分位門・隠顕分別門)
 以上が八段十門の科文になります。この科文に随って『論』を読んでいこうと思います。
 「論に曰く、初の異熟能変の識に次いで、後に思量能変の識の相を弁ずべし」(『論』第四・十二右)
 長行により説明する。 (下に二文有り) 
 一に八段を以て十門を依釈する。
 二に二教六理を以て此の識有りと証する。
 初の段に二有り(初がさらに二つに分かれる)。一に、頌を解釈し、ニに問答(第七識を意と名づけた場合に起きる問題を検討する)
 本頌を解釈するのにまた二つに分かれる。一に、第七識の能変の体について説き、二に第七識が末那、意と名づけられる理由について説かれる。これは一である。
 「是の識をば聖教に別に末那と名けたり、恒に審に思量すること、余識に勝れたるが故に。」
 (この第七識は聖教において他の識とは別に末那と名づけられる、何故なら恒に審に思量すること、他の識に比べて勝れているからである。)
 本科段は名義を釈し、別名末那を釈す。
 一に「総じては識と名づける。」、末那というは意であると。阿頼耶識は心といわれ、六識は識という意義がある。総じて識と名づけられるのは、『楞伽経』に「識に八種有り」と云うをもって、識といえば通名である。『瑜伽論』巻六十三に「諸識を皆、心・意・識と名づくと雖も、義の勝れたるに随って説かば第八を心と名づけ、第七をば意と名づけ、余識をば識と名づくといえり。」というのが、聖教に説かれている証になるわけです。諸識をすべて心・意・識と名づけるのは通名である。しかしそれぞれの勝れたる特性をもって説くならば、第八識は心といい、第七識は意といい、その他の識は識と名づけられる、という証文を以て「是の識をば聖教に別に末那と名けたり」と述べられているわけです。
 二に「又、諸識をば皆、意となすと雖も、これが為に意を標して余識は然んばあらずといはぬとぞ。総称を標すと雖も即ち別名なり」と、諸識は皆「意」と名づけられるが、その働きから、第七識が意というにふさわしく、諸識に別して特に意と名づけるのである。何故ならば、「恒に審らかに思量すること」が他の識より勝れているからである。「何が故に諸識を別に意と名づけずとならば、恒・審に思量すること余識に勝れたるが故なり」(『述記』)どのように勝れているのかは、次のようである。
 • 恒 ― 第六識・前五識は恒ではない。不恒である。第六識は審らかではあるが、恒ではない。
 • 審 ― 第八識・前五識は審らかではない。第八識は恒ではあるが審らか思量するという働きはない。前五識は縁に依って生起するので、恒でもなく、審らかでもない。
 恒に審らかに思量するのは第七識のみであるので、第七識の特性である思量をもって末那と称し、マナス=意、と名づけるという。
 出世の末那といわれることもありますが、その場合は自在位によって名づけられ、そこには未自在位の末那は転依して平等性智と名づけられ、末那とは名づけないのであって、即ち有漏にのみ名づけられ、無漏には存在しないのである、といわれます。又「顚倒の思量を遠離して正思量有るが故に」、無漏にも通じて末那と名づけるのである、と。正思量の義をもって末那ということもあるのである。
 「此の名、何んぞ第六意識に異なる」(『論』第四・十二左)
 (意を以て此の識の得名とするならば、どうして第六意識と異なるというのであろうか。)
 意を以て第七識の名とするならば、第七意識といってもいい、そうならば、第六意識と異なるというのはどういうことなのか、又第七識を意といい、意識と云わないのは何故か、という疑問がでてきます。『述記』によれば、「問いの中に二有り」、二つの問いの意味があるといっています。
 「述曰。 問うて曰く、八識と言うときの如き此れも亦識と名づく。末那を意と名づけ、総と別と合論して即ち意識と名づけたり。又、『瑜伽論』六十三に云く、識に二種有り、一には阿頼耶識、二には転識、此れに復七種あり、謂はゆる眼識乃至意識といえり。即ち是れ第七を名づけて意識とす。此の名何ぞ第六意識に異なるや。一のは則ち総と別とを合して名づけたるを以て理と為して難じ、二のは論文を以て例と為して難ず。」(『述記』第四末・五十右)
 『述記』によれば、
 (1)総と別があり、総じては八識はすべて識と名づけられる。別としては第七識は意と名づける。しかし総・別を合わせると第七識を意識と名づけ得られるという。ここに第七識を意識というのと、第六識を意識というのには、どこが違うのかとう問いが生まれます。
 (2)『瑜伽論』六十三の記述から「転識に七種あり」と説かれている。この七番目の転識を意識という。そうとするならば、第六番目も意識であり、第七番目も意識であるということになり、どこにその違いがみられるのかという問いが生まれます。  
 この二つの問いから『論』に答えられているのです。簡単に説明しますと、
 (1) 第六意識は、第七識である意を所依として起こる識である。依主釈である。第七識は持業釈である。識の体、そのものが意であるということ。意即ち識である。
 (2) 恒審思量の故に意の義は、特に第七識に親しい。
 (3) 第七識は、第六識のために近所依となるということを顕さんとして、第七識を意と名づけるのである。
  「意」という名の由来
 「此れは持業釈なり、蔵識という名の如し、識即ち意なるが故に。彼は依主釈なり、眼識等という如し、識いい意に異るが故に」(『論』第四・十二左)
 この段は問いに対する答えになります。 (此の第七識を意識と称する場合は、持業釈(じごっしゃく)である。これは第八識を蔵識と名づけるのと同じであり、識即ち意である。彼(第六意識)を意識と称する場合は依主釈(えしゅしゃく)であり、これは眼根等に依る識を眼識等と名づけるのと同じである。第七識を意識という場合は識と意は同じものを指すが、第六識を意識という場合は、識と意とは異なるものである、という。)
 • 第七識は、意=識で、意が識自体を指す。(持業釈・二つ或は二つ以上の単語から成る合成語の単語間の関係についての一つの解釈の方法)
 • 第六識は、意根による識(意根を所依とする識)、即ち、意根(第七識)を所依とする識であるという意味で意識と名づけられる。(依主釈)
 総じて意識の二字を釈す。
 「意というは、是れ自体なり。識というは即ち意なり。六釈(六合釈・りくがっしゃく)の中に於いて是れ持業釈なり。・・・阿頼耶識を蔵識と名づくるが如し。識の体即蔵にして亦是れ此の釈なり。此れは彼と同なり。故に指して喩と為す。いかんぞ此の釈を為るとならば、識体即意なるが故なり。其の第六識は体是れ識なりと雖も、而も是れ意には非ず。恒・審するものに非ざるが故なり。

