ー 『唯信鈔文意』に聞く (8) ー
誓願の尊号
「この如来の尊号は、不可称・不可説・不可思議にましますゆえに、一切衆生をして無上大般涅槃にいたらしめたまう、大慈大悲のちかいの御ななり」
この如来の尊号は、南無阿弥陀仏という尊号ですね。その他にないという、ただ一つの無碍光如来の南無阿弥陀仏という尊号は、「不可称・不可思議にましますゆえに、一切衆生をして無上大般涅槃にいたらしめたまう、大慈大悲のちかいの御ななり」と。
「不可称・不可説・不可思議にましますゆえにというところは、さきの仏になりたもうてのちの御な」という意味にあたるのであります。
それから、「一切衆生をして無上大般涅槃ににいたらしめたもう、大慈大悲のちかいの御ななり」とあるときは、これは「いまだ仏になりたまわぬときの御な」ですね。仏になりたまわぬときに、一切衆生をして無上大般涅槃にいたらしめずんば、仏にならじ、と誓われた。いかようにして大涅槃にいたらしめるかといえば、わが名を十方の諸仏に称揚賛嘆せられた名をもって、衆生に聞かせて、その名の功徳によって、一切衆生を無上大涅槃にいたらしめようと誓われた。そういうわけで、ここに「ちかい」ということですね。いわゆる「誓願」ということが、まずでてきたわけであります。
誓願の御(み)な、誓願の尊号ですね。一方から申しますと、不可称・不可説・不可思議のゆえに、この尊号は一切衆生をして無上大涅槃にいたらしめたもうのだ。その誓いのときのみなですね。まだ仏になりたまわぬときのみなですね。仏になりたまわぬときのみなということで、ちかいのみなという意味をあらわし、仏になりましたときの号という意味で不可称・不可説・不可思議の功徳ということをいわれるのであります。
これは、先に申しました聖覚法印が結論とされるところをまず出されるわけであります。ですから、真宗の教義と申しますか、法門というものが、まずこうして簡明にうち出されております。次に、
「この仏の御なは、よろずの如来の名号にすぐれたまえり。これすなわち誓願なるがゆえなり」
と結ばれます。「この仏の御なは、よろずの如来の名号にすぐれたまえり」。これは「尊」というところですね。「『尊』は、とうとくすぐれたりとなり」ということについて「よろずの如来の名号にすぐれたまえり」といわれるわけですね。それから、あとの「名号」ということの解釈ですね。「号は、仏になりたもうてのちの御な」、「名は、いまだ仏になりたまわぬときの御なをもうすなり」 ということですね。それを結ばれて、「これすなわち、誓願なるがゆえなり」 と、こういわれるのであります。
「誓願」ということが、この如来の尊号ということを基礎」づけておる。如来尊号というものが南無阿弥陀仏であるとどうしていわれるかというと、誓願、これには誓願がある。南無阿弥陀仏には誓願がある。ですkら誓願という意味が、この「如来尊号」という四字によってあらわされると申しますか、あるいは誓願ということなくして、如来尊号というものは、一切諸仏如来の名号にすぐれたということはいえないわけですね。そういう意味でのべられるのであります。
如来尊号というだけで、誓願ということが思いもよらぬときには、単に言葉のあやにすぎないわけですね。釈迦の尊号も弥陀の尊号もかわりはない。むしろ釈迦の尊号の方が何か現実感があるように思われる。弥陀の尊号というと、抽象的な意味に思われるということになりますが、誓願という意義をもつならば、誓願という意義をとりあげますと一切如来にすぐれた尊号であるという意義が明瞭になる。こういう意味になります。 (つづく) 蓬茨祖運 述 ・ 『唯信鈔文意』講義より
(追伸) 今週の書き込みがずれ込みました。風邪をひきまして休養をとらせていただきました。ウイルス性の風邪などに感染しますと、年老いた父に感染しないかと本当に心配します。皆様方も体調管理には十分気配りをなさいまして「仏願の生起本末」を御聞き取りいただきたいと念じます。
また今週(28日)は親鸞聖人の祥月命日にあたりますね。各地の真宗寺院では「報恩講」が勤修されていますが、御本山のHPには「宗祖親鸞聖人の御祥月命日11月28日までの一週間七昼夜、真宗本廟で報恩講が勤まります。報恩講は、宗祖が出遇われた念仏の教えに、私たちが遇いえたことを慶び、その恩徳に報謝する真宗門徒にとって大切な御仏事です。皆様の参詣をお待ちしております。」と記されていました。結願日中は日曜日も重なって大変混雑するでしょうが、私も参詣したいと思っています。