唯識に学ぶ・誓喚の折々の記

私は、私の幸せを求めて、何故苦悩するのでしょうか。私の心の奥深くに潜む明と闇を読み解きたいと思っています。

『唯信鈔文意』に聞く  (10)

2010-12-05 14:08:59 | 唯信抄文意に聞く

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               真宗本廟 御影堂

   ー  『唯信鈔文意』に聞く (10) ー

 如来の尊号(大慈大悲の御ななり)

   「この如来の尊号は、不可称・不可説・不可思議にましますゆえに、一切衆生をして無上大般涅槃にいたらしめたまう、大慈大悲の御ななり」

 この如来の尊号は、南無阿弥陀仏という尊号ですね。その他にないという、このただ一つの無碍光如来の南無阿弥陀仏という尊号は、「不可称・不可説・不可思議にましますゆえに、一切衆生をして無上大般涅槃にいたらしめたまう、大慈大悲の御ななり」と。

  「不可称・不可説・不可思議にましますゆえに」というところは、さきの「仏になりたまうてのちの御な」という意味にあたるのであります。

 それから、「一切衆生をして無上大般涅槃にいたらしめたまう、大慈大悲のちかいの御ななり」とあるときは、これは「いまだ仏になりたまわぬときの御な」ですね。仏になりたまわぬときに、一切衆生をして無上大般涅槃にいたらしめずんば、仏にならじ、と誓われた。いかようにして大涅槃にいたらしめるかといえば、わが名を十方の諸仏に称揚せられる。その称揚讃嘆せられた名をもって、衆生に聞かせて、その名号の功徳によって、一切衆生を無上大涅槃にいたらしめようと誓われた。そういうわけで、ここに「ちかい」ということですね。いわゆる「誓願」ということが、まず出てきたわけであります。

 誓願の御な、誓願の尊号ですね。一方から申しますと、不可称・不可説・不可思議のゆえに、この尊号は一切衆生をして無上大涅槃にいたらしめたまうのだ。また一方から申しますと、無上大涅槃にいたらしめたまう、大慈大悲のちかいをおこされたのだと。その誓いのときのみなですね。まだ仏になりたまわぬときのみなですね。仏になりたまわぬときのみなということで、ちかいのみなという意味をあらわし、仏になりましたときの号という意味で不可称・不可説・不可思議の功徳ということをいわれるのであります。

 これは、先に申しました聖覚法印が結論とされるところをまず出されるわけであります。ですから、真宗の教義と申しますか、法門というものが、まずこうして簡明にうち出されております。次に、

  「この仏の御なは、よろずの如来の名号にすぐれたまえり。これすなわち誓願なるがゆえなり」

 と結ばれます。「この仏の御なは、よろずの如来の名号にすぐれたまえり」。これは「尊」というところですね。「『尊』は、とうとくすぐれたりとなり」ということについて「よろづの如来の名号にすぐれたまえり」といわれるわけですね。それから、あとの「名号」ということの解釈ですね。「号は、仏になりたもうてのちの御な」、「名は、いまだ仏になりTまわぬときの御なをもうすなり」ということですね。それを結ばれて、「これしなわち、誓願なるがゆえなり」と、こういわれるのであります。

  「誓願」ということが、この如来尊号ということを基礎づけておる。如来尊号というものが南無阿弥陀仏であるとどうしていわれるかというと、誓願、これには誓願がある。南無阿弥陀仏にはには誓願がある。ですから誓願という意味が、この「如来尊号」という四字によってあらわされると申しますか、あるいは誓願ということなくして、如来尊号というものは、一切諸仏如来の名号にすぐれたいということはいえないわけですね。そういう意味をのべられるのであります。

 如来尊号というだけで、誓願ということが思いもよらぬときには、単に言葉のあやにすぎないわけですね。釈迦の尊号も弥陀の尊号もかわりない。むしろ釈迦の尊号の方が何か現実感があるように思われる。身だの尊号というと、抽象的な意味に思われるということになりますが、誓願という意義をもつならば、誓願という意義をとりあげますと一切如来にすぐれた尊号であるという意義が明瞭になる、こういう意味になります。 (つづく) 蓬茨祖運述 『唯信鈔文意』講義より転載

       ー   雑感   ー

 一週間経ちましたが息子からの返答はありませんね。母親にはそれなりの答えを出してはいるようですが、自分を育ててくれている意味がなかなか理解できないようです。身が頷けないというところですね。頭ではわかるということをよく聞きますが、これは自分勝手な解釈ですね。身が頷くことがなければ、何もわかっていないということですよね。もう少し様子を見守ろうと思います。

 僕はこの数十年の間に叔母・叔父の五人の臨終に立ち会いましたが、ずっとですね、ひとつの課題をもっています。亡くなっていかれるその瞬間は、なんともいえない形相ですが、一筋の涙とともに穏やかな顔にもどられるのですね。わたしの課題は、「一筋の涙」の指し示している意味ですね。棺の中の様子からは窺い知ることができないところなのですが、僕には「浄土」という、「人が人として生まれてきた意味は浄土を明らかにすることだよ」と聞こえてくるのです。唯識でも教えられることは、私が私の思い描いた世界に生まれること、その願いは菩提とはいわないのだ、と。三界というのは私が作り出した世界ですね。三界が存在して私が存在する、ということではありません。三界そのものが私の業が作り出す世界で、迷妄の世界ですね。私の作り出した迷妄の世界に夢を託するのではなく、迷妄の世界を作り出している自身の姿を、問いとして持ちなさい、と聞こえてくるのです。「問いを縁として開かれてくる世界、そこがあなたの居場所であることを深く信じよ」というのが遺教ではなかったかと。 


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