唯識に学ぶ・誓喚の折々の記

私は、私の幸せを求めて、何故苦悩するのでしょうか。私の心の奥深くに潜む明と闇を読み解きたいと思っています。

初能変 第五 三性分別門 (9) 第三に無覆無記の名を釈す。(4)

2015-11-04 21:59:54 | 初能変 第五 三性分別門
  「国宝とは何物ぞ、宝とは道心なり、道心有るの人を名づけて国宝となす。故に古人言わく、怪寸十枚是れ国宝に非ず、一隅を照らす此れ即ち国宝なり」(伝教大師最澄『山家学生式』より)

 異熟について質問をいただきました。『三十頌』で一番最初に出てきます「異熟」の言葉は、阿頼耶識の三相を説かれる中で、第八阿頼耶識の果相が異熟であると述べられています。因相は一切種子識です。因果の関係で、因が時を異にして熟す、即ち現行していることを表しています。三つの側面から説明されます。
 (1)変異而熟 ― 因が変異して果が熟す。(因が変化して果が生じるという場合。)
 (2)異時而熟 ― 因と時を異にして果が熟す。(因は過去世。果は現在世。過去の業因によって、現在の業果を得ていること。)
 (3)異類而熟 ― 因と善・悪・無記のありようを異にして果が熟す。(「因是善悪果是無記」因は善が悪であるけれども、その結果として生じてきた果(現在)は無記。
 第八阿頼耶識・異熟識の場合は、有漏で無覆無記の性質を持ったものである。
「因是善悪・果是無記」で、過去を背負って存在している自身は、異熟性であり、異熟の総報の果は無覆無記である。
 この理由ですが、(過去の業を背負うものが何故無記なのか?)私の意識の根柢で「いのち」を支えている阿頼耶識は無色透明であり、たとえ因が善であれ、悪であってもですね、果である自分自身の」と云われています。異熟は「無覆無記なり」、異熟無記の識、これが第八識の果相です。「今」「現在」「この瞬間」が分水嶺になりますね。
現行識は七転識ですが、第八識で受ける果報は捨受であり、無覆無記なんです。過去の業を引きずってはいますが、無記性として生きているということなんですね。生きることを以て、過去の業を清算しているのです。過去の業の結果として、今・現に、ここに存在していることは間違いのないところです。過去の結果としての自己が今の私の姿なんです。ここには善悪の価値判断は有りません。善悪を超えて過去の業を引いている、これが異熟ですね。阿頼耶識の三相の中で果相は異熟だと云われていました。三位からみると、異熟は善悪業果位になります。善悪の業果としての現在である。現在の縁によって動いているのではないと教えているんですね。本当は、苦楽のない世界を生かされているんでしょう。地獄・餓鬼・畜生・人・天という生存のありかたがありますが、あたかもこのような生存の在り方があるように思いますが、そうではないんです。私が地獄を生み、餓鬼を生み、畜生を生み出している。それは人としての悼(イタ)みだと思います。人としての自覚が、地獄の住人であるという自覚を生み出してくる、或は餓鬼である、畜生であるという自覚を生みだしてくるのでしょう。それは阿頼耶識に出会えた証拠なんですね。異熟の持っている意味だと思います。
 異熟を少し違う観点から見ますと、異熟因・異熟果は異熟と異熟生でも同じ意味を持ちますが、何故、苦楽の感情が生じてくるのかというところに、もう一つの異熟の説明が必要とされます。ここに真異熟と異熟生で説明されます。
 真異熟は異熟のことですが、詳しく言うと、阿頼耶識は真異熟です。真異熟の上に分別を立てて生じてくるのが異熟生。たとえば、貴賤・苦楽・賢愚・美醜などを異熟生と呼びます。苦楽等は阿頼耶識では起こりませんが、阿頼耶識の上に分別を立てていく第七末那識以上で生じてくるのです。
 私たちは、何時でも、阿頼耶識の上に分別を立てて我執だけの生活をしているんですね。異熟に触れないで、異熟生で生きている、そして過去を恨み、他を非難し、恨みながら、自分に怯えているんですね。自分の姿をよく観察すればわかるんですが、観察も我執においてしますから複雑ですね。鏡を持っていないということなんですが、我執が鏡の存在を覆い蔽っているんだと教えられています。
 
