唯識に学ぶ・誓喚の折々の記

私は、私の幸せを求めて、何故苦悩するのでしょうか。私の心の奥深くに潜む明と闇を読み解きたいと思っています。

第三能変  受倶門・重解六位心所(15) 別境 ・欲について

2013-02-28 22:37:43 | 心の構造について

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 今週は、桃の節句ですね。お雛様きらびやかです。

 月替わり、3月1日より、坊主バー二代目店主、日野 妙さん登場です。一代目店主、萌ちゃん同様皆さんの暖かい応援よろしくお願いします。先日来よりNHKの報道番組の収録が行われていました。3月6日放映だと伺っています。坊主バーが広域での市民の中に浸透し、「内観の道」が、様々な問題解決のメッセージとなりますよう切に願っています。

            ―      ・      ―

 『述記』の記述。

 難(有部の経典理解)に答える。

 「論。如説諸法至皆由愛生 述曰。此即難言。經亦説愛爲諸法本。豈一切心皆由愛有若言如愛非遍生心。如何説欲爲諸法本順正理第十廣引此經。乃至未云解脱堅固究竟涅槃」(『述記』第六上・八左。大正43・429a)

 (「述して曰く。此れ即ち難じて言く。経に亦愛を説いて諸法の本と為り、豈に一切の心皆愛に由って有りや。若し言はく、愛の如く遍ぜるに心を生ずるに非ず。如何ぞ、欲を諸法の本と為すと説くや。順正理の第十に広く此の経を引きて、乃至末に云く、解脱堅固なり、究竟は涅槃なり。」)

 有部が依り所とする経典を会通する一段です。根拠は「欲を諸法の本と為す」という文言です。この経典理解を、護法は論破しています。

 その理由が次の科段になります。

 「論。故説欲爲至勤依爲業 述曰。經中所説。説欲所起一切事業。由欲爲彼本。通三性法皆有勤故。由此文知。入法初首。由善法欲能發精進。由精進故。助成於欲一切善事。此即説欲爲諸善法本。如説信爲法本但是善因。欲爲法本理應如是。對法十五。謂一切法欲爲根本。乃至出離爲後邊等。故對法・顯揚皆説勤依爲業。欲通縁三世。欲作意觀故非唯未來。以前三師一一三世辨對可知。」(『述記』第六上・八左。大正43・429a~b)

 (「述して曰く。経の中の所説は、欲が所起の一切の事業を説く。欲は彼の本と為すに由って、三性の法に通じて、皆勤有るが故に。此の文に由って知る、法の入る初首は善法欲に由って、能く精進を発す。故に、欲の一切の善事を助成す。此れは即ち欲を説いて諸の善法の本と為るを以てなり。信を法の本と為すと説くは、但だ是え善因なりと云うが如し。欲を法の本と為すということ理まさに是の如くなるべし。対法の十五に謂く、一切の法は欲を根本と為り、乃至出離を後辺と為す等と云えり。故に対法・顕揚に皆勤の依たるを業と為すと説く。欲は通じて三世を縁ず。作意して観ぜんと欲するが故に。唯だ未来のみには非ず、以前の三師の一々に、三世に弁ぜんこと対して知るべし。」)

  •  善法欲 - 法(真理・真実)を獲得しようとする善い欲。 

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第三能変  受倶門・重解六位心所(14) 別境 ・欲について

2013-02-27 23:20:28 | 心の構造について

 有部の説との相違を会通する

 「諸法は愛をもって根本と為すと説けるが如し。豈心心所皆愛に由って生ぜんや」(『論』第五・二十九右)

 「これは即ち難なり。言く、経にまた(愛をもって)諸法の(根本と為すと説く)。豈、一切の心みな愛に由ってあらんや。もし愛の如く遍く心を生ずるにあらずと言わば、如何ぞ欲をもって諸法の本となすと説くや。・・・」(『述記』)

 本文にある「愛」は貪欲の事を指します。

 先に『中阿含経』を教証として有部は「欲を諸法の根本とする」と主張したが、他の経典には「諸法は愛をもって根本と為す」と説かれているようなものである。そうであるならば、一切の心は皆、愛という貪欲に由って成り立ってしまう。そうではないであろう、「諸法は愛をもって根本と為す」と説かれてはいても、諸法が愛に由って生じるのではない。どうして、心・心所が、皆、愛によって生じていようか。そうではないのである。経典にいう愛が心・心所を生じるといった理解ではないからであり、これによって、有部の主張は誤りであることがわかるのである。

 これだけでは、わかりにくいですが、次にその説明が述べられています。此れが二つの部分に分かれ、初めは欲が三性に通じることを説き、後、善の欲(善法欲)を説明する。

 「故に、欲を諸法の本と為すと説けるは、欲に起さるる一切の事業(じごう)を説くことぞ」(『論』第五・二十九右)

 「欲を彼の本と為すに由って、三性の法に通じてみな勤あるが故に、この文に由って知る。」(『述記』)

 護法が有部の説くところ、「欲を諸法の本と為す」と云う意味は、すべての存在するものが、欲に由って引き起こされたり、あるいは認識されたりするようなものではなく、欲によって引き起こされるすべての行為(事業)を説くことである。即ち、「一切の事業」・善・悪・無記の三性を含む行為が欲に由って引き起こされるという意味であるのです。欲は三性に通じることをも明らかにされています。

         後、善法欲を説明する

 「或いは説かく、善の欲は能く正勤を発す。彼に由って一切の善事を助成す。故に論に、此れ勤が依たるをもって業と為すと説けり」(『論』第五・二十九右)

 「善法欲に由って、能く精進を発す。精進に由るが故に、欲の一切の善事を助成す。此れは即ち欲を説いて諸の善法の本と為るをもって。信を法の本と為すと説けるは但、是れ善因なりというが如し。・・・対法十五に、謂く一切法は欲を根本と為す。乃至、出離を後辺となす等といえり。故に対法・顕揚にみな「勤が依たるをもって業となす」と説けり。よくは三世を縁ず。作意して観ぜんと欲するが故に。ただ未来のみならず、以前の三師の一一において、三世を弁ぜんこと対してしるべし」『述記』)

 或いは、善の欲は、よく正勤(しょうごん)をおこす。これによってすべての善の事業を助成する。それゆえに、『論』に「此れ勤の依たるを以て業と為す」と説かれているのである。

 正勤について - (四正勤ー善への努力)

  1.  律儀断 ー 未だ行っていない悪を行わないように努力あうること。
  2.  断断 ー すでに行ってしまった悪は、それを悔い改めもうニ度としないように心がけ努力すること。
  3.  随護断 - まだ行っていない善事は、実践するように心がけ努力すること。
  4.  修断 - 善が出来ているならば、持続させ、乱れることのないように、少しの善事から大きく広大に、そして円満に増大させることが出来るように努力すること。

 欲が正勤の依り所となるわけですね。以前にも述べましたが、『述記』の記述も仏法の大海に入るには、信を欲の依り所とし、欲を正勤の依り所とする、と述べています。欲が善法因だと。善に向かわしめる入口になるということですね。善に向かわしめるという事は、「現生に涅槃の分を得る」ということに他なりません。「至心・信楽・欲生我国」と説かれていますが、本願の欲生心が私をして浄土に向かわしめる働きに成るのでしょうね。「生まれんと欲え」という頷きが、「欲生」と言うは、すなわちこれ如来、諸有の群生を招喚したまうの勅命なり。すなわち真実の信楽をもって欲生の体とするなり。誠にこれ、大小・凡聖・定散・自力の回向にあらず」(真聖 p232 信文類)と、親鸞聖人は、はっきりと言い現わされるわけです。

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第三能変  受倶門・重解六位心所(13) 別境 ・欲について

2013-02-26 23:55:32 | 心の構造について

 執を破す。

 初めに有部の説を挙げる。後に護法が論破する。

 「有るが説かく(有部)、要ず境を希望する力に由って諸の心心所いい方に所縁を取る(有部の主張)、故に(証拠を引く)経に、欲をば諸法の本と為すと説けり」(『論』第五・二十八左)

 有部が説くのは、かならず境を希望する力に由って、諸々の心・心所は、所縁(認識対象)を取る(把握する)のである。そのために、経典(中阿含経)に、「欲を諸法の根本とする」と説かれているからである。故に欲は遍行である、と有部は主張する。

 何かを求める意思によって、心・心所は対象を認識するわけですから、もし何かを求める意思がなかったならば、すなわち欲がなかったならば、心・心所は対象を認識することはないだろう、どのようにして認識するのであろうか、という主張ですね。だから心王が生起するときには、欲は必ず倶に働く心所であるので遍行であると、いうわけです。その証拠に『中阿含経』を引用して証明します。その言葉は「欲を諸法の本とする」(経説欲為諸法本)というものです。

 ここは『述記』には詳しい説明はありませんが、論破するところで詳しく説明がなされます。問題としては何故,『中阿含経』では「欲を諸法の本と為す」といわれているのか、ということです。

