唯識に学ぶ・誓喚の折々の記

私は、私の幸せを求めて、何故苦悩するのでしょうか。私の心の奥深くに潜む明と闇を読み解きたいと思っています。

第三能変 煩悩の心所 諸門分別 (36) 諸識相応門 (2)   

2014-08-13 10:36:30 | 第三能変 諸門分別 諸識相応門

 以前の投稿と重なりますが、「末那には四有り」といわれています。四とは我癡・我見・我慢・我愛。末那識は此の心所と共に働くのです。いわゆる我執です。自己執着心ですね。これが微細に働くといわれているのです。これが倶生起だと。そして第六意識と共に働く十の煩悩は荒々しく働く、これが分別起、此の十の煩悩がもう一度我執という根本煩悩に染汚されて、気づかれないように微細に恒にですね、寝ても覚めても間断なく働き続けるのです。第六意識は有間断です。寝ている時には働かないのですね。意識に上に働く煩悩はある程度は自覚できるのでしょうが、末那識相応の煩悩は自覚不能です。自覚したその足元に我執がはたらいていますからね。自覚もまた我執なのです。いわば「自己中だな」と思う心が自己中なのです。この心をはっきりと第二能変として独立させたのが世親の『唯識三十頌』なのですね。そして第七識であると位置づけたのが『成唯識論』であるわけです。「是の識をば聖教に別に末那と名く。恒に審らかに思量すること余の識に勝れたるが故に」といわれています。恒審思量がこの識の性であり相でもあるわけです。私には気づかない心の深いところで自己を思い続けるエゴイズム性、恒に(ぴんと張りつめてたるまない心)審らかに(細かいところまで明らかにする心)自分にとって何が利益になるのかを思い量っているのが末那識といわれるのです。後に詳しく考察していきたいと思っています。ここではこの末那識から煩悩が働くのであるということをいっています。「蔵識には全に無し」といわれますから、命の無記性の上に私たちは我執の心を働かせているのです。『法相ニ巻鈔」にこのような言葉が語られてありました。「今此の煩悩・随煩悩は其の性必ず染汚(ぜんま)也。染汚と云うは、不善と有覆となり。不善と云うは悪なり。有覆と云うは、悪までは無けれ共、濁れる心なり。此のニの性は皆、穢らはしき心あるが故に染汚性の法と名づく」と。煩悩・随煩悩の性は「けがれ」ているということです。心を穢し濁すことであると。そしてその元にあるのが我執なのです。我執は無いにも拘わらず有ると思う思いが有る。有ると考えるから我執というのです。有ると思う想いを見というのですね。悪見です。何故このようになるのかと言いますと、私たちは無始以来本当の自己に出遇っていないのですね。真の自己を知らないから自己の思いを自己だと錯覚しているのです。これが我執であり我見なのでしょう。所依が我癡、自己に対しての無明ですね。こういうのを顛倒(てんどう)というのでしょう。

 

 親鸞聖人の罪の捉え方は徹底した罪の自覚です。「蛇蠍姧詐(じゃかつかんさ)の心にて」「悪性さらにやめがたし」「無慚無愧のこの身にて」と、無知を知ったらどうにかなるというような質ではなく、もうどうにもならないというような「無有出離之縁」という自覚ですね。

 

 この自覚が明るいんですね。暗さは微塵もありません。自覚の裏打ちが、康元二歳、親鸞聖人八十二歳の御時の二月九日夜の寅時夢告云の御和讃によく表れています。

 

          弥陀の本願信ずべし
            本願信ずるひとはみな
            摂取不捨の利益にて
            無上覚をばさとるなり

 

 その後の御歳八十八歳に書き記されました御和讃『正像末和讃』ですが、悲嘆と法悦のハーモニーが織りなす信心の世界が見事に表現されています。 

 

語註ー 蛇蠍姧詐(毒をもった蛇や蠍のようなもので、わるがしこく、いつわりだけの心しか持っていない自分であるという意)

 次科段は、第四に諸受相応門が説かれます。

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第三能変 煩悩の心所 諸門分別 (35) 諸識相応門 (1)