 無記について「記」とは、善か悪かはっきりしていることを指しています。「記とは謂く善と悪とぞ.記別す可きが故に説て名けて記と為す。」と。無記は記が無いということですが、原語は「記」はヴィアーカラナで、「無記」はアヴィアークリタ。「ア」は否定形ですから、はっきりしない、という意味になりますね。
 二つの意味があると、
 「愛・非愛の果を有し」。「記」とは、善は愛するべき楽果をもたらし、悪は愛することのできない苦果をもたらす。これははっきりしています。ですから「記とは謂く善と悪とぞ」と云われているわけです。
 「及び殊勝の自体なるを以て」、善・悪という法の自体は、無記の法と違って殊勝であり明確であるということなんです。
 これが「ア」ということで否定されているのが無記という言葉の持っている意味になります。
 
 「聖人のおおせには、「善悪のふたつ総じてもって存知せざるなり。そのゆえは、如来の御こころによしとおぼしめすほどにしりとおしたらばこそ、よきをしりたるにてもあらめ、如来のあしとおぼしめすほどにしりとおしたらばこそ、あしさをしりたるにてもあらめど、煩悩具足の凡夫、火宅無常の世界は、よろずのこと、みなもって、そらごとたわごと、まことあることなきに、ただ念仏のみぞまことにておわします」とこそおおせはそうらいしか。 」

 この親鸞聖人の仰せが、見事に無記の解釈を表現されていると
思います。。此れに違することが記別或は授記(ジュキ)ということなのでしょう。
 
 次回からは、第六・心所例同門に入ります。
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初能変 第五 三性分別門 (8) 第三に無覆無記の名を釈す。(3)

2015-11-03 22:13:03 | 初能変 第五 三性分別門
  「吾が心 深き底あり 喜も憂の波も とどかじと思ふ」

 「心を蔽(オオ)いて不浄(フジョウ)ならしむ」の解釈に、二つあると慈恩大師は注釈をつけておられます。
 法性心と依他心です。大雑把にいいますと、煩悩が心を蔽うことなのですが、覆うには蔽われる理由があると述べられています。問題は私にあるということなのです。貪れば貪る心に蔽われ、瞋れば瞋る心に蔽われ、愚痴れば、愚痴る心に蔽われるといいます。蔽覆(ヘイフク)或は、覆障(フクショウ)は私の心を蔽ってくるのではないということなのですね。ここにも、阿頼耶識は無覆無記であることの証明がされてあります。私の方に、貪る心、瞋る心、愚痴る心があるということが因であり、縁にふれて現行してくるわけです。この構造を知ることにおいて、転ずる世界が開かれてくると教えられているのですね。逆に言うと、知らなければ、闇とも知らず。知らない世界が本当の世界であると思って一生懸命に模索するのでしょうね。すべてがご縁の世界ですから、一概に批判は出来ないですが、自分が問題にならずに、自分の幸せを求めるのはいささか的外れではあると思います。
 「心を蔽って不浄ならしむ」。何を蔽ってくるのかと云いますと。一つは法性心であると。法性とは、一つには縁起の理です。一つは真如、一つは現象的存在は無常であるということになります。これを蔽ってくる。
 依他心は縁に依って起こってくるもの、生じてくるものですが、現行している事実は縁に依って生じているんだということを覆い隠してしまうわけですね。自己存在を妨害するものが外界に存在し、外界からの抑圧によって、自己存在が左右されているという錯誤ですね。自己存在を動かすわけにはいかないのが私の心なんです。自分が自分の思いに依って縛られていることの気づきが得られないのは、問題を外に投げ出して、外を変革することにおいてのみ自分の満足というか、満たされた生活が出来るんだという妄想ですね。
 覆(フク)・蔽(ヘイ)は外から私を縛るものではないということです。自分が自分を縛っている、ここへの眼差しが大切なことだと思いますね。
 次は「記(キ)」の解釈が挙げられます。
 「記と云うは謂く善と悪となり。愛・非愛の果を有し、及び殊勝の自体なるを以て記別(キベツ)す可が故に。此は善と悪とに非ず。故に、無記と名く。」(『論』第三・五左
 記は、善悪とはっきりと判る性質のものを云うと解釈されています。善とか悪とかはっきりしている性格をもったものが「記」なんです。無記というときは、はっきりしない性格をもったものということになります。善でもなく、悪でもなく、善悪を平等につつみこむような性格を持ったのが無記であるという。
 「愛・非愛の果を有し。」愛する結果、非愛(好ましくないもの)の結果、その二つのことを持っていて、「殊勝の自体なるを以て記別すべきが故に。」非常にはっきりとした強い性質を持っていますから、善・悪を分けていくことが出来るわけですが、阿頼耶識はそれが出来ない。すべてを平等に受け入れている器であると云えます。私達には分からないことでうが、私の根底にあって、いのちを支えている阿頼耶識の世界は善悪そのものを判断しない、すべて無記性として受け入れている。本当に大事なことを教えていますね。
 まとめますと、
 無覆無記とは。阿頼耶識の性格です。善・悪・無記に照らして、いずれの性格をもったものが阿頼耶識なのかを明らかにし、無覆無記なるものが阿頼耶識の性格であるとはっきりさせているわけです。
 「捨受のみなり」というときは感情に約して述べているわけですね。今は性格に約して述べています。感情に約すると平等、性格に約すると無記。安田先生は、「無記たるをもって性とする捨的な性格であるといってもよい。」と述べられています。
 阿頼耶識は無覆無記なる性格を持ったものという理由が三つ挙げられていました。
 (1) 異熟性である。因是善悪果是無記であると明らかにされました。
 (2) 阿頼耶識は主体ですから、一切諸法の所依であるということ。すべての経験の所依と成る性格をもったもの。
 (3) 所熏性であること。すべての経験の蓄積される場所ですから、分別が働いていたのでは蓄積されません。蓄積されている場という事実を踏まえて、阿頼耶識は無覆無記であるとはっきりさせているわけです。
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初能変 第五 三性分別門 (7) 第三に無覆無記の名を釈す。(2)