 「受と想と思と触と欲と、慧と念と作意と勝解と三摩地とは一切の心に遍ず」(『倶舎論』) と。

 「論。有説要由至爲諸法本 述曰。自下破執。薩婆多説。要由有欲希望境力。諸心・心所方取所縁。若不希望如何取境。即欲遍諸心欲爲諸法本。證欲遍義。」(『述記』第六本上・八右)

 (「述して曰く。自下は執を破す。薩婆多の説かく、要ず欲の境を希望する力有るに由って、諸の心・心所方に所縁を取る。若し希望せざるは、如何ぞ、境を取らん。即ち欲は諸心に遍ず。欲を諸方の本と為して欲の遍の義を証するなり。」) 

 有部の説の論破(護法の論破)
 初め有部の説を論破し、後、相違を会通する。

 「彼が説くこと然らず。心等の、境を取ることは、作意に由るが故なり。諸の聖教に、作意現前して能く識を生ずと説けるが故に。曾て処として、欲に由って能く心心所を生ずと説けることは無きが故に」(『論』第五・二十九右)

「論。彼説不然至心心所故 述曰。今破不然。心等取境作意功力。警心・心所令取所縁。如前已説。聖教但言作意能生識。不言欲能生心。故知作意令心等取境。何待於欲。」(『述記』第六本上・八右。大正43・429a)

 「述して曰く。今破す。然らず、心等の境をとることは、作意の功力なり。心心所を警して所縁を取らしむるなり。前にすでに説けるが如し。(聖教に)ただ(作意はよく識を生ず)といって(欲はよく心を生ず)と言わざる(故に)、知る、作意は心等をして境を取らしむ。何ぞ欲を待たんや。(『述記』)

 彼(有部)が説いていることは、正しくない。なぜならば、心等が対象を認識することは、作意に由るからである。諸の聖教に述べられている。「作意が現前して、よく識を生じる」と。また、かって欲に由ってよく心心所を生じると説かれていることはない、よって「欲」は遍行ではない、と。

 心・心所が対象を認識するのは、作意の働きによるのであって、有部が主張するような、欲の働きに由って心・心所が対象を認識するのではない、ということです。ようするに、一切の心・心所の元は作意であって、欲ではないということです。欲は対象に対して希望することが、本質的な働きであって、そのことに由り勤が所依となることは必然的な働きに成る、といわれていました。勤は勤精進といわれますように、欲に由って精進を起すわけです。精進に由って、一切の善の法がもたらされるわけです。(一切の善の法は精進に由って成り立つわけです。)その精進は欲に由って成り立つわけですから、欲によって起される限り、欲が「諸法の本とする」と説かれている、といわれるわけです。 

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第三能変  受倶門・重解六位心所(12) 別境 ・欲について

2013-02-25 22:46:27 | 心の構造について

 「論。有義所樂至有希望故 述曰。其可欣境。謂漏・無漏可欣之事方生於欲。此據情可欣故通三性。非唯無漏實可欣法。於可欣事欲見・欲聞・欲覺・欲知故有希望。即是四境之中所樂境也。 

 論。於可厭事至豈非有欲 述曰。此外人問。謂苦穢事等。未得之者希彼不合。已得之者望彼別離。豈非有欲。縁可厭事欲既得生。如何唯言可欣生欲。 

 論。此但縁彼至非可厭事 述曰。論主答云。此不縁可厭事。謂此欲但求彼可厭之事未合不合。已合得離之位論。可欣自體。若自内身可欣不合。及後離位。若欲外境此位。即是縁可欣事生。非可厭事。 

 論。故於可厭至亦無欲起 述曰。可厭之處即通六識。或唯第六。其中容境八識倶通。全不起欲。不欣彼故。非可欣故。境雖可欣。若不希望亦無欲起。唯前六識。如邪見撥滅・道等時亦無有欲 有義所樂至亦無欲起 述曰。第二師。所樂者。謂所求之境。隨境體性可欣可厭。但求於彼可欣事上。未得望合。已得願不離。可厭之事。未得願不得合。已得願別離中。皆得起欲。故論但言求合離等。等取彼也。即縁此二皆得生欲。餘文可解。故體寛於第一。唯前七識。或唯第六。有此欲故。於中容境全不起欲。即通八識。或唯前六・及八。以第七識常希求故。 

 論。有義所樂至即全無欲 述曰。第三師。所樂者謂欲觀境。不但求彼若合若離。但欲作意隨何識欲觀等者。皆有欲生。唯前六識。或唯第六・七・八因中無作意欲觀。任運起故。七・八二識全。及六識異熟心等一分。但隨因・境勢力任運縁者全無欲起。餘皆欲生 論。由此理趣欲非遍行 述曰。結也。於此三中。第三最勝。境稍寛故。即七・八識無欲理生。正合前七識中第四師義。(『述記』第六上・八右。大正42・428c~429a)

 「所楽の境の於に希望(ケモウ)するを以て性と為し、勤が依たるを以て業と為す」と説かれている「欲」は「所楽の境」の解釈について異論が述べられている。一つは、「可欣の境」、次に、「可厭の境」、二には、「所求の境」、最後に、「欲観の境」であると諸師の説が述べられてあります。最後の説は護法の説ですが、これを以て正義とされています。

 「三師の解あり。このうちの所説は、第一に総意なり」

  • 第一師 - 可欣(かごん)の境であるという説。可厭の境であるという説が述べられる。    
  • 第二師 - 所求の境であるという説。         
  • 第三師 - 所観の境であるという説。(護法正義)

 内容については先回に述べています。

 可欣(カゴン)とは、望ましいこと。或は、好ましいこと。

 「述して曰く。其の、可欣の境と云うは、謂く漏・無漏の可欣の事に方に欲を生ず。此れは情に可欣なるに拠る。故に三性に通ず。唯だ無漏のみ実の可欣の方なるに非ず。可欣の事に於ては、見んと欲し、覚せんと欲し、知らんと欲す。故に、希望有り。即ち是は四境の中の所楽の境なり。」

 「述して曰く。此れは外人の問いなり。謂く、苦・穢の事等が未だ之を得ざる者は、彼に合わずと希う。已に之を得たるをば、彼に別離せんと望む。豈、欲有るに非ずや。可厭の事に縁ずとも、欲既に生ずることを得。如何ぞ唯だ可欲のみ欲を生ずと言うや。

 可厭(カオン)とは、忌みきらうべきこと。

 述して曰く。論主答えて云く。此れは可厭(カオン)の事をば厭ぜず。謂く此の欲を但だ彼の可厭の事の未だ合せざるには合せずと求め、已に合せるには離することを得んと求むるの位には、可欣の自体有り。若し、自の内身の可欣に合せじとする位と、及び後に離する位と、若し外境を欲する此の位には、即ち是れ可欣の事を縁じて生ずるなり。可厭の事には非ず。」

 「述して曰く。可厭の処は即ち六識に通ず、或は唯だ第六なり。其の中容の境には八識倶に通じて、全く欲を起こさず。彼を欣わざるが故に。可欣に非ざるが故に。境は可欣なりと雖も、若し希望せざるときには、亦欲起こること無し。唯だ前六識なり。邪見の滅道等を撥する時に、亦欲有ること無きが如し。」

 第二師の説。「所楽というのは所求の境である」という。

「述して曰く。第二師なり。所楽と云うは、謂く所求の境なり。境の体性、可欣、可厭なるに随う。但だ彼の可欣の事の上に於て、未だ得ざるものに合せんと欲し、すでに得たるものに離れずと願う。可厭の事において、未だ得ざるものに、合することを得ずと願い、すでに得たるものに別離せんと願う中にみな欲を起すことを得。故に論にはただ「合せん離せん等を求む」というは、不合不離を等取するなり。即ちこの二を縁じてみな欲を生ずることを得るなり。余の文は解す可し。故に体は第一より寛なり。ただ第七識なり。あるいはただ第六識なり。この欲あるが故に。中容の境に於いては全く欲を起こさず。即ち八識に通ず。或は唯だ前の六と及び八となり。第七識の常に希求するを以ての故に。」

 第三師の説。「所楽は欲観の境なり」であるという。

 「述して曰く。第三師なり。所楽とは、謂く欲観の境なり。但、彼(一切の事)のうえに、若しは合し、若しは離せんと求むるのみにあらず。ただ欲、作意の何の識に随っても、観察せんと欲するものには、みな欲の生ずることあり。ただ前六識なり。あるいはただ第六識なり。第七識、第八識は因中には作意して観ぜんと欲することなし。任運に起こる故に。七・八二識の全と、および六識の異熟心等の一分との、ただ因(第八と異熟の六)と境(第七識)との勢力に随って任運に縁ずるものには、全く欲の起こることなし。余はみな欲が生ずるなり。」

 結文

 「述して曰く。結なり。此の三の中に於て、第三最も勝れたり。境稍寛きが故に。即ち七・八識には欲の理として生ずること無く、正しく前の七識の中の第四師の義に合す。」

 

