唯識に学ぶ・誓喚の折々の記

私は、私の幸せを求めて、何故苦悩するのでしょうか。私の心の奥深くに潜む明と闇を読み解きたいと思っています。

第三能変 煩悩の心所 (16) 根本煩悩の体と業について (14) 疑の心所 (3)

2014-03-31 20:31:36 | 心の構造について

 疑の体について、大乗の異師の説(不正義)と護法の説(正義)を挙げる。初は大乗の異師の説を挙げ、後に訓釈によって論じる。

 「有義は、此の疑は慧を以て体と為す、猶予して簡択(ケンチャク)するを説いて疑と為せるが故に。」(『論』第六・十三左)

 大乗の異師は、この疑は慧をもって体とすると主張する、何故ならば『瑜伽論』に、猶予して簡択することを説いて疑としているからである(説猶予簡択説為疑也)。

 大乗の異師の論証は『瑜伽論』巻第五十八に説かれる「猶予して簡択(ケンチャク)することを疑とする」と説かれているからであり、また、『瑜伽論』巻第八に「疑とは異の覚を体と為す。覚は即ち是れ慧なり、決断するを慧と名づく」という一文をもって大乗の異師の疑の心所は慧の一部である根拠としています。「異覚」とは、「覚」は慧を表し、その異(翻対にあるもの。所対治)であるものが「疑」であるから、疑は慧の分位仮立法であると主張し、論証しています。

 しかし、疑は慧の分位仮立法であるという主張は誤り(不正義)である。

 

 後は、疑は慧の分位仮法なのかどうか、大乗の異論と比較検討する。(訓釈)

 

 「毘(vi)を以て末底(mati。マチ)を助けたる、是れ疑の義なるが故に、末底と般若とは異ること無きが故に。」(『論』第六・十三左)

 大乗の異師の説を挙げています。疑は慧の一部であることを論証しようとする試みです。即ち、末底は慧の異名であって般若と別体ではなく、慧の上に毘の字を加えて末底を助けて毘末底(vimati)となると疑の意味になる、といいます。末底と般若とは倶に慧の異名であって疑の体は慧なのであると主張します。

 「論。有義此疑至説爲疑故 述曰。疑以慧爲體。何以故。大論五十八説猶豫簡擇説爲疑也。大論第八異覺爲體。覺即是慧。決斷名慧。然簡擇猶豫異。決斷覺説爲疑故。此以文證 又訓釋中論。毘助末底至義無異故 述曰。所謂末底是慧異名。與般若無別體。於慧上加毘字助之。毘是種種義。即種種慧也。大論言異慧疑。異者是種種義。故知疑體即慧。以末底・般若倶慧異名。以毘助之。豈別有體。此是大乘異師。非是別部。」(『述記』第六末・七右。大正43・445a)

 (「述して曰く。疑は慧を以て体と為す。何を以ての故に。『大論』に「猶予して簡択するを説いて疑と為す」と説くなり。『大論』の第八に異覚を体と為す。覚は即ち是れ慧なり。決断するを慧と名づく。然るに簡択は猶予して決断する覚に異なるを以て、説いて疑と為す故に。此れは文を以て証するが有ゆえに。又訓釈の中に、
 所謂末底とは是れ慧の異名なり。般若と別の体無し。慧の上に毘の字を加えて之を助る。毘是れ種々の義、即ち種々の慧なり。『大論』に異慧は疑と言う。異とは是れ種々の義なり。故に知る、疑の体は即ち慧なることを。末底と般若とは倶に慧の異名なるを以て、毘を以て之を助く。豈に別に体有らんや。此は是れ大乗の異師なり。是れは別部に非ず。」)

 不疑は正慧の分位仮立法であることは善の心所で説かれていました。能対治が不疑、対治される所対治は疑であるわけですが、不疑は仮法であり、疑は実法であるということから、疑を慧の分位とすることは間違いである、不正義であるということ。疑は慧ではなく、個別の自体が有る心所であるというのが護法の正義になります。 次科段より順次、正義が説かれます。  (つづく)

コメント
この記事をはてなブックマークに追加

第三能変 煩悩の心所 (15) 根本煩悩の体と業について (13) 疑の心所 (2)

2014-03-29 23:56:44 | 心の構造について

 「能く不疑の善品を障うるを以て業と為す。謂く、猶予の者には善生ぜざるが故に。」の一文を読んでみたいと思います。

 2013年12月27日の項を参考にしてください。

 疑は「不疑の善品を障えることをもって業用とする」心所である、ということです。この心所は不善と有覆とに遍満し、三界に通じ、ただ非量にして第六識にのみ相応する心所であるということになります。

 不疑は、事と理に対して疑いのない心を本質的な働きとし、よく善品を生起することを業用とする心所である。

 猶予が疑なのですね。「事と理に対して」ということは、仏法を疑っている(信じていない)のでしょうが、では何を信じているのかです。自分の都合を信じているわけでしょう。事と理は自他不二という無分別ですが、自分の都合は有分別ですね。分別をもって自他を切り離しているわけです。このギャップが猶予なのでしょう。ですから、自分の都合に於いて他を傷つけていくことになります。「善が生じない」ということも理に合っているわけです。