2014-08-12 23:42:49 | 第三能変 諸門分別 諸識相応門

 答え

 「蔵識には全(スベテ)に無し、末那もは四有り、意識には十ながらを具す、五識には唯三のみあり、謂く貪と瞋と癡とぞ、分別無きが故に、称量するが等きに由って慢等を起こすが故に。」(『論』第六・十八右)

  •  称量(ショウリョウ) - 量り知ること。熟考することで慢の働きを示している。思惟・称量・観察という表現のなかで用いられること場合が多い。
  •  称量等 - 量り知ることの他に「猶予して簡択すること」(疑の働き)と「推求すること」(五見の働き)をも含めている。
  •  慢等 - 慢・疑・五見を指す。

 蔵識(阿頼耶識)には、この十煩悩はすべて存在しない。末那識には四つの煩悩が存在する。即ち、我癡・我見・我慢・我愛であり、これらの煩悩は倶生起のものである。意識には十の煩悩すべてが存在する。五識には、唯三のみが存在する、つまり貪欲・瞋恚・愚癡である。何故ならば、五識には分別する作用が無いからである。称量等という、慢・疑・五見は必ず分別(随念分別と計度分別)によって生起する煩悩である。つまり、分別する作用の無い五識には慢・疑・五見は存在しないということである。

 蔵識(阿頼耶識)には - 煩悩は存在しない。阿頼耶識に存在するのは五遍行のみである。但し、現行熏種子という、所蔵という意味に於いて煩悩の種子は蔵される。七転識によって蔵される、阿頼耶識そのものには蔵するという働きは有りません、阿頼耶識は無色透明なんですね。

 末那識には - 四煩悩が存在(相応)する。

 第六意識には - 十煩悩すべてが存在(相応)する。

 前五識には - 貪欲・瞋恚・愚癡の三毒の煩悩のみが相応する。

 「 論。藏識全無至起慢等故 述曰。第七・八識如前已説。意識並有。五識但三。以無分別故無慢等。慢等必由有隨念・計度分別生故。又由慢於稱量門起方勝負故。疑猶豫簡擇門起。見推求門起。故非五識。故五識無此等行相。故對法第七。説稱量等門。即等猶豫門等也。」(『述記』第六末・三十八右。大正43・451b) 

 (「述して曰く。第七・八識は前に已に説くが如し。意識には並びに有り、五識には但三のみあり、無分別なるを以ての故に、慢等は無し。慢等は必ず随念と計度との分別有るに由って生ずるが故に。又慢は称量門に於て起ち、勝負を方するに由るが故に。疑は猶予して簡択する門に起るが故に。見は推求する門に起るが故に。五識に非ざるが故に。五識にはこれ等の行相無きが故に。対法の第七には称量等の門を説けり。即ち猶予門等と等ずるなり。」)

 阿頼耶識と前五識は無分別の識、末那と第六識は分別の識であるということですね。

 『安田理深選集』より(第三巻p405)

 「慢は称量というが、これは比較すること、他に対して自己をたかめる作用である。疑は広い意味では猶予である。猶予して簡択することから、疑は慧を体とするという論家もある。猶予とは、あれかこれか決まらぬことである。決定させるのが慧であるが、慧を決定させぬようにしているのが猶予である。疑と慧とは恒に深い関係がある。慧を決定せしめないようにしているのが疑である。であるから疑は必ずしも慧ではないというのである。いずれにしても、称量・猶予・推求というものは第六意識の世界にあることで無分別の世界では考えられない。こういうことから、無分別の五識に、これらは相応することはできないのである。」

 迷っているというのは決まらない。歩むべき道が定まらないということなのですが、これが疑の内実なのですね。猶予だというのです。猶予というのは疑っている、決まらんということですね。そこで問題となることは疑は慧を体とするということです。疑は不決定、慧は決定これは矛盾する概念ですが、ここに深い意味が有るんでしょうね。慧に迷っていると云うのかですね、慧を覆っているのが疑というわけでしょう。これが我執の正体なのでしょう。我執を依とする限りですね、疑は付き纏うということですね。道が定まらないということは、自分がわからない、迷っていることは、疑というレッテルを貼って歩いているようなものです。これでは自信がもてないでしょうね。どうあってもいいんですね、この道一つ、ただ念仏。でしょう。

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