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第一回目 『唯識入門』講義全文掲載

2013-02-24 18:22:03 | 唯識入門

唯識入門 『成唯識論』講義第一回
この『成唯識論』、唯識を学ぶという入門講座について前々回の往生礼讃の会の後にこちらの住職からお話をいただきました。自分にこのような大役が務まるのかどうか全く未知の世界で、まだ人前で長い時間お話をしたことがないことがありまして、随分考えさせていただいたのです。私は、自分自身が問いをもって自分自身が答えていく、そして自分自身を明らかにする、そういう歩みをしたい、とずっと前から思っておりました。そしていつかは自宅を開放してでも一度『成唯識論』というものを読んでみたいとも思っておりましたので、ご住職が仰ってくださったことにたいして、甘えさせていただこうと思った次第です。また、私から話を聞いていただくということで非常にご迷惑をおかけすることだと思います。そんなに深く読みこなせるというわけでもありませんので、その辺のところはあしからずご了承をお願いできたらな、と思っております。
最初から『成唯識論』に入るということは、非常に難解な書物でもありますので、今日は概略だけをお話しさせていただけたらいいかなと思っております。それで次回から『成唯識論』本文に入ってお話をさせて頂ければと思っております。ただ、『成唯識論』という書物は私たち真宗門徒にとりましては馴染みの世親菩薩、『浄土論』を書かれました七高僧の龍樹菩薩の次に出てくる世親、天親菩薩ですね、「天親菩薩造論説…」(『正信偈』)の天親菩薩です。もともと唯識の論者で、『唯識三十頌』という三十の偈文を著されております。これは非常に単純明快に、そしてまたものすごく深く、難解なものであります。これをまた解釈されたもの、それが『成唯識論』。これは『唯識三十頌』を解釈されたものであります。
それでこの『成唯識論』というのは日本で興福寺とか薬師寺、法相宗ですね、法相宗が大切にされている論書になります。この論というのは、法相宗では所依の経典とういうのは『解深密経』という経典になりまして、この『解深密経』を解説、詳しく説いたのが『唯識三十頌』を通して『成唯識論』であるということになっていると思います。
私たちの真宗の根本の経典は『大無量寿経』であります。この『大無量寿経』とこの唯識とどう関係するのか、ということは真宗の歴史の中ではそんなに関係づけて話されたり学ばれたりするということはなかったと思うのですけれども、曽我量深という先生が「法蔵菩薩は阿頼耶識なり」ということをおっしゃいまして、『法蔵菩薩』という書物も出ております。その中で『大無量寿経』と唯識との関係性を明らかにされて、そこで唯識で説かれている深層意識である阿頼耶識、これは『大無量寿経』の序分にある法蔵菩薩のご苦労がただ単に神話として語られているのではなくて、その神話を通して私たちがどうしたら迷いを翻して目覚めを得ることができるのか、そこのことをきちっと教えてくださってあることだと思っています。曽我先生が阿頼耶識と法蔵菩薩の関係性を教えてくださいましたけれども、それ以降、真宗の諸先生方はあまりおっしゃっていないと思います。そこのところを『成唯識論』を拝読する中で明らかにしていけたらいいかなと思います。
そこで先ほど言いました法相宗所依の経典『解深密経』ですが、この経典につきましては安田理深先生が富山の善念寺(富山県下新川郡朝日町)というところで長年『解深密経』を講義されていまして、それをベ―スにこちらで『往生礼讃』を講義されておられる高柳正裕先生が桑名の仏乗寺(三重県桑名市)というところで『解深密経』を講義されております。もう一つ高柳先生は名古屋の東別院で『大無量寿経』の講義もされていて、この『成唯識論』の背景としてある『解深密経』と『大無量寿経』が高柳先生によって講義がされているということは大変深い意義があると思います。
高柳先生が桑名の『解深密経』の最初の講義の時にこういうことをおっしゃっておられます。「この唯識ということですが、これは素朴に言いまして、私たちが生きているわけですが、その普通に生きているという内容はこうしてみなさん隣り合わせでここに居られます。同じ空間を、社会を同じ世界を生きている。そしてお互いが見えていると思っているわけです。そこで見えていると思っている、その見えている相手に本当に触れているかということなのです。この感覚は皆さんがそれぞれに考えて見られるとわかるかと思いますが、相手そのものをなかなか感じられない、もっと素朴に言いますと、相手の存在全体そのものに触れることができない」とこういうふうにおっしゃっておられます。人間の根本的な問題ですね。その出発点は私とあなたという存在そのものは触れているのか、お互い話をして親子関係でも、夫婦の関係でも、社会のいろんな職場での人間関係の中で、本当に相手に触れているのかどうか、そういう問題をはらんだ問いかけになるのではないかと思います。
ひとつはっきりさせておかなければならないことなのですが、私たち真宗門徒にとって、何が大切かと言えば、聞法ですね。禅宗だと座禅ということがあるのでしょうけれども、真宗門徒にとって一番大切なことは聞法という、法を聞くということですが、その聞くということはどういうことなのか。これは聞くということも学校でいろんな教科を習いますが、それはひとつの対象として国語なら国語というのがあってそれを学ぶ、それを聞くということなのですが、真宗における聞法の聞というのはどういう意味があるのか。これは唯識でも聞薫習とか多聞薫習ということを言いますので、聞くというのが非常に大切なキイ-ポイントとなるのだと思います。これは自分が聞いているということは否定できないことだと思うのです。やはりものを聞くという時は私が聞いている。何かがあって話がされていて、その人の話を私が聞く。これは間違いのないことであって非常に大切にしておかなければならないことだと思いますけれども、その聞くという主体が転換するということがまた一つ大切な事柄ではないかと思います。学問ということは、問いを学ぶということ、それは自己を問うこと、普通の学びの中では自己を問うということにはならないと思いますが、ここで仏法を聞くということはやはり自分が問いかけられて自分が問われているというところを非常に大切にされているのではないかなとおもいます。教えを鏡として自分を映す、そのことを理解するのは私なのですけれども、その理解している自分というものは外に投げ出されて、そこに私というものが問われてきている。
高柳先生はこうもおっしゃっておられるのです。「今こうして座っていても実は誰とも触れていないのです。そういう感覚が人間の根本的な出発点であるとおもいます」と。私は、今日、『成唯識論』を学ぶということでたくさん集まってくださって本当にありがたいと思うのです。けれども、実はお一人お一人がなかなか触れていけないというところに、唯識が語っている、また真宗が問う問題点があるのではないかと思います。それはどういうことかというと、ものを見たり聞いたりするときに、いつも自分というもののフィルタ―というか、自分というものを通してしか見られない、本当にそのものに直に触れるということができないということです。
そして、ものを見たり聞いたり、匂いを嗅いだり、ものを味わったりする、眼耳鼻舌身という五識、意識を除いた五識、前五識ですね、これは眼の働きは眼の働きなのです。見るということは意識を通さなかったら、あるがままの姿を見ているわけです。そのものと一つになっているわけです。見るということも聞くということもそうなのです。しかし意識というものを通さないと見ることはできませんし、聞くこともできません、いつでも意識というフィルタ―を通してしか私たちは物事を見たり聞いたり、物事を判断することはできない、そういう構造になっているわけです。そういう色付けというフィルタ―を自我意識といいます。自分という意識なのですけれども、そういう自我に色づけされたものしか認識ができないということ、そういう自我意識を通してはいけないと、それは妄想であって、本来は空なのだというのが、龍樹菩薩が空観ということで表されていることなのです。唯識はただそのことを、私たちが意識を通してしかものを見られないということを、否定はしない。そういう問題を非常に大切にして、私たちがなぜ迷っているのか、ということを明らかにしている。そして本来の龍樹菩薩がおっしゃっている空性という、空観というものを明らかにする。だから空観と唯識という問題もあるのですけれども、空観という唯識は対立するものではなくて、唯識によって空観が本当に成就していく、そして成就された空観というものを以て唯識実性が明らかにされていく、そういう構造になっていくのだろうと私は思っています。この自我意識というものは、自分というものが一番大切だと、あるいは自我意識を壊して相手が立派だというわけにはいかないのです。自分が一番大切だという、ここから生まれてくるものは対立しかないわけです。だから人間が対立する、親子でも、夫婦関係でも対立する、職場でも対立して行くのはごく自然な事であって、自我意識がある限りは対立せざるを得ないというような構造になっている。
この点を先ほど言いましたように自と他と対立するのですけれども、自分と対象、対象というのは境、相ですね、またあとで二分説とか三分説とかお話したいと思いますけれども、境というのは相分ですね、見るものと見られるもの、見る働きのことを唯識では見分というのですが、ここがややこしいところなので後でまた申し上げたいと思います。この相分というもの、見るものと見られるもの、これを戯論(けろん)、たわむれの論だとこれを否定して龍樹は中論などで八不中道と否定の論理ですべて否定していきます。要するに自他というのは縁起によって成り立っているわけですから、実体化したものは空論だということでそれを否定していくことによって本当の自己というものを明らかにしようと。だから有るとか無いとか、相分があるとか見分があるとかというような見解、『正信偈』では「有無の見を摧破せん」ということで言われていますけれども。龍樹菩薩はこれを縁起の法と、これは唯識では依他起(えたき)、他によって起こる、すべては自分から出てくるものではなくて、こうして勉強会が成り立つのも自分一人だけでは成り立たないわけです。話者と聞く人があって初めて一つの会というものが成り立っていくわけですから、これを外してしまうと会そのものが成り立たない。世の中というものが全く成り立たない。ということになってしまいます。
