唯識に学ぶ・誓喚の折々の記

私は、私の幸せを求めて、何故苦悩するのでしょうか。私の心の奥深くに潜む明と闇を読み解きたいと思っています。

第三能変 別境 ・ 念についてー(1)

2009-12-31 11:30:31 | 心の構造について

最近たくさんのコメントを頂戴いたします。残念なことは掲載を承認することを憚る内容があることです。しかしどのような内容であれ私のブログに立ち寄ってくださいました事は感謝いたします。真面目であれ、不真面目であれ、ふざけていても、貴方も仏教の一分に触れられたのです。このブログにアクセスされたのは何かの縁です。触れられた種はしっかりと貴方の心に染み込んでいます。多分、今の貴方は自暴自棄になっておられるのではと思いますが、あなた自身はとっても苦しんでおられるのだと思います。貴方は世界でただ一人の貴方を生きているのです。人間といわず生きとし生きる者に差別はありません。貴方は貴方に成ればいいのです。変わる必要はありません。貴方は貴方自身の心の叫びを聞いてください。心の叫びを聞くことが貴方も私も生まれてきた本懐なのです。造ってしまった罪は消し去ることはできませんが、罪を引き受けて生きることはできます。私は何故この世に生を享けたのか、その答えは私自身の心の深層が教えてくれます。お互いに耳を傾けようではありませんか。生きることの意味そして生きなければならない意味は私は私になることを問い続けることなのです。心の構造は多岐にわたり唯識の学僧が命をかけて伝承してくださいました。そのお陰で今、唯識を学ばせていただいています。、また親鸞聖人は唯識の壁を打ち破り如来廻向の信を確立されました。「自力というは、我が身を頼み、我が心を頼む、わがちからをはげみ、わがさまざまの善根をたのむひとなり。」(真聖P531『一念多念文意』)と自力の行の最後の一線を突破することの無効を見定められました。そこには自力の残滓があり、満たされない思いが残心として有ることの質をもっていることへの頷きではなかったでしょうか。どこかで妥協せざるを得ない質をもっているということですね。そして「真実信心の行人は、摂取不捨のゆえに、正定聚のくらいに住す。このゆえに、臨終まつことなし、来迎たのむことなし。信心さだまるとき、往生またさだまるなり。」(真聖P600・『末燈鈔』)と現生不退を明らかにされたのです。つぎに唯識でいう念の心所について考えて見ることにします。

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第三能変  別境(個々の対象を知る心作用)-勝解(しょうげ)

2009-12-30 23:02:13 | 心の構造について

 勝解とは対象を確認し勝れた理解をする心の作用をいいます。「何事もひしと思ひ定むる心なり」(『法相二巻抄』)「ひしと」はしっかりと・思ひ定むるは決定的に理解する心と云う意味です。「決定の境に於いて印持するを以って性と為し。引転すべからざるを以って業と為す。」対象を決定的に理解していることを心に刻み込むことを以って本質とするということですね。業は働きですから「不可引転」で動じないということ。誤解をされるかわかりませんが、引転しないということは自己の主張を引っ込めることがない、それほどの確信であるということだと思います。自己主張なのですが我執ではないのですね。信ずるということを業をするということです。勝解はまた信解ともいわれます。「仏言広大勝解者」と仏の本願を聞いて真実信心が芽生える人を仏は勝解者というのであるといわれていますね。またその人を分陀利華と名づけると。分陀利華は白蓮華のことですね。親鸞聖人は『浄土論』・『浄土論註』をうけて「高原の陸地には、蓮華を生げず。卑湿の淤泥に、いまし蓮華を生ず。」これは、凡夫煩悩の泥の中にありて、菩薩のために開導せられて、よく仏の正覚の華を生ずるに喩う。」(真聖P288・証巻)・「これは如来の本引誓不可思議力をしめす。すなはちこれ、入出二門を他力と名づくとのたまえり。」真聖P465・入出二門偈)とお教えくださいました。勝解にはこのような意味が有るのですね。そして勝解は「教と理と証との力を以って。」と云われますように教えを聞き、理解する、道理にしたがってですね。そのことに於いて勝解という心が起こってくるということなのです。毎日の生活の中でいろいろなことが起こってまいりますがその一つ一つの出来事が法なのですね。静かに耳を傾けて私に何を教えているのか問い聞く姿勢が大切だと思います。

