唯識に学ぶ・誓喚の折々の記

私は、私の幸せを求めて、何故苦悩するのでしょうか。私の心の奥深くに潜む明と闇を読み解きたいと思っています。

『雑感』 刹那滅・果倶有・恒随転について

2014-09-07 16:03:28 | 種子の六義について

 先日の講究会の折、一類相続と自類相続の相違、或はその使い方について質問をいただきました。これは『選註 成唯識論』p36~37に記載されています種子の六義の中の第三番目の恒随転の説明の中で出てくる言葉です。どういう性質のものが種子といわれるのかを問い質しているところです。その一番目の刹那滅。第二番目の果倶有。第三番目の恒随転を考究してまいりました。大雑把には以前、種子の六義として概要を示しましたが、もう一度復習の意味合いもかねまして考えて見たいと思います。

 

『摂大乗論釈』世親造、無性釈。玄奘訳(大正31・329b)の所知依分第二の二に於いて、種子の六義が展開されています。その中の初の三義を読んでみます。

 

 「論(『摂大乗論』に曰く。此の中に五頌あり。・・・勝義(阿頼耶識)なり諸の種子は、當に知るべし六種あり。刹那滅と、倶有と、恒に随って転ずると応にしるべし。・・・ 
 釈して曰く。「勝義」とは、即ち是れ阿頼耶識なり。所以は何ん、是れ一切法の真の種子なるが故なり。応にしるべし。是の如きの一切の種子に復六義有り、
 「刹那滅」とは、謂く二の種子は皆生ずる無間(間断なく)に定んで滅壊(メツエ)するが故也。所以は何ん、応に常法(転変しないこと)を種子の体と為すべからず。一切時に其の性は本の如くにして差別無きを以ての故なり。
 「倶有(クウ)」と言うは、謂く過去にも非ず亦未来にも非ず。亦相離(ソウリ)にも非ざるを種子と為すことを得。何を以ての故に、若し此の時に於て種子有れば即ち爾の時に於て果生ずるが故なり。
 「恒に随って転ずると、応に知るべし」とは、阿頼耶識の随転するは乃至、治の生ずるまで(対治道の位に至るまで)、外法の種子は乃至根の住するまで、或は乃至果熟するまでを謂う。・・・」

 

種子を積極的に規定したものは、第一番目の刹那滅と第三番目の恒随転であって、他の四は種子を他と区別するものである、と安田先生は教えておられます。

 

『論』に入ります。この科段は有為法から種子を明らかにしています。有為法は生滅変化するもので必滅の用あるものです。有為法は無為法によって明らかにされたものということになりますが、転変するままが無為法であるということが背景にあります。

 

「一に刹那滅(セツナメツ)。謂く体、纔(サイ)に生ずる無間(ムゲン)に必ずに必ず滅して勝功力(ショウクリキ)有るが方(マサ)に種子と成る。此は常法を遮す。常にして転変すること無きを以て能生(ノウショウ)の用(ユウ)有りと説く可からざるが故に。」)(『論』第二・二十一左)

 

  • 纔(サイ) - わずかという意味になりますが、「ヒタタ」と読ませています。「体ヒタタ(纔)に生じ」

 

 刹那滅というのは、つまり、生ずると即座に滅する、間が無い(間断することが無い)けれども、その中で勝功力(強い力)があるものが種子である。一刹那に生滅しながら私の人格を形成し、支えていくのが種子である、と云われているのです。
 種子生現行であって、種子と現行の間に断がないということですね。種子が有って現行が生起するということではなく、種子即現行即種子etcなのです。滅と生と滅と生との行間に命の躍動感があるのでしょう。いつも新しい命をいただいている、種子も現行も恒にリフレッシュされている躍動感だと思います。

 

 では、「刹那滅」において、何が遮せられる(除外される)のかが問われてきます。
 

 

 「此れは常法(じょうほう)を遮(シャ)す。常なるは転変すること無きを以て能生(ノウショウ)の用(ユウ)有りと説く可から不るが故に。」

 

種子の第一の意味は、刹那滅であることを説いていますが、それに於いて何が除外されるのかといいますと、「常法」を除外する、常法は、転変することが無いからである。転変することのないものは、ものを生ずるという能生の働きが無いからである、というわけです。

 

転変することのないものは、真如ですね。無為法です。無為法を以て種子とすることはできないと説いているわけです。刹那滅という時は、そこに能生の用が有り、そこに縁起が成り立っている(阿頼耶識縁起)。それを種子というんだと。「本識の中に親しく自果を生ずる功能差別なり」と種子の定義がされていましたが、現行が因とすれば果は種子であって、時には因と果を同時に受け持っていると云う意味があり、生滅というところに種子の意義がるということです。

 

  第二番目は果倶有(カクウ)
 種子は、「現行(ゲンギョウ)と恒(ツネ)に倶(ク)にあるもの」であることを明らかにしています。
「此の種子は要ず所生の現行の果法に望むるに倶時に現に有り。現と云うは、顕現と現在と現有との三義を以て現と名づく。」(『述記』)
「二(フタツ)には果倶有。謂く所生(ショショウ)の現行の果法と倶に現に和合するが方に種子と成る。」
種子は、所生の現行の果と倶に和合する。種が表に現れたものを、現行といいますが、この現行を果法といっています。現行の果法と種子は倶である、果と共にあるもの、異時ではなく同時存在なのです。因と果が時間的経過を経ているということではなく、同時同処をあらわしているのですね。種子生現行。現行と種子は異類にして倶有である。
第二の果倶有に於て、何が遮せられるのかが問われています。
「此は前後と及び定めて相離(ソウリ)とを遮す。現と種とは異類にして互に相違せず。一身に倶時に能生(ノウショウ)の用(ユウ)有り。種子の自類相生(ジルイソウジョウ)し前後相違して必ず倶有にあらざるが如きには非ず。因と果とは倶不倶有りと雖も而も現在の時に因の用は有る可し。未生(ミショウ)と已滅とは自体無きが故に。現の果を生ずるに種子の名(ミョウ)を立つるに依て云う。自類を引生(インジョウ)するを種と名くるに依てにはあらず。故に但果と倶有と説く応し。」

