唯識に学ぶ・誓喚の折々の記

私は、私の幸せを求めて、何故苦悩するのでしょうか。私の心の奥深くに潜む明と闇を読み解きたいと思っています。

第三能変  受倶門・重解六位心所(5)

2013-02-09 22:32:41 | 第三能変 受倶門・重解六位心所

 前回の補足説明

 「論。此中教者至四是遍行 述曰。即是別答。初教答。後理答。瑜伽五十六卷五十六卷亦引此經破經部等。大小共許。即阿含經。前者亦言起盡經也。此是初經。何故此中但説四者擧觸爲依。如前第三云。瑜伽何故唯説觸與受・想・思三法爲依。擧蘊勝故。即是觸生三蘊。且隱作意不説。即行蘊攝故 若爾何義故知作意必有。」(『述記』第六上・二左。大正43・427c) 

 (「述して曰く。即ち是れ別して答す、後に理を以て答す。初に教を以て答す。瑜伽五十六卷にも亦此の経を引いて経部等を破す。大小共許なり。即ち阿含経なり。前者はまた起盡経ともいうなり。これはこれ初の経なり。何故にこれが中にただ四のみを説くとならば、触を依とするを挙げたり。前の第三に云うが如し。瑜伽には何故にただ触は受、想、思の三法がために依となると説けるや。蘊として勝れたるを挙げるが故にといえり。即ちこれは触が三蘊を生ずるなり。且く作意をかくして説かざることは、即ち行蘊に摂するが故なり。
 若し爾らば、何の義の故に、作意も必ず有りと知るや。」)

 この科段は、大小乗共許の経典である『雑阿含経』を引用して証明の論拠としています。
 「触等は、四つ(触・受・想・思)とも、遍行である」と証明しています。根・境・識三和合して触がある。そして触と倶生して、受と想と思とがある、と。『論』では作意を後に説いて触・受・想・思を前に説いているのは、この四つは三和合と関係しているので、まとめて述べているのです。「触は三和合するが故に能く摂受する。受は三和合するが故に能く領納する。想は三和合するが故に名想言説を施設し、所縁を仮合して取る。思は三和合するが故に心をして造作せしめ、所縁の境に於いて随趣し希楽(けぎょう)する」、と説かれています。要するに根・境・識が和合するところに認識が成立する、と。

 「若し爾らば、何の義の故に、作意も必ず有りと知るや」(『述記』) 

 後半の作意が遍行であるということを証明するにあたり、このような問いが投げかけられているのです。

 「又、契経に説かく。若し根壊せず、境界現前するときは、作意正く起こって、方に能く識を生ずという」(『論』第五・二十七右)

 「契経に説かく」という経は中阿含経第七を指しています。『述記』によりますと、中阿含経所収の『像跡喩経』に、「若し、根が壊れず、境界が現れる時は、作意が正しく起こって、よく識が生ずる」という、ことが記述されてあり、作意は、識が生ずる時に必ず存在する心所である、このことによって、作意は遍行であることが証明されると述べています。

 その二の証明は『起盡経』を引用して作意が遍行であることの証明をする。

 「余の経に復言わく、若し此れが於に作意するときに、即ち此れが於に了別す。若し此れが於に了別するときに、即ち此れが於に作意す、是の故に此の二は恒に共に和合す。乃至広く説けり。此れに由って作意も亦是れ遍行なり」(『論』第五・二十七二右)

 また他の経にも、説かれている。「もし、此れ(認識対象を指す)に対し、作意する時には、認識対象に対して了別する。もし認識対象に対して、了別する時には、認識対象に対して作意する。この故に此の了別と作意は恒に共に和合する」そしてこのことは広く説かれている。此の理由に由って作意も遍行であるということがわかる。

 「経にまた説くが故に、起尽経なり。前の第三巻、第八の遍行のうちに引くがごとし。顕揚論巻第一にも経を引いて、つねに共に和合す等といえり。および(瑜伽論)五十五にもまた四の無色の蘊は恒に和合す等といえり。即ち諸の経論は相乖返せず。相離せず相応するが故に和合と名づく。故に知る。(作意もまた遍行なり)ということを」(『述記』)