 私事になりますが、父の兄弟間でちょっとした争論が起こっています。双方の話を聞く役目を仰せつかったのですが、共に自分の主張を正当化して、話し合いは平行線のままなのです。自分が正しい、間違っていない、あんたが謝るべきである。謝ったら許してあげるという傲慢さが頭をもたげています。これが「疑」なんですね。「俺を立ててくれ」という主張は、あなんたが潰れろ、と言っていることなんですが、見えないですね。見えるまでの期間が猶予中ということになりましょうか。

 では何故このような疑が生じてくるのでしょうか。『瑜伽論』巻第五十五(大正30・603c)には「疑は六事に依って生じる」と説かれています。

  1.  一には、不正法を聞くこと、
  2.  二には、師の邪行を見ること、
  3.  三には、信受する所の意見の差別をみること、
  4.  四には、性自ら愚魯(グロ)なること、
  5.  五には、甚深なる法性、        
  6.  六には、広大なる仏教なり。

と。(4)(5)(6)はちょっと理解し難い所ですが、(1)~(6)まで共通していることは、自分中心の見方なのです。正法でないものを聞くと正法に疑いを生じる縁となり、師の邪行を見ると、師の学んでいる教法に疑いを生じる縁となり、自分が信じている教えと違う教えを見ることに於て信受している教えに疑いを持つ縁となる、ということが(1)から(3)に説かれています。

 (4)は、自分が愚かである為に正法を理解できないことが縁となり疑いを持つ。
 (5)は、やはり、無上甚深微妙の法は理解しがたく、理解できなことが縁となって疑いを持つことになる。
 (6)は、(5)と関係しますが、広大な仏教もまた理解しがたいものであり、疑いを生じる縁となるものである。

 と述べてありますが、自分の範疇の中にあるもの、それが疑なんですね。これは自分の絶対化です。自分の都合に合わせようとすることがイコール疑であり、猶予と云われているところなんです。猶予とは、諸の諦と理とに目覚めなさいという要求になるのでしょう。

コメント
この記事をはてなブックマークに追加

第三能変 煩悩の心所 (14) 根本煩悩の体と業について (12) 疑の心所 (1)

2014-03-28 22:50:44 | 心の構造について

 疑の心所について

 「云何なるをか疑と為る。諸の諦と理との於(ウエ)に猶予するを以て性と為し、能く不疑の善品を障うるを以て業と為す。謂く、猶予の者には善生せざるが故に。」(『論』第六・十三左)

 どのようなものが疑の心所であるのか。それは、諸の諦と理とに対して猶予することもって性とし、よく不疑の善品を障碍することをもって、その働きとする心所である。つまり、猶予の者には善が生じないからである。

 「猶予の者には善生せざるが故に」という、心して聞いていかなければならない言葉です。

 簡単に言えば、仏法を疑っているということなのでしょう。仏法を疑うことが、善を生起することがないという厳しい指摘になっているのでしようね。

 「どのようなものが疑の心所であるのか。それは、諸の諦と理とに対して猶予することもって性とする心所である。」と説かれていますが、「諸の諦と理」とは、事と理のことで、事と理に対して猶予する心所が疑であるということなのです。

 「疑は諦・理に迷って猶予すと説く。」 具体的には「『瑜伽論』巻第五十八の中に五相の別なるに依る」と説明されています。

 「謂く他世と作用と因果と諦(四諦)と宝(三宝)なりと。此の中に諦と言う。亦彼を摂すること盡せり。理のごとく思うべし。即ち理と事とを縁ず。倶に是れ疑なり。然るに杭を疑って人と為すは此の疑惑に非ず、或は異熟心等なり。」(『述記』第六末・六右)

 他世とは、過去・未来の相、作用は、父母から受けている恩など、それと四諦と三宝に対して猶予することを疑であると『述記』は説明しています。「迷って」と述べられていますが、迷いは諦・理に迷っているのですね。私たちが迷乱しているのは、日常の出来事の中での良し悪しに翻弄されているのではなく、四諦の道理を疑っていることから生じてきているものなのですね。

 仏法を聞いて頷くということは、

 「『華厳経』(入法界品・晋訳)に言わく、この法を聞きて、信心を歓喜して疑いなき者は、速やかに無上道を成らん、もろもろの如来と等し、となり。」(『信巻』真聖p230)

 と説かれていますが、仏法との関係性に於いて、疑の心所が述べられていることが解ります。しかし、仏法を疑うということも大変大事なことなのです。もう少し突っ込んでいいますと、疑うということ自体が仏法に触れていることなのですね。本当の疑いは、疑いすら知らないということ。これを無明と押さえられているのでしょう。

 「しばらく疑問を至してついに明証を出だす。」(『信巻』真聖p210)

 盲目的に仏法を信ずるということに対する一つの警鐘でもあるわけですね。疑ってみるということも大切な作業になります。「しばらく疑問を至して」というところからはカルトは生み出されないでしょうね。盲目的に、ということがすでに煩悩ですからね。隠されているのは、自分にとって利益がある、という判断ですね。恒に騙されたということが背景にあるのではないでしょうか。ですからカルトはですね、背景を見破られないように洗脳するわけです。

