唯識に学ぶ・誓喚の折々の記

私は、私の幸せを求めて、何故苦悩するのでしょうか。私の心の奥深くに潜む明と闇を読み解きたいと思っています。

「唯有識無外境」、果たして三界は唯心か? (78)九難義 (18) 唯識成空の難 (11)

2016-08-31 23:21:57 | 『成唯識論』に学ぶ
  
 朝夕めっきり涼しくなりました。いよいよ明日から九月度に入ります。講座日程です。
 9月11日(日) 千林大宮 正厳寺 午後3時より5時半 『唯識論』講義 初能変 伏断位次門 聴講料 無料
 9月14日(水) 八尾市本町 聞成坊 午後2時より5時半 『唯識論』講義 初能変 三性分別門 聴講料 1000円
 9月25日(日) 鴫野 カフェマロカレ法話会 講師 菊池光高(高円)師 午後2時より~(要予約)1500円
 他、姫路船場御坊にて 梶原敬一師の真宗カウンセリング。聞成坊にて 高柳正裕師『往生礼讃』講義 日程未定

  ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
 「是の故に我見は、実我をば縁ぜず。但だ内識が変現せる諸蘊を縁じて、自の妄情に随って種種に計度す。」(『論』第一・六左)
 (このように、我見であっても、それは実我を縁じているのではなく、ただ内識の変現した諸蘊を縁じているのであり、我を縁じているのではなく、ただ我執の妄情に随ってさまざまに分別を起して「我」と思っているに過ぎないのです。)
 
 「是の故に我執は、皆無常の五取蘊(ゴシュウン)の相を縁じて、妄(アヤマ)って執して我と為す。然も諸蘊の相は、縁より生ずるが故に、是れ幻の如くにして有り。妄所執の我は、横(ホシイママ)に計度(ケタク)せるが故に、決定(ケツジョウ)して有に非ず。」(『論』第一・七左)
 (我執は無常の五取蘊(有為法)の相を縁じている(思うとおりにならない事実が有る)。にもかかわらず、自の妄情に随って五蘊と見ず、常一主宰の我(思うとおりになる)と執着している。しかも影像相分は、識体転じて二分に似る相であり、依他起性の法である。つまり、縁起の法であり有であるけれども、この有は幻のようにして有である。捉えようのないものであるが、妄所執の我は、妄分別によって、ありのままを見ずに、ほしいままに分別して、それを常住不変の「我」と誤り執するのです。この我は決定して有ではない、全く無であるもの、つまり、遍計所執性なのです。
  ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
 上記の結語は、犢子部の我論及び数論・勝論の我論に対する大乗の結論を示しています。
 数論の主張は、「我は思である。思我は心心所を離れて別に自体がある。思はつまり我であり、その性は常住である」と云う。
 犢子部は非即非離蘊を主張していました。犢子外道を筏蹉氏外道とも云います。
 勝論の主張は「諸々の心が生ずる時は皆我より生起する」と云う。これは十句義に詳しく出ていますが、今は、『倶舎論』の所論から伺いたいと思います。(次回にします。)
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「唯有識無外境」、果たして三界は唯心か? (77)九難義 (17) 唯識成空の難 (10)

2016-08-30 23:10:17 | 『成唯識論』に学ぶ
  

 破我についての『成唯識論』の所論は28日のブログを参考にしてください。
 数論の我論について、
 『倶舎論』(大正29.157b~157c)の所論は、(お願いします。サンスクリット訳教えてください。)
 「如應當知。有作是言。決定有我。事用必待事用者故。謂諸事用待事用者。如天授行必待天授。行是事用。天授名者。如是識等所有事用。必待所依能了等者。今應詰彼。天授謂何。若是實我此如先破。若假士夫體非一物。於諸行相續假立此名故。如天授能行識能了亦爾。依何理説天授能行。謂於刹那生滅諸行不異相續立天授名。愚夫於中執爲一體。爲自相續異處生因。異處生名行。因即名行者。依此理説天授能行。如焔及聲異處相續。世依此説焔聲 能行。如是天授身能爲識因故。世間亦謂天授能了。然諸聖者爲順世間言説理故。亦作是説。經説諸識能了所縁。識於所縁爲何所作。都無所作但以境生。如果酬因。雖無所作而似因起説名酬因。如是識生雖無所作而似境故説名了境。如何似境。謂帶彼相。是故諸識雖亦託根生不名了根。但名爲了境。或識於境相續生時。前識爲因引後識起説識能了亦無有失。世間於因説作者故。如世間説鍾鼓能鳴。或如燈能行識能了亦爾。爲依何理説燈能行。焔相續中假立燈號。燈於異處相續生時。説爲燈行。無別行者。如是心相續假立識名。於異境生時説名能了。或如色有色生色住。此中無別有生住者。説識能了理亦應然。若後識生從識非我。何縁從識不恒似前。及不定次生如芽莖葉等。有爲皆有住異相故。謂諸有爲自性法爾微細相續後必異前。若異此者縱意入定。身心相續相似而生。後念與初無差別故。不應最後念自然從定出。諸心相續亦有定次。若此心次彼心應生。 於此心後彼必生故。」
 概要を述べますと、
 数論の主張は、「決定有我」、我は定んで実在するのである。つまり、「謂諸事用待事用者。如天授行必待天授」。事用(ジユウ・はたらき)は事用者を待つように、天授(テンジュ・天から授かったもの)の行は天授を待つようなものである。このように、「識等所有事用。必待所依能了等者」。識等の事用は必ず所依の能了等の者を待つのである。論主は反詰する。「天授謂何」。天授とは何か?若し実我であるなら、前に論破した通りである。若し仮我であるなら、体は一物ではない。、諸行の相続に於いて仮に我を名づけたのである。天授の能行とは、刹那生滅の諸行が相続する上に天授の名を立てたのであって、愚夫はこれを執して実我と為し、相続の異処に生ずる因とする。異処に生ずるを行と名づけ、その因を行者と名づける。即ち前念を行者とし、後念を行とする。この理に依って天授よく行ずと云う。焔及び聲の異処に相続するのを、世に焔聲よく行ずというようなことである。
 (数論の問)「諸識能了所縁」(『中阿含経』)。諸識能く所縁を了すと説く。識は所縁に於いて何の所作を為すのか?
 (論主の答)「都無所作但以境生」。何も所作は無い、ただ境に似て生ずるのである。これを境を了すと説くのである。つまり、境に似るとは彼影像を帯することである。或は識の能了は喩ば燈の能行のようなものである。焔の相続の中に仮って燈の名を立てるように、燈の異処に相続して生ずるを燈行を名づけ、別の行者はないのである。このように心の相続に仮に識の名を立てるのであり、異境に相続して生ずる時を能了と名づける。別の了者はない。
 (数論の問)後識の性ずることは前識に依る、我に依らないというのであれば、なぜ後識は恒に前に似ないのか?又、芽莖葉等のように定次に生じないのか?
 (論主の答)有為法は皆住異相に依って後必ず前に異なって生ずるのである。又諸心の定次生は、もし此心の次に彼心生ずべきは、此心の後に彼必ず生ずる、と云うことである。

 本題は物資の否定に論点があるのですが、アートマンの実在を説く外道を論破しなければ大乗仏教は成立しませんので煩瑣ではありますが少し綴っております。物質の否定は諸部の実有をも論破します。
 明日は勝論の我論について考えます。
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「唯有識無外境」、果たして三界は唯心か? (76)九難義 (16) 唯識成空の難 (9)

2016-08-29 23:23:18 | 『成唯識論』に学ぶ
   此の二(種子と有根身)は皆是れ識に執受せられ、摂して自体と為って安と危と同ずるが故に」 河合清閑師提供

 実我・実法が有るとする主張を論破しているのですが、先ず破我になります。この破我は『成唯識論』では巻第一で、破我・破法が述べられます。三世実有を説く説一切有部の論書である『倶舎論』では第九章で附編として「我」ありとする主張の論破、つまり破我品(巻二十九後半~巻三十)が置かれています。本頌には破我品は置かれず、本頌へ長行を附編する時に、この破我品が追加されたものと伝えられています。
世親造・玄奘訳の『阿毘達磨倶舎論』では大正29・152b~155cに記載があります。参考にしてください。
 (1) 犢子部(トクシブ・ Vātsīputrīya, ヴァートシープトリーヤ。上座部系の有部からの分派)の我論を破す。非即非離蘊の我を主張する。
 Kaula.blog110より引用させていただきます。
 犢子部とは、

 無我を説く善逝の系譜に連なりながらも、五蘊と同じでもなく別でもない我(アートマン)を、プドガラの名の下に説くのが、犢子部です。
 TS 336: いっぽう、或る者達は、善逝の子孫を自認するにもかかわらず、プドガラと称して、[五蘊と]同じでもなく別でもないアートマンを説く。
 そもそもアートマンとは何でしょうか。
 1.善・悪の行為の主体
 2.行為の結果の享受主体
 3.前の五蘊を捨てて、次の五蘊を取る輪廻の主体
 このアートマンの定義的特質の全てをプドガラは満たしています。
 結局の所、犢子部は、実質的にアートマンに相当するものを「プドガラ」と呼んでいるだけです。
 つまり、仏教徒であるにもかかわらず、アートマンを説いていることになるわけです。
 したがって、無我の教えに反する論者だと、シャーンタラクシタは批判しているわけです。

 337. 【犢子部】プドガラは、五蘊と別ではない。外道の見解となってしまうので。非別でもない。複数などとなってしまうので。それゆえ、[五蘊と別とも非別とも]言い表されえないというのが正しい。
 プドガラが五蘊と別であるならば、五蘊とは別なものとして常住なアートマンを立てる外道の説と同じになってしまいます。
 かといって、五蘊と同じならば、五蘊が多数であるように、プドガラも多数となってしまいます。
 そうすると、プドガラは一者ではないということになってしまいます。
 これでは、犢子部が認めたい常住な一者――行為主体・享受主体・輪廻主体たりうるもの――とはならなくなってしまいます。
 それゆえ、犢子部は、五蘊と別でも非別でもないものとしてプドガラなる一者を立てます。
 それは五蘊と別とも別でないとも言い表され得ないものです。
 五蘊と別非別断定不可能なもの、それがプドガラです。

 これに対するシャーンタラクシタの回答はシンプルです。
1.実在であれば、それは、五蘊と別か非別かいずれかである。(P→Q)
2.いま、プドガラは、五蘊と別でも非別でもない。(¬Q)
   ――――――――――――――――――
3.それゆえ、プドガラは、実在ではない。(¬P)