識等というが如し、というは眼は是れ所依なり。而も体是れ識なり。眼に依るの識なり。故に眼識と名づく。何んぞ此の釈を為るとならば、識いい意に異なるが故なり。能・所依別なり、依に従って名を得たり。」(『述記』第四末・五十左)
 意と意識の相違とは?
 第七識を意と名づけ、第六識を意識と名づける理由
 三釈挙げられています。
 第一の釈は 「然も諸の聖教には、此れが彼に濫ぜんかと恐るるが故に、第七の於には但意という名のみを立てたり。」(『論』第四・十二左)
 (第七識を意と名づけ、第六識を意識と名づける理由について、『述記』に問いが設定されています。護法の答えにたいして、護法が問いを立て、答えているのです。
 「問う、今は名を得ること既に各不同なり、何が故に六と七と並に意識とは名づけずして、而も第七の於には但意という名のみを立てるや。若し意識と名づけば是れ持業をもって名を得と顕はしつ。但名づけて意と為ること竟に何の理有るや。」 と記されています。 即ち、第七識も第六識も意識と名づけてもよいはずなのに、第六識を意識と名づけ、第七識を意という名のみを立てるのか、それにはどのような道理があるのか、という問いですね。)
 第一の釈の説明は、第六も第七も意識と称するならば混乱が起きる恐れがあるので、諸の聖教には第七識には意という名をたてるのである、という。そしてその反対の問いも立てられるのですね。第六識を意といい、第七識を意識と名づけてもいいのではないか、というものです。にもかかわらず、第七識を意というのは何故なのであろうか。前項でも説明されていましたが、意は持業釈で、意=識であり、意で第七識を説明しているわけです。意識は依主釈であって、第七識を所依として成り立っている識を意識というのですけら、これは第六識に限るわけです。いうなれば、理が成り立たないわけですね。意識という場合は「意根に依る識」なので、第七識を意識とはいわず、意と名づけるのです。
 『樞要』二「第七は持業、・・・第六は依主・・・若し第六に一の意を標して識と言はざれば、自を顕すあたわず。第七に識を加えば、依主に濫ぜんかと恐る。故に第七には但意の名を標す。・・・第六に識を加えることは他に依るが故に名を得るを顕すが故に。」と述べられています。
 
 次は第二の釈なり。
 「又意という名のみを標せることは、心と識とに簡ばんが為なり。積集し了別すること、余の識より劣れるが故に。」(『論』第四・十二左)
 (また第七識について意という名のみを標示しているのは、第七識を心(第八識)と識(前六識)から区別するためである。その理由は第七識は積集し、了別することは他の識より劣っているからである。)
 八識はすべて心・意・識と名づけることができるけれども、増勝の義によって第七識を意と名づけるのである、と。
 「積集の心の義と了別の識の義とは余の識より劣るが故に、後の心(第八識)と、前の識(前六識)とに簡ばんとして但意という名を立てたり。恒・審するが故に。」(『述記』第四末・五十一左)
 積集(しゃくじゅう) - 蓄積すること。こころを心・意・識とに分類するとき、心の堆積する働きを積集という。深層の根源的な心である阿頼耶識が表層の業の結果である種子を堆積する働きをいう。又、業の結果である種子を集起する阿頼耶識が心であると解釈する。この場合には集起(じゅうき)といい、「集起の故に心と名づけ、思量の故に意と名づけ、了別の故に識と名づく。」といわれている。
 以上のように第七識を「意」というのは、第八識の積集(種子集起)の心と前六識の了別の識とを簡ぶためである。それは、第七識は積集と了別とにおいては劣っているが、恒審思量の働きに於いては増勝の義、すぐれた特徴があるから、第七識を意と表現するのである。
 
 次に第三に云く、
 「或いは此れいい、彼の意識の與(ため)に近き所依たりということを顕さんと欲して、故(かれ)但意とのみ名づけたり。」(『論』第四・十二左)
 (或いは第七識は、第六識のために近所依となるということを顕そうとして、ただ意とのみ名づけたのである。)
 近所依の三条件について、
 • 相順すること。 - 第六識と第七識は行相相順ずるからである。
 • 計度すること。 - 第六識と第七識は計度分別すること同じである。過去・現在・未来に対して思い計り推量し執着を起こすことをいう。
 •與力 - 第六識が認識対象を認識する時は第七識が力を与えるのである。
 「七が境を縁ずる時に第六いい力を与えるに非ざるなり。故に六には識有り七は但意と名づけたり。第八も亦ぢ六に力を与えることを簡ばんとして、故に復近と言う。彼をば、遠き所依と為すべきが故に。五十一に第八有るに由るが故に末那有り、末那を依として意識転ずることを得と云へり。故に彼の第八をば遠き所依と為し、此れをば近き依と為す。」(『述記』第四末・五十一右)という。
 以上で第一段 標名門(出能変体釈其名義)の説明が終わります。次からは第二段 所依門が説明されます。
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蓬茨祖運師 『唯信鈔文意』講義より。空に沈むとは?

2017-01-08 10:37:47 | 雑感
   蓮如上人自筆 本願寺蔵

 しとしとと雨の休日になりました。屋根瓦を見つめておりますと、何故か、瓦が雨に濡れている風情はいいものですね。今日は午後三時より、旭区正厳寺様で、唯識のお話をさせていただきます。風邪が猛威をふるっておりまして、欠席のご連絡をいただいておいます。年初でもありますので、昨年の復習も兼ねて、唯識が現実の生活の中で、何を訴えてきたのかを学び得ることが出来たらと思います。
   ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
 蓬茨先生の講義より、
 「なぜかというたら、生まれて死ぬるものばかりですから、生まれて死ぬるものが、生まれて死ぬものがないんだということをつきつめてゆきますと、空。空という表現になりますでしょう。空であると。あるがままが空であると。いまわれわれがここにあると申しているが、実はないんだと。空なのだと。個々の存在、空なのだと。自分がおると思っているのが空なのだと、こういえるんですね。これもまた空に堕すんだと。空なのだというと、その空に沈んでしまう。空に沈んでしまうとどうなるか、困ることができてくる。沈むということは、息ができんことになるんです。

 なぜだというと、腹がへってくるとどうする。 「俺」 がおらんのに腹がへってくる。困りますね。 「ほっておけ、実はないんだから、そんなもの、かまうこといるものか」。 死んでしまいます。 「どうせなくなるんだから。ないものがなくなっても、もとどおりだ」 ということは、これは空見。空に堕する、という。自分だけはそれで、やせ我慢でおれるんです。自分だけ、やせ我慢しとおせるのです。つまり、おるから苦しむんです。この世におるからで、おらなくなればもう何も苦にやむことはいらん、と。これでは、 「空に沈む」 というんです。わたくしども、しばしばこの手つかうんです。わざと使うんです。人が何か苦情をもってきたりなんかする。よく聞いてあげる。 「もうしばらく待ってみたらどうだ」 というてやるんです。 「もうしばらく待ったってどうかなるか」。 「いやいや、もうしばらく待てば、どうかなるんだ」。 「どうなる?」。 「相手が死ぬだろう。あるいは君が先かもしれん。それまで待て」。 これにはよわってしまいますね。 「そういうことをいうから話にならん」 と。 「しかし、そうでないか。むこうが死んでしまえば、それでよいのだろう。問題はそれで解決。君が死んでしまったら、やはり問題はそれで解決。どっちでもよい、死ぬまで待てば、そう、青筋立てなくてもすむんだから」 と。そういうと、もういやな顔をして、それで 「私」 の問題は解決するですわね。厄介払いできます。いやな問題もってきたときには、よく聞いてやったあげくそういうのです。それで、もうあきれはてて行ってしまいます。

 「空に沈む」 ということはそういうことになるのですね。そういうことにこだわっておってはだめですね。問題がおこったらそんな、むこうが死ぬまで待っておるというようなこと、智慧のない話ですね。

 それで方便法身ということは利他、利他ということの意義なのですね。利他のために方便法身というのをもうけられるのである。そこに誓願というものが出てくるわけです。誓願というものをもうけてそこに方便法身というものを成就せられる。その方便法身がつまり智慧のかたちですね。智慧のかたち。つまり智慧のかたちは光明のかたちですから、ここに無碍光仏とか、あるいは無量光仏とか出てくるわけです。かたちはかたちだけれども、しかしかたちに即して無限ということが語られるのです。

 「御かたち」 とあります。 「御かたち」 は、荘厳という意味になりますね。このかたちはそのまま利他でありますし、したがって慈悲でありますね。利他ということは、つまり慈悲であります。大慈大悲であります。慈悲でありますからして、こんどは方便であります。慈悲によってもうけられたかたちである。方便である。ですから、智慧と慈悲と方便という。こういう意義が出てまいります。その意義をもっておるのが、この如来の尊号でありますから、したがってこの如来の尊号は、如来の誓願ですね。

