唯識に学ぶ・誓喚の折々の記

私は、私の幸せを求めて、何故苦悩するのでしょうか。私の心の奥深くに潜む明と闇を読み解きたいと思っています。

第三能変 煩悩の心所 (27) 根本煩悩の体と業について (25) 悪見の心所

2014-05-28 23:23:27 | 心の構造について

 四の不死矯乱について、

 ここも、外道の六十二見の見解の一つになります。邪見は、すべて外界を変革することに於て、自己満足を得ようとする見解になりますが、どうでしょうか、普段は何も考えていませんが、六十二見は私のすべてではないでしょうか。六十二見をはずして私が生きている証しはないのではないでしょうか。やっぱし、自分が中心で生きているのではないでしょうか。それしかありませんね、いや僕はですよ。僕は、仏法を聞いていてもですね、自分のことしか考えていません、自分を中心に世界が動いています。そんなことを教えられますね。

 「邪見憍慢の悪衆生」という自覚があったらですね、もう邪見憍慢の悪衆生ではなくなります。自覚を通してですね、邪見憍慢の悪衆生の大地に立つわけでしょうね。開かれた大地とは、そういうものではないでしょうか。

 不死矯乱については四つあるので、古来より四不死矯乱論として、六十二見の中の一つに数えられています。

 『述記』には、

 「不死とは謂く天なり。天の長寿なるを以て、外道は執して常住不死と為す。不死なる天の乱なき問に答するに由っての故に、彼の天に生ずることを得という。いまこれを毀する言を矯乱と為す。

 矯乱 - いつわりを言って人をごまかすこと。

 一に、念ずらく、我は善不善等を知らず、余の我に問うことあるも、定めて答うること能わず。我もし定めて答えるならば、他は我が無知なるに鑑みて、因って即ち軽咲すること勿んや。我は天の秘密義に於て、皆説くべからず等なり。

 「念ずらく」という、誤魔化しです。不死とは天のことで、天に生れることが常住不死であると考える外道に対して、仏法者が詰問しているのです。その答えが誤魔化しであるといいます。仏法者からの問いは、涅槃と天の問題ですね。涅槃に至る方が勝れているのではないのかという問いに対して、若し答えることが出来なかったとしたら嘲笑されるかもしれないので、次のように誤魔化すのです。「天の秘密義に於て、説くべからず」と。天の秘密義は答えることが出来ないのだ、ということです。

 涅槃ということは、仏教徒にとってというより、有情にとっては一番の安楽処になるわけですね。安楽処を求めている存在、言葉を変えていいますと、空虚に終わらない生活を求めている存在が有情であるわけです。そうしますと、私たちは、どこに向かって歩みを進めているのかはっきりしませんね、誤魔化して生きているとしかいいようがありません。このこと一つをとってみてもですね、邪見は深い意味をもっています。 

 今日はここまでにしておきます。明日は16組の組推協総会が八尾別院で開催されます。

コメント
この記事をはてなブックマークに追加

第三能変 煩悩の心所 (26) 根本煩悩の体と業について (24) 悪見の心所

2014-05-27 23:43:54 | 心の構造について

 邪見の種類について

 邪見の種類については、前際(過去)と後際(未来)に執着する邪見について述べられます。

 初は、前際について

 「此の見の差別をいわば、諸の見趣の中に、前際を執する二の無因論と四の有辺等と不死嬌乱(フシキョウラン)と、」(『論』第六・十五右)

 前際は、三際の中の一つになりますが、三際とは、前際と前後際(現在)と後際をいいます。何故三際を説くのかですが、これは説一切有部の教学である、三世実有説を破斥するために説かれます。大乗仏教は、七種の空をもって三世実有説を論破しています。

 この邪見の種類をいうならば、諸々の見趣(誤った見解に陥っていること)の中で、過去に執着する二つの無因論と、四つの有辺等の論と、四つの不死嬌乱(外道の異論。六十二見)とがある。

 即ち、前際に執着して起こる邪見には、合計十の邪見があることを述べています。二つの無因論+四つの有辺等の論+四つの不死嬌乱(六十二見)である。

 この科段も、『述記』・『演秘』・『了義燈』から学びます。

 二つの無因論とは? 

