唯識に学ぶ・誓喚の折々の記

私は、私の幸せを求めて、何故苦悩するのでしょうか。私の心の奥深くに潜む明と闇を読み解きたいと思っています。

阿頼耶識の存在論証 四食証(シジキショウ)(5) 触食(ソクジキ)の体

2017-06-29 20:10:53 | 阿頼耶識の存在論証
  
 触食の体について説明します。
 「此の触は、諸識と相応すと雖も、六識に属せる者、食の義偏に勝れたり。麤顕(ソケン。はっきりと認識されること)の境に触し、喜と楽と及び順益の捨とを摂受して、資養すること勝れたるが故に。」(『論』第三・初右)
 諸識は、八識を指す、
 本科段でいう「捨」は身を順益する捨受である。
 触食の触は遍行の触の心所で、触食の体になります。「触食、境に触るるを以て体と為す。」
 問題は、八識全体にかかるのか、或はどの識にかかるのか、或は複数の識にかかるのか、ということです。
 意訳しますと、この触の心所は、八識と相応するとはいっても、六識に属するものが食という意味・内容では最も勝れている。はっきりと認識される対象に触れ、喜受と楽受そして身を順益する捨受とを養い、助け、資し養い成長させることが他の識よりも勝れているからである。
 他の識は、第八識及び第七識ですが、この二識は麤顕ではなく微細である為に、この識と相応する触の心所は喜受・楽受を生起させることはないのです。そして捨受とは相応しますが、身を順益するものではなく、分別を起さないという意味を持っているにすぎないのです。
 また、食は身を順益するものですから、順益させない苦受や憂受及び順益新あい捨受は身を資養することはありませんので相応しません。
 つまり、六識の中でも、喜受と楽受と身を順益する捨受と相応する触の心所のみが触食の体となるのであると説いています。
 「いただきます」というのは身を養うということが第一義ですね。食することに於いて、喜びが生じ、楽しみが生れ、身体を順益して資養することなんですね。
 『述記』第四末・四右に、詳しく釈されています。
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阿頼耶識の存在論証 四食証(シジキショウ)(4) 触食(ソクジキ)

2017-06-27 21:05:33 | 阿頼耶識の存在論証
  
 今日からは触食の説明に入ります。
 はじめに、触食とは?
 「二には触食、境に触るるを以て相と為す。謂く、有漏の触が纔(ヒタタ。わずかに)境を取る時に、喜等を摂受(ショウジュ)して、能く食の事と為る。」(『論』第四・初右)
 二番目に触食が説かれます。
 境(認識対象)に触れることをもって相(体)とする食(ジキ)である。
 つまり、有漏(迷い)の触の心所(遍行の触)がわずかに認識対象を認識する時に喜受・楽受・捨受を受け入れて、資し養い成長させることがよく食事となるのである。
 まあ、かなりきついことをサラッと言い放っていますね。
 飽食の時代といわれて久しいですが、我が国の需給のバランスで、一日に捨てられるごみが、ネットワーク地球村のHPによりますと、
 ◆飢餓の現状
 飢餓が原因で1日に4~5万人(1年間に1500万人以上)の人が亡くなっており(FAOより)、そのうち7割以上が子どもたちです。
 ◆世界中には食べ物が足りないの? 
 「飢餓」になるのは、食糧が十分につくられていないからではありません。
 穀物は年間 24億トン生産されています。
 これは世界中の人が生きていくのに必要な量のおよそ2倍になります。
 24億トン (年間穀物生産量) ÷ 71億人 (世界の人口)
 ⇒ 338kg (1人当たり)
 ※1人当たり1年間の標準量は 180kg
 それでも食べ物の不足している人がいるのは、どうしてでしょうか?
 ◆たくさんの穀物はどこへ
 1人当たりの食糧供給量を比較すると、日本では必要なカロリーより 31%も多く、ソマリアでは16%不足しています。
 私たちのように食べるものがいつでも十分手にはいるのは、世界のおよそ2割の人だけなのです。
 穀物は人間が食べるだけではなく、先進国では穀物の 6割(約4億トン)が、ウシ、ブタ、ニワトリなどの家畜のえさになっています。
 牛肉1キロ作るために穀物11キロ、豚肉1キロ作るために穀物7キロ、鶏肉1キロ作るために穀物4キロを消費しています。
 結果として、世界の 2割足らずの先進国にすむ私たちが世界の穀物の半分以上消費しているのです。
 ◆日本の飽食の影で・・・
 私たちは日本人の食生活は、第二次世界大戦前とくらべると大きく変わりました。
 例えば、肉や卵を食べる量は 10倍になり、えさとして使う穀物の量も急増。
 現在、えさ用のトウモロコシや大豆は90%が輸入しています。
 こうした穀物の消費の増加だけでなく、砂糖や植物油(ヤシ油)などのプランテーション作物を大量に輸入することで、途上国の生活にも大きくダメージを与えているのです。
 ◆マグロが絶滅の危機!
 世界で取れるマグロの4分の1以上が日本で消費されています。
 そのマグロ漁の餌として、東南アジアの人が日常的に食べていた魚(ミルクフィッシュなど)を使ったため、その値段が高騰。地元の人はその魚を簡単に食べられなくなりました。 さらに、現地では高級魚でほとんど食べられないマグロ(ツナ)は、日本では犬や猫たちがペットフードとして食べています。
 絶滅が危惧される生物を記載したレッドリストにマグロは既に記載されています。資源保護が必要とされます。
 ◆輸入大国日本は廃棄大国
 日本の食品の半分以上は、世界から輸入したものです。
 私たちは年間 5500万トンの食糧を輸入しながら、1800万トンも捨てています。
 食糧の廃棄率では世界一の消費大国アメリカを上回り、廃棄量は世界の食料援助総量470万トン(WFP)をはるかに上回り、3000万人分(途上国の5000万人分)の年間食料に匹敵しています。
 ※農林水産省「食料需給表」、厚生省「国民栄養調査」を元に算出
 日本の食品廃棄の実に半分以上にあたる1000万トンが家庭から捨てられています。
 この家庭からでる残飯の総額は、日本全体で年間11兆円(旧科学技術庁「資源調査会第123回報告」より)。 これは日本の農水産業の生産額とほぼ同額です。
 さらにその処理費用で、2兆円が使われています。
 日本はほど大量に食糧を輸入しながら、廃棄を続けている国はないのです。
 日本の食糧廃棄1940万トン
 ◆もし日本で食料の輸入がストップすれば・・・
 食糧輸入が途絶した場合、1年後には3000万人が餓死すると1978年に試算されています。
(「NHK特集 輸入食糧ゼロの日」 1978年)
 今は、昭和50年頃の穀物自給率(40%)より10%以上悪化し、26%になっています。
 もし、今、食糧輸入が途絶した場合にはそれ以上の餓死者が出ることになるのです。
 ◆今後、世界の食料は減産していく
 2001年の世界の穀物在庫量は約6億トン(約100日分)でした。
 しかし、猛暑・干ばつなどの異常気象、さらに新興国での食肉増加などの影響で、在庫は減少し、2011年の在庫量は4.5億トン(約75日分)まで低下しました。
 現在、サハラ砂漠以南のアフリカ諸国など世界84ヶ国が食糧援助を受けています。
 世界の食料がより不足すれば、食糧支援を必要とする国はより増えていくのです。
 ◆できることからはじめよう
 世界中で困窮している人たちが自立できるための支援が必要であると同時に、飽食や必要以上の消費をしている私たちの生活を見直すことが重要です。
 •まず食べる量を (例えば一割)減らしましょう
 •無駄な買い物、肉食、食べ残しを減らしましょう
 •国産品、無農薬の農作物を選びましょう
 •輸入品や季節はずれの食品 (ハウスの果物、野菜など)はさけましょう。