 

 果倶有とは時間的な前後をいっているのではない。因と果に前後が有ると云う経量部や上座部の主張を論破し、種子生現行は異類にして相違しないものである。即ち同時因果を顕している。また外道の主張のように、他人との関係に於いて、他人の種子を自分の種子とすることはできない、或は他人の種子から自分の種子が生まれるということは有りえない。時間的な前後や、他人の種子に依るという主張を遮している。何故ならば、果倶有とは我が身に於いて因果同時の働き(用)をいっているのであって、異時因果である種子生種子の自類相生をいっているのではない。自類相生は種子生種子という異時因果で恒随転というものである。果倶有とは因と果とは倶である。種子生現行を果倶有という。倶ならざるものは種子生種子であって第三番目の恒随転になり、第二の果倶有と第三番目の恒随転とは異類と自類の関係をあらわす。

 

 現在の時(コノトキニ)因の用があり、未来や過去には自体が無い。それをもって種子というわけにはいかない。現行の果を生ずるによって倶倶有として種子が成り立つのである。自類を引生する種子生種子を果倶有としての種子というのではない。即ち、種子生現行の同時因果関係を種子と名づけるのであると説いているわけです。ここは三法展転同時因果が種子の定義であり、阿頼耶識の中に親しく自果を生ずる功能であることを説いているわけですね。もう一つの、それでは現行しない種子はどこにいったのかに答えているのが恒随転になります。種子生種子は異時因果として阿頼耶識の中に相続されていくのです。
(1)前後を遮す、前後を否定しているわけです。種子は刹那の中で深く関わりあっているのですね。常に因果同時であることを明らかにしています。ですから種子には前後が無いということになります。前の因(種子)が後の果(現行)となるという時間的前後を否定しています。倶時である。現行は種子の表面化ですね。種子があって現行するのではなく、種子の表面化が現行であるということになりましょうか。種子は阿頼耶識の中に蓄積され蔵されているわけですが、現行する時は種子生現行で同時なんですね。種子があっても縁に触れないものは現行しません。その場合は、種子は種子として連続し相続していく、これを自類相生という。但し、果と倶有にあるものを種子といい、自類を引生(引き起こすこと)ことを種子というのではない。即ち、種子という名を立てるのは異類によってであり、自類引生ではない
 因果異時説(経量部の主張)を否定しています。

(2) 「定めて相離とを遮す」、定相離です。私と無関係に種子はあるわけではないということです。種子は他のものを持ってきて種子とすることは出来ないということ。私の「現在の時に因の用有るべし」と。今を成り立たせているものが種子である。私が、今、現に生きているのは昨日のことでもなく、明日のことでもなく、今であるということ、これが種子のもっている意味であるのです。現行の果を生ずる種子は必ず現行と倶有であり、倶時であるわけです。自分の人生は自分が引き受けていく、他の人に変わってもらうと云うわけにはいかないというのが、種子は相い離れないということになるのでしょう。

 

 三番目は恒随転(恒に随って転ず)

 

 「三には恒随転(ごうずいてん)、謂く要ず長時に一類相続して究竟位(くきょうい)に至(いたる)が方(まさ)に種子(しゅうじ)と成る。」
 恒随転とは、つまり、種子は一類相続して究竟位に至るまで断ずることがない。ここは第二番目の果倶有という異類と対応している所です。一類である。また、相続という点からは、第一番目の生滅と対応しています。種子は刹那滅ですが、刹那生滅を繰り返しながら同じ性質が変わらず相続していくということ。善の種子は善の種子とし、悪の種子は悪の種子として相続していくという、非常に厳密ですね。種子生種子は自類相生し引生していくものである。他のものをもってくるわけにはいかないんですね。他人に変わって聞法してもらうわけにはいかないんです。自分のものにはならんということですね。
 「此は転識を遮す。転易(てんにゃく)し、間断するを以て種子法與(と)相応せざる故に。此は種子の自類相生(じるいそうじょう)することを顕す。」
 転易 - うつりかわること。
 自類相生 - 阿頼耶識の中の種子は一刹那に生じては滅し、滅した次の刹那に自らとおなじ種類(自類)の種子を生じる(相生)ありようが不断に続く。この説は、外道の説く常一なる我(アートマン)と同じではないかと云う非難に対しての唯識側からの答えになり、阿頼耶識は非常非断の連続体であることを表す為に、「自類」という概念を用いる。
 恒随転において、転識を除外する、ということ。阿頼耶識に蓄積される種子は、その性質は変わらず自類相生であることを顕わしているのです。七転識は縁生ですから、条件が変われば、受け取り方も変わってくる、うつりかわり、間断が有るということになり、そのようなものは種子法と相応しない。変化するもの、転易するもの、そして間断があるものは種子ではない、種子は一類相続していくものである。

 

 来月は第四・第五・第六の種子の性質を考究したいと思います。今月分を反復と反省を込めまして考えてみました。

 

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