唯識に学ぶ・誓喚の折々の記

私は、私の幸せを求めて、何故苦悩するのでしょうか。私の心の奥深くに潜む明と闇を読み解きたいと思っています。

唯識入門(28)

2020-05-24 14:51:08 | 『成唯識論』に学ぶ
 今日は。先週はお休みをいただきました。一週おきまして、今週から四分義について考えてみます。認識はいかにして成り立っているのかという考究になります。
 それに先立ちまして、唯識の基本に一度立ち返りたいと思います。
 唯識は、2000年以上も前から仏教の世界では連綿として伝わってきた思想です。唯識とは、「ただ識のみあり」、ただ心だけがあるということです。「唯識」とは、私たちの苦悩の解明に心血を注いで発見した珠玉の名言です。
 ただ心のみがあるとはどういうことでしょうか。私たちは私と周りの外界(環境)、あるいは私と私とは無関係に存在すると考えている外界の二つがあると考えています。所謂、主客二元論です。具体的には私が意識してもしなくても山があり、川があると思っています。唯識はそれを誤りだと指摘するのです。では何があるのかといいますと、私の心が作り出したもの、私の心の映像(影像ようぞう)影といえます。一つの絵画を鑑賞しても私の捉え方とあなたの捉え方は違います。山を見ても、川のせせらぎを聞いても人それぞれの捉え方があります。それは絵画があり、山があり、川があるから見ているのではありません。見ている私が作り出した映像なのです。そこにポイントをあて、心のあり方を追求してきたのが唯識といえます。
 中国、唐代、孫悟空でお馴染みの三蔵法師=玄奘三蔵によって天竺、今のインド、カシミール地方からもたらされたものです。玄奘は『唯識三十頌』を解釈した十大論師の説を、一つ一つ翻訳したのですが、それでは非常に煩雑になる為に、弟子の慈恩大師基ととも共に天竺より持ち帰った経、論を整理して『成唯識論』を編纂しました。これを糅訳(にゅうやく)といいます。また慈恩大師基を第一祖として法相宗が開かれました。日本には遣唐使の道昭(どうしょう)によって661年頃持ち帰られ、奈良の元興寺、法隆寺、薬師寺に伝えられました。それから717年には玄肪(げんぼう)が入唐して智周に学び734年、奈良、興福寺に法相唯識を伝えました。以来仏教徒は仏教の基礎学として、「倶舎論」(くしゃろん)とともに唯識を研鑽しました。学ぶといいましても学問として学ぶわけではありません。あくまでも学仏道として、佛になる道を学ぶのです。道元禅師も「仏道をならうとは自己をならうなり。自己をならうとは自己を忘るるなり」とお教えくださっています。親鸞聖人は「念仏成仏是真宗」と、仏教を学ぶということは佛になる道を学ぶのです。佛とは「本当の自己に目覚め、その目覚めの道をお教えくださった人」と私は理解をしています。それでは私たちは、なぜ本当の自己に目覚めることができないのでしょうか。何が障害になっているのでしょうか。それを唯識を学ぶことによって明らかにしていこうとしているわけです。
 「識の所縁は唯だ識の所現なり」(『解深密経』)に見受けられます。所縁とは境の相分です。識は能縁の見分になります。これが認識の構造になります。
 私たちは普段何気なく見聞きしていることはあまり気にも留めていませんが、実はこのことは大変大きな意味をもっているのです。意識の上に上ってくる事柄について深くは考えませんが、実は意識が起こってくるには意識をコントロールする深い自我意識が働いているのです。意識は隋眠(ずいめん)、眠っている時は働いていません。しかし、眠っている時でも恒に働き、自身を執着している意識が有ると唯識は教えています。マナ識(末那識)といいます。このマナ識によってコントロールされた意識が深層の根本識(阿頼耶識・アーラヤ識)に蓄えられていくのです。意識-マナ識-阿頼耶識という図式が成り立ちます。表に表れたのが意識になります。