 つまり、能遍の非知覚という論証因により、プドガラは、勝義としては存在しないということが導かれます。
 なんとも論理的で杓子定規な回答です。

『倶舎論』のこの箇所を少し読んでみます。
 「然犢子部執有補特伽羅其體與蘊不一不異。此應思擇爲實爲假。實有假有相別云何。別有事物是實有相。如色聲等。但有聚集是假有相。如乳酪等。許實*許假各有何失。體若是實應與蘊異。有別性故。如別別蘊。又有實體必應有因。或應是無爲。便同外道見。又應無用。徒執實有。體若是假便同我説。非我所立補特伽羅如仁所徴實有假有。但可依内現在世攝有執受諸蘊立補特伽羅。如是謬言於義未顯。我猶不了如何名依。・・・」
 (意訳。然るに犢子部は云う、我(補特伽羅)は蘊と不一不異、一でもなく異でもない。これを非即非離蘊の我と名く。(問)此れ応に実我か仮我なのであるか。(反論)実有仮有の相別なるとは云何ぞ。(答)別に事物有るは実有である。色聲等のようにである。但だ聚集有るのは是れは仮有である、乳酪等のようにである。(問)実と許(計度・ケタク)し仮と許すに何の失があるのか?(答)体若し実ならば蘊と異なるであろう。別に性あるが故に、別々の蘊のようにである。又実体有るならば因あるべく、或は若し因がないならばそれは無為であろう。これ等は外道の見解と同一であり、実有を執する体若し仮ならば我説と同一である。犢子部は云う。我所立の我は汝(仁)の言うような所謂実有仮有の存在ではない。蘊によって我を建立するのである。(問)犢子部が云うような謬の言は意義が一向に顕れない、我の意は猶不明了である、依とはどのようなものであるのか?若し諸蘊を攬(ト)る意であるならば我は仮有である・若し諸蘊を因とする意ならば、我は同じく仮有である。犢子部は反論する、このような論戦がつづきます。犢子部は薪と火との関係を喩に出して自説の正論性を主張します。火とは何か?薪とは何か?火の薪に依る意を明確に示しなさい。・・・火と薪とは倶生であって体を異にしているだけなのに、貴方は依の意をどのように説こうとしているのか・・・。もう一つ、我は六識の中で何識の所識であろうかという問いを立てています。・・・一切法は皆非我の性であると説いている、非我を我と計度すれば、此の中具に想と心と見との倒であると説かれている。・・・このような問答があって、実我否定論が破我品に於いて論じられています。
 『倶舎論』のこのような論述は面白いですよ。ゆっくり読めればいいのですが、紹介するのは一部だけにしておきます。

(2) 数論及び勝論の我論を破す。は明日にします。
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「唯有識無外境」、果たして三界は唯心か? (75)九難義 (15) 唯識成空の難 (8)

2016-08-28 19:55:29 | 『成唯識論』に学ぶ


partⅳになりますか。先日は六句義について少し触れました。この六句義につきましては、『成唯識論』破法の段で「勝論所執の実等の句義は」と説明がされています。ヴァイシエーシカ学派の原子論については、もう少し勉強しなければなりませんが、復習の意味も有り、先ず我についてですね、『成唯識論』巻第一の破我・我三種「諸の所執の我に略して三種有り」という、この科段は数論・勝論等の主張を破すことになりますので、振り返りながらもう一度学ばせていただきます。

 『成唯識論』巻第一・仮の所依を明かにする段に於いて、外境が実体的に存在すると錯誤するには理由があるのかを問い質しています。、熏習・現行・種子という三法の構造から、「我法分別熏習力の故に、諸識の生ずる時、変じて我法に似れり」を明らかにしています。
「患夢の譬え」を以て、「執して実我・実法と為す」という問いにつづいて、
「仮」によって我・法を説く理由を示します。
 「総じて三句を釈す」という一段です。
 1. 我・法の仮なる理由を明らかにする(我法の仮なる由を顕す)。
 2. 有といえば増益の過失に陥り、無といえば損減の過失になるという理由を明らかにする(増・減の執を遮す)。
 3. 「仮」は世俗諦・勝義諦のどちらに摂められるのかを明らかにする(諦に依って仮を摂す)。
 
 次に、実我・実法を破斥する一段です。「唯だ識のみが有って外境は無い」ということが、どのようにして知られるのか、という問いに対して答えています。破我・破法段になります。
 三種類の所執の我を述べ、別して所執の我を破斥します。
 先ず、六派哲学の数論(サーンキャ学派)・勝論(ヴァイシエーシカ学派)等の所論を破斥し、
 つづいて、部派仏教の所論、即蘊の我・離蘊の我・非即非離蘊の我を破斥します。
 次なる科段は、異執、異なる我執を総じて破斥する一段です。思慮の有無を明らかにし、執を破っています。分別起・倶生起の我執を述べ、第七識の我執・第六識の我執を明らかにし、見道断・修道断によって我執を除滅することを明らかにします。
 