 集団的自衛権ではないですが、カルト外との接触を嫌います。横のつながりにおいて縛っていくわけです。そして従順なる縦社会です。その縦社会の構造はスパイダーマンのようですね。つまり、カルトから抜け出せないような巧妙な網を仕掛けているのですね。これは仏法でもなんでもないんですが、信者さん同士が結婚すると、一方がカルトに疑いをもちますと離婚になりますし、子供さんですと、いじめの対象になっていきますね。横のつながりを密にすることにおいて集団から抜け出すことが出来ないように仕掛けているのです。

 

 仏法に触れて、聞法し、「もしまたこのたび疑網に覆蔽せられば、かえってまた曠劫を径歴せん。」(『総序』) という自覚が大切なことになってきます。  (つづく)

コメント
この記事をはてなブックマークに追加

第三能変 煩悩の心所 (13) 根本煩悩の体と業について (11) 慢の心所 (6)

2014-03-27 22:46:32 | 心の構造について

 「一切皆見、修所断に通ず。聖の位にも我慢已に現行することを得」

 慢の心所は、聖者の位においても起ることを明らかにしています。

 「一切皆見、修所断(シュショダン)に通ず。聖の位にも我慢已に現行することを得、慢類も斯に由って起こるというに亦失無(マタトガナ)し。」(『論』第六・十三左)

 慢心という煩悩は、「一切」の見所断と修所断に通ず、聖の位に於いても、我慢がすでに現行すると云われ、慢の類がここ(修道)で起るといっても過失はない。

 慢心は、見道にも修道にも存在していることを教えています。見道に於て断じられる慢心もありますが、もっと深い慢心は修道に於て断じられていくのです。それほど慢心は深く潜行して身心を煩わしていく煩悩なのですね。

 ここに、聖者と出てきますが、聖者は見道以上十地以下を指します。それ以前は凡夫です。その聖者にあっても慢心は現行すると云われているのです。従って見道以上の聖者にあっても慢心が起こっても過失はないという。

「論。一切皆通至起亦無失 述曰。彼小乘中通見・修斷。聖有而不行。無修道我慢故。今大乘修道既得有我慢。是故聖者現行。顯揚。及八十八等。云七慢或倶生或分別。故知九慢修起無失 五十八稍廣作差別説。」(『述記』第六末・六右。大正43・444c) 

 (「述して曰く。彼の小乗の中は見修断に通ず。聖に有れども行ぜず。修道の我慢無きが故に。今大乗は修道に既に我慢有ることを得。是の故に聖者も現行す。顕揚及び八十八等に云く、七慢は或は倶生、或は分別なりと云えり。故に知る。九慢も修に起ると云うに失無し。五十八に稍広く差別の説を作(ナ)す。」)

 『述記』の釈を通して知り得ることは、小乗(部派仏教)と大乗の解釈の相違ですね。部派仏教に於ては、我慢は修道にも有るけれども現行はしないという立場をとっていますが、大乗の聖者は自身の中に我慢は存在すると見破ってきたのですね。仏位になるまで、我慢は現行していることを教えています。このことは如何に深層の領域に入りこんで慢心が現行しているのかが教えられます。

 次科段は「疑」の心所について説かれます。

 概略を(2010年1月18日の投稿より)転載します。

 「疑」は仏法を聞いて疑いを持つ心なのです。「本当かな」と云う疑いです。親鸞聖人は「疑」を「聞不具足」といわれています。無疑は何かといいますと、「聞」と言うは、衆生、仏願の生起・本末を聞きて疑心あることなし。これを「聞」と曰うなり。といわれていますから、疑う心を縁として本願を尋ねるということが大切なことになるかと思います。「信順を因とし、疑謗を縁として、信楽を願力に彰はし妙果を安養に顕はさむと」生きることの意味とはこのことなのでしょうね。因は信・縁は疑いです。疑うということが疑いを晴らすことにつながりますね。そしてあるがままに生きるのです。信心は、「よく迷いの過ちを捨離せん」ことになるのです。

 

 「云何なるをか疑と為す。 諸の諦と・理とに於いて猶予するをもって性と為し。不疑の善品を障ゆるを以って業と為す。謂く猶予の者には善生ぜざるが故に」

 「諦」は四聖諦(苦諦・集諦・滅諦・道諦)のこと。「理」はその道理ですね。私が苦しむのは何故か。その理由を明らかにし、苦からの解放は如何にしたら可能かという道理に対し疑いの心を起こすのです。「本当かな」というためらいをもつのが「疑い」の本性だといっているのです。そしてためらいをもっている限りですね、善という菩提心は生まれてこないと教えているのです。「疑」はですね。苦の因は自分に有るということがわからないということでありますし、また苦のない世界があるということにも疑いを持っているということだと思います。道諦はそこに到る道があるということを明らかにしているのですが、苦の因を自分の外に求めていますからためらいがあるのでしょう。

 もっというならば、自分以外は信じられないと云う妄想でしょうね。

コメント
この記事をはてなブックマークに追加

第三能変 煩悩の心所 (12) 根本煩悩の体と業について (10) 慢の心所 (5)