 というものです。本当に考えなければなりませんね。(傍線は筆者)
 食の事といわれていることは、私たちを成長させ、命を育み育てる役割を持つものなのです。
 段食は摂取する方面から、触食は食べることにおける満足感、見る、味わう、香りを楽しむという方面から説かれているようです。
 触食という時は、食に触れて、喜受等を生じなければならないのですね。どうでしょうね。何をいっているのでしょう、喜受等を生じることに於いてのみ、命を養い、育てることになるのでしょう。ですから、暴飲暴食は身体を壊します。食の事ではないからですね。すみません、自分に言い聞かせています。
 『述記』は「能く喜楽捨受を資養(シヨウ。たすけ養う)し生長(ショウチョウ)して、増して身を摂益(ショウヤク。受容して益すること)せしめるが故に名づけて食と為す。」と釈しています。その通りですね。身を育てるという意味を持たなければ食とはならないということになります。苦受を生じるものはですね。
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阿頼耶識の存在論証 四食証(シジキショウ)(3) 段食にならないもの(2)

2017-06-26 20:33:23 | 阿頼耶識の存在論証
  
 色は境と相応するので、食とはならないことが論証されます。
 「又色は麤著(ソジャク)にして根と相離せり、方(マサ)に能く境と為る、根を合せざるが故に是れ食(ジキ)に非ず。」(『述記』第四末・三右)
 色は境と合せて、対象物でありますから、対象物をもって食とすることは出来ない、つまり、目の前に有る対象物が、身命を養い育てることは無いのだと。
 では、声境・法境はどうであるのかといいますと、『述記』には説明がありませんが、『演秘』(第四本・三右)には、
 「夫れ食と名づくることは、必ず先ず自根の大種を資益」することと述べています。
 また、声境の体は虚なるもの(音であったり、空気の波動であったり)である。
 また、意根などには段物は存在しない。
 また、諸根は段食に資益される側(所取)である為に、段食ではない。
 ここで、『述記』は問いを立てます。
 資益の相についての問答です。
 「問う、此の三を食とせば、自根に対すとせんや亦余識にも対するや。」
 質問の内容は、此の三はそれぞれの認識する側である自根と自識のみを資益し、他の根や識などには資益することは無いのかということです。
 香境 — 鼻根と鼻識
 味境 — 舌根と舌識
 触境 — 身根と身識
 のみを資益するのかという問題です。
 「答う、此の三腹に入って変壊する時、先ず自根を資けて資養を為し已って、然して後に乃ち能く諸根等を資けて、識を發して明利ならしむるを以て説いて名づけて食とす。要ず別に自識が所取にのみ対するというにしも非ず。」
 答えは、そうではないと。
 この三境は腹中に入って消化され、まずは自らの根、香境だと鼻根と鼻識を資益し、血肉とするわけです。その後に諸根や諸識を資けて資益するのである。そして識を發して明利(ミョウリ)、つまり、はっきりさせるのが食なのである。全ての根や識にたいして資益する働きをもち、それぞれの根からそれぞれの識を発生し明利にならしめるのである、と。
 何か難しいことを云っているようですが、私達の食事の風景を思い出していただけると説明が付くように思います。
 香境は匂いですね。味境は味わいです。其の根っこにあるのが触境です。この三がバラバラではなく和合して諸根に影響を与え、諸根をして明利にならしめるのです。如何に食事が大切な役割をしているのかが伺い知れます。
 物質的に考えれば、対価を払って手に入れた物は私物であるという考え方は当然有ると思います。しかし、いくら対価を払っても、本来は手に入る物ではないでしょう。対価を通して、私の所まで届いた過程を思い馳せる所に、「いただきます」「ごちそうさまでした」という感謝の念が、身心を養い育ててくれる因になるのでしょう。これが段食の意味になるのではないかと思います。
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日曜雑感