 詳細を述べますと
 「仮に由りて我・法ありと説く」我と法によって一切をつつんでいることが述べられ、そして我とは何か、法とは何かが明らかにされてくるわけです。「仮」について二種あることは『述起』に「無体随情仮」と「有体施設仮」とをもって、我・法は「仮」に説かれてていることを明らかにされていました。
 「我・法と分別しつつ熏習せし力の故に、諸識の生ずる時、変じて我・法に似れり」
 これは我・法の相はどのようにして現われてくるのかを述べています。熏習・現行・種子という三法が同時因果として、諸識(八識)が生起することを述べています。熏習とは、現行熏種子と、現行が種子を熏習するといいます。現行とは、具体的に現れた識(七転識)のことで、現行した心の働きが深層に働く潜在的な阿頼耶識に種子を熏習することを現行熏種子といい、そして熏習された種子から現行してくる働きを種子生現行といわれています。熏習・種子も阿頼耶識に蓄えられたもので、現行によって熏習されたものを、熏習された気分ということで、習気といい、現行を生じる方面からは種子といいます。我・法の相が現行するのは、習気から縁に随って諸識が生じてくるのですね。そしてこの習気=種子は阿頼耶識に摂蔵されているのです。
 「我・法分別」は他と区別して認識するわけですが、何を基準とするのか、これは一言でいいますと、自分にとって損か得かという我意ですね。我意によって区別されたものが、我であり、法であるわけです。この分別された我法が無始以来熏習されている。それが大きな力でその力から逃れることはできないという構造になっているのですね。無始以来刹那刹那に熏習された種子から現行してくるわけですから、今に始まったわけではないのですね。しかし、それは実我・実法ではないのですね、「変じて我・法に似れり」、「我・法に似ている」にすぎないのだと。「似ているにすぎない」のだけれども、無始以来、我・法と執着してきたわけですから、この認識から離れることはできないと述べています。
 「諸の有情の類は、無始の時よりこのかた、此れを縁じて執して実我・実法と為す。」
 有情という情識を有する者ですね、無始よりこのかた、外境に似て現じたものを縁じて実の我・実の法と思い込んでいる、それは恰もですね、次に出てきます、患と夢の譬えのようなのです。
 高熱がでて、うなされているときに夢を見る、無いものが有るという幻覚ですね、幻覚が実我・実法である、幻覚だけれども真実だと思い込んでいるわけです、顛倒です。真実は内識が外境に似て現れているに過ぎないのですが、私たちは外境が存在すると思い、執着をおこして実であるとして、「唯だ識のみ」ということがわからないのですね。気づきがでてきません。
 以上『頌』の最初の三句
 「仮に由りて我法有りと説く。種々の相転ずること有り。彼は識が所変に依る」を釈しました。
 次は「総じて三句を解す」。三段に分けて説かれます。
一、「我・法の仮なる理由」を示します。
 無体随情仮
 有体施設仮
 「愚かな凡夫は、虚妄の分別によって計らって我・法を実と誤り、実我・実法と執しているが、体は無く、虚妄のものである。しかし有情は実我・実法と執しているわけですから、有情の妄情によりそって説いて、仮に施設する、これはですね、仮に説かなければ、有情の妄情・執着を解くことが出来ないのです。
 今度は、「内識の所変」です。所変は相分ですね、この相分は内識が変化したものなのですが、有情は相分に現れたさまざまな相が実のものであると誤って認識しています。本当は、外境に似て現じているのですね。ですから、似我・似法である、と。しかし実我・実法ではない、と。「有りと雖も、実の我・法の性に非ず。然も彼に似りて現ぜり。故に説いて仮と為す。」「彼に似り現ぜりて」といいますから、依他起性であるという、護法の摂になるわけです。実我・実法は全く無し、似我。似法は無ではない、無ではないが、仮に我・法と説くのだ、と。「仮」ということが非常に大事なことですね。「仮」ということにおいて「執」を超えることができるのです。
 二、「増減の執を遮す」
実我・実法が有るといえば、増益の過失となり、また無といえば損減の過失になるということを破斥します。ここに二つの科段が述べられます。
 「外境は情に随って~識の如くなるに非ず」。実我・実法は、妄情の上だけのもので、識のように有ではない。
 「内識は~境の如くなるに非ず」。内識は因縁によって生じた縁起の法(依他起性)ですから、外境のように無ではない、有に非ず、無に非ず、「此れに由りて便ち増減の二執を遮す」と、唯識の道理によって増減の二執を遮す、二執を遮して唯識性を明かにしているのです。
 余談になりますが、安田先生は、この内識ということで、「花があって、意識するのでなく、花の意識である。花を内境としてもっている。花を内容としている。対象というものを、作用の中に表現している。識というものは、何か(境)というものに似てあらわれている。何かがあって、それに用きかけるのでなく、用きかけるものを、その中に表現している。その事実を唯識という。識が何かに似て現ずることが、識転変である。パリナーマが唯識の事実を語る。現じているままが、識のうちにある。
 唯識というのは、識転変の事実に見いだされた道理であって、説明しようというのではない。全く意識の事実そのもののもっている道理である。識は何かに似て現じているから、それに基づいて、何かが仮説される。花という言葉には、花に似て現じた識。識転変において仮説されるという構造である。」(『選集』二・p51)と教えておられます。次は「仮」の第三の説明です。
 三、「諦に依って仮を摂む」、諦というのは世俗諦・勝義諦のことをいっています。外境も内識も仮立されたものですが、「仮」は、この二諦のどちらに摂められるのか、という問いです。外境は世俗諦のみに仮に有と説く、「識は境の所依の事」、境は識に依って有るわけですから、内識は勝義諦においても有であると説かれているのです。
 本題は、ここからの、「広く頌を釈す」と。
 今まで述べてきた「仮」の三つの説明を、更に詳しく述べる、ということになります。」内容は、破我と破法です。実我・実法を破斥します。
 はじめに問いがだされます。「云何ぞ応に知るべきや、」、科文には「広く外執を破て頌の義を成ず・一に総じて問う。二は略して外徴に答う、三に別問別答」と示されています。
 「唯だ識のみあって外境は無いということがどうして知られるのか」という問いが先ずだされます。答が「実我・実法は得可からざるが故に」これが、二の「略して外徴に答う」になります。存在しているということは、外に有るということ、外境として認識されているということは、実我・実法として存在していることに外なりません。しかし、答は外境は無いと、外境は存在しないといっているのですね。外境は識転変であるということなのです。「内識のみ有りて外境に似りて生ぜり」ということになります。
 別問別答・我三種
 一、実我を執するを破す。「如何ぞ実我は得可からざるや」どうして実我はないといえるのか。そして答えられるのですが、五段に分かれて述べられます。
 第一段、「三類の計(け)を叙し正しく外道を破す」。三類の計といわれています。計とは、考える、分別する。認識的には誤った思考をいう。三類に共通する概念は「常」ということです。「我の体は常である」ということ。我とは何かということは、我は常・一・主・宰といわれていました。我の体は常であるが、我は大きいか、小さいかという設問がだされています。
 「一つには執すらく、~」我の量は虚空と同じ大きさで、どのきでも遍く偏在している、と。我が周遍しているからこそ、いついかなるところ、いついかなる時でも苦・楽を感ずるのである、と。「業を造る」とはこのようなことなのでしょうね。
 二に、「執すらく~」
 量(大きさ)は不定である。身の大小に随って巻舒(かんじょーちいさくすることとおおきくするおと)することが有るということ。例えば、象はおおきく、蟻は小さく、身の大小において我もまた大小があるという。
 三に、「細さること~」
 我は極微である。身の中に気づかれないような極微に沈潜して体中を回って作業をしているのである。
 このように、我の実体を三つにわけて論証しているのですが、この論証を破斥していきます。
 「理に非ず」と。
 一に、常であり、周遍しているのであれば、苦・楽というような変化はないはずである。従って苦・楽を受けることはないであろう、と。また、常遍というのであれば、動転することはないはずである。
 次に所執の我は同じなのか、違うのかという問いですね。考えさせられる問題ですが、若し同じならば、一人が行為を起こせば、他の一切が行為することになる。反対に一人が解脱すれば、他の一切も解脱することになる、これはおおきな過失である、我は周遍しているというのであるから、、「若し異なりと言わば」「我が重なり合って区別がつかなくなるであろう」そして周遍しているのならば、一人が業を造れば、他の一切も業を為し、果を受ける時は、他の一切も果を受けることになってしまう。このようなことに過失が無いと主張するならば、周遍するということに違背する。従って、一人が解脱すれば、一切の人も解脱するということになる。
 二を破斥します。巻舒する我を破斥します。これは、我は常住ならば、身に随って大小することはないであろう。巻舒はない。反対に巻舒があるというのならば、それは櫜籥(たくやく)風みたいなもので、それは常住ではない。櫜籥、たく(ふいご)とやく(ふいごに風を送る管)で、風と関係する道具として譬えの中で用いられる。
 身に随うなら、分析(ぶんしゃく)-区分すること。分けて考察すること。することになり、我の体は常一ではなくなってしまい、執すべきものではない。恰も「童豎(どうじゅ)」童子の戯れのようなもので、全くたわいがないものである。豎はしもべ、こどものこと。
 小さな我を破す。
 「後のも亦た理に非ず。~」
我が極微のように小さいなら、大きな身をどうして遍動させることができるのか。
若し、という問いを立てて、
 「小なりと雖も而も速く身を巡ること旋火輪(せんかりん)の如くにして、遍動するに似たりといわば、則ち所執の我は、一にも非ず、常にも非ざるべし。諸の往来すること有るものは常・一に非ざるが故に。」
 小さいけれども、旋火輪のように速く身を巡るというのであれば、我は常でもなく、一でもないことになる。すなわち、往ったり、来たりするものは常・一ではないからである。
 旋火輪 - 火をぐるぐる回すことできる火の輪のこと。火の輪があるわけではなく、火の粉の連続体が有るだけであることから、すべての存在は刹那に生滅して実体がないことの喩として用いられる。
 次は分科の第二、「別して三類の計を叙し兼ねて小乗を破す」
我と五蘊の関係から、我の三種を説く。
 即蘊 - 身と心とがそのまま我であるとする説。
 離蘊 - 五蘊を離れて独立して有るとする説。
 非即非離蘊 - 五蘊に即するものでもなく、離れるものでもないとする説。
 それぞれ個別に説明されます。
 先ず、即蘊の我を破す。
 我が五蘊に即するというのであれば、五蘊と同じく常・一ではないであろう、と。我とは常・一の義といわれていますから、五蘊もまた常・一でなければならないのです。しかし、五蘊は積集の性(仮和合)と言われていますから、無常です。無常をもって常・一の我とはいえないということです。「又」と、五蘊それぞれについて論じられます。
 「内(うち)の諸色」(肉体・五根と扶塵根)も「外の諸色」(外の物質)のように、質礙(ぜつげ)
 質礙(ぜつげ)― 物質(色)が有する二つの性質(変壊と質礙)の一つ。物のさまたげる性質。同一空間・場所を共有することができないこと。
 同一空間・場所を共有することをさまたげるものは、我ではない、ということ。 尚、変壊は、事物・事象が変化して壊れること。苦が生じる因となる。
 「心」は心王・識
 「心所法」は、受・想・行 (余の四蘊)
これも亦た、実我ではない、なぜなら、余の四蘊は衆縁(さまざまな縁)をまって生ずるから、相続しませんし、断絶がありますから、我とはいえないですね。
  「余の行」 諸行無常の行、有為法のことをいっています。最初の二つ以外の有為法(心不相応行法)と、「余の色」、外の諸色と法処所摂の色(五根と五境)五根は眼・耳・鼻・舌・身とその対象、色・声・香・味・触、それに意識の対象となる特別なもの、意識の所縁の色を法処所摂色といわれています。意識の対象となる特別の物質。、「第六識の無辺法界の事をしる中に有る色法なり」(『二巻抄』)法処とは意識の対象となる法という領域で、五識の対象とはなりえない、ただ意識の対象となるもの、という意味です。これらが、「覚の性に非ざるが故に」、覚性とは、心・心所のことで、「非」ですから、心・心所とは別なもの、たとえば虚空のようなもので、これを我というわけにはいかない。
 次に、離蘊の我を破す。
五蘊に即するのでもなく、離れるのでもなく、というのであれば、我とはいえない、「瓶等の如く」とは仮法ですから、仮法をもって我とすることはできない。
「故に彼が所執の実我は成ぜず」と。成り立たない。
 次は、すでに述べた、一と二の三類の計の差別(異なり)の執我(執着された我の異説)を総じて破斥す。
 初めは思慮の有無です。三類の計で述べられた我には思慮が有るのか、無いのか等で、そのいずれかでもあっても我は成り立たないことを説明します。
 思慮があるのであれば、常・一・主・宰の義に反します。
 思慮がないのであれば、虚空のようなもので、業を作ることも、果を受けることもできません、ともに、所執の我は思慮の有無にかかわらず、成り立たないのですね。
 二は、作用(さゆう)の有無を破斥します。
 実我の体に作用が有るのか、無いのかちう問いを立て、有るとすれば、それは無常であり、実我とはいえない。また、無いといえば、我は無いことになる。兎角(とかく)等のようである、兎の耳をみてそれを角だと思った時の角で、実際には存在しないものである。
 三は、我見の境・非境の破斥
 我があるという見解ですね。我見が、我を所縁の境としてみることができるのか、できないのかという問いですね。
 我見の境でないとすれば、所縁でないのにどうして我があると知ることが出来るのか。、我が有るとか無いとかいえるのかということです。
 我見の所縁の境であるといえば、
我を見ることができるというのであれば、その我は真実であり、見も顛倒ではなく、正見ということになります。しかし、我見は自己が存在するという見解で、末那識相応の四煩悩の一つで、潜在的な自己執着心ですから、生死に沈んで輪廻すると批判されます。無我の見は涅槃を証すると称賛されます。「豈」と反対の論証をもって破斥していますね。我見を邪なる見と、邪なる見が正しいなら、邪なる見が涅槃を証し、正しい見が生死に沈むことになる。
 我は我見の境に非ず。我見は我を縁ぜず。
「我をすという見は」と。これは、我を縁ずる見という意味です。我を認識して(我を縁じて)我が有るといっているわけですが、では本当に我はあるのかという設問です。答は、「実我を縁ぜざるべし」、思い込みがありますが、我を縁じているのではなく、体や心などの、所縁を縁じているのですよと。「余を縁ずる心の如し」と。自分の体や心を縁ずることはできるが、これは体や心を縁じているのであって、我を縁じているのではない、ということ。我見が縁じているのは、実我を縁じているのではなく、所縁を縁じている、そして、「所余の法」、今ならば、桜ですね、木蓮、雪柳といったような、木や花を縁じているのと同じだと。所縁を縁じているだけであって、我を縁じているのではない、結論として、我見であっても、それは内識の変化した諸の蘊を縁じているのであって、我そのものを縁じているのではない、それは「自の妄情に随って種々に計度す、分別しているのである。」我執の妄情がそれを「我」と思っているに過ぎない、と破斥します。
 実我は成り立たない理由をのべました。
 「故に彼の所執の実我は成ぜず」
 これは三量の中の比量をもって破斥しています。
比量とは推量のこと。
 次の科段は第三に上の二の差別の執我を破す。(『述記』第一末・三右)
此れが四つに分けられて説かれます。
初は、思慮有りや、思慮無きを破す。
二には、作用(さゆう)有りや、作用無きを破す。
三には我見の境なりや、我見の境に非ざるやというを破す。
四には、我は我見の境に非ず、我見は縁ぜざるべしと云を破す。
今は総じて前の所執の諸の我を問うが故に、諸と言うなり。

