唯識に学ぶ・誓喚の折々の記

私は、私の幸せを求めて、何故苦悩するのでしょうか。私の心の奥深くに潜む明と闇を読み解きたいと思っています。

第三能変 煩悩の心所 諸門分別 (76) 第七、三界分別門 (13)

2015-03-31 22:24:45 | 第三能変 諸門分別第七 三界分別門
 大川の桜も満開になりました。明日から天候が崩れるとの予報です。週末も雨の予報、なんとか持ってほしいですね。

 何気なく読んでいるのですが、グサッと突き刺さる文章が綴られています。私たちはと言ったら語弊があります、私です。長年欲にまみれて生活をしていますが、時として「安らぎ」が欲しいなと言う心が湧いてくることが有ります。僕はこの心は、僕の中にもこのような安らぎを求める心があるんだな、と思っておりました。
 それは、欲界という、欲に翻弄され、縛られて、繋がれては息苦しくて生活が出来ないことを教えているんですね。欲は二つの方向性を持っています。一つは貪欲、一つは清浄意欲、これは善を欲する欲(善法欲)です。清浄は善くて、貪という「むさぼり」は悪だと云うふうに思っておりました。ところが、貪が上地を求め、、上地の生を求める、と云われているのですね。貪は貪に安住することなく、貪が貪自ら「安らぎ」の世界を求めているということだったんです。
 普段は全く気づきもしませんが、右往左往してもがいているのは、求めているからなんでしょう。求めているから、右往左往するんですね。それが本願に触れた時に転ぜられる、と教えられています。「悪を転じ徳となす正智」です。その元は、貪にあったということなんです。いわば、貪は貪が一番欲しているのは、清浄であるということなんですね。散乱し麁動する心が求めているのは、寂静なんです。寂静を求めているのが、本来の欲なんでしょうね。
 ですから、別境の心所で説かれる「欲」は、善法を欲するこころと云われています。
 「云何なるをか欲と為す。所楽の境のうえに希望するを以て性となし、勤が依たるを以て業となす」心所である。
 「所楽(しょぎょう)の境に於いて希望(けもう)するを以って性と為し。勤の依たるを以って業と為す」といわれています。楽は願われるということです。願われる対象に対して希望を起こすということなのです。浄土を願うというのを本願では欲生というでしょう。浄土に生まれんと願いなさいという願いですね。願生心は願生に先立って願われているということを意味していますね。それが本願でしょう。希望することが努力(精進)の根拠となるのです。希望することが無かったら努力しませんね。性は本質、内面的な働きですし、業は外に働くものです。欲というと欲望と連想しますが、本来の欲は努力の依り処なのです。願われる対象に向かって努力を惜しまないということになります。「所楽と云うは欲観(よくかん)の境なり。一切の事に於いて観察(かんざつ)せんと欲する者は。希望すること有るが故に」といわれています。すべてのことに対して関心を持つことが欲ということである。それは願うこと、希望することがあるからである、ということですね。欲望・欲求と云うことも含まれるでしょうし、欲楽という、浄土を願い求めるということもあるわけですね。聞法も欲ですね。欲生心なんです。「欲生は即ち是、願楽覚知の心なり」(『教行信証』信巻)。ですから「欲」という別境は間口が広いのですね。欲によって迷うのですが、また欲によって目覚めることができるのですね。
>一つの視座をいただきました。 南無阿弥陀仏 
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第三能変 煩悩の心所 諸門分別 (75) 第七、三界分別門 (12)

2015-03-29 22:48:05 | 第三能変 諸門分別第七 三界分別門
 4月8日は灌仏会(降誕会・誕生会)
  「4月には灌仏会があります。灌仏会というと、耳慣れない言葉だなあと思われる方もおられるでしょうが、花まつりというと、なんだそのことかということになると思います。
 今から約2500年前の4月8日に北インドのルンビニーの花園でかわいい赤ちゃんが生まれました。その赤ちゃんがのちのお釈迦さまです。お釈迦さまの誕生のとき、様々な珍しいことが起こったそうです。花園の花は、かぐわしい香りを放ち、甘く心地よい雨が降り注いだそうです。
 そして、生まれてすぐに7歩歩んで、天と地を指差して、
 「天上天下唯我独尊」
 と言われました。このお話を元にして、毎年4月には、お釈迦さまのお誕生仏に甘茶をかけたり、白い像に花御堂をつけて町の中を行進したり、各地で花まつりの行事が行われます。
 しかし、そのような行事をしていても、不思議なことに浄土真宗のお寺の本堂にはお釈迦さまのお姿が見当たりません。皆様方のお仏壇にも見当たらないと思います。
 それでは、浄土真宗では仏教を説いて下さったお釈迦さまをないがしろにしているのかというと、そうではありません。お正信偈をいただきますと
 「如来世に興出したまう所以は、ただ弥陀の本願海を説かんとなり」 とうたわれております。
 この如来というのは、お釈迦さまのことです。お釈迦さまがこの世にお出まし下さったのは、阿弥陀如来さまの御本願を私に知らせようとして下さったからなのです。
 それは、私からすると、なんとしてでもあなたを救うという阿弥陀如来さまが、そのことを知らさんがために、お釈迦さまになられて、御本願を説いて下さったということなのです。ということは、お釈迦さまとは、阿弥陀如来さまがこの私にわかるように姿を表して下さった仏さまなのです。
 ですから、阿弥陀如来さまと別にお釈迦さまを拝むことはいらないのです。しかし、お釈迦さまがこの世にお出まし下さったから、今私は、お念仏に出遇うことが出来ました。お誕生ありがとうございますとお勤めするのが灌仏会です。
    聞法(1991(平成3)年7月13日発行)』(著者 : 義本 弘導)より」


        ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 「下地の煩悩は亦上地をも縁ず」という一段ですが、『瑜伽論』巻第六十二の所論から、『論』のいは「欲界繋の貪いい上地の生を求めて、上定を味(ミ)すと説けるが故に」
 『述記』によりますと、①に、勝定を味するに由る。 ②に、(上地の)生を求めるに由る。という二つの理由を挙げています。
 上定(ジョウジョウ)は勝定(ショウジョウ)と同じ意味になります。色界と無色界での汚れのない禅定のこと。等持(トウジ)・等至(トウシ)のこと。等は等しいということ、平等を表しますから、そこに至る、定の力に依って身心が等しく安和な状態に至ることを指します。また等持は、平等摂持と意訳され、三摩地という心一境性ですが、簡単に言えば「定」のことです。
 味は、「著」とも書かれていますから、執着すること、染著・貪著することを意味します。つまり、むさぼりのことですね。下地の煩悩が、上地の生を求めてむさぼることは、下地の貪が上地を認識する根拠になると云うのですね。
 『瑜伽論』には、五種の上地を愛味することが説かれていますが、列挙しますと、
 「五種の愛の上に縁ずることを説くは、謂ゆる」
 ① 「或は等至を証得して、出已って計して清浄にして、可欣(カゴン・望ましいこと)・可楽(カギョウ・望ましいこと)なり。可愛(カアイ・愛すべきこと・可意(カイ・如意のことなりと随念し愛味し)」(等至を証得し、そこから出終わって、清浄である、可欣だる、可楽である、可愛である、可意であると随念して愛味(執着・貪著)を起こす。)
 ② 「或は未だ証得せず、未来の愛味の増上力の故に追及欣楽(ツイグゴンギョウ)して愛味を生じ」(いまだ等至を証得していないが、未来の愛味の増上力によって追い求め欣楽(求めること)して愛味を生じる。)
 ③ 「或は已に証得し、未来の愛味の増上力の故に追及欣楽(ツイグゴンギョウ)して愛味を生じ」(すでに等至を証得して、未来の愛味の増上力によって追い求め欣楽(求めること)して愛味を生じる。) 
 ④ 「或は已に証得し、計して清浄なり、可欣なりと為し、乃至広説するは現に愛味を行ず。(等至を既に証得して、これに対して清浄である、可欣である、と考えて、愛味を現行させる。
 ⑤ 「若し、定より出て愛味を生ずべし。」(定より出て愛味を生じる。)
 法相唯識では、本科段の分科を、「欲界繋の貪は上地の生を求めて」と「欲界繋の貪は上地を味する」という二つの意味があるとし、広く「生を求める」惣縁と、「上地を味する」という、狭義の意味での別縁となるとし。、惣縁の貪と、別縁の貪があるという解釈をしています。
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大坂坊主BAR staff 日誌 (8)

2015-03-29 20:34:03 | 大坂坊主BAR staff 日誌

        
 時の移ろいは早いものですね。暑さ寒さも彼岸まで、と詠われていますが、お彼岸を過ぎると一気に桜の開花となりました。今週一週間どうかなと思いますが、桜を過ぎた頃に、お釈迦様の誕生会を迎えます。「天上天下唯我独尊」と、自分一人が尊いというのではなく、お一人お一人が尊いいのちを授かって生まれてきたということですね。それを独尊子と云われているのでしょう。
 昨日は、お釈迦様の誕生会(降誕会・灌仏会)の意味についてお話をさせていただきました。その前に医大生が見えておられましたので、仏教と医療の関わりについて、これは五明処の中で明らかにされていることなのですが、菩薩が正しい教えを求める時に、修めなければならないとされた学道なんですね。それには五つの領域があって、内明処(仏教)・因明処(論理学)・声明処(文法学)・医方明処(医学)・工業明処(世間の営み)という人間の営みにとっての重要課題を担って菩薩は修行に勤められたのですね。人々の病苦を治することも菩薩の大きな課題でした。現在で云えば、ターミナルケア&グリーフケアについて話させていただいている中で、老・病・死を受け入れていく医療の在り方が現在問われていることではないのでしょうか、ということを問題提起させていただきました。
 唐招提寺を開かれた律僧の鑑真和上は渡来の際には何百種類という薬草をもたらされたと云われています。当然、病気を治することも大事であったでしょうが、病に伴う苦の除去が最大の目的ではなかったのでしょうか。
 (歴史的には、医療施設として、聖徳太子が隋にならい、大阪の四天王寺に四箇院の一つとして建てられたのが日本での最初とする伝承があります。(四箇院とは悲田院に敬田院・施薬院・療病院を合せたものである)。中国では唐代に設置されたものが、日本同様に社会福祉のはしりとして紹介される場合がある(収容型施設のはしりであることには間違いない)。日本では養老7年(723年)、皇太子妃時代の光明皇后が興福寺に施薬院と悲田院を設置したとの記録があり(『扶桑略記』同年条)、これが記録上最古のものである。医療ボランテイア・社会福祉施設・ビハーラはもともと仏教の慈悲の精神から生まれたもので、菩薩(僧侶)は当然関わっていかなければならない重要課題であった事には間違いありませんね。)