2014-03-26 22:22:57 | 心の構造について

 『述記』の記述と順が違いますが、五法の順に述べていきますと、三品の後に、我に対して(我蘊)、そして徳に対しての慢が説かれます。

  • (五) 「我蘊に於て我慢を起こす。自ら恃んで高挙するなり。」

 我慢ということなのですが、日常に於て我慢という言葉はよく使われます。子供の躾に於ても「我慢しなさい」とか、イラットした時に我慢をしよう、何事にも耐える時に我慢・我慢という使われ方がしますが、我慢は我に対する慢心ですから、我を頼りにしてそして高く挙げる心所なのですね。ここも自他分別です、自らを高く挙げて他を軽んじるのです。我慢という時には、我慢することに於て自分をよく見せたいという気持ちが動いているのではないですか。或は自己犠牲といいますか、自分さえ我慢すれば、という思い上がりですね。自己中心的に起こってくる慢心が我慢ということになります。

  • (6) 徳に対して起こす慢心が述べられます。 「未だ勝れたる徳を証せざるに於て、増上慢を起こす。少分を得すと雖も、未だ得ざる所に於て、己已に得と謂う。」

 増上慢というのは、自分では「未証勝徳」であるにも拘らず、既に得たという慢心です、これを増上慢と言い表しています。どうでしょうか、素直さがないといいましょうか、謙虚さがないんですね。

 謙虚さがないといいますと、こうして唯識と称してブログを綴っていますのも増上慢ですね。自分では分かったつもりで書き込んでいますが、何も解かっていません、しかし読んでいて下さる方々が解っていただけるなら、自分は解らなくてもいいのではないかと思っています。これもまた増上慢ですね、素直さがありません。

  • (7) 「己に徳なきに於て己に徳ありと謂う。邪慢を起こすと、此の邪慢は全く無なるに有と謂う。」

 見栄を張るとか、虚栄心のことでしょうね。自分には全くないものについての慢心を邪慢というのだ、と。

 以上が簡単に述べましたが七慢になります。九種の慢もあると説かれていますが、九慢は「大乗の中には見えず」見え何ものであるが、『述記』によりますと、『大毘婆沙論』巻第一百九十九・『倶舎論』巻第十九・『顕揚論』巻第一に説かれている。「我勝・我等・我劣との慢類なりと云う」、此れに加えて「有勝・有等・有劣を三と為し、無勝・無等・無劣を三と為す。」これは慢と過慢と卑慢を展開したものであると述べられています。「過慢・慢・卑慢は次の如く初の三なり、卑慢と慢と過慢はつぎの如く中の三なり。慢・果慢・卑慢は次の如く後の三なり。」と説かれています。

 整理をしますと、
 我勝・我等・我劣・有勝・有等・有劣・無勝・無等・無劣ということになります。これが九慢である、と。

 「本論(『発智論』二十)、及び品類足に依るに両説あり、大いに広なり。然るに九は我見に依って後に生じ、三品の処に起こる、。此れ諸見と相応すと云うに失なし。」

 

 

 

コメント
この記事をはてなブックマークに追加

第三能変 煩悩の心所 (11) 根本煩悩の体と業について (9) 慢の心所 (4)

2014-03-25 23:10:43 | 心の構造について

 慢の種類について

 「此の慢の差別なること七・九種有り、謂く、三品と我と徳との処に於て生ず。」(『論』第六・十三右)

 この慢について、七慢或は九慢という種類がある。つまり、三品と我と徳の所において生ずるのである。

 三品(上品・中品・下品)と我と徳の五つの状況(五法)に於て、七慢・九慢が生じる。『述記』の記述から順を追って考察します。

 「論。此慢差別至我徳處生 述曰。有七・九種。不過於五法上生。謂上中下三品。及我。并勝徳處生。此義云何。如五蘊論説 謂七慢中。於下品及中品起第一。謂於劣計己勝。於等計己等。於中品於上品起過慢。謂於等計己勝。於勝計己等。於上品起慢過慢。謂於勝計己勝。於我蘊起我慢。自恃高擧。於未證勝徳。起増上慢。雖得少分。於所未得謂己已得。於上品起卑慢。謂他多分勝己。謂己少分不及。 己於無徳。謂己有徳起邪慢。此邪慢者全無謂有。其増上慢己得少勝。謂多殊勝。此即二別也。然於三品起四。滅起一。於徳起二。於五處起七慢也 九慢者。大乘中不見文。顯揚第一云。如經説三慢類。我勝。我等。我劣慢類。婆沙等第一百九十九。及倶舍第十九説有九慢。前三爲三。有勝・有等・有劣爲三。無勝・無等・無劣爲三。過慢・慢・卑慢如次初三。卑慢・慢・過慢如次中三。慢・過慢・卑慢如次後三。依本論及品類足兩説大廣。然九 依我見後生。三品處起。此與諸見相應無失。」(『述記』第六末・五右。大正43・444b~c)

 「述して曰く。(慢に)七・九種有り、五法の上を過ぎては生ぜず。謂く上中下の三品と及び我と并に勝徳との処に生ず。
 此の義は如何。五蘊論に説くが如し。

  • (1) 謂く七慢の中に、下品と及び中品とに於て、第一の慢を起こす。謂く劣に於て己は勝たりと計し、等に於ては己は等しと計す。

 自分と他人とを比較して、劣というのは、相手が自分より劣っているという状態(下品)の時に、自分の方が勝れていると思う慢心が生ずる。或は相手と自分が同等である場合、相手と自分とは同等であると思う慢が生じる。彼奴も俺も同じようなものであるというのが慢心であるというのです。これは自他分別心から生じる煩悩なのですね。他を意識した時に、自我意識が頭をもたげてきて、他より劣っているとは認めない、勝れているか、同等であると思うわけですね。これが第一の慢で、これが根本になります。