2017-06-25 12:03:49 | 雑感
 
 朝からあいにくの雨模様です。梅雨前線北上で梅雨空が続きそうですね。
 今朝中部地方を中心に震度五強の地震がありました。被災地の皆様にはお見舞い申し上げます。
 今日の雑感は、読者の方からの投稿を紹介します。在家の方ですが、よく学ばれている、本当に刺激を与えてくださっている方です。
 この投稿は妄想ですと仰られたのですが、妄想では書けないと思います。若し妄想であれば、妄想であると知り得る自分に出遇れたということでしょうね。投稿していることが我見であると知り得ておられるのかどうかは聞いてみなければ判りませんが、深い眼差しをもって書いておられます。
 どうぞ、最後まで読んであげてください。

 「人生ただの死ぬまでの暇潰しか?と思ってましたが、最近は多くの縁があり、そうでもないのか?と思うようになりました。独りでは生きられないし、死ぬことすら出来ないのか。と最近は感じています。
他者との縁、ご縁は自分自身が招いているのだと感じています。
生きていく上で最大の悩みは人間関係でしょうか。最近特に感じます。自分自身が招いていて、それで苦しんでいる。おかしな話です。しかし、今見ている世界は自分自身が作った世界、とすれば、他者も自分自身が作っているものなのでしょうね。
自分自身が今見ている世界は自分自身しか見えない、他者と同じ景色を見ていても異質なものとして捉えている。
 私は、他者と世界を共有する事は出来ないのか、という問いを持ち考えています。
 例えば、お酒を飲める人であれば、お酒は自分自身の世界の中にありますが、飲めない人にとってはその世界の中にはありません。下手をすると毒にしかお酒は感じられません。僕自身飲めないから本当にそう感じています。
 ではどうすれば、他者と世界を共有する事が出きるのでしょう。
 他者すら自身の作っているものと理解し、また他者の全てを知る事が不可能だと、理解しなければならないのでしょうか。あいつはあんな奴だ、彼は、彼女は本当はあんな奴だ、と決めつけない事が重要だと思っています。
他者を自身の決めつけによって作る。これはどういった感情から生まれてくるのでしょうか?
自身を守るといった感情からだとおもいますが、他者の性格を決めつける事によって、自分自身の考えは正しい。としていると思われます。自分自身の考えだけに囚われているだけかもしれませんね。そうしなければ、自分自身が無くなるといった恐怖心にかられるのかもしれません。
他者との関係は非常に難しく、しかし生きていく上では絶対的に必要なものです。関わっていないつもりでも、電車に乗れば、車両を作った他者がいるわけで、関わっていると考えられるのではないかと。生きていくとは、他者との関わりを遮断することは不可能ということになるのでしょうね。
他者との関係は非常に難しく、いざこざも起こる。しかし他者との関わりを完全に遮断する事は不可能。ということは、人生は苦痛だけしかないのでしょうか?そうではないでしょうね。全ての問題を外の責任とするからでしょうね。自分自身は悪くない、下手をすれば悪くない、ではなく全く悪くないと決めつけている自分がいます。ここに苦しみの原因があるのでしょうね。
結局は自分自身だけの考えに囚われていないか?と問われているのでしょうね。僕自身も過去の経験から自身の考えに囚われていました。他者が僕自身を教えてくれていたのにそれを否定し、自身の考えに囚われていました。反省すべき事です。
人はどうしても過去に囚われてしまうのではないかと。過去の経験からしか物事は判断出来ないと思われます。知らないものは判断のしようがありません。
過去の経験から判断する。これが物であればまだ良いのかもしれません。しかしこれが他者を判断する場合、自身の過去の経験から他者の性格を作ってしまうのは危険な事でしょう。他者を自身の都合の良いように作ってしまい、自身の作った他者との違いがいざこざを起こすのでしょうね。
自身と他者だけの問題でおさまっていればまだよいのかもしれません。周囲の他者が入って来るとまた問題は大きくなるでしょう。何故ならいる人間の数だけ他者が作くられてしまうからです。しかし多数人間がいても二つの意見になります。善か悪か。です。中間は存在しないと思います。誰かを悪としなければならないのが自分の正体なのかもしれません。では誰が悪になるのか?です。
 自分自身を見ようとしない人間は、他者のせいにして、自身の全てを正当化します。少しでも批判されれば、他者を攻撃します。これは臆病という感情から起こってくるのではないかと思います。私自身がそうですが。
自分自身を見ようとしている人間は、外に原因があるのではなく、自分自身に原因があったのではないか?と考えると思われます。しかしこの考えも両刃の剣で、いつも他者のせいだった。と考える危険性があると思われます。自分自身を責めすぎると、自身に閉じ籠ってしまう危険性もあり、非常に難しい事と思われます。
最後に、人のご縁とは何か?自分自身を知らせてくれるのは他者しかいない、しかし他者すら自身の都合のよいように作っている。また、過去に拘りすぎて他者の言葉をちゃんと聞いているのか?また自分自身を守る為に、他者を犠牲にしてはいないか?を自分自身に問いたいと思います。
 他者を助けたい、悩んでいる人にサポートの手を差し伸べたい、この思いは、一番の自分勝手な感情なのかもしれないと感じます。助けて頂いてるのは自分自身なのに。です。」

