唯識に学ぶ・誓喚の折々の記

私は、私の幸せを求めて、何故苦悩するのでしょうか。私の心の奥深くに潜む明と闇を読み解きたいと思っています。

第十一回講義概要 「仮説我・法名」を考究する。

2013-11-23 12:35:36 | 唯識序説

 今回は、「能変体三」に入る前に、復習の意味も兼ねて「仮説我・法名」は何故説かれなければならないのかを尋ねてみます。

 

 「是の如き外道・余乗の所執の識に離れたる我・法は皆実有に非ず。故に心・心所は、決定して外の色等の法を用て所縁縁と為るものには非ず。縁の用は必ず実有の体に依るが故に。」(『論』第二・八左)

 

 ここは、識所変のみが所縁であることを明らかにしています。上来述べてきたことの結論になります。以上説いてきたように、外道及び小乗諸部派が説く諸識の所変は外境に有るというのは間違っている、諸識の所縁は唯識の所現のみであって、所執の識が我・法を実有として認識しているのは誤りである、と。
 
従って、心・心所は、心外の色等の法を所縁縁とするものではない。心外の色等を認識対象として縁じて生起するものではなく、識の所変のみが所縁縁となるのであることを説いています。心外の法が有るとする実有は遍計所執性ですから全く無いものであり、無いものを所縁とすることは出来ない。
 
ここは非常に大事なことを教えています。私たちが苦しんだり、悩んだりしていることは、何も意味のないことではないということです。意味があって苦しみ悩んでいるのです。存在は依他起性なんですね。存在が存在そのものとして存在するものではないということ。存在を決定するのは依他起性なのですね。それが存在は存在そのものとして有るとするのは遍計所執性なのです。私たちは、遍計所執性の上に苦悩しているのではないのですね。ですから、遍計所執性を所縁とすることは出来ないのです。あくまでも、依他起性を実有として苦悩している、依他起性を実有としているのが遍計性執性で、我愛現行執蔵位と云われているのです。ですから、苦悩と目覚めは依他起性の表裏なのです。苦悩していることに意味があるというのはこのことなのです。
識に離れて外境があるわけではないのですね。外境が実体として有るとし、執着を起こし苦悩しているのは、実は依他起性の於(うえ)に妄って執着を起こしているのです。依他起性に違背していることに於いて苦悩が現行しているのです。それを我愛現行執蔵位と表わしています。
 
「問。云何ぞ応に知るべきや、実に外境無くして唯だ内識のみ有りて外境に似りて生ずということを」
 
「答。実我・実法は得可からざるが故に」
 
我・法と説くことは、仮に我・法と説く、似我・似法であることを説明しています。
                  
六無為について
 
真如について少し説明します。無為法について六つの真如が示されています。
 
法性・真如に依って六無為の一つ一つについて説明されます。虚空無為・擇滅無為・非擇滅無為<o:p></o:p>不動無為<o:p></o:p>想受滅無為・真如無為の六つです。
 
初めに虚空無為です。
 
「諸の障礙を離れたり、故に虚空と名づく。」(『論』第二・六右)        
 
真如は諸々の障礙を離れているので、この真如を虚空と名づく、と。
 
「即ち此の真如は、諸の障礙を離れたり。故に虚空と名づく。」(『述記』)
 二番目が、
擇滅無為です。
 
「簡擇の力に由って諸の雑染を滅し、究竟して證會す、故に擇滅と名づく。」(『論』)
 
簡擇(ケンチャク) - 智慧で深く思惟すること。智慧の別名。簡擇力によって獲得された滅を擇滅という。
 
「無漏の慧の簡擇の力に由るが故に、諸の雑染を滅し、雑染の言は、通じて有漏法なり。「究竟して證會す」と云うは、即ち此の真如を名づけて擇滅と為ること、即ち慧の力に由る。方に證會するが故に。」(『述記』)
 
證會(ショウエ) - 真理をさとること。 
 諸
の雑染は有漏法の異名。有漏法は、たとえ善法でも「我」が混じりこんでいるので雑染といい。滅せられるべきものなのです。真如は、無漏の慧の簡擇力に由って諸の雑染を滅して真理をさとることが出来るので、擇滅無為と云われます。

 三番目が、非擇滅無為について
 「擇力に由らずして本性清浄なり。或は縁闕(エンケツ)に顕さ所たる故に。」(『論』第二・六右)

 擇力(チャクリキ) - 簡擇力のこと。因は智慧・果は(擇)滅。 
 
縁闕(エンケツ) - ものを生じる縁(原因)が欠けていること。 
 
真如は、無漏智の簡擇力によらないでも本来は自性清浄である、或は有為法は「縁闕けて生ぜず。不生の滅に顕れたる真理なるが故に」と云われているように、有為法は縁起の法です。縁起の法は、仮に施設されたものですから、縁が闕けたら生起することはありません。縁が闕けて現象的存在が生じない時に現れてくる真如が顕されます。それが非擇滅無為という、と。
 
「述して曰く。而も此の本性いい慧の能に由らず而も性清浄なるを以て、非擇滅と名づく。或は有為法の縁闕けて生ぜず。不生の滅に顕されたる真理なるが故に、非擇滅と名づく。無漏の慧を離れて而も自を滅するが故に。」
 
上記の所論のように、非擇滅無為は、無漏知の簡擇力によらないで得られる真如をいうわけですが、此れに、本来清浄の真如と、縁闕所顕の真如が説かれています。
 
 縁闕所顕の真如、大事な命題ですね。何か、深い意味での本願が云われているようです。「さるべき業縁のもよおさばいかなるふるまいをもすべし」という所に真如は働いているのですね。真如一実功徳大宝海、本当の幸福は、業縁真っただ中の此処に(居場所)あることを示唆しているようです。まさに、脚下照顧ですね。
 
第四は、不動無為について
 
 「苦ー楽ー受滅せるを以て、故(カレ)不道と名づく。」(『論』第二・六左) 
 
不動無為は、色界第四静慮で顕れてくる真如。第四静慮では、苦受と楽受とが滅せられて、苦にも楽にも揺れ動かない不動の心(不苦不楽受)が確立される時に顕れる真如であるという。 
 
色界には、初静慮から第四静慮が有るといわれています。初静慮は、離生喜楽、生は、欲界のこと、欲界を離れて初めて静慮に入った喜びがある静慮で、(初禅天ともいう)。第二静慮は、定生喜楽。第三静慮は、離喜妙楽(リキミョウラク)という。第二静慮で受ける喜びを離れて妙なる楽を受けるありようで、離喜楽ともいう。そして、これらの楽をも離れて捨念清浄という静慮に入り、ここが不動無為になります。
 
捨念清浄 - 色界第四静慮のありよう。心が動揺してかたむきがなく平等になり、対象を明晰に記憶して忘れることが無い状態をいう。
 
色界第三静慮までは、喜や楽が有ります。三災頂(サンサイチョウ)という、三つの災害が及ぶ頂があると、『瑜伽論』(巻第二)に説かれています。所謂、火災・水災・風災の三つで、大の三災とも云われています。初静慮は、火災。第二静慮は水災。第三静慮は風災があり、その頂は火災は第二静慮。水災の頂は第三静慮。第四静慮において、すべての喜・楽を離れて捨受のみであることを以て不動、不動無為と云われているわけです。風災の頂は第四静慮になります。災は、世界を破壊する災害であると云われ、火災・水災・風災の三つが説かれています。
 
「若し第三静慮の欲を離れて一切の苦楽受の滅を得す、即ち此の真如を説いて不動と名づく。」(『述記』) 
 
不動無為は、第三静慮の欲を離れる時、一切の苦・楽・受の滅したところに顕れる真如である、と説かれています。自他分別と云う二心が真如を覆っているんでしょうね。縁起だというと、縁起に執われますし、一切の現象的存在は、執を包含し、執を自覚せしめる働きをもったものということができるのではないでしょうか。自を脅かすものは自である、ということですね、他ではないということです。外界的事象が自を脅かしているのではないのです。それよりも、外界的事象は、自らを知る縁となるという意味に於いて、外界との関わりは大切であるわけでしょう。その外界は自らが作り出したものと教えているわけです。
 
「法」と云うと、法に執われるわけですから、多方面から「有」ではない、「仮」であるということを弁証しています。
 
五番目 -->

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寄稿 唯識序説 四分義をめぐって、その(9)

