唯識に学ぶ・誓喚の折々の記

私は、私の幸せを求めて、何故苦悩するのでしょうか。私の心の奥深くに潜む明と闇を読み解きたいと思っています。

『阿毘達磨倶舎論』に学ぶ。 本頌 (26)  第一章第四節

2013-03-31 12:22:27 | 『阿毘達磨倶舎論』

P1000692_3 分別界品第一(十八界の分類的考察)

 第三十九頌 (第十八三断門)

 「十五唯修断 後三界通三 不染非六生 色定非見断」

 (十五は唯だ修断なり、後の三界は三に通ず、不染と非六生と、色とは定んで見断に非ず。)

 どれだけがただ修所断か、どれだけが見所断・修所断・非所断に通じ、どれだけがけっして見所断でないのかが考察される一段です。

  •  一に見所断(見道所断のもの)
  •  二に修所断(修道所断のもの)
  •  三に非所断(見道所断のものでもなく、修道所断のものでもないもの)

 十八界を三断門に配当すれば、この三に分類されると考察しています。

 

 前十五界は有漏だから非所断ではなく、又見道所断でもない。前十五界は修所断である。修道によって断ぜられるものである。

 

 後三界は三に通じる。

 

 不染は染汚(不善・有覆無記)でないもの、即ち、善と無覆無記と、非六生、非六生は前五識のこと。詳しくは、六の生とは、第六意処より生じたものを指し、非ですから、六の生に非ざるものという意味で、五根より生じたもの、即ち前五識を指します。これらは、無覆無記であり、第六意根から生ずるものではなく、又悪趣を招く身語業は色法であり、これらの三種は四諦の理に迷って親しく起こしたものではないから、決して見所断ではない。

 『倶舎論』における百八煩悩説。(唯識の説は、百二十八の煩悩を数えます。)

 見道所断の惑(見惑)に十の根本煩悩があるとされます。これは三界に通じて四聖諦が教えられています。四諦の理に迷っているのですが、なぜ迷っているのかと云えば、十の根本煩悩が働いているからだといわれています。これは三界において若干の相違はありますが、おおよそ苦諦においては、欲界には十の根本煩悩が働き、色界・無色界においては瞋恚は働かないと云われています。これが三界・四諦において八十八の見惑を数えます。これは分別起の煩悩です。

 次に見惑は見道において断ぜられるわけですが、倶生起の煩悩である、四煩悩(貪・瞋・癡・慢)が働いている。欲界ではすべてが働き、色界及び無色界では瞋は働かないとされ、十の修惑を数えています。これらは修道において断ぜられるとされます。それと十纏を加えて百八の煩悩、除夜の鐘は百八の煩悩を断ずるという意味で、大晦日の夜空に百八の鐘が鳴り響きます。

 

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第三能変  受倶門・重解六位心所(35) 別境 ・慧について

2013-03-30 09:00:48 | 心の構造について

 昨日は、有部の教説である阿毘達磨(アビダツマ)について触れていました。六足・発智ですが、これは『阿含経』に基づいて作られた阿毘達磨(論)なのです。六足論というものがあるわけではありませんで、六つの足論(各論)から成り立っているという意味です。

 阿毘達磨集異門足論 二十巻
 阿毘達磨法蘊脚論  十二巻
 阿毘達磨施設足論  欠訳
 阿毘達磨識身足論  十六巻
 阿毘達磨界身足論  三巻
 阿毘達磨品類足論  十八巻

 それに対して身論(しんろん)と云われているのが、『阿毘達磨発智論』二十巻になります。この論書は、六足論を一つにまとめ組織されたものです。そしてこの『発智論』を解釈したものが、『阿毘達磨大毘婆沙論』二百巻になり、この論書から世親の『阿毘達磨倶舎論』が生れました。ですから『倶舎論』を学ぶためには、どうしてもさけて通ることが出来ないのが『大毘婆沙論』なのです。『倶舎論』は理長為宗(理の長ずるを宗と為す)いいまして、有部の教説には違いないのですが、世親は、そこに経量部の優れたところを取り入れて、有部の教説を少なからず批判しつつ独自の所論を展開しています。これが基になり、大乗に転向した世親菩薩は多くの論書を作りましたが、この『唯識三十頌』もその中の一つになります。

           ―      ・      ―

 第二門 遮遍行門 を述べる。

 その(1) 主張を挙げる

 「唯触等の五のみを経には遍行と説けり、十と説けるは経には非ず、固く執ず応からず」(『論』第五・三十一左)

 ただ触等の五のみを経典には遍行と説いている。大地法に説かれている遍行の十は、有部の教学であって、経典に説かれているのではない。従って、これに固執するべきではない、と。

 「大段第二遮是遍行 論。唯觸等五至不應固執 述曰。唯五是遍行。如前引經。説十非經。不應固執。須依本經。非末論故 既別説已。次總結之。」(『述記』第六本上・十七左)

 (「大段第二に是れ遍行を遮す。「述して曰く。唯だ五のみ是れ遍行なり。前に引く経の如し。十と説けるは経に非ず。固く執すべし。本経に依るべし、末論には非ざるが故に。既に別して説き已んぬ
 次には総じて之を結す」) 

 「経では遍行というものは五である。遍行が十であるというのは、説一切有部の対法であって経ではない。対法といっても特定の部派の対法であって、固執することはできぬ。だからもっと根底に帰って考えて見ようというのである。それが経の精神に近づくものであるという。一切の心・心所を成り立たせる地盤は五つに限るので、欲・勝解・念・定・慧は遍行に対しては特殊的なものである。遍行から独立せしめるところに主眼点がある。どこまでも特徴をもった作用として区別してあるが、そうかといって善や煩悩の心所になるには価値的な性格を帯びていないから、それらよりは基礎的な層をなすものである。そこで遍行から区別して別境であることを明らかにする」(『唯識三十頌聴記』 選集巻三P317)と、安田理深師は述べられています。

 部派の『対法論』は仏説ではなく、論書であるから「十」と説かれていても証拠にはならないという、しかし経典には、「触等の五」を遍行として説いているので、別境の五は、遍行ではないという証拠になると説明しています。
 

 その(2) まとめ 
 

 「然も欲等の五は、触等に非ざるが故に、定んで遍行に非ざるべし、信貪等の如し」(『論』)
 

 しかも、欲等の五は触等ではないので、必ず遍行ではない。それは信貪等のようなものである。

 「論。然欲等五至如信貪等 述曰。此中比量。欲等五法。定非遍行。非觸等五故。如信・貪等。」(『述記』第六本上・十八右)

 (「述して曰く。この中に比量あり。欲等の五法は定めて遍行に非ざるべし(宗)。触等の五にあらざるが故に(因)。信貪等の如し(喩)」(『述記』)