2015-11-01 23:41:16 | 初能変 第五 三性分別門

本当のものが
わからないと
本当でないものを
本当にする   —安田理深—
 ― 言葉の味わい ―
 「子どもの頃、知らないことや疑問に思うことがあれば、「どうしてこうなるの?」「本当にそうなの?」などと親や先生に問い尋ね、物事の本当の意味を知ろうとしていた。しかし、年を重ねていくと物事の真偽を確かめず、わかった事として時には真実ではないことを本当だと決めつけたり、占いや噂話などを本当のことだと信じてしまっている。
 物事を本当のことにするかしないかは、私自身の心で大きく左右されていると言える。仏教の教えの一つに、自身の心の内を見つめ直して、我が身の姿を問うていくことがある。私自身の姿を知って、その心に素直になることで「本当のもの」をより多く知っていくことができるのではないだろうか。」(南御堂掲示板より)
       ・・・・・・・
 「又(マタ)能(ヨ)く心(シン)を蔽(オオ)って不浄(フジョウ)になら令(シ)むるが故に。」
 「述して曰く、合(ガッ)して二義(ニギ)を以て其の覆(フク)の字を解す。即ち覆とは覆蔽(フクヘイ)するなり。心を蔽って浄(Iジョウ)ならざら令むるが故に名づけて覆と為す。」(『述記』第三末・三十二右)
 また、慈恩大師窺基の著述であります『樞要(スウヨウ)』の釈は注意して読まなければと思っています。
 「蔽心(ヘイシン)とは二有り。一に法性心(ホッショウシン)、二に依他心(エタシン)なり。」(『樞要』巻下本・二右)
  『樞要』は正式には、『成唯識論掌中樞要』(ジョウユイシキロンショウチュウスウヨウ)といい、唐 · 慈恩大師窺基(ジオンダイシキキ) の作です。
 覆(フク)の解釈について二義挙げられていましたが、第一の覆障(フクショウ)につきましては昨日述べましたので、第二の意義について述べさせていただきます。第二の意義は「覆蔽(フクヘイ)」であると教えられています。
 染法(ゼンポウ)が心を蔽って不浄にする。染法は無覆無記(ムブクムキ)の心を蔽ってですね、心を汚くするという、具体的には煩悩・随煩悩です。煩悩・随煩悩は縁に触れて自らの中から出てきたものです。外から蔽ってきたのではないのですね。それが外から蔽ってきたと思っています。それが煩悩生起の因ですね。
『樞要』の注釈にですね、何を蔽うのかということに対して、
 一つは法性心、法性心は浄らかな心です。清浄心、それを蔽う隠してしまう。
 もう一つは、依他心、依他は他に依る、縁に依って生じるもの、因縁所生の法です、縁起されたものです。
 この二つの意味から教えられることは、無覆無記である阿頼耶識を覆ってしまうことと、現実の動いている心を蔽ってしまう、つまり私の現実に動いている心を蔽って、本当でないものを本当にするという過ちを犯してくるのですね。それで二つの意味を以て「覆」というのだと。
 今日は、順正寺さんの報恩講にお参りさせていただき、御馳走もいただきまして、少しばかり酔っぱらっています。こんな時は深追いせずに休むことにします。明日は、唯識に自己を学ぶ会に投稿しますので、このブログは休載させていただきます。m(__)m
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初能変 第五 三性分別門 (6) 第三に無覆無記の名を釈す。(1)

