唯識に学ぶ・誓喚の折々の記

私は、私の幸せを求めて、何故苦悩するのでしょうか。私の心の奥深くに潜む明と闇を読み解きたいと思っています。

「唯有識無外境」、果たして三界は唯心か? (100)九難義 (40) 第六 現量為宗難 (12)

2016-10-30 23:59:39 | 『成唯識論』に学ぶ


 十一月度の講究日程に変動がありましたので、改めて確定の日程をお知らせします。各位には大変申し訳なく思っています。ご容赦のほどよろしくお願いいたします。m(__)m
 第二日曜日(13日)は、旭区千林大宮の正厳寺様で、午後三時より開講です。
 聞成坊様での考究は、当初の予定から17日(木曜日)に変更となりました。会所は八尾別院をお借りしまして、午後二時からの開講となります。
  


 「云何ぞ影と障は聚に属して極微に属せずと許さざるや。
 豈に極微に異なりて、聚色有りて影を発し障を為すことを許すや。
 爾らず。
 若し爾らば聚にも応に二無かるべし。謂く、若し聚色は極微に異ならずんば、影と障とは応に聚色に属せざることを成ずべし。安布差別(アンプシャベツ)を立てて極微と為し、或は立てて聚と為す。倶に一実に非ず。」(『二十論』)
 
 有部の反論です。
 「どうして影と障礙することは聚った色に属して極微には属さないと認めないのか?」
  梵本では「障礙」は「抵抗」と訳されています。ですから、「影と抵抗」は極微(原子)にあるのではなく、影と抵抗の二つは極微の聚った色に関してであり、可視的な固体(極微)にあるのだと、あなたはどうして認めようとしないのか、と読めます。

 世親の答論は、
 「それら(影と抵抗)が属する大きなものは、極微とは異なり、聚った色が有って影を起し、障礙を起すと認めるのか?」
 つまり、影や障礙は、諸の極微とは別なもの出るのか、別なものではないのか、と有部の反論にして論主世親は論詰しているのです。「爾らず」(そうではない)と有部からの再反論が述べられます。
 論主世親は、
 「もしそうであれば、聚った色にも影と障礙を起こす二つがないことになる。つまり、もし聚った色は極微と別でなければ。、影と障礙とは聚った色に属さないことが成立すべきである。安布差別(アンプシャベツ・思考に由る分析に基づく色の)特別な相を立てて極微とし、或は、聚った色とするのである。これら極微などは倶(とも)に単一な実体ではないのである。

 極微が部分を有する、或は有しないという二つの立場あるという議論が有りますが、『二十論述記』によりますと、「部分を有する」と主張しているのは経量部で、「部分を有しない」と主張しているのは有部であると説明しています。しかし、この両方ともに間違いであると論主はいいます。
 では論主の答論にはどのような意味があるのかを考えなければなりません。 次回にします。
 
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「唯有識無外境」、果たして三界は唯心か? (99)九難義 (39) 第六 現量為宗難 (11)

2016-10-24 21:04:02 | 『成唯識論』に学ぶ
  

  第十三頌の論主世親の釈を読んでみます。
 「論じて曰く。一極微の六の方分の異なることを以て多分を体と為す。云何ぞ一を成ぜん。若し一極微二異の方分無くんば、日輪の纔(ワズカ)に挙がって光の照触(ショウソク)する時に、云何ぞ余の辺に影の現ずること有と彼と展転して相障(アイフサ)ぐや。余の分の他の行かざる所たる此れと彼と展転して相障ぐと説くべきこと無きを以てなり。既に相礙(アイサマタゲ)ずんば、応に諸の極微は展転して処同じかるべし。則ち諸の聚色(ジュシキ)は一極微の量に同じかりて、過は前に説くが如し。 云何ぞ影と障は聚に属して極微に属せずと許さざるや。
 豈に極微に異なりて、聚色有りて影を発し障を為すことを許すや。
 爾らず。
 若し爾らば聚にも応に二無かるべし。謂く、若し聚色は極微に異ならずんば、影と障とは応に聚色に属せざることを成ずべし。安布差別(アンプシャベツ)を立てて極微と為し、或は立てて聚と為す。倶に一実に非ず。」

 語句説明
 安布差別(アンプシャベツ)とは、事物の配列、配置、組み合わせを指しますが、ここは極微(原子)の配列の相違によってさまざまな物や形が生ずるという思考による分析に基づく色の特別な様相を立てる、という意味になります。

 第十三頌は前段を受けて、世親が、極微が結合すること、しないこと、極微が部分を有すること、有しないことを論ずることは大きなな過失になることを論理的に正しくないと論証し、極微は実在しないことを証明しようとしています。

 現代語訳
 論じていう。一つの極微は六方向の部分が異なることによって多くの部分から成ることになる。(極微の東側の部分は西側とは別であり、また北側、南側、西側と別であり、下方の部分は上方と別である。このように部分が別であることによって多くの部分から成るので)どうして単一であることが成立するのであろうか。
 それと反対に、極微に部分がなければ、影と抵抗はどうしてありえようか。
 もし一つの極微に異なった方向の部分がなければ、太陽が少し昇って日光に照らされた時、どうして日光の当たらない別な部分に影が現れることが有り得ようか。別な部分がある日光の届かないところはないからである。極微には部分が無いのだから、光が照らされないような、もう一方の部分などあるはずがないのである。
 また極微には方向の部分がない、つまり、空間的部分に分割されると認めないならば、どうしてこれとそれとが互いに障害し合うであろうか。(一つの極微が他の極微の存在によって妨げられることがどうしてあり得ようか?)
 なぜなら、極微にはもう一つの部分(他の極微がやって来られない別な部分)と言えるものは何等ないのであるから。既に互いに礙げることがなければ、諸々の極微は互いに場所が同じであるべきである。すなわち、諸々の聚った色は一極微の大きさと同じになってしまい、前に説いた過失のようになる。(先に指摘したように、極微の集結体はみな一極微の大きさであることになってしまう。)

 今日は傍線の部分を読みました。
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補足説明 (2)