  • (2) 中品に於て上品に於て過慢を起こす。謂く等に於て己は勝れたりと計す。勝に於て己が等しと計す。

 「等に於て」、相手と自分が同等であるという場合(中品)ですね、この場合に、相手よりも自分の方が勝れていると思うのですね。或は、相手が自分より勝れている場合(上品)にも相手と自分とは同等であると思う、思いたいわけです。

  • (3) 上品に於て慢過慢を起こす。謂く勝に於て己が勝なりと計す。

 相手が自分より勝れている場合でも、自分の方が勝れていると云う思いです。計(ケ)は、考えること、分別することですが、相手と自分とを量って、自分の方が勝れていると思う考えかたです。

  • (4) 上品の於て卑慢を起こす。謂く他は多分に己に勝れたり。謂く己は少分に及ばずという。

 相手が自分より数段に勝れていると云う場合に於ても、自分は相手より少しだけ劣っている、たいして変わりはないのであるという思いです。絶対に相手を認めようとはしません、それが慢の正体なのです。

 以上が三品における状況の中で生じる慢(慢・過慢・慢過慢・卑慢)を説明しています。

 次が、我と徳における状況の中で生じる慢が説明されます。   (つづく)

 

コメント
この記事をはてなブックマークに追加

第三能変 煩悩の心所 (10) 根本煩悩の体と業について (8) 慢の心所 (3)

2014-03-24 22:13:56 | 心の構造について

 「論。謂若有慢至受諸苦故 述曰。於勝徳法。及有徳者。心不謙下故受衆苦。顯令厭捨勿復輪迴。然對法中但由有我故心高擧。此中所謂我見相應。及等流生。或遠從根本説。」(『述記』第六末・四左。大正43・444b) 

 (「述して曰く。勝徳(ショウトク)の法と及び有徳(ウトク)の者とに於て、心謙下せず、故に衆苦を受く。厭捨(オンシャ)して復輪廻すること勿らしむることを顕わす。然るに、対法の中には但だ我有るに由るが故に、心高挙す。此の中に所謂我見と相応し、及び等流より生ず、或は遠く根本に従って説けり。」)

 不慢は慚を体とする、「自と法との力に依って賢・善を崇重するを以て性と為す」心所であると説かれていました。

 「慢有るときは」という、慢心ですね、高慢から卑下慢まで、他と比較して自分の方が勝れているという思い上がりです。この思い上がりが、不慢を障えるのですね。障えるだけでしたらまだいいのかもしれませんが、そこに衆苦を生ずると説かれています。

 苦を生ずるのは、慢心からであると教えているのですね。何を現わそうとしているのかは、慢を厭い捨てて惑・業・苦の輪廻なからん為に慢という心所を説くという大悲心ですね。如何に我執という、心の深い領域の中で動いているものが、私たちは認識できずいることを教えているのでしょう。

 次科段は慢の種類について説かれています。少し長くなりますので、今日は短いですがここで終わっておきます。

 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 「慚」の心所について。2013年5月27日~の投稿より

 崇重(すうじゅう)とは、賢人と善とを尊び重んじることをいい、慚のありかたを指す。『顕揚論』巻第一に「自の増上と法の増上とに依って、過悪を羞恥すといえり」と述べられているように、慚とは、自の増上と法の増上とに依って賢と善を崇重することを本質的な性(働き)とする。そのことに於いて無慚を対治し、悪行を止息させ、過悪を恥じることが起こってくるのを業とする心所である、と説かれています。

 慚・愧という心所は、親鸞聖人も大切にされている善の心所ですが、親鸞聖人は慚愧をどのように解釈されているのでしょうか。

 『安心決定鈔』(真聖p944)に「慚愧の二字をば、天にはじ、人にはず、とも釈し、自にはじ、他にはず、とも釈せり。なにごとをおおきにはずべしというぞというに、弥陀は兆載永劫のあいだ無善の凡夫にかわりて願行をはげまし、釈尊は五百塵点劫のむかしより八千遍まで世にいでて、かかる不思議の誓願をわれらにしらせんとしたまうを、いままできかざることをはずべし。機より成ずる大小乗の行ならば、法はたえなれども、機がおよばねばちからなし、ということもありぬべし。いまの他力の願行は、行は仏体にはげみて功を無善のわれらにゆずりて、謗法闡提の機、法滅百歳の機まで成ぜずということなき功徳なり。このことわりを慇懃につげたまうことを信ぜず、しらざることをおおきにはずべしというなり。「三千大千世界に芥子ばかりも釈尊の身命をすてたまわぬところはなし」(法華経)。みなこれ他力を信ぜざるわれらに信心をおこさしめんと、かわりて難行苦行して縁をむすび、功をかさねたまいしなり。この広大の御こころざしをしらざることをおおきにはじはずべしというなり。このこころをあらわさんとて、「種々の方便をもって、われらが無上の信心を発起す」(般舟讃)と釈せり。」と述べておいでになります。

 『成唯識論』の解釈では、慚とは、「自と法との力によって賢と善(賢者と善法)とを崇敬し重んじること」と説明しています。「恥じる心」は賢・善とを崇敬し重んじるところから生じるのである。慚の別相は、「賢の徳のある人の、若しは凡、若しは聖において、崇敬を清じ、一切の有漏無漏の善法において、崇重を生ず」といわれています。