 長文読ませていただきました。ありがとうございます。
 この文章は聞法の積み重ねの上での素直な気持ちを表現しているものと思いました。
 倫理的な側面が前面に出ていますが、大切なのは!何を鏡として自分を写し出しているのかです。
 唯識を学んでいただいて、具体的には他者が鏡になるということですね。
 例えば、他者を攻撃する、その気持ちはわかりますが、貴方の言われるように、他者は自分が作った影です。他者を見ているわけではありません。自分自身の心の影を見ているにすぎないのです。他者を攻撃しても、ブーメラン現象、自分が傷つくだけです。自傷行為ともいえます。
 自傷行為は、自分の都合が物差しになっています。なかなか見えてこないのですが、貴方の考え方の中にすり替えが伺えます。
それは、貴方自身がもうすでに気づいておられることかもしれません。私は、「あなた方のお陰で目が覚めました」という視線が必要だと思っています。それがほんとうの我愛ではないでしょうか。
又の投稿お待ちいたしております。南無阿弥陀仏
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阿頼耶識の存在論証 四食証(シジキショウ)(3) 段食にならないもの

2017-06-25 00:44:16 | 阿頼耶識の存在論証
  
 段食にならないものを説明します。
 「此に由って色処は、段食に摂めらるるものには非ず、変壊する時に、色は用無きを以ての故に。」(『論』第四・初右)
 段食の体は「変壊する時に食の事と為る」、この時に食物になるわけです。
 色処はもの、物質ですが、変化しないものは段食ではないと云っているのです。つまり、目の前にあるもの、米にしろ、野菜にしろ、飲み物にしても、口の中に入り、胃で消化されて初めて食物といわれるのです。
 これに由って色処は段食ではないのです。変壊する時に色処は用(働き)が無いからである、と。
 「用無きを以て」を『述記』は「変壊する時に能く資益(シヤク)を為すものには非ざるが故に」と釈しています。
 資益は、養い育てることです。
 その理由が、
 「変壊する時に色は自根に於て資益すること能はざるを以て、其の自根に於て既に資くる用無きを以て、余の根等に於ても作用無く資養せず等といへり。」(『述記』第四末・三右)と。
 変壊する時に、色処は自らの根、例えば眼根を資益がないからであると。他の根も同様である。
 つまり、諸根を資益するのは、香・味・触の三つが変壊する時に於てであるというのが大意になろうかと思います。
 またもう少しややこしい議論がでてきますが次回にします。

 

 
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阿頼耶識の存在論証 四食証(シジキショウ)(2) 段食の体

2017-06-22 21:33:54 | 阿頼耶識の存在論証
  
 段食(ダンジキ)の体について述べます。
 「一には段食、変壊(ヘンネ)するを以て相と為す。」(『論』第四・初右) 変壊は、本科段では、消化すること。消変(ショウヘン)と同じ意味になります。消化し変化することです。食物そのものは段食ではありません。食物が消化されて、栄養素となり、血となり肉と為ることを変壊という言い方をしています。段食は変壊することを以て相(体)となす食であるのです。
 「段食は変壊する時、若しくは受用(ジュユウ)する時、建立して食と為す。」と。
 初めに、食の相を述べます。
 段は「分段の義」と云われていますが、一つ一つ分けてくぎること。噛み砕くと云う意味になろうかと思います。
 次科段において説明されますが、香・味・触の三つが変壊することを以て相となす食であるということです。食の事ですね。それで食事と云うのです。
 『述記』には「分分にこれを受ける故に段食と名づく」と説明しています。
 香・味・触は段食ではなく、段物(ダンモツ)と云われるものですが、『瑜伽論』巻第六十六では、段物が食物となるのか否かが問題として提起されています。

 「謂く、欲界繋(ヨッカイケ)の香と味と触との三が変壊する時に於て、能く食の事と為る。」(『論』第四・初右)
 食事は、香境と味境と触境の三つが変壊する時によく、血肉となり、身を養い、心を養う食の事となるのである、と。変壊する時ですから、胃の中で完全に消化され、そして諸根を長養(チョウヨウ・養い生長させること。)し、喜受・楽受を生じて初めて段食と云われるのです。
 教証は、『瑜伽論』巻第六十六に由ります。
 「復次に、此の中段食は當に言うべし香味触の所摂なりと。何となれば香味触若し消変すれば便ち能く長養し、正しく消変せざれば乃ち損減(ソンゲン)を為すに由ればなり。色等の余法は長養し損減し消変することあること無し、是の故に彼を段食の性に非ずと説くなり。若しくは諸の段物は呑咽(ドンイン)する時に於いて心をして歓喜し、諸根を悦豫(エツヨ)せしむ。爾の時に當っては段食と名づけず。但だ触食(ソクジキ)と名づくるのみ。若し受用(ジュユウ)し已って安隠(アンノン)に消変すれば喜楽を増長す、消変する時に於いて乃ち段食と名づけ、若し熟変するとあるも諸根を長養し安楽にすること能わざれば、彼れ熟変すと雖も段食と名づけず。・・・」
 意味は読んでいただければお分かりになると思いますが、私達の普段の食事作法に言及されているものと思います。合掌して「いただきます」また合掌して「というごちそうさまでした」時にはじめて段食として、諸根を長養し、喜受楽受を生じてくるのであって、その事が伴うことが無ければ、本当の食事とはいわれないのだということでしょうね。そして、段食は欲界にのみ存在する在り方なのです。いわば手がかりです。三界を超える手がかりが食事作法において重要な意味を持つということなのだと思います。
 
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阿頼耶識の存在論証 四食証(シジキショウ) (2)