 如来の尊号は、そのまま如来の誓願でありますから、それで、 「この如来の智願海にすすめいれたまうなり」 と結ばれてあります。 「智願海」 というこらどういうものかと想像すると、なにか太陽の光っておる大海原でも頭に思い浮かべねばならぬようですけれども、そう思い浮べたってさしつかえはないのですが、それよりも尊号ですね。尊号の誓願を指されるのでございますね。誓願海、智願海と申しましても、名号をもって一切衆生をことごとく無上涅槃にいたらしめんという誓願ですね。その誓願の尊号、具体的には尊号ですね。その誓願の世界、その西岸は、すなわち智慧の世界です。如来の智慧の世界でございます。その誓願海、つまり如来の智願海にすすめえええええええいれたまうのである。その智願海にすすめいれられて、智願海に入ったという自覚が、自力の智慧をもっては大涅槃にいたることなしということになるわけですね。 「自力の智慧をもっては、大涅槃にいたることなければ」 とありますが、むしろ、これは自覚でございます。如来の智願海に入ったという自覚でございますね。」
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雑感 大掃除に感じた事

2016-12-28 20:40:21 | 雑感
  

  大掃除に感じた事。
 お釈迦様のお弟子に周利槃特(梵語:Cūḍpanthaka)英語ではCuuda-pantaka (チューダ・パンタカ)という方がおられました。皆さんもよくご存じだと思います。
 レレレノレのおじいちゃんですね。このお方は、修行が出来きず、阿羅漢になることが出来ずにおりました。ある時、お釈迦様が「塵や垢を除け」と唱えなさい、そして精舎を払浄せしめるように勧められたのです。彼はそれにより、汚れが落ちにくいのは人の心も同じだと悟り、ついに仏の教えを理解して、阿羅漢果を得たとされています。
 普段の掃除とは違い年末の大掃除はほんとに大変です。見えないところや、普段は掃除をしないところは垢がこびりついています。掃いても、拭き掃除をしても落ちません。マジックリンしか有りませんね。
 逸話から思えることは、塵や垢は煩悩でしょう。見えるような塵・垢は問題ではないんですね。普段から掃除をしていますからね。しかし塵・垢を放置しておきますと、溜まります。溜まって、下の方はこびりついて落ちません。
 これはね、日常の生活の中でいろいろと起こってきます悩みや迷いは見えてるものなんですね。これはたいしたことないんです。仏教では分別起の煩悩と言っていますが、私たちがよく耳にする言葉では、我執です。我に執われている自分が居て、その上に生活をしているということになりましょう。ですから、眼が外に向いているのと同じように、自分に離れて有るものによって自分の心が乱されると思っています。
 少し戻りますが、掃除と云う一つの行為も大切なことに違いは無いのですが、いくら掃除をしても目覚めは生まれてきません。何故なんでしょう。
 僕の経験の中で思い出すことがありました。茶道の稽古に通っていたのですが、いつの頃からかお稽古場の御庭の掃除をするようになり、お稽古がはじまる前に、打ち水をしてお迎えをするようになりました。
 その当時は禅宗の論書である『碧巌録』や『正法眼蔵』なども読んでおりましたが、茶道に関する本もよく読みました。
 有る時、利休の修行時代の逸話ですが、綺麗に掃き清められ、打ち水もされたその時にですね、一本の樹の枝を揺り動かした打ち水の上に枯れ葉が舞い落ちる風情を演出されたのですね。見事な光景だと思うのですが、それをまねするんですわ。
 それはね、形だけです。何の意味もありませんでした。背景がないからですね。
 周利槃特は釈迦のお弟子の中で、もっとも愚かで頭の悪い人だったと伝えられていますが、本当にそうだったのでしょうか。僕は聡明な人だったと思うのです。お釈迦様猶ご説法を身で聴いておられたんだと思います。それが掃除をされることの異於いて、説法が聞こえたんですね。
 このことは、私の人生に大きなインパクトを与えているように思います。
 「私は何を依りところとして生きているのか」という問いに繋がるんだと思います。
 善導大師は「曠劫以来常に没し、恒に流転して」この身をいただいたと表白されていますが、仏教の覚りは「無始以来ずっと流転してきた」という目覚めが、新たな生の誕生になると教えていたんだろうと思うのです。
 流転は迷いですが、迷いは自己中心の考え方から漏れ出しているものです。それは塵や垢のようなものではなく、掃いても掃いても掃ききれない、頑固な汚れなんですね。
 この汚れは、教えに遇うことに於いてしか拭い去ることはできないのでしょう。ここに、僕は宗教の役割が有ると思うのです。
 例えば、「何々を信ずる」という行為は、「信ずる」主体は「私」ですね。この「私」が問題になったところから開かれてくる世界が「信」の世界でしょうね。
 曠劫以来流転してきたこたが「私」に出遇えた御縁であったという感動だと思います。私たちは、「自分」に出遇いたいんですよ。求めているんです。それが間違った方向に進んでトラブルを起こしてしまうのですね。間違いをを起してしまうほど煩悩がこびりついているんです。
 煩悩はお客様、人間本来のこころは「澄み切った清らかな水のようである」とする学派もあるのですが、いかがなものでしょうか。
 親鸞聖人は『正像末和讃』で「罪業もとよりかたちなし/妄想顛倒のなせるなり/心性もとよりきよけれど/この世はまことのひとぞなき」とうたわれておられますが、この「心性もとよりきよけれど」は無漏の種子を言っておられるのですね。「妄想顛倒のなせるなり」は有漏の種子を言っておられるのだと思います。無漏は有漏を包んで、超えている性ですね。如来の分限です。不可知の世界で、僕たちには手も足も出ないわけです。
 僕たちは「為せば成る、為さねば成らぬ何事も、成らぬは人の為さぬなりけり」という上杉鷹山の名言ですが、川は縦に超えることは出来ないのですね。縦は努力の積み重ねです。此れを否定しているのではありません。縦の努力を積み重ねながら、無漏法に遇うことが求められているんです。それが横超につながるんだと思います。
 何を言いたいのか、はっきりしませんが、大掃除をしての感想を綴ってみました。
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雑感

2016-07-20 23:22:36 | 雑感
  

 過去の投稿より
 「浄土真宗の正依の経典は『無量寿経』ですね。正しく依るということは、私の生活全体を『無量寿経』に問い、おまかせするということなのでしょう。「本願を説くを経の宗致とす」る『無量寿経』の根幹は第十八願です。そこに唯だ除くとしての、唯除の文が記されています。「唯除五逆誹謗正法」ですね。五逆罪と正法を誹謗する人を唯だ除く、と。この唯除の文は、一体誰を指しているんでしょうか。五逆の本質的問題は誹謗正法というてあるんでしょう。正面から言うと、誹謗正法なんですが、そこに隠されている問題は、私は何を依り所として生きているのかという問いかけであると思います。私の依り所は、三毒の煩悩といわれる貪・瞋・癡であると教えられているのでしょう。この煩悩を依り所としてしか生きていけないんですよ、ということを教えているんでしょう。貪・瞋・癡の根底に働いているのは我見ですね。我見がすべてなんでしょう。我見が五逆を生み出してくる根本の問題であることを、唯除の文は教えていると思いますね。どうあがいても我見しかないということです。そこに見出されてきた自身の姿が「無慚愧の我」でしょう。無慚愧に於いて我見が見出されてくることを唯除の文が教えている、他者の問題ではなく、自身の問題である訳です。社会を覆っている諸問題は何が問題なのか。日常茶飯事に起こってくる事件は何を起因としているのか。それを「誹謗正法」として押さえている『無量寿経』を大乗至極の教えとし、正依の経典としている浄土真宗が、正・像・末を貫いている本願一仏乗とし開顕されていることに有り難さを感ずるわけです。助かりたい、救われたいと思っていることが我見であった。どこまでいっても助からん身であった、私はあなたのこと何一つわかっていません、すべては私が作り上げた影でありました、影を見てあなたを判断している私に気づかされました、気づかされましたが、あなた自身を見ることは出来ませんということを知らされました、無慚無愧の我が身であります。私から出てくる自覚は「唯除」そのものなのではないでしょうか。「唯除」の自覚にのみ、人間性回復の道が開かれているのでしょう。