初を述べる。
問い 「又、所執の実に・・・思慮なしとやせん」
答、我に思慮があるとすれば、無常でなければならず、常一・主宰に反する。思慮無しとすれば、業を作ることも、その果を受けることもできない、だから所執の我は成り立たない。思慮とは、思は思うこと、慮は考えること。
 「汝が我の体は応に是れ転変無常なるべし。」と答え、数論(僧佉・ソウキャの音写)を批判します。数論は、神我は体性常住と説いています。
 二は、我に作用について有るのか無いのか、という問い
答。「若し作用有りと云わば、手足等(しゅそくとう)の如く、まさに無常なるべし。」
 有るといえば、無常でる。作用有るによって無常ということになる、数論に対しては、転変すること手等の如し、勝論(吠世史迦)に対しては滅壊なること足等のようである。
 「若し作用無しと云わば、兎角等の如く、まさに非我あるべし。故に所執の我は二つながら倶に成ぜず。」
 ないものを有ると思っているようなものであり、それを以て我ということはいえない。所執我とは、外道によって実体として存在すると執着された我であり、このような我は存在しないと破斥しています。(前回述べました)
 三は、我見の所縁となるのかという問いが出されています。
 「又、諸の所執の実有の我体は是れ我見が所縁の境とするや、不ずや(しからずや)。
 我が有るという見解です。我見といいます。この我見が、我を所縁の境として見ることができるのか、できないのかという問いになります。
 我見は末那識相応の四煩悩の一つに数えられますが、我見とは我執ですね。潜在的な自我執着心です。要するに、自己は存在するとみる見解ですね。「五取蘊のうえに我・我所と執する」と言われています。取とは煩悩の異名で、有情を構成する五つの要素(五蘊)は煩悩(取)より生じ、また煩悩を生ずるから五取蘊というんです。この五蘊を実体化するところに苦が生じるといわれています。五蘊盛苦です。「有漏を名付けて取蘊となす」(『倶舎論』)
 先ず、我を所縁の境として見ることができるのか、できないのかという問いが出されます。次に答です。
 「若し我見が所縁の境に非ずといわば、汝等、云何ぞ実に我有りと知るや」
我見が、所縁の境でないとすれば、どのようにして我が有ると知ることができるのか、そのようなことは有り得ないことである。所縁の境である、所執の我を縁じて我見が生ずるわけですから、我見は我の所縁の境ではないということ、所縁でないのにどうして我有るといえるのかという見解を破斥しているのです。
 次はその逆です。「我見が所縁の境ぞ」というのであれば、これは「我は是れ我見が所縁というを破す」といっています。我見が所縁の境であるならば、我有りという見解は顛倒ではないことになる、即ち正しい見解になるということです。正しい見解ならば、我見が涅槃を証することになる。そして正見が生死に沈むことになるという顛倒が起こってきます。それは「至教(しきょう)」にも説かれている通りである。
 至教とは、仏陀によって説かれたと伝えられた教説をいいます。至教では、無我の見は涅槃を証すると称賛され、我に執着する我見は生死に沈淪(ちんりん)する、と説かれている。
 「豈、邪なる見いい能く涅槃を証し、正なる見いい翻じて生死に沈淪せしむること有らんや。」
 これは、これまで述べてきたことの総括になります。無我の見が邪であるならば、どのようにして涅槃を証することができるのであろうか、所縁に順ぜないからである。そして我見が正であるならば、翻じて生死に沈淪するのであろうか。我見は境に順ずるからである、と。
 「又、諸の我をするの見は、実我を縁ぜざるべし。所縁有りというが故に。余を縁ずる心の如し」
 実我を縁じているのではなく、所縁を縁じているのである。所縁というのは、認識されるもの、五根の対象である、六境を指しますが、境無といいますから、見分が映じた相分ですね。遍計所執を認識して我であると錯誤しているわけです。実我を縁じていると思っているけれども、そうではなく、所縁を縁じているのである、と述べています。
 次に
 「余を縁ずる心の如し」
 何を縁じていても、それは実の我を縁じているのではない、ということですね。そしてですね、我は無我ですから所縁とはなり得ないのです。それは恰も
 「所余の法の如し」と。
 この辺の事情を『述記』には、
 「我見の所縁は定んで実我にあらざるべし、宗なり。是れ所縁なるが故に。因なり。猶し、所余の色等の諸法の如し。喩なり。宗・因・喩という三支作法という論理を以て答えています。
 我を縁じているのではないという喩として、木や花を縁じているにすぎないのであって、我を縁じているのではないということです。
 結論が述べられます。
 「是の故に、我見は実我をば縁ぜず。但だ内識が変現せる諸蘊を縁じて、自の妄情に随って種々に計度す。」
 故に、我見であっても、それは内識の変現(自体分が転変して見分と相分とに似て顕現すること)して諸蘊を縁じているのである。自の妄情(我執)がさまざまに分別を起こして、分別されたものを「我」と思っているにすぎないのだ、と。
 教証として『瑜伽論』(第六・第七巻)・『顕揚論』(第九・十巻)の十六の大論の如き、(「彼の二論の中に十六種の大外道論を明かせり。所縁は皆な是れ自心の相分なり。『演秘』第一末・二左」)皆な影像たる自心の相分を縁じて所縁縁と為す。一の我の是れ相分なるもの有ること無し。故に是れ但だ識が所変を縁ず。(五)蘊各別なるが故に。故に諸蘊と言う。・・・」(『述記』第一末・八右)
 以上が、我執によって引き起こされる種々の問題点を述べてきました。次は、我執に二種あることを明らかにしていきます。凡愚は但だ内識が変現した諸蘊を縁じて、その上に自の妄情に随って種々に計度して我が有ると執着しているにすぎない、と明らかにしていますが、では我が有ると執する我執とはいかなるものであるのかが問われてきます。
 大体、我といっているのは、何を指して我といっているのでしょう。常一・主宰の義を以て我といっているのでしょうか。「わたし」といっている時は、身をたたいて「わたしは」といっているのではありませんか。身というのも五蘊仮和合なのです。五蘊仮和合にもかかわらず、五蘊は実なるものとして執着し我として煩悩を引き起こしているのが私の姿なのです。妄情計度分別して生死海に沈淪していることになります。
 この一段をよく理解したうえで、倶生我執・分別我執の諸問題を学び、次の科段である破法、つまり「外道・余乗所執の実法は理有に非ざるが故に」を明らかし、その所執というのはどのようなことなのかを論じているのです。この科段はすごく長いのです。講義ではここは読みませんでしたが、今回は挑戦してみたいと思います。
 外道・余乗も共通して「法体恒有」なのですね。根は非常に深いものがあるようですので、しっかり学びたいと思います。
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雑感