2016-10-22 22:50:59 | 『成唯識論』に学ぶ
  

 第七末那識に於る阿羅漢位についてですが、初能変とはいささか趣が違うように感じます。それは永断と暫滅の違いによるものなんでしょう。
 初能変では、阿頼耶の名を捨する段階に於いて阿羅漢としています。末那識相応の我見等に執着されている我執からの解放を以て阿羅漢と名づけられていますが、末那識に於ける阿羅漢は法執が問題にされています。従って無学果でないといけないのですね。
 ただし、名が捨せられるのであって、体は転依して、無漏の末那識、平等性智としてはたらくことになります。
 「阿羅漢とは、総じて三乗の無学果の位を顕す。此の位には、染の意の種と及び現行と倶に永に断滅せり、故に有ること無しと説く」 
 と説明されています。
 永断 = 阿羅漢
 暫滅 = 出世道・滅定
 
 染汚の末那識の断滅する位は、三乗の無学果の位に於て種子と現行を永遠に断滅するんだということですね。
 この理由について、
 「謂く、染汚の意は、無始の時より来、微細(ミサイ)に一類に任運にして転ず。諸の有漏道をもっては伏滅すること能わず。三乗の聖道のみをもって伏し滅する義有り、真無我の解いい我執に違えるが故に。」(『論』第五・三右)
 (つまり、染汚の末那識は、無始より以来、微細に一類に任運に転じている。諸々の有漏道をもっては、伏滅することはできない。ただ三乗の聖道をもって、伏滅することができるのである。真解脱の解(無分別智)は、我執に違背するからである。)
 この意(末那識)は、有漏道をもっては伏することはできない。先に述べた『瑜伽論』巻第六十三の説と同じである。
 「何を以ての故ならば已に離欲せるに猶行ずるが故にといへり。又解す、世道は唯だ是れ事観なり。此れは理に迷うが故に世道をもっては伏せずといへり。此の諸の煩悩は皆是れ本識の種子に引かれて、一切の時に於て微細に一類に任運に生ず。「染汚の第七は世間道の」所対治と及び能対治とに非ず。境界の縁力を以て差別に転ずるが故にといへり。」(『述記』第五本・七十七左)
• 事観(じかん) - 事(現象的存在)を観察すること。ここでは理観の対をいう。「有漏の六行を名づけて事観と為し、無我等を観ずるを理観と為す。」 六行とは麤・苦・障・静・妙・離の六つの認識のありようをいう。下界を麤・苦・障なるものとして厭い、天界を静・妙・離なるものとして願う、有漏の智を以て染汚の惑を断じようとする観法。
• 対治(たいじ) - 過失や煩悩を退治すること。対治される側のものを所治・所対治といい、対治する側のものを能治・能対治という。
 人法二執という、この識の煩悩は微細にして、任運一類に転ずるものであるから、諸の有漏智をもってしては伏することができない。即ち、人法観の無分別智に違するので、その無分別智等流の後得智が現前する時も亦違すると。三乗の無漏智にてのみよく伏し、滅することが出来るんだということになりますね。
 法執は法の体に迷い、生執(人執)は法の用に迷うものである。法執ありといえども必ずしも生執ありとは限りないが、生執ある時には必ず法執あるわけです。
 生執有る時にはですね、
 有漏の後得智は無分別智の等流ではないのです。ですから有漏の後得智を以ては無我の理に達することは出来ない。出来るのは、無漏の後得智が現行する時。無漏の根本智及び後得智を以て染汚の末那識を伏することができるという。
 
 初能変異熟識にあっては、阿羅漢の位の中に第八地以上の不退の菩薩を含めたのですが、この末那識の断滅位は不退の菩薩は除くといっています。
 何故ならば、第八阿頼耶識は我執相応によってのみ阿頼耶の名を得、我愛執蔵の種子が尽きることを以て阿頼耶の名を断捨する位が阿羅漢であり、これを永遠に断滅するのは第八地以上の菩薩にも通じるが、不退の菩薩には法執が在り、法執は菩薩を汚す為に、暫滅であって、永断ではないという。
 漸悟の菩薩は、廻小向大の菩薩で、分別起及び倶生起の我執は断滅していますから、阿頼耶の名は捨せられているのですが、倶生起の法執は残るのです。これが問題とされます。染汚の末那識は「諸の有漏道をもっては伏滅すること能わず」と、無漏が起こった時に、初めて伏滅されるといわれて、第八地以上の不退の菩薩には尚、染汚の末那が残るので、末那識における阿羅漢は三乗の無学果の位であると述べています。三乗の無学果の位に於て、染汚の末那識の種子と現行とを永遠に断じ滅するという、それを又 「捨す」 というと説明されます。
 「然るに第八識をば唯だ煩悩に従って以て蔵の名を立てたり。今、染汚と名けるは亦法執にも通ず。自体に約して説く。此れが中に不退の菩薩は即ち是れ出世道に所摂の故に。法執在るが故に能く菩薩を染す。暫捨門に摂するなり。永捨には摂せらるるに非ず。無学に在って捨と云うは、其の所応に随って二種の染有り。一に三乗を染する、即ち謂く人執、無学に在って倶に行ぜず。二に法執を謂う。二乗をば染せず。但だ菩薩のみを染す。唯だ如来のみ捨す。此れが中には通じて説くが故に。染の意の現と種と永に滅すと言う、唯だ人執のみには非ず。」(『述記』第五本・七十六左)
 問、 人執は二乗を染するので、所執の阿頼耶識の阿頼耶という名は捨するけれども、法執は菩薩を染するとも、所執の阿頼耶の名を菩薩においては捨することはない、という問が出されます。
 答、 煩悩障(人執=我執)は麤である為に阿頼耶の名を立てる。しかし法執(所知障)は細である為に阿頼耶の名を立てることはない。そして煩悩は三乗を染するので所執の阿頼耶を捨すと名づける。法執は菩薩を染するので阿頼耶の名は立てない。法執が在ったとしても阿頼耶とは名づけないのである。阿頼耶という名は縛により、ただ煩悩にのみ在るが、染の体は障によるので、法執にも通じるのである、と。
 暫滅については、
 「学位の滅定と出世道との中には、倶に暫と伏滅せり。故に有ること無しと説く。」(『論』第五・三右)
 (有学の位の滅尽定と、出世道との中では、倶に暫に伏滅される。その故に「無有」と説かれるのである。)
 「述して曰く、其の所応に随って三乗の学位の滅定と出世道との中に暫く伏滅すというは、即ち随って何の乗にも障う所を便ち伏す。(1)二乗の初果已去ると、(2)大乗の初地の頓悟との二乗と及び菩薩との人空は唯だ人の染のみを伏す。頓・漸二悟の菩薩の法空は亦法の染をも伏す。」(『述記』第五本・七十七左)
 末那識の種子と現行から永遠に断滅されるには、先ず阿羅漢になることなんですね。
 そしてここで説かれていることは、有学位のことです。まだ学ぶべきものがあるという段階です。しかし有学であっても、滅尽定と出世道との中には末那識を暫く伏し滅することがあるので、「有ること無し」と説かれているのですね。
 後得無漏(後得智)が現在前する時にも、これは、彼(無分別智)の等流であるから、またこの意(末那識)に違背する。
 真無我の解(無分別智)と及び後所得(後得智)とは倶に無漏であるから、出世道と名づける。
 滅尽定は既に聖道の等流のものであり、極めて寂静でもある。此れにも亦末那識は無い。
 未だ、永遠に、この種子を断じていない為に、滅尽定と聖道から出たときには、これは、また現行する。そして未滅に至るまではこの繰り返しである。
 しかも、この染の末那識と相応する煩悩は、倶生起の煩悩であるから、見道での所断ではない。またこれは染汚のものであるので、非所断ではない。
 末那識相応の煩悩は極めて微細であるから、あらゆる煩悩の種子を、有頂地の下下の煩悩と一時に直ちに断じる。それは勢力(せいりき)が等しいからである。金剛喩定(こんごうゆじょう)が現在前する時に、直ちにこの種子を断じて阿羅漢と成る。だから、無学の位には末那識相応の煩悩は永遠に、また再び起こるということがなくなる。
 二乗の無学が大乗に廻趣した場合、その初発心より未だ成仏しないところまでは、実にこれは菩薩といってもいいのであるが、また阿羅漢と名づけるのである。応の意味が等しいので別にこれを説かないのである。
 二乗の無学が大乗に廻趣した場合、その初発心より未だ成仏しないところまでは、実にこれは菩薩といってもいいのであるが、また阿羅漢と名づけるのである。応の意味が等しいので別にこれを説かないのである。
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昨日の講義の補足説明 (1)

