唯識に学ぶ・誓喚の折々の記

私は、私の幸せを求めて、何故苦悩するのでしょうか。私の心の奥深くに潜む明と闇を読み解きたいと思っています。

『唯信鈔文意』に聞く (14) 空に沈む

2011-01-02 16:17:27 | 唯信抄文意に聞く

180pxrennyo6 20101102_2

阿弥陀如来像  鎌倉ー南北朝時代

           東本願寺蔵  (中日新聞提供)

 蓮如上人自筆六字名号

本願寺蔵

    ー      ・      ー

 『唯信鈔文意』に聞く (14)

        空に沈む

       蓬茨祖運述 『唯信鈔文意講義』 より

 「なぜかというたら、生まれて死ぬるものばかりですから、生まれて死ぬるものが、生まれて死ぬものがないんだということをつきつめてゆきますと、空。空という表現になりますでしょう。空であると。あるがままが空であると。いまわれわれがここにあると申しているが、実はないんだと。空なのだと。個々の存在、空なのだと。自分がおると思っているのが空なのだと、こういえるんですね。これもまた空に堕すんだと。空なのだというと、その空に沈んでしまう。空に沈んでしまうとどうなるか、困ることができてくる。沈むということは、息ができんことになるんです。

 なぜだというと、腹がへってくるとどうする。 「俺」 がおらんのに腹がへってくる。困りますね。 「ほっておけ、実はないんだから、そんなもの、かまうこといるものか」。 死んでしまいます。 「どうせなくなるんだから。ないものがなくなっても、もとどおりだ」 ということは、これは空見。空に堕する、という。自分だけはそれで、やせ我慢でおれるんです。自分だけ、やせ我慢しとおせるのです。つまり、おるから苦しむんです。この世におるからで、おらなくなればもう何も苦にやむことはいらん、と。これでは、 「空に沈む」 というんです。わたくしども、しばしばこの手つかうんです。わざと使うんです。人が何か苦情をもってきたりなんかする。よく聞いてあげる。 「もうしばらく待ってみたらどうだ」 というてやるんです。 「もうしばらく待ったってどうかなるか」。 「いやいや、もうしばらく待てば、どうかなるんだ」。 「どうなる?」。 「相手が死ぬだろう。あるいは君が先かもしれん。それまで待て」。 これにはよわってしまいますね。 「そういうことをいうから話にならん」 と。 「しかし、そうでないか。むこうが死んでしまえば、それでよいのだろう。問題はそれで解決。君が死んでしまったら、やはり問題はそれで解決。どっちでもよい、死ぬまで待てば、そう、青筋立てなくてもすむんだから」 と。そういうと、もういやな顔をして、それで 「私」 の問題は解決するですわね。厄介払いできます。いやな問題もってきたときには、よく聞いてやったあげくそういうのです。それで、もうあきれはてて行ってしまいます。

 「空に沈む」 ということはそういうことになるのですね。そういうことにこだわっておってはだめですね。問題がおこったらそんな、むこうが死ぬまで待っておるというようなこと、智慧のない話ですね。

 それで方便法身ということは利他、利他ということの意義なのですね。利他のために方便法身というのをもうけられるのである。そこに誓願というものが出てくるわけです。誓願というものをもうけてそこに方便法身というものを成就せられる。その方便法身がつまり智慧のかたちですね。智慧のかたち。つまり智慧のかたちは光明のかたちですから、ここに無碍光仏とか、あるいは無量光仏とか出てくるわけです。かたちはかたちだけれども、しかしかたちに即して無限ということが語られるのです。

 「御かたち」 とあります。 「御かたち」 は、荘厳という意味になりますね。このかたちはそのまま利他でありますし、したがって慈悲でありますね。利他ということは、つまり慈悲であります。大慈大悲であります。慈悲でありますからして、こんどは方便であります。慈悲によってもうけられたかたちである。方便である。ですから、智慧と慈悲と方便という。こういう意義が出てまいります。その意義をもっておるのが、この如来の尊号でありますから、したがってこの如来の尊号は、如来の誓願ですね。

 如来の尊号は、そのまま如来の誓願でありますから、それで、 「この如来の智願海にすすめいれたまうなり」 と結ばれてあります。 「智願海」 というこらどういうものかと想像すると、なにか太陽の光っておる大海原でも頭に思い浮かべねばならぬようですけれども、そう思い浮べたってさしつかえはないのですが、それよりも尊号ですね。尊号の誓願を指されるのでございますね。誓願海、智願海と申しましても、名号をもって一切衆生をことごとく無上涅槃にいたらしめんという誓願ですね。その誓願の尊号、具体的には尊号ですね。その誓願の世界、その西岸は、すなわち智慧の世界です。如来の智慧の世界でございます。その誓願海、つまり如来の智願海にすすめえええええええいれたまうのである。その智願海にすすめいれられて、智願海に入ったという自覚が、自力の智慧をもっては大涅槃にいたることなしということになるわけですね。 「自力の智慧をもっては、大涅槃にいたることなければ」 とありますが、むしろ、これは自覚でございます。如来の智願海に入ったという自覚でございますね。」     (つづく) 次回配信は 1月9日(日)


最新の画像もっと見る

コメントを投稿