 いのちの営みは、
  はるか彼方の、いつとも知れず、あらゆる‟えにし(縁)〟のつながりにおいて、私にまで届いた。
  届いたいのちは、またはるか彼方の、いつとも知れず、あらゆる‟えにし〟のつながりにおいて受け繋がれていくのであろう。

 別境に「念」の心所がある。念の熟語には、念仏、憶念、信念etc、「念」は何を意味するのでしょう。
 念の心所は無記の性格?
 『成唯識論』巻第三に、「恒とは謂く此の識は無始の時より来た一類に相続して常に間断なくして、是れ界と趣と生とを施設する本なるが故に。」と。阿頼耶識の性格を明らかにしていますが、この一類・相続・無間断が念の性格でもあるんですね。
 念、曾習(ゾウジュウ)の境、即ち「無始の時より来た一類に相続して常に間断なく」、はっきりと記憶して忘れない性格なんですね。明記不忘だと。これが私のところまで届いている、業果ですね。欲界・人間趣・胎生という在り方を決定してきたのですね。
 人間界にのみ与えられた方向性。求める存在だということでしょう。何かを求めている。漠然としていても、不安を取り除きたい、歩む方向性を見出したい。私はどうなれば一番幸せになれるのかですね。
 仏教は大きく二つの方向性だと教えたのです。涅槃と菩提です。涅槃と菩提に背く在り方を謗法と押さえたのですね。どんなに自分の理想を描いたとしても、絵に描いた餅のようなものである、それではお腹は膨れませんよ、と。
 飛躍しますけれども、人間として生をうけたのは、涅槃と菩提を求める証として念ぜられている、憶念されているということなんでしょう。無始以来、念ぜられてきた歴史が、私を通して具体化しているのですね。生まれてからの歴史ではないということでしょう。
 人間に生まれるには、人間に生まれるだけの業を積んできたという背景があるわけです。そこには、生まれたら、人間に成れという願いがかけられているんですね。「成れ」とは「気づけ」ということと一体ですね。
 気づかなければ、「染の依他」を所依とし、染とは我執ですが、我執を所依として生きていかざるを得ないのですが、その背景に「浄分の依他」が支えている。
 僕は全くの依存症ですから、我執を所依として苦しむより、すべてを丸投げして、好きなように調理してくださいとお任せすることが楽なように思うんですがね。思いがある中はあきませんね。思いとの戦いかもしれません。今日もまた悪戦苦闘しましょう、悶々として。
 
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お詫び

2016-06-24 20:06:35 | 雑感
  

 例年、年に二回ほど予告もなく、下痢嘔吐を伴う体調不良をいただきます。今年も昨日からやってきました。日頃の不摂生が大方の因に間違いのないところではありますが、(僕の勝手な思い込みですが)ブログを待っていてくださいます読者の皆様には大変ご迷惑をおかけいたします。大変申し訳ございません。m(__)m
 昨日と、今日と、明日は掲載休止とさせていただきます。ご理解のほどよろしくお願いいたします。
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雑感 講義補足内容