2016-08-28 01:59:57 | 『成唯識論』に学ぶ


 今日はというより、昨夜になりますが、改めていろいろ考えさせられました。そいう機会を与えていただきましたkさんに感謝いたします。
 「勝論の主張を通して、改めて大乗仏教の教えをいただきますと、法性の意味がはっきりとしてくるように思います。
 龍樹菩薩の著作に難解な『中論』があります。縁起・空・中を説いた書なのですが、その冒頭に有名な八不中道が説かれてあります。少し見ていきますと「観因縁品第一」に「不生亦不滅 不常亦不断 不一亦不異 不来亦不出 能説是因縁 善滅諸戯論 我稽首礼仏 諸説中第一」(不生にして亦た不滅、不常にして亦た不断、不一にして亦た不異、不来にして亦た不出なる。能く是の因縁を説き、善く諸の戯論を滅す。我れ稽首して礼す。仏を諸説中第一なりと)ここに否定の論理として因縁所生の法を説き顕しています。我執の否定です。「これか」「違う」というわけです。これだと掴んでしまうと我が物(我所)になるんですね。我・我所の否定を通して真実を開くということです。我ということは身心を持つということですが、その身心は「五蘊仮和合」(ごうんけわごう・五つの心作用が仮に和合してつくりだされたもの)で実体としてあるわけではないということをいおうといているのです。この二頌は「帰敬頌」といわれるのですが、そこには問いが設けられています。何故この論を造るのだということです。『成唯識論』にも造論の意趣が述べられてありました。それは謬を正すということです。「無因・邪因・断常の邪見に堕し、種々に我・我所を説き、正法を知らず。」これを正すということです。その為に此の中論を造ったのであるということ。「何ものも滅することなく、何ものも生ずることなく、何ものも断滅ではなく、何ものも常住ではなく、何ものも同一ではなく、何ものも異なっていることなく、何ものも来ることなく、何ものも去ることのない、一切の法は畢竟空であり無である」ことを説くというわけです。そのことに於いて戯れの論は寂滅するので有るということを説いたということです。(『中論序』は釈僧叡の作成で羅什門下の主席といわれています。)ここに現代にも通じる問いが出されています。少し紹介をさせていただきますと、「人根は転た鈍にして、深く諸法に著し、・・・仏意を知らず、但だ文字のみに著し、大乗法の中に畢竟空を説くを聞きて、何の因縁の故に空なやを知らずして、即ち疑見を生ず。・・・貪著を起こす。」また「如諸法自性 不在於縁中 以無自性故 他性亦復無」(諸の法の自性は、縁の中に於いて不在であり、自性無きを以っての故に、他の性も亦復無きが如し)無自性なるが故に空であるということ、存在の実体というのは縁などの中には存在しない、これだとする固有の実体は有るのでないということ。自性が無いとするならば他の存在(固有の実体)は存在しないということを教えています。私たちは常にものを見るとき実体があるとしてみていますね。それが間違いであり、それが迷いを生み、苦を生む因になるといっているのです。 
 千年も前に私の心が見透かされていたのです。このことを親鸞聖人は「龍樹大士出於世 悉能摧破有無見 宣説大乗無上法 証歓喜地生安楽 」(龍樹大士世に出でて、 悉く能く有無の見を摧破せん。 大乗無上の法を宣説し、歓喜地を証して、安楽に生ぜん、と)龍樹菩薩を讃嘆されています。
 『唯識三十頌』第九頌に六識とともにはたらく心作用について述べてありまが、「此心所遍行 別境善煩悩 随煩悩不定 皆三受相応」(此の心所は遍行と別境と善と煩悩と 随煩悩と不定となり。 皆、三の受と相応す。)遍行の前に心所と云う言葉がありますが正確には心所有法といいます。心が所有している法のことです。心のはたらきですね。私の認識を色付けしているのが心所というわけです。今日一日の行動の中での心の変化を観察してみますといろいろなことがわかります。朝、珈琲をいただきますがが、日によって苦く感じたり、甘く感じたりします。ここに六識が働いています。珈琲の色を見る、泡立っている音を聞きます。匂いを嗅ぎます。いただいて、味を見ます。この全体を身が感じています。そして判断を下しますね。もう一杯頂こうか、というわけです。珈琲ということは誰が見ても同じですから総相といいます。香りがいいとか、悪いとか言うのは個別の判断ですから別相というのです。そして、この個別の判断というところに人それぞれの認識の相違が生まれてくるのですね。
 認識の相違は善でもなく悪でもない無記性のものです。無記の命を頂いて生きている。そこに各自の経験の相違に依る認識の相違が生れてきます。この相違は差別性のものではありません。個性といっていいのではないでしょうか。個性の中に揺れ動く心の変化を読み取ることが出来るようです。
 何が起こっても不思議でない世界に身をおいて、「自分の思いでしか生きることが出来ません」。本当にそうなんですよ。自分の思いの中でしか生きる術をもたないんです。ですから「すみません」という慙愧という心が生まれてくるということは驚異なことなんです。
 貪ったり、怒りをあらわにしたりと善くない心を持ち合わせているのですが、慙愧という人として愧ずべき心も持ち合わせているということが、私の認識の中にあるということなのです。
 それでは、何故慚愧心は生まれてくるのでしょうか。五位百法の法体系において読み取ることができます。
 遍行という心所は、八識すべてに相応してはたらきます。別境は別々の対象を縁じて起こるのです。「所縁の事は不同なるをもってなり」といわれるように、独自の対象を持ち、欲・勝解・念・定・慧といわれる五つの心所で、別々の対象を持っているということです。「欲」については、「所楽(しょぎょう)の境に於いて希望(けもう)するを以って性と為し。勤の依たるを以って業と為す」といわれています。楽は願われるということです。願われる対象に対して希望を起こすということなのです。浄土を願うというのを本願では欲生というでしょう。浄土に生まれんと願いなさいという願いですね。願生心は願生に先立って願われているということを意味していますね。それが本願でしょう。希望することが努力(精進)の根拠となるのです。希望することが無かったら努力しませんね。性は本質、内面的な働きですし、業は外に働くものです。欲というと欲望と連想しますが、本来の欲は努力の依り処なのです。願われる対象に向かって努力を惜しまないということになります。「所楽と云うは欲観(よくかん)の境なり。一切の事に於いて観察(かんざつ)せんと欲する者は。希望すること有るが故に」といわれています。すべてのことに対して関心を持つことが欲ということである。それは願うこと、希望することがあるからである、ということですね。欲望・欲求と云うことも含まれるでしょうし、欲楽という、浄土を願い求めるということもあるわけですね。聞法も欲ですね。欲生です。「欲生は即ち是、願楽覚知の心なり」(『教行信証』信巻)。ですから「欲」という別境は間口が広いのですね。欲によって迷うのですが、また欲によって目覚めることができるのですね。
 仏教は何を私たちに伝えているのでしょうか。「観経」第七華座観に「仏、当に汝がために、苦悩を除く法を分別し解脱したまうべし。」と。このお心を「安心決定鈔」に「如来浄華衆 正覚花化生」を釈して「法蔵菩薩の・・・心蓮華を、正覚華とはいうなり。これを「第七の観には、除苦悩法ととき、・・・凡夫の煩悩の泥濁にそまざるさとりなるゆえなり。・・・」(真聖p952)また、「斎しく苦悩の群萌を救済し」(総序)といわれています。善導大師は「但以れば娑婆は苦界なり。雑悪同じく居して、八苦相焼く。」(『観経疏』真聖全p514)といわれています。そうしますと何故、苦界といわれるのでしょう。善導大師に先立って曇鸞和尚は『浄土論註』に於いて述べておいでになります。「蚕繭(蚕と繭の譬)の自縛するが如し」(真聖全p285)自分で自分を縛ってやがて死に至るということですね。曇鸞和尚の機の深信といわれています。苦界を造作しているのは自分であったということですね。そのことを知らしめるのが仏法の働きなのでしょう。
 知ることに於いて転悪成徳するのですね。それが智慧です。ですから、仏法は苦悩を除く法であると教えられているのでしょう。苦悩は何故起こるのか、それは反逆ですね。道理に反逆している見返りに苦悩がもたらされているのであると。引っ張った力の作用が自分に跳ね返ってくると云う道理です。道理に背いている道理ですね。
 道理に背いているわけですから。唯識論ですと、末那識の問題ですね。(問い「それから未那識は恒審思量というけれど無我を思うということになれば、末那識はあっても我執の働きがなくなるんじゃないですか?その時は阿頼耶識が純粋な我となるから末那識は一瞬働かないんじゃないですか?)と思うわけですが、其の思いが末那識が働いているという証拠になるわけです。末那識が無我を思量するとどうなるのでしょうね。前七識は阿頼耶識を所依として、境を縁として起こるわけですね。そうしますと、末那識だけが転依して平等性智に成るというわけにはいかないでしょうし、無我を思量すると、もう末那識という名はなくなりますね。末那識というからには、ひたすら有我を思量するわけです。「如来、我となりて」というのは、私は目的も行き先もわからず彷徨っているわけです。ふらふらしているのですが、ふらふらしていることさえしらないのです。それで、如来は私のふらふらにつきあってくださるのです。しかし、如来は行き先も、目的もしっておいでになり、ふらふらしていても目覚めておいでになるわけですね。これは天と地程の違いがあります。私が私のふらふらに目覚めることを信心というのでしょう。その信心は親鸞聖人は「便同弥勒」と褒め讃えられるわけですね。「念仏の人をば、『大経』には、「次如弥勒」とときたまえり。・・・他力信楽のひとは、このよのうちにて、不退のくらいにのぼりて、かならず大般涅槃のさとりをひらかんこと、弥勒のごとしとなり。・・・念仏の人は無上涅槃にいたること、弥勒におなじきひとともうすなり。」(『一念多念文意』真聖p536/537)というわけです。
問い。自ら永遠に流転していくという自覚が還滅の方向になる時ですよね。ということは自分は救われる資格がない、永遠に救われないという方向(流転)が救われていく方向だということ?
 答え。流転と還滅は説明すると、救われない自覚が救いだということになるのでしょう。救われたいのに救われない自覚が救いだということはどのようなことなのでしょう。救われないととると、あるのは絶望しかありません。そうしたら絶望の自覚が救いということになるのでしょうか。絶望の先は自死しかないのではないでしょうか。最後の我執です。私は、救いというのは、救われないという自覚の前に、救われる必要のない自己に出遇うことだと思うのです。苦悩する必要を要しない世界に身をおいていることに目覚めるわけです。「ただ念仏」は流転の中において流転しないのでしょう。流転する必要がない世界、それを現生不退というのではないでしょうか。そして私の生活は浄土往生人として、浄土の一分をいただいて生涯を尽くしていける、思いの中でしか理解できませんが、往生浄土の行人として生かさせていただくことが出来る。
 私たちは普通、苦しみ悩むことは他から生まれてくると思っています。ですから、「他」を変えることに奔走しているわけです。私を取り巻く環境ですね。それが私を束縛して私の自由を奪っているのだと思って、苦しみ悩んでいるわけです。自分自身に罪が有るとは誰も思ってはいません。ですから自分が苦悩しているとは思わないのです。苦悩は有るんですけれども、自分が作り出しているとは思わないのですね。いつも、誰かの仕業であり、物が悪いのです。物には感情は無いのですが、物に当たります。感情が昂ぶりますと八つ当たりしますからね。このようなことで、私たちは「他」を自分の都合のよい方に変えることに依って満足をしようと思っているのです。歴史はそれを物語っていますね。いまだかって満足をしたことがありませんからね。でもね、時に「これでいいのか」という疑問が沸いてくることがあります。これが縁になり教法を聞く、聴聞することが起こってまいります。『観経』に即していいますと韋提希の愚痴です。「世尊、我宿何の罪ありてか此の悪子を生める。世尊、復何等の因縁有りてか提婆達多と共に眷属為る」と。世尊に向かって愚痴をこぼしているのですね。「仏の為に礼を作して」といわれていますから、韋提希は仏をもとめたのです。苦を厭う為にですね。にも拘らずですね、自分自身の問題とは見ていないのです。「何の罪があって苦しむのか」というわけです。ここに、我執の深いことをしらないという問題が浮き彫りにされています。ここに、教法に遇うということの大切さが知られるのですね。仏法に遇うことに於いて、愚痴が・苦悩が苦を厭う縁になるのです。この縁が、人間を根源から解放する、天命に安んじることができる道へのプロロ-グになるのですね。仏法に遇うということは、反面苦悩の深さを知ることになり、いよいよ苦悩にさいなまれることにもなるのではないかと思うのですが、そのことが、本当に苦悩することになり「苦の娑婆を厭い、楽の無為を欣う」ことにつながってくるのです。仏法は「苦悩を除く」ものではなく「苦悩を除く法」なのですね。苦悩の解決は苦悩がなくなることではないのです。「苦悩を除く」ということであれば、それはエゴでしょう。我が身勝手というものです。苦悩が邪魔にならないということが「除く法」ということでしょう。苦悩を引き受けて生涯を尽くしていけるという、法に出遇うことに於いて「信心」獲得するということになるのでしょう。逆に言うとですね。信心を得ることに於いて初めて苦悩することが出来る身をいただくことが出来る。それが歩みですね。
 『観経』から教えられますのは、苦悩は仏教に遇うことに依って初めて具体化するということなのです。苦悩は人間としての根源の問いなのでした。それは仏法に依って明らかにされたのです。仏法に依ることがなかったなら、私たちは自分の問題を他の問題にすり替えて解決しょうとするのです。それしかできないのですね。これは逃避だと教えられるのですね。自分からの逃避だと。本当に苦悩するということは逃げようにも逃げられない立場に立って、「自己とは何ぞや」という人生の根源的な問いを明らかにする道であるということなのです。だから仏教に出遇うことがなかったなら、本当に苦悩することは成り立たないのかもしれないですね。自分の立場に立ちますから、仏教をも利用しますね。「苦しい時の神・仏頼み」です。ここで言われる「苦しい」は厳密には「困った時の」でしょうね。悲深さんが仰ってくださいましたようにですね。日常の立場からは苦悩はないのでしょうね。苦悩とは言われないのでしょう。「法」に出遇う事がない限り、苦悩が「有る」・「無い」は有無の見ですね。有無の見を破すのが仏教でしょう。そこで謬りをおこすのですね。それが苦悩だと思うのですが。念仏に遇って念仏に謬りを起こすわけです。二十願の問題ですね。しかし法は因果同時なのです。悟りの世界を蓮華蔵世界といいますね。蓮華と云う譬を以って法に出遇うことが救いであることを顕しているのです。蓮華はプンダリーカといい、華と実が同時になるのです。『華厳経』や『法華経』はその意味を持って経の主題としています。『観経』第七華座には法蔵菩薩の本願力は「華の上に自然に七宝の果有り」といわれるのですね。法に遇うことに依って苦を厭い、浄を求めるのでしょう。厭うことと浄を求めることが同時なのですね。「此の如きの妙華は、是れ本法蔵比丘の願力の所成なり」といわれていま。苦悩そのものが本願の正機となるのですね。そして苦悩を知らせることが本願成就の証明になるわけですね。ここに「除苦悩法」を顕しているですね。信心の純・不純もここで明らかになるのです。
 『法然上人行状絵図』に上人の「出離生死」の原点がとどめられています。それは1141年(永治二年)所領の争いで夜襲をうけ亡くなっていく父時国の遺言でした。「汝さらに会稽(かいけい―敗北の恥を晴らすこと。)耻をおもひ、敵人(あたびと)をうらむ事なかれ。これ偏に先世の宿業なり。もし遺恨をむすばゞ、そのあだ世々につきがたかるべし。しかじはやく俗をのがれ、いゑを出で、我菩提をとぶらひ、みづからが解脱を求には。といひて端坐して西にむかひ、合掌して仏を念じ眠がごとくして息絶にけり。」この出来事が上人の生涯を貫いての課題となり「ただ念仏」の道を歩まれることになるのです。法然上人は「偏依善導」といわれますように善導の『観経疏』に耳を傾けられたのですが、その中に「門八万四千に余れり。・・・縁に随う者は則ち解脱を蒙る。」(真聖p340-玄義分・序題門)ここに問題が一つありますね。どの道でもよいのかと云うことです。どの道を歩んでも解脱を蒙ることであるならば、何故に浄土の教えなのかということです。善導は「然るに衆生障り重くして、悟りを取るの者明らめ難し。」といわれ、また『観経』に苦悩は「無量億劫の極重の悪業」(真聖p100)であり、その為に苦悩を除くのではなく、苦悩を除く法を説くので有るといわれているのです。根源的な無始無終の罪といっていいのでしょうか。あくまでも自覚の話ですが。この罪業も如来に言い当てられて初めて自覚できるのですね。如来も衆生も一如来生なのですね。自覚は表は罪業の自覚であり、裏は救済の事実なのです。親鸞聖人はこの問題について善導の教えを身に受け「しかるに常没の凡愚、定心修しがたし、息慮凝心のゆえに。散心行じがたし、廃悪修善のゆえに。」といわれました。「たとい千年の寿を尽くすとも法眼未だかって開けず」というわけです。「余」はすなわち本願一乗海なり。」(真聖p341-化身土・本)と教えてくださいました。本願一乗海のみが「在世・正法・像末・法滅、濁悪の群萌、斉しく悲引したまうをや。」なのですね。悲引というところに「本願の嘉号をもって己が善根とするがうゆえに、信を生ずることあたわず・・・」という自己への眼差しがあるのではないでしょうか。その眼差しが悲引を引き出してくるのだと思います。唯識で言われる倶生我執の自覚です。「救われる縁もゆかりもない身」の自覚が、無根の信をいただくことになるのでしょう。
 命の尊さには重い命・軽い命などの差別はありませんね。また私有化できる命もありません。命はすべて平等に与えられたものであるという眼差しが社会全体に行き渡っていないところから来る悲惨さだと思います。そうしましたら何が有るのかと云うことです。簡単に言うと私の欲望を満足させることです。そのことに一喜一憂しているわけですね。欲望が崖っぷちで先が見えないとなりますと絶望するわけです。最後の砦として自らの命を絶つことに於いて自らの欲望を満足させるのですね。いうなれば私たちは欲望との妥協に於いて生きているのかもしれません。それが私の願い・いや願いとはいえないでしょうね。私の欲望です。しかし私たちはその欲望を浄化するはたらきをもっているのですね。ここが大切です。「六識とともにはたらく心作用」を参照してください。私の欲望を本来の欲に変える心作用があるということなのです。本来の欲は私の方向が・行き先が明確になるということなのです。その為に今がチャンスと云うわけです。チャンスを機といいます。千載一遇が今なのですね。命は法性無為の楽を願っているのですね。無我の命に目覚めよと云うわけです。目覚めを待って私の命は与えられてあるのですね。生きることの意味は今が目覚めのチャンスということですね。それ以外に生きることの意味はないものだと思います。
 私たちは外界に実体として何かが存在していると思っているのですが、実はそうではないのですね。あるのは自分の心に映し出したものを対象としてみているのです。自分で自分の心を見ているのですね。ですから私の捉えられる範囲でしか見られないのですね。私の捉えられない世界はわからないのです。根源的に自己中心です。他にいう言葉ではないのです。自己中心は自分のことであったということです。自性唯心ですね。自分の学んだこと、経験したこと以外はわからないのです。聞法も同じですよ。聞いたことを手柄として、わかったような顔をしていますわ。自性唯心に沈むんですね。そこでね。沈んでいる自覚が大事なのです。「自性唯心に沈みて浄土の真証を貶す、定散の自心に迷いて金剛の真信に昏し。」(信巻・序)という自覚ですね。論に「是の識転変して、分別たり、所分別たり。此れに由って彼は皆無し、故に一切唯識のみなり」(『三十頌』第十七頌)と。我が心が見る働きと見られる働きに変化するのです。仮に有るということですね。例えば夜空に煌々と輝く月ですね。私たちは月という概念を見ていますね。実体としての月はどこにも無いのです。自分の心に映じた月という概念ですね。仮に有るということなのです。ですから諸行無常・諸法無我の理に由って実体としてのものは無いということになるのです。あるがままに見るということは出来ないのですね。自分の都合に合わせてみているのです。その自分も実体として有るわけではないのですね。仮に存在しているということ、無我の我を生きているということでしょう。「識所変に離れては皆定めて有るに非ず」私の心を離れて実体として実在するのではない。私の心で見ているに過ぎないのですね。それを仮というわけです。仮ということに於いて執着から離れることが出来ますね。実という固執ですね。そこでは執着が離れません。聞法は自分を問うことですね。そうしましたらどれだけ自分を問うことが出来るかです。問いの深さに比例して仏法が聞こえてくるのではありませんでしょうか。打てば響いてくるのですね。打たなかったら何も響いてはきません。打つのはあなただと催促されていますね。「能く掌の中において一切世界を持せり。」(『大経』)掌、手のひらですね。手のひらの中に一切の世界が納められているといわれているのです。手のひらの中にということは、仏の教えを受け止める姿だそうです。掌で仏法を受け止めるのですね。私たちはどれだけ大きな掌を持ち合わせているのかが問われているようです。
 重ねて云いますが、私たちは外界に実体として何かが存在していると思っているのですが、実はそうではないのですね。あるのは自分の心に映し出したものを対象としてみているのです。自分で自分の心を見ているのですね。ですから私の捉えられる範囲でしか見られないのですね。私の捉えられない世界はわからないのです。根源的に自己中心です。他にいう言葉ではないのです。自己中心は自分のことであったということです。自性唯心ですね。自分の学んだこと、経験したこと以外はわからないのです。聞法も同じですよ。聞いたことを手柄として、わかったような顔をしていますわ。自性唯心に沈むんですね。そこでね。沈んでいる自覚が大事なのです。「自性唯心に沈みて浄土の真証を貶す、定散の自心に迷いて金剛の真信に昏し。」(信巻・序)という自覚ですね。論に「是の識転変して、分別たり、所分別たり。此れに由って彼は皆無し、故に一切唯識のみなり」(『三十頌』第十七頌)と。我が心が見る働きと見られる働きに変化するのです。仮に有るということですね。例えば夜空に煌々と輝く月ですね。私たちは月という概念を見ていますね。実体としての月はどこにも無いのです。自分の心に映じた月という概念ですね。仮に有るということなのです。ですから諸行無常・諸法無我の理に由って実体としてのものは無いということになるのです。あるがままに見るということは出来ないのですね。自分の都合に合わせてみているのです。その自分も実体として有るわけではないのですね。仮に存在しているということ、無我の我を生きているということでしょう。「識所変に離れては皆定めて有るに非ず」私の心を離れて実体として実在するのではない。私の心で見ているに過ぎないのですね。それを仮というわけです。仮ということに於いて執着から離れることが出来ますね。実という固執ですね。そこでは執着が離れません。聞法は自分を問うことですね。そうしましたらどれだけ自分を問うことが出来るかです。問いの深さに比例して仏法が聞こえてくるのではありませんでしょうか。打てば響いてくるのですね。打たなかったら何も響いてはきません。打つのはあなただと催促されていますね。「能く掌の中において一切世界を持せり。」(『大経』)掌、手のひらですね。手のひらの中に一切の世界が納められているといわれているのです。手のひらの中にということは、仏の教えを受け止める姿だそうです。掌で仏法を受け止めるのですね。私たちはどれだけ大きな掌を持ち合わせているのかが「今まさに」問われているようです。
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「唯有識無外境」、果たして三界は唯心か? (74)九難義 (14) 唯識成空の難 (7)