2012-11-08 23:09:48 | 唯識序説

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安慧と護法の解釈の違いは、「似」の解釈の違い、『論』に「遍計所執の二分の見・相に似るが故に似の名を立つ。」という所論について、護法は三分共に依他起としています。即ち能変の識体だけが依他起ではなく、所変の見・相二分もまた依他起として有という立場になります。しかし、安慧は自体分のみが依他起であって、見・相の二分は遍計所執であるとています。遍計所執とは、心の外に実体として有ると執着されたものですから、本来的には無いものです。無いものを有ると執着したものですから、見・相の二分は本来的には存在しないもの、依他起ではない、依他起の自体分が遍計の二分に似る、有るのは自体分のみであるということで、安慧の主張は一分説といわれるのです。
 所変という意味は、識が変化して現れ出たもの、了別するのが識の働きですから、「識の所縁は唯識の所現なり」と云われるのです。そして、識は何を介在として現れるのかという問題があります。それは「マナス」という染汚性なる自己中心性なのです。自分にとって何が得で、何が損となるのかを瞬時に判断して行動を起こすのです。自分という実体が未来永劫壊れることなく存在すると思っている執着が恒に働いていると教えています。
 護法は自証分という、何かを見たという認識を自分が知っていることを、また自分は知っているいう証自証分を立てます。自覚が無限に続くという、肝胆相照らすという言葉がありますが、自証分と証自証分は互いに照らすのです。
 一応ここで終わっておきます。私たちの認識が如何に虚妄分別で成り立っているのかが教えられています。誰のことでもありません、私の心の在り方が指摘されています。
 

 尚、四分義については後日、初能変を述べる時に詳しく記述していきます。

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寄稿 唯識序説 四分義をめぐって、その(8)

2012-11-07 22:38:44 | 唯識序説

Imagesca8v02la 私たちの認識はどのようにして生まれてくるのかということを、四分によって明らかにしょうとしているわけですが、初めに二分説と三分説が論じられているのです。二分説は難陀が説いているわけですが、「内識転じて外境に似る」と。識が生起するときいは、必ず二つの側面、二つの構造が有るという。能・所です、能縁と所縁に似た相が現ずる、そういう構造をもっているのですね。この二分義が認識の基本構造になります。その上に「識体転じて二分に似る」、自体分が転じて二分に似るというのです。この説は陳那の主張ですが、安慧・護法もこの三分を説いています。相分は所縁、見分は能縁、見分を自証する。相分を自証すのではないのですね。自らが自らを自証する、見分は能縁、能縁を自証するのも能縁の用きである。ですから、見分・相分の根底に自証分を見てくるのです。
 「似る」ということについて、『論』に「変と云うは、謂く識体転じて二分に似る」と説明していますが、『述記』には「護法等の云く、謂く諸の識体即ち自証分いい転じて相・見二分に似て、而も生ず。此の説は識体は是れ依他性にして転じて相・見に似たり。二分は無に非ず、亦依他起なり。」と、識体とは依他起性であって、実体として有るものではなく、有に似ているのもとして存在している。心そのものが転変(パリナーマ)して、見分と相分という二つの働きに分かれると説かれています。ですから、見分・相分も実体として有るものではないということです。遍計所執の二分の見・相に似て変化したものにすぎないということになりますね。「分別心に由って相の境生ずるが故に、境いい分別して心方に生ずることを得るには非ず。故に唯きょうに非ず。但だ唯識と言う。」と、分別心によって相境が生じるのであって、境の相が分別心を生ずるのではない、と解釈しています。対象物が存在して分別心が起こってくるのではなく、自分の心の中の分別心が境相を生み出してくるというのです。私たちの認識とは全く逆をいっていますが、私たちの認識の顛倒が迷いを生起させてくるのであと教えています。
 又、『述記』には「相・見二分は、用・体別に有らば、何が故に識は二分に似て生ずと説くや。」と問いを設けています。『論』に「相と見と倶に自証に依って起こるが故に。」、自証が無かったならば、見分・相分の二分は生じることはない、ということです。体はどこまでも識であって果能変である。
 安慧・護法共に三分を立てていますが、護法は三分共に依他起であると主張し、安慧は二分は偏計所執と見、自証のみが依他起と見て、安慧の説は一分といわれているのですね。

 「先一切ノ諸法ハ皆我心ニ不離。・・・・・心外ニ有リト思ハ迷乱也。此迷乱ニ依ル故ニ、無始ヨリ以来、生死ニ輪廻スル身トナレリ。」(『二巻鈔』。大正71-109a)

                       (つづく)

 

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寄稿 唯識序説 四分義をめぐって、その(7)

2012-11-06 23:45:36 | 唯識序説

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私たちの認識活動は、「識体転じて二分に似るなり。」と、自分の心が転変して、見るものと、見られるものとに似て現れる。見られるものという相分は、自分の心の表れである、見分も相分も自分の心の表れであって、「倶に自証に依って起こる」と云われているのですね。自証分を依り所として見分・相分が成り立っているという。識が縁ずるのは、識の中に表された対象を縁ずる、内識のみであって、無境ということ、唯識とは、唯量という意味を持ち、識が外境に似る、その構造が二分であって、唯二という。そして意識は、意識があって、様々なものを縁ずるのではない、一々の意識が二分をもっている、それで種々という。「唯量・唯二・種々」という意義を総合して唯識という。
 体が自証分で、用が見分・相分の二分で三分が成り立つのです。
 難陀の二分説は「内識転じて外境に似る」、内識である見分が転じて外境の相分に似て現ずるという。
 三分は、見・相二分の根底に自証分を見てくるのです。自証とは自覚、自分の心に映じたものを自分が見ているという自覚自証ですね。見分も相分も自証分もすべて自分の心であると見ていくのです。  (つづく)

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寄稿 唯識序説 四分義をめぐって、その(6)

2012-11-05 23:43:12 | 唯識序説

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 三分は、陳那菩薩が経に依って道理を立てたいわれています。「然も心と心所とは、一々生ずる時に、理を以て推徴するに三の分有り。」といいますが、何故三分を立てるのか、という問いが出されます。「所量と能量と量果と別なるが故に、相と見とは必ず所依の体有るが故に。」と答えられています。量とは認識することで、所量・能量・量果で一つの認識が成り立つといわれています。認識されるものを所量、これは相分に当たるわけです。そして認識するものを能量、これは見分にあたり、認識の結果を確認する心の働きを量果といい、自証分にあたるのですね。果によって、能・所が完成する、量果によって、能量所量が完成するのです。認識は量果によって成り立つのです。量果が無ければ、能量所量は成り立たないのですね。そして量果が因となって、能量所量が働くのです。これを『述記』には、「相分と見分と自体との三種は、即ち所能量と量果と別なり。・・・・・若し自証分無くんば、総見の二分は所依の事無きが故に、即ち別体を成じて心外に境有るべし。今所依有りと言うが故に、心に離れて境無く、即ち一体なり。」と。「・・・・・」に喩が出されています。「尺丈を以て物(反物)を量る時、物(反物)を所量と為し、尺(ものさし)とは能量と為し、数を解するの智は名づけて量果と為すが如し。」と、反物と尺があるだけでは量ることはできないのです、そこに量る人がなければならないのです、量る人があって初めて能量所量が意味を持つのです。量る人、即ち自体がなって、見相二分が成り立つといわれます。『集量論』の伽他の中に説かれているのですね。「境に似たる相は所量なり。能く相を取ると自証とは、即ち能量と及び果となり。此の三は体別なること無しと云う。」と。「今此の三種は体是れ一識なり。識に離れざるが故に、之を説いて唯と為す。功能各別なり。故に説いて三と言う。」と『述記』は述べています。

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寄稿 唯識序説 四分義をめぐって、その(5)

2012-11-03 23:12:03 | 唯識序説

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 二分を以て、安慧正量部の説を論破するのです。理証・教証をあげて論証しています。
 「若し心・心所、所縁の相無くば、自の所縁の境を縁ずること能わず。或は、一々能く一切を縁ず。自境も余の如く、余も自の如くなるが故に。」
 (もし、心・心所法に所縁の相が無いならば、自己が縁ずる所の境をもつことはないであろう。識と境が混乱するならば、識は一切を縁じてよいことになる。)
 識と境とは必然関係なのですが、識と境が偶然の関係であるなら、何を縁じてもいよいことになってしまいますから、「自境も余の如く、余も自の如くなるが故に」(自境も縁ぜない余の如く、縁ぜない余も自境の如しである。)
 『述記』には「青を縁ずる時の如き、若し心・心所の上に所縁の相貌無きは、正しく起こる時にあたりて、自心所縁の境を縁ずること能わざるべし。」と、因明を以て説明しています。これが宗になり、「所縁の相無しと許すが故に」が因になり、「余の縁ぜざる所の境の如し」が喩になりますね。能縁についても同じことがいえます。能縁と所縁との二つに似て現行するのですね。意識は、見・相二分に似て意識されるということ。
 所縁(対象)は相分・行相(作用)は見分という見方は、
 「識に離れたる所縁の境無しと達せる者の、則ち説く、相分は是れ所縁なり。見分とは行相と名づく。相と見との所依の自体をば事と名づく。即ち自証分なり。」
 私たちが見ているものは、相分という心の影像、主観によって捉えらえたものを見ていることになります。自分が心の中に捉えた映像を、自分が認識して知るという構造です。これが識の本質になるわけです。この本質を自体分といいます。この自体分が無かったなら、見・相二分は外界の存在になり、外界は実在と見るという錯誤を生じるわけです。自体によって二分が成り立つのですね。自分が自分を知っている、他人は騙せても自分は騙せない、騙したことを自分は知っている、自分は自分から逃れる術はないというのが自体になるわけですね。道理です。自証をもって自体とする、これが道理である。見・相二分の所依が自体である。二分では判然としなかった識の構造が、体は識、用は二分ということで諸法唯識が成り立つのです。    (つづく)