 『瑜伽論』五十五には、識が生ずる時、どのような遍行とともに起こるのか、という問いに答えて、それは作意・触・受・想・思である、と。そして不遍行の心法は(多種あるけれども、勝れたものとして)欲・勝解・念・三摩地(定)・慧の五である。

 作意(さい)とは能く心を引発する法であり、所縁に於いて心を引くを本質としている。私の関心事に心が引かれるのですね。いろんなことに触れるわけですが、私の認識は私が興味のあること、関心のあることにしか心が引かれません。触れたものすべてに心が引かれるとはいえません。作意が働くところに、同時に自我意識である末那識が働いているのです。作意と触の関係は触があって作意が働くのか、作意が先で触が機能するのかは難しい問題を残していますが、『瑜伽論』五十五では作意が先に説かれています。

 『論』では作意を後に説いて触・受・想・思を前に説いているのは、この四つは三和合と関係しているので、まとめて述べているのです。触は三和合するが故に能く摂受する。受は三和合するが故に能く領納する。想は三和合するが故に名想言説を施設し、所縁を仮合して取る。思は三和合するが故に心をして造作せしめ、所縁の境に於いて随趣し希楽(けぎょう)する、と説かれています。要するに根・境・識が和合するところに認識が成立すると云うことになります。三和合の一つの形の三面ということになりましょうか。

 ここでは経を引用して作意が遍行であるという証明をしているのです。先にも述べましたが、私の認識する対象は多様なわけです。その中から瞬時に何を了別するかを選択しているのですね。それが作意になります。作意を働かしている原動力が第七末那識という自我意識です。ですから作意は自我意識の赴くままに自己関心事や興味のあることに、心を働かせるのです。警覚(きょうかく)の作用といわれます。心の働く時には必ず作意の心法は働いていると云う事になり、遍行であるということがわかるのです。

 教を結ぶ

 「此れ等の聖教の誠証一に非ざるなり」(『論』第五・二十七右)

 五遍行であることの教証は一つではない。多数ある、と述べて結論をだしています。

 「論。又契經説至方能生識 述曰。即象跡喩經。 

 論。餘經復説至亦是遍行 述曰。經復説故。起盡經也。如前第三卷第八遍行中引。合顯揚引經云恒共和合等。及五十五亦云四無色蘊恒和合等。即諸經論不相乖返。不相離相應故名和合。故知作意亦是遍行。亦前四也。 

 論。此等聖教誠證非一 述曰。大論第三解。根不壞境現前等。五十五亦言。五遍行心所。遍一切心生。第三亦爾。五蘊・百法皆是説故。即是誠證非一。五十五所引是經。餘是論故。此即教證。」(『述記』第六本上・二右。大正43・428a)

 (「述して曰く。即ち象跡喩経なり。

 経に復た説かが故に。起盡経なり。前の第三巻の第八の遍行の中に引くが如し。顕揚にも経を引いて云く、恒に共に和合す等、及び五十五に亦云く、四の無色蘊は恒に和合する等、即ち諸経論に相い乖返(かいへん)せず、相い離れずして相応するが故に、和合と名づく、故に知る、作意も亦是れ遍行なりと云うこと前の四に亦するなり。」

 乖返 - 論理的に矛盾していること。両立しないこと。乖反(かいはん)ともいう。

 大論の第三に解く。根壊せずして境現前す等と、五十五に亦言く、五の遍行の心所は一切の心に遍じて生ず。再三にも亦爾なり。五蘊は百法にも皆是れ説くが故に、即ち是れ誠証非一なり。五十五に引ける所は是れ経なり、余は是れ論なるが故に。此れは即ち教証なり。」)

 

 

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第三能変  受倶門・重解六位心所(4)

2013-02-08 21:55:15 | 第三能変 受倶門・重解六位心所

 「教及び理に由って定量と為るが故に」(『論』第五・二十六左)