 「二無因とは、
 一に、無想天より没し、此の間(欲界)に来生し、宿住通(シュクジュウツウ)を得。彼の出心已前にあらゆる諸位を憶すること能わず。便ち諸法の本は因無くして起こると執す。諸法も我の如く亦一切本無にして生ずべし・便ち我及び世間は因無にして起こると執す。」

 宿住通は詳しくは、宿住随念智証通(シュクジュウズイネンチショウツウ)といい、六神通の一つで宿命通の名で知られていますね。宿住は過去世の生存をいいます。過去世の生存に通じていること、過去世の有り様を思いだすことのできる能力、或は智慧のことです。

 無想天より没して、欲界に生れ宿命通はあるけれども、生まれ出る以前のことを思いだすことが出来ない為に、諸法の本は因が無くして起こってくるんだと(因なくして物事が生じると)執すること。

 「二に、尋伺(ジンシ)前身を憶せざるに由って是の如き執に住して因無くして起こる。」

 尋伺は、詳しくは、尋求伺察(ジングシサツ)のことです。何かを追求する心で、尋は浅くおおまかに、伺は深くこまやかに観察する心になります。

 尋伺によってということですから、大まかに&こまやかに追及しても、過去を思い出すことが無いために、無因論という執着ですね、因無くして物事が生じると考えることを二つの視点から述べているのが、この二の無因論になります。

 「四の有辺(等)と云うは、

 一に一向に能く憶して、下無間地獄に至り、上第四静慮天に至るまで、我は中に於て悉くみな遍満せりと執するに由って、便ちこの念を作(或は住)す、此より過ぎて我有らば、我は能見(認識)なるべし。故に有辺なることを知る。

 下無間地獄から上第四静慮に至るまでを記憶して、我はこの中に悉く遍満していると執着することに由って、この有辺があると認識する。下無間地獄より上第四静慮までを記憶している世界を超えて我が有るとするならば、この世界を我は認識するであろう。この為に辺が有ることを知るのである。

 二に、一向に能く傍(傍生)は無辺なりと憶するに由り、我は遍満せりと執するが故に、辺無しと執す。

 生きとし生ける者は無辺であると記憶していることに由って、我は遍満していると執着を起こしてしまう、その為に我は無辺なりと誤って執着を起こすのである。自己と世界とは限界が無いとする考え方。無辺という偏った考え方になります。

 三に、能く下上を憶すること、初の近と遠との如く、傍は第二の如く、辺際を得せざるに由って、上下に於て有辺想を起こし、傍において無辺の想を起こす。

 上下を記憶していることは、有辺であるわけですが、しかし、傍生は無辺であるとの想を起こし執着するものである。

 四に、能く壊劫(エコウ。器世間が壊れていく長い期間)の分位を憶するに、便ち非有辺非無辺の想を生ず。諸の器世間は所得無きが故に、」

 よく壊劫の分位を記憶することに於て、非無辺である非有辺であるとの想を起こし執着する。

 「此の四は皆、成壊(ジョウエ)の劫を憶するが故に前際と説けることを得。」(『述記』第六末・二十一右)

 以上の四つの有辺等はすべて、成劫(ジョウコウ。器世間が成立していく長い期間)と住劫と壊劫と空劫を記憶している為に起こるものであるから、前際に執着すると説かれているのである。

 成劫と住劫を成、壊劫と空劫を壊としてまとめ、四劫すべてを網羅して成壊劫という。

 不死矯乱については明日考えます。本科段は、過去に執着して起こる邪見を挙げて説明されているのですが、六十二見は、すべて有無の見ですね。有るか、無いかに執らわれているところから起こってくる見解を挙げているのですね。ここは、現代的に考えてみる必要性がありそうです。

 

コメント
この記事をはてなブックマークに追加

第三能変 煩悩の心所 (25) 根本煩悩の体と業について (23) 悪見の心所

2014-05-25 11:36:11 | 心の構造について

 「三ニハ邪見、罪ト云フ事モナシ、?徳ト云フ事モ無シ、地獄・餓鬼・畜生ノ果報も無シ、人間・天上・浄菩提ノ果報モ無シト思フナリ。則三宝を誹謗スル心ナリ」(『二巻鈔』大正71・111a)

 良遍はこのように説明しているのですが、親鸞聖人は邪見の定義をうけて、深く邪見と信楽の関係をみつめておいでになります。

 端的には『正信偈』です。「邪見憍慢の悪衆生、信楽を受持すること、はなはだもって難し。」(真聖p205)

 と、五濁の世、無仏の時という時と機を見つめておられます。

 「劫尽きんと欲する時、五濁盛りなり。衆生邪見にしてはなはだ信じがたし。」(『化身土巻・本。真聖p350)