2015-11-01 00:21:40 | 初能変 第五 三性分別門
   

 第八阿頼耶識は、無覆無記なりと結ばれましたが、では、無覆とは?無記とは?如何なることなのかという疑問が出てきます。この問いに答える形で、無覆無記の名義について説明されます。
 阿頼耶識は無記だというところに、僕は救われるのです。若し、阿頼耶識が善であるか、悪であるかが一方的に決定されていましたら、僕はここに生きる術を失ってしまいます。自分から言えることではないですが、過去の経験のすべてが許されてある、過去の経験を引きずって、背負って現在の姿があるわけですが、その全体が無記性ですよ、と。今あなたは何処に向かって歩を進めているのですか。過去の為した業は消え去るもではありませんし、悪業が許されるということはないでしょうが、菩提を求めることは許されてある。そこに僕は限りない恩徳を感じます。そして慚愧をいただきます。
 人倫の道にはずれるようなことを平気でしてきたわけですから、いつ闇に葬り去られても文句はいえないんですね。また過去を見つめます時に、胸が痛むわけです。「あんた勝手なことをしてきて、いまさら何をいってんねん」と言われるでしょうね。墨林さんはよくご存じだと思いますが、そんな僕でも、仏法を聞ける、聞くことを許されている。過去の悪業を許してもらう為に仏法を聞いているわけではなく、過去の悪業に向き合って、無記の貴方が、人間として菩提を求めよという声を聞けという催促に耳を傾けていくことが、生かされていることへの応答ではないのかなと思うことです。
 無覆無記の名義について。最初は覆について解釈されます。
 (1) 覆とは、覆障。
 (2) 覆障の体は、染法。
 (3) 何を覆障するのか、聖道を障へる。
 「覆と云うは、謂く染法ぞ。聖道を障へるが故に。(『論』第三・五左)
 「述して曰く、何をか無覆と名づけるとならば、覆と云うは覆障ぞ。体は即ち染法なり。覆の義は如何ぞ。聖道を障えるが故に。」(『述記』第三末・三十二右)
 覆というのは、覆障という意味であり、(煩悩等が)心を覆い隠してその心を不浄にしてしまう。だから覆は染法であり、染法は聖道を障礙することになりう。仏道の妨げになるということですね。
 「又能く心を蔽って不浄なら令むるが故に。」(論』第三・五左)
 覆とは、心を蔽いかくしてその心を不浄にしてしまうということ。それが覆の指し示している意味だと。
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初能変 第五 三性分別門 (5) 別答 (三因をもって答す。その第三の因。)

2015-10-30 23:16:59 | 初能変 第五 三性分別門
 

 第三の理由が述べられます。(「第三因に云く」(『述記』)
 「又此の識は是れ所熏性なるが故に、若し善と染とならば、極めて香と臭との如く、熏を受けざるべし。」(『論』第三・五右) 
 「述して曰く、前に已に説けるが如し。唯だ、無記性なるは熏習を受くべし。薩多婆等若し復難じて言はん。熏習の識無しと云はば、亦た何の過か有る。」(『述記』第三末・三十一左)
 「前に已に説けるが如し」、熏習について、所熏の四義・能熏の四義が説かれていました。熏習論につきましては、2014年4月23日~26日、所熏の四義(経験の蓄積される場所を明らかにする)につきましては、2014年4月28日~5月02日の投稿を参照してください。
 第八阿頼耶識は所熏処であることが既に考究されていましたように、第八阿頼耶識は現行識の熏習を受ける所熏の識なんです。現行の識が能熏になります。阿頼耶識に経験の種子を植え付ける働きをもつものです。そして植え付けられる場所が所熏処である阿頼耶識なんですね。阿頼耶識が善もしくは染であるならば、熏習を受けることは出来ないと言っているのです。熏習を受ける性質をもっていることが所熏性ということになります。
 喩が出されています。
 「極めて香と臭との如く、熏を受けざるべし。」と。これは、阿頼耶識が善或は染という独自の性質を持ったものであれば熏習しないということを述べているわけですが、「極めて」とありますから、麝香とは沈香といういいお香は心を浄化する働きをもっているわけですから、そこに臭(悪臭)をもった臭いを染み込ませることは出来ないですね。つまり、心を浄化する働きを持っているお香に、心を散乱させる悪臭を熏ずる(染み込ませる)ことは出来ないんだと。また、悪臭に薫香することもできないであろうと、阿頼耶識が善という性質、或は、染(悪)という性質のものであれば、この喩と同様になり、熏習を受けることはない、と。阿頼耶識は善であれ、悪であれ、無記であれ、すべてを受け入れる所熏処でありますから、無記という性質を持ったものなんですね。
 私たちは、このような無記という性質の上に、善悪の種子を植え付けているのだと教えているわけです。
 熏習することがありませんから、
 「熏習無きが故に、染浄の因果倶に成立せず。」(『論』第三・五左)
 「述して曰く、此れ論主の答。・・・若し熏習無くんば染浄の因・果倶に成立せず。既に熏習無くんば即ち種子無くなんぬ。種子若し無くんば即ち是れ因無くなりぬ。因既に無くなりぬるが故に其の果も亦無くなりぬ。」(『述記』第三末・三十一左)
 熏習することは無いと説いているわけですから、熏習がなかったなら因果は成立しないわけです。現行熏種子、現行が因、熏種子が果という因果関係が不成立になるわけです。私たちは無記性の上に善悪を植え付けていきますから、還滅が成り立っているのですね。菩提・涅槃と流転は果ですね。因である現行が問われてくるわけです。
 このような問いが出されてきた背景には、有部の教説があるのですね。有部は「所熏の識など無くてもいいではないか」という論難に対して、論主が答えるという形をもって対論されているのです。熏習がないと、染浄の因果が成立しなくなる。」と。
 「故に此は唯だ是れ無覆無記なり。」(『論』第三・五左)
 私達、人間の迷妄の事実から見つめられてきた問いだと思いますね。私は何故悩み苦しんでいるのか。悩みにも、苦しみにも意味があるということでしょう。大きな意味を持って生まれてきたということなのでは。苦から目覚めへ、、「しかれば、念仏もうすのみぞ、すえとおりたる大慈悲心にてそうろうべきと」。阿頼耶識は無覆無記であるからこそ言えることではないでしょうか。
 