 護法の答。初めは総、次は別、ここは総答にあたります。教及び理の二門によって知られるからである。第二能変・末那識に於ける二教六理証(末那識の存在証明 p100)の初めに「聖教と正理とをもって定量と為るが故に」と述べられていました。即ち何故「末那識」の存在証明は、聖教という文献的根拠と正理という理輪上から知られる証明をもって、正しく対象を把握し認識する基準とする、と云われていたことと同意になります。遍行は聖教と正理によって、その心所が個別に存在することが証明される。そのことによって、その相がわかるのであると、述べられています。

 『倶舎論』に於ける大地法の記述

 「心所に且く五有り、大地法等の意なり。(1)触と欲と慧と念と作意と勝解と三摩地とは一切の心に遍ず受と想と思と。(2)信と及び不放逸と軽安と捨と慚と愧と二根と及び不害と勤とは唯善心に遍ず。(3)癡と逸と怠と不信と惛と掉とは恆に唯染なり。(4)唯不善心に遍するは無慚と及び無愧となり。(5)忿と覆と慳と嫉と悩と害と恨と諂と誑と憍と、是の如き類を名づけて小煩悩地法と為す。」

 心所に五有り、とは(一)に大地法、(二)に大善地法、(三)に大煩悩地法、(四)に大不善地法、(五)に小煩悩地法をいいます。どの心王にも必ず遍く倶生するので「大」という。反対に「小」はいつも倶生するに限らないことを示しています。地は心王を指し、心所は心王を自分の拠り所として、いつも心王について起こる故に、心王を地と名づける。『倶舎論』では一度心王が起これば此の十の心所はいつも必ずついて起こるといわれています。世親はこれに解釈を施しています。

  • (1) 受 - 感覚で、苦楽等を感ずること。「受領納随触」(受は随触を領納す)
  • (2) 想 - 想い考えること。「想取像為体」(想とは像を取るを体と為す)
  • (3) 思 - 心を造作すること。
  • (4) 触 - 根・境・識とが三和合してそこに触を生ずる。
  • (5) 欲 - 境に於いて希求する。
  • (6) 慧 - 簡択の義。道理を択び分ける。
  • (7) 念 - 明記して忘れず。(記憶)
  • (8) 作意 - 心を警覚せしめる義。(注意作用)
  • (9) 勝解 - 境に於いて印可し、判断すること。
  • (10) 三摩地(定) -Samadhiで等持と訳す。心を一境に集めることで、定とも訳する。

 (参照文献 『倶舎論』講義 舟橋水哉著 p114~117)

 これが有部が挙げている十地法ですが、十地法が説かれているのに、何故「五」のみが遍行というのであろうか、という問いに答えているわけです。昨日のブログで「由教及理為定量故」までを述べました。その後半が次の文章になります。五遍行について個別に答えています。その一が教を引いて答え、後半が理を以って答えています。

 「此れが中に教とは。契経(かいきょう)の言うが如し。眼と色といい縁と為って眼識を生ず、三和合して触あり、触と倶生して受と想と思とあり、乃至広く説けり。斯に由って触等は、四つながら是れ遍行なり」(『論』第五・二十七右)

 「即ちこれは別答なり。初めに教をもって答し、後に理をもって答す。

 瑜伽の五十六巻にも此の経を引いて経部等を破す。大小(乗)の共許なり。即ち阿含経なり。前者をまた起尽経ともいうなり。これはこれ初めの経なり。何故にこれが中にただ四のみを説くとならば、触を依とするをあげたり。前の第三に云うが如し。瑜伽には何故にただ触は受、想、思の三法がために依となると説けるや。蘊として勝れたるをあげるが故にといえり。即ちこれは触が三蘊を生ずるなり。しばらく作意をかくして説かざることは、即ち行蘊に摂するが故なり」(『述記』)

 触・受・想・思の四は必ず遍行であることを経典の内容を証拠として証明する。経というのは、阿含経に説かれ、「眼根と色境とが縁となって、眼識を生ずる。眼根・色境・眼識の三が和合して触がある。そして触を倶生して、受と想と思とがある」と、『阿含経』(大正二・74b~c)には広く、詳しく説かれている。これによって、触等は、四つながら遍行であるということが証明される。