 ここは、因明立量の、三支作法に則って説かれています。

 
 

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    第三能変  受倶門・重解六位心所(34) 別境 ・慧について

    2013-03-29 06:53:12 | 心の構造について

    Image_1364477084740349 他学派の説を論破 ・ 正理師云く

     「有るが説かく。爾の時にも亦慧起こること有り。但し相微隠(みおん)なりという。天愛寧ぞ知る」(『論』第五・三十一左)

     正理師が説いているのは、(境を観ずるに非ざる愚昧の心の中)愚昧の心の時  にも、また慧が起こる。しかし、その相は微隠である、と云う。護法はこの説を否定して、「天愛寧ぞ知る」と。

     正理師の主張は、その相は顕著ではないが、微隠であって、わかりにくいけれども、慧は存在すると、その故に慧は心王が生起する時には必ず倶に生起する遍行であると主張しています。

     それに対して、護法は天愛がどうしてしることができるのか、と批判するわけです。天愛とは、愚か者、お人よしという罵倒したことばです。意味は愚か者が、どうして知ることができるのか、できはしないのだ、ということです。

     「ただ相は微隠なれども、彼(愚昧)の時にもまた有りという。いまは応に彼に問うべし。天愛寧ぞ知るや。天愛は救して言く、発智、六足は倶に我が所宗なり。総じて対法と名づくと。対法に説いて大地法と為するが故に」(『述記』)

     護法の説に対して、正理師が教証を挙げて反論しています。

     「対法に説いて大地法と為る故に」(『論』第五・三十一左) 

     (『対法論』に慧を大地法とする、と説かれているからである)

     ここでいう『対法論』は部派仏教の『六足論』・『発智論』を指します。説一切有部の伝統であり、説一切有部のアビダルマです。

     護法の論破は説一切有部の『対法』だけでは決められないと。

     「諸部の対法は展轉(ちんでん)して相違せり。汝等如何ぞ執して定量(じょうりょう)と為る」(『論』第五・三十一左)

     「述曰。今は難じて曰うべし。諸部の対法は展轉して相違す。是れ根本の仏の所説に非ざるが故に。汝等如何ぞ、彼の対法を執して以て定量と為るや。総じて諸部を非するなり。大段、第二に、是れ遍行というを遮す」(『述記』)

     諸部の『対法論』は名は同じであっても、その指し示すものが相違している。そうであるのに、あなたがたは、執着して定量とするのか、定量とはならないのである。諸部の『対法論』は根本の仏の所説ではないからである。にもかかわらず、正理師等は諸部の『対法論』を根拠として遍行というのか。また、諸部の『対法論』は名は同じであっても、内容は相互に相違している。このような相互に相違するものを証拠として、正しい主張であるというのは、根拠とはならない、と論破します。

     論。觀謂徳失至非遍行攝 述曰。釋業義。
    T1830_.43.0431a07: 顯非遍行。然於愚昧心中無者。非一切愚
    T1830_.43.0431a08: 皆無。以邪見者癡増上故。今但愚而亦昧心
    T1830_.43.0431a09: 即無也。愚不昧者或可有故。第八識昧而
    T1830_.43.0431a10: 不愚亦無惠也 
    T1830_.43.0431a11: 正理師云
    T1830_.43.0431a12: 論。有説爾時至天愛寧知 述曰。但相微隱。
    T1830_.43.0431a13: 彼時亦有。今應問彼。天愛寧知 
    T1830_.43.0431a14: 論。對法説爲大地法故 述曰。天愛救言。發
    T1830_.43.0431a15: 智・六足倶我所宗。總名對法。對法説爲大
    T1830_.43.0431a16: 地法故 
    T1830_.43.0431a17: 論。諸部對法至執爲定量 述曰。今應難曰。
    T1830_.43.0431a18: 諸部對法展轉相違。非是根本佛所説故。汝
    T1830_.43.0431a19: 等如何執彼對法以爲定量。總非諸部 
    T1830_.43.0431a20: 大段第二遮是遍行

                  (『述記』第六本上・十七右。大正43・431a)

     (「述して曰く。業の義を釈して、遍行に非ずということを顕す。然も愚昧の心の中に於いて無と云わば、一切の愚皆無と云わんとには非ず。邪見者は癡、増上なるが故に。今は但だ愚にして亦、昧なる心に即ち無きを以てなり。愚にして昧ならざる者は、或は有るべきが故に。第八識は昧にして愚に非ざれども、亦、慧無きなり。

     正理師の云く、

     「述して曰く。但だ相は微隠なれども、彼の時にも亦有り。今は応に彼に問うべし。天愛、寧ぞ知る。」

     「述して曰く。天愛は救して言く、発智・六足は倶に我が所宗なり。総じて対法と名づくと対法に説きて大地法を為するが故にと。」

     「述して曰く。今、難じて曰べし。諸部の対法は展転して相違す。是れ根本の仏の所説に非ざるが故に。汝等、如何ぞ、彼の対法を執して以て定量と為すや。総じて諸部を非す。」

     これをもって、別境五門中の第一門・列名釈義門を終わります。次に第二門・遮遍行門が説明されます。

     

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    第三能変  受倶門・重解六位心所(33) 別境 ・慧について

    2013-03-28 06:08:06 | 心の構造について

     別境 ・ 慧について、(2)

              ー 業の義を釈す -

     「謂く、徳と失と倶非との境を観ずるが中に、慧の推求するに由って決定を得るが故に」(『論』第五・三十一左)
     

     慧の業は「断疑為業」という。慧は所観の境において簡択する。これは専注された境を簡択するのです。簡(けん)は主観性(我執)を破ること、択は客観的なものを把握することです。つまり、慧は徳と過失とそのいずれでもない対象をを観じる中で、その対象を推求することに由って、「徳と失と倶非」が何であるかを決定するという。
            

           - 遍行に非ざることを顕す -

     「境を観ずるに非ざる愚昧の心の中に於いては、簡択すること無し。故に遍行に摂むるに非ず」(『論』第五・三十一左)

     対象を観じるのではない愚昧の心の中に於いては、簡択する働きはない。その為に慧は遍行に摂めないのである。
     「愚昧の心の中に於いては無しとは、一切の愚に皆無というに非ず。邪見のものは癡増上なるを以ての故に。いまはただ愚にして亦昧なる心に即ち無きなり。愚にして昧に非ざるものには、あるいは有るべきが故に。第八識は昧にして愚に非ざれども、また慧なきなり」(『述記』)