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寄稿 唯識序説 四分義をめぐって、その(4)

2012-11-02 22:34:25 | 唯識序説

Images 「了」についての所論です。「了」とは、異熟識が、自分の所縁に於て、了別の用(働き)をもつことであって、四分の中では、見分に摂められる、と説かれているわけです。
 そして、「然も有漏の識の自体生ずる時に、皆所縁・能縁に似る相現ず。」(有漏の認識作用は、自体が生ずる時に、皆な必ず所縁・能縁と云う対立した相を現わす。)
 この「自体生じる時」という自体は、自体分(自証分)といいますが、これが私たちが認識するときの軸になるわけですね。自体を中心に、外の境が実在すると思う対象の相を「相分」と名づけられているのです、そして実に外に認識する対象が実在すると思う働き、能縁の側面を「見分」と名づけられているのですね。自体を軸として、相分・見分が、外境は実在すると認識するのです。これが迷いの根本構造になります。二分の相は体に対して云われるわけです。体もまた実体化されているわけです。その体の上に現れる二分の相とは、私たちの、外境は存在すると妄執している相なのですね。妄執している相が相分・見分として現行しているのです。これが三分説になるわけですが、二分説は、識の体は、能縁の見分が自体であり、相分が相であるわけです。二分説は、難陀の説になりますが、見分を相とはみないわけで、体であると。対象化しない、実体ではなく、作用であるとみているわけです。私たちに認識の底には、このように、二分に見ていくという構造があって、ものを知るということが成立しているのです。これを、
 「識に離れた所縁の境有りと執する者、彼説く、外境は是れ所縁なり。」
 私とは無関係に外の世界は存在する、私の主観を抜いて外境は有ると執着する見方です。しかし実際は主観の相違によってものの見方が違ってくるのですね。私の見ている世界と、他の人が見ている世界は違うのです、千差万別です。ですから、「識に離れた所縁の境有りと執する」ということは間違いだといえるわけです。
 これに対してですね、相分は所縁であり、見分は行相である、と見ていく有り方ですね。「識に離れたる所縁の境無しと達せる者」は、「相と見との所依の自体をば事と名づく、即ち自証分なり」と。
 自証分は自覚作用であるということです。見分・相分は自内証であって、外的関係ではないと明らかにしているわけです。そうしますとね、私たちの認識はどのように成り立っているのでしょうか。私が見ているという認識はありますが、それは外に実在としての環境世界が有るという関係に於いて認識が成り立っています。外境を所縁とし、相分を行相・見分を事とみている有り方なんです。このものの見方が間違っていると指摘しているのが三分説になるのです。  (つづく)

 

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寄稿 唯識序説 四分義をめぐって、その(3)

2012-11-01 23:45:13 | 唯識序説

Dsc_00131 阿頼耶識には、二つの側面があることを述べましたが、『論』には「阿頼耶識は、因と縁の力の故に自体生ずる時、内に種と及び有根身とを変為し、外に器を変為す。即ち、所変を以て自らの所縁と為し、行相は之に杖して起こることを得るが故に。」と説かれています。
 阿頼耶識の所変を阿頼耶識は自らの所縁としている、と説かれています。阿頼耶識から変化したものを、自らの認識対象としているということです。そして、阿頼耶識の所縁を大きく分けて、執受と処になります。昨日述べた通りです。ただ、内的なもの(執受)に、種子と有根身が有ると述べられているわけですが、種子は有漏の種子ですね。煩悩に染汚された行為の結果しか阿頼耶識の中に植え付けることはないのです。「諸の種子とは、諸の相と名と分別との習気なり。」と云われる所以です。これは、すべての有漏の善等の諸法の種子であり、無漏の種子は植え付けられないのです。それ故、『瑜伽論』等には、「遍計所執の妄執の習気なり」と述べているのです。
 有根身は、根(感覚器官)を有する身体ですね。五色根と根依処とに分けられます。根は、又、勝義根と扶塵根とに分けられますが、勝義根は真実の根、淨色所造と云われています。これは何を意味するのでしょうか。五色根といわれる根そのものは宝石のような光り輝くものであることを、ヨーガ行者は発見したのでしょうね。そして、根を助けるものを根依処と云われ、扶塵根とも云われています。これら執受と処は、微細には働き、広大であるところから、認識されることはない所から不可知と云われるのです。
 このことを前提として、「了」について考えてみます。「了とは、謂く、了別、即ち是れ行相なり。識は了別を以て行相と為すが故に。」と。了別とは、ものごとを認識する働きの総称で、識の働きのことですが、これが「識の自体分が了別するを以て行相と為るが故に。行相と云うは見分なり。」と云われます。ものごとを区別して知る働きは見分に摂められるのである、と。   
  
 
「此の中に了とは、謂く異熟識いい自の所縁に於て了別の用有るなり。此の了別の用は見分に摂めらる。然も有漏の識が自体の生ずる時に皆な所縁能縁に似る相現ず。」 
 私たちがものごとを認識する時には所縁・能縁という形をとるわけです。そして、所縁に似る相を相分といい、能縁に似る相を見分というのだと。所縁と能縁は別別に起こることはないのです。同時であって異時ではないわけです。それがですね。自体が生ずる時に、所縁・能縁という形を取ると云われているわけですね。「識は外境に似て現ずる」、外境に似て現れるものは相分ですね、そこに見分が働いている、と云われているのですが、こういう所に問題が生じているわけでしょう。

                    (つづく)

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寄稿 唯識序説 四分義をめぐって、その(2)

2012-10-31 23:49:13 | 唯識序説

 四分義は何を現わそうとしているのか、私たちの認識の構造は、心の奥深くに横たわっている自己中心的な思いによって成り立っているという問題を抉り出しています。
 第八識の行相と所縁、働きと、対象は何かという問題ですね、心は必ず何かを対象として認識をしているのです。「謂く、云く」と答えています。不可知というのは、阿頼耶識の認識と認識の対象とのありようをを表す概念で、阿頼耶識の行相(認識作用)は微細であり、阿頼耶識の所縁(認識対象)、阿頼耶識は何を対象としているのかというと、執受と処と了である。執受とは種子と有根身、これは微細に働く、処は有情の所依処で器世間のことだと云われています。了というのは、「了と云うは謂く了別」、これは行相であり、識は了別するということが行相になると云われているのです。
 『三十頌』では「謂く不可知の執受と処と了となり」と述べられていますが、注釈は「了」から解釈されています。

 先ず、「種子と有根身」ですが、種子は、「謂く諸の相と名と分別との習気なり」と、私たちの経験のすべてが種子として蓄積されているということ、これが習気といわれるものです。それと、有根身、「諸の色根と及び根の依処となり」と。
 所依処は識の相分であり、外境、外の世界であるということです。
 執というのは、「摂の義持の義」、受は、「領の義・覚の義」である、「摂して自体と為し、持って壊せざらしむ、安危共同にして而も之を領受す、能く覚受を生ずれば名づけて執受と為す。」と云われ、種子と有根身と阿頼耶識は、安らかな時にも、危険な時にも、一体となって働くいく、これが識の根底に於て「暴流の如く」動いていると教えています。 
 

 覚受 - 感覚。身体が苦・楽などを感じること。生きているということは、覚受が働いていることになります。  (つづく)
 

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寄稿 唯識序説 四分義をめぐって、その(1)