 ここに云われる経典は『雑阿含経』です。何故引用されるのかは、大乗・小乗をとわず、「共許」といわれますように、『阿含経』は、大乗・小乗両方に承認された経典であることが論拠になるわけです。ここが非常に大事なところになります。なぜなら、大乗のみ、あるいは小乗のみの承認された経典である場合は引用の根拠として不十分であるのです。護法が『阿含経』を大事にしていたことがわかり、また法相唯識が『阿含経』を大切に取り扱っていたことがよくわかります。また『瑜伽論』全体を通じて『阿含経』の影響を受け、経部等を論破しているこは注意されるべきことです。

 私たちは、小乗仏教ということで、いささかの偏見をもって、大乗に劣ったものという見方をしますが間違いですね。清沢先生が「予の三部経」として『阿含経』と『歎異抄』と『エピクテタス語録』を挙げておられますが、意味のあるところなのです。1897年・34歳のころに『阿含経』に親しまれていました。そして翌年の1898年に「エピクテタス氏教訓書」に出会われるのです。『歎異抄』はミニマムポシプルといわれる禁欲生活を始められた1890年・27歳の頃に親しまれたといわれています。この一連の流れの中にも、大小を問わずに共許の心をもって仏教そのものの本質である人間解放の道を探し求められた先生の姿が思い起こされます。また、護法・玄奘・基の論師も、辺見をもたずに真摯に道を求められた姿が想像できます。倶舎・唯識が仏教の基礎学といわれる所以も頷けるわけです。

 後が作意が遍行であることの証明がされます。 

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第三能変  受倶門・重解六位心所(3)

2013-02-07 22:51:02 | 第三能変 受倶門・重解六位心所

Ishiyama
 遍行について

 遍行の五は、八識すべての心王とともに働く心所です。ですから異熟識を釈す心所相応門において「此の識は幾の心所と相応するや。常に触・作意・受・想・思と相応す。」(『選註』p45~47)と説かれています。

 遍行の意味について

 「此れのみを遍行という相云何が知る応き」(『論』第五・二十六左)

 「論。此遍行相云何應知 述曰。下有三。初問。次答。後結。釋頌所言遍行之義。初薩婆多等問但五遍。經部師等問有實五以爲遍行。」(『述記』第六上・二右。大正43・427c) 

 (「述して曰く。下に三あり。初めは問、次は答、後は結なり。頌に言うところの遍行の義を釈す。初めに薩婆多(説一切有部)等は、ただ五のみ遍なりということを問う。経部師(経量部)等は実の五のみあって、もって遍行となすことを問う」)

 これのみが遍行であるという、その相はどのようにして知られるのであろうか、という問いが出されています。有部の教学や経量部の教学を想定して問いが出されているのです。有部は遍行と別境の区別を立てないのです。『倶舎論』に依りますと、法の分類が五位七十五法で、唯識でいわれる遍行・別境は大地法の十の中に摂められ、受・想・思・触・欲・慧・念・作意・勝解・三摩地(定)の十の心所が配当されています。では何故、唯識では大地法の中から、遍行と別境を分けたのでしょうか。大地法とは、心王(有部では一つ・六識同体という)が生起すれば、必ず同時に相応して起こる心所の一群であって、唯識で言う、遍行の意味と同じ性格をもつものです。しかし、別境は「各々ノ境ヲ縁ズルガ故ニ」と、法相唯識が遍行と別境を分けた理由はここにあります。即ち心王が生起する時には必ず倶に起こり、活動する心所ではないと考えたことが伺われます。ここに法相唯識の立場が鮮明にされるわけですが、その手がかりが有部の哲学であり、経量部の哲学であるわけです。これからこの問いに対する、護法の答えを学んでいくことになります。

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第三能変  受倶門・重解六位心所(2)

2013-02-06 22:49:15 | 第三能変 受倶門・重解六位心所

P1000644
 聞法することの難しさを痛感します。今日は、順正寺さんで、高柳正裕師を迎えられて、『浄土論註』初会の講義がされているのです、今朝方までは聞く気満々で準備万端で職場に向かったのですが、朝一番、夕方のトラック便に間に合わせるようにと、急ぎの仕事が舞い込んできました。気持ちを切り替えて仕事モードになりましたが、仕事をしながら、今この瞬間、講義をされているのだなぁと「世尊我一心」を口ずさんでいました。聞法難中之難です。場は違えども倶会一処なのですね。