それでそうことを考えていただきまして、歴史的に唯識がどういう位置関係にあるのかということをお話ししたいと思います。普通一般に本屋へ行くと、私が唯識を学ばせていただいたのはもう四十五年前になるのですが、二十歳ぐらいの時だったのですが、教学研究所の仲野良俊先生が大阪平野の願生寺に唯識の講義にみえておられまして、仲野先生の唯識の講義をズッーと聞かせていただいて以降、神戸の芦屋に小林光男さんという方が唯識の講義をされており、この小林先生も仲野先生の唯識の講義を聞いておられてそれで成唯識論を一言一句外さず読まれていてそれを聞かせていただいていた。その当時は唯識に関する書物というのはほとんど一般市販ではありませんでした。仏教書専門店でも難しい唯識の講義書はありましたが、入門書というのは全くありませんでした。最近は興福寺とか、太田久紀さん、横山紘一さん、竹村牧男さんとかいろんな方の唯識入門書が出ておりますから、世親菩薩がどういう人なのか、『唯識三十頌』はどういう書物なのか、あるいは唯識が起こってきたのはどういうことかを非常に詳しく書かれていますから、参考書として読んでいただければいいのではないかと思います。
少し視点を変えまして、親鸞聖人はどういうふうにとらえておられたのか、これはお話されている先生がめったにないと思いますので、これは私の勝手な持論なので間違っているかどうかわかりませんが少し述べてみたいと思います。
『正像末和讃』
「釈迦如来かくれましまして/二千余年になりたまう 
正像の二時はおわりにき/如来の遺弟悲泣せよ」(聖典p500)
こういう和讃をお書きなっておられる。親鸞聖人は鎌倉時代のことですから、そこから振り返りますと、お釈迦さまが亡くなられたのは親鸞聖人在世の時から二千余年前、ということです。ここで「正像の二時はおわりきに」とありますから、当今は末法であると。そういう自覚をこの御和讃のなかでお示しになっているとではないかと思います。もう一つですが、
『教行信証』「化身土巻」、
三時教を案ずれば、如来般涅槃の時代を勘うるに、周の第五の主、穆王五十一年壬申に当れり。その壬申より我が元仁元年甲申に至るまで、二千一百八十三歳なり。また『賢劫経』・『仁王経』・『涅槃』等の説に依るに、已にもって末法に入りて六百八十三歳なり。(聖典p360)
こういうふうに今の時代は末法の時代であるとはっきりと二千一百八十三年経ったと。これは親鸞聖人が五十二歳の時で、この年は親鸞聖人の先生である法然上人の十三回忌に当たる年です。この十三回忌に当たる年に親鸞聖人は今自分が救済されることがなかったならば、仏法は龍宮に入ってしまうと言いきっておられる文章ではないかと思います。そしてその次に最澄の『末法燈明記』、これはほとんど全文を引用されて、末法というものの時代相を明らかにされておるわけです。それで親鸞聖人四十歳の時(建暦二年、1212年、9月)法然上人が著されました『選択集』が、隆寛律師を中心にして開版されました。しかし、その年の12月には『選択集』批判の書が高弁という栂ノ尾の明恵上人が『摧邪輪』を著され、『選択集』を破斥・批判をされているわけです。二つの視点で批判をされているわけですが、菩提心撥無、法然の言っている菩提心はいらないということはどういうことなのか、仏教は菩提心が一番だろうと、菩提心が一番なのに法然は菩提心はいらないというのはどういうことなのかと。それと聖道門の仏教を別解別行と、群賊悪獣に喩えている。これは二河白道に出てきますけれど。聖道門は群賊悪獣呼ばわりするのはどういうことだと。それは間違っていると。これら二つの視点で『選択集』を批判してくるわけですけれども、この批判にこたえる形ではなかったかとも思いますけれども、ちょうど明恵が『摧邪輪』を著してすぐに反応するように、親鸞聖人52歳の御年に『教行信証』の制作をされた年ではないのかなと言われております。それで時期相応の教法を明らかにされたということが親鸞聖人のお仕事であったと思うのです。時と機を外してしまうと教も龍宮に入ってしまう。末法というと今の世代に生きている私たちにとって今の時代は末法、末法というよりも法滅の時代ですね。末法の時代は過ぎてしまい、法が龍宮に入ってしまったという法滅の時代だと自覚が持てない、そういう時代相ではないかなと思います。しかしそういう時代相というものをはっきりと自覚しなかったら、仏法というものを聞いてもただ単に学問として聞くとか、教養学として聞くとか、そういう聞き方になってしまうのではないかと思います。私は時と機が相応して初めて親鸞聖人は「浄土真宗は、在世・正法・像末・法滅、濁悪の群萠、斉しく悲引したまうをや。」(聖典p357)とこういうふうにおっしゃっておられるのです。私たちのこれからの学びというもの、『成唯識論』に入って逐一学んでいくのですけれども、この学びというのが、時と、時とは時代ですね、そして機と、機とは自分ですね、時機を外しては、教法は生きて働かない、と言いたいわけです。
先ほども言いましたように唯識、法相宗の学問なのですけれども、ただこれは学問と言いましても、唯識というのは瑜伽(ゆが)行(ぎょう)唯識派という要するにヨーガ(yoga)と実践行ですね、行を通して自分の心の深層を見出してきたもの、ということでただ単に頭で考えたというわけではありません。だかから、非常に実践的なところから生まれてきたというように理解しています。それで、学問、問いを学ぶということですけれども、先ほども言いましたように、仏法を学ぶということ、道元禅師は「仏法を学ぶというは自己を学ぶ」こと。「自己を学ぶとは自己を忘れるなり」、「忘れるなり」と言うのは無我ということ言っているわけですけれども、自分ということを問うということが学問だと。清沢満之先生は「自己とは何ぞや、これ人生の根本問題なり」と問題提起されておられますが、仏法を学ぶということは自分ということを明らかにするための学びである、ということです。
親鸞聖人の歴史の逆算から言いますと、親鸞聖人52歳の時(元仁元年)は2183年と記されていますから、現在からいうと2972年、お釈迦さまが涅槃に入られて仏滅後2972年になっている。逆算すると、当時は紀元前5世紀ぐらいということになるのでしょうか。(ただし現在の研究では仏滅は紀元前383年の中村 元説が有力になっているようです。)お釈迦さまが涅槃に入られた後100年くらいたってきてから、紀元前268年といわれておりますけれど、アショカ王という方がおられて、アショカ王が即位をされたとき、このころ仏教の教団、僧伽、要するに学びの集団ですね、大きく分裂していくわけです。上座部と大衆部と。お釈迦さま当時から戒定慧という三学というのがあるわけですけれども、戒定慧の三学を学んでおられるわけですけれども、一番大事なのは戒律を守るということですが、その戒律を守る守り方に意見の食い違いがあって、先ず初めに上座部と革新的な大衆部に分かれ、その後ズッーと分裂を繰り返していくわけです。最終的には小乗二十部といわれるような部派仏教の時代、この部派仏教の時代を小乗仏教、小さな乗り物ということなのです。小さい乗り物だと言って、悪いという意味ではありません。大乗仏教から見て小さい乗り物ということは、小乗仏教は自分の悟りを優先します。自利だけです。それは利他という問題が全然問題にされていない、それで小さな乗り物だと。こういうふうに言われておるのです。それで保守的な上座部に属していた大乗仏教に大きな影響を与えていく部派が、説(せつ)一切(いっさい)有部(うぶ)。この説一切有部というのは仏教ですから、我は認めていないのです。無我です。蓮如上人も「仏教は無我にてそうろう」とおっしゃいますから、我は認めていないけれども法は認めているのです。大乗仏教としての真宗を聞いていますから無我であり、諸法無我であり、法もあるということは言いません。無ですから。諸行無常、諸法無我ですから。小乗仏教の二つ、大乗仏教に大きな影響を与えてくるこの説一切有部とそして経量部(きょうりょうぶ)というのは我無法有、ようするに我はないけれども法はあるのだと。そして説一切有部というのは三世、現在過去未来にトータルに法は恒に有る、と。法というのは壊れなくあるということです。これもあとで法というのは出てきますのでまたその時に云います。経量部というのは今しかない、という考え。これが大乗に非常に多くの影響を与えます。今のところ言葉だけ知っておってください。
それで、天親菩薩というのはもともと説一切有部の論者だったのです。この説一切有部のところで天親菩薩が著されたのが『倶舎論(くしゃろん)』です。阿毘(あび)達磨(だつま)の教学ですけれども、六識の構造を多元的に明らかにされた書物です。これも非常に難しい。昔から「唯識三年倶舎八年」という言葉があるのですけれども、これは倶舎論を八年学んだら唯識は三年で分かると。倶舎論を八年間一生懸命学んだら唯識は三年学んだら分かるという。唯識を学ぼうと思うと、ほんとうは倶舎論からやらないと理解できないということ。このように世親菩薩は説一切有部の時『倶舎論』を著された。御存じだと思いますが、世親菩薩のお兄さんに無著(むちゃく)菩薩があって、無著菩薩が大乗に転向するように諭したわけです。それで世親菩薩は小乗を捨てて大乗に転向するわけです。大乗の論師になって『唯識三十頌』というのを著されたと。手元に『唯識三十頌』の偈文があると思いますが、唯識のエッセンスがすべて詰まったことが書かれてあるのです。