2012-10-30 22:49:12 | 唯識序説

唯識は、2000年以上も前から仏教の世界では連綿として伝わってきた思想です。唯識とは、「ただ識のみあり」、ただ心だけがあるということです。「唯識」とは、私たちの苦悩の解明に心血を注いで発見した珠玉の名言です。
 ただ心のみがあるとはどういうことでしょうか。私たちは私と周りの外界(環境)、あるいは私と私とは無関係に存在すると考えている外界の二つがあると考えています。所謂、主客二元論です。具体的には私が意識してもしなくても山があり、川があると思っています。唯識はそれを誤りだと指摘するのです。では何があるのかといいますと、私の心が作り出したもの、私の心の映像(影像ーようぞう)といえるでしょうか。一つの絵画を鑑賞しても私の捉え方とあなたの捉え方は違います。山を見ても、川のせせらぎを聞いても人それぞれの捉え方があります。それは絵画があり、山があり、川があるから見ているのではありません。見ている私が作り出した映像なのです。そこにポイントをあて、心のあり方を追求してきたのが唯識といえます。中国、唐代、孫悟空でお馴染みの三蔵法師=玄奘三蔵によって天竺、今のインド、カシミール地方からもたらされたものです。玄奘は『唯識三十頌』を解釈した十大論師の説を、一つ一つ翻訳したのですが、それでは非常に煩雑になる為に、弟子の慈恩大師基ととも共に天竺より持ち帰った経、論を整理して『成唯識論』を編纂しました。これを糅訳といいます。また慈恩大師基を第一祖として法相宗が開かれました。日本には遣唐使の道昭(どうしょう)によって661年頃持ち帰られ、奈良の元興寺、法隆寺、薬師寺に伝えられました。それから717年には玄肪(げんぼう)が入唐して智周に学び734年、奈良、興福寺に法相唯識を伝えました。以来仏教徒は仏教の基礎学として、「倶舎論」(くしゃろん)とともに唯識を研鑽しました。学ぶといいましても学問として学ぶわけではありません。あくまでも学仏道として、佛になる道を学ぶのです。道元禅師も「仏道をならうとは自己をならうなり。自己をならうとは自己を忘るるなり」とお教えくださっています。親鸞聖人は「念仏成仏是真宗」と、仏教を学ぶということは佛になる道を学ぶのです。佛とは「本当の自己に目覚め、その目覚めの道をお教えくださった人」と私は理解をしています。それでは私たちは、なぜ本当の自己に目覚めることができないのでしょうか。何が障害になっているのでしょうか。それを唯識を学ぶことによって明らかにしていこうとしているわけです。
 
唯識という言葉が初めて出てくるのは、唯識の根本経典である『解深密経』です。この中の、分別瑜伽品に唯識の言葉が見出せます。
 「慈氏菩薩、復佛に白して言さく、『世尊、諸の毘鉢舎那(びばしゃな)三摩地所行の影像(ようぞう)は、彼、この心と當に異り有りと言ふべきや、當に異りなしと言ふべきや。』佛、慈氏菩薩に告げて日はく、『善男子、當に異り無しと言ふべし。何を以ての故に。彼の影像は唯是れ識なるに由るが故に、善男子、我、識の所縁は唯識の所現なりと説くが故なり」
 「識の所縁は唯識の所現なり」に見受けられます。所縁とは境の相分です。識は能縁の見分になります。
 私たちは普段何気なく見聞きしていることはあまり気にも留めていませんが、実はこのことは大変大きな意味をもっているのです。意識の上に上ってくる事柄について深くは考えませんが、実は意識が起こってくるには意識をコントロールする深い自我意識が働いているのです。意識は隋眠(ずいめん)、眠っている時は働いていません。しかし、眠っている時でも恒に働き、自身を執着している意識が有ると唯識は教えています。マナ識(末那識)といいます。このマナ識によってコントロールされた意識が深層の根本識(阿頼耶識ーアーラヤ識)に蓄えられていくのです。意識ーマナ識ー阿頼耶識という図式が成り立ちます。表に表れたのが意識になります。この表層の識に6つあります。すなわち眼識、耳識、鼻識、舌識、身識、意識です。前六識といいます。これに深層の意識であるマナ識、阿頼耶識を加えて八識というのです。三層八識によって私たちの意識が構成されています。すべての見聞きした事はは自分のよしあしにかかわらず、阿頼耶識に蓄えられていくのです。そして折に触れ意識の上に現れてきます。現在は過去の蓄積されていたものが縁に触れて現れてきたものだと教えています。それで現行(げんぎょう)といわれています。阿頼耶識は蓄える所という意味で蔵識ともいわれています。世界の最高峰ヒマーラヤ、雪山ともいいますが、つねに雪を頂いている、蓄えているところから音写をして阿頼耶識といい、その意味から蔵識というのだと教えていただいています。すべての経験された意識は阿頼耶識に種子として蓄えられ、熟成(薫習ーくんじゅう)されます。意識は現行されたものです。この種子ー薫習ー現行は同時に起こってきます(三法転展同時因果)。現行されたものが種子となり薫習され、薫習されたものが縁にふれ現行されてくることから、三法は同時におこってくると教えています。私たちは本当に一期一会の時間を与えられていることがよくわかります。真宗では聞法を生活の柱にしなさい、「ものをいえ」(聞法からいただいた信心を表白しなさい)ともいい、自分の殻に閉じこまないで本当の自分に目覚めなさいと教えているのです。唯識でも聞薫習が大切であると教えています。
 末那識ーマナーの音写です。「思量するをもって性とも、相ともなす。」何を思量するのかといえば、我をおもいつづける、我の思いどうりにしたいと寝てもさめても思い続けるということを本質としているということです。この思量されたものが、阿頼耶識に蓄えられて、意識の上に上り現実の行動となって現れてくるのです。仏道を修するうえで一番大切なことはこの末那識の転換だといえるのではないでしょうか。仏陀の上で言いますと佛の四智の平等性智になろうかとおもいます。末那識転じて平等性智になるのです。自分のことしか思わなかった識(はたらき)がすべて差別なく平等にみる智恵に転換するのです。なんとも素晴らしいことではないでしょうか。
 「円融(えんゆう)至徳の嘉号は、悪を転じて徳を成す正智、難信金剛の信楽は、疑いを除き証を獲しむる真理なりと。」(教行信証ー総序より)
 私は信心の智恵とは、我執の命が転じて公の命に生きる願いを賜るものだといただいております。「普共諸衆生 往生安楽国」という願いに生かされる、我執しかない私に図らずも、思いもしないような願いが起こってくることだと了解をしております。
 仏教の世界観ー蘊処界
釈尊滅後の仏教教団は仏陀釈尊の悟りの内容についての解釈の相違から部派に分裂していきました。初期仏教の代表は大衆部(革新派)と上座部(保守派)にわかれます。それから枝葉分裂を繰り返しますた。一つ一つの教団のことを『部派』と呼ぶことから、各部派の教えを内容とする仏教を『部派仏教』と呼ぶようになりました。その教えを阿毘達磨(アビダルマ)と呼びその代表が説一切有部です。これらの教説は実に煩瑣を極めていました。(現象世界は多様な構成要素の組み合わせの変化で有るとして、構成要素を五位七十五法に分類しました。)仏陀の願いであったすべての生きとし生けるものの救いからはほど遠いものでした。このような反省から大乗という大きな乗り物の仏教が興ってきました。その中核を担ったのが竜樹菩薩の中観派と無着菩薩・世親菩薩の唯識瑜伽行派(ゆいしきゆがぎょうは)でした。中観派は真理の立場からすべては空である(一切皆空)。存在するすべてのものは仮に和合をしているにすぎない。一つとして実体として存在するものはないと説きました。有でもなく無でもないと説きましたから中観派と呼ばれました。そこから何故という疑問が出てきました。それはすべては空であるにもかかわらず、存在するものは実体として有ると執着するのは何故なのか。瞑想という瑜伽行を実銭して心の深層を明らかにしてきたのが唯識瑜伽行派なのです。
 