この表層の識に6つあります。すなわち眼識、耳識、鼻識、舌識、身識、意識です。前六識といいます。これに深層の意識であるマナ識、阿頼耶識を加えて八識というのです。三層八識によって私たちの意識が構成されています。すべての見聞きした事はは自分のよしあしにかかわらず、阿頼耶識に蓄えられていくのです。そして折に触れ意識の上に現れてきます。現在は過去の蓄積されていたものが縁に触れて現れてきたものだと教えています。それで現行(げんぎょう)といわれています。阿頼耶識は蓄える所という意味で蔵識ともいわれています。世界の最高峰ヒマーラヤ、雪山ともいいますが、つねに雪を頂いている、蓄えているところから音写をして阿頼耶識といい、その意味から蔵識というのだと教えていただいています。すべての経験された意識は阿頼耶識に種子として蓄えられ、熟成(熏習・くんじゅう)されます。意識は現行されたものです。この種子-熏習-現行は同時に起こってきます(三法転展同時因果)。現行されたものが種子となり熏習され、熏習されたものが縁にふれ現行されてくることから、三法は同時におこってくると教えています。私たちは本当に一期一会の時間を与えられていることがよくわかります。
 末那識とは、マナーの音写です。「思量するをもって性とも、相ともなす。」何を思量するのかといえば、我をおもいつづける、我の思い通りにしたいと寝てもさめても思い続けているということを本質としているということです。この思量されたものが、阿頼耶識に蓄えられて、意識の上に上り現実の行動となって現れてくるのです。仏道を修するうえで一番大切なことはこの末那識の転換だといえます。末那識転じて平等性智になるのです。自分のことしか思わなかった識(はたらき)がすべて差別なく平等にみる智恵に転換するのです。なんとも素晴らしいことではないでしょうか。
 「円融(えんゆう)至徳の嘉号は、悪を転じて徳を成す正智、難信金剛の信楽は、疑いを除き証を獲しむる真理なりと。」(教行信証ー総序より)
 私は信心の智恵とは、我執の命が転じて公の命に生きる願いを賜るものだといただいております。「普共諸衆生 往生安楽国」という願いに生かされる、我執しかない私にはからずも、思いもしないような願いが起こってくることだと了解をしております。
 唯識の根拠は、『解深密経』と『華厳経』十地品「三界はこれ一心の作なり」に依るとされています。三界とは迷いの境涯をいいますが、この三界は外に存在するのではなくして私の心が作り出した世界だというのです。是は俗に「何事も心のもちよう」というような唯心論ではありません。なぜかといいますと、「心のもちよう」というのも 私が作り出したものだからです。三界は私の迷った識がつくりだした迷い、苦悩の世界だといえるでしょう。三界とは欲界、色界、無色界のことをいいます。欲界とは文字のごとく、欲望に満ち溢れた世界を言います。色界は世界は欲望だけで成り立っているのではなく、精神世界が大切で有るという認識で成り立っている世界のことを言います。無色界は欲界、色界というような認識を超えた究極の世界とでもいえましょうか。五趣(地獄、餓鬼、畜生、人、天)のうち、天上の世界といえるかと思います。この天上の世界をも迷いの世界だと見抜いてきたのが仏教なのです。
 清沢満之先生は生きるということは「この現前の境遇に落在する」ものである、と教えてくださいました。ではどのようにしたら「落在者」に成れるのでしょか。共に唯識を学びながら考えてみたいと思います。