 和讃には

 「五濁増のしるしには
   この世の道俗ことごとく
   外儀は仏教のすがたにて
   内心外道を帰敬せり」(『正像末和讃』真聖p509)

 と詠われています。私たちが何を以て、何を信じて生きているのかが鋭く問われているのですね。邪見だということです。邪見を所依にしていることに於て、苦悩からの出離は無いと断言されているのでしょうね。

 「末法第五の五百年
   この世の一切有情の
   如来の悲願を信ぜずは
   出離その期はなかるべし」(
『正像末和讃』真聖p501)と、劫濁尽きる時ですね、「五濁悪邪まさるゆえ、毒蛇悪龍のごとくなり」。有情の邪見が織りなす世界は破壊瞋毒盛んである、といわれているのでしょう。

 『化身土巻』(真聖p352)には、「一切悪行は邪見なり。一切悪行の因、無量なりといえども、もし邪見を説けばすわわちすでに摂尽しぬ。」

 何故、破壊瞋毒盛んであるのかを見出してきた背景に、信心を得た喜び、自分に遇いえた感動があるのですね。「あるいは説かく、」と如来の恩徳を感ぜずにはおられない感動が次の言葉として躍動しています。

 「阿耨多羅三藐三菩提は信心を因とす。これ菩提の因または無量なりといえども、もし信心を説けばすなわちすでに摂尽しぬ、と。」

 ここから信不具足・聞不具足の問題が提起されてきています。

 邪見を遠離することが、功徳を獲ることと不即不離の関係なのですね。

 「もろもろの仁者、かの邪見を遠離する因縁において、十種の功徳を獲ん。」と。(真聖p372)

 「南天竺に、龍樹大士世に出でて、ことごとく、よく有無の見を催破せん。」(『行巻』真聖p205)

 有無の見を催破すること、無自性空を教えられた龍樹菩薩を七高僧のはじめに、浄土仏教伝承の恩徳を讃えられているのでしょう。『末法燈明記』には「七百年の中に、龍樹、世に出でて邪見の幡を催かん。」(真聖p361)

 或は、『化身土巻・末』にはですね、「九十五種世をけがす」を、九十五種とは、「道に九十六種あり。ただ仏の一道これ正道なり、その余の九十五種においてはみなこれ外道なり」と喝破しておいでになります。「その余」とは、「等しくみな邪見なり、」(真聖p396)と。邪見が、如何に世を穢し、命を粗末に扱い、手を合わせることを拒み、自尊損他の幡印をもって黒闇を造りだしているのかを、聖人は『化身土巻・本末』に語り尽くしておいでになるように思えてなりません。

 本論に戻ります。「及び」からになります。「四の見に非ざる諸余の邪執とぞ」と。四とは、邪見を除いた四の見ですが、これらを除いた邪執と言っていますから、四の見を邪見に含めて、悪見は邪見であると云われているのです。

 「増上縁の如し」と。例えばですね、四縁における縁の分類方法ですが、三縁(因縁・等無間縁・所縁縁)以外の縁はすべて増上縁に含めて考えるという方法と同じ分類方法であると云っているのですね。

 後は、名と義ですが、邪見という名は、誤った、よこしまなという広義の名でありますから遍在しているということになります。

 昼過ぎから少し仕事にでかけます。次回は、邪見の種類について述べられます。

コメント
この記事をはてなブックマークに追加

第三能変 煩悩の心所 (24) 根本煩悩の体と業について (22) 悪見の心所

2014-05-24 22:47:13 | 心の構造について

 その三は、邪見について説かれます。

 「三には邪見、謂く、因と果と作用(サユウ)と実事(ジツジ)とを謗(ボウ)すると、及び四の見に非ざる諸余の邪執(ジャシュウ)とぞ、増上縁の如し、名も義も遍せるが故に。」(『論』第五・十四右)

 三には、邪見である。つまり因と果と作用と実事とを謗るのと、及び四つの見ではないその他の邪執である。(四つの見ではないその他の邪執)というのは、恰も増上縁のようなものである。邪見は、その名も義も遍在するからである。