2015-11-26 23:47:28 | 雑感
  

 今日は、聞成坊様で、唯識の講義をさせていただきましたが、最後はすごくはっしょってしまいました。遠方よりお越しいただきましたのに申し訳なく思っています。経量部の主張からの一段になりますが、来月の講義までに整理をさせていただきたいと思っています。
 一応の論旨を述べさせていただきますと次のようになるかと思います。ご拝受ねがえたら幸いです。
 「次科段は、経量部の説を破斥します。
 「然るに今大乗は一切有部に同じく触の体は是れ実なりと云う(『倶舎論』第十巻に説かれる)唯、経部の一師は三和して触を成ずと云う者、大乗を難じて(大乗を批判して)曰く、触は是れ三和と説かば、何が実体有ることを得んやと。彼が計を破さんとして、故に説いて云く。」(『述記』
 大乗の論破の要旨は、
 「然るに触の自性は是れ実にして仮に非ざるべし」(『論』第三・二右) と。
 経量部の主張は、三和の他に触はないんだと、いうわけですね。三和の他に触という実体は無いわけですから、触は仮ということになります。大乗は、触は仮ではなく、触の自性は実のものであると主張します。ここに三つの証拠を挙げて論証してきます。
 触は仮のものではなく、触の自性は実であることを、三因を以て証明します。第一が、六の六法の中の心所に摂められる。
 「六の六法の中に心所の性なるが故に」(『論』第三・二右)
 ここでいう、六の六法は、『界身足論』の説です。『界身足論』は、説一切有部における六つの論書の中の一つで、六つ合わせて、『六足論』と呼ばれています。足は各論という意味ですね。『界身足論』は、『(阿毘達磨)界身足論』(あびだつま かいしんそくろん、Abhidharma-dhātukāya-pāda-śāstra, アビダルマ・ダートゥカーヤ・パーダ・シャーストラ)と呼ばれているものです。
 『倶舎論』や『阿毘達磨順正理論』等で言うところの、六内処・六外処・六識身・六愛身・六触身・六受身とでは少し違って説かれています。
 『界身足論』には、六識・六触・六受・六想・六思・六愛の六の六法を表しています。
 六識は、六識身のことで、眼識・耳識・鼻識・舌識・身識・意識の六つの集まり。
 六触は、六触身のことで、眼触・耳触・鼻触・舌触・身触・意触の六つの集まり。
  触とは、根(感覚器官)と境(認識対象)と識(認識する心)との三つが和合したところに生じ、生じたところから逆に和合せしめる心所をいい、根・境・識とのそれぞれ六つあ  り、三者の結合から生じる触にも六つあることになります。
 六受とは、六触から生じる六つの受の集まりことで、まとめて六受身と云う。
 六想とは、六触から生じる六つの想の集まりことで、まとめて六想身と云う。
 六思とは、六触から生じる六つの思の集まりことで、まとめて六思身と云う。
 六愛とは、六触から生じる六つの貪愛の集まりのことで、まとめて六愛身と云う。
 この場合の身とは、触所生の受身・想身・思身・愛身のことですが、すべて触から生じるということで、これが触れが自性あるという根拠になるわけです。個の根拠を以て、経量部の仮法であるという主張を論破してきます。
 「触は別に体有るべし。六の六法の中に心所の性なるが故に」(『述記』)が結論として説かれてきます。
 第二の因は、食(じき)に関してです。 
 「是れ食に摂むるが故に。」(『論』第三・二右)
 食は四食を指しますが、食が体を支えている。つまり、身を養う段食・触食・意思食・識食の食事をいいますが、この四つは身体を維持する支えとなる食なんですね。例えば触食ですが、触れるという食事という意味なのですが、私はあなたとの触れ合いの中で私の身を養っているし、養われていることなんですね。触ることにおいて身体を作っていることは、仮のものではないという証明になるわけです。
 段食(だんじき)は、食べ物一般のことですが、私と関係する時には、口の中に入れて噛み砕き、段々と食べることから段食といわれます。これも私の身体、命を支えているものですから仮のものではありませんね。
 意思食(いしじき)とは、意志と云う食事。意思を食事に喩というわけですが、浄土に生まれようと意欲を起こし希望することが心によい影響を与え、それが身体を養うことにつながるのですね。
 識食(しきじき)とは、心の深層識である阿頼耶識によって身体が生理的に維持され、寿命全うするまで腐食することなく存続されていることから、識を食に喩て識食といっているわけです。
 『成唯識論』では巻第四冒頭に、四食の証明が引かれてあります。『選注』ではp69~p71になります。
 「この四は能く有情の身命を持して壊断せざらしむるが故に名けて食と為す。」と説明されています、つまり、有情の身命を保って、身命を壊さないで保持していく働きを持つのが食だというわけです。
 冒頭の文章は、
 「契経に説かく。一切の有情は皆食に依って住すと云う。若しこの識無くば彼の識食の体有るべからざるが故に。謂く契経に説ける食に四種あり。」ここから説かれるわけです。
 触の心所は実で有ることの証明をしているところですが、十二支縁起をみましても、「触を縁として受あり、受を縁として愛あり」といわれていますように、触は直接受の基礎になっている、受の所依は触であることを語っています。このことは、五遍行においても、触が、受・想・思の所依であることを明かししているものと思います。
 『論』の「能く縁となるが故に」ということは、触が実有であり、受・想・思の所依と為ることを明らかにしているわけですね。
 『述記』にも、
 「縁起支の中の心所に摂むるが故に。愛は取に縁たるが如し。愛は思の分位なるが故に彼も亦実なりと許す。諸の心所の支は皆是れ実有なるを以てなり。・・・」と。
 受(感受作用・感情)は触が元になっており、触は処が元になっているわけです。処は根・境・識ですね。つまり、十二処・十八界が触の背景になっている。六根・六境と六識の三和から触が生起してくることが解ります。しかし、触ということが、すでにして三和しているということなのです。三和が因として、果は触。触を因として三和が果という構図になります。
 ここも、因縁変として説かれ、分別変ではないということです。考えられたものではなく、事実を事実たらしめているもの、それが触であるということ。三和して触が生まれると云うけれども、触という事実が、三和しているという事実になるわけです。説明すれば、交互因果関係になります。
 種子としてあるときは、三は和合していないのですが、種子が縁に触れて現行する時に、変異して分別(ぶんべつ)
するわけです。もの柄が違ってきます。種子が相をもつわけです。それが三和生触ということなのですね。
 安田先生は、 
 「かくのごとく、三和の用きを触が分別しているから、心心所を境に触れしめる。それが自性になる。一切の心心所を和合して、一つのグループとして境に触れしめる。つまり、眼識が起こるなら、眼識は色の知覚であるが、そうすれば、そこに色についての感情が起こる。声として境に触れれば、声というものについての感情が起こる。
 かくのごとく、触が一切の心心所を境に触れしめるのが自性であるから、他に対してはそれをもって受・想・思の根拠になるのである。」(『選集』巻第二、p211)
 と教えてくださっています。
 触は仮有のものではなく、実有であることの第三の証明として、十二支縁起で説かれている、触・受・愛を出していました。「縁起支の中の心所に摂むるが故に。愛(欲望・渇愛)の、取(執着行動)に縁ぜるが如し」(『述記』)と。
 行相所縁門をうけて、心所相応門が展開されているわけですが、種子から現行を生起する時に、根・境・識が三和合し、境に触れしめる心所として、触が語られるわけです。触れたら、そこに新たな実種を生みます。それが「異熟識が持する所の一切の有漏法の種なり、この識の性に摂めらるるが故に、是れ所縁なり。」と説かれていることなのですが、これに先立って『唯識二十論』には、次のような記述があります。
 「識は自の種従り生じ、境の相に似て転ず。内・外の処を成ぜんが為に、仏は彼を説きて十と為す。(第八頌)
 「論じて曰く、此れは何の義を説くや。色に似て現ずる識は自の種子の縁が合し転変差別すること従りして生ず。・・・」
 つまり、阿頼耶識は阿頼耶識の中にインプットされた種子より生じ、外境に似て、似た相を顕現しているわけです。
 「仮に由って我・法と説く。種々の相転ずること有り。彼は識が所変に依る。」と、識の所現は、識の所変に依ることを明らかにしたわけです。
 「識体転じて二分に似るを倶に自証に依っておこるが故に」と。
 種子から現行が生じてくるのは、種子が自己内容となることなんです。ですから、いかなる種子を植え付けるかが問題となりますが、ここで問題となることは、縁生なんです。阿頼耶識の種子より現行を生じてくるのは、縁起されたものなんですね。
 「任運に法爾にこの現前の境遇に落在せるもの」が自己存在なんですね。ここには分別の入り込む余地はないんですね。蓮如上人は「仏教は無我にて候」と教えてくださっていますが、本来、似我・似法であって、実我・実法は存在しないのです。執して、謬って錯誤しているにすぎないのですが、私たちは、無常の風に流されながらも、生まれて死ぬまで、一貫して変わらない自分が存在していると思い込んで、自分に執着を起こして暮らしています。
 ヒントになるのが、
 「阿頼耶を依と為して、故(かれ)末那転ずること有り。心(第八識)と及び意(第七識)とに依止して、余の転識(六識)生ずることを得と云う。阿頼耶識の倶有所依も亦但一種なり。謂く第七識ぞ。彼の識無くば定めて転ぜざるが故に。論に蔵識は恒に末那と倶時に転ずと説くが故に。・・・」(『論』巻第四)
 ここはしっかりと学ばなくてはいけないところです。課題として提起しておきます。
 そこで問題提起されているのが、第四頌第三句です。
   「恒転如暴流」(恒に転ずること暴流のごとし)
 第八識は、間断することなく、恒に(無始以来・未来永劫に亘って)転じている。あたかも、ナイアガラの大瀑布のようにです。この科段は後に詳細を述べますが、第七・因果法喩門と呼ばれています。「相続」と「因・果」が課題として提起されています。
 先ず、断見・常見の問題です。
 「阿頼耶識をば、断と為すや、常と為すや。」
 輪廻と我の問題です。十二支縁起も、無我の道理を理解できませんと、「我」が存在して、それが輪廻するということになってしまいます。しかし、私たちは我を依り所として生命活動を起こしています。
 自業自得という言葉がありますが。自らの造った種は自らが摘み取らなければならないということなんです。道理なんですね。縁起されたものなんですが、自らが引き受けることができないという問題が起きてきます。縁起に逆らうわけですね。本来は縁起されたものなんです。
 「阿頼耶識は断にも非ず常にも非ず。」と。
 ここで、一類相続という、無覆無記性として恒相続しているが明らかにされます。
  「受等の性の如く即三和に非ざるべし」(『論』第三・二右)
 「触」は仮のものではなく、実の用きがあるものであることの結論を述べます。
 経量部の一師は「三和成触」という、触は即ち三和のことであって、触は仮に説かれたもので実のものだはないという主張します。。それが先に述べました、三因に由って実であることの証明をしてきたわけです。
 また経量部の一師は、三和して触を生ず(「三和生触」)と主張する。三和して触を生ずる触は三和ではないと説いているわけです。
 また説一切有部の主張は、触の体は実であるけれども、変異に分別して心心所等を生ずることはなく、ただ受等の所依になることを業とするものであると説きます。
 これらの主張を、前段では、三因を以て論破したわけです。結論の言葉が「如受等性非三和」という本科段になります。本科段の意味するところは、受等が実であるように、経量部の一師が主張する「三和が即ち触であり、三和以外に触というものはないから、三和=触であり、触という実はなく、三和そのものが触であるから、触は仮のものである。」ということはないんだと云っているわけですね。
 三和と触との関係は大変難しいところではありますが、大乗は「触の自性は是れ実にして仮に非ざるべし」と説きます。そして有部との違いは「三和して変異に分別す。心心所を境に触れしむるを以て性と為す」と。
 触は実のものであり、境に触れしめる作用があるんだと主張しています。触・受・愛ですね。触れたその時は、受の所依となることはあっても、それほどの執着はみられないのですが、触・受となりますと、受は愛着の所依となりますから執着が深くなってくるわけですね。五受相応とみましても、迷いがだんだんと深くなってきます。
 触・受は実の作用あるものですから、十二縁起の中に入っているわけですし、遍行の心所にも入っているということになります。仮に説かれたものではないということなんですね。
 やっぱり、触は因縁変なんでしょうね。考えて触れることはないんでしょう。触れた瞬間に、同時にバラバラであった根・境・識が三和して認識が起こる、触れても、認識が起こらない場合がある、その時は三和していないということであって、三和していないと対象を認識しませんから、触の心所は動いていないということになるのでしょう。
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雑感