 追記
 「云何が医方明処なる、まさに知るべし、此の明に略して四種ありと、謂く病相に於いて善巧なり、病因に於いて善巧なり、已生の病断滅するに於いて善巧なり、已断の病後に更に生ぜざる方便において善巧なるなり。是の如きの善巧、疲労義を分別すること経の如く応に知るべし。」(『瑜伽論』巻第十五)
 「「医者がまず最初に病気の治療に入ったなら,病気自体が何であるかを考える.その後に
食べ物など,病気の原因が何から生じたかという病気の基体を考える.それから,その病
気は治療してよいものなのか,しなくてもよいものなのか,また病気がない[状態はもと
もとどうだったのか]を考える.そのあとにその病気[に効く]薬は何かと薬について考
える.・・・引き続いて医者を医王に譬え,仏陀もまた無上の医者であることを説く.
「たとえば,四支分をそなえた医者は一切の痛みを除く王にふさわしく,王の名誉をそな
えており,医王に数えられるものである.四支分とは何かといえば,疾病(gnod)に対し
て精通していること(mkhas pa),疾病の原因に対して精通していること,疾病が断じら
れている[状態]に対して精通していること,疾病を断じてからあとにもう生じないとい
うことに対して精通していることである.以上のような四支分をそなえた如来・阿羅漢・
正等覚の仏陀もまた,無上の医者であり,一切の痛みを除くものといわれる」(76b1-4)
ここに見られる四支分は,『喩伽論』十五「医方明処を釈す」で,医学とは何か
について説く際の,四種の定義に基づいていると考えられる。」(「印度仏教学研究第49巻第2号。」『義決択註』より引用)
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第三能変 煩悩の心所 諸門分別 (74) 第七、三界分別門 (11)

2015-03-28 10:53:57 | 第三能変 諸門分別第七 三界分別門
 夕陽に映し出された、桜ノ宮大川、遊歩道の桜並木、三分咲きというところです。
 
 第三の子門(第七・三界分別門の第三) 上下相縁門
 「下地の煩悩は亦上地をも縁ず。」(『論』第六・二十左) 下地の煩悩はまた上地をも縁ずるのである。先ず総論が示されます。今までは、上下相起門が説かれていましたが、本科段より上下相縁門が説かれます。上下が相い縁じることが有るのかどうかが問われてきます。つまり、下地の煩悩が上地を縁じることが有るのか、無いのか。又逆に上地の煩悩が下地を縁じることが有るのか、無いのかが問われてきます。そして、総論として本科段が述べられます。欲界の煩悩は、色界を対象として認識すると云われています。
 個別には、
 「瑜伽論等に、欲界繋(ヨッカイケ)の貪いい上地の生を求めて上定(ジョウジョウ)を昧(マイ)すと説けるが故に。」(『論』第六・二十左) 
 『瑜伽論』巻第六十二等に「欲界繋の貪は上地の生を求めて上地を味わう」(取意)と説かれているからである。
 『瑜伽論』巻第六十二(大正・30・645c)からの所論は取意になります。『述記』にも全文は記されていませんが、『樞要』(大正43・643c)には「六十二初文。説五種愛縁上者。謂或證得等至出已。計爲清淨・可欣・可樂・可愛・可意隨念愛味 或未證得。或已證得。未來愛味増上力故。進求欣樂而生愛味 或已證得計爲清淨・可欣。乃至廣説現行愛味。若從定出可生愛味。若正在定無有愛味。愛味者謂於是中遍生貪著。後文説二種。謂未得定者有染汚。謂希上生深生愛著。不染汚愛縁上定者。謂方求離欲生。廣如六十二説 。」と全文が記されています。
 『瑜伽論』本文には「謂く或は(1)等至を証得して出で已って計して清浄なり欣ぶべく楽しむべく愛すべく可意なりと為し随念し愛味し、或は(2)未だ証得せず、或は已に証得し、未来の愛味の増上力の故に追及欣楽(ツイグゴンギョウ)して愛味を生じ、或は(3)已に証得して計して清浄なり欣ぶべく楽しむべしと為し、(4)乃至広く説かば愛味を現行す。(5)若しくは定より出でて愛味を生ずべく、若しくは正に定に在りて愛味なることなし。愛味と言うは、謂く是の中に於て遍く貪著(トンジャク)を生ずるなり。」と説かれています。
  『述記』(第六本・五十一右)には「貪の上を縁ずるは、一に、勝定(ショウジョウ・すぐれた禅定)を著(或は、昧)するに由る。二に、(上地の)生を求るに由る。此れは見・修に通ず。六十二巻に五種の愛の上を縁ずることを説けり。
 今日は、諸論の記述を紹介するに留めて、内容については後日述べたいと思います。明日は、坊主BARstaff日誌です。
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第三能変 煩悩の心所 諸門分別 (73) 第七、三界分別門 (10)