     愚昧の心とは、認識対象を観じない心のこと。その愚昧の心には、簡択する働きはなく、慧は存在しないという。
     愚昧とは、『述記』には愚と昧を分けて説明しています。愚は愚癡のことで、無明と相応している心であるといわれています。昧は任運で、劣弱なことと定義されています。二つの事柄が出されていますが、「愚にして昧なる心」には慧は存在しない。「愚にして昧に非ざるもの」には慧は存在すると。そして第八識は「昧にして愚にあらず」と、愚ではないのだけれども、昧があるので、慧は存在しないのであると。第八識と相応する触・作意・受・想・思の五つの心所には慧は含まれていない、と説明されています。慧の心所は「所観の境」において起こるのであって、所観の境でない場合には慧は起こらないのであるから、愚昧の心には慧は起こらないことになり、遍行ではないと説明しています。

                (境)   (性)    (業)

       欲  ー    所楽   希望    勤の依

       勝解 ー   決定   印持    不可引転

       念  ー    曾習   明記不忘  定の依

       定  ー    所観   専注不散  智の依

       慧  ー    所観   簡択     断疑

     欲から慧へと一つの方向性をもっているということが大切な論旨ですね。方向性とは仏道の方向に向いているという事です。真の仏弟子への方向ですね。煩悩を転じて、生きる事の意味を尋ね、空過しない人生を送ることへの方向性です。この方向性が必ず滅度に至る道なのです。 また念・定・慧は相連関した心理ですね。

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    第三能変  受倶門・重解六位心所(33) 別境 ・定について

    2013-03-27 06:50:20 | 心の構造について

     『述記』及び『演秘』の説明。

     「論。根力學支至非即心故 述曰。五根・五力・七覺・八道支中別説故。定非即心。如念・惠等。念・惠等法彼體是思。然非即心故以爲喩。此中比量如文可解。亦如正理論第十一廣闡 。」(『述記』第六本上・十六左。大正43・431a)

     (「述して曰く。(因)五根・五力・七覚・八道支の中に別に説くが故に。(宗)定は即ち心に非ざるべし、(喩)念・慧等の如し。念・慧等の法は彼の体は是れ思なり。然るに即ち心には非ざるが故に、以て喩と為す。此の中の比量は文の如く解すべし。亦た正理論第十一に広く闡くが如し。私に云く、闡一本は闘に作る。」)

     「論。根力覺支至非即心者。問破何計耶。若破本師本師心所皆體是心。惠等同喩所立不成。若破末計有相扶失。未許心所離心有故 答准疏所明破末計中立三四等心所之師。惠等依思非即心故。喩無其過。有義但破本計。然喩無過。前來成立惠等別有故得爲喩。又解彼宗以經爲量。説定即心餘別有體 詳曰。前雖屡言惠等心所。而未成立離心有體。何非喩過。又未見教經部師中唯不立定許餘心所。二釋倶難。故依疏善。」(『演秘』第五本・十六右。大正43・913a)

     (「論に「根力覚支と云うより非即心と云うに至るは、
     問。何の計をか破するなり。若し本師(経部の本師・鳩摩羅駄)を破すとせば、本師は皆、体是れ心なりと云う。慧等の同喩に所立不成あり。若し末計を破すとせば、相扶の失有り。未だ心所は心に離れて有と許さざるが故に。
     答。疏の所明に准ぜば、末計の中に三・四等の心所を立つるの師を破す。慧等は思に依って即ち心には非ず、故に喩に其の過無し。
     有る義は但だ本計を破す。然れども喩に過無し。前来に慧等は別に有りと成立す、故に喩と為すを得。
     又解す、彼の宗は経を以て量と為して、定は即ち心なり、余は別に体有りと説くと云う。詳らかにして曰く、前に屡々慧等は心所と言うと雖も、而も未だ心を離れて体有りとは成立せず、何ぞ喩の過に非ざる。
     又未だ教に経部師の中に唯だ定のみを立てずして余の心所を許すということを見ず。
     二の釈倶に難じ、故に疏に依るは善なり。」)

     別境 ・ 慧の心所について述べます。

      「慧ノ心所ト云ハ、万ずズノ知ラント思ウ事ノ徳失ヲヨク簡ビ弁エテ疑ヲ除ク心也。是則チ智也。別境ノ五ト申ハ是な也」(慧の心所というのは、すべての知ろうと思うことが正しいか、正しくないかを選び、弁えて疑いを除く心である。)ー『法相二巻抄』
      別境の五は、慧の心所についての説明です。三段に分かれます。(1)性と業について (2)前分の詳細 (3)他学派の説を論破、となります。
    「云何なるをか慧と為す。所観の境の於に簡択(けんじゃく)するをもって性と為し、疑を断ずるをもって業と為す」(『論』)
    『二巻抄』には慧の本質は「簡び弁えること」と看破しています。慧は所観の境(観じた対象)をはっきりとえらびわける働きをもって、本質的な働きとし、疑いを断ずることを具体的な働きとする心所である。
    「述曰。これは勝慧を説く。故に断疑という。疑心と倶なるときにも、また慧あるが故に」(『述記』)
    『述記』の説明は、「疑いを断ずる」という勝の慧から説かれていると言っています。ここには、勝慧がある一方、その反対である劣慧も有るという含みがだされています。疑いを断じないということ、それは逆に疑いに由って慧を妨害する作用が働くということになります。疑いを所縁として正見・正慧を簡びわけることができず、逆に悪見に顛倒していくということが具体的に働くということになり、慧の心所は勝(善)慧の立場から説いているということになります。

     智慧の慧は聞慧・思慧・修慧といわれますように正しく聞き・思惟し修行することによって得られるものです。何が真実か不真実を選択して疑いを断ずる心なのです。その真実は清浄の業より起こり、そして仏事を荘厳するわけです。何が真実かということですが、私は答えはないと思うのです。「往生極楽の道を問う」ことが真実につながるのではないかと思います。私たちの知恵は疑心をもっているのですね。二心(ふたごころ)です。一心ではないのです。この知は愚痴の痴で病にかかっているという、我執と云う病です。私が一番で二番三番は無いのです。此れが私たちの知恵の本質です。「所観の境に於いて簡択(けんじゃく)するを以って性と為し。疑を断ずるを以って業と為す。」のが慧であるといわれているのです。過去のすべての経験を忘れていないというのが「念」でした。この念が定の依り処となり、その対象にむかって心を一つに集中していくのが「定」です。定が智の依り処となるのです。そしてどの方向に向いて歩みを進めているのか、善か悪かを択びわける働きが慧というわけです。これが煩悩を断じていくのであるといわれているのです。過去の経験を忘れていないということは何を意味するのかということです。その中に「生きていくことの意味」のヒントが隠されているということだと思います。過去の経験のなかを吟味して択ぶ、仏道の方向に向いているのかどうかを択ぶわけです。何故なら、私たちの目的は悔いのない生き方・空しく過ぎ行くことの無い人生・幸福な生き方を願っているわけでしょう。「終着駅は始発駅」と云う歌がありましたが、彼岸が私たちの故郷になるわけです。故郷を持たないと帰る場所が無いわけです。故郷喪失症に陥ります。故郷を回復する運動が念・定・慧という一連の流れに成るのではないでしょうか。
     