2017-06-19 20:55:41 | 阿頼耶識の存在論証
  
 『四食経』に説かれています「一切の有情は、皆食に依って住すという」のは、釈尊の成道にまつわるエピソードからの記述によるものと思われます。つまり、釈尊が五比丘と共に苦行をしていたことから離れて、スジャータの捧げる乳粥を食し、菩提を得たというエピソードにまつわる経典ですね。
 『釈尊の生涯と思想』(水野弘元著)によりますと、
 「釈尊は、これほどの苦行をしても、いっこうに効果が得られないので、身を苦しめることはけっして心の平安に導くものではないことをさとり、六年間も続けてきた苦行を、すっかりやめてしまった。
 骨と皮ばかりになった、弱った身体のあかを落とすために、付近の流れに入って身を清め、疲労のために、岸にあがることさえできないほどであったが、ようやく、木の根につかまって川を出て、村の若い女が捧げる乳粥をうけ、ようやく元気を回復するようになった。
 五人の従者は、かれらの期待にかかわらず、釈尊が苦行をやめて身を洗い、若い女から滋養分のある食事をうけられるのを見て、釈尊は、もはや堕落して、贅沢な生活に入ってしまったものと誤解し、これ以上、太子に従っていてもむだであると考えたが、釈迦國に帰るわけにもいかず、かれらだけで修行を続けるために、遠く西方ベナレス城外のミガダーヤ(鹿野苑)に去ってしまった。」
 蓬茨祖運師は『仏陀釈尊伝』において、
 「「いまや太子は、自己自身に道を見いだす以外にはないと、菩提樹のもとにすわった・・・」
 このいちだんは、今さらのように出るべき家は、出たと思っていたところにあったのではなく、自分自身が背負っているものであり、それで他の人に頼って道を求めても、その道は自分にとっての道ではなく、また苦行によっても見いだされるべきものではないということが明らかになったのであります。そして菩提樹のもとに座ったとありますが、菩提樹というのは、はじめから菩提樹という名前ではなくて、釈尊がさとりをえられたということにちなんで名づけられたものです。菩提樹はどこにはえていたか。それはわれわれの老病死にわずらい悩むしかない大地にはえていたという、そういう意味になります。インドのブッダガヤに行きますと、今でも釈尊が正覚をとられた樹だといって、菩提樹があるそうですが、なにも菩提樹というのは、そういう樹のことではないのであります。
 われわれは、菩提樹を生みだすべき大地としての身をもっているのであります。われわれは、偶然この世に生まれてきた。そしてなにかのことがらびよって死んでしまうような頼りないものとして考えらるけれども、しかし菩提樹を生みだすべき大地という意味があります。こういうことが釈尊が仏陀となられた意味にあるわけです。 
 菩提ということばは梵語ですが、漢字に翻訳すると、簡単には道と翻訳してあります。道とはどんな道であるかというと、煩悩を滅する道。一般には欲望というだけでは煩悩の意味がたらない。わずらい、悩みという意味が特別に教えられるのが仏陀の教えでありますから、われわれが欲望という場合、それを煩悩というのであります。したがって欲望というものは、満足できるものだと普通考えられています。またときにわれわれは満足を感ずることがあります。しかしこれも満足したと思うだけで、本当の満足にはほど遠いわけです。しかし本当の満足がわからないから、一時的に満ち足りた思いがおこったときに満足だと思うのです。しかし満足してからどうするかとなると、ここで元気をだして一踏ん張りとまた煩悶をはじめるのであります。それがわれわれのわかる範囲の満足であります。
 それで仏陀のおっしゃた満足がそういう意味の満足ならいくらでもあるわけです。しかしそれは不満に反対の満足であります。満足したとき、また次の不満へ進まなければ満足ということに意味がない。また不満の方へ進めなくなったら、満足も満足でないわけです。それは末期の水になるわけです。もう満足したといって、それでイキがきれるのでは末期の水です。
 ですからそこに仏陀は、いわゆる煩悩をのがれようとして道をもとめておられたが、これをのがれた道は道ではなかったということに気づかれということがあります。そこで煩悩そのまま菩提と、即の字がつきます。煩悩即菩提。これは熟語であります。仏教というものの一番簡単明瞭で、意味が深くてむずかしいけれどもいいつくされている言葉であります。煩悩即菩提ということばは、ちょっとやそっとではわかりませんけれども、これをもとにしてできたのが仏陀であります。そこで今ここで菩提樹ものとに坐ったというが、菩提樹の下になにがあったのかというと、煩悶、煩悩であります。菩提樹の根は煩悩であります。どしっと煩悩に坐ったといってもいいのです。私たちは、はじめは釈尊が樹の根っこに坐られたのだと、そこならが日があたっても涼しいと、しかし雷がおちたらたいへんだなとよけいな心配をしたりします。人間とは妙なものです。そころが釈尊が坐られた菩提樹なんてあったやら、なかったやら本当はわからないのですが、それが今ブッダガヤに、これが釈尊が樹の子孫なのだということが書いてあります。。そんな写真を見たことがあります。今日われわれはそういう意味で菩提樹を考えております。
 しかし、菩提樹の根は煩悩であります。菩提樹という意味は、大地に樹がはえている。樹が菩提樹と名づけられたときには、そのはえている大地は煩悩であります。つまりわれわれが日夜煩悶している世界であるということです。その意味で、次にわれわれが日夜煩悶している世界を描写してあるわけです。
 内観というのは、今までは道を、悩みというものの外に、悩みというものからでてさがしていたということです。今は悩みというものをはなれないでみなければならない。だからじっくりと見のがさないようにして自分の悩みそのものをよく明らかにみつめなければならないという意味で内観という文字をもちいるのであります。ところがそれを妨げてくるものがあります。それは普通なら想い出せないのです。ところが自分のそういうことを見ようとすると、見せまいというように動いてくるということです。それが世俗の欲望であります。それは釈尊がかって王宮にいたときに眼を楽しますために美女を集めてうたをうたわせたり、舞いをまわせたりした昔のそういうことが想い出されてくる。これは決して嫌なものではないです。やはり人間としての欲望であります。」と、読まれています。
 釈尊が菩提を得るについて「内観」という眼差しが五比丘には見えなかったのですね。
 釈尊が乳粥を食せられたことに、食の意味が、身と心を養うという意味が込められていることを教えられます。
 「謂く、契経に説ける食に四種有り。」(『論』第四・初右)
 此の一段は総標を表しています。『四食経』には食には四種あることを明らかにしているのです。
 四食の一つめは段食です。又にします。
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阿頼耶識の存在論証 四食証(シジキショウ) (1)