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識に離れず(すべては我が心が写しだしたもの)

2009-12-29 19:42:04 | 心の構造について

私たちは外界に実体として何かが存在していると思っているのですが、実はそうではないのですね。あるのは自分の心に映し出したものを対象としてみているのです。自分で自分の心を見ているのですね。ですから私の捉えられる範囲でしか見られないのですね。私の捉えられない世界はわからないのです。根源的に自己中心です。他にいう言葉ではないのです。自己中心は自分のことであったということです。自性唯心ですね。自分の学んだこと、経験したこと以外はわからないのです。聞法も同じですよ。聞いたことを手柄として、わかったような顔をしていますわ。自性唯心に沈むんですね。そこでね。沈んでいる自覚が大事なのです。「自性唯心に沈みて浄土の真証を貶す、定散の自心に迷いて金剛の真信に昏し。」(信巻・序)という自覚ですね。論に「是の識転変して、分別たり、所分別たり。此れに由って彼は皆無し、故に一切唯識のみなり」(『三十頌』第十七頌)と。我が心が見る働きと見られる働きに変化するのです。仮に有るということですね。例えば夜空に煌々と輝く月ですね。私たちは月という概念を見ていますね。実体としての月はどこにも無いのです。自分の心に映じた月という概念ですね。仮に有るということなのです。ですから諸行無常・諸法無我の理に由って実体としてのものは無いということになるのです。あるがままに見るということは出来ないのですね。自分の都合に合わせてみているのです。その自分も実体として有るわけではないのですね。仮に存在しているということ、無我の我を生きているということでしょう。「識所変に離れては皆定めて有るに非ず」私の心を離れて実体として実在するのではない。私の心で見ているに過ぎないのですね。それを仮というわけです。仮ということに於いて執着から離れることが出来ますね。実という固執ですね。そこでは執着が離れません。聞法は自分を問うことですね。そうしましたらどれだけ自分を問うことが出来るかです。問いの深さに比例して仏法が聞こえてくるのではありませんでしょうか。打てば響いてくるのですね。打たなかったら何も響いてはきません。打つのはあなただと催促されていますね。「能く掌の中において一切世界を持せり。」(『大経』)掌、手のひらですね。手のひらの中に一切の世界が納められているといわれているのです。手のひらの中にということは、仏の教えを受け止める姿だそうです。掌で仏法を受け止めるのですね。私たちはどれだけ大きな掌を持ち合わせているのかが問われているようです。