2016-08-26 23:39:14 | 『成唯識論』に学ぶ


 昨日は、六句義について、「六句義では、まず実体と属性を厳密に区別します。実体を「実」(dravya)と称し、また属性のうちの主として静的属性を「徳」(guna)、動的属性を「業」(karman)と呼びます。実、徳、業はそれぞれ独立しているが、離れて存在することはできない、必ず密着不離に存在するから、この関係を「和合」(samavaya)(六句義の一つ)といいます。
 さらに、具体的に存在するものは、より一層普遍的なものの内に所属しますが(形式論理学的にいえば類)、このことを実在視して「同」(samanya)句義と呼びます。反対に存在するものが、一層普遍的でないもの(さまざまな特殊なもの)を包含している(形式論理学的にいえば種)ことを「異」(visesa)句義としています。実・徳・業・和合・同・異で六句義です。」と述べました。
 『成唯識論』巻第一に、我の種種相・法の種種相の説明がありまして、「我の種種相とは、謂く有情と命者等(世間我)と預流・一来等(聖教我)なり。法の種種相とは、謂く実と徳と業等と蘊・処・界等なり。」と、我法は転ずることを以て仮説されたものであることを明らかにしているのです。「転と云うは縁に随って施設して異なること有るなり。」この施設が仮説を以て安立の義であることを述べ、仮は一体何に依るのかを問うているのです。

            静的属性を「徳」(色・香・味・可触性・数・量・別異性・結合・分離・かなた性・こなた性・知覚作用・快感・不快感・欲求・嫌悪・意志的努力)
   実体(九つ){
            動的属性を「業」(上昇・下降・収縮・伸張・進行運動)

 このようにみていきますと、実体化に付属するものとして「徳」・「業」が生起することを語られていることが読み取れます。
 そして物質はどのように構成されているかについては、有部の教学では、
 (1) 四大種と四大種所造から成り立っていると云われています。
 (2) 極微から成り立つとする考え方です。
 (3) 
そして二諦説です。無体随情仮・有体施設仮という仮説有によって説かれます。
 
 極微の否定
 「どうして(原子が一つの実体であると)証明されないのかというと、
  同時に六個と結合するゆえに、原子は六部分をもつことになろう。(第十二頌)
 一つの原子がその(上下と四方の)六方で、六個の原子と一時に結合するときには、原子に六部分があることになる。一つの原子があるところには他の原子は存在しえないから。
 (注) 原子は、物質を分析し続けた極限の、これ以上分割できない最少の実体を意味する。だから、原子になお部分があるということは自己矛盾にほかならない。
  逆に、六個が同一の位置にあるとすれば、(可視的な大きい)固体も一原子の大きさになってしまう。

 何を言いたいかといいますと、簡単にいえば、諸行無常・諸法無我を論証したいわけです。ここがはっきりしないと、一切法は実体として有とし、我は有とする考え方が一般的になります。今回起きたある俳優さんの事件にしても、自分の生まれてきた背景が明らかになっていない、悲しむべきことですね。
 親鸞聖人は、「しかれども、一人にてもかないぬべき業縁なきによりて、害せざるなり。わがこころのよくて、ころさぬにはあらず。また害せじとおもうとも、百人千人をころすこともあるべし」と述べられていますが、心して聞かなければと思います。
 業道自然という語があります。重きもの先ず牽くと所依の問いが宿題として課せられているのですね。
 「聖人のおおせには、「善悪のふたつ総じてもって存知せざるなり。そのゆえは、如来の御こころによしとおぼしめすほどにしりとおしたらばこそ、よきをしりたるにてもあらめ、如来のあしとおぼしめすほどにしりとおしたらばこそ、あしさをしりたるにてもあらめど、煩悩具足の凡夫、火宅無常の世界は、よろずのこと、みなもって、 そらごとたわごと、まことあることなきに、ただ念仏のみぞまことにておわします」とこそおおせはそうらいしか。」
 有ってはならないことが起こる背景に謗法の問題が潜んでいるのです。理性という倫理観で安心が保たれると云うのが闇の問題かもしれませんね。
 「如来の遺弟悲泣せよ」、末法濁世の罪濁の自覚が仏法の学びを歩ませてくれているのでしょう。南無阿弥陀仏
 
 
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「唯有識無外境」、果たして三界は唯心か? (73)九難義 (13) 唯識成空の難 (6)

2016-08-25 23:34:45 | 『成唯識論』に学ぶ
  

 『二十論』第十頌から第十四頌において、五識の対象である五境、色・声・香・味・触そのものが外界に実在しないことを論証しようとしていますから、『三十頌』の背景になるのですね。つまり、唯識無境を証明する箇所になるからです。
 それは外界実在論者との対話によるものであり、六派哲学の思索の上に『二十論』は位置しているものと思われます。
 例えば、五蘊ですが、それぞれがバラバラの状態では色形は生まれてきません。和合して初めて色形が相を為すことができるのですね。これが、和合する所の原子が有るとする説の原初体が勝論学派の主張です。
 外界実在論者の反論は、仏陀がお説になられた五根・五境の十部門の教説を物質的なものとして(有として)実在する根拠にして問いを立てていることです。仏陀の説法は対機説法と伝えられていますように。世俗の有様をもって説法をされたのです。識が生まれるには、身体に根が有り、対境には実体的なものが存在して、根・境の循環的相応に依って識が生れるということに執着したのです。『二十論』では仏の密意趣として「仏意測り難し」と、その言葉通りに捉えるべきではないと云います。五境は識の織りなす世界であると。