2016-10-21 22:44:14 | 『成唯識論』に学ぶ
  

  昨日の講義の補足になりますが、初能変における「初阿頼耶識」が「阿羅漢位捨」で迷いが転依する階位が示されていたわけですが、
 第二能変第五頌第三句・「依彼転縁彼」の中でも、伏断位次が、問題になっているのです。その所を少し読んでみます。
  第八段第十門 ・ 起滅分位門(いかなる位によって末那識を断ずることができるのかを問う。)
 「此の染汚(ぜんま)の意は無始より相続す。何(いずれ)の位にか永(とこしえ)に断じ或は暫く断ずるや。」(『論』第五・二右)
 (この染汚の意は、無始より相続して働きつづけている。しかしどのような位に至ってこの末那識は永遠に断じられ、あるいは、暫く断じられるのであろうか。)
 「染汚の意」(末那識)は人執と法執の二執を含めて述べられ、また、断に永断(ようだん)と暫断(ざんだん)とがあることが以下に述べられます。
 答。(伏断分位(ぶくだんぶんい)について説明される。)
 「阿羅漢と滅定と出世道とには有ること無し。」(『論』第五・二右)
 本頌の第七頌第三句(第二能変第十句)を挙げて答えられます。「文の中に二有り」と、二つの部分から成り立ちます。
 一は、末那識を伏断する分位についての説明。
 二は、分位の行相を説明です。
 その一がさらに二つの部分から述べられます。
 初めは、本頌を挙げて説明され、
 後に異説との論争を通じて答えます。
 この初がまた二つの部分から述べられます。
 初めに本頌を挙げ、
 後に個別に説明がなされます。
 本科段はその初です。
 (阿羅漢と滅定と出世道とには、末那識は無いのである、と。) 概略を説明しますと、
 「此の染汚の意は無始より相続す。何の位にか永に断じあるいは暫く断するや。阿羅漢と滅定と出世道とには有ること無し。阿羅漢とは、総じて三乗の無学果の位を顕す。此の位には、染の意の種と及び現行と倶に永に断滅せり。故に有ること無しと説く。学位の滅定と出世道との中には、倶に暫に伏滅せり、故に有ること無しと説く。謂く、染汙の意は、無始の時より来、微細に一類に任運にして転ず、諸の有漏道をもっては伏滅すること能わず、三乗の聖道のみをもって伏し滅する義有り、真無我の解いい我執に違えるが故に。後得無漏の現在前する時にも、是は彼の等流なるをもって、亦此の意に違えり。真無我の解と及び後所得とは倶に無漏なるが故に、出世道と名づく。滅定は既に是れ、聖道の等流にも極めて寂静にもあるが故に、此れにも亦有るに非ず。未だ永に此の種子を断ぜざるに由るが故に、滅尽定と聖道とより起こしおわんぬる時に、此復現行す、乃未滅に至るまでなり」 (『論』第五・三右~左・新導本p197~198)
 「阿羅漢とは、総じて三乗無学果の位を顕す」と。この位には染の意の種と現行と倶に永に断滅する。初能変の第八・伏断位次門に「阿羅漢の位に捨す」と。この位は我愛執蔵現行位ですね。阿頼耶識の名を断捨する位次を明らかにする段がここになります。応供ともいわれます。仏の十号の名の一つですね。ただですね。初能変においては、阿羅漢位の中に第八地以上の不退の菩薩をも摂めたが、末那識の断滅位においては、不退の菩薩は除く、それは第八識は我愛執蔵によって阿頼耶識の名を得るので、これを永捨するのは第八地以上の菩薩なのですね。末那識を染汚と名づけるのは、我執の染汚と法執の染汚が問題となるわけです。「第六識が単に生空無漏観にある時には、この識なお法執を起こして染汚を永捨せず、第六識が法空無漏観に入るに及んで始めてこの識の法執は除かれる。」(『唯識学研究』p291~p295)といわれています。したがって八地以上の不退の菩薩には染汚の末那が残るので永捨できないところから、阿羅漢の中に不退の菩薩は入れないといわれます。
 出世道とは、「染汚の意は無始の時よりこのかた微細に一類に任運にして転ず。諸の有漏道を以っては伏し・滅すること能わず。三乗の聖道のみ伏し・滅する義あり。真無我の解は我執に違せるが故に。後得無漏の現在前する時にも、是れ彼(無分別智)の等流なれば亦此の意(末那識)に違う。真無我の解(無分別智)と及び後所得(後得智)は倶に無漏なるが故に出世道と名く。」
 人法二執という、この識の煩悩は微細にして、任運一類に転ずるものであるから、諸の有漏智をもってしては伏することができない。即ち、人法観の無分別智に違するので、その無分別智等流の後得智が現前する時も亦違すると。三乗の無漏智にてのみよく伏し、滅することが出来るのであるという。
 法執は法の体に迷い、生執(人執)は法の用に迷うものである。法執ありといえども必ずしも生執ありとは限りないが、生執ある時には必ず法執あるわけです。
 (用語解説)
 人執 - 生執ともいう。生命的存在が実体として存在すると執着すること。また人を構成する要素(法)も実体として存在すると執着する法執と合わせて二執という。それに対して、
 人空 - 生空ともいう。生命的存在が実体として存在しないこと。また生命的存在を構成する諸要素は存在しないことを、法空といい、生空とあわせて二空という。 玄奘は諸経論の訳で人空・我空という訳を否定して生空という訳を用いている。人空といえば人のみに限られ、我空といえば我は法にも通じるから、いずれの表現も問題があり、生空という表現が適切であるとされた。