     定から慧について

     「定」といいますと、禅定という精神統一を思いますね。ある対象に向かって心を専注して乱れないということです。ここでも何を定と言うのかという問いが出されています。それに対し「所観の境に於いて。心を専注して不散ならしむるを以って性と為し。智の依たるを以って業と為す」といわれています。観は観察・境は対象、所観の境は観察しようとする対象・それに於いて心を留める、不散ということ、散乱しないことを本質とするということです。念を受けるかたちで、定がもたらされます。定は智慧の所依となるというのですね。智慧は真理を知るはたらきですね。智慧が生まれるのには念・定の心所が大切なのです。定に於いて心が浄化されるのです。浄化ということには本来に帰るという意味が込められています。「自性清浄心」といわれ、本来は清浄心なのですが、煩悩によって覆われているのですね。私の経験したことのすべてが今を生み出している、そのすべてが煩悩によって覆われているというわけです。「覆」ということに菩提心をおこすのです。煩悩と対峙するということです。そして心を浄化するということにつながっていくのですね。煩悩という心所はまた詳しく述べてまいりますが、例えば貪欲です。自分の欲望を満足させたいがために執念を燃やすということがありますね。目標一直線に心を集中させるということなのですが、これは定とはいわないのです。定に似て非なるものです。煩悩を翻すということに於いて真実を知る智が生まれるということなのです。「智の依」というのが「定」であるということ、大事に聞いていきたい心所です。「定」は心をひとつに留めて悪を作らない、浄を妨げる貪欲・慈悲を妨げる瞋恚・因縁を妨げる愚痴の煩悩を止となす、といわれています。大乗仏教では修行の階位としての止観行が最も大事なこととされているのです。「所観の境に於いて、心を専注する」ということですね。修行することによって柔軟心を成り立たせるということがいわれるのです。自己に執着する心が翻されて柔らかな、何事にも対応できるような心に転ずるというのです。

     課題としては、『浄土論』に五念門を修して五功徳門が開かれるということです。五念門は礼拝・讃嘆・作願・観察・回向です。五功徳門は近門・大会衆門・宅門・屋門・園林遊戯門で前四門は安楽世界・浄土に入る功徳で第五門は利他・浄土より出て衆生を利する功徳であるといわれています。これを曇鸞は『論註』で釈しているのです。「定」ですね。作願・観察門に配当されて大切なことを教えてくださいました。「如来の名号及び彼の国土の名号は、能く一切の悪を止む。(名声功徳)彼の安楽土は三界の道に過ぎたり。若し人亦彼の国に生ずれば自然に身・口・意の三業の悪を止む。(清浄功徳)阿弥陀如来正覚住持の力をして、自然に声聞・僻支佛を求むる心を止む。(主功徳)」(真聖全P315)と。親鸞聖人はこれらのお言葉を大切にされ『教行信証』の中心課題とされ、また『入出二門偈』を著してくださいました。親鸞聖人の課題は従来の教・信・行・証という仏道の在り方に疑問を投げかけられたのです。「これでいいのか」ということです。教を信じ修行するところに果としての自利利他円満という証が得られるのか、という問題です。得証の問題です。これはわたしの課題でもあるわけです。「仏法は私一人のため」とどこでいえるのか。自利がどうして利他になるのか。現代流に問いますと、私ひとりの救いでいいのか、私ひとりが救われてそれでよしと言えるのかという問題です。こういう問題が今問われていないと思うのです。理としての教学はあるのでしょうが、生きてある教学というか、世に対して真宗は何を訴えているのかをはっきりとしなければならないと思うのです。逆に言うとですね、何も訴えていないから、別解・別行・異学・異見・異執・雑行・雑修にいいように扱われてしまうのではと思います。「五濁増のしるしには/この世の道俗ことごとく/外儀は仏教のすがたにて/内心外道を帰敬せり」(愚禿悲嘆述懐)とですね。仏教の姿を装う集団が一番怖いのですね。牙を隠していますから。いいように洗脳されますからね。私たちもサークルと云うか仲良し集団になってはいけないと思うのです。みんな仲良くというのが真宗ではありませんね。「念仏成仏是真宗」なのです。念仏を除いて成仏はあり得ないのです。選びがあるのです。「正定之業者即是称仏名称名必得生依仏本願故」(正定の業というは即ち是れ仏の名を称するなり。称名は必ず生を得。仏の本願に依るが故にと)、ここをもう一度はっきりとしなければならないのではないでしょうか。             

     

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    第三能変  受倶門・重解六位心所(32) 別境 ・定について

    2013-03-26 00:11:49 | 心の構造について

    188409_166439703513822_708248598_n
     立量によって、更に、経量部の主張を退ける。

     初めに少し因明について述べます。

    因・宗・喩(因明の量ー正しい認識方法)を以て、経量部の説を論破

     因明とは古代インドの論理学で、五明(ごみょう)の一つ。物事の正邪・真偽を論証する法で、宗(命題)・因(立論の根拠)・喩(例証)の三段からなる論式(三支作法)をいう。この中で因が最も重要であるから因明と称す。2世紀にニヤーヤ学派(バラモンの正統諸学派の一つ)によって成立(古因明)、その後仏教に受容され、5~6世紀にディグナーガ(陳那)が出て確立(新因明)、さらにダルマキールティ(法称)がディグナーガのあとを受けて、インド論理学を大成、思想界に多くの影響を与えた。尚、古因明は五支(五つの命題)をもって立論した。宗・因・喩・合・結の五支をいう。例として仏教語大辞典に「かの山に火あるべし」(宗)、「煙あるがゆえに」(因)、竈のごとし、竈において火と煙とを見よ」(喩)、「かくのごとくかの山に煙あり(合)、「このゆえにかの山に火あり」(結)というようなものである、と記されていました。現代語訳しますと、「あの山は火を有するものである」(主張=宗)、「何故なら、煙を有するものだから」(理由=因)、「なんであれ、煙を有するものは火を有するものである。例えば竈のようなものである」(実例=喩)、「煙を有するものである竈のように、あの山もまた同様である」(適用=合)、「よって、あの山は火を有するものである」(結論=結)。これは名辞関係ではなく、具象的事物関係である。形式論理学における名辞の周延関係(主辞と賓辞という名辞関係)だけで論理を把握する名辞論理とは異なってくる。五支作用に従って対論・論議する。理由を根拠にし、それが実際に妥当か否かを検討し、妥当すると確定した場合に、ある事柄の真実が知られたと決定できるのである。これが古因明といわれるもので、ディグナーガ以降は五支作法の推論式を批判的に検討し、この論式による限り、形式論理学の三段論法の媒体概念に相当する理由が、一度も周延されていないことから、この論式を論理的に確実にするために、媒体概念として具備すべき条件を吟味する必要があった。五支作法に代わって宗・因・喩の三支作法が提唱され、「因の三相」・「九句因」の吟味が補足導入されて、論証方式が推理として正しく整備されることになった。「九句因」とは、三支の第二である因の正・不正を判ずるための九句で、因が同喩・異喩に対して有する九種の関係をいう。