 小乗仏教以来、仏教の人間観・世界観は五蘊十二処十八界によって成り立っていると説きます。
 五蘊とは、諸存在を構成する物質的存在と五つの精神的作用を言います。
 色(しき)-物質的存在
 受(じゅ)-感受作用(事実を感受する心の働き)
 想(そう)-識別作用(事実を思い描く心の働き)
 行(ぎょう)-意志作用(心の意志的な働き)
 識(しき)-認識作用(識別・判断する心の働き)
これらは身体と心を構成する五つの要素といわれています。一つ一つが実体として有るわけではありません、仮に和合しているにすぎないのですから「空」であるといわれます。
十二処(六根・六境)
 六根(ろつこん)-心の働きを生み出す感覚器官
  眼根・耳根・鼻根・舌根・身根・意根をさします。その対象が境です。 六境(ろくきょう)
  色境・声境・香境・味境・触境・法境
十八界ー六根・六境に六識をくわえたものです。存在の領域を十八に分類したもだといえます。
 六識(ろくしき)
  眼識・耳識・鼻識・舌識・身識・意識
根・境・識の和合によって生じた世界が十八界だといえます。五蘊の細分化が十二処であり、その細分化が十八界です。この五蘊・十二処・十八界が私の根拠という意味になります。それぞれが実体として存在するものではありません。仮に和合しているにすぎないと説いています。
 唯識の根拠は、『
解深密経』と
『華厳経』十地品「三界はこれ一心の作なり」に依るとされています。三界とは迷いの境涯をいいますが、この三界は外に存在するのではなくして私の心が作り出した世界だというのです。是は俗に「何事も心のもちよう」というような唯心論ではありません。なぜかといいますと、「心のもちよう」というのも 私が作り出したものだからです。三界は私の迷った識がつくりだした迷い、苦悩の世界だといえるでしょう。三界とは欲界、色界、無色界のことをいいます。欲界とは文字のごとく、欲望に満ち溢れた世界を言います。色界は世界は欲望だけで成り立っているのではなく、精神世界が大切で有るという認識で成り立っている世界のことを言います。無色界は欲界、色界というような認識を超えた究極の世界とでもいえましょうか。五趣(地獄、餓鬼、畜生、人、天)のうち、天上の世界といえるかと思います。この天上の世界をも迷いの世界だと見抜いてきたのが仏教なのです。
 
 『唯識三十頌』
  世親菩薩造
  大唐三蔵法師玄奘奉護法等菩薩。約此三十頌造成唯識。
  今略標所以。謂此三十頌中。
    
  初二十四行頌は唯識相を明かす。次の一行頌は唯識性を明かす
  後の五行頌は唯識の行位を明かす。ここに相・性・位の三分科を明らかにされています。
 二十四行頌の中に就いて。初めの一行半は略して唯識相を弁ず。次の二十二行半は広く唯識相を弁ず。(略説唯識と広説唯識を明かしています。)

 『唯識三十頌』は世親菩薩がお造りになられた偈頌です。この中に唯識のエッセンスが凝縮されています。ただ三十の短い頌ですので大変難解で古来よりたくさんの論師(ろんじ)が注釈書を書かれています。代表されるのが十大論師(十人の代表的な論師になります)といわれる方々です。
 十大論師は
 護法、徳慧、安慧、親勝、難陀、浄月、火弁、勝友、勝子、智月の十人です。
 玄奘三蔵はこれらの方々の論(注釈書)の中から護法菩薩の論を正義として『成唯識論』(じょうゆいしきろん)を弟子の基(後の慈恩大師)と共に纏め上げられました。『成唯識論』の表題には護法菩薩造 三蔵法師玄奘奉詔訳(三蔵法師玄奘詔を奉じて訳す)とあります。

    清沢満之先生は生きるということは「この
    現前の境遇に落在する」ものである、と教え
    てくださいました。ではどのようにしたら
    「落在者」に成れるのでしょか。共に唯識を
    学びながら考えてみたいと思います。
 『落在』 
世親菩薩に『無量寿経優婆提舎願生偈』(浄土論)という書物があります。その中に「観仏本願力 遇無空過者 能令速満足 功徳大宝海」(仏の本願力を観ずるに、遇うて空しく過ぐる者なし、能く速やかに功徳の大宝海を満足せしむ。)という一文があります。これは不虚作住持功徳成就といわれるところですが、世親菩薩はこの解釈に「すなはちかの仏を見たてまつれば、未証浄心の菩薩畢竟じて平等法身を得証して、浄心の菩薩と上地のもろもろの菩薩と畢竟じて同じく寂滅平等を得しむるがゆえなり。」と。私が本当に満足のできる人生を送るということは、何が起こっても、どんなことがあっても後悔をしない、それ自体が満足であるということを語っています。これは何を意味しているのでしょう。仏言に尋ねてみますと、人間的立場からは本当に満足のできる人生を送るということは不可能である、と教えているのではないでしょうか。人間的立場とは、一つのことを貫き通すことができない、どこかで挫折していかざるを得ないという現実が在るのではないでしょうか。挫折をしていけば元の木阿弥になってしまうのです。ここに聖の道が自力難行の道といわれる所以なのではないでしょうか。
 『末灯抄』に「浄土真宗は大乗のなかの至極なり」(真聖p601)と親鸞聖人はお教えくださいましたが、私から、自我の立場を超えることは不可能であるとするならば、どのようにしたら挫折をせずに、どのような境遇になっても現実から逃げずに現実を引き受けていくことができるのか、この問いにお答えくださったものであると了解をしております。仏の本願力に遇うということが唯一無二の、人生が空過することのない出来事になるのです。「落在」とは正にこの事ではないでしょうか。
 「煩悩を断じて涅槃を得る」断煩悩は仏教者すべての目標といってよいのでしょう。その断煩悩に難の質を見出されたのが親鸞聖人であり、親鸞によって「慶ばしいかな、西蕃・月支の聖典、東夏・日域の師釈、遇いがたくして今遇うことを得たり。聞きがたくしてすでにきくことを得たり。」(『教行信証』・総序より)と如来恩徳の深いことをお教えいただきました。ここに断煩悩の道が不断煩悩得涅槃の道として成就することになったのです。
 「難の質」とはいったい何なのでしょうか。厳しい修行をなさっておられる行者の方々にお叱りを受けることを重々承知しながら、私の領解を述べさせていただきます。私はごく普通の社会人で断煩悩という我執・法執を超えて涅槃を得る道を唯ひたすらに歩いたということは全ったくありません。しかし「本当に生きるということは自己を知ることである」という視点にたって聞法に励んでいる者であります。大胆に発言させていただきますと、大聖釈尊はすでにしてこの難の質を見極めておられたのではないかと思います。仏伝によりますと菩提樹下で悟りを開かれた釈尊は尼連禅河で沐浴をされ村人から乳粥をいただかれました。この様子を見ていたかっての修行仲間、五人の修行者はシッダールタは堕落したと釈尊の側を離れたと記述されています。修行者にはいつかは悟りを開くことができるのだという自負心があったのでしょう。三界のなかの最高の境地にまで達していたのですから、あと少しだ、もうすぐだ、という淡い希望があったのだとおもいます。しかし釈尊はその道を離れられました。ここに自己関心からはどこまでいっても超えられない「難」があることを自らに見出されたのではないでしょうか。励ましても励ましても超えられない、我執を超えれても法執が残る。ここに仏教徒の苦闘の歴史があるのだろうと思われるのです。「空」に胡座をかいてしまう。「もうこれでよいのだ」と。助かるべき自分もなければ助けるべき衆生もないと、「空」に沈む、あるいは「空」をつかむ、つかむことのできないものをつかんでしまうという妄想に駆られるのでしょう。
 我執・法執と簡単に言いますが、これは私の立場からは見えてこないものでしょう。仏法に教えられて初めて気付いていくものです。そこから自己を問うという姿勢が生じてくるものだと思います。ですから自己を問うといいましても、自分から起こした問いではないのです。仏法に触れることによって図らずも問われてきた問いなのではないでしょうか。仏法に触れるといいましたが、触れるということはどういうことなのでしょうか。どこかに仏法があって触れるのでしょうか。若しそうでありますならば触れる人、触れない人との差別が出てまいります。経典に『十方衆生』とか『諸有衆生』という呼びかけがありますが是は差別のない、すべての生きとし生きるものへの呼びかけであるはずです。では私たちはどこで仏法に触れているのでしょうか。そもそも仏法とはなんなんでしょうか。仏法は因縁所生の法といわれています。「諸行無常・諸法無我・涅槃寂静・一切皆苦」(諸行は無常であり、諸法は無我である、涅槃は寂静であり、すべては皆苦しみである)と、初期の経典に四法印として今日に伝えられています。是は私たちの存在は縁的存在であることを教えています。因(私)と縁(条件)が揃って今が在るということです。それに逆らって生きているところに齎されるのが一切皆苦なのです。一切皆苦そのものが仏法に触れているのです。「よき人の仰せをかぶりて、信ずるほかに別の子細なきなり」(「歎異抄」より)と親鸞は信仰告白をされていますが、まさによき人の仰せを待って人生が転換し、一切皆苦が一切所求満足に転換していくのです。私たちは苦しんだり悩んだり、怒ったり愚痴ったりと休む暇がありませんが、それは何も無意味なことではなかったのです。苦しんだり悩んだりの脚下に仏法に触れていたのです。是は大変大事なことなのです。このことの意味をこれから学んでいきたいと思います。
 『成唯識論』の初頭に頌がおかれています。『唯識三十頌』本文の前に帰敬序と発起序がおかれ、これは安慧の作といわれています。

