唯識に学ぶ・誓喚の折々の記

私は、私の幸せを求めて、何故苦悩するのでしょうか。私の心の奥深くに潜む明と闇を読み解きたいと思っています。

第三能変ー三性分別 その(4)

2010-04-25 23:24:29 | 心の構造について

 「人・天の楽果は唯一世のみを順益してニ世に非ざるが故に、名づけて善と為さず。是れ無記の果法なり。故に体是れ善に非ず。後世の中に於いて衰損を作すが故に。」(『論』)ここに何故このようなことを論じるのかというと、順益を以って善というのであれば、人・天の楽果も亦現に順益するから善と名づけなけらばならない。此の疑問に答える為に「人・天の楽果」は善とは名づけないというのです。六道(地獄・餓鬼・畜生・修羅・人・天)の中にあってですね、人・天に生をうけたこと自体が楽果なのですね。「それ、一切衆生、三悪道をのがれて、人間に生るる事、大きなるよろこびなり」(『横川法語』真聖p961)といわれますね。人として生を享け共に生を享受することができることは人間だからですね。しかし私たちは生をうけた途端に忘れているのです。「我はよし、他はわるし」の論理をもって自己肯定して苦にさいなまれているのですね。無色界の最高峰である非想非非想処であっても無限ではなく有限の楽なのですから、迷いを払拭することはできません。楽果としての人・天は後世に楽をもたらすとはいえないのです。「無記の果法」といわれています。人・天の果法は無記であるということです。果として人として生をうけたということですね。ここは大切なことを教えています。生まれたこと自体は無記だということです。厳密には無覆無記です。人は生まれながらにして無覆無記なのですね。人だけではありません、六道の異生すべてが無覆無記の存在なのです。差別し差別される所以はないのです。善因の果は善ではなく楽という果を感得されるのですし、悪因の果は悪ではなく苦という果を感得するのです。善を作しても永遠ではなく、悪を作しても永遠ではない輪廻の主体なのですから、ニ世にわたって利益をもたらすものではないといわれるのです。

 「能く此世・他世に違損するに為(をい)て故(かれ)不善となづく。悪趣の苦果は此世には能く違損を為すと雖も他世に於いてするに非ず。故に不善と名づく。」(『論』)

 これは「無記の苦果」といわれています。「身をして苦しましむが故に」と。私たちの善悪業の行為の結果がいずれにせよ、その業果は深層の阿頼耶識に種子として薫習されるわけですね。しかし阿頼耶識に蓄積された種子は無覆無記なのです。善悪業の増上縁(間接原因)をともなって現行するのですが、現行した阿頼耶識は何ものにも覆われていない無覆無記の存在なのです。こういうところに私たちは何か大きな過ちを犯していると思はざるを得ないのです。今の世間は不況に喘いでいますし、環境の変化も苦脳をもたらすのですが真実はどのなのでしょうか。私は「思いの執着」が真実を覆い隠しているのではないかと思っているのです。「因是善悪果是無記」(因は善か悪であるが果は無記である)ということの「因」は阿頼耶識を現行させる縁(増上縁)を仮に因といわれているのです。厳密に言えば「善因無記果・悪因無記果」ということになります。このような因果関係のことを異熟因・異熟果と云うのです。

 違損(いそん)は傷つけ苦をもたらすものと云う意味になります。不善は此の世と他の世を、違損することから、不善と名づける。しかし、悪趣の苦果は、此の世に於いては傷つけ苦をもたらすものではあるけれども、、他の世に対しては、傷つけ苦をもたらすものではない。よって悪趣の苦果自体は不善ではない、と教えています。現世・来世にわたって不利益をもたらすものを不善(悪)というのです。不利益とは苦をもたらす行為ですね。悪趣の苦果は異熟果として現行していることですが、そのこと自体は他世において苦果をもたらすことではないことから不善ではないというのです。しかしここは大変問題を孕んでいると思います。

 


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