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本来の願いと私の願い

2009-12-28 22:40:50 | 生きることの意味

今年もまた自殺者が三万人を超えてしまいました。毎日新聞の報道では「警察庁は25日、11月の自殺者数が2494人だったと公表し、1~11月の累計は3万181人(昨年同期比445人増)となり12年連続で3万人を超えた。12月もこのペースで推移すれば、統計の残る78年以降で最多だった03年の3万4427人よりは少ないものの、08年の3万2249人を上回る見通し。金融危機が深刻化した昨年10月以降長引く不況で、経済的要因による自殺が増えているとみられる。」と発表。悲惨というより痛ましい事件です。自殺は交通事故での死者よりも多いのです。現代社会が招いているストレスが原因であるといわれているのですが、真摯に受け止めなくてはならないと思います。昨秋のリーマンショック・サムプライムローンから引き起こされた世界同時金融不安ですね。日本の企業も大きな痛手を受け派遣社員の解雇・正社員のリストラ・金融機関の貸し渋りなど末端の小企業にとってはその影響は強く、明日の生活の糧が保障されないというストレスは計り知れないと思います。今日の夕刊には鉱工業生産が11月期大幅に上昇し、また国内においても車生産が14ヶ月ぶりに前年実績を上回ったと報道されていました。少しは先行きに明るさが見えてきたのかもしれませんが、依然として庶民のストレスは収まりそうにありません。自らが命を絶つという事実に立って見えてくるものは何でしょうか。命の尊さには重い命・軽い命などの差別はありません。また私有化できる命もありません。命はすべて平等に与えられたものであるという眼差しが社会全体に行き渡っていないところから来る悲惨さだと思います。そうしましたら何が有るのかと云うことです。簡単に言うと私の欲望を満足させることです。そのことに一喜一憂しているわけですね。欲望が崖っぷちで先が見えないとなりますと絶望するわけです。最後の砦として自らの命を絶つことに於いて自らの欲望を満足させるのですね。いうなれば私たちは欲望との妥協に於いて生きているのかもしれません。それが私の願い・いや願いとはいえないでしょうね。私の欲望です。しかし私たちはその欲望を浄化するはたらきをもっているのですね。ここが大切です。「六識とともにはたらく心作用」を参照してください。私の欲望を本来の欲に変える心作用があるということなのです。本来の欲は私の方向が・行き先が明確になるということなのです。その為に今がチャンスと云うわけです。チャンスを機といいます。千載一遇が今なのですね。命は法性無為の楽を願っているのですね。無我の命に目覚めよと云うわけです。目覚めを待って私の命は与えられてあるのですね。生きることの意味は今が目覚めのチャンスということですね。それ以外に生きることの意味はないものだと思います。

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苦悩を除く法ー(2)

2009-12-27 19:44:06 | 生きることの意味

『法然上人行状絵図』に上人の「出離生死」の原点がとどめられています。それは1141年(永治二年)所領の争いで夜襲をうけ亡くなっていく父時国の遺言でした。「汝さらに会稽(かいけいー敗北の恥を晴らすこと。)耻をおもひ、敵人(あたびと)をうらむ事なかれ。これ偏に先世の宿業なり。もし遺恨をむすばゞ、そのあだ世々につきがたかるべし。しかじはやく俗をのがれ、いゑを出で、我菩提をとぶらひ、みづからが解脱を求には。といひて端坐して西にむかひ、合掌して仏を念じ眠がごとくして息絶にけり。」この出来事が上人の生涯を貫いての課題となり「ただ念仏」の道を歩まれることになるのです。法然上人は「偏依善導」といわれますように善導の『観経疏』に耳を傾けられたのですが、その中に「門八万四千に余れり。・・・縁に随う者は則ち解脱を蒙る。」(真聖p340-玄義分・序題門)ここに問題が一つありますね。どの道でもよいのかと云うことです。どの道を歩んでも解脱を蒙ることであるならば、何故に浄土の教えなのかということです。善導は「然るに衆生障り重くして、悟りを取るの者明らめ難し。」といわれ、また『観経』に苦悩は「無量億劫の極重の悪業」(真聖p100)であり、その為に苦悩を除くのではなく、苦悩を除く法を説くので有るといわれているのです。根源的な無始無終の罪といっていいのでしょうか。あくまでも自覚の話ですが。この罪業も如来に言い当てられて初めて自覚できるのですね。如来も衆生も一如来生なのですね。自覚は表は罪業の自覚であり、裏は救済の事実なのです。親鸞聖人はこの問題について善導の教えを身に受け「しかるに常没の凡愚、定心修しがたし、息慮凝心のゆえに。散心行じがたし、廃悪修善のゆえに。」といわれました。「たとい千年の寿を尽くすとも法眼未だかって開けず」というわけです。「余」はすなわち本願一乗海なり。」(真聖P341-化身土・本)と教えてくださいました。本願一乗海のみが「在世・正法・像末・法滅、濁悪の群萌、斉しく悲引したまうをや。」なのですね。悲引というところに「本願の嘉号をもって己が善根とするがうゆえに、信を生ずることあたわず・・・」という自己への眼差しがあるのではないでしょうか。その眼差しが悲引を引き出してくるのだと思います。唯識で言われる倶生我執の自覚です。「救われる縁もゆかりもない身」の自覚が、無根の信をいただくことになるのでしょう。