2015-08-22 23:52:53 | 雑感


 仏教用語 - 退屈 -
 仏教語辞典によりますと、「退」は、しぞくこと。「発心が退く」、その反対が、「出世道によって煩悩を断ずる者は定んで退あることなし」、或は「長時に無間に精勤し策励し心に怯弱無く退屈なし」といわれています。「屈」は屈する。降伏すること。つまり、仏道を求める心が退き屈することなんです。
 仏道を求める階位は、四十一の階位(十住・十行・十回向・十地・仏果)の十住の初めの初発心位、ここからですね、加行位の初地に至るまで、一大阿僧祇劫の時間を費やして仏道を歩みつづけるわけです。初発心の菩薩は勇猛精進にして、自利利他円満の世界を求めて退くことのない行を積み重ねていくわけです。いうなれば善行です。この善行が有漏の種子を揺さぶり、少しづつ有漏種子を断滅して、無漏種子を開発していくのですね。これが不退という意味になりますね。
 退屈はその逆です。
 本来の意味は(仏道からの観察では)、仏道を志そうとする発菩提心が、仏道修行の在り方や実践行を聞き、或は、二の重障(煩悩頌・所知障)の断じ難いことを聞いて、菩薩行の躊躇や断念があると『成唯識論』には説かれていますが、このような、躊躇断念することを「退屈」と云うのですね。
 世間の解釈とはずいぶん違いますが、暇という意味ではないんですね。目標が定まらない、目標を断念すると、そこに虚無感が漂ってくる、このことを指して「退屈」といっているようです。
  Wikipediaの解釈ですと、「退屈は、なすべきことがなくて時間をもてあましその状況に嫌気がさしている様、もしくは実行中の事柄について関心を失い飽きている様、及びその感情である。ある程度の時間にわたって、興味(好奇心)を持てる感覚的な刺激が得られない状態で、その状態を維持することを求められると、当初はどのようなものかに興味が持てるかもしれないが、その内容に見通しがつき、それが興味を維持できないものであった場合、飽きが来る。それでも止めることを選択できない場合、それを続けるのが苦痛になる。この状態が退屈である。教科書をただ棒読みするだけの先生の授業や、会社での単調な作業はひどく苦痛である。これが退屈という感情である。」とでていました。世間と出世間の違いを見るようで面白いですね。

 退屈は不退に対する言葉なんでしょうね。親鸞聖人は『一念多念文意』において、次のように語っておいでになります。
 「『無量寿経』の中に、あるいは「諸有衆生 聞其名号 信心歓喜 乃至一念 至心回向 願生彼国 即得往生 住不退転」と、ときたまえり。「諸有衆生」というは、十方のよろずの衆生と、もうすこころなり。「聞其名号」というは、本願の名号をきくとのたまえるなり。きくというは、本願をききてうたがうこころなきを「聞」というなり。また、きくというは信心をあらわす御のりなり。「信心歓喜 乃至一念」というは、信心は如来の御ちかいをききて、うたがうこころのなきなり。「歓喜」というは、「歓」は、みをよろこばしむるなり。「喜」は、こころによろこばしむるなり。 うべきことをえてんずと、かねてさきよりよろこぶこころなり。「乃至」は、おおきをも、すくなきをも、ひさしきをも、ちかきをも、さきをも、のちをも、みな、かねおさむることばなり。「一念」というは、信心をうるときのきわまりをあらわすことばなり。「至心回向」というは、「至心」は、真実ということばなり。真実は阿弥陀如来の御こころなり。「回向」は、本願の名号をもって十方の衆生にあたえたまう御のりなり。「願生彼国」というは、「願生」は、よろずの衆生、本願の報土へうまれんとねがえとなり。「彼国」は、かのくにという。安楽国をおしえたまえるなり。「即得往生」というは、「即」は、すなわちという、ときをへず、日をもへだてぬなり。また即は、つくという。そのくらいにさだまりつくということばなり。「得」は、うべきことをえたりという。真実信心をうれば、すなわち、無碍光仏の御こころのうちに摂取して、すてたまわざるなり。「摂」は、おさめたまう、「取」は、むかえとると、もうすなり。おさめとりたまうとき、すなわち、とき・日をもへだてず、正定聚のくらいにつきさだまるを、往生をうとはのたまえるなり。・・・
 、「それ衆生あって、かのくににうまれんとするものは、みなことごとく正定の聚に住す。ゆえはいかんとなれば、かの仏国のうちには、もろもろの邪聚および不定聚は、なければなり」とのたまえり。この二尊の御のりをみたてまつるに、すなわち往生すとのたまえるは、正定聚のくらいにさだまるを、不退転に住すとはのたまえるなり。このくらいにさだまりぬれば、かならず無上大涅槃にいたるべき身となるがゆえに、等正覚をなるともとき、阿毘抜致にいたるとも、阿惟越致にいたるとも、ときたまう。即時入必定とももうすなり。・・・」
 傍線の部分は吟味を要すると思いますが、私たち、人生の目的は「無上大涅槃にいたる身」の確立なんでしょう。ここにですね、「不退」という言葉が大きな意味を以て、私に仏道を歩めと背中を押し続けてくださるのでしょう。ですから、不退に退転する在り方が、「退屈」ということになってくんだと思います。

 
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日曜雑感

2015-07-20 00:09:55 | 雑感
 
 日付が変わりましたので、昨日のことになりますが、暁天法話にひきつずき、名古屋東別院に寄せていただき、阿久比の東光寺さんに勝手にお邪魔しました。心からのおもてなしを受けまして感激しております。有難うございました。
 暁天法話で話させていただいた内容とは少し異なりますが、皆さま方にも聞いていただきたく、またご批判を賜りたく、あつかましくもありますが投稿させていたできます。
 
