唯識に学ぶ・誓喚の折々の記

私は、私の幸せを求めて、何故苦悩するのでしょうか。私の心の奥深くに潜む明と闇を読み解きたいと思っています。

五月度テキスト

2018-05-22 20:17:16 | 第二能変 末那識について
 随分暖かくなりました。日中は汗ばむくらいですね。
 唯識の学びも遅々として進みませんが、末那識の所依について煩雑な論考もなされています。このところはスルーして今回は護法菩薩の所論を学ばせていただきたいと思っています。原文と和訳をてきすととして用います。5月24日八尾別院で午後三時開講です。
 「有義は、前の説くこと皆理に応ぜず、未だ所依と依との別(ことなる)ことを了せざるが故に。」(『論』第四・十九左。『選註p83))
 (護法は、前に説かれていることはすべて理にかなわないという。何故ならば、前に説かれている諸説は、未だ所依と依とが別であることを理解していないからである、と。)
 「依とは、謂く、一切の生滅を有せる法が、因に杖し縁に託して、而も生じ住することを得。」(『論』第四・十九左)
 (依というのは、一切の有生滅の法が、因に杖し縁に託して生じ住するという、お互いに支えあい助け合って一つのものができていることを指すのである。)
 「諸の杖託する所をば、皆説いて依と為す。王と臣と互いに相依る等の如し。」(『論』第四・十九左)
 (諸々の杖託するものすべてを依とする。それはあたかも王と臣とが互いに相依るようなものである。)
 「若し法が決定せり、境を有せり、主たり、心心所をして自の所縁を取ら令む、乃ち是れ所依なり、即ち内の六処ぞ、」(『論』第四・二十右)
 (もし法が決定し、境を有し、主となり、心心所に自の所縁を取らせるならば、これが所依である。即ちこれらの条件を備えているものは内の六処である。)
 「余は、有境と定と為主とに非ざるが故に」(『論』第四・二十右)
 (内の六処の他は、有境・決定・為主の義を備えていないから所依ではない。)
 「此は但王の如し、臣等の如きには非ず」(『論』第四・二十右)
 (これはただ王のようなものであり、臣等のようなものではない。)
 「故に諸の聖教に、唯心心所のみを有所依と名づけたり。色等の法には非ず、所縁無きが故に。」(『論』第四・二十右)
 (その為に諸々の聖教に、ただ心・心所のみを有所依と名づけているのである。色等の法ではない、所縁がないからである。)
 「但心所は心を所依と為すとのみ説いて、心所を心が所依と為すとは説かず、彼は主に非ざるが故に。」(『論』第四・二十右。『選註p84))
 (心所は心王を所依とするとのみ説いて、心所を心王の所依とするとは説かない。彼(心所)は主ではないからである。)
 「然るに有る処に、依を所依と為し、或いは所依を依と為すと説けるは、皆宜しきに随って仮って説けり。」(『論』第四・二十右)
 (しかもある所に依を所依とし、或いは所依を依とすると説かれているのは、「皆宜しきに随って仮って説けり。」と。すべて便宜的に仮に説かれているのである、と。)
 (これからの科段は心・心所の倶有依について説明がなされます。初には識の倶有依を解釈し、後には心所の倶有依を解釈してきます。一には五識の倶有依について・二には第六識の倶有依について・三には第七識の倶有依について・四には第八識の倶有依について解釈します。)
 「此れに由って五識の倶有依は、定んで四種有り、謂く、五色根と、六と七と八との識ぞ。」(『論』第四・二十右)
 (これによって五識の倶有依は必ず四種がある。つまり五色根と第六識と第七識と第八識との識である。)
 「随って一種をも闕きぬるときには、必ず転ぜざるが故に、同境と分別と染浄と根本と所依別なるが故に。」(『論』第四・二十左)
 (したがって五色根と第六識と第七識と第八識のうちの一種でも闕いたときには五識は転じない。また同じ倶有依であっても五色根は五識の同境依であり、第六識は五識の分別依であり、第七識は五識の染浄依であり、第八識は五識の根本依であるという所依の種類の別がある。)
 「聖教に、唯五根に依るとのみ説けることは、不共なるを以ての故に、又は必ず同境なり近なり相順せるが故に。」(『論』第四・二十左)
 (聖教とは(『述記』には『対法論』第一等の如し、と記されていますが、『対法論』第二の誤写ではないかと見られます。『対法論』第二(大正31・0702a17)に「眼識者。謂依眼縁色了別爲性。」と『述記』に記されている文章が出ています。巻第一には見受けられません。)に五識は唯だ五根に依る、とのみとかれているのは、五根が五識の不共依だからである。また、五根と五識は必ず、同境であり、近であり、相順するからである、と。)
 「第六意識の倶有所依は、唯二種有り、謂く、七と八との識ぞ。随って一種をも闕きぬるときには、必ず転ぜざるが故に。」(『論』第四・二十左)
 (第六意識の倶有依はただ二種である。それは第七識と第八識とである。随って第七識と第八識のうちの一種でも欠いたときには第六識は、必ず転じることはないからである。)
 「五識と倶にして、境を取ること明了なりと雖も、而も定んで有るにあらず、故に所依に非ず。」(『論』第四・二十左)
 (第六識は五識と倶に活動し、境(対象)を取る(認識する)ことが明了であるとはいっても、しかし五識は恒に必ずしも存在するものではない。つまり五識は第六識の倶有依ではないのである。)
 「聖教に、唯第七に依るとのみ説けるは、染浄依なるが故に、同じく転識に摂め、近くして、相順せるが故に」(『論』第四・二十左)
 (聖教に第六識は唯第七識に依るとのみ説かれているのは、第七識は第六識の染浄依だからであり、第七識は第六識と同じく転識の一種であり、その理由は第七識は第六識に近いからであり、相順するからである。)
 「第七意識の倶有所依は、但一種有り、謂く第八ぞ、蔵識若し無きときには、定んで転ぜざるが故に。』(『論』第四・二十左)
 (第七識の倶有依はただ一種である。つまり第八識である、若し蔵識(第八識)が存在しない時には、第七識は必ず活動しないからである。)
 「伽陀に説けるが如し、 阿頼耶を依と為して、故(かれ)末那転ずること有り、 心と及び意とに依止して、 余の転識生ずることを得という。」(『論』第四・二十一右)