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初能変 第五 三性分別門 (4) 別答 (三因をもって答す。その第二の因。)

2015-10-30 00:03:33 | 初能変 第五 三性分別門
 

 font size="4">第二の理由が述べられます。
 「又た此の識は是れ善と染との依なるが故に、若し善と染とならば互に相い違へるが故に、二が與に倶に所依と作らざる応し。」(『論』第三・五右) 
 「述して曰く、此の識は既に是れ果報の主として、善染法の所依止と為り、既に恒に是れ善ならば悪が依と為らざる応し。是れ悪ならば亦善が依と為らざるべし。互に相違せざるが故に。」(『論』第三・五右)
 第八阿頼耶識が無覆無記であるには三つの理由があることの第二の理由を示しています。此の識、第八阿頼耶識は七転識の所依である。第八阿頼耶識に依って前七識は善・悪・無記の所依止と為る。つめり、第八阿頼耶識を所依として善・悪・無記のいずれの心にも転じ得る。しかるに、若し所依の第八阿頼耶識が善または染であるならば、つまり、恒に善であるならば、悪の所依にはならないであろうし、もし悪ならば善の所依とはならないであろう。互いに相違し合って三性の識が生ずることができなくなる。
 私達のいのちの依り所は第八阿頼耶識なんですね。ここは非常にわかりにくいところだとはおもいますが、命の根底に在って命を支えているのが阿頼耶識なんです。ですから、阿頼耶識は能蔵・所蔵・執蔵という意義を持つものであると説かれているわけですね。そして三蔵を依り所をして現実の心は動いているわけです。迷うことも、菩提を求めることも、第八阿頼耶識が無覆無記であるから行い得ることができるわけです。もし、阿頼耶識が善なる性質であるならば、悪行をするはずはないのですね。深く言えば、業縁が成り立たないのです。悪を為すことはなく、迷うということもないわけです。
 面白ですね、私たちは苦悩のない世界を求めて彷徨っているわけです。苦悩があるから清らかなに禅定の世界を求めることが出来るのですが、阿頼耶識が善性でありましたら、迷うことがありませんから意味をなさないですね。その逆は、もし阿頼耶識が恒に不善であるとしまうすらば、菩提を求めるということが起こってこないのです。「人生楽あれば苦もあるさ」は無常を教えているのですね。有為有漏の存在であるということを教えているわけです。私たちにとって無常は苦以外にないわけでしょう。その証拠に、いつでも若々しく、地位も財産も名誉も失うことなく、できれば死を迎えることなく生きていたいとの望んでいるのではないですか。ここが鍵になりますね。僕にとってはですよ。生きていることは、こうありたい、ああなりたいと思っているわけでしょう。これが菩提を求める印なんですね。いのちの根柢が無覆無記だから、迷うことも、目覚めることも出来るわけです。迷うことにおいて慚愧の心をいただき、目覚めることにおいても慚愧の心をいただくことができるのですね。
 反面、無覆無記だから、悪行に染まるということも起こってくるわけです。しかし、私たちのいのちの根源は無常であり、無我を生きているわけです。無常を知り、無我を生きよと教えているわけですね。二の重い障礙、菩提と涅槃を障えるのは煩悩障と所知障であると教えられていました。菩提と涅槃は善悪を超えた世界ですね。善悪はいつでも退転するかもしれない対立の世界の出来事です。
 なんかね、僕の立てる場所は、善悪を超えた彼岸の世界、そこが依り所だと。不可知の世界ではありますが、竊に推求すれば「ここに帰ってこい。ここが汝の居場所だ」と。浄土の世界からの呼び声が聞こえてくるような感じがします。
 善か悪か決定されていたら私の進むべき道は閉ざされてしまいますね。現実の諸問題から、第八阿頼耶識は無覆無記であると意味づけられているのでしょうね。
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初能変 第五 三性分別門 (4) 別答 (三因をもって答す。その第一の因。)