 「因と果と作用と実事とを謗る」ということはどういうことを教えているのでしょうか。

 因と果を謗る、ということは因果撥無の見ですから、道理に反している考え方になりますが、作用と実事とを謗る、いうことが解りません。『述記』から学びます。

 『対法論』(大正31・698a)を引用して説明されています。

  •  「因を謗る」ということは、「施与(布施)も無く、愛楽も無く、祠祀(シシ)も無く、(以上の三つ、施与・愛楽・祠祀が三種の供養になります。因になり、その結果福をもたらすものですね)これらを否定するわけです。そして、妙行(善行)も無く、悪行も無し、と。
  •  「果を謗る」のは、「謂く、妙行と及び悪行との業に招かれたる異熟無きなり。」 つまりですね、善行や悪行によって起こる異熟果も無いという誤った考え方ですね。造悪無碍に通ずる考え方になりましょう。
  •  「作用を謗る」というのは、「此の世間も無く、彼の世間も無く、母も無く、父も無く、化生の有情も無し」という考え方である。
  •  「実事を謗る」とは、「謂く、世間の真阿羅漢無し」という、世間には真の阿羅漢はいないとする考え方である。

 以上、「謗」ということは、すべての因果否定論になります。物が生ずるのに、因果関係はなく、善悪業の果(善悪業の報い)も無く、世間も出世間も、解脱も阿羅漢も無いという見解です。

 法を謗るということは「ケセラセラなるようになるわ」という因果否定論によって生じてくる苦悩が隠されているわけでしょう。

 『演秘』(第五末・一右)をみますと、『瑜伽論』(巻第五十八)を引用して次のように述べています。

 「邪見とは、一切の倒見なり。所知の事に於て顚倒して転ずるを皆、邪見と名づく。当に知るべし、此の見に略して二種有り、一には増益(ゾウヤク)、二には損減(ソンゲン)なり。薩伽耶見と辺執見と見取見と戒禁取見との此の四見等の一切を皆、増益の邪見と名づけ、因を謗り、用を謗り、果を謗り、事実を壊する等の心執増益するところの諸見の一切を皆、損減の邪見と名づく。施すこと無く、受くること無く、また祠祀すること無しとする、是を因を謗ると名づけ、妙行あること無し、亦悪行無とする是を用を謗ると名づけ、妙行、悪行、諸の業果及び異熟あること無しとする、是を果を謗ると名づけ、父無く、母無く、化生の有情無く、亦世間に真の阿羅漢の諸漏永く盡きたるもの無しとし、乃至広く説かば是の如き一切を実事を壊すと名づく。

 『法相二巻鈔』には「則三宝を誹謗する心なり」と釈していますが、全くその通りですね。邪見の邪は、「よこしまな」という誤った見解のことですが、実は法謗なんですね。後天的な分別を依り所に立てられた身勝手な考え方になりましょうね。「邪教・邪分別に依っている」ことさえ知らない在り方、これが法を謗っている相なんです。謗っていることが見えてきますと、生き方が大きく変わるんでしょうが、我執が一番の間は、何も見えてこないですね。

 人間失格さえもエゴイズムに変えてしまいます。仏法に遇うことは、人間失格を教えていただくんでしょう。人間失格の烙印を持って、人間として誕生していくのではないでしょうか。

 邪見を通して教えられること、私のすべてですね。邪見を身に纏って生きているようなものです。纏というのが煩悩ですからね。身に纏う、ということは、煩悩の鎧兜で覆っているわけですから、常に戦闘態勢の姿勢です。そら疲れますわ。

 『観経』に「時に韋提希、仏世尊を見たてまつりて、自ら瓔珞を絶ち、身を挙げて地に投ぐ。」

 ここからですわ、人間誕生の瞬間です。本当の意味での安楽を求める姿勢が生れたんですね。

 邪見の定義の半分しか読めませんでしたが、後半は明日読み解きたいと思います。ありがとうございました。

コメント
この記事をはてなブックマークに追加

第三能変 煩悩の心所 (23) 根本煩悩の体と業について (21) 悪見の心所

2014-05-22 22:19:55 | 心の構造について

 辺執見の種類について 

 辺執見について考えているわけですが、辺は偏ったということですね、それに執着をしている思いです。元は我見、我見の於に立てられた見解ということになりましょうね。

 しかし、我見から離れられるのでしょうか、僕は無理ですね。我見しかありません、どう考えて見てもですね、やることなすことすべてですが、この辺執見は迷理の惑といわれていますので、まあ生涯、迷理の惑と付き合っていくのでしょうね。