 また、末那識が、滅尽定では起こらない理由は、『論』に「滅定は、すでに是れ、聖道の等流にも極めて寂静にもあるが故に、此にも亦有るに非ず」と。
 滅尽定は、聖道の後得智の無漏観の等流のものであるから、染汚意である末那識とは性格を異にするので、この位には末那識は起こらない、という。また、極寂静であり、涅槃のようなものであるので、ここにも、末那識は起こらない。しかし、涅槃ではないので有漏の定である。六識と第七識は滅するけれども、第八・阿頼耶識は滅していないのである、と。
 阿羅漢と滅定と出世道をまとめて三位といいならわしています。この三位には染汚の末那識は存在しない、と。厳密には暫断と永断を含んで述べられているのです。
 「無有」と言うは、永と暫との義有り」(『述記』第五本・七十六右)と。
 初能変における阿羅漢とはを学んできたわけですが、第二能変に於いても再度問題となります。
 三の位を個別に説明されますが、初めは阿羅漢についてです。
 「阿羅漢とは、総じて三乗の無学果の位を顕す。此の位には、染の意の種と及び現行と倶に永に断滅せり、故に有ること無しと説く。」(『論』第五・三右)
 (阿羅漢とは、まとめて三乗の無学果の位を顕している。この位には、染汚の末那識の種子と、染汚の末那識の現行とを倶に永遠に断しているのである。よって、三の位には末那識は「無い」と説くのである。)
 阿羅漢とは総じて三乗の無学果の位をいう。初能変の最後に、本頌では第四頌第十句に「阿羅漢の位に捨す」と。それに応じて第二能変の最後に阿羅漢と滅定と出世道とには有ること無し」と結ばれています。
 「阿羅漢」とは何か、それから「捨す」とは何かという問題がありますが、『論』には「此の識(阿頼耶識)は無始より恒に転ずること流(る)の如し。乃至何の位にか当に究竟(くきょう)して捨するや。阿羅漢の位に方に究竟して捨す。謂く諸の聖者の、煩悩障を断ずること究竟して尽くる時を阿羅漢と名く。爾の時には此の識の煩悩の麤重(そじゅう)を永(よう)に遠離(おんり)せるが故に之を説て捨と為す。」(『論』第三・十一右)『新導本』p108)と。阿羅漢とはただ煩悩障を断じ尽くすのであって所知障を断ずるものではないといいます。そしてこの位に於て煩悩の種子です、「煩悩の麤重を永に遠離する」ことですが、煩悩の種子を永遠に遠ざけることが「捨」という意味です。そしてその「捨」は何の位においてかというのが「阿羅漢位」であると答えています。「此の麤重の言は煩悩の種を顕す」(『述記』)続けて『述記』には『対法論』(『大乗阿毘達磨集論』巻第十)等の証を引用して説明されます。「『対法論』等に種子をも麤重と説くが故に。煩悩の現行をも亦麤重と名づけ、無堪忍性(習気)をも亦麤重と名づくと雖も、然も今は但種子をのみ取って余には非ず。種断じぬる時に(第七)現行の執蔵と、(第六)発業潤生(ほつごうじゅんじょう)の惑とは皆起らざるに由るが故に、説いて名づけて捨とす。此の執蔵と云う名は唯だ煩悩の縛に約して説く。法執は縛に非ざるが故に断ずと説かず。」
 「諸の聖者」というのは、見道に入って真如を覚った人が、次の段階で修道を修め煩悩障を断じ尽くした段階を阿羅漢というと述べています。法執(所知障)を問題としないのは、法執の体は解脱を障碍するものではなく、発業潤生する用がないからであると述べています。我愛執蔵の種子が尽きることを以て阿頼耶識の名を断捨する位が阿羅漢であると。
 阿羅漢とは?
 「此の中に所説の阿羅漢とは、通じて三乗無学果の位を摂めたり。皆已に永に煩悩の賊を害するが故に。世間の妙供養を受くるに応ぜるが故に。永に復た分段生を受けざるが故なり。云何ぞ然るを知る。決択分に諸の阿羅漢と独覚と如来とは皆阿頼耶を成就せずと説けるが故に。集論(じゅうろん)に復た若し諸の菩薩菩提を得んとせし時頓に煩悩と及び所知障とを断じて阿羅漢と及び如来とを成ずと説けるが故に。」
 阿羅漢の三義が述べられています。
•(1) 応供 - 世間の供養を受けるにふさわしい人。「世間の妙供養を受くるに応ぜるが故に」。 
•(2) 殺賊 - 涅槃に向かう者にとっての賊である煩悩を退治した人。「已に永に煩悩の賊を害するが故に。
•(3) 無生 - 解脱によって分段生を受けないひと。「永に復た分段生を受けざるが故に」。
 三乗無学果の位に至ると、阿頼耶識が捨すと。上の三義を備えている三乗の無学位に於て阿頼耶識という名が捨てられるのである。それは阿頼耶識の場合は、阿頼耶識の阿頼耶という名は執着の対象となるという意味ですから、末那識の四煩悩等によって執着されるものから名づけられているのです。ですから阿頼耶という名が捨てられるのは、末那識の我執がなくなる位である。この位は八地以上の菩薩であるから、初能変における阿羅漢とは八地以上の菩薩を含むのである、と。
 では末那識における阿羅漢とは、という問題があるわけです。次回にします。
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雑感