2017-06-17 09:26:59 | 阿頼耶識の存在論証
 
 「教をもって教を成じ教によって理を成ずる。理をもって理を成じ理によって教を成ず。」(『成唯識論述記』)
 「「経と言うは経なり。経能く緯を持ちて疋丈を成ずることを得て其の丈用有り。経能く法を持ちて理事相応し定散機に随いて零落せず。能く修趣の者をして必ず教行の縁因に籍りて願に乗じて往生して彼の無為の法楽を証せしむ。」(『観経四帖疏』・玄義分) (経は経糸と横糸を織りあい反物を完成させるはたらきをもっている。経はよく法を保ち、教えに説かれて法とが相離れることなく、経は各々の機に随って摂めとり、取りこぼすということが無い。よく仏道を修め歩む者をして必ず教行の縁因に依って、阿弥陀仏の大願業力の働きに乗じて浄土の覚りを開き無為の大楽を証することができるのである。)

 今日から四食証を全文読んでみたいと思います。『成唯識論』巻第四冒頭から始まります。
 四食証は十理証の第八理証になります。概略については述べていますので、重複する所がありますが、復習として学んでいきたいと思います。
 何故四食証が第八識の存在論証になるのかといいますと、四食の中に識食(シキギキ)が説かれていることからに由ります。冒頭から説かれてきます。
 「又、契経に説かく、一切の有情は、皆食に依って住するという。若し此の識無くんば、彼の識食の体有る応からざるが故に。」(『論』第四・初右) 契経は『四食経』を指すと云われていますが、「一切の有情は、皆食に依って住す」と。私たちの、いのちの相続は食によって保たれているのですが、食はただ単に食物ではなく、食することに大事な意味があるのだと教えています。
 (また、あらゆる経論に「一切の有情は、皆食に依って住するという」と説かれている。もしこの第八識が無いのであれば、この識食の体は無いであろう。)
  四食は段食(ダンジキ)・ 触食(ソクジキ)・意思食(イシジキ)・識食の四つの食を云います。
 私たちは食事(ショクジ)と言っていますが、仏教はジキジと読ませ、飲食(インショク)もオンジキと読んでいます。養う・育てるという意味が込められているのですね。
 私たちの普段の食事は仏教では段食といいます。食べ物や飲料のことですが、仏教は有情が生存するためには段食だけではなく、触食・意思食・識食の合計四つの四食によって生存を保っていると説きます。識食は第八識を指しますが、諸経論に四食によって有情の身命は保たれていると説いていることから、若し第八識がなかったならば識食は存在しないことに成り、そこに矛盾をきたします。つまり、有情は生存できなくなるのです。ここが論証の核心になるのではないかと思います。
 キリスト教で言えば、「人はパンのみにて生きるに非ず」でしょうが、ここには二つの意味がありますね。
 「イエス・キリストが語った「人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる。(マタイによる福音書4・4)」と。
人が生きるのは、物質的なものだけによるのではない。人は神の御言葉に養われて、初めて本当の意味で生きることができる、というのがこの聖句の意味であり、私たちが聖書の御言葉に養われるべきことを言ったものなのでしょう。
 意味的には相通ずるところがあるように思います。
 身命を生長し資養し破壊せしめないのは、ただ食物のみによってではないということが先達の教えから窺い知れるところです。
 少しづつ読んでいきます。
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阿頼耶識の存在論証 五教十理証について (82) 雑染と清浄(3)

2017-06-09 20:18:01 | 阿頼耶識の存在論証
 
 今日は、清浄法についての『論』の記述を読みます。
 清浄法に三ありと述べられます。
 「諸の清浄の法にも亦三種有り、世(セ)と出世(シュッセ)との道(ドウ)と断果(ダンカ)と別なるが故に。」(『論』第四・十左)
         世の道
  清浄法 {  出世道の道  } 三つの種類の別がある。
         断果
 「有漏の六行を世道と名づけ、無漏の能治を出世道と名づけ、所得の無為を断果と名づけ、断は是れ果なり。」(『述記』第四本・四十一左)
 六行観については、第三能変上下相起門に詳細が述べられています。(2014年10月15日以降を参照してください。)
 ちょっと復習の意味で転載します。
 
 「三界分別門のその二、上下相起門に於いて、
 「下地(ゲチ)に生在(ショウザイ)して未だ下(ゲ)の染(ゼン)を離れざるときには、上地(ジョウチ)の煩悩を現在前せず、要ず彼の地(ジ)の根本定(コンポンジョウ)を得たる者のみ彼の地の煩悩をば現前す容きが故に。」(『論』第六・二十右)
 下地とは欲界のことですが、生きとし生ける者(有情)が欲界に在って、未だ欲界の染(欲望・執着)を離れない時には、上地(色界)の煩悩を現在前することは無い。
 かならず、その地の根本定を得た者のみ。その地の煩悩を現在前させるからである。