 大乗仏教はすごいことを言っているのです。私が私を立てるために依っているのは、「顚倒して推度する染の慧」である、と。所依が違うだろう、ということですね。

 でもね、でもねが付くんです。言い訳ですが、初めて知れたんです。染汚の慧を頼りに生きてきたんだ、と。だからですね、いつでも、虚しさがつきまとうんです。清沢先生は、「天命に安んじて人事を尽くす」と云われました。「人事を尽くして天命をまつ」ではないんですね。「人事を尽くす」ということは、我執を依り所にする、我見です。我見を頼りにして、ということですから、天命に安んずることはできません、いつでも不安と、不足と、瞋りとの中に身をおいて絶望の淵を彷徨っているのではないでしょうかね。それさえもみえてこないという暗さです。「三途の黒闇」と表現されていることなのでしょう。それが「開かれる」というところに仏法の凄さが有ると思います。

 また脱線してしまいましたが、辺執見の種類について考えます。

  ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 「此の見の差別をいわば、諸の見趣の中に、前際(ゼンザイ)を執ずる四の遍常論(ヘンジョウロン)と一分常論(イチブンジョウロン)と、及び後際(ゴサイ)を計する有想の十六と、無想と倶非とに各々八論有ると、七断論との等き有り、分別起に摂む。」(『論』第六・十四左)

 六十二種の誤った見解の内、遍(常)見論の四、一分常見論の四、有想論の十六と無想論の八と非有想非無想論の八、ここまでが常見。そして断見の、断見論の七の四十七が辺執見の種類になります。これらはすべて分別起に摂められるものである、ということです。

 この四十七見を前際と後際に分けています。分けていますが、「執ずる」或は「計する」と云われていますように、計度(ケタク)執着された分別という意味になります。前際とは過去のことに執着する、後際とは未来のことに執着することをいい、現在は中際と言い表しています。

 前際 - 前際に執着することに於いて、遍常論の四と、一分常論の四が起こる。

 後際 - 後際に執着することに於いて、有想の十六論と無想の八論と倶非の八論と七断論が起こる。

 尚、四十七論については『述記』、『演秘』、『了義燈』に詳細が述べられていますが、ここでは省略します。後日少し煩雑ではありますが読んでみたいと思います。

コメント
この記事をはてなブックマークに追加

第三能変 煩悩の心所 (22) 根本煩悩の体と業について (20) 悪見の心所

2014-05-21 21:19:20 | 心の構造について

 第二、辺執見(ヘンジッケン)について

 「二には、邊執見、謂く、即ち彼が於(ウエ)に随って断常と執するぞ、處中(ショチュウ)の行と出離(シュッリ)とを障うるを以て業と為す。」(『論』第六・十四左)

 二は、辺執見(辺見)である。つまり、前に説かれていた薩伽耶見(我見)によって錯誤された我を執することに於いて、この我見に従って「断」であると執し、「常」であると執するのが辺見である。

 断見 - 自己存在は死んだ後は断滅して虚無になるという見解。六十二諸悪見趣の中の七種の断見論を指す。

 断見・常見の説明をされる論書ですが、的を得ているといいますか、考えさせられますね。古代インドの外道の考え方なのですが、カルトに多く見受けられる思考方法ですね。

 「諸の外道は互いに争論をおこし、
  断見を起こす者は断を執して究竟と為し、
常見を撥して非 と為し、
  (未来の果を見ずして現世の中に於いて自身の安楽の為に、或は他の財食を奪って他を悩ます。)
  
  常見を起こす者は常を執して
究竟と為し、断見を撥して非と為す。」

 俗にいう、死んだら終わりや、ということでしょう。死んだら極楽があるのか、死んだこと無いからわからん。浄土?帰って来た者おらんからわからん。そんなことより 「今でしょう」 生きてる内が華やで。今さえよければそれでいいという、「今でしょう」は問題をはらんだ言葉ですね。

 「自身の安楽の為に」ということが引っ掛かりますね。自分さえよければ(他に尽くすことも自分の為という影が見えます。)他の財や食を略奪して他を損悩させる、ということなのですね。

 断見・常見ともに、縁起を否定した我執の二つの側面ということができると思います。

 常見 - 死んだ後も自己存在はあるつづけるという見解。常一・主宰の我(常に存在し同一であること)がありつづけるという偏った見解です。

 常見は断見の対になり、この二種の見解を離れた中道が正見ですね。

 『正信偈』に「南天竺に、龍樹大士世に出でて、ことごとく、よく有無の見を催破せん。」と述べられていますが、有無の見が、ここでいう断見・常見になります。

 そして、処中の行の道諦と及び出離の滅諦とを障碍することをもって業とする心所である。

 処中とは中道(断見と常見を離れた中なる行)のことですが、処中の行とは、断・常を離れた因果をいい、道諦のことを指します。そして、出離は滅諦のこと、辺見は道諦と滅諦を障碍する心所である、ということですね。