 「過悪を羞恥す」(過失や悪を恥じること)は、慚・愧に通ずる働きなのですね。通相といいます。通相であって、慚・愧の自相ではないということです。そこで慚・愧の自相は「かかる不思議の誓願をわれらにしらせんとしたまうを、いままできかざることをはずべし。・・・謗法闡提の機、法滅百歳の機まで成ぜずということなき功徳なり。このことわりを慇懃につげたまうことを信ぜず、しらざることをおおきにはずべし。・・・広大の御こころざしをしらざることをおおきにはじはずべしという・・・」

 この「恥じる心」は如来の恩徳を崇重することにおいて、「いままできかざることを」慚愧する心をいただけるのですね。

 『顕揚論』の主旨は「自の増上」とは、自の善心を増上縁とする、「法の増上」とは、教法を増上縁とする。このことに依って「過悪を羞恥す」ることができるといわれています。自の増上縁と法の増上縁とに依ってということです。

 そして、「慚」は「悪行を止息する」ための所依となり、過悪は転じられるのである、と。

 詳細については、5月28日以降のブログを参照してください。 

 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

コメント
この記事をはてなブックマークに追加

第三能変 煩悩の心所 (9) 根本煩悩の体と業について (7) 慢の心所 (2)

2014-03-23 18:10:34 | 心の構造について

 不慢とは(2013年11月8日の投稿より)

 「(第一説)有義は、不慢は信の一分に摂めらる、謂く、若し彼を信ずるときには彼を慢せざるが故にという。
 (第二説)有義は、不慢は捨の一分に摂めらる、心平等なる者は高慢せざるが故にという。
 (第三説)有義は、不慢は、慚の一分に摂めらる、若し彼を崇重(スウジュウ)するときは彼を慢ぜざるが故にと云う。」(『論』第六・八左)

 不慢については三説が述べられています。第三説が勝れているとされる。 慢を翻じた善の心所が不慢です。真理や真実に対して謙虚な心の働きですね。この不慢の体について三説が述べられているのです。

  •  第一説 - 不慢の(体)は信 
  •  第二説 - 不慢の(体)は行
  •  第三説 - 不慢の(体)は慚

 『述記』には、第三説の「此の中の第三の慚の一分と云うは勝れたり。慚は師長等を崇敬するを以ての故に」と、第一説及び第二説が第三説より劣っているという理由は述べられていません。しかし、「但だ不慢を障うると言う義は三に通ずべし」と、能対治は不慢・所対治は慢であるということは共通していることであると説明されています。

 また、『演秘』には「不敬とは謂ゆる師長及び有徳の所に於て憍傲(キョウゴウ)を生するなり、苦生ずと云うは謂ゆる後有に生ずるが故に」、と釈されています。

 不敬という、人を敬わない人は、師長や有徳の人から学ぶことが無く、反って、自己を高く評価し高慢に他を見下し、後に苦を生ずる因を造ることになると釈しています。

 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 不慢とは、慢の逆ですね。慢が他を見下すのに対して、他を見下したり、軽蔑したりしない心を不慢というのです。そして、慚を体として、師長等を崇敬する心なのです。この心が慢を対治すると云われています。

 すべては自分を育て、育む縁なのですね、そこに手を合わせていける世界が開かれてくる、これがここで云われている「徳」なのでしょう。手を合わせていける世界は、卑下せず、高挙せず、謙虚で、崇敬する心をもつ、聞法の徳として開かれてくる世界観だと思います。

 聞法会などで、あまり言わなくなっていますが、現生十種の益ですね。

 「金剛の真心を獲得すれば、横に五趣・八難の道を超え、必ず現生に十種の益を獲。何者か十とする。一つには冥衆護持の益、二つには至徳具足の益、三つには転悪成善の益、四つには諸仏護念の益、五つには諸仏称讃の益、六つには心光常護の益、七つには心多歓喜の益、八つには知恩報徳の益、九つには常行大悲の益、十には正定聚に入る益なり。」(『信巻』真聖p241)

 総・別に分けると、総は入益正定聚でしょう。本願では第十一願、成就文では「皆悉住正定之聚」。『証巻』では「 しかるに煩悩成就の凡夫、生死罪濁の群萠、往相回向の心行を獲れば、即の時に大乗正定聚の数に入るなり。正定聚に住するがゆえに、必ず滅度に至る。必ず滅度に至るは、すなわちこれ常楽なり。」(真聖p280)

 私たちは何を求めているのかが端的に示されています。「常楽」なんですね。大安とか安楽として教えられていますが、「住正定聚」が生きることの意味になってきますね。これがですね、どこで成り立つのか、「往相回向の心行を獲れば」が必然として求められているのです。これが現生における利益であると教えて下さっています。決して他方世界の話ではないんですね。浄土に往生してからという話でもありません。現生ですから、ただ今の話なんです。唯識でいえば、現行です。種子が「往相回向の心行を獲れば」、果である現行は「住正定聚」です。その生活の中で開いてくるのが別相である他の九益になると思いますね。

 今日は、慢の業について考えてみます。

 「謂く、若し慢有るひとは、徳と有徳との於(ウエ)に心(シン)謙下(ケンゲ)せず、此に由って生死に輪転(リンテン)すること窮り無し、諸苦を受くるが故に。」(『論』第六・十三右)