 「稽首唯識性満分清浄者 我今釈彼説利楽諸有情」
  (唯識の性において満に分に清浄なる者を稽首す 我今彼の説を釈し諸々の有情を利楽せん)
 「稽首~者」は序分・帰敬序といわれるところです。
 「我今~諸有情」は発起序です。
まず最初に帰敬序がおかれます。これは唯識三十頌を釈するにあたり首(こうべ)を垂れて、五体投地をする。何に首を垂れるのかというと、唯識の性に満と分に清浄なる者に帰依をするという気持ちを表しています。
「稽」は一定の所にとどめおく、という意味があります。頭を地につけておくということでしょう。私たちが何かをする時にこの「稽」という感情は非常に大切なことではないかと思います。この感情は私的感情ではありません。老若男女の区別なく、手を合わせていくことはとっても大切なことなのです。私事になりますが十年前、父の体調の変化にともなって、名古屋から大阪へ転居をしました。子供は理不尽にも否応なく転校させられました。しかし、子供にとっては環境の変化がかなり厳しいらしく、日に日に明るさが影を潜めてきたのを覚えています。「友達がいないからつまらないし、休憩時間も一人ぽっち、名古屋に帰りたい」といって泣きじゃくっていましたね。私は、もっと環境に順応するものだと思っていましたのでかなりショックを受けました。こんな時どうしても子供を私有化してしまうのです。私は自分の意見を正当化して押し通そうとするのです。「おとうさんのいっていることがわからないのか」と、これはもう横暴です。「稽」という感情はどこにもありません。私からは「稽」はでてこないのです。「背負うた子に教えられ」ガツンと一喝されましたね。「稽首」するということは、私的感情を超え、身を投げ出して如来の前にひざまずくということなのです。
 如来といいましたが何に「稽首」するのかといいますと、「満分清浄者」に、といわれていまキ。「満」とは如来の事を指します。「分」とは菩薩のことをさします。先ず『唯識三十頌』を釈するにあたり帰依の感情を表しているのです。
 帰依ということは、身も心も喜ぶものなのでしょう。そこから「我今彼の説を釈す」るのは「諸々の有情を利楽せん」が為であるという、発起序が述べられます。
 ここに「経」・「論」を釈するのは個人的な事情によるものではなく、「諸々の有情」を利楽せんが為である。「諸有情」は人・法二空において迷・謬するものである。迷は迷い(無明)、謬はアヤマル謗法、疑いです。この者に正しい理解を生ぜしめるためであるといわれています。
『成唯識論』によりますと
 安慧等は
  「解を生ぜしむることは二の重障を断ぜしめんが為の故なり。我と法との執に由って二の障、具に生ず。若し二空を證しぬるときは彼の障も随って断ず。障を断ぜしむることは二の勝果を得しめんが為の故なり。生を続する煩悩障を断ずるに由るが故に真解脱を證す。解を礙ふる所知障を断ずるに由るが故に大菩提を得す。」
と釈しています。有情とは我執・法執に覆われて事実がみえない者の事です。執着が障礙の根にあるのです。作用は縛る。私が、私がといって自分をがんじ搦めに縛りつけるのです。そして縛り付けているのが私であることを知らないでいるのです。
 火弁等は
  「謬って我・法と執して唯識に迷へる者に開示して二空に達せしめ、唯識の理に於いて実の如く知を令めんが為の故なり。」と釈し、
 正義としての護法等は
  「唯識の理に迷謬せる者有り。或いは外境は識の如く無に非ずと執し、或いは内識は境の如く有に非ずと執し、或いは諸々の識は用は別に・体は同なりと執し、或いは心に離れて別の心所は無と執す。此れ等の種々の異執を遮せんが為なり。唯識の深妙の理の中に於いて実の如く解を得せ令めんとしての故に此の論を作れり。」と、この論を作るのはさまざまな異なる執着を取り除くためである。「唯識三十頌」を釈するにあたり宗前敬叙分(帰敬序・発起序)が先ずおかれます。
 「唯識性」について
『述記』には「唯識性というは、略して二種あり。
       一つには虚妄、即ち偏計所執なり。
       二つには真実、即ち円成実なり。・・・・・
      又二種あり。
       一つには世俗、即ち依他起なり。
       二つには勝義、即ち円成実なり。・・・・・
 又言わく、唯識に於いて相と性と不同なり。相とは即ち依他
なり。唯是れ有為なり。有・無漏に通ず。唯識即相なるを以っ
て唯識相と名づく。・・・・・性とは即ち是れ識が円成の自体なり。唯是れ真如なり。無為無漏なり。唯識が性なるを以って唯識性と名づく。・・・・・」と記述されています。
 ここには真実・勝義というものは虚妄・世俗と離れてはありえないことをあらわしています。私たちは何故迷っているのか、ただたんに無意味に迷っているのでしょうか。そうではないはずです。迷っていること自体、真実に触れているのです。真実に触れているからこそ迷ったり、悩んだりするのです。如来の催促とはこのようなことを指すのではないでしょうか。空観では色即是空、空即是色と言うのでしょう。
      迷っていることが大事なのです。
      迷っていることから逃げてはなりません。
         何故なら
      真実に触れているからです。・
迷っている世界を世俗というのです。真実を覆いかぶせている世界のことです。
 「摂取心光常照護 已能雖破無明闇 貪愛瞋憎之雲霧 常覆真実信心天
 譬如日光覆雲霧 雲霧之下明無闇」(『正信偈』より真聖p204)
と親鸞は表白しています。
 貪愛・瞋憎の雲霧が常に真実信心の天を覆っていても雲霧の下は、明らかにして闇きことなきがごとし、である。世俗をはなれて勝義はありません。私たちは世俗の真只中に生きているのです。それ以外に生きる世界はありません。勝義に触れることによって世俗を背負っていくことができるのです。
 虚妄ー偏計所執性(へんげしょしゅうしょう)
 世俗ー依他起性(えたきしょう)       }三性
 真実ー円成実性(えんじょうじつしょう)
 円成実を障碍するものが偏計所執であるわけです。そして世俗は依他起に由って成り立っていますが、その自覚がありませんので円成実を障碍するわけです。 二つの重障ー煩悩障・所知障(我執・法執)です。この二つが転じると二空になるわけです。人・法空(人無我・法無我) と。「我と法との執に由って二の障、具に生ず。」といわれています。障の根本に執があるわけです。
 ちょっと後回しになりましたが境・行・果、相・性・位、初・中・後についてふれてみたいと思います。これは『唯識三十頌』の組織になります。
 境・行・果 について
境は対象、行は方法、果は結果です。何を対象にするのか、その方法は如何にするのか、そしてどのような結果が生まれるのか、ということです。
安田理深先生「唯識三十頌聴記」によりますと三つの構造には必然性があるとして「瑜伽教学の論は、すべてこういう組織をもっているが、なかでも最も均整のとれた形をもって組織されたのが『摂大乗論』である。」といわれています。
 『三十頌』について
   境ー第一頌から第二十五頌まで
   行ー第二十六頌から第二十九頌まで
   果ー第三十頌
 です。
これをみてわかりますように『唯識三十頌』は教理に重点がおかれています。実践問題は『成唯識論』をみないとわかりませんが、第二十五頌の終わりのほうで「如是所成唯識相性。誰於幾位如何悟入。」(是のごとく成ぜられたる唯識の相と性とを、誰か幾ばくの位に於いて、如何が悟入するや。)と述べられています。これが実践問題になります。
   相             行 
     }境       位{
   性             果
『述記』によりますと「前の二十四頌は宗として識の相を明かす。即ちこれ依他なり。第二十五頌は唯識の性を明かす。即ち円成実なり。後の五頌は唯識の位を明かす。」
   相ー前二十四頌
   性ー第二十五頌
   位ー後五頌
『成唯識論』最後、釈結施願分に「此論三分成立唯識。是故説為成唯識論」(この論は三分として唯識を成立す。是の故に説いて成唯識論と為す」と述べられています。三分ということが初・中・後ということです。
『述記』によりますと「此の三十頌を初・中・後に分かつ。初めの一頌半は略して心に離れて別の我・法無しと標して、以って論旨を彰して唯識の相を弁ず。次に有る二十三行頌半は、広く唯識の若しは相若しは性を明かして諸々の妨難を釈す。後の五頌は唯識の行位を明かす。」と
   初ー初一頌半
   中ー次二十三頌半
   後ー最後の五頌
にあたります。まとめますと
           初(一頌半)
   相ー二十四頌{     
           中(二十二頌半)
   性ー一頌
          }後          
   位ー五頌
になります。   
                 