 (伽陀(『入楞伽経』第九巻・大正16・571c20「依止阿梨耶 能轉生意識 依止依心意 能生於轉識」(阿梨耶 に依止して能く転じて意識を生ず、心に依る意に依止して能く転識を生ずと。の取意)に説かれている通りである。「阿頼耶識を依とすることに於いて、末那識は活動する。心と意とに依止して、他の転識は生じることが出来るのである。)
 「阿頼耶識の倶有所依も、亦但一種なり、謂く第七識ぞ、彼の識若し無きときには定んで転ぜざるが故に。」(『論』第四・二十一右)
 (阿頼耶識の倶有所依もまたただ一種である。つまり第七識である。彼の識(第七識)がもし存在しない時には第八識も必ず転じないからである。)
 「論に、蔵識は恒に末那と倶時にして転ずと説けるが故に。又、蔵識は恒に染汚に依ると説けり、此れは即ち末那なり。」(『論』第四・二十一右)
 (何を以て知ることができるのかは、『瑜伽論』巻第六十三(大正30・651b)に「第八識は恒に末那識と倶時に転じる」と説かれている。又、第八識は「恒に染汚に依る」と説かれている。これは即ち末那識のことである。)
 「而も、三位に末那無しと説けるは、有覆に依って説けり。四位に阿頼耶無しと言えども、第八無きに非ざるが如し、此も亦爾るべし。」(『論』第四・二十一右)
 (『頌』に「三位に末那無し」と説かれているのは、有覆無記に依って説かれているのである。これは四位に阿頼耶識が存在しないと説かれていても、第八識の体が存在しないということではなく、此れも亦同様であり、三位に末那識が存在しないと説かれていても、末那識の体が存在しないということではない。)
 「有色界には、亦五根にも依ると雖も、而も定んで有あるにあらざれば、所依に摂めらるるに非ず。」(『論』第四・二十一左)
 (有色界では第八識はまた五根に依って存在するといわれていても、五根は三界のどこでも存在するものではない。よって、五根は第八識の倶有依ではない。)
 「識種は、現に自の境を取ること能わざれば、依の義は有る可けれど、而も所依たること無し。」
 (現行八識と種子との関係において、現行八識の種子は現に自らの境を取ることができないので、現行八識は種子に対しての依ではあるが倶有依ではない。)
 「心所の所依をば識に随って説くべし。復各に自相応する心を加えたり。」(『論』第四本・二十一左)
 (心所の所依は識に随って説かれるべきである。また、各々(各心所の所依)に自らの相応する心識をも所依の一つとして加えるのである。)
 「若し是の説を作すときには、妙に理教に符えり。」(『論』第四・二十一)
 (もしこの説をなす時には、妙に理と教にかなうのである。)
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 護法菩薩の倶有依についての所論を学んでいるわけですが、ここまでのところを少し整理をしてみます。倶有依は依と区別され、倶有依というからには、決定の義・有境の義・為主の義・取自所縁の義という四義を備えていなければならないといい、これらの四義を備えているのが、内の六処である五根と第六識・第七識・第八識の意根なのです。
 前五識の倶有依は五色根と第六識と第七識と第八識との識です。『瑜伽論』巻第一に「何等をか五識身と為すや、所謂眼識・耳識・鼻識・舌識・身識なり、云何が眼識の自性なるや、謂く眼に依って色を了別するなり。彼(眼識)の所依とは三有り、倶有依は謂く眼根なり、等無間依は、謂く意根なり、種子依は謂く即ち此れ一切種子を執受する所依にして、異熟に摂めらるる阿頼耶識なり。」との記述があります。五識身は五つの感覚ですね。五識に対して眼覚乃至触覚です。根(五根と意根)が所依であり、識(前五識・第六識・第七識・第八識)は能依になり、同時に存在するので倶有依となるのです。五識身といわれますように、先ず身をもっているということが大前提になります。身をもって感覚器官が働くのです。前五識が働くのは前五識の力ではないですね。第六意識(五倶の意識)が前五識に働きかけて物事を判断したり思考したりするわけです。五感覚器官と倶に働く意識に依って判断思考が行われるのです。そしてその深層に第七末那識が働いているのです。恒審思量といわれる潜在的な利己性が潜んで表層の意識を支えています。そしてこれらすべての根本に第八阿頼耶識があって、すべての経験を蓄えているのですね。このような重層的な構造をもって前五識は動いているわけです。前五識は身において支えられていますが、その働きは心・心所に依るわけです。所依の第四の条件に「心・心所をして自の所縁を取らしむ」と明らかにされ、所依の条件として、能依である心・心所をして自の所縁を取らしむるということです。
 前五識は、五根と第六識・第七識・第八識を倶有依とし、第六識は第七識と第八識を倶有依とし、第七識は第八識を、第八識は第七識を倶有依とする、と。第七識と第八識の倶有依が人間として非常に大切なことを教えています。「第七識の倶有所依は、但一種のみ有り。謂く第八識なり。蔵識若し無き時は定めて転ぜざるが故に」と説かれ、また、「阿頼耶識の倶有所依も、亦但一種のみなり。謂く第七識なり。彼の識若し無き時には定めて転ぜざるが故に。」と説かれ、深層意識の中で利己性に染汚された識が根本識に蓄積され、染汚されたままの識が表層の意識に伴って前五識が働いてくるのですね。これが迷いの構造になるわけですが、この迷いの構造を知らしめる働きが、法蔵願心ですね。現実的には苦悩を縁とするということでしょうね。苦悩を縁として苦悩なき世界を願う、その願いは利己性からは出てこないでしょう。利己性が利己性を知り利己性を内面から内破る働きが本来自身の中に備わっているのでしょうか。利己性と倶に如来の願心が恒に働いているわけでしょう。いうなれば、阿頼耶識と一体になっている働きではないでしょうかね。迷いの識は迷いの識のままで働いているわけではなく、迷いを知らしめることを通して如来は如来の願心を表現しているのではないでしょうか。具体的には法蔵菩薩の働きであり、法性としては南無阿弥陀仏の御心でありましょう。