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苦悩を除く法ー(1)

2009-12-25 22:48:37 | 生きることの意味

苦悩するということには、どのような意味があるのか、もう少し考えてみたいと思います。『観経』から教えられますのは、苦悩は仏教に遇うことに依って初めて具体化するということなのです。苦悩は人間としての根源の問いなのでした。それは仏法に依って明らかにされたのです。仏法に依ることがなかったなら、私たちは自分の問題を他の問題にすり替えて解決しょうとするのです。それしかできないのですね。これは逃避だと教えられるのですね。自分からの逃避だと。本当に苦悩するということは逃げようにも逃げられない立場に立って、「自己とは何ぞや」という人生の根源的な問いを明らかにする道であるということなのです。だから仏教に出遇うことがなかったなら、本当に苦悩することは成り立たないのかもしれないですね。自分の立場に立ちますから、仏教をも利用しますね。「苦しい時の神・仏頼み」です。ここで言われる「苦しい」は厳密には「困った時の」でしょうね。悲深さんが仰ってくださいましたようにですね。日常の立場からは苦悩はないのでしょうね。苦悩とは言われないのでしょう。「法」に出遇う事がない限り、苦悩が「有る」・「無い」は有無の見ですね。有無の見を破すのが仏教でしょう。そこで謬りをおこすのですね。それが苦悩だと思うのですが。念仏に遇って念仏に謬りを起こすわけです。二十願の問題ですね。しかし法は因果同時なのです。悟りの世界を蓮華蔵世界といいますね。蓮華と云う譬を以って法に出遇うことが救いであることを顕しているのです。蓮華はプンダリーカといい、華と実が同時になるのです。『華厳経』や『法華経』はその意味を持って経の主題としています。『観経』第七華座には法蔵菩薩の本願力は「華の上に自然に七宝の果有り」といわれるのですね。法に遇うことに依って苦を厭い、浄を求めるのでしょう。厭うことと浄を求めることが同時なのですね。「此の如きの妙華は、是れ本法蔵比丘の願力の所成なり」といわれていま。苦悩そのものが本願の正機となるのですね。そして苦悩を知らせることが本願成就の証明になるわけですね。ここに「除苦悩法」を顕しているですね。信心の純・不純もここで明らかになるのです。

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苦悩する意味

2009-12-24 22:53:32 | 生きることの意味

私たちは普通、苦しみ悩むことは他から生まれてくると思っています。ですから、「他」を変えることに奔走しているわけです。私を取り巻く環境ですね。それが私を束縛して私の自由を奪っているのだと思って、苦しみ悩んでいるわけです。自分自身に罪が有るとは誰も思ってはいません。ですから自分が苦悩しているとは思わないのです。苦悩は有るんですけれども、自分が作り出しているとは思わないのですね。いつも、誰かの仕業であり、物が悪いのです。物には感情は無いのですが、物に当たります。感情が昂ぶりますと八つ当たりしますからね。このようなことで、私たちは「他」を自分の都合のよい方に変えることに依って満足をしようと思っているのです。歴史はそれを物語っていますね。いまだかって満足をしたことがありませんからね。でもね、時に「これでいいのか」という疑問が沸いてくることがあります。これが縁になり教法を聞く、聴聞することが起こってまいります。『観経』に即していいますと韋提希の愚痴です。「世尊、我宿何の罪ありてか此の悪子を生める。世尊、復何等の因縁有りてか提婆達多と共に眷属為る」と。世尊に向かって愚痴をこぼしているのですね。「仏の為に礼を作して」といわれていますから、韋提希は仏をもとめたのです。苦を厭う為にですね。にも拘らずですね、自分自身の問題とは見ていないのです。「何の罪があって苦しむのか」というわけです。ここに、我執の深いことをしらないという問題が浮き彫りにされています。ここに、教法に遇うということの大切さが知られるのですね。仏法に遇うことに於いて、愚痴が・苦悩が苦を厭う縁になるのです。この縁が、人間を根源から解放する、天命に安んじることができる道へのプロローグになるのですね。仏法に遇うということは、反面苦悩の深さを知ることになり、いよいよ苦悩にさいなまれることにもなるのではないかと思います。本当に苦悩することになり「苦の娑婆を厭い、楽の無為を欣う」ことにつながってくるのです。仏法は「苦悩を除く」ものではなく「苦悩を除く法」なのですね。苦悩の解決は苦悩がなくなることではないのです。「苦悩を除く」ということであれば、それはエゴでしょう。我が身勝手というものです。苦悩が邪魔にならないということが「除く法」ということでしょう。苦悩を引き受けて生涯を尽くしていけるという、「信心」を得るということになるのではないでしょうか。逆に言うとですね。信心を得ることに於いて初めて苦悩することが出来るのではないでしょうか。

