唯識に学ぶ・誓喚の折々の記

私は、私の幸せを求めて、何故苦悩するのでしょうか。私の心の奥深くに潜む明と闇を読み解きたいと思っています。

平和と教育ー(4)

2009-12-17 23:10:18 | 平和と教育

「平和の根幹に人間教育という問題がある、人間教育の根幹に正しい宗教観をいかにして養うかという問題がある。・ ・ ・もし正しい宗教観を持たない場合は、エーリッヒ・フロムが指摘しますように、サディズムとマゾヒズムという関係交渉としての権威主義の宗教に転落してしまう。」そして日常的に起こり得るといわれています。所謂、支配と被支配の関係です。この関係を打破しなければならない。そうでなければ、無防備に体制の中に繰り込まれマインドコントロールされ、個の尊厳が保てなくなるのです。支配と被支配の間には支配による洗脳が意図的に行われるわけです。カルトと呼ばれる宗教が先ず最初に行うのが、教祖あるいは代表が絶対であるという洗脳ですね。これが一番の問題だと思います。次に松田氏は 「我執を超えよ」・「法執を超えよ」と「法執を超える課題を持たないと、正しく我執は超えられない。」といわれています。執着は固定化しますからね。法は縁起ですね。縁に依って起こるもので、固定化できるものではありません。自覚するのも縁起ですが迷いもむやみに迷っているわけではないのですね。迷いも縁起なのです。自覚も迷いも法なのです。「深層における支配・被支配への執着が、意識上では理想への欲求に置き換えられ、排他的、独善的に主張されてくる。」と、これが「法執の闇」であるといわれ、疑城胎宮の問題として押さえられています。そしてその中から「私が私であってほんとうによかった」と言いきれる人間を生みだすということが教育の根幹であると教えてくださいました。「汝、大いなるいのちに帰れ。ここにのみ真実の救済道あり」ということです。支配・被支配の関係は疑城胎宮であるという視点は具体的に示されている点で注目されると思います。法の固定化です。固定化することによって自分の殻に閉じこもってしまうんだということですね。ここが一番の問題ということです。親鸞聖人が疑城胎宮といわれた意味は法の固定化と執着であるということ、固定化することは真実に対しての反逆ですから妄想・妄念が起こるのは当然ですね。私は支配・被支配の問題で気になることがあるのです。今、日本の中で最大の新興宗教といわれる組織で生まれたときから洗脳教育を施しているということなのです。そして問題は洗脳されているということの自覚がないということです。組織の中で育って弁護士や教育者になる若者がたくさんいるという事実です。静かに深く潜行して正論を蝕んでいるということです。私たちはこのような問題に対して敏感に成らなければなりません。そして御同朋・御同行という親鸞聖人の視点、眼差しを命をかけて学ばなければならないと思います。そして平和と平等という基本的問題について私はどうあるべきなのかを真剣に問い続けていかなければ成りません。

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平和と教育ー(3)

2009-12-16 23:01:13 | 平和と教育

幼児体験が人間形成にとって大きな影を落とすということですね。そして幼児期に於いてどの様な教育を受けるかが問題となります。それはまた教育する側の問題でもあるわけです。教育する側にきちんとした指標がなければなりません。それには正しい宗教観、正しい宗教教育がなければならないでしょう。迷信に翻弄されているようではいけません。清沢満之は「人身の至奥より出る至誠の要求」に応えられるものが正しい宗教であると教えてくださいました。それは本当の自分に出遇うということですね。この視点をもつことが教育する側にとって大切なことなのではないかと思います。フロムの思想について少し触れて見ます。