コメント
この記事をはてなブックマークに追加

友に送るメッセージ

2014-05-20 21:44:17 | 生きることの意味

 友に送るメッセージ

 先日あるところで、あなたの話題がでました。聞く所では、聞法と家庭の間で心が揺れ動いているように思えました。しばらく聞法会は欠席という判断をされたようですが、それで納得されているのでしょうか。

 僕は、21歳の時、どうしても僧侶になりたくて、生活そのものが僧侶に成るための準備そのものでした。しかし、僕の本気度を試されたのか、今思えることは「お前本気で僧侶になろうとしているのか」という問いだったと思えます。

 父から「僧侶になることは許さない」というきつい言葉でした。ただ父の言葉だけでしたら、たぶん家を出てでも僧侶になったかも知れませんが、母を幼くして亡くし母親がわりになって面倒をみてくれた叔母に向かって父が「こんな息子に育ててくれと頼んだ覚えはない。どんな躾をしたんだ」と罵ったのです。叔母から「頼むから僧侶になることはあきらめて」と泣きながら説得をされました。

 僕は、その言葉に逆らうことは出来ませんでした。しかし、逆らうことは出来なかったことに追い打ちをかけるように、仏教のいろはを教えていただいた坊守さんが亡くなられ、僕の後ろ盾もなくなってしまい途方に暮れている時に、「すまないが君の面倒をみるには親の許しをもらってきてくれ」といわれ、万事休すでしたね。しかし、その時は思いませんでしたし、考えもつきませんでしたが、僕が本当に「死しても悔いなし」といえるだけの気持ちがあったのか、本当に、「自分に向き合っていたのか」、僧侶になること自体が自分から逃げていたのではないのかと思えるんです。

 その証拠に、僕はなにもかも投げやりで、ケセラセラというその場限りの人生をつづけていくことになりましたからね。

 Tさんの場合は、自分では「聞法一筋」と本気なんでしょうが、「あなた本気」と試されているのだと思います。僕の場合は本気ではなかったということです。一種のはやり病いみたいなものだったんです。僕は思うんです。本当に、この道一つという決断があれば、すべてを失っても悔いは無いという心構えが必要だと思います。どうなってもいいではないですか。どうにもならん人生がどうにもならんままに生かされて、悔いのない人生に花が咲くんではないですか。

 40数年前、人生の岐路にたちはだかる我執という罠、僕は気づきませんでした。最近やっと、ああ狭いところで考えていたんだなあ、と思えるようになりました。

 Tさん、Tさんはどうなりたいんですか?自分の思いの世界で満足なんですか?そうではないと思います。しかし、奥様から問いを投げかけられているのは、Tさんの本気度(自分中心になっていませんか)が試されているように思えてなりません。

コメント
この記事をはてなブックマークに追加

第三能変 煩悩の心所 (21) 根本煩悩の体と業について (19) 悪見の心所

2014-05-19 21:18:22 | 心の構造について

 薩伽耶見の種類について

 「此の見の差別なること、二十句と六十五との等(ゴト)き有り、分別起に摂む。」(『第六』・十四左)

 この薩伽耶見の種類は、二十句と六十五等が有る。これらはすべて分別起の煩悩である。10256806_431686416968061_5130052853

  •  二十句薩伽耶見 - 自己は存在するとみる二十種の見解。五蘊に対する二十種の見解を云う。五×四=二十。四とは、色についてみますと、
    (ⅰ) 色は我である    - 我見
    (ⅱ) 我には色がある。
    (ⅲ) 色は我に属する。  } 我所見
    (ⅳ) 我は色の中にある。
    これが他の四蘊についても当てはまりますので、総じて、二十句薩伽耶見と云われています。

 色・受・想・行・識は我であるというのが我見になり、他の十五が我所見になります。
 『述記』には、「謂く、色は是れ我、我は色有り、色は我に属す。我は色の中に在りと計するが如し。一蘊に四有り、五蘊に二十句なり。即ち二十句の中に五は是れ我見なり。十五は是れ我所見なり。」と説明しています。