略説唯識について
初めの一頌半 
 由仮説我法 有種々相転 彼依識所変(仮に由って我・法と説く。種々相転ずること有り。彼は識が所変に依る。)
 ここからいよいよ本文に入ります。正宗分といいます。この一頌半は略説唯識といい、唯識を一言であらわしています。いきなりこのような始まりになっているのかといいますと、ここに『唯識二十論』を受けて、その答えを出されているのです。「初めに難に答えて執を破す」といわれています。
 「若し唯、識のみ有りと云はば、云何ぞ世間と及び聖教とに、我・法有りと説く。」というのが第一の難になります。
 「世間」・「聖教」ということ、『述記』に「毀壊すべきがゆえに、真理を隠せるがゆえに、之を名づけて世とす。世の中に堕せるがゆえに名づけて世間とす。・・・・・聖教と言うは、聖とは正なり。・・又、理に契い、神(真理)に通ぜる。之をなづけて聖とす。」と。
 疑問というのは、もし唯識無境というのであれば、世間と聖教とに我・法有りと説くのか、ということです。その答えとして「仮に由って」「我・法」と説くのである。「仮」とはみせかけ・本当ではない・実体がない・一時の間に合わせという意味があります。これは何を意味するのかといいますと、実体がないことを通して真実に触れさせるということかと思います。私たちの人生は善導大師が「隋縁存在」と教えてくださいましたように縁によってどのようにでも変わるものなのです。一つとしてこれだという実体はありません。「無自性なるが故に空」なのです。しかし私たちは私は有るのだと執して生活をしています。ここからはどのようにしても離れることはできないのです。ここがとっても大事な所なのでしょう。ですからこれを否定せず「由仮我法」と説くのであると教えてくださったのであると領解させていただいています。
私を離れて有るというのが分別です。これを二取といいます。識を能取、境を所取といい、この二取は分別にすぎないのです。私たちが現実だ、現実だといっていますが本当の現実に触れていないのです。私たちは現実を分別して分別の中に夢を見ているわけです。分別を立場にして解釈をしていますから不安におびえなければなりません。分別を破って現実に触れることに於いて本当の安らぎ、満足が生まれてくるわけです。
 また識を能変、境を所変といい『解深密経』に「識の所縁は唯識の所現と説く」と表せられ、あらわす識そのものは能変といい、あらわす識自身の構造はどのようになているのか、これを能変を問うといいます。能変を問うというところに、三類・八識の構造が明らかにされます。
     三類ー了別境(対象をいろいろ区別する)
        思量 (我を思う心)
        異熟 (最も根底にあるもの)
     八識ー眼・鼻・耳・舌・身・意・末那・阿頼耶識
『唯識三十頌』に於いては、それがなければ成立しないというものから出しています。何がといいますと、それは異熟であると。
  探求の順序によって・了別→異熟
  存在の順序によって・異熟→了別
この探求の順序については初期仏教では六識だけを追及しました。非常に綿密に理論を展開しています。この初期仏教の伝統を受け継いで六識だけでは人間全体を明らかにすることはできるものではない、ということから七識・八識を見出してきた。そこに大乗への展開があるといえます。
 唯識に於いては『唯識三十頌』によって三類・八識の構造が完成をしています。『摂大乗論』では七識(末那識)は阿頼耶識の中に収められていて、はっきりと表には出ていません。
 『摂大乗論』では「阿頼耶識は「所知依」(知らるべきものの依り所)であり、大乗では阿頼耶識が知らるべきものの依り所として説かれ、他に依ると妄想されたと完全に成就されたたに三種の実存(偏計所執性・依他起性・円成実性)が、知らるべきものの相として説かれ、ただ表象のみなること(唯識性)が、知らるべきものの相への悟入であることとして説かれ」ています。そして何故に阿頼耶識と呼ばれるのか、について「復た、何の縁の故に、此の識を説いて阿頼耶識と名づくるや。-一切有生の雑染品の法は、此に於いて摂蔵されて果性と為るが故に、~此れは亦た、心とも名づく。世尊が心意識の三を説きたまえるが如し。此の中、意に二種有り。第一は与(ため)に等無間の所依止の性と作る。無間に滅せる識が、能く意識のために生ずる依止と作るなり。第二は、染汚の意にして、四煩悩と恒に共に相応す。一は薩迦耶見、二は我慢、三は我愛、四は無明なり。此れは即ち是れ、識の雑染の所依たり。識は復た、彼の第一の依に由りて生じ、第二に由りて雑染なり。境を了別するの義あるが故なり。等無間の義の故に、思量の義の故に、意は二種を成ず。」このなかに、末那識という名はありませんが、阿頼耶識のなかに染汚の意としてのマナスがすでに見出されているのがよくわかります。
染汚の意は四の煩悩と恒に相応す、これが『唯識三十頌』にきますと、第七識ー末那識としてはっきりとした形を取って現れてきます。「次は第二能変なり。是の識をば末那と名ずけたり。彼(阿頼耶識)に依って転じて彼を縁ず。思量するを以って性とも相とも為す。四の煩悩と常に倶なり。謂く我痴・我見・我慢・我愛となり。及び余と触等と倶なり。有覆無記に摂せらる。所生に随って繋せらる。」と
 「有種種相転」-これは唯了・唯二・種種と、いろいろの内容を持って意識が起こってくることをあらわします。
 「彼依識所変」-我・法は妄想であって事実ではない、事実を此であらわします。彼は意識のあらわれにすぎないのです。そのあらわれかた、事実(此)能変(あらわす意識)は三類・八種類の識があるといわれています。意識の相をグループにわけているわけです。
 「此能変唯三」(此れが能変は唯し三つのみなり)と。
ここでは、「彼」「此」の言葉の使い方に注意が必要です。厳密に「彼」自分と離れて有ると思うものは妄想であって、我・法は事実として有るものではない、我・法は識の現れにすぎない。
 ここは日常の生活の場で私たちはどのようにしてすごしているのか、また世間といわれるものが何に由って成り立っているのか、鮮明にしています。日常とか、世間というものは私たちからは見えないものです。私たちからは日常とか、世間というのはちょっと間違っているかもしれないが、人間の能力、知性によって間違いを正していくことができるので有ると思っています。こいうのを妄想というのでしょう。私たちからは事実が見えないのです。だから妄想を事実と誤って事実を覆い隠しているのです。事実を如来といってよいのではないかと思います。一如来生という、真如の事実のみが見いだしてきたのが日常世間なのです。真如という如来を立場にしない限り私の事実は見えてこないのではないかと思います。如来に由って初めて私の妄想が明らかにされたのです。
 親鸞聖人はこのことを『恩徳讃』に
     「如来大悲の恩徳は
       身を粉にしても報ずべし
       師主知識の恩徳も
       ほねをくだきても謝すべし」(真全p505)
 と如来の恩徳を褒め讃えておいでになります。
如来との出会いによって初めて妄想しかない、自分が白日の下にさらされた。その感動を謳い上げています。