 世親菩薩に『無量寿経優婆提舎願生偈』(浄土論)という書物があります。その中に「観仏本願力 遇無空過者 能令速満足 功徳大宝海」(仏の本願力を観ずるに、遇うて空しく過ぐる者なし、能く速やかに功徳の大宝海を満足せしむ。)という一文があります。これは不虚作住持功徳成就といわれるところですが、世親菩薩はこの解釈に「すなはちかの仏を見たてまつれば、未証浄心の菩薩畢竟じて平等法身を得証して、浄心の菩薩と上地のもろもろの菩薩と畢竟じて同じく寂滅平等を得しむるがゆえなり。」と。私が本当に満足のできる人生を送るということは、何が起こっても、どんなことがあっても後悔をしない、それ自体が満足であるということを語っています。これは何を意味しているのでしょう。仏言に尋ねてみますと、人間的立場からは本当に満足のできる人生を送るということは不可能である、と教えているのではないでしょうか。人間的立場とは、一つのことを貫き通すことができない、どこかで挫折していかざるを得ないという現実が在るのではないでしょうか。挫折をしていけば元の木阿弥になってしまうのです。ここに聖の道が自力難行の道といわれる所以なのではないでしょうか。
 『末灯抄』に「浄土真宗は大乗のなかの至極なり」(真聖p601)と親鸞聖人はお教えくださいましたが、私から、自我の立場を超えることは不可能であるとするならば、どのようにしたら挫折をせずに、どのような境遇になっても現実から逃げずに現実を引き受けていくことができるのか、この問いにお答えくださったものであると了解をしております。仏の本願力に遇うということが唯一無二の、人生が空過することのない出来事になるのです。「落在」とは正にこの事ではないでしょうか。
 「煩悩を断じて涅槃を得る」断煩悩は仏教者すべての目標といってよいのでしょう。その断煩悩に難の質を見出されたのが親鸞聖人であり、親鸞聖人によって「慶ばしいかな、西蕃・月支の聖典、東夏・日域の師釈、遇いがたくして今遇うことを得たり。聞きがたくしてすでにきくことを得たり。」(『教行信証』・総序より)と如来恩徳の深いことをお教えいただきました。ここに断煩悩の道が不断煩悩得涅槃の道として成就することになったのです。
 我執・法執と簡単に言いますが、これは私の立場からは見えてこないものです。仏法に教えられて初めて気付いていくものですね。そこから自己を問うという姿勢が生れてくるものだと思います。ですから自己を問うといいましても、自分から起こした問いではないのです。仏法に触れることによって図らずも問われてきた問いなのではないでしょうか。仏法に触れるといいましたが、触れるということはどういうことなのでしょうか。どこかに仏法があって触れるのでしょうか。若しそうでありますならば触れる人、触れない人との差別が出てまいります。経典に『十方衆生』とか『諸有衆生』という呼びかけがありますが是は差別のない、すべての生きとし生きるものへの呼びかけであるはずです。では私たちはどこで仏法に触れているのでしょうか。そもそも仏法とはなんなんでしょうか。仏法は因縁所生の法といわれています。「諸行無常・諸法無我・涅槃寂静・一切皆苦」(諸行は無常であり、諸法は無我である、涅槃は寂静であり、すべては皆苦しみである)と、初期の経典に四法印として今日に伝えられています。是は私たちの存在は縁的存在であることを教えています。因(私)と縁(条件)が揃って今が在るということです。それに逆らって生きているところに齎されるのが一切皆苦なのです。一切皆苦そのものが仏法に触れているのです。「よき人の仰せをかぶりて、信ずるほかに別の子細なきなり」(「歎異抄」より)と親鸞は信仰告白をされていますが、まさによき人の仰せを待って人生が転換し、一切皆苦が一切所求満足に転換していくのです。私たちは苦しんだり悩んだり、怒ったり愚痴ったりと休む暇がありませんが、それは何も無意味なことではなかったのです。苦しんだり悩んだりの脚下に仏法に触れていたのです。是は大変大事なことなのです。このことの意味をこれから学んでいきたいと思います。
 先ず皆さんに考えていただきたいのですが、認識はどのようにして成り立っているのかを憶念してください。
 認識の在り方について、一分義・二分義・三分義・四分義と考究されてきました。次回より少しずつ学ばせていただきます。
 