2016-10-18 23:07:51 | 『成唯識論』に学ぶ


 独り言 (雑感ですので、それぞれにつながりはありませんが、一応保存しておきます。)
 最近は自炊するのも面倒になってきて、ランチを提供してくださるお店を重宝しています。そこでの一言ですが、現代社会が抱えている問題を垣間見ました。そのごとにおいて、地域社会に於けるお寺の存在意義も確かめることができました。
 あるお客様の愚痴になるのでしょう、「いつでもそうなんだけど、最近は何をやってもうまくいかないので心が滅入ってしまう」というお話でした。自分に触れられておられるのだが、思い通りにいかない自分に歯がゆい思いを抱かれている。
 でも、このお客様は、店主に心を開かれて、愚痴を吐露することがおできになられたんですね。これで随分心が解放されたと思います。しかし、独居老人(僕もその一人)が増える社会で、心の悩みを打ち明ける相手がいないということは悲劇です。核家族が生み出した空虚さを感ぜずにはおれません。
 そういう人たちを受け入れる受け皿作りが必要だと思いますが、真宗寺院の聞法の場所である本堂は正に過去から現在に至る迄その役割を果たしてきたのではありませんか。
 僧侶は社会的にも尊敬され、信用もあるわけですから、先ず、愚痴を聞いてあげることからお寺を開放し、「阿弥陀さんがついておられますからね。共に手を合わせ南無阿弥陀仏を申しましょう。」と、教化とは、こんなところから始まるのではないでしょうか。
 駐在の竹中さんが推進されている「雑談から始める聞法会」の重要性を感じました。
まぁお寺だけの問題ではなく、推進員の活動のあり方ににも示唆を与えてもらいましたね。 
同時因果と異時因果。因果に二通りの意味があるのですね。仲立ちするのは縁です。縁に依るわけです。
 しかし、生き様の中で現在しているのは同時因果です。異時因果は業(行為)に関わる問題ですね。
 仲野先生の「人間は自分の心に自分が縛られる」と言うお言葉は、仲野先生が仲野先生自身に対して「人間は(自分は)」と発しられたお言葉である思います。
 如来の願心に触れられた感動が「縛っているのは我が心だ」と、僕はブーメラン現象と云っているのですが、自分の業は自分が引き受ける以外に引き受ける場所が無いということでしょう。
 如来の願心に触れなければ分からないことなのですね。如来の願心に触れることが因、精密に言えば、触れることは果になるのでしょう。因は如来の大悲心ですね。大乗的に言えば、無為自然の法則です。無為自然の法則に逆らっている自分が見えない。そこに大悲心が働いているのでしょう。如来の苦悩ですかね。辛くて厳しいですが、苦悩という現実が与えられているのですね。仏教は除苦悩法と云われています。苦悩を除く法は何処にもないのですね。いのちはいつでも無為自然を生きている。
 生きているけれども、生きることを遮っている染汚の心が横たわっている。染汚は苦悩を生みます。苦悩を通して如来の願心に触れよという催促なのでしょうね。如来の痛みは苦悩を与えることであり、「獲」は苦悩を通してしか知り得ることのない世界に目覚めよということなのでしょう。
 大悲は如来の涙だと思いますよ。涙させてはいけませんね。
 意識の底に横たわっているのは、人願は迷いの存在だということであり、迷いを翻すことを、生きる目的とすることに於いて人間性を確保するということなのだと。 
 こうは云いますが、僕の生き様は異時因果なんですよ。例えば、花の種を蒔きます。やがていろいろな条件の中で花を咲かせます。
 この在り方は功利心なんですね。花はいいですよ、自然の中で条件に応じて花を咲かせますからね。
 私はどうですか、頷けないですね。頷けないままが、頷けない種子が頷けない種子を相続して現在の行為を決定しているわけです。
 心の本来性は能動的な意味合いはありませんので、積極的には「あんた間違っているで」とは言いません。
 例えば、精密機器のようなものです。理に合わなければ動きません。人間には情がありますので、怒り、腹立ちが生れます。これが苦悩です。理に合わないのは、理に触れているから言えることですね。親心というものでしょうか。
苦悩はこのように、因果が同時に生起しているのですね。
 「弥陀の智願海な深広にして涯底なし。名を聞きて往生せんと欲えば、みなことごとくかの国に生まるることを得べし」という声を聞くということが眼目となることでしょう。
 有漏(迷い)の種子が縁に触れる(縁も染汚に変化させる)ことに於いて現在(現行)することも有漏であるということです。
 これは不合理性です。不合理性は常(無為)に合理性を求めています。求めていることに触れて目覚めが生れてくるのですね。
 しかしね、触れ得た者が、こういう世界も有るんだよと伝えていくことが大切な事業なのでしょうね。
唯識は迷いの構造を解き明かす中で、もって生まれた執着(倶生起)と生まれてから起こす執着(分別起)をはっきりと区別して説いている。
倶生起の法、我執は仏陀に依って見いだされた根元的無明ですね。つまりね、仏陀に出会わなければ問題にならない事柄なんでしょうね。
真宗はニ尊教と教えられていますが、発遣の教主は弥陀の招喚の事実から、迷いの根元は無明であると教えられたわけですね。
弥陀の招喚が教主を通して具体性を持ったのでしょう。
「苦悩の衆生を捨てずして大悲心をば成就せり」
苦悩の衆生が見いだされたわけですね。
倶生起の法、我執に依ってしか生きていけない存在がはっきりとしたわけです。
ですから❗後天的な分別心は、いろいろな教えに依って教化されるのですね。しかし、この教化は、執を依り所にしたものにならざるを得ないのです。
邪教、邪分別として厳しく糾弾されます。この厳しさは還相菩薩の働きかけだと思うんですね。還相菩薩は仏果から無住処涅槃の菩薩にとどまることを願心として生きていかれるのでしょう。仏陀とはそういう存在ではないのかなと思うんですね。
帰る家(浄土)があってさまよえる❗さまよえるけれど迷わないのが菩薩ですね。遍ねく智恵が具わった存在だといわれています。
この菩薩に依って私の救済が成り立つわけですね。邪教、邪分別を依り所にするなとですね。
先週の土曜日、なむの会で梶原先生の講義を聴講しました。内容は、二十一願、二十二願についてでしたが、先生の思索の深さにただただ固まって聴いておりました。
先生の講義とは全く関係がありませんということを断っておいて感話です。
二十二願はご存じのように還相廻向の願と云われていますが、二十一願と深い関係にあるのですね。
還相廻向と云うと、何か往相廻向の果のように思えるのですが、往相廻向が成り立つのは、如来が如来の自己限定において衆生を見いだされたことに依るのではないかと思うんですね。
つまりね、如来が如来自身の中に衆生を自覚し、八地の菩薩に留まって、衆生と共にという願心に生きられるのでしょう。頓悟の菩薩と云われていますね。煩悩具足の菩薩ですが現行することはありません。種子は内包されているが現行しないんですね。
ですから、衆生と共に流転できる。流転できるというところに発願廻向の意義があると思うんです。
こういうところに、人間が三悪道を離れて、人間が人間として歩むことができるだんだという背景に還相廻向が往相廻向と因果同時として語られているのではないのかと。
如来の自己限定が法蔵菩薩の願心ではなかったかと思ったことです。
酒🍶をいただきながらの呟きです。スルーしてくださいね。
「往生浄土の道をといきかんがためなり」、本当は、私は私の歩むべき道(方向性)を見失っている、なんかね。仏法を聴聞していても、自分の思い込みで聴いていると思うんですね。
その点、大乗の論者は緻密ですね。理証・教証をもって、「我が計らいに非ず」と。
この証が現量になるんですね。
僕はここが抜けてますねm(__)m
FB友達のMさんが、往生について熱く語っていたと言ってとられましたおられましたが、往生とは、凄く厳しい問いかけですね。
それに依って生きるか、死すのかという分水嶺に関わる問いですし、世界は既に死に体ですから❗人間回復の道は、往生浄土を問う以外にないんでしょうね。
人間回復は、六道に通ずるのでしょう。人間として生をうけた者はね、はい、責任があるんですよ。
ですからね、現生か死後かの問題ではないのでしょうね。
転依の問いかけだと思います。
不退の問題かな。
三乗無学果
不動地
初地(❔)
ここは現実の問題がですよ。
私はどう生きているのかですね。 
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「唯有識無外境」、果たして三界は唯心か? (98)九難義 (38) 第六 現量為宗難 (10)