この『唯識三十頌』はこれだけでは全く分からないので、その当時のインドの学者の方々がそれぞれに『唯識三十頌』を解釈された。その方々は十大論師といわれているのですが、代表的なのが安慧(あんね)菩薩、陳那、難陀それから護法というひと。それぞれみんな解釈が違うわけです。十人十色で。この『唯識三十頌』を後世の人が読むときに非常に混乱するわけです。『唯識三十頌』や十大論師の釈はサンスクリットで書かれているわけですから、玄奘以前の人は十人の論師のいろんな説を読まねばならにわけです。非常に煩雑でまったくわからないわけです。それを玄奘はタクラマカン砂漠をこえて天竺、インドにわたられて、持ち帰り、それを編纂されるわけです。この人はどのように解釈したのか、あの人はどのように解釈をしたのかと。玄奘の弟子である慈恩大師基(き)という人と共に編纂されたのが『成唯識論』になるわけです。ですからこの中を見るといろんな人の説が出てきます。「有義は、有義は」と。そして最後に『唯識三十頌』を解釈するうえで誰の説が一番正しいのかということで、護法という人の解釈が一番正しいのだと。護法の正義(しょうぎ)といいますが、護法の解釈をべ―スにして最初から安慧菩薩はこう言っている、火弁という人はこういっている、難陀という人はこういっていると、いろんな人の説を出しながらそれを全部間違っているとは言わないのですが、ちょっと違うのではないかと。最後にひとつひとつ頌に対する正しい解釈が護法菩薩の説であるとして『成唯識論』が編纂されてあるのです。これを糅(じゅう)訳(やく)というのです。
しかし『成唯識論』に書かれてある護法の解釈もまた難解なのです。それを慈恩大師基という人が解釈された書物が『成唯識論述記』。普通『成唯識論』を読むときにこの『成唯識論述記』をベ―スにして読んでいくのですが、そうでなかったら全く手も足も出ないほどの全く難しい書物なのです。『述記』でもまだ難しいと、それを解釈された書物があるのです。それを三箇疏(さんかのしょ)(『成唯識論枢要』唐基撰、『成唯識論了燈義』唐慧沼撰、『成唯識論演秘』唐智周撰)というのですけれども、この三つの書物によって補足説明をしています。ですから『唯識三十頌』があって、それについて主だった十人の説があり、その中で護法菩薩の説が一番正しいのだと玄奘が見極めるわけです。それをまとめて作られたのがこの『成唯識論』という書物なのです。いまはこれらも非常に手に入りやすくなりました。「仏教体系」というのがありますが、「仏教体系」の中では太く書かれているのが『成唯識論』の本文なのです。そして「述して曰く」と『述記』の解釈が出てきて、これに対する補足説明として『枢要』の説明が書いてあり、読むうえでは非常にわかりやすい。ただ、すべて漢文で書かれてあります。ですから難しいところもあると思いますし、仏教用語ですから普通の読み方と全く違うこともありますので、そのあたりはおいおい勉強していただけたら、と思います。
先程、法体(ほったい)恒(ごう)有(う)、法はあると言いましたが、法というのは何か。『成唯識論』の中にもあるのです。我とは何か、法とは何かと。真宗の法話を聞いていてもこういうところを分かったつもりで先生も話されるし、聞いている方もわかったつもりで聞いているものですから、いざ「我」とは何かということになると、たとえば浄土論の最初に帰敬頌として「世尊我一心 帰命盡十方 無碍光如来 願生安楽国」とあります。「世尊、我は一心に」と「我」がでてきます。この我とは一体何か、これを曇鸞大師は解釈され、これはただ単に「流布語」だと押さえられているのです。そういうところを唯識ではきっちり我というのは何か、法とは何かときちっとおさえられているのです。そこのところを、少しお話をしていけたらと思います。
法というのは小乗仏教において、法というのは五蘊(色・受・想・行・識)・十二処(六根・六境)・十八界(六根・六境・六識)であり、それでもって一切の法を示している。六根六境六識と。六とは、識でいうと眼識、耳識、鼻識、舌識、身識、意識、この対象が境なのです。六識に対して六境である。五蘊というのは自分のことです。自分のことは有るのだと、自分の体というのは。実体的にこの体は有ると。六根、眼の働きの根本的なもの。眼の働きの対境、対象は有るのだというのが境。このように有るというのは小乗仏教の説なのですが、これが空観によって否定されてきます。五蘊は仮に和合したものだと。五蘊仮和合、全部空だということで空観では色聲香味触、少し目を閉じてみてください、これらはぜんぶ言葉を通して思うわけです。言葉を介さないと眼は有って無きが如し、ですね。働かない。言葉をもって眼と言った場合、確実に何かを思い浮かべる。その時に眼と、その黒板を見るというのを別々に感じているのか、黒板と自分とが一つになっているのかという問題です。私たちの普通の感覚でいったら、眼の働きが有ってものを見ると。耳が有って、声を聞くと。鼻が有って香を嗅ぐと。舌が有って味わうと。身によって触れると。このように別々になっていると思うのです。ところがそうではないのだと。空観でいうと、色は空なり、空はすなわち色なり。色即是空、空即是色と『般若心経』などを読まれると、五蘊仮和合だとして、それぞれの人の身体というのは実体的にこの体があるのではなくて、仮に色受想行識というものが集まって自分の体が成り立っていると、ひとつでも欠ければ成り立たない。怪我をするとひとつで成り立っているのならそこだけ痛んだらいいのだけれども、そうではなくて体全体が病んでしまうというのは、仮に和合しているという証明になっておるのだろうと思います。この五蘊十二処十八界とうのは、五とか十二とか十八というのを外して蘊・処・界とよく出てきますので見ておいてください。
そこで六根六境なのですが、小乗仏教というのはここまで、人間の意識というのはここまで。眼が働いている間は、耳は働かない、意識によって、この法によって、法を媒介にして眼の働きがある。ということですから眼が働いている間は、耳は働かない、だから前五識(眼識・耳識・鼻識・舌識・身識)で言うと眼が働いている間は後の四つの識は働かない。というのが小乗仏教の考え方なのです。そうするとどうしたら耳が働くのかというと意識が眼の働きを止める、止めてその次に耳が働く。私たちが生きているということは、ひとつの線があるわけではない、点の集まりだと習いました。点が集まって一つの線にみえているだけだと。それと同じで、私が生きているというのは刹那に生きているという。刹那・刹那なのです。刹那生滅なのです。さきほど三世というのがありましたが、過去がある、そして現在がある、さらに現在から未来と。普通はこう考えるのですけれども、現在というのはないのですね。刹那滅ですから、滅しては生じ滅しては生じ、滅して生ずるということは今という瞬間をつかむことはできない。これを言うと空。本当はつかむことのできないのをつかんでいるのです。私がいま存在するということは、それは幻想になるのです。いよいよ夢幻のようなもので、そうすると今とは何なのか。そうすると釈尊が今にましまして説法をされている「今現在説法」(『阿弥陀経』)と言われるときに、今とは何なのか。これも大きな問題をはらんでいると思います。考えて頂ければいいと思いますけれども。
安田先生は、これを永遠の今、と言われます。今とは何かというと永遠ということをはっきりさせないと今というのは分からない。そうでなければ懐古主義、あの時はよかったなあことばかりです。そうでなければ未来に思いをはせて、こうなりたいなという思い、未来は思いです。何があるかわからないです、何が起こってくるかわからない、起るのがわからないけれども、思いはこれから先こうなりたいとか、ああなりたいとか、という思いだけがある。それではなかったらあの時はこうすればよかったな、こうしていたら今このようにはなっていなかったのになあ。私でいいましたら、三十代はあほなことばかりやっていて真面目に生きていたら、今もう少しましな人生送れただろう、ということで後悔です。後悔でしかない。後悔に生きるのか、地に足をつけずに未来に夢を託して生きるのか、どちらにしても今がないのです。今とはいったい何なのか。今という言葉はそういう問題をはらんでいると思います。
これが五蘊十二処十八界、これが法です。これはダルマdharma。この五蘊十二処十八界というダルマがあるというのが、「三世(さんぜ)実(じつ)有(う)、法体恒有」という説一切有部の考え方で、『倶舎論』もこれを中心に説かれています。この法体恒有というのを大乗仏教は否定していくわけです。先ほど言いましたように五蘊は仮和合であると。すべての法は空であると。これを我もない、法もないということで我空法空といいます。これは唯識でもはっきりさせることですけれども。我は空である、法も空である。我とか法とか、なぜ言うかというと、これは仮に立てられたものだと、仮立されたものだと言われています。また我とか法とかどんなものか言いますけれども。安田先生もよく言われました、迷いも縁起であるし、覚りも縁起だと。どちらも縁起に違いはないのだと。ただその方法が間違っているだけで、みんな求めている、その求め方が違うだけ。パチンコをするのも求めているのです。本来どうありたいのか求めているそのあがきがパチンコに足を運ばせる。今日は土曜日ですね、競馬がやられている。競馬場に足を運ぶというのも一つの自分では意識できないけれども自分の願い、表れのひとつでそれは方向が違うだけであって、我とか法というのも言葉をもってしか我々は思考ができない、だから言葉というのは迷いの言葉なのです。言葉によって迷うということも、言葉によって覚るということもあるのですけれども、迷いの言葉で以てしか覚りを表されない。我とか法とか言わないと空を表せない。だから世間の言葉に従って我とか法とか、それを曇鸞大師は流布語、世間で流通している言葉をもって本来を表そうと。だから迷いの言葉をもって真実を表そうと。そのようなところに我とか法とかいうことが立てられてくるのです。

