唯識に学ぶ・誓喚の折々の記

私は、私の幸せを求めて、何故苦悩するのでしょうか。私の心の奥深くに潜む明と闇を読み解きたいと思っています。

究極の依存症ー深層意識

2009-09-30 22:56:57 | 依存症

私たちが生きていくうえで私の一挙手・一投足がすべて意味を持つのです。行動を起こしことは勿論のこと、考えていることさえも無駄ではないといわれています。すべてが意味を持つということは私たちの心の深層に蓄えられるということなのです。そしてその蓄えていく働きを第八識といいます。第七識は自我愛着心とでも言ったらよろしいかと思いますが、限りなく自分を愛着していく意識なのです。「私が」「おれが」というところの「我」です。私以外の一切のものはすべて私の所有物であると思っている意識なんです。この「私が」という意識が、第八識に働きかけ第八識は何の疑いもなく、すべて蓄積していくことになります。今、秋まっさかりで紅葉が大変美しいのですが、美しいと感じたことがそのままストレートに第八識に蓄積されればよいのですが、「美しいが、私はこのように感じる」と「わたし」の感情を通して、いわば色づけされて蓄積されていくのです。そして色づけされた記憶が紅葉を見たとき、紅葉そのものを見ることができない仕組みになっているのです。私たちはこの第七識に依存して生活をいているといってよいと思います。私というメガネで色付けをしていきますから「私とあなたは違う」という分別が起こってきます。分別の心、これを迷いの心というのです。わたしたちは迷いの心に依存して生きているといってよいのでしょう。今日職場に昼前私の携帯にメールが入りました。家内からで「大変だ、博貴が新型インフルエンザにかかった。最悪だ」というものでした。自分の息子がインフルエンザにかかったら最悪なんです。世間でインフルエンザが流行していても自分のほうに災いが及ばないときは平気なんです。平気ではないにしても最悪ではないのです。そのまま受け入れることができないような仕組みになっているのですね。意識を成り立たせている深層の意識に私たちは眼を向けるべきではないでしょうか。ではどのようにして深層意識にスポットをあて、あるがままの意識に転じていくことができるのでしょうか。私たちが幸福を願い、平和な生活を望んでも「私が」という分別心を通しては儚い夢に終わってしまいます。迷いの心を、智慧の心に転じていかなければなりません。「転じる」ということをこれから考えてみたいと思います。

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意識と無意識の領域 -究極の依存症ー

2009-09-29 22:41:06 | 心の構造について

識というものについて、私たちの意識の働きを六識であらわされています。六識とは眼識・耳識・鼻識・舌識・身識・意識です。昨日からの続きで言いますと、ここのところの識は意識のことで、人間の分別のことなのです。物事を二つに分ける意の識のことです。好きだ・嫌いだ、忙しい・暇だ、ということで、そこに善し悪しをつけることです。そして私たちはこの意識の働きで生活をしています。そこに「なぜ」という疑問を抱くことはほとんどありません。ただ知っていることは一つだけあります。それは「自分にとって善か悪か」と判断していることです。「自分にとって」ということはほとんど意識の上には上らないほど、本能的なものなのです。瞬時瞬時、自分にとって都合がよいか、都合が悪いかを判断しています。この判断は天才です。この「自分にとって」というところに、意識の底で意識を成り立たせている働きがあるということを暗示しています。古代インドの沙門といわれる人たちがこの意識の底に流れる働きを見出してきました。自分の中に見出してきましたので実に主体的です。よく仏教の深層心理という言葉を聞きますが心理というような対照的なものではないと思います。心理というより自証であり、はっきりと深層意識と名付けた方がよいのではと思います。ともかく自分の中に自分を突き動かしている働きがあると見出したきたのです。その働きを第七末那識といいます。寝ても覚めても自分を愛着し自分を思い続けている意識といわれています。

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依存症ー(5)ー意識と無意識の領域

2009-09-28 22:07:19 | 依存症

依存症の人は依存していることは善くないとわかっているのです。しかしどうすることも出来ないのです。これにはひとつの理由があります。私たちは普段,見える世界で生活をしています。ものを見たり、聞いたり、匂いを嗅いだり、ものを味わったり、身体で触れたり、あらゆるものを意識したりしています。例えば見ることにしましても、見る働きがあってはじめて見ることが出来るのです。対象があって見ているのではないのですね。私この頃、老眼がひどくなってきているのですが、老眼になって教えられることがあるのです。今まではっきりと見えていたものが、ぼやけてきたり、霞んできたりします。これなどは自分の方に問題があることを如実に物語っています。意識もそうですね。依存するものがあって依存していると意識をしています。しかし、これも同じことで自分の方に問題があるということなのです。意識は何をよりどころとして起こってくるのか。ここをはっきりとしていかなければなりません。そうすることによって、依存症はなぜ起こるのかがはっきりと見えてきます。「なぜ起こるのか」がわかれば依存症から必ず立ち直れます。そしてもっとはっきりと「人生の目的」も見えてくるはずです。

