唯識に学ぶ・誓喚の折々の記

私は、私の幸せを求めて、何故苦悩するのでしょうか。私の心の奥深くに潜む明と闇を読み解きたいと思っています。

唯識入門(35)

2020-08-09 16:52:17 | 『成唯識論』に学ぶ
 唯識入門も今回が35回目の投稿になります。論書である『成唯識論』をベースに読ませていただいてますので、幾分難解さもあろうかと思います。原典を鏡として、私たちの日常の生活の在り方を問い、いのちは何を求めているのかを明らかにしたいという思いがあって、今回の行相・所縁において、いのちは何を対象として動いているのかを考えています。
 最初に原典を載せておきます。幾度となく音読していきますと、言葉の響きが伝わってくるように思います。
 「「此識行相所縁云何。謂不可知執受處了。了謂了別。即是行相。識以了別爲行相故處謂處所。即器世間。是諸有情所依處故。執受有二。謂諸種子及有根身。諸種子者謂諸相名分別習氣。有根身者謂諸色根及根依處。此二皆是識所執受。攝爲自體同安危故。執受及處倶是所縁。阿頼耶識因縁力故自體生時。内變爲種及有根身。外變爲器。即以所變爲自所縁。行相仗之而得起故。」(『成唯識論』巻第二・二十五左。大正蔵経31・10a11~a20)(選註P39・10行目~P40・2行目)
 (「この識(しき)の行相(ぎょうそう)と所縁(しょえん)云何(いかん)。謂く不可知(ふかち)の執受(しゅうじゅ)と處(しょ)と了(りょう)となり。了と云うは了別(りょうべつ)。即ち是れ行相なり。識は了別を以て行相と為すが故に。處と云うは謂く處所(しょしょ)。即ち器世間(きせけん)なり。是れ諸の有情(うじょう)の根依處(こんえしょ)なるが故に。執受に二有り。謂く諸の種子(しゅうじ)と及び有根身(うこんじん)となり。諸の種子とは、謂く諸の相(そう)と名(みょう)と分別(ふんべつ)の習気(じっけ)なり。有根身とは、謂く諸の色根(しきこん)と及び根依處となり。此の二は皆是れ識に執受せられ摂して自体と為して安・危を同ずるが故に。執受と及び處とは倶に是れ所縁なり。阿頼耶識は、因と縁との力の故に自体の生ずる時に、内に種と及び有根身とを変為(へんい)し外に器を変為す。即ち所変を以て自の所縁と為す。行相は之に杖(じょう)して起こることを得るが故に。」)
 和訳
 この第八識の行相(すがた)と所縁(対象)とはどのようなものであるのか。
 それは不可知の執受(種子と有根身)と処と了とである。
 了とは、行相である。認識主体として、対象をみきわめる働きであるから。
 処(場所)とは、器世間(ものの世界)である。すべての生きとし生けるものの、存在の依り所である。
 執受(有機的・生理的に維持されること。或いは維持されるもの。苦楽の感受作用を生じるもの。ものを生じる可能性)とは、これに二つある。
 ①諸々の種子と、②有根身(身体)である。
 ①諸々の種子とは、相(相分・対象)と名(対象のすがた)と分別(思考)との習気(阿頼耶識のなかにある種子の別名。様々な行為の結果として阿頼耶識に熏習されたということから習気という。)である。
 ②有根身とは、諸々の色根(五つの感覚器官・五感。勝義根のこと。)と根依処(五感の依り所。扶塵根。)である。
 この二、つまり種子と有根身とは、第八識に対象として認識され、五感覚の源泉とされ、阿頼耶識に摂められ、識自体とされる。阿頼耶識と一心同体になって、安全な時も危急の時も存亡をともにするのである。
 そして、種子と有根身と及び処とは、第八識の所縁、対象となる。阿頼耶識は、因と縁との力に依って生ずるのであるが、阿頼耶識が変化して内的には種子と有根身とを作り出し、外的には器世間を作り出す働きを持つ。
 すなわち、阿頼耶識が変化したもの(所変)をもって自らの所縁としているのである。阿頼耶識の行相、働きはこれに依って生起するのである。
 私たちの日常の認識では、外界に物が有って、認識を起こすと云う、外界と私という分別をベースとして認識し判断を下しているのですが、唯識は「ちょっと待って、本当にそうですか」と疑問を呈しているのです。それはですね、私達には自証分が不明瞭なんですね。不明瞭である為に、見るもの(能縁)も体であり、見られるもの(所縁)も体であるという実体化が起るのです。唯識は、能縁・所縁は所変であり、能変は自体分であると明らかにしたのです。能変が変異したもの、それが見・相二分である、と。認識作用も、認識される対象も阿頼耶識が変化しとものなのです。
 すべてを受けとめて安危共同(あんぎぐうどう)である。覚受(身体が苦楽などを感ずること。)がないと死に体ということになり、覚受が有ることが、生きているという働きの一面になりますね。 阿頼耶識は、いつでも、いかなる時でも、どんな境遇であっても私と共に生きつづけている。「摂自体」これが自分であると摂して、安危を共同している種子と有根身と阿頼耶識が一体となって、私という、一人の人間が動いていく、どんな時でも一緒やで、というのが阿頼耶識なんですね。
 楽な時、順境の時は問題なく過ごせるわけですが、苦悩という逆境の時は、意識は逃げたい逃げたいと思うわけです。しかし、阿頼耶識はすべてを引き受けているんですね。身はすべてを受け入れているということになりましょうか。為したことは種子として阿頼耶識は受け入れ、受け入れられ種子は現行として身は引き受けている。内に種子と有根身(有情世間)、外に器界(器世間)を変現して阿頼耶識は働いている。大切な教えだと思います。

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