              ―      ・       ―

     「根と力と覚支と道支との等きを摂むるを以て、念慧等の如し、即ち心に非ざるべきが故に」(『論』第五・三十一右)

     (意訳) (因) 五根と五力と七覚支と八正道支などにも、定が摂められている。

          (同喩) 念や慧等と同じである。

          (宗) 従って、定は心ではない。

     「述して曰く、五根、五力、七覚、八道支の中に別に説くは故に(因)、定は即ち心に非ざるべし(宗)、念慧等の如し(喩)。念慧等の法は、かの体はこれ思なり。然も即ち心に非ざるが故に、もって喩となす。」(『述記』)

     三支作法の順序の従って入れ替えますと、

     (宗) 定は心と同一の体ではない。

     (因) 五根には、、定根が、五力には、定力が、七覚支には、定覚支が、八正道支には正定が摂められているように、定は、心(心王)と別の体をもつものとして説かれているからである。

     (喩) 念や慧等が説かれているのと同じである。五根、五力、七覚、八道支において、念や慧等が説かれて、心(心王)と別の存在として説かれているのと同じである。

     これのよって経量部の説は誤りであると、護法は論破します。  

     

     

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    第三能変  受倶門・重解六位心所(31) 別境 ・定について

    2013-03-25 06:56:11 | 心の構造について

     後半は、経量部の説を挙げ、これを論破します。

     「有るが説かく。此の定は体即ち是れ心なり。経に説きて心学とも心一境性とも為せる故に」(『論』第五・三十一右)

     経量部・経部師の説(主張)は、定の体は心である、というもので、経に、「三学の中に説いて心学と為す。静慮支の中に説いて心一境性と為するを以て。心に離れては無しという」(『述記』)、を根拠として、定の体は心であると述べています。経量部の主張は心王とは別の心所である定が存在することは無いと主張しているのですね。『順正理論』における主張は先に述べましたが、「定は遍行である」というものでした。しかし経量部は、遍行とか、別境ということではなく、心王とは別に定は存在しないと主張しているのです。それに対し、護法は定は心王とは別に存在すると、経量部の説を破斥しているのです。次科段にその根拠が述べられます。

     「論。有説此定至心一境性 述曰。此經部師。以經三學中説爲心學。靜慮支中説爲心一境性。故離心無。」(『述記』第六本上・十六右。大正43・430b)

     (「述して曰く。此れは経部師なり。経に三学の中に説いて、心学と為す、静慮支の中に説いて、心一境性と為するを以ての故に。心に離れては無と云う。」) 

     「彼は誠証(じょうしょう)に非ず。定いい心を摂し、心を一境になら令むるに依りて、彼の言をば説けるが故に(『論』第五・三十一右)

     「論。彼非誠證至説彼言故 述曰。今破不然。心學者依攝心故。心一境者。令心住一境故説爲心。非體即心。」(『述記』第六本上・十六左。大正43・430b) 

     (「述して曰く。今破す、然ず。心学とは心を摂するが故に。心一境性とは心を一境に住せ令むるが故に、説いて心と為す。体即ち心に非ず」)

     経部師の説は誠証、即ち、正しい証とはならない。何故なら、定は心を摂し、心を一境にならしめることから、心と為すのであって、定の体が即ち心であるというのではない。『論』の「彼の言」は心学と心一境性にかかる言葉で、「心を摂し」が「彼の言」の心学を指し、「心を一境になら令むる」が「彼の言」の心一境性を指します。以上から伺えることは、経典に戒学・定学・慧学の三学の中、定学を心学といっているのは、定の働きである、心を摂するということ、と心を一境に住せしめるということ(ならしめるものを定という。ならしめられた「心一境」によって、ならしむる定をあらわす。)定の体は心である、と主張する経部師の説は誤りであると論破しています。

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    『阿毘達磨倶舎論』に学ぶ。 本頌 (25)  第一章第四節

    2013-03-24 19:18:06 | 『阿毘達磨倶舎論』

     分別界品第一 第三十八頌

     「内十二眼等 色等六為外 法同分余二 作不作自業」

     (内は十二にして眼等なり、色等の六を外と為す。法は同分なり、余は二なり、自業を作すと作さずとなり。」)

     初の二句は、第十六内外門、後の二句は第十七同分彼同分門の所論である。

     内外門において、六根・六識の十二界を内とし、六境を外とする。能・所でいえば、能取の根と能縁の識とを内といい、所縁の境を外という。

     同分彼同分門においては、

     同分は同じ作用の別々の働きにおいて認識が成立するということになります。彼同分に対する同分で、主観が主観として、客観が客観として自ら作用を為すことですが、例えば、眼根が色を見ている場合は、これを同分眼といいます。眼識が対象(色)を認識し、対象(色)が眼識によって認識されることを同分という。彼同分とは、作用を作していない時のことで、これを彼同分眼という。

     法同分とは、五蘊・十二処・十八界なども、法が蘊・処・界として同じ種類であることを成り立たしめている原理で、法界は第六意識の所縁であるから同分である、しかし、他の十七界は同分でもあり、彼同分でもある。自業を作す時もあれば、作さない時もある。

     彼同分とは、自業を作さないこと。例えば、同分眼は具体的に色を見るという作用を起こしているのですが、それに対し、具体的に色を見るという作用を起していないことを彼同分という。

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    唯識入門 『成唯識論』第五回目講義概要

    2013-03-23 22:53:12 | インポート

     本日の講義の内容を概略します。校正文は後日掲載します。

     