2015-03-27 19:58:58 | 第三能変 諸門分別 第六三性分別門
 春風に乗って、桜一気に開花しましたね。春爛漫です。もうすぐ学校の校庭も満開になりますね。(昨年の横堤小校門の桜です)

 後半は、『瑜伽論』巻第五十八等を会通する。
 『瑜伽論』巻第五十八(大正30・623b)等には、上地にいる者は下地の煩悩を生起させることはない、と説かれている。また巻第六十二(大正30・645c)には、下地の諸法は上地に生れるときには現前しないと、説かれている。これ等の所論と、『論』の所論とは矛盾することになり、本科段において会通するのである。
 『瑜伽論』巻第五十八(大正30・623b)の所論は
 「諸の煩悩の纏にして未だ自地の煩悩の欲を離れざる者は自地に現起し、已に欲を離れたる者は即ち現起せず、若し下地に在りては上地の諸纏をば亦た成就することを得、上地に在りては下地の諸纏を成就すと説くことを得るに非ず。・・・」
 巻第六十二(大正30・645c)の所論は、
 「下地の諸法は若し上地に生ずれば現在前せず、上地の諸法は若し下地に生ずれば其の離欲の者は或は現在前す。若し下地に生じ上地に於いて愛を起こし、未だ離欲を依ず、定心ならざればまさに此の愛は是れ欲界繋なりと言うべく、まさに知るべし、此の愛は是れ染汚、或は不染汚なりと。・・・」

 「而も上に生れて下のを起さずと言えるのは、多分に依って説けり、或は随転門なり。」(『論』第六・二十左) 
 しかし、上地に生れて下地の煩悩を起こさないと(『瑜伽論』)に説かれているのは、多分(大体・おおまかに)に依って説かれたものである。或は随転理門によって説かれたのである。
 ① - 多分に依って説かれたもの。
 ② - 随転理門に依って説かれたもの。
 ①については、『述記』には、惑数に約すのと、起こる時に約すという二点が説明されています。惑数に約すというのは、「余の三見(辺見・見取見・戒禁取見)と疑等とは下のを起さざる故に、」、起こる時に約すというのは、「ただこの二時に此れ等を起こすが故に。」と釈されていますが、惑は煩悩の異名ですから、煩悩の数の多少の視点から、起こる数と、起こらない数によって、起こらない煩悩を多分として説かれているのであると会通してきます。つまり、上地にいる者は下地の邪見・瞋・痴・愛・慢・我見は起こすが、その余の三見と疑は下地のものをを起こすことはない、これを多分として『瑜伽論』には説かれているのですね。
 もう一つは、起こる時に約すという、時の視点からですね多分を説いてきます。謗滅時(分別起)と潤生時(倶生起)の二つの時を指しています。この二つの時は、上地にいる者は下地の煩悩を起こすわけですが、この時以外の多くの時には下地の煩悩は起こさないので、『瑜伽論』は多分に依って説かれたものである、と会通しているのです。
 ②についてですが、随転理門はよく出てきます。他の学説に随って記述するという方法です。ここでは有部の教説に順じて説かれたのであると会通しています。
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第三能変 煩悩の心所 諸門分別 (72) 第七、三界分別門 (9)

2015-03-26 20:24:04 | 第三能変 諸門分別 第六三性分別門
 大阪管区気象台は26日、大阪市で桜(ソメイヨシノ)の開花を観測したと発表した。職員が大阪城公園西の丸庭園(同市中央区)の標本木で5輪以上の開花を確認した。平年より2日、昨年より1日早い。(朝日デジタル)
 