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救済とは(救われるということ)

2009-12-23 21:01:32 | 生きることの意味

仏教は何を私たちに伝えているのでしょうか。「観経」第七華座観に「仏、当に汝がために、苦悩を除く法を分別し解脱したまうべし。」と。このお心を「安心決定鈔」に「如来浄華衆 正覚花化生」を釈して「法蔵菩薩の・・・心蓮華を、正覚華とはいうなり。これを「第七の観には、除苦悩法ととき、・・・凡夫の煩悩の泥濁にそまざるさとりなるゆえなり。・・・」(真聖P952)また、「斎しく苦悩の群萌を救済し」(総序)といわれています。善導大師は「但以れば娑婆は苦界なり。雑悪同じく居して、八苦相焼く。」(『観経疏』真聖全P514)といわれています。そうしますと何故、苦界といわれるのでしょう。善導大師に先立って曇鸞和尚は『浄土論註』に於いて述べておいでになります。「蚕繭(蚕と繭の譬)の自縛するが如し」(真聖全P285)自分で自分を縛ってやがて死に至るということですね。曇鸞和尚の機の深信といわれています。苦界を造作しているのは自分であったということですね。そのことを知らしめるために仏法はあるのでしょう。知ることに於いて転悪成徳するのですね。それが智慧です。ですから、「仏法は苦悩を除く法であると思うわけです。苦悩は何故起こるのか、もう少し考えて見ますと、それは反逆ですね。道理に反逆している見返りに苦悩がもたらされているのであると。道理に背いているわけですから。唯識論ですと、末那識の問題ですね。(問い「それから未那識は恒審思量というけれど無我を思うということになれば、末那識はあっても我執の働きがなくなるんじゃないですか?その時は阿頼耶識が純粋な我となるから末那識は一瞬働かないんじゃないですか?)私に曰く、末那識が無我を思量するとどうなるのでしょうね。前七識は阿頼耶識を所依として、境を縁として起こるわけですね。そうしますと、末那識だけが転依して平等性智に成るというわけにはいかないでしょうし、無我を思量すると、もう末那識という名はなくなりますね。末那識というからには、ひたすら有我を思量するわけです。「如来、我となりて」というのは、私流に解釈しますと、私は目的も行き先もわからず彷徨っているわけです。ふらふらしているのですが、ふらふらしていることさえしらないのです。それで、如来は私のふらふらにつきあってくださるのです。しかし、如来は行き先も、目的もしっておいでになり、ふらふらしていても目覚めておいでになるわけですね。これは天と地程の違いがあります。私が私のふらふらに目覚めることを信心というのでしょう。その信心は親鸞聖人は「便同弥勒」と褒め讃えられるわけですね。「念仏の人をば、『大経』には、「次如弥勒」とときたまえり。・・・他力信楽のひとは、このよのうちにて、不退のくらいにのぼりて、かならず大般涅槃のさとりをひらかんこと、弥勒のごとしとなり。・・・念仏の人は無上涅槃にいたること、弥勒におなじきひとともうすなり。」(『一念多念文意』真聖P536~537)というわけです。(問い。自ら永遠に流転していくという自覚が還滅の方向になる時ですよね。ということは自分は救われる資格がない、永遠に救われないという方向(流転)が救われていく方向だということ?私に曰く。流転と還滅は説明すると、救われない自覚が救いだということになるのでしょうね。救われたいのに救われない自覚が救いだということはどのようなことなのでしょう。救われないととると、あるのは絶望しかありません。そうしたら絶望の自覚が救いということになるのでしょうか。絶望の先は自死しかないのではないでしょうか。最後の我執です。私は、救いというのは、救われないという自覚の前に、救われる必要のない自己に出遇うことだと思うのです。苦悩する必要を要しない世界に身をおいていることに目覚めるわけです。「ただ念仏」は流転の中において流転しないのでしょう。流転する必要がない世界、それを現生不退というのではないでしょうか。そして私の生活は浄土往生人として、浄土の一分をいただいて生涯を尽くしていけるのではないでしょうか。