 

【休憩】
 
すこし最初に言ったことを反復することになりますけれども、さっき言いました『唯識三十頌』を解釈された主だった人、十人は護法・徳慧・親勝・難陀・浄月・火弁・勝友・勝子・智月。この方々が世親の『唯識三十頌』を個別に解釈されたわけです。それらを護法の解釈されたのを正義として、これを中心にして、玄奘と玄奘のお弟子さんたちがインドへ渡って持って帰ってこられたこれらの論書を、きれいに整理をして、玄奘と窺基(基、慈恩大師)が二人で編纂されて、今日私たちが読みやすいようにされている『成唯識論』という書物ができあがった。それを糅訳と言っています。個別の論師の方の、いまでいうと私たちは例えば『教行信証』、「正信偈」でもいろんな先生方が解釈されていて、10人の先生方がおられれば、十人の先生方の解釈の仕方があり、それを全部読まねばらならないとなれば大変なことだと。そうではなくて、この先生はこういう考え方、あの先生はああいうものの見方、そのよう見解を一つにまとめて作られた書物、それが『成唯識論』です。
 この『成唯識論』は一つの論なのですが、先ほど言いましたように所依の経典が『解深密経』です。その『解深密経』は現存しており大蔵経の中におさめられています。『摂大乗論』という書物のなかにもあるし、玄奘がインドに渡られる一つの理由としてどうしても『瑜伽師地論』を原典で読みたいということがありまして、この書物を求めてインドに渡られたと言われています。命がけですね。『歎異抄』でいうと関東の方々が命をかけて親鸞聖人のもとに訪ねてこられた、途中で死んでしまうかもしれないし、帰る時も生きて帰れるかどうかわからない。とくに玄奘の時代は鎖国の時代であって、外に出ることは禁止されていた。国禁を破って出かけられたわけです。だから出た以上は帰ってこられないというそういう状況の中で『瑜伽師地論』を読みたいと。それは人間の心の構造がどうなっているのかということをはっきりさせたい、中国にいてはそういう論書がない、ということでどうしても人間の心の構造はどうなっているのかということを、今でいうと心の秘密を解き明かしたい。そのこころの深いところの秘密を解き明かす経ということで『解深密経』という名前が付けたれたと言われています。それで国禁を破られてインドに渡られて、膨大な唯識の論書を唐に持って帰られたわけです。それで『成唯識論』を著されて、解釈されたのは玄奘が全部各論師のものを中国語訳されたわけです。それを基がまとめられた。だから、要するに法相宗の開基は慈恩大師です。それが遣唐使の道昭という人によって日本に持ち帰られた。道昭という人は奈良時代の人ですけれども、遣唐使でいかれて、玄奘と直接お会いになって『成唯識論』『唯識三十頌』等々の論書を携えて日本に帰って、日本に法相宗を開かれるわけです、原本は散失してしまって今はないのですけれども。『大乗阿毘達磨経』というのがありまして、これは『成唯識論』にも出てきます。また、『摂大乗論』にも出てきます。大事な経典で、法相宗の方々は、『解深密経』とこの『大乗阿毘達磨経』を非常に大事にされております。
なぜ大事にされているかというと、小乗は六識までで説明をされており、要するに意識を媒介にして眼識、耳識、鼻識等が起こったりすると、私たちは意識できないですけれども刹那、瞬時に、ですけれども、意識が次の意識と交互に働きながら、ものを見たり聞いたり味わったりすることが起ってくると説明していたのですが、大乗の場合はそうではないのだと。眼が働いているときも耳は働いているということで八識説をとるのですけれども、まだ『解深密経』でも『大乗阿毘達磨経』でも厳密には八識は言っているのですが、第七の末那識は独立されておりません。八識の一番心の深いところにある阿頼耶識、阿頼耶識というのは純粋意識なのですが、純粋無垢とか言いますけれども、透明色の強い識で、透明色が強いということは何ものにも染められてしまう、私たちが経験したことが全部心の深いところに蓄えられてしまう。なんでもいい悪い関係なく、そういうことを判断しません。深層意識というのは判断しなくて全部蓄えてしまう。厄介なのは『解深密経』にあるのはその阿頼耶識の中に染汚識がある。この染汚識が独立した形で末那識として独立させたのは世親菩薩の『三十頌』なのです。『三十頌』以前は末那という言葉はあるけれどもはっきりと末那識とされていない。阿頼耶識の一部分として染汚識があると言われています。ですからここで三十頌において初めて阿頼耶識は心識だと。
先月の高柳先生の「往生礼讃講義」でも心意識とありました。心意識というのはこの唯識の講義の時に話されるでしょうと仰ってくださっていました。心意識というのは小乗では、唯識以前では心も意も識も同じ言葉なのです。全部意識なのです。世親によって初めて阿頼耶識は心識であると、そして末那識というのは自己を思う、自己だけを思い続けている識、真宗で言えば我執のことですけれどもね。これをマナスと言って、意と。そして、普通私たちが意識、意識だというのを識、心意識ということで独立した形をとって、識をヴィジュニャーナ(vijnana)、意をマナス(manas)、心をチッタ(citta)。こういう言葉で表現されています。これも『三十頌』の頌の中に入ってきたら、何故これを心といい、何故これを意といい、何故、前六識を識というか、と出てきますけれども。心というのは根本識です。根本になる識、要するに心の一番深層の主になる識。根本識が転じて末那識、前六識に影響を与えてくるわけですけれども、ここは少しややこしいです。
この根本識とこの末那識という、これは最初に言いました相分・見分・自証分・自体分、二分説、三分説に分かれてくるのですけれども、この阿頼耶識と末那識というのは相互関係にあるわけです。相互依存関係といってもいいと思います。そして根本識が転じた形で、末那識前六識これを転識、根本識に対して第七識・前六識をあわせて転識、末那識から前六識まで七つの識がありますから七転識。阿頼耶識に対して前六識は六転識、こういう言い方をしています。ですから私らの識というのは全て根本識である阿頼耶識から転じたものである。だからただ単にものを見たり聞いたりしているわけではなくて、ものを聞いたり感じたりしているのは恒に阿頼耶識の影響を受けているわけです。だから判断する仕方がそれぞれ個人によって全く違うわけですから、それは各自の一人ひとりの阿頼耶識ということで、一人ひとりが独立した有機体を持った存在である、ということで人間一人ひとりを大事にしている。だから、よく唯識説というのは世間の批判を受けます、人を差別していると。だけれどもそうではなくて、実際に言っているのはそうではなくて、一人ひとりはみんな違う、と。一緒だというわけにはいかない。でも一人ひとりは非常に尊い命をもった存在であるということで、心意識ということで人間の独立性を非常にはっきりとあらわしているということを思います。
 そうですね、まず我と法を説明しなければなりません。我と法を説明するのと同時に、私たちの認識はどのように成り立っているのか、ということ。普通は私という実体があって、外にものを見る対象があって、それを見ている。これが普通の認識の仕方です。これは非常に理解し易い。しかし今言ったように私という主体・実体はないのだと。無我であったら対象も無なのです。対象は法です。無我があるものを認識することができない。するとこの考え方は間違いだと。これが迷いを生んでくる。そうすれば迷いが生み出される理由がある、それは一体何か。唯識の場合は言葉が非常に複雑で難しい面があるので、また言葉の説明が入ると思うのですけれども。ここに先ほどの唯識の十大論師の中で、唯識の解釈の仕方で二つあります。無相唯識、有相唯識、二つの流れがあります。
無相唯識とは代表が安慧菩薩という方で、安慧の弟子である真諦という人がそうです。この人が『摂大乗論』という論書を解釈しているのですが、そこから出てきた宗派が摂論宗という、『摂大乗論』を所依とした宗派です。無相というのは何かというと、三性というのがあります。三性というのは円成実性、依他起性、偏計所執性。無相唯識というのは、あるのは円成実性という法性だけで相はない、ということです。有相唯識は、迷いは有ると。私も有るではないか、対象も有るではないか、と。これも龍樹菩薩でいうと、私というものは縁起で成り立っているし、対象も縁起によって成り立っている。だから相はあると。現象としては有るということで、迷いの構造を明らかにするために認めるのです。これはいずれ否定されるのですが、認めるのです。私という実体も認めるのです。対象という実体も認めるのです、仮に認めます。あくまでも仮にです。仮に認めて迷いの構造を明らかにしようというのが有相唯識、これが護法の説です。これを中心に著されたものが『成唯識論』ですから、無相唯識の人にとったら、『成唯識論』は天敵かもしれません。だから今から学ぶのは有相唯識です。これはなぜこのようなことを言ったのかというと、認識はなぜ成り立つのかというとことに視点をおいて、ここに大切な事柄が隠されているということを言ってみた次第です。