    下地 → 上地へ
           (未至定) = 上地の煩悩は現れない。

 下地から上地へと歩を進める中で、下地の煩悩を離れていない時は、上地の未至定に入っているけれども、その地の根本定を得ているのではないので、上地の煩悩は現れないのである。即ち、下地の煩悩を離れて初めて上地の煩悩が現れるのである、と説明されています。
 欲界では十の煩悩はすべて整っているといわれていますが、特に瞋ですね。この煩悩は欲界のみに存在するといわれています。このことから察するに、欲界に在っては、瞋を除いて九の煩悩の分別起は不善であるが、倶生起は有覆無記であるという、そして上地に在っては分別起・倶生起を問わず、有覆無記が上地の煩悩ということになりますね。
 そうしますと、問題は瞋という煩悩から離れることは出来るのかということです。「いかり、はらだち、臨終の一念にいたるまでたえず、きえず」という自己の問題は、私たちは欲界から出ることは出来ないという自覚になるのではと思うのですが。欲界にのみ存在する瞋はただ不善であることは、救われる手がかりがないということになります。まあ甘い夢を見るなということでしょうね。しっかりと脚下を見よということになるのでしょう。聞法はこれしかないんだという目覚めだと思うんです。もったいない人生を生かさせていただいているんだな、という驚きと感謝の念が、瞋を縁として聞法に向かわせる道が開かれてくるということになるんではないでしょうかね。
 救われるべき縁の喪失が、すくわれる縁となるという大悲心なのでしょうか。
 上の煩悩とありますが、色界・無色界は「定に伏せらるる」といわれていますように、上二界の煩悩は分別起・倶生起を問わず無記であるということ。
 欲界は、欲望の世界、五欲が満ち溢れている世界ですが、そういう世界が有るわけではありませんね。心の影像、相分、自らが、自らの心の状態を外に投げ出したものなのでしょう。
 欲界のものは、分別起は不善である。倶生起のものには、悪業を發するものと、發しないものがある。ここですね、悪業を發するものは不善として働く。しかし、欲界に在っても、悪業を發しないものは有覆無記として働く、上の未至定とは一面上地に触れているが欲界の煩悩を離れていないから、上地の煩悩は生じないというわけです。
 しかし、次科段では、下地にいる者が倶生起の粗い煩悩を伏して上地の根本定を証得しうることができるのであるのかを説いています。
 「諸の有漏道は分別起の惑と及び細なる倶生とをば伏すること能わずと雖も、而も能く倶生の麤き惑を伏除(ブクジョ)して漸次(ゼンジ)に上(ジョウ)の根本定を証得(ショウトク)す。」(『論』第六・二十右)
 諸々の有漏道(「此は修を伏することを顕す」六行智=六行観)は、分別起の惑と及び細かい倶生起の惑は伏することはできないとはいえ、よく倶生起の麤なる惑を伏除して漸次に上の根本定を証得するのである。
 •六行智(ロクギョウチ) - 六行観ともいう。「下地は麁(そ)・苦(く)・障(しょう)、上地は浄(じょう)・妙(みょう)・離(り)の六行観を以て生ずるなり。」という六つの認識のありかた。下地・上地の有漏法を観察して、漸次に八地・七十二品の修惑を断じて智慧を得ていく修行法をいう。
 即ち、下地を麁(そ)・苦(く)・障(しょう)であると観じてこれを厭離し、上地を静(じょう)・妙(みょう)・離(り)であると観じてこれを欣求し、厭離と欣求の力に由って下地の煩悩を伏していくものであると云える。また、六行智による修行の道は、煩悩が有る修行の道であると云われ、有漏道といわれ、分別起の惑と、及び細かい倶生の惑とを伏することはできないが、麤い倶生の惑を伏除することができる段階とされます。これはただ事観であるので、迷理の惑を伏することはできず、迷理の惑は無漏道によって伏されると云われます。
 麤とは「身・辺見と及び此と相応するを除くなり」と。分別起の煩悩と細かい倶生起の身見(薩迦耶見)と辺執見とこれらと相応する煩悩は伏除することはできないと云っているのです。いえば、倶生起の麤い煩悩は漸次に(次第次第に階段を上るように)伏除することができ、次第次第に上地の根本定を証得することができるということを説いているのです。」

 世道とは有漏の六行観を指します。傍線の部分です。欲界を麁(そ)である・苦(く)である・障(しょう)であると観想し、色界以上は浄である・妙である・離であると観想し、この定によって上界に生まれるとされますが、娑婆を厭離し、浄土を欣求するのが世の道であると諭しているのですね。聞法ですね、聞法は無漏道とはいえないかもしれませんが、無漏に一分は触れていますね。そこには分別を超えた働きが動いているのでしょう。欲にまみれて生活をするのではなく、欲をご縁として仏道に触れていく、これが世の道と云われているのです。

 法は無漏ですが、自分の都合で聴いているんです。それでいいんだと思いますが、やがて都合が破られてくる、そこが大事なところですね。
 
 出世道とは無漏の根本智と後得智を指します。
 断果は無為ですね。
 無為を覆っているのが煩悩です。自分の都合に応じて顕れてきます。その煩悩を断じた結果を断果と言い表しています。
 次に、第八識が存在しないのであれば世道と出世道と断果の三つの清浄法も存在し得ないことを論証してきますが、ここで十理証の概略は述べ終ったことにしておきます。次回より十理証の中でも大事な四食証について詳細を考察したいと思います。
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阿頼耶識の存在論証 五教十理証について (81) 雑染と清浄(2)

2017-06-05 21:13:47 | 阿頼耶識の存在論証

 清浄法について述べる前に、復習になりますが、「心性本浄」(心性は本より浄なれども)の解釈について、もう一度読んでみたいと思います。『選注』ですとp34です。
 護法合生義が述べられ、本有説並びに新熏説を破斥しました後に、分別論者を破す一段が設けられていまるのですが、ここに「心性本浄」の意味が明らかにされています。
 「分別論者は、是の説を作(ナ)して心性(シンショウ)は本(モト)より浄なれども、客塵煩悩(キャクジンボンノウ)に染汚(ゼンマ)せらるるが故に名けて雑染(ゾウゼン)と為し、煩悩を離るる時に転じて無漏と成る。故に無漏法は無因生に非ずと云うと雖も、」
 分別論者(部派の人々)の説というのは、後に『勝鬘経』に「心性浄と説けるは」という文章が引用されていますので、如来蔵思想を指すのではないかと思われます。尚『大乗起心論』も「心性浄」と説きます。如来蔵思想はまた部派(小乗)仏教の大衆部にある客塵煩悩(agantuka klesa)の考え方が影響していると思われ、煩悩は心に本来からそなわったものでなく、もともと心は浄く、煩悩が塵のように付着したにすぎないものであり、客塵煩悩に染汚されて、雑染となっているのだ、という説です。
 