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六識とともにはたらく心作用

2009-12-21 20:57:38 | 心の構造について

『唯識三十頌』第九頌に六識とともにはたらく心作用について述べてあります。「此心所遍行 別境善煩悩 随煩悩不定 皆三受相応」(此の心所は遍行と別境と善と煩悩と 随煩悩と不定となり。 皆、三の受と相応す。)遍行の前に心所と云う言葉がありますが正確には心所有法といいます。心が所有している法のことです。心のはたらきですね。私の認識を色付けしているのが心所というわけです。今日一日の行動の中での心の変化を観察してみますといろいろなことがわかります。朝、コーヒーをいただきましたが、日によって苦く感じたり、甘く感じたりします。ここに六識が働いています。コーヒーの色を見る。泡立っている音を聞きます。匂いを嗅ぎます。いただいて、味を見ます。この全体を身が感じています。そして判断を下しますね。もう一杯頂こうか、というわけです。コーヒーということは誰が見ても同じですから総相というのですね。香りがいいとか、悪いとか言うのは個別の判断ですから別相というのです。そして、この個別の判断というところに人それぞれの認識の相違が生まれてくるのです。一昨日、悲しい出来事がありました。片山右京さんの富士登山が猛吹雪に巻き込まれ遭難して、死者がでました。右京さんは自分が助けることが出来なかったと号泣されていましたね。冬山登山の脅威がまざまざと知らされた思いがありますが、山と云う認識は総相ですし、登りたいと思うのは別相ですね。ここにまた、いろいろな感情が生まれますね。右京さんの心の中には「助けることが出来なかった」・「認識が甘かった」という慙愧心が生まれていますでしょう。生まれたのですね。生もうと思って起こしたのではないのですね。心作用の不思議です。何が起こっても不思議でない世界に身をおいて慙愧という心が生まれてくるということは驚異なことですね。貪ったり、怒りをあらわにしたりと善くない心を持ち合わせているのですが、慙愧という人として愧ずべき心も持ち合わせているということが、私の認識の中にあるということなのです。遍行は八識すべてに相応してはたらきますから「遍行」といいます。別境は別々の対象を縁じておこるのです。「所縁の事は不同なるをもってなり」といわれるように、独自の対象を持ち、欲・勝解・念・定・慧といわれる五つの心所で、別々の対象を持っているということです。「欲」について少し考えます。「所楽(しょぎょう)の境に於いて希望(けもう)するを以って性と為し。勤の依たるを以って業と為す」といわれています。楽は願われるということです。願われる対象に対して希望を起こすということなのです。浄土を願うというのを本願では欲生というでしょう。浄土に生まれんと願いなさいという願いですね。願生心は願生に先立って願われているということを意味していますね。それが本願でしょう。希望することが努力(精進)の根拠となるのです。希望することが無かったら努力しませんね。性は本質、内面的な働きですし、業は外に働くものです。欲というと欲望と連想しますが、本来の欲は努力の依り処なのです。願われる対象に向かって努力を惜しまないということになります。「所楽と云うは欲観(よくかん)の境なり。一切の事に於いて観察(かんざつ)せんと欲する者は。希望すること有るが故に」といわれています。すべてのことに対して関心を持つことが欲ということである。それは願うこと、希望することがあるからである、ということですね。欲望・欲求と云うことも含まれるでしょうし、欲楽という、浄土を願い求めるということもあるわけですね。聞法も欲ですね。欲生です。「欲生は即ち是、願楽覚知の心なり」(『教行信証』信巻)。ですから「欲」という別境は間口が広いのですね。欲によって迷うのですが、また欲によって目覚めることができるのですね。