2015-10-28 22:41:44 | 初能変 第五 三性分別門
 

 此の識は唯だ是れ無覆無記なり。異熟性なるが故に」。これは総答になりますが、別して無記の名を釈します。三つの理由を以て無覆無記であることの立証をしています。
 第一の因(理由)
 「異熟いい若し是れ善と染汚とならば、流転と還滅と成ずることを得ざるべし。」(『論』第三・五右)
 ここは異熟といいましても、阿頼耶識のことです。阿頼耶識が問われているところですので、有漏の場合は、ということになります。如来の第八識は無漏ですから唯だ善性になります。
 阿頼耶識が若し善であるか、染汚(不善・有覆無記)であるか、それがはっきりしていたらどうなるのか、という問いが先ず出されてきます。人間の本性が善か悪であるとしたらどうなるのかですね。
 答
 「流転と還滅と成ずることを得ざるべし。」(流転も還滅も成り立たなくなる。)
 もし善性か悪性ならば必ず異熟ではなくなる。何故ならば、
 「『摂論』第三巻の末に自ら解せり。(人・天の)善趣の(第八識)は既に善ならば、(不善の熏を受けざるが故に、發業潤生の)不善を生ぜざるべし。(唯善の熏のみを受けて)恒に善を生ずるが故に。即ち(苦・集の)流転なかるべし。(
 煩悩業の)集に由るが故に生死に流れ、苦に由るが故に生死に(輪)転ず。悪趣(の第八識)も翻じて亦然なり。(唯だ悪の熏のみを受くるが故に)既に恒に悪を生ぜば、(善の熏を受けざるが故に、善を生ぜざるが故に、滅・道の)還滅なかるべし。道(諦)に由るが故に還ず。滅に由るがゆえに(業煩悩を)滅す。」(『述起』第三末・三十一右)
 この『述起』の釈がすべてを物語っています。
 『成唯識論抄講』で太田師は(心に響くように)、
 「阿頼耶識が若し善と染汚とならば、善であるか染汚であるか、もしそれがはっきりしていたら、人間の本性は善である、或は悪であるとしたならどうなるか。「流転と還滅と成ずることを得ざるべし。」流転は迷いです。もし人間が、基本的に善であるならば迷いはあり得ない。もしも人間の本性が善でありますならば、現実的に生死流転、迷っていくということはなくなってもいいはずですね。もし人間が染汚、汚れておりましたら還滅がなくなるんです。還滅は滅に還る、滅は涅槃ですから、心の安らぎの世界、静かな悟りの世界に還ってくる、流転は生死に迷う。現実の私達は生死に流転して迷っているか、悟りの方向に向かっているか、そういう二つの動きをしていくわけですが、その時にもしも私共が善であれば生死に迷うことはない。悪であれば修行をして悟りをひらくことはありえない、こういうことになりますね。ですから阿頼耶識は善でも悪でもないというんです。我々は現実に生死流転することもあるではないか、現実に悟りに近ずいていく、仏様にお会いして教えを聞くことができる、そういうことがあるじゃないか。ですから人間は真っ白なんです。無記なんです。無記だからある時はさまようんです。無記だからある時は悟るんです。それが理由です。」と語ってくださいます。
 流転は惑・業・苦の流転輪廻で、流転の因は惑から始まります。惑とは、我を認め執すること、我執です。この我執から煩悩・随煩悩が流れ出します。ここに自尊損他という自他分別が起こってきます。自分にとって、という枠で物事を取り決めていきますから、自分にとって利益になることは楽、その反対は苦ですが、楽といえども、いつでも苦に変わる性質のものですから、自分という枠の中では、苦・楽・捨はすべて苦なのです。
 親鸞聖人は、摂取とは「にぐるをおわえとる」と左訓されておられますが、今日のラインのやり取りを記載しますと、
 「過去を隠そうとすればするほど自分自身に縛られるのですかね。」
 「にげれば追いかけてくる。受け止めるしかない。」
 「なるほど」
 「なんでかわかるか、それは、真実に触れているからなんや。逃げたらあかん!というてんねん。過去を悔いて取り戻すことができるんやったら、いくらでも悔いたらいい。そうならんのや」
 つまり、道理に反すれば苦が必然なんですね。必然が「何故」というといを生み出し、道を求めるエネルギーになるわけです。このエネルギーは如来から頂いたものなんです。私が生み出すものは苦しかないわけですが、苦を縁として浄を欣うのは如来の働きなんですね。
 いうなれば、如来と衆生の分限が違うのですが、如来と衆生が出会えるのは無覆無記性においてなんです。現実の私の姿を見透かして、如来に出会えと催促されているように思えました。
 