 後半の部分です。
 上地に在る者が、下地の倶生起の煩悩を起こす場合について述べられます。
  「身は上地に在って、将に下に生ぜむとする時には、下の潤生倶生の愛を起こすが故に。」(身は上地に在りながら、まさに下地に生れる時には、下地の潤生の倶生起の愛(貪)を起すからである。)
 倶生起の煩悩は、輪廻する時に正潤生(主)となって生を潤(潤生)し、分別起の煩悩は助潤生となる。十二支縁起で云えば、老死・生・有・取・渇愛・受・触・六処・名色・識・行・無明(『大乗の仏道』東本願寺刊、より) 潤生の時に、上地に在りながら、下地の煩悩を起こす時であると説かれています。
 「潤生の愛を起こして下に生ずることも亦是れなり。即ち是れ倶生の無記の煩悩なり。この中に言うべし。我見・我愛、及び慢、無明なり。無明、愛は定有なり。我見、慢は不定なり。未だ必ずしも倶ならざる故に、所以に説かず。」(『述記』)唯識は、中有において生を転ずることがあるという立場になります。中有が有るとか無いという問題ではなく、中有があって初めて生有という、生まれることが起って来たんだと云う自覚でしょう。迷いと倶に生れて来たということでしょうね。それと、阿頼耶識には煩悩は存在しない、純粋無垢である、そこに救済の糸口があるのではないでしょうかね。煩悩と共に生まれてきたけれども、本識には煩悩は無いということなんですね。
 「有」と云われる、この場合はビハーバ(bhava)という生命的存在を指しています。私たちには分かりませんが、分別起の邪見を起したのか、或は倶生起の愛を起こしたのかに由って、人間界に生れてきたのでしょうね。一言でいえば、迷よった、ということでしょう。
 五悪趣という輪廻の主体なんですが、人間界はその中でも善趣といわれています。何故なのでしょう。三悪趣から転生したのかもしれません。また上地から転生したのかもしれませんが、いずれにせよ、ラストチャンスを与えられたことだと思いますね。人が人として生きるのは、菩提心をもって生きることであり、浄土を帰依処として現世に落在することでなければならんと思いますね。そのようなチャンスを与えられていることに頭が下がっていくのではないでしょうか。
 横川法語(源信僧都)
 「それ、一切衆生、三悪道をのがれて、人間に生まるる事、大なるよろこびなり。身はいやしくとも畜生におとらんや、家まずしくとも餓鬼にはまさるべし。心におもうことかなわずとも、地獄の苦しみにはくらぶべからず。世のすみうきはいとうたよりなり。人かずならぬ身のいやしきは、菩提をねがうしるべなり。このゆえに、人間に生まるる事をよろこぶべし。信心あさくとも、本願ふかきがゆえに、頼まばかならず往生す。念仏もの憂けれども、唱うればさだめて来迎にあずかる。功徳莫大なり。此のゆえに、本願にあうことをよろこぶべし。また妄念はもとより凡夫の地体なり。妄念の外に別の心もなきなり。臨終の時までは、一向に妄念の凡夫にてあるべきとこころえて念仏すれば、来迎にあずかりて蓮台にのるときこそ、妄念をひるがえしてさとりの心とはなれ。妄念のうちより申しいだしたる念仏は、濁にしまぬ蓮のごとくにして、決定往生うたがい有るべからず。妄念をいとわずして、信心のあさきをなげきて、こころざしを深くして常に名号を唱うべし。
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第三能変 煩悩の心所 諸門分別 (71) 第七、三界分別門 (8)

2015-03-24 21:41:29 | 第三能変 諸門分別第七 三界分別門
 高遠城址公園(タカトウコヒガンサクラ)の開花予想はhttp://takato-inacity.jp/h27/で。

 後半のところです。上地に在る者が下地の煩悩を起す場合と、起さない場合があることが説明されます。
 「第四定の中有の中に生じたる者が、解脱を謗するに由って地獄に生じたるが故に。身、上地に在って将に下地に生ぜんとする時には、下の潤生倶生(ニンショウクショウ)の愛を起こすが故に。」(『論』第六・二十左) 本科段は二つに分かれます。
 (1) 分別起について、「第四定(色界第四禅)の中有の中に生じたる者が、解脱を謗するに由って地獄に生じたるが故に。」
 (2) 倶生起について、「身、上地に在って将に下地に生ぜんとする時には、下の潤生倶生(ジュンショウクショウ)の愛を起こすが故に。」
 『述記』の所論に從って意訳をしますと、
 (1)上地に在る者が、下地の分別起の煩悩を起すことがわかるのは、(『阿毘達磨集論』巻第六によると)第四定の中有の中に生まれた者が、解脱を謗ることによって地獄に生まれるからである。
 (2)上地に在る者が、下地の倶生起の煩悩を起すことがわかるのは、身は上地に在りながら、まさに下地に生れる時に、下地の潤生(生存を潤すこと)の倶生起の愛を起こすからである。
 ここの解釈はよくわかりません。『述記』の所論を留めておきます。
 「述して曰く。対法の第六に、第四定を得たる増上慢の比丘、是れ第四果と謂えるものが、既に(色界の)中有を受け已って、即ち色界の(中有の)身に下(欲界)の邪見を起こして、便ち釈種(世尊)に涅槃有ること無しと謗せり。今の時(色界の中有)において後有(本有)起こるを以ての故に。此には邪見と及び倶なる無明と有り。或は、瞋も有りと許す。涅槃を瞋するが故に。既に地獄に生ずることは、邪見の力に由ってなり。色界の邪見には非ず。下の苦を招かざるが故に。欲界の身に於いて、この邪見を起こすには非ず。彼(『対法論』)に。(色界の)中有に生ずる時に起こると言えるが故に。色界の中有を欲界の本有にして、如何ぞ之を見るや。定通力に非ず。(死と生と命終とは)散心に住せるが故に。(中有の位に)上の邪見を起こすに由って縁と為すとして、欲界の後報の業が熟して那落迦に生ずるに非ず。別の文証なし。・・・」