エーリック・フロム(Erich Fromm)1900~1980

 フロムの思想は第二次世界大戦の中で育ったといっても良いであろう。戦前に書かれた彼の主著『自由からの逃走』では、人間は「…からの自由」に耐えることができず、「…への自由」にも移行することもできないから、ナチズムに走ったという分析がなされている。これはつまり、「人間は自由を希求するが、いざ外部の束縛から開放されたとき、実際自分は何をしていいのか分からない、そして結局脅迫的な画一化に走ってしまう」ということである。この分析は単に第二次世界大戦という枠内で捉えるだけではなく、現在の社会状況と重ね合わせることも可能であろう。フロムによれば、人は自分の有機体としての成長と自己実現が阻まれるとき、一種の危機に陥る。この危機は人に対する攻撃性やサデイズムやマゾヒズム、及び権威への従属と自己の自由を否定する権威主義に向かうことになる。と述べています。

 フロムは権威主義という言い方をしていますが、誤った宗教はまさに権威主義なのです。正しい宗教は権威を振りかざすことはありません。親鸞聖人に見て見ますと、「あなたがたが命を顧みず訊ねてこられたのは、往生極楽の道を問うこと、そのこと一つなのです」と、そして「このうえは、念仏をとりて信じたてまつらんとも、またすてんとも、面々の御はからいなりと」権威主義を否定されています。そして、「親鸞一人がためなりけり」・「親鸞は弟子一人もたずそうろう」と一人の尊さを大切にされています。私は一人一人の命の尊厳を大切にする教育が平和を考えるうえで大切なことであると思います。世間では権威主義を振りかざしている宗教も見受けられますが、宗教は権威主義でもなく教権主義でもありません。「私はどこから来て、何をして、どこへいくのか、を明らかにするものでしょう。」横道にそれましたが、いま一度松田氏の言葉に耳を傾けて見ましょう。

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平和と教育ー(2)

2009-12-15 23:47:58 | 平和と教育

次に平和を危うくする家庭的要因の問題です。「エーリッヒ・フロムはユダヤ系ドイツ人でありますから、たくさんの肉親をアウシュビッツで亡くしているに違いない。しかし、彼はヒットラーを憎まないで研究対象になさった方であります。・・・その中で、きちんとした教育がなされなければ、支配と被支配という人間関係を好む人間が生まれてしまうんだと.・・・ヒットラーはサディズムだったと、銃弾に撃たれて今死にそうになっている若い兵士を見てエキサイトしたと、フロムは対談の中で語っています。」このようなことは何故起きてくるのかという問題ですね。それは分離不安という幼児体験の固着に原因があると言っているのです。分離不安というのは人は母親の胎内から生まれてくるわけですが、生まれてきた瞬間、母胎から分離するわけです。その時初めて不安を知るといわれているわけです。不安を抱き、恐怖心を持つわけです。これが分離不安なんですね。幼児期ならともかく成人してもこの傾向が解消しない、固着してしまっているとですね、「支配ー被支配という狭い人間関係でこの不安から逃れようとする傾向を持つ。人間が力強く成長しない場合、人を支配するか、支配されるかのどちらかに立たないと不安で不安でしょうがない、という問題を抱かえてしまうということなのです。」フロムは、これを「自由からの逃走」と呼んでいます。そして自由とは「生きることの意味と目的を、他者から付与されることなく、自ら見いだし選びとってゆかねばならない人間存在を「自由」と呼びました。」松田氏は「自由を荷負することのできる人間を育てていくということが最も肝要な課題として、平和の問題に付随してきます。付随してくる問題というよりも、平和そのものの問題として人間教育という問題が、クローズアップしてくるわけです。」と述べておられます。問題は人間教育ということなのですね。何を、誰に、如何に、教えるのか。それを間違えると、自己本位になり、自己本位であることすら見失った迷走に走ることになるのです。正しい宗教教育を私自身に受け止め、私自身を問うことから、はじめて教育は成り立つのではないでしょうか。

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平和と教育ー松田正典氏に学ぶー(1)