 つまり、慢がある人は、徳と有徳に対し、心が謙下しない(へりくだらない・謙虚にならない)、此れに由って生死に輪廻することが窮まりなく、諸々の苦(衆苦)を受けることになる。

 大事なことは、「徳と有徳との於に心謙下せず」と述べられていることです。慢心の人は、徳と有徳の価値を認めないんですね、自分が一番ですから、仏法も聞きません。聞かないと云うより、仏法を認めませんね。たとえ聞いてもその価値を認めようとはしませんから、生死に輪廻し、諸苦を受けること窮まりないと教えられているんです。

 私たちは潜在的に慢の心所が働いているのでしょうね。なかなか謙虚になれませんからね。どっかで自分が一番だと思っていますし、他の人をあなどっています(見下している)からね。   (つづく)

 

コメント
この記事をはてなブックマークに追加

第三能変 煩悩の心所 (8) 根本煩悩の体と業について (6) 慢の心所 (1)

2014-03-22 22:58:35 | 心の構造について

 (概説)
 慢と云う煩悩は慢心のことで、他人に対して自分をおごりたかぶる心のことです。「己を恃(たの)んで他に於いて高擧(こうこ)するを以って性と為し。」といわれています。自分を頼りにして他人に対して高擧する、高慢です。思い上がってうぬぼれているわけです。この心ですね。常に慢心を抱いて他に接しているのです。善しにつけ、悪しきにつけですね。前者は増上慢ですし、後者は卑下慢です。へりくだった慢心ですね。「他の多勝に於いて己れ少劣と謂う」此れは世間に於いて自分と他者を比較することがよくあることですね。自分が明らかに劣っているとわかっていても認めません。自分もまんざら捨てたものではない、というわけです。子供と話をしていてもよく判るのですが、なかなか相手を認めません。「あいつは勉強できるかもしれないが、スポーツは俺の方がはるかに優れている」「あいつは数学が得意だけれど、俺は英語では負けない」とかですね、すべてに於いて自分が劣っているとわかっていても慢心が働いているのですね。また「我が身を下して(卑下して)高慢の人(思い上がって人をあなどること)を見ては不見の思いをなす」ともいわれています。このように見ていきますと、慢と云う心は自他差別の心だということがわかりますね。どこまでいっても自分優位であるということは動かせないのです。それが「能く不慢を障えて苦を生ずるを以って業と為す」と。自他差別の心が苦を生んでくるのですね。慢と云う煩悩は姿かたちを持ちませんから不気味ですね。見えないから本当に厄介な煩悩です。「邪見憍慢悪衆生」、邪な(わかっているつもりの)見解をもち、自らおもいあがって、他を見下して侮っている存在を悪衆生といっていますね。この悪衆生は「信楽受持すること、はなはだもって難し。難中の難、これに過ぎたるはなし」とといわれ、慢と云う煩悩はいかに厄介な煩悩かがよく伺えるのです。そしてこの慢には七慢あるいは九慢という分類、非常にきめこまやかな分類がなされています。
 慢・過慢・慢過慢・卑慢・我慢(自らたのんで他に対して思い上がっていることー世間でいう辛抱とは違います)・増上慢(未だ取得していないけれど、既に取得していると嘘をつくことです。私もですね、このように唯識を読ませていただいているわけですが、いろんな書物を参考にしながら、わかったように書き込みをしています。本当の所は何もわかっていないのです。嘘をついています。これが増上慢ですし、また卑下慢でもあるわけです。やっかいなのは増上慢・卑下慢です、といったとたんに慢心が働くと云うのですね。ですから何も判っていないと云うことなのでしょうね。書くと云うことは、わかったつもりで書いていますかね。慢心です。)・邪慢(邪な慢心ですね。「己れ無きに己れ有と謂う」といわれ、増上慢と似通っていますが、自分には無いのに有ると謂う慢心です)

  ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 慢の心所について

 「云何なるをか慢と為る。己を恃(タノ)んで他の於(ウエ)に高挙(コウコ)するを以て性と為し、能く不慢を障え苦を生ずるを以て業と為す。」(『論』第六・十三右)

 どのようなものが慢の心所なのか。
 即ち、慢とは、己を恃んで、他に対して高挙(自己と他人とを比較して己の方が勝れていると誇る)ことを以て性とし、よく不慢を障碍し、苦を生じることを以て業と為す心所である。

「論。云何爲慢至生苦爲業 述曰。能障不慢。不慢者何。如善中説。」(『述記』第六末・四左。大正43・444b)

 (「述して曰く。能く不慢を障う。不慢とは何ぞ。善の中に説けるが如し。」)

 慢は不慢を障える心所であることを述べ、不慢とはどういう心所なのかと云う問いを立てています。十一の善の心所の中には説かれてはいませんが、十一の善の心所以外の善の心所であるのです。    (つづく)

 
 

コメント
この記事をはてなブックマークに追加

第三能変 煩悩の心所 (7) 根本煩悩の体と業について (5) 癡の心所 (2)