  •  六十五見 - 「謂く、色(蘊)を以て我と為すとき、余の四蘊に於て各々三所有るが如し。謂く、是れ我の瓔珞(ヨウラク)と我の僮僕(ドウボク。しもべ・使用人)と我の器となり。即ち十二有り。色を一の我と為り、即ち十三なり。是の如く五蘊に六十の我所と五の我見有るなり。」

 我見と、我の三種×四蘊=十三(一蘊に十三有る)×五蘊=六十五。五の我見と六十の我所見になると説明しています。

 そして、これらが分別起か倶生起かとう問題がありますが、

 「此は皆行じて蘊を縁じることを分別し、亦所起の処を分別す。又此は是れ分別の所起なり。是れ倶生に非ず。」とし、二十句及び六十五見はすべて分別起の煩悩であるとされます。後天的な煩悩であるということですね。分別は、邪師・邪教・邪思惟の三縁を以て生起されるといいます。先天的な煩悩の他に、外からの影響を受けて起こってくるものなのです。ですから、分別起の煩悩は麤重であることから、見道に於て断じられます。見惑ということです。

 但し、薩伽耶見には、分別起のものと、倶生起のものも存在するのですね。これは後述されます。10305409_431686393634730_7571527127

コメント
この記事をはてなブックマークに追加

第三能変 煩悩の心所 (20) 根本煩悩の体と業について (18) 悪見の心所

2014-05-18 10:57:48 | 心の構造について

 悪見の行相差別(ギョウソウシャベツ)について

 初は標挙(趣旨を述べる)、後別釈(個別に説明する)

 「此の見の行相の差別なること五有り。」(『論』第六・十四右)

 この(悪)見の現象的在り方に五つの種類がある。

 別釈(五つの種類を個別に説明する)

 「一には、薩伽耶見。謂く、五取蘊の於(ウエ)に我我所と執す。一切の見趣(ケンシュ)が所依たるを以て業と為す。」(『論』第六・十四右)

 一には、薩伽耶見である。つまり、五取蘊を境(対象)とし我・我所と執着することである。
 すべての、誤った見解に陥っている見趣を所依とすることをもって具体的な働きとする心所である。

 身見・我見とも云われます。『述記』には薩伽耶見を釈して、薩伽耶とは、梵には薩伽耶達利瑟致(サツガヤタリシチ)と云う。経量部と有部と唯識ではそれぞれの解釈が異なっていることを示しています。

  • 経量部の解釈 - 薩とは「偽」(虚偽)という意味である。伽耶は身のこと。達利瑟致とは見のこと。身とは聚の義であり、聚身を縁じて起こしてくる見解であるので偽身見という。
  • 有部の解釈 - 薩とは「有」という意味である。伽耶とは身のこと。身は聚身ではあるが、実有である。身というのは自体の異名であり、自体見というべきであり、有身見という。
  • 大乗(唯識)の解釈 - 大乗の意は、心の上に現われる似我の相であって体は実有ではなく仮法である。薩伽耶とは、依他の移転の法にして我の所依となるものである。また所執に依って虚偽というべきである。所変の相に依るならば有というべきであろう。従って、「移転」(変化すること)と理解すべきである。

 以上のような多種の解釈が生れていますので、梵語を音写して薩伽耶と表現しているようです。

 薩伽耶見というのは、五蘊仮和合であるにもかかわらず、常・一・主・宰のアートマン(我)であると錯誤し、錯誤した我と我が物(我所)のすべたが実体的に有るものと捉えて執着を起こしていることを意味しているのです。

 具体的には、「一切の見趣の所依と為る」ということなのです。

 『信巻』(真聖p251)には「言偽者則六十二見、九十五種之邪道也」(偽と言うは則ち六十二見、九十五種の邪道なり)と表し、六十二見、九十五種等の誤った見解の依り所となるものが薩伽耶見であり、すべての誤りは、我・我所と執する所から始まる、と教えています。

コメント
この記事をはてなブックマークに追加

第三能変 煩悩の心所 (19) 根本煩悩の体と業について (17) 悪見の心所

2014-05-17 20:13:00 | 心の構造について

 悪見は不正見ともいわれることは前回に述べましたが、良遍は『二巻鈔』に「不正見ハ、ヒガ事ヲツヨク思ヒ定メテ、マコトノ道理ヲシラザル心也」と教えています。

 「ヒガ事ヲツヨク思ヒ定メテ」と、間違った見解に執着してという思い込みであろうと思います。間違った見解に執着を起こしますと、そこに現出するのは、事実と道理に反した苦悩でしょう。逆に言えば、苦悩が現実の生活の中で、事実と道理に反して生活をしていることを教えているのではないでしょうか。そして間違った見解とは、自他分別の心なのでしょう。