2009-12-14 23:15:38 | 平和と教育

平和の危機の問題と、平和はいかにしたら実現できるのかを東本願寺発行、伝道ブックス35「平和と教育」松田正典述によりながら考えてみたいと思います。平和を脅かす最大の問題は戦争であり、大量殺戮兵器はまさに核兵器です。それが世界で唯一、広島、長崎に投下され、地獄絵が面前に広がったのです。また敵なら 殺してもいいという思想ほど恐ろしいものはありません。ナチズムもそうでありましょう。また共産主義社会における粛正もありました。ここでも大量殺戮が履行されたのは歴史の事実です。また今こうしてブログを綴っている間にもアフガンにおいて敵対する相手の殺戮が繰り返されているのです。何故このような事態が起こるのでしょう。松田氏はエーリッヒ・フロム氏の指摘を引用しながら平和を破壊する要因の克服について述べておられます。エーリッヒ・フロム氏は生涯恨みに恨みを結ぶことをしないで生きぬかれた方のお一人であるということ、そして仏教に造詣が深い方であるということなのです。「エーリッヒ・フロムは、平和を破壊する要因には社会的要因と家庭的要因があるとおっしゃる。・・・社会的要因の一つは、軍事政権だったということです。・・・もう一つは言論統制をしているということです。」マインドコントロールという意図的に心をある一方に傾斜させることにおいて独裁者の意のままに社会を動かせていくというものです。それをやってのけたのがヒットラーです。言論統制がおこなわれユダヤ人が大量に殺戮されました。その数、600万人といわれています。「そうすると平和であるためには、軍事政権と言論統制をやらせてはいけないわけですね。」その方法は選挙権を守るということ、だと言われています。そして言論の自由を守るということですね。そして大事なことは情報の公開ということです。この三つが必要になるということだと述べておられます。この三つはコントロールをしてはいけないということになります。情報ということについていえば偏った情報を流してはいけないということなのですね。

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日曜雑感ー戦争と平和を考える

2009-12-13 14:26:32 | 平和と教育

先日、オバマ米大統領のノーベル平和賞受賞演説の要旨が報道されていました。いうなれば、世界のリーダーが戦争と平和についての考え方を示されたということです。一言で言うならば「平和のための武力容認」ということなのです。その演説の中で「ずいぶん前にマーティン・ルーサー・キング牧師がこの授賞式で語った言葉を胸にもっている。彼は「暴力は決して恒久的な平和をもたらさない。それは社会の問題を何も解決しない。それはただ新たな、より複雑な問題を生み出すだけだ」と言った。キング牧師が生涯をかけた仕事の直接の結果としてここにいる者として、私は非暴力が持つ道義的力の体現者だ。私は、ガンジーとキング牧師の信条と人生には、何ら弱いものはなく、何ら消極的なものはなく、何ら甘い考えのものはないことを知っている。

 しかし、私は、自国を守るために就任した国家元首として、彼らの先例だけに従うわけにはいかない。私はあるがままの世界に立ち向かっている。米国民への脅威に対して、手をこまねいてることはできない。間違ってはいけない。世界に邪悪は存在する。非暴力の運動では、ヒトラーの軍隊をとめることはできなかっただろう。交渉では、アルカイダの指導者たちに武器を置かせることはできない。武力行使がときに必要だと言うことは、冷笑的な態度をとることではない。それは人間の不完全さと、理性の限界という歴史を認めることだ。」と述べ、時として平和のための戦争も必要であるという指針を示しました。また、「戦争という手段は実際平和を維持するために役割を果たしている」とも述べているのです。要するに彼の言葉を借りるならば「武力行使が時として必要であるばかりか、倫理的にも正当化されることがこれからもある。」ということになります。