 「世尊、如来蔵とは、是れ法界蔵なり、法身蔵なり、出世間上上蔵なり、自性清浄蔵なり。此の性清浄の如来蔵にして客塵煩悩・飢え煩悩に染せ所たるは、不思議の如来の境界なり。・・・・。二法有りて、了知す可きこと難し。謂く、自性清浄心は了知す可きこと難し。彼の心の煩悩の為に染せ所ることも亦た了知し難し。此の如き二法は、汝と及び大法を成就せる菩薩摩訶薩とのみ乃ち能く聴受す」(『勝鬘経』)

 唯識では、心性清浄及び客塵煩悩は認めていません。二つの理由を以て批判します。

 一つは、空理非因の難。「而も心性という言は、彼何の義をか説く。」
 一つは、起心非浄の難。「若し即ち心を説くといはば、数論の相は転変すと雖も而も体は常・一なりというに同じぬべし。」

 ここは非常に難解ですね。鍵はですね、無記性であるということです。阿頼耶識は無覆無記であるという、染でもなければ、浄でもないということです。無色透明であるのが人間の根本のところにある心であるというのが唯識の主張になります。因是善悪果無記、心自体は無記であるということを現わしています。

 空理非因の難では、空理は無為真如ですから因果関係は成り立たない、常法ですから、因と為り果と為ることはありません。空理を以て種子とすることは出来ないといっているのです。
論主の自解は、
 第一解は、識の実性に約して釈す。 
 第二解は、依他起に約して釈す。

 第一解
 「然も契経(カイキョウ)に心性浄と説けるは、心の空理に顕は所(サル)真如を説くなり。真如は是れ心が真実の性なるが故に。」
 「心性浄」と説かれている本来の意味は、「心の空理に顕さるる真如を」説くのである、と。
 心性浄とは、空理所顕の真如(空理そのものではなく、空の理に現される真如)であり、分別論者の、空理そのものという主張は誤っていると指摘します。
 「契経に説かく」、『勝鬘経』が述べている所は、心性浄とは、空理に顕された真如のことをいっているのである、と。心が実体的に存在するものではなく、因縁によって起こってくるもの、心は、因縁性である故に空であるということになります。心は有るけれども空である。
 唯識の主張は、心は空である、ということを認めながら、空である心は有るのではないか、と云います。現実に心は動いている、喜怒哀楽する心の動きがあるけれども、動きそのものが空なんだと言うわけなんですね。真如を背景として動いている心は有るけれども、本来空であるということでしょう。心を実体化しない。執着しない。心は有るけれども、空である、因縁所生のものである、ということを言いたいのでしょうね。心は空であると言ってしまえば、心は無いんだということになってしまい、ニヒルに陥ってしまいます。これが空理所顕の真如として現されています。
 第二解、「依他起に約して釈す」
 空理所顕の真如ですが、真如はもとより無相ですから、識には認識されません。認識するということは、相が有るということになりますから、相に対して、真実そのものを性といいます。『論』には「心が性なるが故に」。真如は本来自性清浄なのですね。真如は言説を離れていますから、本来なら、言葉では言い表すことが出来ない性質のものです。言説を持ったときには、迷いの言葉を仮りて真実を指し示すということになるんでしょう。本願・念仏もですね、本来自性清浄の真如そのもの、自然法爾で、言葉もたえたものですね。
 「法性すなわち法身なり。法身は、いろもなし、かたちもましまさず。しかれば、こころもおよばれず。ことばもたえたり。」(『唯信鈔文意』真聖p554)
 本願・念仏という言葉も、一如法界等流の法ですね。私有化できる性格のものではありません。執着を起こしても執着されるようなものではないのですね。自己自身もですね、本願念仏に於いてある存在といえましょう。生きていることは、とりもなおさず本願念仏と倶に生きているのでしょう。
 「或は説く、心体煩悩に非ざるが故に性本浄と名づけたり。」
 第二解は「心体煩悩に非ず」。心の体そのものは煩悩ではない、無記性である、と。無記性であるが故に、果は無記ですから、現行されたものは純粋培養で、何色にも染められる要素をもっているわけです。真っ白の布は何色にも染められますのと一緒ですね。現行されている心は無記性でありますが、瞬時に煩悩に染汚され苦悩する現実が有るわけです。それを有漏心と名づけています。
 「有漏心の性是れ無漏なるが故に本浄と名づくるには非ず。」
 この有漏心を、その性が無漏であるとして本浄と名づけるのではない。有漏心は真如において有るものではあるが、真如そのものではないということを言っています。真如が有漏心を見出し、その有漏心が真如に触れる縁となるものでしょうね。真如によって見出された有漏が、有漏を縁として真如に触れることができる、ここが大変大事なところだと思います。
 本願念仏に於いてある自己存在が、虚仮不実と見出されたわけですね。それが反って虚仮不実を手掛かりに本願念仏に目覚めていくわけです。未来永劫に助かる縁は無いと言う自覚のもとに、ですね。
 今日は復習だけにしておきます。
 明日は、
 「諸の清浄法にも三種有り、世と出世との道と断果と別なるが故に」(『論』第四・十左)
 一に世道(有漏の六行)
 二に出世道(無漏の能治)
 三に断果(所得の無為)
 について学びます。
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