2016-10-17 23:02:49 | 『成唯識論』に学ぶ


  前回は、原文を添付いたしました。

 「又、極微の合と不合とを許さば、その過は且く爾なり。若し、極微の有分と無分とを許さば、倶に大成る失と為る。
 所以は何ん。
 頌に曰く、
  極微に方分有らば、理として一を成ずべからず。無くんば、応に影と障と無かるべし。聚は異ならずんば、二は無し。」(第十三頌)
 論じて曰く。
  一極微の六の方分の異なるを以て多分を体と為す。云何ぞ一を成ぜん。若し一極微に異の方分無くんば、日輪の纔(ワズカ)に挙がって光の照触(ショウソク)する時に、云何ぞ余の辺に影の現ずること有るを得るや。余の分の光の及ばざる所無きを以てなり。又、極微に方分無しと執せば、云何ぞ此れを彼と展転して相障(アイフサ)ぐや。余の分の他の行かざる所たる此れと彼と展転して相障ぐと説くべきこと無きを以てなり。既に相礙げずんば、応に諸の極微は展転して処同じかるべし。則ち諸の聚色は一極微の量に同じかりて、過は前に説くが如し。
 云何ぞ影と障は聚に属して極微に属せずと許さざるや。
 豈に五くん微に異なりて、聚色有りて影を発し障を為すことを許すや。
 爾らず。
 若し爾らば聚にも応に二無かるべし。謂く、若し聚色は極微に異ならずんば、影と障とは応に聚色に属せざることを成ずべし。安布差別(アンプシャベツ)を立てて極微と為し、或は立てて聚と為す。倶に一実に非ず。」

 説明をいたしますと、
 極微は原子です。合は結合、不合は結合しないこと。「許さば」ですから、認めてしまうならば、その過失は前節で述べたようになる。
 有分は部分が有ること、無分は部分が無いこと。そのいずれであっても)(有分、無分を)認めてしまうならば、大きな過失となる。
 問、どうしてそのようなことになるのか?(外界実存論者からの問いかけになります。)
 論主(世親)は頌をもって答えます。
 方分は方向の部分、影は影像、障は障害、或は抵抗。聚は集まり。
 頌に言う。
 極微に方向の部分があるならば、理(道理)として極微が単一であることは成立しない。(これが一つ目の答えになります。)
 「若し無くんば」(もし方向の部分が無ければ)、影や障害は起こらない。部分が有りますから、影が有り、障害も起こってきます。無いとすれば、起こりようがないのです。(此れが二つ目の説明になります。極微に部分がなければ、影と障害はどうして起こるのであるか、ということです。)
 また、「聚は異ならずんば、二は無し」とは、極微にではなく、聚ったものに影や障害が起こると考えても、聚ったものは極微とその本性が異ならないから、この二(影と障害)は起らない。(第十三頌)
 ここで世親は釈して、更に説明します。(後日にします。)
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講座のお知らせ

2016-10-16 22:04:30 | 『成唯識論』に学ぶ
  

       講座案内
 来る20日(木曜日)八尾市本町の聞成坊さまでの講義は、山門等の解体補修工事の為に、
 真宗大谷派 八尾別院大信寺 において午後二時よりの開講とさせていただきます。ご縁のお方は遠慮なくご聴聞においでください。テキストは用意しております。会費1000円です。
 一応は、テキストを通して読んでおりますが、臨機応変に対応しておりますので、初めての方でも十分に理解をしていただけるものと思います。
 午後二時より五時位までです。質問は随時です。お待ちいたしております。
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「唯有識無外境」、果たして三界は唯心か? (97)九難義 (37) 第六 現量為宗難 (9)