 

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縁起ということ

2009-12-20 12:54:35 | 心の構造について

龍樹菩薩の著作に難解な『中論』があります。縁起・空・中を説いた書なのですが、その冒頭に有名な八不中道が説かれてあります。少し見ていきますと「観因縁品第一」に「不生亦不滅 不常亦不断 不一亦不異 不来亦不出 能説是因縁 善滅諸戯論 我稽首礼仏 諸説中第一」(不生にして亦た不滅、不常にして亦た不断、不一にして亦た不異、不来にして亦た不出なる。能く是の因縁を説き、善く諸の戯論を滅す。我れ稽首して礼す。仏を諸説中第一なりと)ここに否定の論理として因縁所生の法を説き顕しています。我執の否定です。「これか」「違う」というわけです。これだと掴んでしまうと我が物(我所)になるんですね。我・我所の否定を通して真実を開くということです。我ということは身心を持つということですが、その身心は「五蘊仮和合」(ごうんけわごう・五つの心作用が仮に和合してつくりだされたもの)で実体としてあるわけではないということをいおうといているのです。この二頌は「帰敬頌」といわれるのですが、そこには問いが設けられています。何故この論を造るのだということです。『成唯識論』にも造論の意趣が述べられてありました。それは謬を正すということです。「無因・邪因・断常の邪見に堕し、種々に我・我所を説き、正法を知らず。」これを正すということです。その為に此の中論を造ったのであるということ。「何ものも滅することなく、何ものも生ずることなく、何ものも断滅ではなく、何ものも常住ではなく、何ものも同一ではなく、何ものも異なっていることなく、何ものも来ることなく、何ものも去ることのない、一切の法は畢竟空であり無である」ことを説くというわけです。そのことに於いて戯れの論は寂滅するので有るということを説いたということです。(『中論序』は釈僧叡の作成で羅什門下の主席といわれています。)ここに現代にも通じる問いが出されています。少し紹介をさせていただきますと、「人根は転た鈍にして、深く諸法に著し、・・・仏意を知らず、但だ文字のみに著し、大乗法の中に畢竟空を説くを聞きて、何の因縁の故に空なやを知らずして、即ち疑見を生ず。・・・貪著を起こす。」また「如諸法自性 不在於縁中 以無自性故 他性亦復無」(諸の法の自性は、縁の中に於いて不在であり、自性無きを以っての故に、他の性も亦復無きが如し)無自性なるが故に空であるということ、存在の実体というのは縁などの中には存在しない、これだとする固有の実体は有るのでないということ。自性が無いとするならば他の存在(固有の実体)は存在しないということを教えています。私たちは常にものを見るとき実体があるとしてみていますね。それが間違いであり、それが迷いを生み、苦を生む因になるといっているのですね。千年も前に私の心が見透かされていたのです。このことを親鸞聖人は「龍樹大士出於世 悉能摧破有無見 宣説大乗無上法 証歓喜地生安楽 」(龍樹大士世に出でて、 悉く能く有無の見を摧破せん。 大乗無上の法を宣説し、歓喜地を証して、安楽に生ぜん、と)龍樹菩薩を讃嘆されているのです。

 

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