唯識入門(27)

2020-05-10 08:29:50 | 『成唯識論』に学ぶ
 おはようございます。コロナウイルスの感染拡大も少し落ち着いてきた感がありますが、本当に大事なのは今現在の後ひと踏ん張りだと思います。不要不急の外出はできる限り差し控えるべきでしょうね。今の行動が明日を演出する。今の行動が未来を決定し、明るい未来の創造は、今何をなすべきかが未来より問われていることだと思います。
 このことを唯識ではどのように捉えているのでしょうか。難しい言葉では「三法展転因果同時(さんぽうてんでんいんがどうじ)」と教えています。
 『成唯識論』では所熏・能熏のまとめとして説明されています。
 「能熏の識等は種より生ずる時に、即ち能く因と為して復種を熏成す。三法展転して因果同時なること、炷(しゅ)の燄(えん)を生じ、焰生じて炷を燋(しょう)するが如し。亦、束蘆(そくろ)の更互に依るが如し。因果倶時なりと云うこと理傾動(り・きょうどう)せず。」(『論』)
 「三法の喩を挙げて三法の体に喩う」(『述記』)といわれています。
 三法とは、種子・現行・種子の循環性を現します。
 種子生現行・現行熏種子。更互に因と為り、果と為る。現行は種子が表に現れた相なのです。種子生現行と云われています。
 同時に表に現れた行動が種子として蓄積されていく、この面を現行熏種子いわれているのです。この関係が同時因果なのです。
 種子(過去の行動の因子)が因と為って現行(現在の在り方)が果として生じ、生じた現行が因と為り、阿頼耶識の中に果としての種子を熏ずる。こういう関係が私の人格を形成しているのです。
 大きく見ますと、社会全体でも同じことがいえると思います。一人の身勝手な行動が社会全体の風紀を乱していくことになります。これは人間は相互依存関係にあることの証明になります。私のさりげない行いが、私の知り得ないところで影響を与え、与えられていることにないますね。
 私がここでパソコンと向き合えているのは、世界の裏側の人たちさえも、私を応援していてくださっているお蔭なんですね。私は、私の勝手で生きているわけではないのです。
 元に戻りますと、
 因としての種子
 果としての、現行
   と、
 因としての、現行  
 果としての種子
 これが、同時に起こることを三法展転同時因果と表しているのです。
  「現われた自己は隠れた自己である。」(太田久紀師)と教えてくださっています。
 教証としては、
 「諸法をば識に於て蔵す。識を法に於ても爾り。更互に果性と為り、亦常に因性と為る。」(『阿毘達磨経』)があげられます。
 種子が現行を生ずる場合には、生ずる縁が介在するわけです。さまざまな縁に依って生起してくるわけですから、衆縁(生)に依る、衆縁に依らない場合には現行は起こらず、種子は種子として阿頼耶識の中に蔵せられます。種子生種子として阿頼耶識の中に留め置かれます。
 喩が出されています。説明としては、
 ・ 炷焰の喩 - 炷とは灯心のことで、ともしび。焰はほのお、炷の焰を生ずるのと、焰の炷を燃やすのと同時因果である。わかりやすいですね。
 もう一つが、
 • 束蘆の喩 - 甲乙二本の蘆を束ねて立てる時、甲乙二つのものが互いに相い依って立っていることに喩えられています。甲は乙を因とし、乙は甲を因とし、相互の同時因果に依ることを表しています。
 なんとなく解ってもらえましたかね。ここで種子と熏習の説明は閉じまして、次に四分について考えてまいりたいと思っています。
 また来週です。



唯識入門(26)

2020-05-02 17:02:23 | 『成唯識論』に学ぶ
 今日は、一気に夏日ですね。体調管理しっかりと、濃厚接触は避けましょう。できるだけ外出も控えて、常日頃忘れていることを考えてみるいい機会ではありませんか。