 先ず、中有についてですが、真宗では言いませんね。でも、初七日から四十九日までの七週間は中陰として勤められています。この間が中有です。中有から生有として、異生として誕生するという、一種の輪廻観でしょうね。真宗では即得往生、現生に於いて、「即得往生住不退転」に定まるならば、死後、浄土が中有として現生してくるのでしょうか。いずれにしても、現生の在り方が問題ですが。まあ、亡くなられてから満中陰までの期間を中有というわけですから、満中陰までは中陰棚を設けて、そこで供養をすると云う形式が取られているようです。死有・中有・生有・本有という生存の在り方の中で、死有と生有の中間に中有という存在が有り、三界の中の欲界と色界の有情にのみあるとされています。
 『述記』は『対法論』巻第六を引用していますが、もとは『大毘婆沙論』巻第六十九(大正27・359b)の記述です。
 先ず、(1)分別起であることがわかるのは、「色界の(中有の)身に下(欲界)の邪見を起こして」という一段です。邪見は五利使のなかで、分別起に分類されるからです。五つの悪見すべては分別起ですが、我見と辺見は倶生起にも通じています。前にも見ましたので詳しくは述べませんが、『論』に「是の如き総と別との十の煩悩の中に、六は倶生と及び分別起とに通ず。任運にも思察するにも倶に生ずることを得るが故に。疑と後の三見(邪見・見取見・戒禁取見)とは唯分別起のみなり。要ず悪友と或は邪教の力と自ら審らかに思察するとに由って方に生ずることを得るが故に。」と結論が出されていました。

 『述記』の記述ですが、逸話をもって謗法の問題を示しているのではないでしょうか。「欲界の邪見を起こして」というところにですね、「諸の煩悩の生ずるは必ず痴に由るが故に」という、邪見の背景にですね。、痴の存在がありますね。それともう一つの煩悩は、欲界にしか存在しない「瞋」の存在です。瞋は分別・倶生起に通じていますが、邪見と倶に働く瞋は分別起のものであるわけです。ここには、「邪見と及び倶なる無明と有り。或は、瞋も有り」と云われています。
 色界第四禅を得た増上慢の比丘が、そのままであるなら第四禅中有から第四禅天へ転生するであったにも拘らず、色界にありながら、欲界の邪見を起したんですね。解脱に慢心を懐いたのです。解脱をしたのなら中有は現れない筈である、と。中有が現れたのは解脱はないものであるという欲界の邪見(四諦の理發無の見)を以て、解脱や涅槃はないものであると謗ったわけです。釈尊も涅槃を得ていないんだ、と。このような増上慢によってこの比丘は、本来なら色界第四禅天へ転生すはずが、謗滅時を起因として欲界の中有が現前し、この比丘は無間地獄に転生したんです。
 此れは私たちの生活にもいえることだと思いますが、仏法を聞いておっても、現実の生活が裕福になる訳でもないし、金持ちになるわけでもない、聞いても、聞かんかっても何ら変わることが無いではないか。これが邪見なんですね。邪見が慢心を生んできますから、親鸞聖人は、これらの人を悪衆生とされました。というおり、衆生の本質を見抜かれたのですね。邪見をもって蠢いているのが我等である、と。「何ら変わることが無い」という見解ですね。ここが、「謗滅時」なんです。世間に埋没すると云う転落が待っているのですね。それを地獄と表されているのでしょう。
 明日は倶生起の煩悩についての所論をうかがいます。
 
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第三能変 煩悩の心所 諸門分別 (70) 第七、三界分別門 (7)

2015-03-23 23:42:54 | 第三能変 諸門分別第七 三界分別門
 岐阜県本巣郡根尾村の薄墨桜。作家宇野千代氏がこよなく愛されました。数年前に訪れましたが、その美しさと、見事さに圧倒されたことを思い出しています。 
 
  三界分別門は、三界繋属門と上下相起門と上下相縁門の三部門より構成されています。2014年10月11日からの続きになります。遡って復習してください。
  
  三界繋属門 ― 総論・「瞋は唯欲のみに在り、余は三界に通ず。」
  上下相起門 ― 上は、上地のことで、色界第一静慮以上の土を指します。下は、欲界のことで、これを第一地として、三界を欲界・色界(四静慮)・無色界(四静慮)をもって、三界九地の教説を立てています。
   前半は、欲界にいる者が、色界に在る煩悩を起こすことがあるのか、どうかを問い、
   後半は、色界に存在する者が、欲界の煩悩を起こすことがあるのか、どうかを問う。
 今日からは、後半の問いについて考えてみたいと思います。
 色界に存在する者が、欲界の煩悩を起こすことがあるのか、どうかを問う科段になります。ここも、前半と後半の二部門によって構成されています。
 前半は、色界に存在する者は、欲界の分別起の煩悩も、倶生起の煩悩も起こすことを説明し、後半では、色界に存在する者が、欲界の煩悩を起こす場合と、起こさない場合があることを説明します。
 「上地に生在(ショウザイ)しては、下地の諸惑をば、分別にもあれ倶生にもあれ皆現起す容し。」(『論』第六・二十左)
 本科段は、前半の部分と逆の問いになります。
 色界は定の世界ですが、定の世界に入っていても、欲界の諸惑である分別起の煩悩と倶生起の煩悩のすべてを起こす可能性がある、と説かれています。ここは、一応は上地は色界を指すわけですが、広く言えば、無色界第四静慮である非想非非想処をも含めて、迷いの世界であることを教えています。退転するのですね。不退転ではないということです。菩薩は三界を超えた存在なのですね。迷いの世界は、三界九地で表されますが、菩薩行は十地として、初地が不退の位、不退転地なのです。また初歓喜地ともいわれています。