         ―      ・      ―

 六位の心所について

 「初めに五頌をもって心所を顕す。(五頌別解心所 ー  第十頌~第十四頌) 後に総じて心所と心とは、一とせんや、異とせんやということを料簡す。(総料簡王所一異)」
 初めに五頌をもって心所を個別に説明し、後に心所と心王は一つのものか、異なるのか、ということを論じる。
 問いによって論端を起す。(初めに論端を問起し、後に問に随って答す)

 「且く初めの二の位の其の相云何」(『論』第五・二十六左)

 初めに二の位、即ち遍行と別境の相が述べられます。 
 相  - (内面の本質が外面にあらわれた)すがた・かたち・ありさまをいう。
 初・遍行 - 初遍行触等
 二・別境 - 次別境謂欲勝解念定慧 所縁事不同
 三・善 - 善謂信慚愧無貪等三根勤安不放逸行捨及不害
 四・煩悩 - 煩悩謂貪瞋癡慢疑悪 
 五・随煩悩 - 随煩悩謂忿恨覆悩嫉慳誑諂與害憍無慚及無愧掉挙與惛沈並懈怠放逸及失念散乱不正知
 六・不定 - 不定謂悔眠尋伺二各二             

 「頌に曰く、初めの遍行というは触等なり。次の別境というは謂く欲と、勝解(しょうげ)と念と定と慧となり、所縁の事不同なり」(『論』第五・二十六左)

 「論。頌曰至所縁事不同 述曰。下第二段別答所問。初一句頌顯明初位。前本識中已辨其相。今略標之。下三句頌。釋第二位。於中有二。上二句顯第二位名。下一句釋別境義。下長行中。准頌所明分爲二段。解遍行中有二。初總解頌初句。後釋遍行之義。」(『述記』第六本上・初左。大正43・427c) 

 「論に曰く、六の位の中に初めの遍行の心所というは、即ち触等の五なり。前に広く説きつるが如し」(『論』第五・二十六左)
 

  論。曰六位中初至如前廣説 述曰。此即總釋頌中初句。今解初字及觸等字。此五遍行自性・作業。前第三卷第八識中已廣解訖。彼卷所言遍行之義後當説者。今此説之。」(『述記』第六上・二右。大正43・427c)

 (「述して曰く。此れは即ち総じて頌の中の初の句を釈するなり。今は初の字と及び触等字とを解す。此の五の遍行の自性と作業とは、前の三巻の第八識中に、已に広く解し訖る。彼の巻に言う所の遍行の義は、後にまさに説くべしとは、今此れに説く。」) 

 遍行を解釈するのに二つに分かれる。初めに頌の初句を解釈し、後に遍行の意義を解説する。そして(「この五の遍行の自性と作業とは、前の第三巻の第八識のうちに、すでに広く解し訖る。・・・」)最初の触等の五はすでに一度前に広く説いた通りである。
 触等の五 - 触・作意・受・想・思の五つの心所
 心王と心所の関係について鎌倉の良遍は「ソモソモコノ八識ハ、心ノ中ノ本ナルガ故ニ、是ヲ心王ト名ヅク。此ノ八ノ王ニ多クノ眷属アリ。是ヲ心所ト名ヅク、具ニハ心所有法ト名ヅク、略しシテ心所ト云ウ。是モ同ジク心ナレドモ、サマザマクサグサニ細カナル心ハコノ眷属トス。是ニ六位有リ。一ニハ遍行。是二五アリ。五コトナリトイヘドモ、ミナ心ノ起コルゴトニ普ク必ズアルガ故ニ遍行ト名ヅク。・・・」(『法相二巻鈔』鎌倉旧仏教p129。大正71・110a)と説明されていますように、遍行とは、心王が起こる時に必ず遍く起こる心の働き(心所)のことをいいます。それに五つ配当されているのです。触・作意・受・想・思の五つの心所です。
 広説は『述記』によりますと、第三巻の記述を指すといわれていますが、『論』では巻第三の心所相応(五遍行)を指します。(『選註 成唯識論』p45~47)第八識は「幾ばくの心所と相応するや」と、問いを立てられ、詳しく説かれています。其の最後に「其の遍行の相をば、後に当に広釈せん」といわれており、この後がここの遍行の説明にあたるのです。したがって第三巻と第五巻に分離して遍行は説明されていることになります。第三巻においては阿頼耶識が如何なる心所と相応するのかにおいて述べられており、そこでは「常に触・作意・受・想・思と相応す。阿頼耶識は無始の時よりこのかた乃し未転に至るるまで。一切の位に於いて恒に此の五の心所と相応す。是れ遍行の心所に攝むるを以っての故に」と阿頼耶識と相応する心所は五遍行のみであることを明らかにしています。そして五遍行についての説明(定義・内容・働き・性格等)がされています。ここ第五巻では遍行に五つの心所があることを述べています。
 