2016-10-13 22:06:15 | 『成唯識論』に学ぶ


 今日からは、『二十論』第十三頌から学びます。
 影と障の問題に答えています
 「又、極微が結合することと結合しないことを認めるならば、その過失は前に述べたことである。若し、極微に部分が有ること、無いことのいずれであっても、それを認めるならば、どちらの場合も大きな過失と為る。」と結論を挙げていますが、外界実存論者は「どうしてか?」と尋ねてきます。ここで論主は頌をもって答えられます。
 先ず原文を挙げ、書き下しを施し、現代語訳を付属します。梵本和訳は、中公『大乗仏典』に依ります。
 
 「又許極微合與不合。其過且爾。若許極微有分無分。倶爲大失。所以者何。頌曰 極微有方分 理不應成一 無應影障無 聚不異無二論曰。以一極微六方分異。多分爲體。云何成一。若一極微無異方分。日輪纔擧光照觸時云何餘邊得有影現。以無餘分光所不及。又執極微無方分者。云何此彼展輪相障。以無餘分他所不行。可説此彼展轉相礙。既不相礙。應諸極微展轉處同。則諸色聚同一極微量。過如前説。云何不許影障屬聚不屬極微。豈異極微許有聚色發影爲障。不爾。若爾聚應無二。謂若聚色不異極微。影障應成不屬聚色。安布差別立爲極微。或立爲聚倶非一實。」(『二十論』大正31・76a) 

 「又、極微の合と不合とを許さば、その過は且く爾なり。若し、極微の有分と無分とを許さば、倶に大成る失と為る。
 所以は何ん。
 頌に曰く、
  極微に方分有らば、理として一を成ずべからず。無くんば、応に影と障と無かるべし。聚は異ならずんば、二は無し。」(第十三頌)
 論じて曰く。
  一極微の六の方分の異なるを以て多分を体と為す。云何ぞ一を成ぜん。若し一極微に異の方分無くんば、日輪の纔(ワズカ)に挙がって光の照触(ショウソク)する時に、云何ぞ余の辺に影の現ずること有るを得るや。余の分の光の及ばざる所無きを以てなり。又、極微に方分無しと執せば、云何ぞ此れを彼と展転して相障(アイフサ)ぐや。余の分の他の行かざる所たる此れと彼と展転して相障ぐと説くべきこと無きを以てなり。既に相礙げずんば、応に諸の極微は展転して処同じかるべし。則ち諸の聚色は一極微の量に同じかりて、過は前に説くが如し。
 云何ぞ影と障は聚に属して極微に属せずと許さざるや。
 豈に五くん微に異なりて、聚色有りて影を発し障を為すことを許すや。
 爾らず。
 若し爾らば聚にも応に二無かるべし。謂く、若し聚色は極微に異ならずんば、影と障とは応に聚色に属せざることを成ずべし。安布差別(アンプシャベツ)を立てて極微と為し、或は立てて聚と為す。倶に一実に非ず。」
  
 語句説明
 安布差別(アンプシャベツ)とは、事物の配列、配置、組み合わせを指しますが、ここは極微(原子)の配列の相違によってさまざまな物や形が生ずるという思考による分析に基づく色の特別な様相を立てて、という意味になります。

 第十三頌は前段を受けて、世親が、極微が結合すること、しないこと、極微が部分を有すること、有しないことを論ずることは大きなな過失になることを論理的に正しくないと論証し、極微は実在しないことを証明しようとしています。
 現代語訳は明日にします。
 
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「唯有識無外境」、果たして三界は唯心か? (96)九難義 (36) 第六 現量為宗難 (8)

2016-10-11 22:29:10 | 『成唯識論』に学ぶ
  

 有部の論者は「原子の集結したものは互いに結合する」と主張をしているのですが、『二十論』で世親は、原子が集結し結合することの不合理性を明らかにしています。つまり、不合理性を明らかにすることに於いて原子の実有性を否定します。
 第十二頌で外界実在論者の主張の矛盾を指摘しているのです。
 原子は細分化できない最少の元素を表しますから、「極微は六と合せば、一は応に六分と成るべし」と、部分を有するものとなります。これは矛盾するわけです。部分を持つとなお細分化できるわけですら、最少の元素ではなく、部分を有するものは仮有なるものであるということになります。仮の存在ということですね。これによって、外界実存論者の考え方は成立せず、否定されます。
 しかし、この論主の答えに対して有部が反論をしています。
 原子は細分化できない最少の元素なので、原子そのものは部分を持たないことから、直接には結合をすることは無いが、原子が集まった色形などは実有であり、部分を有したものである、と。それらは外界に存在すると主張しているわけですね。
 ここも矛盾します。部分を持たないから結合することは無いといいつつ、原子が集まったものは部分を有するという。世親は、この矛盾を問いただして、原子そのものが結合しないのであれば、それが集まったものも結合することは無いはずである、と。
 しかし、考えてみてください。物は何らかの形で粒子が結合してできているわけです。それを私たちは捉えています。そして実在すると認識をしています。
 現代の物理学でも「原子が互いに結合して分子を造り、それら分子がさまざまな形で結合して様々な物質が造られる」としています。
 原子は原子核+電子。陽子と中性子からなる原子核を中心にして、その周りを電子が回っている。ここから核融合そしてブラックホールと呼ばれるところで、物質は消えていくと考えられています。原子の実在性の否定です。(皆さん方は現代物理学を勉強してください。)
 世親は次の第十三頌において原子が実在するとすれば、それは部分を有するのか、或は部分をもたないものなのか、いずれにしても大きな過失があると論証します。
 
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「唯有識無外境」、果たして三界は唯心か? (95)九難義 (35) 第六 現量為宗難 (7)

2016-10-10 10:38:37 | 『成唯識論』に学ぶ
  

 「理として亦た多に非ず。極微は各別に取るべからざるが故なり。
 又、理として和合或は和集して境と為るに非ず。一の実の極微は理として成ぜざるが故なり。」
 (それは単一なものとしても対象とならず、多数の原子としても対象とならず、またこれら原子の集結したものとしても対象となりえない。原子は証明されないものだから。)