阿頼耶識といいましたが、阿頼耶識、第八識、根本識、その働き、これを能変というのですが、また第八識の働き、それを自体分といいますが、その働きの中に見分と相分がある。見るということ(見分)も、見られるもの(相分)も外にあるのではなくて、第八識の中にある。これが変化したもの、つまり能変が変化したものが所変。だから識体、識の体、第八識の自体分、これが変化したものが所変ということ、このように能・所で表される。自体分が変化したものが所変ということで、大きく言うと能変が変化して、所変になり、ここに見分と相分があって、見たり見られたりする働きがあって、見分を能縁と言い、相分のことを所縁。これを根底的に支えているのが能変、阿頼耶識です。要するに本来の認識のあり方はこうなのだと。見分と相分とは別々のものではなく、ひとつのものだということなのです。
先ほども言いました第七識の末那識、我執です。要するに自分の事しか思えない、生まれて死ぬまで。だから親鸞聖人が臨終の一念に到るまで妬み嫉み消えることがないと(「凡夫というは、無明煩悩われらがみにみちみちて、欲もおおく、いかり、はらだち、ねそみ、ねたむこころおおくひまなくして臨終の一念に到るまでとどまらず。きえず、たえずと、水火二河のたとえにあらわれたり。」『一念多念文意』聖典p545)いう自覚をおっしゃっておられる。生まれたからには死ぬまで、人間が持っている妬みとか欲は消えない、と。でも、見分の、見るという働き、相分(対象)の見られるというのは、阿頼耶識の変化したものであるから、これは一つのもので別々のものではない。識そのものが(能変)が見分・相分という所変に変化しているわけですね。しかし、相分という境、対象は実体として存在しているわけではない、それでは存在しないのかというと、そうでもない、相分は見分が変化したものである、と説いているわけです。従って、見分を能縁、相分を所縁と現しています。唯識という原語は、「阿頼耶識から作られたもの」というのが原意になります。「ただ識のみが存在し、心の外には事物・対象は存在しない」と主張します。
それで末那識ですけれども、これは恒に自分を思い量っている。恒審思量です。恒にですから、私どもはこれを恒としていますが、普通は常という字を使うのですけれども。常というのは厳密に言うと、点と点が集まって、一つにみえているというのが常なのです。恒というと点もない、それだけ厳しいということです。常というよりもっと厳しい。生まれてというよりも、『大乗阿毘達磨経』の中に、これは全体として現存しておりませんが、他の論書の中の引用で分かるのですが、こんな言葉が見えています。「無始より已来」、はじめのないそのような世界から、私たちの識は続いている。これは善導大師の二種深信、法の深信・機の深信、親鸞聖人は『愚禿鈔』の中にも書かれていますけれども、曠劫以来です、無始より已来自分は迷い続けてきて、これから先ズッーと迷い続けるのだという自覚ですね、このようなものは業ということで託されているわけです。恒に思い量っている、何を思い量っているのかというと、阿賴耶識のなかの見分を永遠不滅の我だと執着するわけです。本当は見分も相分も一つなのだけれども、それを末那識というのは自分が可愛い余りに阿頼耶識の見るはたらきを自分だと思ってしまう。
だから主と客を二つに分けてしまっている。つまり、見分を自分だと思うことは本来あるべき姿を、二つに分けてしまっている。だからここに生まれてくるのは迷いしかない。迷いしかないということは迷いが悪いわけではない。迷いが何故悪いわけではないかというと、分けてしまったということで本来性を隠してしまったのだけれども、迷いを通してしかわからない。迷いを通さないと本来のことがわからない。だから迷ったり苦しんだりすることはものすごく大事な事であって、迷ったり苦しんだりすることが生きることの意味にも繋がってくる。このような課題をもっている。だから私は苦しんでいるということはいつでも自己中心的に生きているのだなと教えてくれる。自己中心的に生きている、そうではなかったなと、人と人とがつながりもちながら助けられて生きている、唯識は、そういう本来の姿に戻って行くキーワード、迷いというものは、迷いを通して、龍樹が言う本来は自性がないのだ、無自性なるが故に空だ、として無自性空の世界に帰ることができる、そういう道筋をきちっと教えてくれる。
私たちにとっては親鸞聖人が『教行信証』の中ではっきり教えてくださっているわけです。だから、『教行信証』という法を、教えを説くのであったら「教」と「行」だけでいいけれども、そうではなくて私たちの迷いというものを足掛かりに、本当のものに触れていくというときにやはり「信の巻」というのを起こしてこなかったら、私たちの信心がはっきりしない。だから浄土真宗を、教えを聞法しながら、浄土に帰りたいとか浄土にあこがれを持つとかということもあるわけですけれども、親鸞聖人は「信の巻」の中で、覚りを開くということは難しいことではないとおっしゃる。「無上妙果の成じ難きにはあらず」(聖典p211)とおっしゃる。何が難しいというと「真実の信楽実に獲ること難し」真実の信心をいただくことは難しいのだと。だから覚りを開くということはものを知ったらいいのです。物を知ったら本当は覚りを開いていなければいけない。こういう構造を知ったら、分かったのだから、私が迷っているのはこれを分けているからだと、つねに自分というものを思慮して、執着しているからだと、執着している構造はこういうことだったのだなとわかったら、本来だったら覚っていなければならない。にもかかわらず覚っていないし、相変わらず苦しいというところに「無上妙果の成じ難きにはあらず、真実の信楽実に獲ること難し」、真宗はただ念仏ひとつで助かるというけれども、行は易し、易行だけれども、信ずるのは難しいと。易行難信。自分に対する執着しかないのですから、教えられても信じられないと。信じられないということは自分が信じられないことです。他人が信じられないのではなくて自分が信じられない。そのようなことがつねに認識を誤らせる。そのような構造をもっている。
では我とか法というのは何か。先ほど申し上げました『述記』の中にこういう言葉があります。
 我とは謂く、主(しゅ)宰(ざい)ぞ  法とは謂く、軌持(きじ)なり
こういう定義がされています。これはどういうことかというと、自分だと言っている自分とはいったいどういうものかというと、主というとこれは王の如しと言っています。王、自分が一番、私と言っているのは国で言うと王様、独裁者。宰というのは宰相ですから総大将、王の臣下で一番偉い人。王の主の如く、宰の如く。常に生まれてから死ぬまで、常に変わらず。自分であり続ける。それが独裁者の如く、臣下の如し。これは仏教が始まる以前のバラモン教というのがあるのですが、そこのウパニシャッド哲学のアートマン。仏教で初めて常一主宰の意義というものは、お釈迦さまによって初めて違うのだと、諸法は無我だと言われたわけですが、それ以前のインドの考え方、四姓制度の中でバラモンというのが一番偉い祭りを行う人、祭祀者ですね、それがつねに生まれてから死ぬまで変わらず、自分が一番、国で言うと国王のように、国王の手足となって働く臣下のように、そういうものが自分なのだと。自分が一番ですから自分以外の人は二番目、三番目になって、私がこうして話していたら自分が一番なのです。そして聞いて

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第三能変  受倶門・重解六位心所(11) 別境 ・欲について

2013-02-23 12:23:38 | 心の構造について

 安慧の説と、正義である、護法の説が挙げられて説明される。

 別境 欲の対象である所楽の境とな何か

 「下に三師の解あり。此の中の所説は、第一に総意なり。」(『述記』)

  •  第一師 - 可欣(かごん)の境であるという説。(安慧等の説)    
  •  第二師 - 所求の境であるという説。
  •  第三師 - 所観の境であるという説。(護法正義)

 第一師の説が二つに分かれて説明されます。初めは境に対し欲が起きる場合について述べ、それがまた、二つの部分に分かれて説明されます。可欣の境に対して欲を生じるということを述べ、そして問答を通して説明されます。後半は境に対して欲が起きない場合について述べています。