 前回のつづきになります。
 古代の印度には論理学が学ばれていまして、特にですね、陳那(じんな・デグナ-ガ)論師が新因明学を完成させられて、唯識でもこの因明の三支作法を用いて説明されることが多々あります。
 前回の能熏の説明においても用いられています。宗・因・喩の三つを指しますが、宗とは、主張命題です。「AはBなり」ということになります。いんとは、宗が成り立つ理由ですね。喩は宗の正しさを裏付けるものとなります。 
 能熏になるものは、宗とは「作用有るを以ての故に方に能熏なり。」
 その理由は、「無為をば簡ぶ因なり。」喩えば「種子の生滅の用有るが故に能く果を生ずるが如し。」(『述記』)
 難しい熟語を並べるより説得力がありますね。
 そして能熏について大事なことは、「所熏と和合して転ず。若し所熏と同時同処にして不即不離なる、乃ち是れ能熏なり。」(『論』)
 所熏に説いてきた通りである。
 仏教は内観の道と云われているでしょう。そして唯識もですね、唯識無境と。境ですね、識所変である、と。内観の道とは何であるのかというと、外境は識所変であると教えているのですね。外境は、識体転じて相分・見分に似て現じているということですね。そして阿頼耶識はすべて受け止め、外に向かって現行する時に転識、七転識として現行されるわけです、能熏としてですね。阿頼耶識は所熏として私の行動のすべてを引き受けているわけです。
 結論としましては、
 能熏となり得るものは、七転識の心王・心所のみであると論じています。所熏は阿頼耶識。現に働いている七転識が能熏となる。この七転識の心心所は強い勢力を以て阿頼耶識に種子を植え込んでいくのです。
 自分が自分の種子(経験のすべて)を宿し、この種子が縁に触れ、表に現れて現実の私の人生を構成しているわけですね。問題にしているのは、私はどこに向かっていこうとしているのか、私の人生の指針はどこに依るのかが問われています。本当にどうなりたいのかですね。死ぬのが嫌だから、働いて生きている、という方もおいでになりましたが、これでは自分の思い、自分の考え、自分を拠所にした人生観しか生まれてきません。仏教は、これを一切皆苦と教えてきました。すべては苦だと。苦の因は自分の考えに縛られていることに依ります。縛られたら身動きができないですね。解放されたいと思ってもがきます。もがいてもだれも助けてくれません。ですから、縛られていることに眼を向けることなく逃避するわけです。それが竜宮城の問いかけです。
 今までの価値観が通用しなくなるんですね。今までは何となく流れに沿って幸せを求めてきたわけですが、今回の新型コロナウイルスは人間の行動を根底から破壊しました。ワクチンが完成し投与できたらウイルスは怖くないという妄想にかられていますが、事はそんなに簡単なものではないと思います。
 人間の生き方が問われていますね。他の動植物との共存、環境との共存、この地球、宇宙は人間が勝手に、人間の思うようにしてはならないんです。普段はこのような傲慢性は見えてきませんが、世界規模の感染症が教えてくれています。
 独りよがりの姿を天邪鬼(あまのじゃく)と教えていますが、破壊者です。一つには、他を利用してでも、他を蹴落としてでも、自分の思い通りに生きたい。二つ目は、経済至上主義。金さえあれば幸せになれるという思いですね。三つ目は、他に勝りたいという欲求です。これがなかなか深いのです。慢心なんですね。勝つと傲慢になり、有頂天になりますが、負けてもですね、負けてないんですよ。卑下慢という慢心が巣くっているんですね。この三蜜を避けなければなりません。そうしますと、謙虚さが芽生え、おおらかに生き得ることができます。依存症の問題もほどなく解消されることでしょう。俺が、俺が、私が、私がと云っている間は駄目でしょうね。
 今日は土曜日でしたが投稿します。連休中にはもう少し投稿したいと思っています。では、また。