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依存症ー(4) 見える依存症と、見えない依存症

2009-09-27 13:18:40 | 依存症

一般に薬物依存症・アルコール依存症・パチンコ依存症・借金依存症など様々な依存症がありますが、これらの依存症は対象的依存症と呼ぶことができると思います。この対象的ということは薬物であったり、アルコールであったりと見えるものがはっきりしているのですが、それを絶つことにおいて正常な社会生活が送れるということになります。大変厳しい道のりではありますが、家族や周りの人の協力と自身の強い意志をもって依存症を克服していただきたいと思います。そして見えない依存症とは対照的と呼ばれる薬物やアルコールがあって依存するのではないということなのです。依存するのは自分の意志の弱さといいうことで片づけてしまえば事は簡単かもしれませんが、そんなに単純なことではなさそうです。なぜかといいますと、私たちの行動は過去からの積み重ねによって決定されるといわれているからです。私たちの意思決定は今、何を思い、何をして、何をしようと思っているのか、そのすべてが原因となり次の行動を起こしていくのです。「すべて」が自分の中に蓄積され、蓄積されたものが折にふれ表面にあらわれてくることになります。ですから依存症は根が深いのです。表面にあらわれていることだけを捉えて解決していこうと思ってもその解決は不可能と言わざるを得ません。これは厄介です。目に見えないですから、指摘できません。本人も自覚できませんし、サポートする側も根がどこに依処しているかわからないですから、大変難しい問題になります。

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依存症ー(3)

2009-09-26 21:13:20 | 依存症

「~思っているだけかもしれない」という姿勢なのですが、社会問題として捉えたときは別に問題はないということになるでしょう。いろんな依存症のかたちがあって、依存することでしか自己表現ができないという、それなくしては生きていくことができない、という問題なのです。家内いわく「それをやめろといわれたら私に死ねといってるのと同じことになる」といっていました。ではなぜこのような依存症に陥るのでしょう。その人の歩んできた環境にも左右されるのかもしれません。生い立ちにも問題が隠されていたり、また社会との関わりがうまくいかないということもあるでしょうし、人間関係もうまくいかず、閉じこもりがちになっているということもあるでしょう。このような閉塞感が依存に走らせるのではないかと、思われてなりません。たまたま私は家内との関わりの中で依存症からの開放を解く鍵をいただきましたが、それはどのようなことかといいますと、繰り返しになりますが「自分も同じである」という視線を失ってはいけないということです。「さるべき業縁の、もよおせば、いかなるふるまいもすべし」(『歎異抄』)とは親鸞の仰せでありました。過去に於いてどのようなことがあったとしても「今」、過去のことを受け止め明日に向かって初めの一歩を踏み出していけるよう、共に歩みを進めていくことが大切なのではないでしょうか。

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依存症ー (2)

2009-09-25 21:34:45 | 依存症

依存症は本人もさることながら家族も大変です。本人は依存しているものがすべてですから、こちらからの問いかけには一切耳をかしません。実は家内が随分長い間パチンコ依存症だったのです。今も完治しているとはいい難いのですが、隙あらばといったところでしようか。その家内の話によりますと「みんなといるときは依存していることは忘れているのだけど、一人になったら悪魔がでてきて、みんなのことや、生活の事は忘れてしまって、目の前にあるお金がパチンコに連れて行ってくれ、と誘惑する。そうしたら何もかも忘れてパチンコに一目散なんや、自分でどうすることも出来んし」と言っておりました。放っておいたら奈落の底にまっしぐらなのですね。実はこの依存症は私の外の問題ではないということなのです。私たちもいつ、どこで、どんな依存症になるかわかりません。たまたま今、依存症にかかっていないと思っているだけかもしれないのです。自分は大丈夫と思って、外の問題にしてしまいますと批判的になり相手は頑なになって心を開いてはくれません。大事なのは「~思っているだけかもしれない」という姿勢だと思うのですが。

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依存症ー(1)