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初能変 第五 三性分別門 (4)

2015-10-27 23:25:18 | 初能変 第五 三性分別門
 

 「阿頼耶識は何れの法に摂むるや。」
 「此の識は唯だ是れ無覆無記なり。異熟性なるが故に。」(『論』第三・五右)
 「述して曰く、下の答に三有り。初に総答、次に別答。後に無記の名を釈す。此は総じて答すなり。若し善・悪性ならば、必ず異熟に非ずなんぬ。下に別して之を答す。」『述記』第三末・三十一右)
 阿頼耶識の受は捨であると明らかにしていましたが、今度は善悪について述べています。阿頼耶識は無記だと明らかにしています。善悪いずれでもない無色透明は性質をもっているのが阿頼耶識だと。
 第八阿頼耶識・異熟識の場合は、有漏で無覆無記の性質を持ったものである、ということです。「此の識は」とありますから、第八・阿頼耶識のことを問うているわけです。
 「因是善悪・果是無記」で、過去を背負って存在している自身は、異熟性であり、異熟の総報の果は無覆無記である。
 この理由が次で述べられます。(過去の業を背負うものが何故無記なのか?)この段は明日以降にしますが、私の意識の根柢でいのちを支えている阿頼耶識は無色透明であり、たとえ因が善であれ、悪であってもですね、果である自分自身の存在は無覆無記の存在であるということなのです。阿頼耶識には煩悩は相応しないのです。私たちは縁の催促によればいかなるようにも変化できることが可能であることを示しているわけです。「人間は楽を求めて、苦しんでいる存在である」とメッセージが届けられていましたが、無覆無記の存在に染汚生を植え付けて苦悩しているんですね。余計なことをしているんだな、と思います。「脚下照顧」自分の足元を見よ、とは、阿頼耶識に帰れとの催促ですね。
 
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初能変 第五 三性分別門 (3)

2015-10-26 23:16:34 | 初能変 第五 三性分別門
 

 善・悪・無記についてですが、第八識は善・悪について色付けをしない無記性のものであり、第七識は唯だ悪(不善)であるけれども無記性である。そして表に現れている六識に心所のすべてが相応している。善の心所も悪の心所も、不定の心所もすべて六識と相応して現行してくるわけです。いずれにしても、深層で動いている心は無記性であるというところに大きな意味があります。それは私の思いを超えているということです。
 私は、私の思いを超えている現実に、自分の思いを重ねて執らわれて自他分別を起こしています。これは悲しいことですが、本能なんですね。いかんともしがたいことです。でも、ここに悲しみをもつということが大切なことなんですね。悲しみが自分の思いを破ってくれるんです。
 「有為の無記法をば世俗無記と名づく、愛・非愛の果を招くこと能わざるが故に、自性麁重にして不善に濫ずるが故に。虚空と非擇滅(ヒチャクメツ)とをば勝義無記と名づく。二果(当来の愛・非愛の二果)を招かず、不善に濫ずる所無きが故に。・・・」(『述起』第三末・二十九右)
 そして、阿頼耶識は無覆無記であると明らかにしてきます。
 「阿頼耶識は何れの法に摂むるや。」
 「此の識は唯だ是れ無覆無記なり。異熟性なるが故に。」(『論』第三・五右)
 異熟といっています、つまり、過去を背負った自分であるけれども、その過去に左右されない自分を生かされているんだということなんですね。阿頼耶識は無記だということはそういう意味なんです。善でもなければ、悪でもない。無記としてのいのちを賜っている。それを私有化しますから苦悩が生じてくるのですね。いのちは。苦でもなければ、楽でもなく、善でもなければ悪でもない、純粋無記の性格をもったものなんですね。確かに、過去の行為を引きずって今の私が存在するわけですが、今の私が未来に引きずることは無いのです。現状の生活の営みは変わることは無いでしょうが、私でいえば、過去の悪行を清算してというわけにはいきません。悪業を引きずった私が存在しています。後悔もし、なんであんなことをしでかしたのかと悔やむわけですが、もとに帰ることはできません。為した行為は否応なしに引き受けているわけです。それが自分を縛っていることに間違いは有りません。しかし、その悪行が悪行の価値観を変えることが出来ると教えているんです。それが無記性ということなんですね。「これでよかったんだ」と。ここに過去に対する慚愧心と、未来に対する方向性が定まるわけですね。
 「いのちに触れよ」我執の底からの叫び声です。阿頼耶識はいつでも、いかなる時でも、命に帰れと叫んでいます。無覆無記、救済の原理ですね。
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初能変 第五 三性分別門 (2)