「謂異熟思量及了別境識」(謂く異熟と思量と及び了別境との識なり)
能変の数は三つのみあり、その能変の体を彰わしています。
       異熟識
       思量識   }唯三
       了別境識
この三類について『成唯識論』には、「謂く異熟、即ち第八識なり。多く異熟性なるが故に。謂く思量、即ち第七識なり。恒に審に思量するが故に。謂く了別境、即ち前六識なり。境の相の麤を了するが故に」、と述べられてあります。「謂異熟思量及了別境識」の「及」の言葉は六を合せて一種と為す。ここまでが略説唯識といわれるところです。唯識はこの一頌半で尽くされているということなのです。その内容を少し詳しく見ていきたいと思います。
 唯識の命題は「唯識無境」であると述べられてありましたが、それならば、どうして世間と聖教とに、我・法と説かれてあるのか。この疑問から我・法と説かれるのは「仮説」であると、仮に説かれたものに過ぎないということを明らかにしていていくのが『唯識三十頌』製作の意図であると思われます。
 『唯識二十論』(世界は表象のみのものであると証明する二十詩頌の論)に於いて「三界は心のみのものである」(『華厳経』取意)ことを証明してきました。「心、意、認識、表象というのはみな同義異語である。ここに心と言われているのは、(それに伴って起こる心作用と)連合している心のことである。「のみ」というのは外界の対象の存在を否定するためである。」(「大乗仏典」2中央公論社p429)私たちは現実と思っている世界で、世界は表象のみであるとは到底思うことはできません。私たちの思いは対象として山があり、川があります。私を離れて世界が存在していると思っています。そして対象としての世界が私を苦しめ、悩ませていくのだという思いで一杯です。私が悩んだり、苦しんだりするのはなになにのせいだと、だから対象を変えなければ私に満足は訪れないと思っています。有史以来の思いが今日の世界を築いてきたのです。それは又、如何にしたら満足を得ることができるかの悪戦苦闘の歴史といってよいのでしょう。結果今もまた満足を得るために日夜もがいているのです。この満足、不満足の戦いはこの先、果てしなく続くのでしょうか。唯識の論者は「否」と2000年以上もまえに「ただ識のみあり」と教えてくれました。『唯識三十頌』の著者世親菩薩に『浄土論』という書物があります。その中に「観仏本願力 遇無空過者 能令速満足 功徳大宝海」(仏の本願力を観ずるに、遇うて空しく過ぐる者なし。能く速やかに功徳の大宝海を満足せしむ」という一文があります。本願力に遇うてみれば、それが私の本当の願いであったと親鸞は教えてくれました。遇うてみれば「よろずのこと、みなもってそらごと、たわごとまことあることなし」と言い切られたのです。
 それは自分の思い、分別で持って構築されたものには真実はないという自己否定であったのです。自己否定されてみればそこに本当の自身の願いが実現しているのでした。でも私たちは自己保身のために(自分は一個の単独体として存在するーアートマンーと思っているがために)他を踏みにじり、顧みることなく自己を満足させようとして日夜奔走している有様です。そんな自己のありようを深く見つめ意識を解明したのが唯識なのです。意識を三層に解明し深層に潜む意識、表層に表れる意識と私の心の構造を明らかにしてきたのです。
 
 (第一頌) 仮に由って我・法と説く 種々の相転ずること有り
       彼は識所変に依る 

       此が能変は唯し三つのみなり
 (第二頌) 謂く異熟と思量と 及び了別境との識なり

ここが所謂、略説唯識といはれるところです。このうち上の三句は古来より難を答し執を破し、略して論宗を標し、唯識に結帰すといわれており、そのいわんとするところは、実我・実法を破るために仮に我・法と説くのである。『成唯識論』には「愚夫所計の実我実法は都へて所有なし、但し妄情に随いて而も施設するが故に之を説きて仮と為す。(無体隋情仮) 内識が所変の似我・似法は、有なりと雖も而も実の我・法の性には非ず。然も(されども)彼に似て現するが故に説いて仮と為す。(有体施設仮)といっています。又、仮ということについて『述記』には「(仮)というに二種有り。一には無体随情情仮なり。多分は世間と外道との所執なり。彼の執する所の我・法は無しと雖も、執心の縁に随うて亦我・法と名づく。二つには有体施設仮なり。聖教の所説なり。法体は有なりと雖も而も我法に非ず。本体は名無けれども強いて我・法と名く。法体に称はざれども縁に随って施設せり。」と述べられてあります。
 「所有無し」と述べられているのは体無しということであり、無体の実我・実法を妄情に随いて執する(偏計所執)ということなのです。
 わたしが、わたしがといっていることは本来それ自体では成り立たないのです。ここに人間存在は関係存在といわれる所以があるのでしょう。関係を断ち切って個は成り立たないということなのです。今ここでパソコンに向き合ってキーボードに指を運んでいますけれども、指を運ぶことが成り立つのもどれほどたくさんの人の手を煩わしていることか知れませんし、自然の恵みを頂いて初めて何事かに向き合うことができるのです。私たちは体を持ち、意識が働いているので私というものが一個の独立体と思っているに過ぎないのです。私というものを誤解をしているのです。私を私の意識でもって解釈をしているのです。ですからどこまで行っても出口のない暗闇をさまよい続けるしかないのです。毎日、毎日、暗く痛ましい事件が報道されていますが何故、何故起こってくるのかの議論はまったくといっていいほどされていません。表面上の出来事がどのようであったのかというような客観的要素のみの追求が為されているようにしか見えません。「人事ではないのです」、私の深層に潜んでいるエゴがはからずも露呈されているのです。そのためにも「唯識」を学びましょう。
 蓮如上人も「仏法は無我にて候」と教えてくださいました。
「仏法には無我」と仰せられ候う。「われ、と思うことは、いささかあるまじきことなり。われはわろし、とおもう人、なし。これ聖人の御罰なり」と、御詞候う。他力の御すすめにて候う。ゆめゆめ、「われ」ということはあるまじく候う。「無我」と云うこと、前住上人(実如)も、度々、仰せられ候う。(蓮如上人御一代記聞書ー真聖p870)
 私たちは妄想の上に(砂上の楼閣の上に)私をたてているのです。それは非常に偏った見方であるということから偏計所執(へんげしょしゅう)と云われるのです。
 「種々の相転ずること有り 彼は識所変に依る」
種々さまざまな世界が現れてくるのは、識が転じて境に似て現れるので有るというのです。私たちの認識とは随分と違うようです。私たちの認識は自と他を分別して成り立っています。唯識はそのような自と他を分別するような自はないと教えています。実我・実法はないのだと。「世間と聖教とに我・法有りと説けるは但仮に由って立てたり。」ということなのです。
 我・法について
「我というは謂く主宰。」   主=自在、宰=割断
  「我は主宰の如しとは国の主に自在有るがごときがゆえに。及び輔宰のよく割断するがごときが故に。・・・主というはこれ我の体、宰というはこれ我所なり。或いは主は我の体の如く、宰は我の用の如し。」(「述記」)
我というのは自由自在に判断をしたり決断をしたりすること、という意味なのです。自由自在に決断をする力を有するもの、それを我というのです。どうでしょうか。私の生き方そのものを言い当てているのではないですか。どんなにあがいてもここからは抜け出せないのです。生存本能といいますか、これがなかったら生きるということが成り立たないのです。ここに非常に深い問題が隠されているように思います。生きるということは「我」をたてることなのです。しかし生きるということの実体は無我だというのですから、そこに深い問題が隠されているわけです。                
 「法と云うは謂わく軌持。」
 『「軌」とは謂わく軌範、物の解を生ず可し。「持」とは謂わく任持、自相を捨せざるなり。 一には体の有無対
          二には自性差別対
          三には有為無為対
          四には先陳後説対
前は唯有対なり。後は亦無にも通ず。』(『述記』)

 「軌」=軌範(規範)ー判断、行為などのよるべき基準
 「持」=任持ー独自の本質、性質を持っている。
といわれています。
 ただ「法」といっても外に「法」といわれるものが有るわけではありません。私の認識において有るといわれるわけなのです。私との関わりに於いて有るわけです。大事なことは私に認識されたものだということなのです。我・法というものが単独にあるわけではなく、認識し、認識されるという関係に於いて我・法が仮に存在するといわれているわけです。本当に大切なのは何なのか。問題の所在はどこにあるのかをしっかりと見極めていかなければ為りません。
余談になりますが、仏教には三学という学びがあります。よくご存知だと思いますが 戒・定・慧 の三学といわれるものです。戒は戒律、定は禅定、慧は戒を守り禅定を修することに由って得られるところの智恵です。仏教徒はこの三学を学び人生の依り処としてきたのです。宗派を超えて脈々と伝えられてきたものなのです。今でもスリランカなど南方仏教圏での仏教徒は戒律を非常に重んじ、その姿には仏教徒の有るべき姿が感じられるようです。
机上の空論にふけることなく仏教徒は「有るべき姿」を深く求めなくてはいけないのではないかと思います。すくなくとも私はそのような生き方をしていきたいと念じています。
 では親鸞聖人の仏教観はどのようなものだったのでしょうか。キイワードとして「無戒名字の比丘」を手がかりに考えてみたいと思います。
 「無戒名字の比丘なれど/末法濁世の世となりて/舎利弗目連にひとしくて/供養恭敬をすすめしむ」(「正像末和讃」愚禿悲歎述懐 )
 『教行信証 化身土巻』に
  最澄の「末法灯明記」を引用され、末法の比丘のあり方についてお考えを述べられています。 
(参照)戒律ー戒と律との合併語。「戒」は規律を守ろうとする自発的な心の働きという。「律」は他律的な規範を意味する。
 仏教教団が確立されることによって、教団の秩序維持に規範が必要になったために作られた種々の規律条項や違反の際の罰則を規定したものが律で、是を内心より自発的に守ろうとして誓う点を戒という。とうぜん、戒と律とは切り離されたものではなく、共に併行して教団の秩序維持に大きな役割を担うものであるため、是を戒律と併用したもの。(「仏教語大辞典」より)
 戒は人間が人間として生きていくために、人間を保持するために必要な守られなければならないものであると思います。

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