 梵文和訳より
 「(一)そのうち、単一なものは(認識の)対象とならない。というのは、(対象の)諸部門と別に、単一な全体性などどこにも認識されはしないからである。(二)原子の一つ一つは、(対象の形象をもつものとして)認識されはしないからであるから、多数の原子が(対象の形象をもってあらわれる)こともない。(三)さらに、それらが集結したものも認識の対象とはならない。というのは、(集結体の部分としての)原子が一つの実体であつとは証明されないから(それらが集結体を構成することもありえないからである)。

 勝論学派は、この世界は複数の構成要素である原子の集合体から形成されていると説きます。つまり、多元論的世界観なのです。これが積集説(アーランバ・ヴァーダ)の代表説とされます。
 勝論の由来は、ヴィシェーシャ(特殊・区別)という語により、六句義を設定して、これによって現象界の諸事物がどのようにして形成されているのかを分析解明しようとしています。
 六句義
  実体(実)・属性(徳)・運動(業)・普遍(同)・特殊(異)・内属(和合)という六種のパダールタ・範疇範囲・原理をいう。
 ・・・・・・・・・・・・・・・・・
 saryasomaさんのブログより引用させていただきます。
 「まず、正統バラモン教六派哲学の一つである勝論派(ヴァイシェーシカ)の捉え方について考えてみたいと思います。
 六派哲学はサーンキャヤ、ヨーガ、ニヤーヤ、勝論(ヴァイシェーシカ)、ミーマンサー、ヴェーダンタの六体系のことです。それぞれの詳細は、また別の機会に譲りたいですが、この中の勝論派(ヴァイシェーシカ)は、紀元前2世紀ごろ、カナ―ダ(Kanada、別名ウルーカ)という人が始めたといわれます。
 論派の特徴は六句義(後にさらに増えているようだが、ここでは最大公約数的に六句義で考えます)を立てているところです。世界の構成、事象、人間の行為等を六つの句義(padartha,カテゴリー的なもの)で説明しようという客観主義的、合理主義的な色彩の強い思想で、ミーマンサー等のように、ヴェーダに強く依存するというよりも一般社会の思想傾向に近いといえます。
 六句義では、まず実体と属性を厳密に区別します。実体を「実」(dravya)と称し、また属性のうちの主として静的属性を「徳」(guna)、動的属性を「業」(karman)と呼びます。実、徳、業はそれぞれ独立しているが、離れて存在することはできない、必ず密着不離に存在するから、この関係を「和合」(samavaya)(六句義の一つ)といいます。
 さらに、具体的に存在するものは、より一層普遍的なものの内に所属しますが(形式論理学的にいえば類)、このことを実在視して「同」(samanya)句義と呼びます。反対に存在するものが、一層普遍的でないもの(さまざまな特殊なもの)を包含している(形式論理学的にいえば種)ことを「異」(visesa)句義としています。
 実・徳・業・和合・同・異で六句義です。
 「実」には地・水・火・風・空・時・方・我(アートマン)・意の九種、「徳」には色・香・味・触・数・量・別體・合・離・彼體・此體・覚・楽・苦・欲・瞋・勤勇の十七種があります。
 そして、肝心の「業」には、取・捨・屈・伸・行の五種があります。取・捨は手で取ったり離したりのイメージからこの漢字を当てはめたといわれていますが、取は上方への運動、捨は下方への運動です。屈は一方に、縮まる運動、伸は伸びる運動、屈伸で水平の運動を示しています。行は垂直水平の複合したものです。取・捨・屈・伸・行の五種はすべて運動を表しています。
 この業には、運動の余韻、余力が生じると考えます。この余力が、不可見力として(輪廻を認めるとすれば)次の生まで及ぶと考えるようになります。善業ならばその善い余力が、悪業ならばその悪い余力が、先天的の宿命的勢力として次の生を支配すると考えるわけです。これが宿業的な考え方に結びついてきたのでしょう。
(この稿は、主に宇井伯寿著「印度哲学研究・勝論経における勝論学説」に負っています)
  ・・・・・・・・・・・・・・・・・・
 少し付け加えますと、実体とは、四元素と虚空と時間と方角とアートマン(我)とマナス(意)の九つです。四元素はそれぞれ原子(極微)からない、原子は球体状であり、無数で不滅で、分割できず、微細でであって直接知覚されることがない。原子は二つ以上が結合して複合体を形成して、われわれが現実に近くできるものとなるが、これらの複合体は無常であり、破壊され変化するものである、と説かれます。
 このように見ていきますと、(一)の答論の意味がはっきりします。
 すみません、また明日にします。おやすみなさい。

 
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「唯有識無外境」、果たして三界は唯心か? (72)九難義 (12) 唯識成空の難 (5)

2016-08-24 22:54:40 | 『成唯識論』に学ぶ
  

 partⅢ 
 『唯識二十論』第十頌 問と答
 「復云何知佛依如是密意趣説有色等處。非別實有色等外法爲色等識各別境耶。頌曰 以彼境非一 亦非多極微 又非和合等 極微不成故論曰。此何所説。謂若實有外色等處。與色等識各別爲境。如是外境或應是一。如勝論者執有分色。或應是多。如執實有衆多極微各別爲境。或應多極微和合及和集。如執實有衆多極微皆共和合和集爲境。」(大正31・75c)
 (復、云何ぞ、仏は是の如き密意趣に依って色等の処有りと説くも、別に実の色等の外法有りて色等が識の各別の境と為るに非ざるや。
 頌に曰く、
 彼の境は一に非ず。亦た多の極微(ゴクミ)にも非ず。又、和合等にも非ず。極微は成ぜざるが故なり。(第十頌)
 論じて曰く。此れは何の所説なりや。謂く若し実に外の色等の処有りて色等の識の與(タ)めに各別に境と為らば、
 (1) 是の如き外境は或は応に是れ一なるべし。勝論者の有分色を執するが如し。
 (2) 或は応に是れ多なるべし。実に衆多の極微有りて各別に境と為ると執するが如し。
 (3) 或は応に多の極微の和合及び和集すべし。実に衆多の極微有りて皆共に和合・和集して境と為ると執するが如し。)
 和訳
 外界実存論者は反論する、
 (云何ぞ)ではまた、仏陀はそのように密意趣に依って色等などの処が実在すると説いたとしても、識とは別に、色等の外界のものが実在して、それらが色等の識のそれぞれの認識の対象とはならないということはどうして知り得るのか?
 論主は答えて云う。頌において、
 「彼の識の認識対象は単一なるものではない。また、多くの極微でもなく、また、極微の和合したものでもない。極微は成り立たないからである。」
 それを論じて云う。
 (此れは何の所説なりや)この頌によって何が説かれているのか。
 つまり、もし外界の色等の部門が実有であって色等の識のためにそれぞれ認識対象なるとなるならば、
 (1) そのような外境は単一なるものとなるべきである。勝論学派が有分色を執するように。
 (2) 或はそれは(原子のままで)多数なるものである。実に数多くの極微が存在して、それらがそれぞれに認識対象と執するように、
 (3) 或は多くの極微が和合するか、和集するか(原子の集合したもの)を認識対象であると執するように。(これは経量部の主張になります。実に多数の極微が存在していてそれらが皆共に和合し集積して認識対象になると考えているようにである。)

 世親菩薩は、色形などの認識対象が外界に実有として存在しないことを論証する為に、外界を構成している元素そのものが実在しないことを明らかにされているのです。このことは、古代インド哲学の主流である六派哲学において、宇宙の構成原理は、元素(四大種や極微)から造られるとする考え方が大勢を占めていたからです。
 第一説は、ヴァイシエーシカ学派は次のように主張する、(『二十詩篇の唯識論』p437より引用)
 「たとえば、茶わんは原子の集合からなるが、しかも但なる集合とは別に、茶わんという単一なる全体性をももっている。(有分色という)この全体性は多くの原子からつくられながらも、しかも、それらとは別な実体である。しかし、仏教者は、手は五本の指として見られるだけで、第六番目の実体として手をいうものがあるわけではないとして、全体性の理論を否認する。」

 ヴァイシエーシカ学派は、同類のものには(例えば茶わんや牛)同一の共通性が実体として内属していると考えているのです。実体として内属されたものは外界に実在すると考えられているのです。
 第二説・第三説の説明は後日にします。そして世親菩薩が認識対象は実在しない論証をみていきます。
 

   ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
 付録(『大乗仏典』より。梵文和訳)
 (反論)「しかし、君の言うような意味で世尊から色形などの諸部門の存在を説いてのであって、決して(色形などの諸部門が外界に)実在していて、色形の認識をはじめとする一つ一つの認識の対象となるのではない、ということはどうして知りうるのか」
 (答論)次のようにして知りうる。
 それは単一なものとしても対象とならず、多数の原子としても対象とはならず、またこれら原子の集結したものとしても対象となりえない。原子は証明されないものだから。
 何が意味されているのか。すなわち、色形などの部門が、色形の認識などにとってそれぞれ対象となるとすれば、それは、(一)ヴァイシエーシカ学派が想像している全体性のように単一なものであるか、(二)原子のままで多数のものであるか、あるいは、(三)原子の集結したものであるかのいずれかであろう。 (つづく)
   ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
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「唯有識無外境」、果たして三界は唯心か? (71)九難義 (11) 唯識成空の難 (4)