 余談になりますが、歓喜地についての私論です。
 「大乗仏教では、菩薩初地を、初歓喜地として十地の階位が説かれていますが、親鸞聖人は歓喜地をどのように抑えられているのでしょうか。「本師龍樹菩薩は、大乗無上の法をとき、歓喜地を証してぞ、ひとえに念仏すすめける」。また、「大乗無上の法を宣説し、歓喜地を証して、安楽に生ぜん」と龍樹菩薩を讃嘆されていますが、左訓には、「歓喜地は正定聚の位なり。身によろこぶを歓といふ、こころによろこぶを喜といふ。得べきものを得てんずとおもひてよろこぶを歓喜といふ」と了解を述べられています。菩薩十地の階位は初歓喜地を不退転地と押さえられていますが、龍樹菩薩は、七地沈空の難を課題として不退転地を問題にされたと、親鸞聖人は受け止められたのではないでしょうか。聖道仏教では菩薩の階位として修道が求められているのですが、信心の課題として、「念仏もうさんとおもいたつこころのおこるとき、すなわち摂取不捨の利益にあずけしめたまうなり」。摂取不捨の左訓に「ひとたびとりて永く捨てぬなり」「摂はものの逃ぐるを追はへとるなり」と注釈を施しておいでになります。大乗正定の聚に住せん、とは「煩悩成就の凡夫、生死罪濁の群萌、往相の心行を獲れば、すなわち大乗正定の聚に住せん。正定聚に住すれば、必ず滅度に至る。必ず滅度に至れば、すなわちこれ常楽なり、常楽はすなわちこれ大涅槃なり」、親鸞聖人は竪超の菩提心に対して、横超の大菩提心として、「信心ひとつにさだめたり」と、雑行を捨てて、本願に帰されたのでしょう。『十住毘婆紗論』、入初地品・地相品・易行品(真聖p161~167 行巻)に於て、「菩薩初地に入ることを得れば名づけて「歓喜」とすると」と説かれている「歓喜地」を、如来回向の功徳として、現生正定聚住不退転と、菩薩八地已上の等覚の弥勒に等し、と押さえられたのです。他力釈には「阿弥陀と名づけたてまつると。これを他力と曰う」。「即時入必定」・「入正定之数」として歓喜地を抑えられたのですね。
 見道を修して、我執・法執を断じ無分別智を得た人を菩薩として、最初に入った位を見道初極喜地といい、十地の最初に入聖した人を、菩薩、或は聖と、それ以前は凡夫、唯識五位の段階では見道通達位を聖者といい、それ以前の加行位の人を賢者といわれています。大乗仏教では歓喜地は初であります。初地が歓喜地の別名です。詳しくは、見道初極喜地です。
 但、親鸞聖人は歓喜地を等正覚として如来廻向を明らかにされました。
 唯識では、「清浄な信を上首として心に歓喜が生じ、心が歓喜するが故に、漸次、諸の悪不善法品の麁重を息除す」と言われています。その初地得果の位は、心に歓喜が生ずる位である為に初である歓喜が生起する地として初歓喜地といわれているのでしょう。初歓喜地において分別起の煩悩は断じられるといわれていますが、なお倶生起の煩悩を断ずる必要がある為に修道が要求されます。修道において倶生起の煩悩すべて断じ尽くされて十地・法雲地が獲得されるとされています。」

 本論に戻りますが、上地に存在する者が、下地の諸惑を起こす可能性があることを、どうして言えるのか?という問題に答えてきます。ここが又二つに分けられて説明されます。初は分別起・後は倶生起についてです。また明日にします。
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初能変 第二 所縁行相門 不可知について (6) 問答

2015-03-22 14:55:13 | 初能変 第二 所縁行相門
  
 「云何が是れ識が所縁の境を取る、行相知り難きや。」(『論』第二・三十三右)
 第八識が所縁の境であるところの執受と処を認識しているわけですから、また能縁であるところの見分、即ち行相ですね。その働きがどうして分かりにくいのですか。第八識が働いていることが、どうして分かりにくいのかと云う問いが、経量部や有部から質問されているわけです。
 答えが、喩を以て説かれます。
 「滅定の中に、身に離れざる識有るが如く、応に信じて有と為すべし。」(『論』第二・三十三右) 
 滅定については、2010年11月30日以降の投稿を参考にしてください。若干触れますと、
「及び無心の二定」 と(無心の二字は下四位に通じる)いわれるのは、無想定と滅尽定のことである。倶に第六意識が働かないので無心と名づけるのでる。無想定は有漏の定であると、それに対して、次に述べられます滅尽定は無漏であると.
六識と第七識が滅するのは滅尽定においてである。無想定に於いては六識はなくなるけれども、第七・第八識はなくならない。「不恒行と恒行の染汚との心・心所を滅す」といわれています。そして「身を安和にならしめる」作用がある、といわれますね。滅定は完全に六識は滅せられている定ですが、身を持っていることが大事です。それは六識は滅せられても生きているということなんですね。
 本科段に於いても、「滅定の中に身に離れざる識あるが如く」と、滅尽定の中にでも、身を離れない識有ることが説かれているけれども、声聞・縁覚という二乗にもあるのですかと問われれば、そこはわからない、不可知である。けれどもです。不可知ではあるけれども、「応に信じて有と為すべし」と。
 二定は第六意識は働いていないと云われています。第七識と第八識が働いている状態を、無想定といい、第八識のみが働いている状態を、滅尽定と云われます。無想定は凡夫でも入ることが出来ます。しかし、滅尽定は阿羅漢と菩薩のみが入ることが出来る定なんですね。阿羅漢と菩薩は第七識を断じ、第八識の働きだけになっているからですね。第八識が第七識の染汚を受けなかったら、元の純粋性のまま生きていくことが出来るわけです。生きていると云うのは、身を持っていることですね。
 「然れども、必ず滅定の中には識有ると許すべし。有情に摂むるが故に。有心の時の如し。」(『論』第二・三十三右)
  だからして、識が有ると解るしかないのですね。理から云うとですね、必ず、滅定には、識が有ると許すべきである、と。何故ならば、滅定も有情に摂められるからである。何らかの心が働いている(有心)時のようである。このように説明されています。
 「無想等の位も、まさに知るべし、亦爾なり。(『論』第二・三十三右)
 異熟も、無心の睡眠と悶絶と等の位を等取す、と云われていることから、知るべきである、と結んでいます。
 以上で第二の所縁行相門が閉じられます。また、『成唯識論』巻第二も終わりまして、第三の心所相応門から、巻第三に入ります。一応、巻第二まで読んできましたので、しばらく休憩をしまして、第三能変の続きを読んでみたいと思います。
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大坂坊主BAR staff 日誌 (7)