 「おはようございます。今年もまた、たわいのない話で終始すると思います。早朝より足をお運びいただきましてありがとうございます。一時間足らず、私に時間を頂きまして、愚痴を聞いていただく機縁を得ましたこと深く感謝いたします。
 一昨年、昨年と同じような話をし、今年も同じような話になると思います。今日は、私が、何故仏教を求めたのか、何故触れた仏教を捨てたのか。そして自己中心の欲求の中に埋没し、人間性を失っていったのか。やがて、仏教に依り所を得て生活をするようになったのか、このようなことを考えてみたいと思っております。
 何故、考えてみようかなと思ったのは、私にとって一番触れたくない部分なんです。しかし触れたくないけれども、今の私を形成していることを思えば、やはり避けて通れないと思ったからです。
 私が仏教を求め、仏教を捨て、やがて仏法に出遇うという、私の中で、三つの転機がありまして、最初は、偶々の御縁なんです。付せんになっていたのは17歳の折でしたか、「死んだらどうなるの」という疑問を抱いたことですね。朝、眼が開くのかどうか、若し開かなかったらどうしようという恐怖心にかられたことを思い出します。
 そのことがずっと引っかかっておりまして、19歳の時でした。たまたまお茶の稽古で通っておりましたのが浄土真宗大谷派の寺院だったのです。先生でもある坊守さんからお声掛けを頂きまして、仏青の面々にお茶の手ほどきの手伝いをすることになりました。茶室で飛び交う話は仏教の事ばかりでした。非常に興味を引きまして、仏青や同朋会の法座にも出させていただき、浄土真宗の教えに触れさせていただきました。
 常識破れの話ばかりで、さっぱりわかりませんでしたが、何故か心に響くものがあったようです。
 何が心に響いたのかを知りたく、聖典を読むようになり、「私の生きる道は、これしかない」とまで思うようになっていきました。
 しかし、私の求道が本物かどうか、ためされました。仏教に自己逃避しているのではないのか。本当に世間を棄てることができるのか。いわば親子の縁を切ってまでも仏道に生きる覚悟があるのか。
 今から思えば、そんな求道に生きる覚悟なんてなかったんですね。わずか二年余りの求道生活も終焉を迎えました。この時です。僕の求道心を阻害したのは、親でもあり、お寺でもあると、責任をなすりつけたのです。いろんな障害が有って、その障礙をのりこえる勇気をもてなかったです。 責任転嫁するという形であっさり仏教を捨てることになりました。それ以来、お寺に顔を出すこともなくなり、仏教書もよまなくなり、ただただ欲望のままに生活をしていたようです。
 自分を解放する仏法に出遇いながら、自分を閉鎖する我欲を選んだのです。我欲の生活が20年ほど続きましたが、やがて大きな転機が訪れました。「本当にこれでいいのか」という問いかけです。
 これは仏教を聞いたことが、私の無意識の中に染みついていたんですね。そのことをを引きずっていたんです。ここは非常に大事なところだと思います。聞いたことが無駄ではないということですね。我欲の中で、「これでいいのか」という問いかけが起こっていたんだろうと思います。
 その問いかけに耳を貸さない自分と、受け入れなければならない自分との葛藤が起こりましたが、そう簡単に耳を貸そうとはしませんでした。「仏法を聞いて何か役にたつのか、聞いてなんとかなるのか」というささやきが、仏法聴聞に対して
 抵抗するだけ抵抗し、仏法を拒否し続けたのです。しかし、偶々の御縁で子を賜ることに成り、子の誕生が引き金となってですね、この子に「お父さん、生きるってどういうこと」、と問われたら何と答えたらいいのだろう、ふとこんなことを思ったんです。
 何故思ったのかはわかりません。
 仏法は聞いていないようで、聞こえていたということがあるのでしょうか。その時、我が子を抱くのと同時に、私を生んでくれた母のことが脳裏をかすめました。私は母の顔を記憶していることは無いのですが、母が何故私を生んでくれたのか、母の苦しみが伝わってきたんです。それは、仏教の話は、自分を超えて聞こえてくる、聞こえているということが有るように思われてなりませんでした。
 「真心徹到するひとは 金剛心なりければ・・・」
 不思議とこんな言葉がでてくるんですね。
 「仏法聴聞は身に染み入る」こんな声をよく聞きます。細胞の一つ一つが感じ取っていく世界が有るように思うんですね。先達は「毛穴から染み入るんだ」と教えて下さいました。仏法は頭から入るのではなく、毛穴から染み入るんだと。仏教学と云う学問は頭から入る。そういう意味では、若いころの聴聞は、仏法を聞いていたのではなく、仏教を頭で聞いていたんでしょうね。これもまた意味のあることではあるとは思いますが。
 毛穴からしみいるというのは、直接深層の心の中に届いているのかも知れません。そのことに目覚めたのが「信」だと思うんです。深層の心の中に徹到するんだと思います。
 深層の心はどこにあるのか、といいますと、どっかに、ここが深層の心だといえるような場所は実体としてはないんでしょうね。そうではなく、肌で感じるものが有るんだと思います。いわば純粋経験ですね。
 私たちの経験は、間接的経験なんですね。第七末那識という「私」を通した経験になりますから、経験をつかむことになり、経験主義が生まれてくるんでしょう。つかんだら執着を起こします。しかし純粋経験は執着を起こしません。
 何故感じるのかです。それは私たち一人一人が求めてやまないものがあるということだと思います。その求めているものが、仏法に出遇うことにおいて応ずるwけでしょう。私は、私が求めているものは、我欲からしか伺うことはできません。我欲という、独りよがりな欲求を通して、本当に純なる欲求に変化するような、願いという、清浄意欲に目覚めなさいと教えて下さいましたのが、親鸞聖人ですね。
 貴方の求めているのは「往生浄土の道」だと。浄土を明らかにしたい、このことひとつであると教えていただいているんですね。
 子の誕生が、私をして仏法の場に足を運ばせてくださいました。
 縁となりましたの、清浄な欲求ではありません。我欲です。不純な欲求です。私には、私は非常に依頼心が強いですから、無謀なむさぼりと、むさぼりが果たせない時の怒りしかありません。
 このことが教えられるのですね。聴聞の利益は、無明を知らせていただく、そこに開かれてくる道がある。それを白道というわけでしょう。むさぼりと怒りで閉ざされた扉は「聞」という鍵をもって開けるしかないということでしょう。
 自分の心を閉ざしておったのは、むさぼりと怒りしかない自分であったと気づかせてくれるのではないですか。仏法に遇っていますから、
 「獲信見敬大慶喜」(信を獲れば見て敬い大きに慶喜せん)
 「即横超載五悪趣」(すなわち横に五悪趣を超載す)
 横超断四流(四流とは、『帰三宝偈』欲暴流よくぼる・有暴流うぼる・見暴流けんぼる・無明暴流むみょうぼる。 煩悩ぼんのうを四種の暴流に喩えたもの。 (玄義分)
 という世界が開かれてくるのではないでしょうか。無明は責任回避だと思います。無明は自分が作り出したものという眼差しですね。閉ざしておったのは私であったという気づきです。
 ここが聞即信といわれていることではないかなと思うわけです。
 教えに依って明らかになった自己、一人で生きていたように思っていたけれども、いろんな人からのお力添えを以て生かされていた。人は他とのつながりの中でしか生きることが許されない事実に目を覆い、その事実を知らしめた教法をも顧みずことがない者は、孤独の闇に彷徨うわけですね。私の場合は正にその通りでした。
 孤独の闇という表現が難しいですね。私たちは明るさを知っていますから、これが闇なんだと思うわけですが、そしたら、明るさとは一体何んだろう、と思うのです。漆黒の中では、一歩も足が前に出ません。眼は道標ではないんです。道標が無くなったら、何を頼りにしたらいいんでしょう。私たちは、自分自分と言って、自分を頼りに生きていますが、一番分からない存在が自分でしょう。自分とは、依り所がはっきりした存在であると云えるのではないでしょうか。依り所は「他」です。他によって明らかにされた存在が自分、それは闇の中では一歩も歩を進めることができない自分に出遇ったということではないですか。