2016-08-21 22:22:49 | 『成唯識論』に学ぶ
   

 昨日の『雑感』とつながりがありますので、partⅡにしておきます。
 迷いと云うものは面白いものですね。迷いが迷い自身を納得させようと働いているように思えるのです。
 迷っているのは迷わせる原因があって迷っているだけだと。
 あなた自身には何も迷う原因はない。原因がないのに迷っているのは他に原因があるのだから、それを解決さえすれば迷いは晴れると、迷いが迷いを納得させるのです。
 「見取等の如し」といわれています。見取とは、『瑜伽論』巻第十に「見取とは云何、謂く薩伽耶見を除いて所余の見に於けるあらゆる欲貪なり。」と定義されています。
 『論』には「謂く、諸見と及び所依の蘊とのうえに執して最勝なりとなし能く清浄を得すという。一切の闘争の所依たるを以て業と為す。」と定義されています。
 つまり、五見の一つなのです。他の間違った悪見を正しいと認識し、それを自己の見解として執着する心で、それが闘争をもたらす原因となるわけです。闘争の原因となる背景には自己執着心が漂っているわけですが、それが細やかに詳らかに真実を覆い隠している。
 闘争という面からは自己との限りない闘争です。それほど自己とは深いものなのです。迷いが迷いを納得させようと働いているのは限りなく浅く、「行相浅きを以て是れ煩悩にあらず」と。 迷いが迷いを納得させようと働いている底に流れている自己執着心が深いのです。第七末那識相応の煩悩は深いのですね。自己自身の根幹に関わる問題です。聞法は自己闘争といってもいいのではないですか。
 自己闘争は、自己を納得させるものでは有りません。「仏法を聞いて心が落ち着き、晴れやかになりました」と。これは我執が納得しているだけの話です。すぐに現実に戻され退転しますから、聞き方を間違えますと仏法を聞いて仏法を利用する、己の利の為にですね。世間の法の選択肢の一つとして利用するという関係になります。仏法を利用しているだけではないのかという目覚めが必要になりますでしょう。そこを突破するというか、この闇を切り裂く働きが名号ですね。南無阿弥陀仏の法です。「極重悪人唯称仏 我亦在彼摂取中 煩悩障眼雖不見 大悲無倦常照我」と。反逆者の自覚、それが限りなく救われることは無いという目覚めにつながるのでしょう。
 僕は、一番辛い在り方は何かと模索しておりました。財産や名誉等が頼りになる間はいいんです。他を攻撃しても生きていけますからね。何かを頼りに生きられる間は、まだ余裕が有るのでしょう、「何とかなる」と。
 しかし、身体も弱まり、家族も無く、頼るべきものをすべて失ってしまったらどうなるのでしょう。他人ごとではないのですね。僕自身がいつ孤独の闇に閉ざされるのかという問題が潜んでいます。
 孤独の闇は、自己と他者を分断した自己責任なんですが、自己は他者との縁に依って支えられている現行を否定することに由って何がもたらされるのか。そうしますと、「処に随いて業を造り苦楽を受ける」ことになります。
 何も頼りにできない。頼りにしていたものからも見放されてしまった。「こんな私にしたのは誰」という愚痴が出て、最後の最後に精神疾患を引き起こすことになるのではないでしょうか。つまり、支えられている「いのち」への目覚め無きことから起こってくる問題であると思われるのです。
 僕は、周りの状況は善でもなく悪(不善)でもない無記の在り方だと思うのですね。善・悪はこちらの判断でしょう。「こちらの判断」深い問題を提起してくれます。どのような状況の中でも手が合わさることができるのか、否かが分水嶺になるようです。
 数論・勝論の大雑把な主張は、「我の体は常である。その上に、我の量は虚空と同じ大きさで、どこにでも周遍している。」と云います。我常と法体恒有ですから、これらを否定されますと、そこに苦楽の感情が引き起こされてくると主張しますから、常に我常を維持する為に外界の変革を余儀なくするのです。
 このような主張に対して大乗仏教は「あなた方が主張している実我・実法には体は無い、ただ妄情に随って実我・実法が存在すると云っているだけである。」と。体は識であり、識としての依他起であって実我・実法が存在するのではない、と論破してくるのですね。
 『二十論』の第十頌に勝論の主張を論破して、次のように述べています。勝論も外界実在論なのですが、その主張は有分色(ウブンシキ)の主張に顕されています。
 物質の構成要素である四大種(地・水・火・風)を四元素とし、四元素からできた個物を有分色といい、その個物を構成させる普遍的特性が内属し、いずれも実在すると考えているのです。
 「頌に曰く、
 彼の境は一に非ず。亦多の極微(ゴクミ)にも非ず。又、和合等にも非ず。極微は成ぜざるが故なり。」
 (彼の識の対境は単一のものではない。また、多くの極微でもなく、また、極微の和合したものなどではない。極微というものは成り立たないからである。)
 極微とは、物質を構成する最小単位である原子のことを云います。極微は存在するというのが勝論であり、説一切有部の考え方になります。四大種所造色です。四大種から造られたものが身体及び物質であると主張します。
 『倶舎論』分別界品第一・第十二頌に、
 「大種謂四界 即地水火風 能成持等業 堅濕煖動性」とぴう記述があります。
 (大種は謂く四界なり、即ち地水火風なり、能く持等の業を成ず、堅濕煖動(けんしつなんどう)の性なり。)
•大種 - 四大種。地水火風の四元素
•持等の業 - 保持・包摂・熟成・増長の作用。
•堅濕煖動 - ①地は堅の性で、物を持つ作用がある。②水は濕の性で、物を摂める作用がある。③火は煖の性で、物を熱する作用がある。④風は動の性で、物の長くのびる作用がある。
 四大種は能造であり、その他の色法はすべて所造(四大種所造色)という。世親は「造は是れ因の義、種は所依の義」と説明しています。因であり種である、と。四大を因として果(未来)にある所造が現在に顕れたというのです。すべの色法は能造の四大と所造の色・香・味・触の八種が集合して出来上がったものであると説明します。又、四大種を実の四大種と仮の四大種とに分けて説明しています。
•実の四大種 - 堅・濕・煖・動という触覚的なもの。
•仮の四大種 - 眼などの感覚でとらえられた地・水・火・風の四つは、実の四大種から造られた仮の四大種であると考えられました。
 引用文献
 『倶舎論』「地界能持。水界能攝。火界能熟。風界能長。長謂増盛。或復流引。業用既爾。自性云何。如其次第即用堅濕煖動爲性。地界堅性。水界濕性。火界煖性。風界動性。由此能引大種造色。令其相續生至餘方。如吹燈光。故名爲動。品類足論及契經言。云何名風界。謂輕等動性。復説輕性爲所造色。故應風界動爲自性。擧業顯體故亦言輕。云何地等地等界別。」(大正29・3b)
 第十三頌に於いて、仮の四大種を説明しています。
 「地謂顕形色 随世想立名 水火亦復然 風即界亦爾」
 (地は謂く顕形(けんぎょう)の色なり、世想に随って名を立つ。水も火も亦復然り。風は即ち界と、亦爾りとなり。)
 (現代語訳)世間の呼び名に随って、顕色及び形色をもったものを地と名づける。水・火・風も同様である。その体は顕形色である。
 「色(シキ)」とは「いろ」という意味ではなく、色蘊の色で、物質的なるものという意味です。原語は、ル―パで二つの性質をもつ「もの」として定義される。
 ① 「変壊」(へんね) - 変化し壊れてゆくもの。肉体は生まれた瞬間から死に至るまで変化しつづけ、衰えていくという、無常を言い表しています。
 ② 「質礙」(ぜつげ) - 同一空間に二者が共存できないもので、互に礙えること。二者が同時に同処を占有することはできないという定則です。
極微についても論究されています。極微は色法と名づけることはできないのではないか、と。理由は質礙の意味を持っていないからである。この問いに答えて、一つの極微が単独で存在するということはなく、必ず衆徴集まって諸法を成り立たせているので、そこには質礙は成立しており、何等問題はないという。又過去未来の色は色法と名づけることはできないという問いに対して、過去の色は曾って変礙したもの、未来の色はまさに変礙すべきものであるから、色法と名づけて差し支えないと答えています。変壊と質礙とをまとめて「変礙」といっています。もう一つ、無表色の問題があります。無表色は色法とはいえないのではないかという問いです。これに三説答えられています。
 ①表色に質礙の意味があるから、無表にも色の名を与えたのである。この説には無理がある。喩が出されているのですが、「樹が動くと影も動くようなものだ」と。しかし樹がなくなると影もなくなってしまうではないか。もともと無表には質礙の意味はないから、これを色とするのは無理である、と。
 ②有部の説になりますが、所依の大種に質礙の意味があるから、それによって無表色も色と名づけられるのである、というのですね。ここで又問いが出されます。   
 所依の根に質礙があるというのであれば、能依の識を色と名づけても差し支えないのではないと。有部の反論は、無表が大種に依って起こるのは、丁度影が親しく樹に依り、光が親しく珠宝に依る様なものであるけれども、眼識等が眼根に依るのは、この喩のような意味とは異なって、唯だ助縁となるだけのことである。しかしこの主張が有部の教説とは異なっていると批判されるのです。          
 ③は、世親の救釈です。眼識等の五は所依が定まっていない、五根のような質礙のあるものを所依とし、或は、意根のような質礙のないものを所依とする。しかし無表の所依はそうではなく、必ず四大種と定まっている。①と②の説は的を得ていない、変礙もまた色と名づけて差し支えないのだ、と。
 明日は、認識の対象は何かについて論趣の答論をみていこうと思います。


 
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雑感 ヴァイシェーシカ学派の思想について (1) 

2016-08-19 22:16:35 | 『成唯識論』に学ぶ
     参考文献

 勝論(Vaiśeṣika)ヴァイシェーシカ学派を学ぶについて、一応の概説を先ず学んでおこうと思います。ただ唯識はブラーフマニズムの六派哲学をどのように理解していたのかを手掛かりにしたいと思います。
 古代カースト制度の司祭をブラーフマナ(婆羅門)といいました。最上級階層ですね。この婆羅門の哲学に六派あり、六派哲学と呼ばれ、ヴァイシェーシカ学派はその中の一つになります。
 六派とは、
 (1) サーンキャ学派(数論)
 (2) ヨーガ学派
   ・・・・・・
 (3) ヴァイシェーシカ学派(勝論)
 (4) ニヤーヤ学派
   ・・・・・・
 (5) ミーマーンサー学派
 (6) ヴェーダーンタ学派
 
 ここからは、すごく分かりやすく説いてくださいます川崎信定氏の論考を参考に筆を進めてまいりたいと思います。

 世界の生成及び因果関係についてインドの伝統的考え方が『種種なる道』(マドースダナ・サラスヴァテイー著述・15世紀頃)に説かれています。
 大きく分類して三種類に分けられます。
 (1) パリナーマ・ヴェーダ(転変・開展説)
 世界はある一つの原因から展開し、あるいはこのものが変化して形成される。これは因果論ろしては、原因の中にすでに結果が潜在していると考える因中有果論(インチュウウカロン)になります。原因は結果と本質を同じくするものであって、結果とは原因とまったく別のものが独立して成立したものではないと説きます。ヴェーダ・ウパニッシャドの思想に見られる一元論的思考などもこれに含まれ、インドに古くから根強く存在する思考傾向である。六派哲学のなかでは、根本原質からの世界開展を説くサーンキャ・ヨーガ学派に代表されます。
 (2) アーランバ・ヴェーダ(積集・集合(シャクジュウシュウゴウセツ)説)
 世界は、異なった性質を持つ無数の原子の集合から形成されると説きます。
 原因は結果とはまったく別個のもので、原因の集合・活動によって、それ以前には存在しなかった結果が新しく生起すると考えるのが因中無果論になります。六派哲学の中ではヴァイシェーシカ・ニヤーヤ学派の多元論が代表的です。ミーマーンサー学派もこの立場をとっています。ジャイナ教の原子説や仏教の五蘊説もこれに分類されます。
 (3) ヴイヴァルタ・ヴェーダ(化現・仮現(ケゲン・ケゲン)説)
 世界は、無明(根源的無知)から仮に現出してきたものであって、本来はマーヤ(幻)のように迷妄であって実在しないとする説です。因果論としては、因中無果論の一形態であるが、結果の実在性を否定している点に特徴があります。シャンカラのヴェーダーンタ学派に代表されます。大乗仏教の唯識説もこれに分類されるようです。

 以上のように学派も三分類されるようですが、その特徴については後日に譲ることにしまして、『成唯識論』では「破我」と「破法」において数論及び勝論の説が破斥されています。
 『選注』本ですと、p3及びp8。『新導』本ですと破我がp4・破法がp10になります。
 「仮に由りて我・法有りと説く、種々の相転ずること有り。彼は識が所変に依る」の一段を釈して、唯識の道理を明らかにするところで、実我・実法が有るという考え方を論破しているのです。そこに数論及び勝論の説が出されています。
 先ずここを手掛かりに読んでいこうと思います。最初に戻りますが、実我・実法という妄想は根が深いからですね、しっかりと学ばなければなりませんね。 (つづく)
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