     「先月は、「仮に由りて我・法ありと説く」我と法によって一切をつつんでいることを述べました。そして我とは何か、法とは何かを「成唯識論」の所説に従って述べました。「仮」について二種あることは『述起』に「無体随情仮」と「有体施設仮」とをもって、我・法は「仮」に説かれてていることを明らかにされていました。
     今日は、先月と少し重なるところがありますが、「我・法と分別しつつ熏習せし力の故に、諸識の生ずる時、変じて我・法に似れり」から進めていきます。これは我・法の相はどのようにして現われてくるのかを述べています。熏習・現行・種子という三法が同時因果として、諸識(八識)が生起することを述べています。熏習とは、現行熏種子と、現行が種子を熏習するといいます。現行とは、具体的に現れた識(七転識)のことで、現行した心の働きが深層に働く潜在的な阿頼耶識に種子を熏習することを現行熏種子といい、そして熏習された種子から現行してくる働きを種子生現行といわれています。熏習・種子も阿頼耶識に蓄えられたもので、現行によって熏習されたものを、熏習された気分ということで、習気といい、現行を生じる方面からは種子といいます。我・法の相が現行するのは、習気から縁に随って諸識が生じてくるのですね。そしてこの習気=種子は阿頼耶識に摂蔵されているのです。
     「我・法分別」は他と区別して認識するわけですが、何を基準とするのか、これは一言でいいますと、自分にとって損か得かという我意ですね。我意によって区別されたものが、我であり、法であるわけです。この分別された我法が無始以来熏習されている。それが大きな力でその力から逃れることはできないという構造になっているのですね。無始以来刹那刹那に熏習された種子から現行してくるわけですから、今に始まったわけではないのですね。しかし、それは実我・実法ではないのですね、「変じて我・法に似れり」、「我・法に似ている」にすぎないのだと。「似ているにすぎない」のだけれども、無始以来、我・法と執着してきたわけですから、この認識から離れることはできないと述べています。
     「諸の有情の類は、無始の時よりこのかた、此れを縁じて執して実我・実法と為す。」
     有情という情識を有する者ですね、無始よりこのかた、外境に似て現じたものを縁じて実の我・実の法と思い込んでいる、それは恰もですね、次に出てきます、患と夢の譬えのようなのです。
     高熱がでて、うなされているときに夢を見る、無いものが有るという幻覚ですね、幻覚が実我・実法である、幻覚だけれども真実だと思い込んでいるわけです、顛倒です。真実は内識が外境に似て現れているに過ぎないのですが、私たちは外境が存在すると思い、執着をおこして実であるとして、「唯だ識のみ」ということがわからないのですね。気づきがでてきません。
     以上『頌』の最初の三句
     「仮に由りて我法有りと説く。種々の相転ずること有り。彼は識が所変に依る」を釈しました。
     次は「総じて三句を解す」。三段に分けて説かれます。
    一、「我・法の仮なる理由」を示します。
     無体随情仮
     有体施設仮
     「愚かな凡夫は、虚妄の分別によって計らって我・法を実と誤り、実我・実法と執しているが、体は無く、虚妄のものである。しかし有情は実我・実法と執しているわけですから、有情の妄情によりそって説いて、仮に施設する、これはですね、仮に説かなければ、有情の妄情・執着を解くことが出来ないのです。
     今度は、「内識の所変」です。所変は相分ですね、この相分は内識が変化したものなのですが、有情は相分に現れたさまざまな相が実のものであると誤って認識しています。本当は、外境に似て現じているのですね。ですから、似我・似法である、と。しかし実我・実法ではない、と。「有りと雖も、実の我・法の性に非ず。然も彼に似りて現ぜり。故に説いて仮と為す。」「彼に似り現ぜりて」といいますから、依他起性であるという、護法の摂になるわけです。実我・実法は全く無し、似我。似法は無ではない、無ではないが、仮に我・法と説くのだ、と。「仮」ということが非常に大事なことですね。「仮」ということにおいて「執」を超えることができるのです。
     二、「増減の執を遮す」
    実我・実法が有るといえば、増益の過失となり、また無といえば損減の過失になるということを破斥します。ここに二つの科段が述べられます。
     「外境は情に随って~識の如くなるに非ず」。実我・実法は、妄情の上だけのもので、識のように有ではない。
     「内識は~境の如くなるに非ず」。内識は因縁によって生じた縁起の法(依他起性)ですから、外境のように無ではない、有に非ず、無に非ず、「此れに由りて便ち増減の二執を遮す」と、唯識の道理によって増減の二執を遮す、二執を遮して唯識性を明かにしているのです。
     余談になりますが、安田先生は、この内識ということで、「花があって、意識するのでなく、花の意識である。花を内境としてもっている。花を内容としている。対象というものを、作用の中に表現している。識というものは、何か(境)というものに似てあらわれている。何かがあって、それに用きかけるのでなく、用きかけるものを、その中に表現している。その事実を唯識という。識が何かに似て現ずることが、識転変である。パリナーマが唯識の事実を語る。現じているままが、識のうちにある。
     唯識というのは、識転変の事実に見いだされた道理であって、説明しようというのではない。全く意識の事実そのもののもっている道理である。識は何かに似て現じているから、それに基づいて、何かが仮説される。花という言葉には、花に似て現じた識。識転変において仮説されるという構造である。」(『選集』二・p51)と教えておられます。次は「仮」の第三の説明です。
     三、「諦に依って仮を摂む」、諦というのは世俗諦・勝義諦のことをいっています。外境も内識も仮立されたものですが、「仮」は、この二諦のどちらに摂められるのか、という問いです。外境は世俗諦のみに仮に有と説く、「識は境の所依の事」、境は識に依って有るわけですから、内識は勝義諦においても有であると説かれているのです。
     前置きが長くなりましたが、今日の本題はここからの、「広く頌を釈す」と。今まで述べてきた「仮」の三つの説明を、更に詳しく述べる、ということになります。」内容は、破我と破法です。実我・実法を破斥します。
     はじめに問いがだされます。「云何ぞ応に知るべきや、」、科文には「広く外執を破て頌の義を成ず・一に総じて問う。二は略して外徴に答う、三に別問別答」と示されています。
     「唯だ識のみあって外境は無いということがどうして知られるのか」という問いが先ずだされます。答が「実我・実法は得可からざるが故に」これが、二の「略して外徴に答う」になります。存在しているということは、外に有るということ、外境として認識されているということは、実我・実法として存在していることに外なりません。しかし、答は外境は無いと、外境は存在しないといっているのですね。外境は識転変であるということなのです。「内識のみ有りて外境に似りて生ぜり」ということになります。
     別問別答
     一、実我を執するを破す。「如何ぞ実我は得可からざるや」どうして実我はないといえるのか。そして答えられるのですが、五段に分かれて述べられます。
     第一段、「三類の計(け)を叙し正しく外道を破す」。三類の計といわれています。計とは、考える、分別する。認識的には誤った思考をいう。三類に共通する概念は「常」ということです。「我の体は常である」ということ。我とは何かということは、我は常・一・主・宰といわれていました。我の体は常であるが、我は大きいか、小さいかという設問がだされています。
     「一つには執すらく、~」我の量は虚空と同じ大きさで、どのきでも遍く偏在している、と。我が周遍しているからこそ、いついかなるところ、いついかなる時でも苦・楽を感ずるのである、と。「業を造る」とはこのようなことなのでしょうね。
     二に、「執すらく~」
     量(大きさ)は不定である。身の大小に随って巻舒(かんじょーちいさくすることとおおきくするおと)することが有るということ。例えば、象はおおきく、蟻は小さく、身の大小において我もまた大小があるという。