2015-10-25 23:08:00 | 初能変 第五 三性分別門
 

 「阿頼耶識をば何の法にか摂むるや」に入る前に、法の四種である、善と不善と有覆無記と無覆無記について、『述記』の所論からうかがいます。
 最初の問いは「法に四種有り。何れの法にか摂せらる。大乗にも亦自性善等有りと云う。」(『述記』)
 善に四種あるということですが、自性善・相応善・等起善・勝義善であり、自性善とは、それそのものが善であるというものです。第十一頌に挙げられています善の心所の十一をいいます。相応善は、自性善と倶に働くこころで、等起善は自性善と相応善とから付随して引き起こされる善い身業と語業と不相応行をいい、発起善ともいいます、勝義善は、真如のことで、第一義善であり、善無為の法になります。
 最初の三は有為の善法で、世俗善といいます。「世と出世との可愛(カアイ。好ましいこと。)の果を招くが故に、麁重なり生滅あり、安穏に非ざるが故に。」有為の善法は、「唯だ善の心と倶なるを善の心所と名づく。謂く信と慚との等とき定めて十一有り。」(『論』第六・初右)と説明され、善の心所には何があるのかを述べています。十一ある、と。内容は、
「信・慚・愧(き)・無貪・無瞋・無癡・勤(精進)・安(軽安)・不放逸・行捨・不害」の十一です。
 無貪・無瞋・無癡を三善根といい、それに反して、貪・瞋・癡を三不善根、或は三毒の根本煩悩といわれている。善の心所が立てられるのは、その正反対の心所(煩悩・随煩悩)を対治するためである。
 不善は、「諸の極悪の法」であり、「世俗不善と名づく、能く麁顕(ソケン。はっきりと認識されたあり方。)の非愛の果を招くが故に。諸の有漏法をば勝義不善と名づく。自性は麁重(ソジュウ。身心の重々しい状態。)にして安穏ならざるが故に。」
 有為の善法は、いつでも不善に変わる要素を持ったものであり、有漏なんですね。例えば善の心所の中で「信」が最初に挙げられます。「仏法の大海には信を以て能入と為す」という「華厳経」の教えもあって、非常に大事なことではありますが、「信」は何処で成り立つのかですね。自分が信ずるという時には、必ず功利心が働いてきます。そこで他を裁きます。自力の執心と教えられますが、怯えがあるのですね。自分が壊れる怖れです。怖れが自分の中にあるから他を裁くのです。そこでは「信」は成り立ちません。いつでも自分の評価を気にして一喜一憂しているのが私の姿です。仏教は、そのような立ち位置では駄目だと、財や健康や名誉を当てにしていては苦の因を解くことは出来ないんだと。この三つは髻(モトドリ)ですから、断ち切らなければならないというわけですが、ここに自分の深い執着心が解けない、見えないという暗さがありますね。
 自力の執心に立たないという所に「信」は生まれてくるのですが、それを他力というのですね。すべての因は自分にあったという気づきですね。そして一切は御縁の世界に生かされている身であるという頷きでもあるのでしょう。そこに安穏という、安らかで穏やかな心がもたされてくる、そのように教えられているんだと思います。
 倫理の世界では、善因は善の果を引き、悪因は悪の果を引くと教えられているようですが、仏教でいう善・悪(不善)、世俗善・世俗不善とし、世俗善は、善因楽果であり、世俗不善は、悪因苦果であって、共に安らかで穏やかな心をもたらすものではないと教えているのです。
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