 平和のための戦争という、一つの定義は以前から言われていたことなのですが、平和のために戦争はあってもよいのかという問題が残るのです。戦争というのは敵味方に関係なく国家による殺戮の繰り返しなのです。そこに人の尊厳、命の重さという視点は微塵も見られません。平和の為に戦争はあってはならないのです。平和は平和のための議論が必要だと思うのです。でも理性と倫理だけではこの問題は解決できないのかもしれません。理性と倫理の限界が垣間見えるのです。「煩悩成就の凡夫、火宅無常の世界は、よろずのこと、みなもって、そらごとたわごと、まことあることなきに、ただ念仏のみぞまことにておわします」(『歎異抄』)という親鸞聖人のお言葉が胸に響いてくるのです。「世間虚仮」という眼差しが必要になるのではないでしょうか。何故、世間虚仮なのか、それは平和の為には時として戦争も必要だと述べられているところに端的に示されているようです。そこには、一個の人間の命の重さが語られていないというところに見受けられるのです。私は真宗大谷派が「すべてのテロ行為は、憎むべき卑劣な行為です。しかしながら、その行為に対して武力をもって報復することは、戦争の悲劇を繰り返し、多くの人びとのいのちを奪い、あらたに難民を生み出しております。これこそが人間自身の持つ愚かさであり、悲しさです。正義という名の殺人によって平和を実現しようとする人間の迷妄は破られねばなりません。民族・言語・文化・宗教など様々な違いを認めあい、真実の平和を願い、同朋として出遇う道を模索する以外に、テロリズムを根絶することはできないと確信しております。

 私たち真宗大谷派は、過去の戦争に関与し、多くの国と人びとに多大なる苦痛と悲しみを強いた歴史をもっています。生きとし生けるものを平等なるいのちとして見出す仏陀の教えをいただきながら、その教えに背いて戦争に協力した罪責は、どれだけ反省しても償うことはできません。私たちは今、戦争の歴史を検証し自らの加害責任を直視し、戦争に二度と加担してはならないとの決意をあらたにしております。

 世界における民族、宗教の相違による問題と経済格差による貧困等の諸問題に対する無知・無関心をあらためて自覚し、全世界の悲しみを真摯に受け止め、あくまでも武力行使に依らない、外交的努力と人道的支援こそ日本国の世界平和に貢献する道であると確信し、宗教者として四海平等の仏陀の精神の具現に向けて一層の精進を誓うものであります。

 私たちは、これ以上犠牲者を生み出すことのない、すべての人びとのいのちの尊厳が守られる叡知の結集を願い、テロ行為並びにテロ行為に対する報復としての武力行使を、即刻、中止されることを強く要望し、平和実現への努力を惜しまないことを決議いたします。

2001年10月17日

真宗大谷派 宗議会議員一同」

という声明文が戦争と平和を考える視点として大切な決議文だと思います。では実際に今、世界各地で紛争があり、戦争も繰り返し行われている現実に対しどのようなどのようなメッセージを送ることが出来るのでしょうか。特にアフガニスタン問題にどのように答えたらよろしいのでしょうか。また日本において沖縄の問題、基地の問題についてどのように指し示したらよろしいのでしょうか。そしてこれらは政治問題として片付けてよいのでしょうか。私はこれらの問題を考える上で、問題の根っこにあるエゴイズムをさらけ出す必要があるのではないかと思っています。私益と国益です。そしてテロとの対峙とはいいますがテロという概念はこちら側の見方でしょう。こちら側の論理が優先してしまうところに問題が起きる要素が隠されているのではないでしょうか。私たち、念仏を申す者としてこれら社会の問題にどのように応えたらよろしいのでしょう。宗教の問題と社会の問題を次元の違うこととして切り離し、これら社会の問題に応じる必要を感じなかった過去の歴史を直視し、「現実の問題に応えるのが宗教の根にある問題である」ということを知る必要があるのではないでしょうか。「現実問題の直中にしか宗教問題は成り立たないというのが、私は仏教だというように思うんです。」とは尾畑文正師の指摘です。(『真宗の平和学』より。真宗名古屋別院発行)、「非制を制するは、すなわち三明を断ず。記説するところこれ罪あり」と。(真聖p367『教行信証』化身土・本)三明とは仏が備えている三つの智慧のことです。宿命通(過去のことを明らかに知る智慧)・天眼通(未来のことに通じる智慧)・漏尽通(現在のことを明らかにして、煩悩を断ずる智慧)のことを指しますが、目には目を、歯には歯をという、暴力を制するのに暴力をもってしては亦恨みを残し、明らかなる智慧を閉ざしてしまい、謗法という大罪を犯すことになるのではないでしょうか。人間社会は欲と執に満ちてはいますが、命有ることの尊さに気づかしめられた者として、戦争と云う暴力はいかなる理由があっても許してはならないと思うのです。「有事に備えて」という危惧があるのは当然とは思いますが、私たちは「安危共同」なのです。それが私であり、私たちの社会であるということを知ることが大切なのでしょう。「諸の衆生と共に」という視線には、いかなる理由があるにせよ一切漏れる人はいないということを声高らかに宣言していかなければならないと思います。