阿頼耶識の存在論証 滅尽証(23)第五・経言無属難(9)雑感

2018-05-06 10:57:47 | 阿頼耶識の存在論証
 連休最終日、皆さんはどのようにお過ごしのことでしょうか。
 滅尽定は、仮定のこととしてしか話せませんが、滅尽定において初めて散乱粗動し間断がある前六識が波立たないことになるのでしょう。六識が無くなるわけではなく、五識が転じて成所作智・第六識が転じて妙観察智という智慧となって働いてくるのでしょう。真宗では信心の智慧と表されていると思うのですが、この信心の智慧は何を依り所として生起してくるのか、この問題に答えているのが、細意識ではなく、散乱粗動し間断の無い、無覆無記である第八識なのでしょう。第八識が増上縁依となって我執が破れてくるわけでしょう。そして第八識は無漏であるけれども、有為の世界に身をいただいた時、有漏の根拠として前六識に影響を与えてくる。この身をもって私たちは日々の生活をしているわけでしょう。ですから生活全般が第八阿頼耶識の現行の相ですね。第八識と第八阿頼耶識の葛藤の中で世界を認識しているのが事実ではないでしょうか。
 いのちは有漏と無漏の二つの要素を持っていると思われます。
 有漏の種子が三界・五趣・四生を選んでこの身の誕生がある、生まれたということと、生み出されたということ。そして有漏の種子に気づかされて、初めてお蔭様、私のいのちは頂いたもの、預かっているもの、何を預かっているのかというと、有漏から無漏へ、迷いから目覚めへ転ぜよといういのちを預かっている。
 ですから、阿頼耶識は流転と還滅の根拠になると教えられているのですね。すべてはここから始まる始発点なのですね。終着駅は始発駅という歌がありましたが、始発駅が終着駅ではないんですね。還る処をもって始まる処を得ているわけでしょう。
 所縁の外界が人生を左右するのではなく、所縁の外界を作り出している流転の原点が阿頼耶識にあったと知るべきでしょう。見分行相=阿頼耶識。見分行相が投げ出した環境が所縁の相分ですね。ここに気づかされたのが信心の智慧だと思います。認識が逆転するわけですね。滅尽定とはこういう世界ではないでしょうか。
 本科段である経量部の主張を論破される護法菩薩との対論はまさしく阿毘達磨。