2015-03-21 09:39:31 | 大坂坊主BAR staff 日誌
  

今日は春彼岸の中日、各地の寺院で彼岸会法要が厳修されます。彼岸の意味について考えてみましょう。

 昨日は坊主BARstaffでした。八時ごろに店に入りましたが、先行して、お客様が三名お見えでした。塚本師が見えておられましたので、お相手をしていただいておりました。お客様は、わざわざ岸和田から遠路はるばる坊主BARへときてくださいました、特養で看護師をされている同僚の方々でした。塚本師からは自分の経験を踏まえて、ホスピス・ビハーラについて詳しく語っていただきました。なによりも、仏教介護について、介護の目線はどこにあるのか、というお話に、皆さん熱心に聞いておられました。
 トークtimeでは、現場で抱えられている問題点をいっていただきました。介護に向き合う姿勢には、特に問題点ないということことだったのですが、一番の問題は人間関係で、指導する立場と、指導される立場での軋轢で悩んでいますと赤裸々に語っていただきました。指導する立場の方は年下で、指導される立場の方は年上ということもあって非常に難しいです、と。そして、お互いの意思疎通が図れなかった時、介護に影響が出ますと、リアルに反応が外に向かうことを懸念されておられました。
 そして、ものすごく深い問題も語っていただきました。親子の問題なのですが、この方は結婚もされ、お子様もおられるのですが、母親となって子育てのなかで、自分の半生を振り返られているのです。大変口にだして言えないような悩みを吐露していただきました。絶句するような、簡単には答えられない。人の事だからたやすく言えると云われてしまいそうな、人間が抱えている闇の部分を浮き彫りにしていただきました。坊主BARにまで足を運んでいただくまでには、相当悩まれたと思います。話さなくてもよかったとう選択肢もあったはずですが、どうしてもは話さなくならない、しかし話してもどうにもならないという苦悶の中からの質問でありました。内容は伏せておきますが、どうしても超えられない我執、自分が立ってしまうと云う問題でした。自分から頭が下げれない。私も苦しんだけれども、それ以上に(貴女)も苦しまれたのですね、辛かったでしょうね、と云えない問題です。
 私たちは、私達、私という立場で、物事を判断し、善悪の価値観をもっていますから、悪は悪として切り刻むということを平気で行います。それも知らず知らずにですね。法を犯しているわけではありませんので罪にはならないのですが、そのことが自分を苦しめてくることに気づかないという愚かさがあります。「愚」の自覚。愚が仏教が教えてきた救済の事実なのでなはいかなと思いました。ものすごく教えられました。ありがとうございます。
 入れ替わりに、大阪の方二名と、奈良の方にご来店をいただきました。会社の同僚ということでしたが、若い女性のお三方にとって、坊さん、とは?なに。という感じでした。それていうのも、一人の女性が、先日永平寺に取材にいかれたそうです。客観的に取材をする立場なのですが、若い修行僧の凛々しい姿に圧倒されました、と云っておられました。「何がこのような凛々しい姿にするのでしょう」という問いをもっておられました。
 仏事に関する質問もしていただきましたが、仏事を通して、触れていかなければならない「自分と云う存在」、仏教的に云えば「衆生という存在」について少し語らせていただきました。「自分は自分に遇う為に生まれてきた」ということ。外的条件は「自分が自分に遇うため」の御縁であるような意味のことを伝えました。
 皆さん、それぞれ深い問題をもって暮らしておられます。問題を外に投げ出して問われる方、内に覆われたまま聞いておられる方様々ですが、坊主BARに足を運んでいただいとこと、それが仏縁ですから、仏縁を大切にしていただいて日常の問題から、自分を問い、自分という存在に気づいていただきといと思いました。
 来週は、28日の土曜日staffの予定です。
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