 自他分別の心(行相)は、五の相(五相)に分かれて説かれる。即ち五つの意味を持っているのですね。概略を示しますと、

  1.  薩伽耶見(サツガヤケン) - 「則我執ナリ。我身・人ノ身(我)、我物・人ノ物ヲキビシク分ツ心(我所)ナリ。」 身見或は我見ともいわれる。身と心を対象として執着を起こす見解で、悪見を起こす根本と為るものである。
  2.  辺執見(ヘンジッケン) - (辺見)「我ガ身ハ何ト無ク有ンズル様ニ思ヒ、我レ死ナン後ハ永クウセンズル様ニ思フ心ナリ。」 辺見とは、偏った見解になります。所謂、断見に執し・常見に執すという偏った見解です。
  3.  邪見(ジャケン) - 「罪ト云フ事モナシ、功徳ト云フ事モ無シ、地獄・餓鬼・畜生ノ果報モ無シ、人間・天上・浄土菩提ノ果報モ無シト思フナリ。則三宝ヲ誹謗スル心ナリ。」 邪見とは、よこしまな、と云う見解ですが、ものの道理を否定する見解で、因果撥無の邪見と呼ばれています。
  4.  見取見(ケンジュケン) - 「此ノ如ク(以上述べてきた)ヒガ事ヲ犯スルモロモロノ心ヲイミジキ心ナリト思ヒ、或ハ此ノ如ク、ヒガ事ヲ云フ人ハ目出ク悟リタリト思フ心ナリ。」 以上述べてきた誤った見解を正見であると執着して起こす見解。あらゆる闘争の所依と為ると教えています。
  5.  戒禁取見(カイゴンジュケン) - 「是ハ外道ノタテタル戒ヲイミジキ禁戒ナリト思ヒ、或ハ其戒説ク人ヲ貴シト思テ、其戒ヲ守リテ、徒ニ身ヲ苦ルシムル心也。世間ニ外道ノ苦行ト云ハ是ナリ。 誤った見解に外道の戒をよしとして取り入れ、その戒を守り、執着を起こすことを最勝とし、清浄を得ると考える見解になります。

 これ等、五見は正見から見れば、誤った見解であり、その誤った見解に執着を起こして最勝とし、清浄であるとしますから、『論』には「顚倒して推度する染の慧」であると述べているのですね。

 『論註』には「顚倒の善果能く梵行を壊る」と教えられ、これらの悪見は「自力にして他力を持つ無し」と、五取蘊を対象として起こす我・我所の執着心は菩薩の道を乱し、勝徳を破り、梵行を壊すんだ、と我が身、我が心に執着することを厳しく否定しているのです。

 執着から解放されなさいと教える反面、執着に依って苦悩起こしていることに気づきを得なさいと教えているのではないかと思います。

 以上が悪見の概略になります。詳細は順を追って見てまいります。

 「謂く、悪見の者は多く苦を受くるが故に。」(『論』第六・十四右)

 つまり、悪見の者は多く苦を受けるのである。悪見は分別起の煩悩であり、倶生のものではない、ということになります。文章からは、悪見を因として苦を招来するということになりますが、『演秘』には、「一切の苦果は皆悪見に由って生ぜずと云う。」と述べられ、欲界の分別起の悪見が悪趣を招く業を発し、その結果として三悪趣の苦を受けるのであると説明しています。

 分別起・倶生起につきましては、『成唯識論』巻第一において考究してきましたので省略しますが、煩悩については、もう少し立体的に見た方がいいと思われます。

 則ち、分別起の煩悩と倶生起の煩悩という分類の仕方とですね、分別起と倶生起に通じている煩悩があるということの分離も必要なのです。この説明については後後に出てまいります。

 分別起の煩悩には十の根本煩悩すべてですが、倶生起と通ずる煩悩は、疑と邪見と見取見と戒禁取見を除いた六つが通ずると云われています。ですから、疑と邪見と見取見と戒禁取見は分別起の煩悩であるわけです。特にですね、苦果をもたらすものは、欲界の分別起の煩悩である薩伽耶見と辺執見の中の分別起のものと、ただ分別起のものである邪見と見取見と戒禁取見が、三悪趣の苦果を招く業を発生させると云われています。

 

コメント
この記事をはてなブックマークに追加