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第三能変  受倶門・重解六位心所(1)

2013-02-04 21:47:47 | 第三能変 受倶門・重解六位心所

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 『法相二巻鈔』の心所の所説は、

 「此八ノ王ニ多ノ眷屬アリ。是ヲ名心所。具ニハ・名之ヲ心所有法。略テシ心所ト名ク。是モ同ク心ナレドモ。サマ種々ニコマカナル心ヲバ。心ノ眷屬トス。六ノ位アリ。一ニ遍行。此五アリ。五ツ異ナリト云ヘドモ。皆心ノ起ル毎ニ。遍ク必ズ有。故名遍行。二ニ別境。是ニ又五アリ。此五各々別々境ヲ縁ズルカ故。名別境。境ト云ハ。心ノ知ル處ノ法也。縁ト云ハ。物ヲ知ルヲ申也。三ニハ善。是ニ有十一。 凡ソ色心ノ諸法ノ性ヲ云ニ。又三性アリ。善性・不善性・無記性也。無記ト云ハ。善ニモ非ズ惡ニモ非ル性也。此十一ノ心所ハ其性必善也。故善ト名ク。四ニハ煩惱。是ニ六アリ。委ク開ケバ十アリ。此十ハ有情ノ身心ヲ煩ハシ惱スガ故ニ。名煩惱。五ニハ隨煩惱。此ニ二十アリ。此二十ハ煩惱ガ等流種類故。名隨煩惱。六ニハ不定。是ニ四アリ。此四ハ善惡等ノ性モ。此ガ有ル所モ。心王ト倶ナル樣モ。皆不定ナル故。名不定。遍行ニ五。別境ニ五。善ニ十一。煩惱ニ六。隨煩惱ニ二十。不定ニ四。合シテ五十一ノ心所也。其名ハ皆百法論ニ説タリ。」(『法相二巻鈔』大正71・110a)と述べられています。

護法は、八識別体、八識各々心王として、心王に付属して働く細かい心作用を心所有法として説き明かしました。略して心所といわれる。この心所に六の位がある。それは、遍行・別境・善・煩悩・随煩悩・不定の六位です。五十一数えられます。

 私たちが日常〝こころ〟と称して、自分で心はコントロールできると思っています。しかし、心は心に付属して共に働く六位の心所が伴っているのです。その心所によって、私の思いとはうらはらに、私の心は心所によってコントロールされているのです。その最たるものが、煩悩ですね。煩悩は「有情の身心を煩わし悩すが故に」といわれています。私たちは、煩わし悩まされるところから解放されたいと思っていますし、解放されると思い込んでいます。しかし、思い込んでいる心を覆うようにして煩悩が働いているのですね。善もまた煩悩の影響を受けているのです。善を為すとしても、いつも自分の都合が働きます。自分の都合、これが煩悩の働きです。親鸞聖人は、「三業を起こすといえども、名づけて「雑毒の善」とす、また「虚仮の行」と名づく、「真実の業」と名づけざるなり。」と教えておいでになります。では何故「雑毒の善」「虚仮の行」となるのでしょうか。それを、この心所の教えは、具体的に教えています。それでは、心所の世界に踏み出してみましょう。

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