 闇の中では、何を頼りに生きたらいいのでしょう。闇とは恐怖そのものです。なんとかここから脱出したいと思うのが自然の摂理です。闇を知らないものですからのうのうと生きていられるのかもしれません。闇の正体を知れば、恐怖そのものではないでしょうか。教えを通して恐怖を知る。知った恐怖を通して、もがいてもがいて脱出を試みるわけでしょう。
 では、私たち、闇から脱出を試みる努力をしたでしょうか。恐怖を通さずして、親鸞聖人の教えはこうだと安易に了解していませんか。火の河・水の河の前で立ち止まる訳ですが、立ち止まることが大事ですね。立ち止まった所に、立ち止まらせた智慧が働いていたのですね。依り所とはそういうものではないでしょうか。人生の恐怖心は、恐怖心に寄り添って智慧が存在するんですね。歩いて行ける道標がね。
私たちは、善業や悪業について、世間の中の価値観で判断していますが、本当はそうではなく、「不善の三業は、必ず真実心の中に捨てたまえるを須いよ。またもし善の三業を起こさば、必ず真実心の中に作したまいしを須いよ」なんですね。
 ですから、私たちの課題の一つは、何が真実なのかですね。自分から発生する何事も不善です。「中に虚仮を懐いて、貪瞋邪偽、奸詐百端にして、悪性侵め難し、事、蛇蝎に同じ。三業を起こすといえども、名づけて「雑毒の善」とす、また「虚仮の行」と名づく。」と親鸞聖人は教えて下しました。
 「自分に会いたいけど会いたくない」、私たちが教えに会いたくない理由の一つに「自分に会うのが怖い」という一面があるように思えます。本当の所を知りたいのだけれども、知り得るのが怖い。例として適切でなないと思いますが、私たちは死を宣告された病を引きずっているのではないでしょうか。それを経済至上主義の元に何とか忘れようとして日暮をしているように思えます。求めている先は竜宮城。時を忘れ、いつしか若さも失って、過去の栄光にしがみついて、やがて訪れるであろう死と向き合わなければならない時、「自分の人生は何であったのだろうか」という虚しさの中で人生の終焉を迎えなければならないと云う現実があるわけです。
 私たちは常日頃、他者の死は目撃するわけです。他者の死でしかありませんね。他者の死だから、「亡くなられたんや」ですまされるわけです。これが自分の死であったなら、こんなこと言うてられません。何故、他者の死を通して自己の死に向き合うことができないのでしょうか。僕は、「したくない」と思っているからではないですか。恐れがあるんだと思いますね。自分が死ぬことは恐怖なんです。
 死を遠ざけていることがことが、自分を縛ってくるものであるとも知らず、死と生を分離し、死を忌み嫌い、生の謳歌の元に生き甲斐を模索しているのが私の姿でありました。。
 光があっても見えず、闇の中に一筋の光を見る。
 光の中に闇を見れば、闇は消えてなくなるわけですが、光なく、闇が闇であったという闇の経験は恐怖そのものでしょう。絶望しかありません。開放される手だてが無いからですね。真実が明らかにならない限り、自分の価値観で、自分を問うならば、絶望の淵に沈まざるを得ないと云うことだと思います。
 しかし、闇の中で輝いた一筋の光(仏法に遇ったという事実)は、私を解放してくれます。何故なら、闇は光の中で闇だと知らされたからです。闇でも問題はないのです。闇でも歩けるんですね。
 人生の中で、生き方に疑いを持つ、「このままでいいんだろうか、このような生き方でいいのか」。繰り返しになりますが、僕は19歳の折に「生きるってどういうこと、死んだらどうなるの」という疑いをもちました。そうしますと、死にたくないものですから、眠れなかったですね。朝、目が開く保障はどこにもないからですね。疑いが晴れない恐怖があるんです。それはまた、晴らしたいけれども、真実を知ることが怖いということでもあるんですね。しかし、自分と云う者は都合のいいもんです。いつしか忘れます。忘れて世の中に埋没していきます。埋没した人生が20年つづきました。生きててよかったですね。疑いを持ったら、疑いが晴れるまでは死ねん、死なさないということでしょうか。
 「教えに遇うこと・・・恐怖」ということは、僕の場合で云えば、「この道一つ」と決意した時があったわけです。どのように聞いていたのかはわかりませんが、教えに自分の生き方を尋ねていた時期もあったのです。退転して以降は、教えを閉ざしたんです。「悪道に堕す」とはこのことです。一旦教えに遇った者が遭遇するジレンマが恐怖心ですね。教えと自我の葛藤の中で、襲い来る恐怖があるんです。それは、後悔と云う名の恐怖ですね。これは簡単には解けないです。
 「何故自分は退転したのか」、此処に立つ時、どうしてもその責任を他に向けます。避けて通りたいんです。避けて唯識を語っておればいいわけですが、そうはさせてくれません。どうでしょうか、避けて通れれば通りたいのではないですか。それは恐怖心が立ちはだかっているからでしょう、そのように思います。しかし、恐怖心を超えて、恐怖心を御縁として本願念仏の教えに出遇っていくのではありませんか。
 どうも、意を尽くすことは出来ませんが、教えに遇うということは、否応なしに自分に向き合わなければならない。向き合うことの怖さだと思います。でもここを突破しないと、教えに出遇うということは成り立たないのではないでしょうか。
 僕の課題も、當に此の一点です。もう一つ、恐怖心は妥協を求めてきます。これがまた怖いですね。新たな闇を作りだしてきますからね。「群賊悪獣のささやき」、もうこれでいいのではないか、「一生懸命信じたら願いはかなうで」、これは楽ですよ。自分を問うことが有りませんからね。これが新たな闇であるということなんです。自分の利を求める余り、自分の利に叶う教えが四伸び依ってくるんですね。自分の利とは名聞・利養・勝他の三種の神器です。是さえ叶えば鬼に金棒というわけです。大きな間違いを犯すんですね。
 「身命を惜しまず、晝夜精進して頭燃を救ふがごとくすべし」
 大乗仏教徒は、仏道を志す原点における自己回避の事実に眼を背けることなく、仏道を自己から逃避する為の道具にすることなく、求めるに先立っての怖れに向きあっているのではないでしょうか。そこから生み出されてくるのが「無慚・無愧の我が身にて」という悲歎ではないかと思われてなりません。
 仏法は難しい教義を覚えるのではないと思います。また仏法を聞いても日常の生活が変わることもありませんね、価値観は変わるとは思いますが。何が変わるのかと云えば、本当は、外器(世間)は私が作り出したものであって、自分が作り出した世界を自分が見て、判断を下して、これは黒板である、ここはお寺であると認識を行っているに過ぎないのです。(認識が生まれる前提に(黒板というものを知っている私が居る)知っていることがある。知らなかったならば認識することはない。)
 例えば外界が存在するとしましょう。その外界は、私の心が外に投げ出したものといえると思います。外界に触れた時に、外界そのものを具界心の領域で受け止めているわけです。ありのままです。言葉は介在しません。言葉を以て認識が起こる時は、深い心が受け止めた映像を六識を通して持ち直すという現象が起こってきます。そこに介在するのが我欲と云われる自己執着心なんですね。自己執着心は、深い心の領域に触れさせまいとし、深い心を覆っているんです。
 私が、私がということです。私がというフィルターを通して認識を起こしている、ここに気づけばいいことだと思います。
 やはり、聞法することが扉を開く鍵になるかと思います。教えを通さないと、先ほども触れましたが、絶望しかないわけです。なぜ絶望するのか、絶望をせざるを得ない執らわれがあるからですね、それは自己執着心です。我愛ですね。我が身可愛いということなのです。いわば、絶望の底に我執が潜んでいる、その我執に気づきを得ないことが、問題だろうと思いますね。我執からの解放は、教えに遇うこと以外にはないわけです。教えといえども、無漏智(本願念仏の法)に遇うということでなければなりません。聞法することが我執の扉を開く鍵になると思います。
 時間が来ましたので、とりとめのない話に終始し申し訳ありませんでた。
      合掌 
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