 本科段より仏教内部の外界実在論者を対論者として、有部と経量部の説を破斥します。
  現量(直接知覚)による極微の否定
 「そのうち単一なものは認識の対象とならない。というのは、対象の諸部門と別に、単一な全体性などどこにも認識されはしないからである。」
 「原子の一つ一つは、対象の形象をもつものとして認識されはしないのであるから、多数の原子が対象の形象をもってあらわれることもない。」
 「さらに、それらが集結したものも認識の対象とはならない。というのは、集結体の部分としての原子が一つの実体であるとは証明されないから、それらが集結体を構成することもありえないからである。」
 (以上『大乗仏典』P436~437を引用)
 論主世親の答えに対して反論が予想されます。即ち「どうして成り立たないのか」というものですが、それに対して論主は偈頌をもって答えます。それが第十一頌になります。
 「問 云何が成ぜざるや。
 答 頌に曰く、
 極微は六と合せば、一は応に六分と成るべし。若し六と同処ならば、聚(ジュ)は応に極微の如くなるべし。(第十一頌)
 
 論じて曰く。若し一極微が六方各一極微と合せば、応に六分と成るべし。一処に余処有る容きこと無きが故なり。一極微の処に若し六微有らば、応に諸の聚色(ジュシキ)は極微の量の如くなるべし。展転(チンデン)に相望んで量を過ぎざるが故なり。則ち応に聚色も亦た見るべからず。
 迦濕彌羅國(カシュミラコク)の毘婆沙師(ビバシャシ)の言く、諸の極微には相合する義有るに非ず。方分(ホウブン・空間的な大きさ、上下四方)無きが故なり。前の如き失を離る。但だ諸の聚色にのみ相合するの理有り。方分有るが故なり。
 此れは亦た然らず。頌に曰く、
 極微は既に合すること無くんば、聚に合すること有る者は誰ぞ。
 或は相合すること成ぜざるは、方分無きことに由らず。(第十二頌)
 
 論じて曰く。今応に彼の所説の理趣を詰めるべし。既に極微に異なりし別の聚色無し。極微に合すること無くんば聚の合する者は誰ぞ。若し転求(テング)して、聚色は展転して亦た合することの義無しと言わば、則ち極微は合すること無し、方分無きが故なりと言うべからず。聚に方分有るも亦た合することを許さざるが故なり。極微は合すること無きは方分無きことに由らず。是の故に一の実の極微は成ぜざるなり。」

 原文を記載します。
 「云何不成。頌曰 極微與六合 一應成六分 若與六同處 聚應如極微論曰。若一極微六方各與一極微合。應成六分。一處無容有餘處故。一極微處若有六微。應諸聚色如極微量。展轉相望不過量故。則應聚色亦不可見。加濕彌羅國毘婆沙師言。非諸極微有相合義。無方分故離如前失。但諸聚色有相合理有方分故此亦不然。頌曰 極微既無合 聚有合者誰 或相合不成 不由無方分論曰。今應詰彼所説理趣。既異極微無別聚色。極微無合聚合者誰。若轉救言聚色展轉亦無合義。則不應言極微無合無方分故。聚有方分亦不許合故。極微無合不由無方分。是故一實極微不成。」(『二十論』大正31.75c~76a)

 方分(ホウブン)について、 
 有部の考え方は、「色(物質)を構成する最小単位である極微(原子)は、方分を有し、実体として存在する」と説きます。
 唯識派この考え方を批判して、極微が方分を有するならば、さらにそれは分析されうるから、最終的には空無になってしまい実体として存在しないものになる。従って、極微とは識の上に仮に立てられた影像にすぎず、識を離れては存在しない」と主張します。
 
 迦濕彌羅國(カシュミラコク)の毘婆沙師(ビバシャシ)について、
 迦濕彌羅國(カシュミーラ)はインド北西部に位置し、阿毘達磨の薩婆多部(サルヴァーステイヴァーダ・説一切有部のこと)の中心地の一つで、彼らは毘婆沙(ヴィバーシャー)を所依の文献としているので毘婆沙師(ヴァイバーシカ)と呼ばれる。世親はこの地で毘婆沙師の教義を学び、後に『倶舎論』を著します。『倶舎論』の中で「カシミールのヴァイバーシカのアビダルマの教義を説いたものである」と述べています。

 聚色とは、極微(原子)が集まり結合してできた物質のこと。

世親は答えて偈頌において
 一つの極微が六つの極微と合わされば、その一なる極微は六つの部分となるべきである。もし、その一つの極微が六つの極微と同じ場所となるならば、聚(集合体)は一つの極微のようになるべきである。(第十一頌)
 (梵文和訳より) 
 どうして、原子が一つの実体であると証明されないのかというと、
  同時に六個と結合するゆえに、原子は六部分をもつことになろう。(十二ab)
 一つの原子がその上下と四方の六方で、六個の原子と一時に結合するときには、原子には六部分があることになる(原子は、物質を分析しつづけた極限の、これ以上分割できない最少の実体を意味する。だから、原子になお部分があるということは自己矛盾にほかならない)。一つの原子があるところには他の原子は存在しえないから、
  逆に、六個が同一の位置にあるとすれば、可視的な大きい固体も一原子の大きさとなってしまう。(十二cb)
 (それを論じて言うならば、)
 もし、一つの原子のある位置がそのまま六個の原子の位置であるならば、結局すべての原子は同じ位置にあることになるから、(原子の集合体である)すべての(可視的な大きい)固体も一原子の大きさとなるであろう。原子が互いに他を越えてひろがることがないからである。そういうわけで、知覚されるべき大きなものは何もないことになるはずである。

 (反論)
 「諸原子は、部分をもたないものだから、互いに結合することはない。だから、上述のような誤りがつきまとうはずはない。けれども、(原子の)集結したものは互いに結合するのだ」とカシミールのヴァイバーシ(説一切有部)たちは言う。
 (答論)
 彼らは次の(第十三頌における)ように問われねばならない。
 この諸原子の集結体はそれらの諸原子と別なものではないのだから、
  諸原子が互いに結合しないのに、その集結の場合に何が結合するというのか、(十三ab)
  だから、原子が結合しないことの理由である原子の無部分性もありはしない。(十三cd)
 こうして、(原子が結合しないのだから)集結したものも互いに結合しないと(みとめざるをえないと)すれば、君は、原子h部分を持たないから互いに結合しえないのだと言って(結合しえない理由を無部分性に帰す)べきではない。というのは、部分をもっている集結体ですら、結合すると認められないのであるから、だから、原子が単一な実体としてあるとは証明されえないのである。
 
 今日はここまでにしておきます。世親は極微(原子)は単一の実体であることは成り立たないと結論づけています。


 



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