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特集ー「ネルソンさん、あなたは人を殺しましたか」より

2009-11-03 17:17:58 | 平和と教育

日本国憲法は今日・11月3日、公布から63年を迎えました。11月1日付け、毎日新聞の憲法問題、全国世論調査が発表されていました。平和憲法の象徴である第9条はしばしば改正論議の最大の焦点とされてきたのですが、それによりますと、「何らかの改正が必要」が48%、「一切、改めるべきでない」が43%という数値が出ていました。その中で第一項だけ改めるは、改正が必要と答えた人の9%で、戦争放棄を見直す意見は少数であることが伝えられていました。

 第九条 (一) 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権のはつどうたるせんそうと、武力による威嚇または武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。

      (二) 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。

 アレン・ネルソンさんは沖縄を訪ねられたとき、この第9条を知られたのです。「戦争を放棄する。戦力はもたない。国というものは戦争をしてはいけない。第九条は、はっきりとそう言っています。 わたしはそれ以後、世界中の国々がこの第九条を共有すべきだと確信するようになりました。第九条こそが戦争をなくす唯一の道だと思うのです。 第二次世界大戦以降、日本は世界中のどこにも爆弾を一個も落とさず、世界中の人々の命をだれひとりうばっていません。 これが第九条の力であり、この力を日本人みずからがもっと理解すべきだと思うのです。」と話されています。ネルソンさんはベトナム戦争に従軍し、PTSD(心的外傷後ストレス精神障害)から立ち直り、「わたしが伝えるべきこと」として、戦争はどういう悲劇をもたらすかを語り続けておられるのです。「ミスター・ネルソン」女の子はまばたきもせず、わたしをまっすぐに見つめると、たずねました。それは、わたしにとって運命的な質問でした。「あなたは、人を殺しましたか?」だれかにおなかをなぐられたような感じがしました。・・・(YesかNoという葛藤の中で)・・・気がつけば、わたしは、つぶやくようにして、しかし、はっきりした口調で「Yes」と答えていました。・・・わたしが戦ったベトナム戦争を、悪夢として時間の牢屋の中に閉じ込めるのでなく、今もなお目の前でおきていることとしてみつめなくてはならないのです。 悪夢に勝つためには、真実を語る必要があるのです。自分自身に対しても、そして他者に対しても。(『ネルソンさん、あなたは人を殺しましたか?』より)戦争は国家が国家による殺人を合法と認めた、国家による殺人なのです。ネルソンさんはこの悲劇に向き合い、その悲惨さと命の尊さを伝えるため生涯にわたって講演活動を続けられました。残念ながら今年の春、突発性骨髄種により逝去されましたが、ネルソンさんの意思は多くの日本人の心を捉え語り続けられるものだと思います。

 人は人を殺しては成らないのです。国家の名をかたる殺人は許されるものではありません。私たちはネルソンさんの意思を語り継ぎ日本が世界で唯一の被爆国であり、戦争の悲惨さ、戦争を引き起こした張本人としての慙愧を知っている人間として、憲法第九条は守らなくてはならないのです。

      

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