唯識に学ぶ・誓喚の折々の記

私は、私の幸せを求めて、何故苦悩するのでしょうか。私の心の奥深くに潜む明と闇を読み解きたいと思っています。

初能変 第四 五受分別門 第二釈不與余心所相応所以 (3)

2015-10-20 21:56:12 | 初能変 第四 五受分別門
 

 「勝解は決定の事を印持して転ず。此の識は瞢昧(ムマイ)にして印持(インジ)する所無し。」(『論』第三・四左) 勝解は、対象を確認し勝れた理解をする心の作用をいいます。「何事もひしと思ひ定むる心なり」(『法相二巻抄』)「ひしと」はしっかりと・思ひ定むるは決定的に理解する心と云う意味です。「決定の境に於いて印持するを以って性と為し。引転すべからざるを以って業と為す。」対象を決定的に理解していることを心に刻み込むことを以って本質とする心所です。それに対して、第八識の行相は、明らかならざること闇昧である。はっきりしていないということです。つまり、「決定の事を印持して転ず」という働きを持ちません。従って、この識には勝解は無いということなのです。
 瞢はボウと漢音では読み、呉音でムと読みますが、くらいという意味のことです。

 「念は唯だ曾習(ソジュウ)の事を明記して転ず。此の識は昧劣(マイレツ)にして明記すること能わず。」(『論』第三・四左)
 「念」という心所は「勝解」を受けるというかたちです。境(対象)に対し善悪を明確に(はっきりと)確認し、認識をして決定する。それに応じて、「念」は認識されたものを明らかにして(記憶して)忘れない。(明認不忘)ということになります。「曾習(ぞうじゅ)の境に於いて。心をして明記して不忘ならしむるを以って性と為し。定の依たるを以って業と為す。」といわれています。曾はかって・以前にということで、過去のことです。習は経験です。よって過去に経験したことを確認し認識をして忘れないことが性質であるということになります。ここに「念」という心がはたらくのですね。はたらくことが定の依り処になる。私の経験したことのすべてが今を生み出しているということですね。それを私は忘れてはいないことに心が定まるということです。そうしますとそこに私の行き先・方向が決まってくるということになります。業は行為ですから過去の経験のすべてを依り処として明日の行動が決まるということなのですね。ですから方向転換ということはものすごいエネルギーを要するのです。しかしね。今、決定(けつじょう)することが大事なのです。なぜならこの念は善悪のどちらにもはたらきますから、選びがないのです。今が未来を決定するのです。忘れてはなりませんね。『法相二巻抄』には「経て過にし事を心のうちに明に記して忘れざる心なり」(過去に経験した事を心の中に明らかに、はっきりと記憶して忘れない心を念という)とより具体的に述べられています。この念が定をおこす因となるということなのです。欲望のままにということになりますと欲念ということになりましょうし、怨みを抱いてということですと怨念ということになりますね。仏を念ずることは念仏ということになりましょう。問題は私は何処に向かって歩いているのかということです。生きる方向です。それがはっきりしているのかが問われている、こういう意味を持っているのが念の心所なのですが、この第八識は、昧劣にして明記することがありませんから、念のような働きは持ちません。従って相応しないということになります。
 「此の識は昧にして且つ劣、恒に任運に現在の境を縁ず。明に曾所受の境を記すること能わず。故に念有ること無し。」(『述記』)
 曾所受の境(曾習)は、過去に経験したことを云います。


 明日は、定と慧が第八識と相応しない理由を述べます。

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