     三に、「細さること~」
     我は極微である。身の中に気づかれないような極微に沈潜して体中を回って作業をしているのである。
     このように、我の実体を三つにわけて論証しているのですが、この論証を破斥していきます。
     「理に非ず」と。
     一に、常であり、周遍しているのであれば、苦・楽というような変化はないはずである。従って苦・楽を受けることはないであろう、と。また、常遍というのであれば、動転することはないはずである。
    次に所執の我は同じなのか、違うのかという問いですね。考えさせられる問題ですが、若し同じならば、一人が行為を起こせば、他の一切が行為することになる。反対に一人が解脱すれば、他の一切も解脱することになる、これはおおきな過失である、我は周遍しているというのであるから、、「若し異なりと言わば」「我が重なり合って区別がつかなくなるであろう」そして周遍しているのならば、一人が業を造れば、他の一切も業を為し、果を受ける時は、他の一切も果を受けることになってしまう。このようなことに過失が無いと主張するならば、周遍するということに違背する。従って、一人が解脱すれば、一切の人も解脱するということになる。
     二を破斥します。巻舒する我を破斥します。これは、我は常住ならば、身に随って大小することはないであろう。巻舒はない。反対に巻舒があるというのならば、それは櫜籥(たくやく)風みたいなもので、それは常住ではない。櫜籥、たく(ふいご)とやく(ふいごに風を送る管)で、風と関係する道具として譬えの中で用いられる。
     身に随うなら、分析(ぶんしゃく)-区分すること。分けて考察すること。することになり、我の体は常一ではなくなってしまい、執すべきものではない。恰も「童豎(どうじゅ)」童子の戯れのようなもので、全くたわいがないものである。豎はしもべ、こどものこと。
     小さな我を破す。
     「後のも亦た理に非ず。~」
    我が極微のように小さいなら、大きな身をどうして遍動させることができるのか。
    若し、という問いを立てて、
     「小なりと雖も而も速く身を巡ること旋火輪(せんかりん)の如くにして、遍動するに似たりといわば、則ち所執の我は、一にも非ず、常にも非ざるべし。諸の往来すること有るものは常・一に非ざるが故に。」
     小さいけれども、旋火輪のように速く身を巡るというのであれば、我は常でもなく、一でもないことになる。すなわち、往ったり、来たりするものは常・一ではないからである。
     旋火輪 - 火をぐるぐる回すことできる火の輪のこと。火の輪があるわけではなく、火の粉の連続体が有るだけであることから、すべての存在は刹那に生滅して実体がないことの喩として用いられる。
     次は分科の第二、「別して三類の計を叙し兼ねて小乗を破す」
    我と五蘊の関係から、我の三種を説く。
     即蘊 - 身と心とがそのまま我であるとする説。
     離蘊 - 五蘊を離れて独立して有るとする説。
     非即非離蘊 - 五蘊に即するものでもなく、離れるものでもないとする説。
     それぞれ個別に説明されます。
     先ず、即蘊の我を破す。
     我が五蘊に即するというのであれば、五蘊と同じく常・一ではないであろう、と。我とは常・一の義といわれていますから、五蘊もまた常・一でなければならないのです。しかし、五蘊は積集の性(仮和合)と言われていますから、無常です。無常をもって常・一の我とはいえないということです。「又」と、五蘊それぞれについて論じられます。
     「内(うち)の諸色」(肉体・五根と扶塵根)も「外の諸色」(外の物質)のように、質礙(ぜつげ)
     質礙(ぜつげ)― 物質(色)が有する二つの性質(変壊と質礙)の一つ。物のさまたげる性質。同一空間・場所を共有することができないこと。
     同一空間・場所を共有することをさまたげるものは、我ではない、ということ。 尚、変壊は、事物・事象が変化して壊れること。苦が生じる因となる。
     「心」は心王・識
     「心所法」は、受・想・行 (余の四蘊)
    これも亦た、実我ではない、なぜなら、余の四蘊は衆縁(さまざまな縁)をまって生ずるから、相続しませんし、断絶がありますから、我とはいえないですね。
      「余の行」 諸行無常の行、有為法のことをいっています。最初の二つ以外の有為法(心不相応行法)と、「余の色」、外の諸色と法処所摂の色(五根と五境)五根は眼・耳・鼻・舌・身とその対象、色・声・香・味・触、それに意識の対象となる特別なもの、意識の所縁の色を法処所摂色といわれています。意識の対象となる特別の物質。、「第六識の無辺法界の事をしる中に有る色法なり」(『二巻抄』)法処とは意識の対象となる法という領域で、五識の対象とはなりえない、ただ意識の対象となるもの、という意味です。これらが、「覚の性に非ざるが故に」、覚性とは、心・心所のことで、「非」ですから、心・心所とは別なもの、たとえば虚空のようなもので、これを我というわけにはいかない。
     次に、離蘊の我を破す。
    五蘊に即するのでもなく、離れるのでもなく、というのであれば、我とはいえない、「瓶等の如く」とは仮法ですから、仮法をもって我とすることはできない。
    「故に彼が所執の実我は成ぜず」と。成り立たない。
     次は、すでに述べた、一と二の三類の計の差別(異なり)の執我(執着された我の異説)を総じて破斥す。
     初めは思慮の有無です。三類の計で述べられた我には思慮が有るのか、無いのか等で、そのいずれかでもあっても我は成り立たないことを説明します。
     思慮があるのであれば、常・一・主・宰の義に反します。
     思慮がないのであれば、虚空のようなもので、業を作ることも、果を受けることもできません、ともに、所執の我は思慮の有無にかかわらず、成り立たないのですね。
     二は、作用(さゆう)の有無を破斥します。
     実我の体に作用が有るのか、無いのかちう問いを立て、有るとすれば、それは無常であり、実我とはいえない。また、無いといえば、我は無いことになる。兎角(とかく)等のようである、兎の耳をみてそれを角だと思った時の角で、実際には存在しないものである。
     三は、我見の境・非境の破斥
     我があるという見解ですね。我見が、我を所縁の境としてみることができるのか、できないのかという問いですね。
     我見の境でないとすれば、所縁でないのにどうして我があると知ることが出来るのか。、我が有るとか無いとかいえるのかということです。
     我見の所縁の境であるといえば、
    我を見ることができるというのであれば、その我は真実であり、見も顛倒ではなく、正見ということになります。しかし、我見は自己が存在するという見解で、末那識相応の四煩悩の一つで、潜在的な自己執着心ですから、生死に沈んで輪廻すると批判されます。無我の見は涅槃を証すると称賛されます。「豈」と反対の論証をもって破斥していますね。我見を邪なる見と、邪なる見が正しいなら、邪なる見が涅槃を証し、正しい見が生死に沈むことになる。
     我は我見の境に非ず。我見は我を縁ぜず。
    「我をすという見は」と。これは、我を縁ずる見という意味です。我を認識して(我を縁じて)我が有るといっているわけですが、では本当に我はあるのかという設問です。答は、「実我を縁ぜざるべし」、思い込みがありますが、我を縁じているのではなく、体や心などの、所縁を縁じているのですよと。「余を縁ずる心の如し」と。自分の体や心を縁ずることはできるが、これは体や心を縁じているのであって、我を縁じているのではない、ということ。我見が縁じているのは、実我を縁じているのではなく、所縁を縁じている、そして、「所余の法」、今ならば、桜ですね、木蓮、雪柳といったような、木や花を縁じているのと同じだと。所縁を縁じているだけであって、我を縁じているのではない、結論として、我見であっても、それは内識の変化した諸の蘊を縁じているのであって、我そのものを縁じているのではない、それは「自の妄情に随って種々に計度す、分別しているのである。」我執の妄情がそれを「我」と思っているに過ぎない、と破斥します。
     次は分別起・倶生起の我執が述べられますが、これは来月に譲ります。」