2014-03-21 15:06:20 | 心の構造について

 本科段は、前の(「癡は、無癡を障へ、一切の雑染が所依たるを以て業と為す」)業を釈す一段になります。

 「謂く、無明(ムミョウ)に由って疑(ギ)と邪定(ジャジョウ)と貪等(トントウ)の煩悩と随煩悩とを起こして、能く後生(ゴショウ)の雑染(ゾウゼン)の法を招くが故に。」(『論』第六・十三右)

 つまり、癡に由って、疑と邪定と貪等の煩悩と随煩悩とを起こして、よく後生の雑染の法を招くからである。

 無明(癡)を因として、疑と邪定と貪等の煩悩と随煩悩とを果として招来し、後の雑染の因となることを述べています。

     種子(癡) → 現行(悪行)
                ↓
               無記(果は無記性に摂められる)
                ↓
 即時に第七末那識に由って染汚される(雑染の因・種子)
                ↓
            現行熏種子

 『述記』には「謂く無明に由って諦(四諦)等に於て猶予(疑)し、邪見に撥無し(邪定)、後に余の貪等が次第に生起し、諸の悪業を造り、乃ち復た後生の諸の雑染を招くなり。」

  •  撥無(ハツム) - 「善悪等を撥する見を邪見と名づく」。因果撥無という、因果の道理を否定する見解をいい、邪見と名づけられる。この邪見に由って、善根が断ぜられると云う(「因果を撥無する邪見に縁って能く善根を断ず」)。

 『論』の「邪定」を『述記』は「邪見に撥無して」と解釈をしていますが、これは因果を否定(撥無)する見解で邪見としています。

癡という煩悩が、いかに深く闇を造り出している根拠(所依)となっていることが明確に述べられている科段になります。

 人天の果報といいますね、因としては人天の業、果として人として生を受けたということでしょう。ここですね、「謂く無明に由って貪等を起こすが故に」と釈されています。人天は五趣の中の迷いの境涯、無明存在なのですね、無明を因として「人天の業を造って、後生の染を招く」と釈しています。迷いの境涯を背負っているのは、迷いの境涯を転ずる生を頂いている唯一無二の境涯であるということでしょう。

 もう一つですが、「疑」ですね、「諸の諦・理とに於て猶予するを以て性と為し、能く不疑の善品を障ゆるを以て業と為す。謂く猶予の者には善、生ぜざるが故に」と定義されていますが、疑は邪定から生み出されてくる、因果撥無の見解から疑の煩悩が生じてくると教えています。

 「論。謂由無明至雜染法故 述曰。此釋前業。謂由無明於諦等猶豫。邪見撥無。後餘貪等次第生起。造諸惡業。乃復招後生諸雜染也。此中所謂見道無明生起次第。然修道者不必起疑及邪定故。謂由無明起貪等故。造人・天業招後生染。然對法中。以邪見者無明増故。説邪定爲先後方有疑。然生次第此文爲正。五十八云。有四種愚。乃至相應・不共。然第五卷第七識中已分別訖。此略不説。然諸論貪・瞋之後即次説慢。此中但以不善根同次説無明。瑜伽第五十八。及第八。皆見爲首。以利惑故。復七種無知等相攝。如大論第九。縁起經等説。」(『述記』第六末・四右。大正43・444b)

 「述して曰く。此れは前の業を釈す。謂く無明に由って諦等に於て猶予し、邪見に撥無し、後に余の貪等が次第に生起し、諸の悪業を造り、乃ち復た後生の諸の雑染を招くなり。
 此の中に所謂、見道の無明は生起する次第なり。
 然るに修道の者は必ずしも疑と及び邪定とを起さざるが故に。謂く無明に由って貪等を起こすが故に、人天の業を造って後生の染を招く。
 然るに『対法』の中には、邪見の者は無明が増するを以ての故に説いて邪定を先と為し、後に方に疑有りと。然るに生ずる次第は、この文を正と為す。
 (『瑜伽論』)五十八に云く、四種の愚有り。乃至相応と不共となり。然るに第五巻の第七識の中に已に分別し訖る。此に略して説かず。
 然るに諸論には貪瞋の後に即ち次に慢を説く。此の中には不善根たること同なるを以て、次に無明を説く。
『瑜伽』五十八、及び第八には皆、見を首と為り。利の惑なるを以ての故に。復七種の無知等と相摂は、大論の第九、縁起経等に説くが如し。」

  •  四種の愚 - 「無明とは謂く所知の真実なる覚悟に於て、能く障ゆる心所を性と為す。此に略して四種あり、一には無解(ムゲ)の愚、二には放逸の愚、三には染汚(ゼンマ)の愚、四には不染汚の愚なり。・・・又此の無明に総じて二種あり、一には煩悩相応無明、二には独行無明なり。・・・」

 又、煩悩雑染の決択について、煩悩については、見性の煩悩と非見性の煩悩が挙げられています。この次第が、先ず(五種の)見を先と為して、貪(躭著タンジャクする心所)・恚(損害する心所)・慢(心をして高挙コウコせしむる心所)・無明(覆障する心所)・疑(猶予する心所)であると釈しています。

 しかし、本論においては、癡に由って、諸の理と事に対して、迷闇であることを以て、疑の煩悩を生じ、邪見を引き起こして、さらに貪等の煩悩・随煩悩の業を起こし、その果として後生の雑染を招く、としています。一切雑染の所依と為るのが癡であると見出しているのです。

コメント
この記事をはてなブックマークに追加