2009-09-24 23:14:42 | 依存症

先日報道番組でパチンコ依存症の問題が取り上げられていました。依存症のために多額の借金をこしらえて家庭を破壊し、自分自身をも破滅の道を歩まざるをいえないという問題です。依存症の本質は依存しているものが自分だということです。それがすべてであって、そこに閉じこもることによって自分を取り戻すことだと思っていることです。依存しているところが宮殿であって、自分はそこの主であるわけです。ですから依存していることを否定されることは、自分を否定されていることになるのです。否定されれば否定されるほど依存にのめり込んでいきます。その場所が自分にとって自分を回復することのできるところだと錯覚しています。そのためには多額の借金もしますし、家庭を破壊しても何の罪の意識もありません。この牢獄から(依存症本人は牢獄とは思っていませんが)抜け出ることは容易ではありません。本人一人では脱出不可能です。関わりのある人や家族の協力が不可欠です。気の遠くなる道のりになると思いますが、途中で投げでしますと元の木阿弥になってしまいます。ではどのようにしてこの牢獄から抜け出すことができるのでしょうか。い今、パチンコ依存症に限って話していますが、依存症はこの限りではありません。宗教の世界での依存症はあります。宗教の世界での依存症は他に迷惑をかけない分脱出不可能です。この問題を少し時間をかけて考えてみたいと思います。

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他力について

2009-09-23 19:31:01 | 生きることの意味

「他力はだめだ、自力でないと」よく聞く言葉です。ここでいう他力とは「依頼心」「依存心」をさしますが、依頼心とか依存心は他力ではないのですね。他の力ということで誤解を招いていますが、依頼心などは自己中心の考え方ですね。このことで言いますと「他力はだめだ」といっている意味は依頼心即ち自己中心の考え方はだめだといっているのですね。「他力」の本質を言い当てているのかも知れません。「他力」という言葉は実は仏教語なのですね。広辞苑によりますと「他人の助力。仏・菩薩の加護の力を指す。浄土門に於いて阿弥陀仏の本願の力により往生することをいう。」とあります。「依頼心」ではないのですね。わたしはこの「他力」ということは「ありがとう」「ごめんなさい」という心だと思うのです。「いつも見守っていてくれてありがとう」「いつも迷惑をかけてごめんなさい」この姿勢が大事だと思うんです。この姿勢が「他力」の本質ではないかなぁと思うんです。。小さなお子さんから、おおじいちゃんおばあちゃんにいたるまで、誰でも分け隔てなく「ありがとう」「ごめんなさい」といえるのではないでしょうか。この言葉は人間の持っている言語の中で一番美しい言葉でしょう。「Thank you」「Excuse me」(I beg your pardon」)。いつまでも忘れない言葉にしたいものです。「ありがとう」・「ごめんなさい」。そして「いただきます」・「ごちそうさま」。自分からは出てこない言葉なのですね。

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自己を知る智恵

2009-09-22 17:51:34 | 生きることの意味

私たちが本当に大切にしているものはなんでしょうか。人それぞれ違うでしょうが、月並みに「幸せ」でありたいと思っているのではないでしょうか。私も「幸せ」でありたいと思っています。しかし現実は思いとは違っていざこざが絶えません。ではなぜ思いと違った方向に行くのでしようか。一言でいいますと「他を大切にしていない」ということになります。他を大切にしていないということが自ずから自分も大切にしていないということにつながるのです。私たちは自分ひとりの力で生きていると思っている人はいないと思いますが、「他」を大切にするのではなく「利用」しているのではないでしょうか。「他」を「利用」することにおいて自分を大切にしていると思っているのではないでしょうか。このような「他」と「自」の関係を仏教では「顛倒」であると教えています。「顛倒」ですから「他」と「自」の関係を元に戻してやればよいのです。「自」を成り立たせているのがほかでもない「他」であったと頭が下がればよいのです。右手と左手、これが合わさった姿が人間として一番美しい姿ですね。「合掌」といいますが、「他」に合掌してみましょう。必ず生活が変わります。そこから何かが見えてくるはずです。そこから見えてきたものこそ大切な宝物(智慧)なのです。一番身近な家族の中で手を合わせてみてはどうでしょうか。

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彼岸に想う

2009-09-21 15:31:55 | 信心について

彼岸に想うこと、私たちは常日頃暑いやら寒いやら、忙しいやら暇やらと何かにつけて今おかれている状況を受け入れることがなかなか出来ません。「暑さ寒さも彼岸まで」と言いますが、これは一番暮らしやすい様子を言い当てているのではないでしようか。今日の空模様のようです。仏法では二つに分けない智恵を無分別智と言いますが、私たちは彼岸を仰ぐことに於いて澄清浄心をいただいくことが出来るのではないでしようか。そしてこちら側の都合をしっかりと見つめていくことが大切な事になるのではないでしょうか。一番よい状態は無分別の智慧をいただくことです。無分別の智慧をいただくということは無分別になれない自分の姿を直視することから開けてくるのですね。そうすることによって今まで仲たがいしていた者とも通じあえる世界が開けてくるのです。まず自分勝手だったなぁと気づいていくことではないでしょうか。

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