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    第三能変  受倶門・重解六位心所(30) 別境 ・定について

    2013-03-21 22:16:55 | 心の構造について

                他学派の説を論破

      初めは正理師(『阿毘達磨順正理論』による学説)の説・   後に経量部の説を挙げ、護法が論破し、自らの説を述べる。

     「有るが説かく、爾の時にも亦定の起こること有り、但し相微隠(そうみおん)なりという。応に誠言を説くべし」(『論』第五・三十左)

     「述して曰く。(正理師等なり) 乱心等の時にも、また定の起こることあり、但し相は微隠なるを以て、相は知り難しといえば、いま彼を詰して曰く、誠言を説くべしと。誠とは謂く、誠諦なり。言虚を以て有と説かば、理いまだ通ずべからず。実言を説いて我に有りと知らしむべし」(『述記』第六本上・十四左)

     正理師等はこのように説いている。心が散乱している時にも定が起こることがある。ただし、その相は微隠であって、定が起こっていても知り難いのである、と。誠言は真実を明らかにする言葉ですね。今、まさに真実を明らかにする正しい説を述べる。

     正理師等の説はどのような状態であっても(心を繋し境に専注していない状態の時)、相微隠ながら定は存在するから遍行であると主張している。それに対し護法は、その説は誤りであると否定し、誠言をもって論破する、と宣言しています。

     次に「言虚を以て有と説かば、理いまだ通ずべからず」と、理にかなわないことを論破します。第一段が和合救・第二段が不易縁救・第三段が取所縁救と称され、それぞれにわたって、論破します。(新導本『成唯識論』による。傍注に「これは転救を破す」と記されています。-『述記』には有義と護法とによる問答が述べられ、正義が示されていますが、その折、有義、即ち護法以外の異説の主張者が、護法に論破された場合、その反論として、自説が正しいと防御的補足説明をしています。この反論を「救」という、とされます。)

     第一段 和合救

     「若し定いい能く心等を和合して同じく一境に趣か令むるが故に、是れ遍行なりといわば、理亦然らず、是は触の用なるが故に」(『論』第五・三十左)

     「述して曰く。若し彼が救して、定は能く心等を和合して同じく一境に趣かしめ、心が起こる時に、みな有り、故に是れ遍行なりと言わば、理い、また然らず、これは触の用なるが故に。触は能く心心所法を和合して離別せしめず。同一所縁なるが故に」(『述記』第六本上・十五右)

     もし、正理師等が救して(自説を防御・救援するために、新たに論理主張を述べる、補足的説明)定は能く心等を和合して同じく一境に趣かしめ、心が起こる時に、みな有り、故に是れ遍行なりと言うのであれば、これは理に適わない。何故なら、認識主観である心王は、さらに心の働きである触の働きによって、認識対象に触れさせられるといわれ、触は心王が起こる時には必ず働く遍行であるとされますから、正理師等が主張する説は理にかなわず、同一所縁は触の働きに他ならないのです。よって定は遍行ではないと論破しています。触と定とを混乱して理解しているのです。ここはきちんと整理をしていかなければならないところです。

     第二段 不易縁救(此定令刹那頃心不易縁

     「若し謂く、此の定は刹那の頃(あいだ)に心に縁を易(か)えざら令む。故に遍行に摂むといわば、亦理に応ぜず。一刹那の心は、自ら所縁の於(うえ)に易うる義無きが故に」(『論』第五・三十一右)

     「述して曰く。(理に応ぜず)一刹那の心は自然に一境において改易する義なし。何ぞ定を須いて爾らんや。」(『述記』)

     もし、正理師等が主張する、この定は、刹那の間に心に所縁をかえさせない働きをもつ。よって、定は遍行に摂められるというのであれば、これもまた誤りである。何故なら一刹那の心は、自ら所縁をかえることがないからである。ここにですね。(救)といわれる論法をもってくるわけです。和合救で、それは触だといわれて、それならば、不易所縁であるというわけですが、最初の一刹那については、どのような意識であっても所縁をかえないのですから、あえて定を待つ必要はない、と。

     第三段 取所縁救(由定心取所縁)

     「若し言く、定に由って心に所縁を取ら令むるが故に遍行に摂むといわば彼は亦理に非ず。作意いい心に所縁を取ら令むるが故に」(『論』第五・三十一右)

     これが駄目なら、つぎはこれという論法です。ここは、定に由って、心に所縁を認識させるのであるから、定は遍行であるというのは、亦誤りである。何故ならば、その働きは作意の心所だからである。心に認識対象(所縁)を取らせるのは、定の働きではなく、作意の働きである、と論破しています。

     「述して曰く。彼復た救して言く。心に境を取らしむ、之を名づけて定と為すと言はば、復た彼を難じて言く、心をして境を取らしむるは作意の功なり。定の力に由るに非ずという。前に已に説くが如し。順正理第十一の如し。救の言、大いに広し。」(『述記』第六本上・十六右)

     次科段は、経量部の説を挙げ、論破します。

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