 可欣の境に対して欲を生じるということを述べる。

 「有義は、所楽とは、謂く可欣の境なり。可欣の事に於て、見聞等を欲すれば、希望有るが故に」(『論』第五・二十八右)

 第一師の説が述べられます。安慧等の説といわれています。第一師の説が二つに分かれて説明されます。初めは境に対し欲が起きる場合について述べ、それがまた、二つの部分に分かれて説明されます。可欣の境に対して欲を生じるということを述べ、そして問答を通して説明されます。後半は境に対して欲が起きない場合について述べています。

 所楽というのは、可欣の境である。(可欣の境とは、自分にとって望ましい対象。)何故ならば、自分の望ましいと思っている事に対して、見聞しようと欲する時に、希望があるからである。

 「その可欣の境とは有漏と無漏となり。可欣の事のうえに方に欲を生ずるなり。これは情の可欣なるに拠るが故に、三性に通ず。ただ無漏にみ実に可欣の法なるに非ず。可欣の事において見んと欲し、聞かんと欲し、覚せんと欲し、知らんと欲す。故に希望あり。」(『述記』)

 欣は〝ねがう〟という意味でありますから、ねがうべきという意味になります。何を願うのかといいますと、自分の欲するべきことを願うということですね。自分の情に基づいて自分の欲する所に拠るのであるから、可欣の対象には有漏・無漏の両方が有り、また三性に通じるのである、と。有漏とか無漏とか三性に、見ようと欲し、聞こうと欲し、理解(覚・知)しようと欲する、そのために「希望有り」、希望することが生まれてくるという。可欣の反対は可厭ですが、次に出てきます。

 後は問いと答え

  •  問 「可厭の事に於いては。彼には合せずと希ひ、彼には別離せんと望むるに、豈に欲あるに非ずや」
  •  答 「此れは但、彼には合せずして離れんと求むるに、時には可欣の自体あり。可厭の事には非ず」(『論』第五・二十八右)

 「これは外人の問いなり。謂く、苦穢の事等のうえに、未だこれを得ざれば、彼には合せじと希い、すでに之を得れば、彼には別離せんと望む。豈、欲するにはあらずや。可厭の事を縁ずるも欲すでに生ずることを得。如何ぞ、ただ可欣の事にのみ欲を生ずというや」(『述記』)

 可欣の事だけではなく、可厭の場合にも希望を起すではないか、にもかかわらず、何故に可欣の事のみ欲を起すと云うのか、という問いです。) 外人の問い、といわれていますが、仏教以外の宗教家という人達を指します。

 「論主答して云く、これは可縁の事を縁ぜず。謂く、この欲はただ、かの自の内身の可厭に合せじとする位と、および後に離する位と、もしは外境を欲する此の位とには、即ちこれ可欣の事を縁じて生ずるなり。可厭の事にはあらず」(『述記』)

  •  問 - 可厭(いとうべきことー嫌なこと、もの)の事に対して、未だ合していないものについては、合しないでおこうと希い、すでに合していることについては、離れないでおこうと希うことは、欲ではないのであろうか。
  •  答 - これはただ、彼には合しないでおこう、あるいは、離れないでおこうと求める時には、そこには可欣の自体が働いているのみであって、可厭を願うからではないのである。厭うべき時には、必ず可欣の事を縁じて生ずるのである。従って可厭の事ではない。可欣のみを所縁とするのである。

 「可欣の自体あり、可厭の事には非ず」を解説します。自分自身が何を欲するのか、しないのかは、自分の欲の心所が求める対象が、自分にとって楽な状態、願わしい状態、求めるべき状態を指しているのです。可欣の自体は自分にとっての最良の状態を願うということですね。それしかないわけです。病気になって病気を厭うのは、病気を願い、求めているわけではないですね。自分を愛するが故に、病苦からの解放を願うわけです。これが元です。可欣の自体のみがあるということですね。自分は何を欲しているのかと云うと、ただ、可欣の事のみを欲しているのであって、可厭ということは成り立たないことになるのです。

 可欣の境に対して欲が起きない場合につては

 「故に、可厭と及び、中容との境においては、一向に欲無し。可欣の事を縁ずるも、若し希望せざれば、亦欲起こること無しと云う」(『論』第五・二十八右)

 その為に、可厭や中容のものに対しては、一向に欲は起こることがない。よって希望は起こらないと云う。また、可欣の事を認識しても、もし希望しない時には、また欲は起こることはないと云う。

 可厭の処は即ち六識に通ず。あるいはただ六識のみなり。その中容の境は八識に倶に通ず。全く欲を起さず。彼を欣わざるが故に。可欣の境にあらざるが故に。境は可欣なりといえども、もし希望せざるときには、また欲の起こることなきなり。ただ前六識なり。邪見の滅道を撥するときにも、また欲あることなきが如し」(『述記』)

 これが第一師の説になります。

          ―      ・     ―

 第二師の説 - 所楽は所求の境であると云う説

 「有義は、所楽とは謂く所求(しょぐ)の境なり。可欣厭(かごんおん)の於に合せんと離せんとの等く求むるとき、希望すること有るが故に」(『論』第五・二十八左)

 これは第二師の説である。所楽とは、所求の境をいう。可欣に可厭をも含むと云う。「ただ、かの可欣の事を求むるうえに、未だ得ざるものに合せんと欲し、すでに得たるものに離れずと願う。可厭の事において、未だ得ざるものに、合することを得ずと願い、すでに得たるものに別離せんと願う中にみな欲を起すことを得。故に論にはただ「合せん離せん等を求む」というは、不合不離を等取するなり。即ちこの二を縁じてみな欲を生ずることを得るなり。・・・故に体は第一より寛なり。ただ第七識なり。あるいはただ第六識なり。この欲あるが故に」(『述記』)

 第ニ師の説は第一師よりも範囲がひろいです。可欣の境に対しても、可厭の境に対しても欲は起こるといいます。未だ求めて得られないものについては、それを得ようと願い、反対に得ている場合には、それを離さないでいたいと願うというように希望する。可厭の場合は、厭うべきものが有るときは、離そうと願い、無い時には合しないでいたいと願うと云うように希望する。共に欲の対象として広く解釈している。

 「中容の境の於には一向に欲なし、欣厭の事を縁ずれども、若し希求せざるときには、亦欲の起こることなしという」(『論』第五・二十八右)

 第一師と第二師に共通していえることは、中容の境に対しては欲は起きないと云う事です。正義は中容のものも、欲の対象になるという立場をとりますので、第一師・第二師の説は不正義ということになります。 『樞要』に「若し資具什物を求希する欲有りと云えり。禾稼(カカ・穀物、穀類の事)等豈に欲なからんや。故に並びに正にあらず」と、即ち資具・什物(日常の生活用具)といったものや、麦や米などといった穀類そのものは、欲の対象にならないのか。資具・什物・穀類そのものは中容であるかもしれないが、自分と関係する時には、中容の境ではなく、自分から見て欲するものであるから、中容のものも欲の対象になるはずであるという立場から批判しています。ただ欲の対象になると可欣の境ということになるので問題は出てきます。それを護法は所楽とは欲観の境であるという。

 護法正義を述べる。所楽は欲観の境なり

 「有義は、所楽とは、謂く欲観の境なり。一切の事の於に観察せんと欲するには、希望すること有るが故に。若し観ぜんと欲せずして、因と境との勢に随って任運に縁ずるには、即ち全に欲無し」(『論』第五・二十八左)

 欲観の境とは「一切の事のうえに、もしは合し、もしは離せんと求むるのみにあらず。ただ欲、作意の何の識に随っても、観察せんと欲するものには、みな欲の生ずることあり。ただ前六識なり。あるいはただ第六識なり。第七識、第八識は因中には作意して観ぜんと欲することなし。任運に起こる故に。七八二識の全と、および六識の異熟心等の一分との、ただ因(第八と異熟の六)と境(第七識)との勢力に随って任運に縁ずるものには、全く欲の起こることなし。余はみな欲が生ずるなり」(『述記』)

 護法の説(正義)は、所楽とは、欲観の境である。可欣も可厭も中容も所楽となりえる。一切の事に対して、観察しようと欲するときには、希望するものであるからである。もし観察しようとは欲しないで、因と境との勢力に随って、任運に認識対象を認識する場合には、そのすべてに欲は無い。

 欲観の境とは、心を作意して境を観じようという欲の対象となる境のこと、といわれます。第七識と第八識の二識と六識の異熟心等の一分は、任運に境を認識するので、欲と倶ではないという。それは「因と境との勢力に随って」ですね。欲が起こらない、といわれます。欲が生じないことがあるので、遍行ではない、ということになります。しかし任運に生じないときは、可欣・可厭・中容のいずれであっても、観察しようとするときには、希望する心の働きである欲が生じるというのです。「見ようとする」とか「聞こうとする」、意欲が生じるときに、よくの心所があるのですね。第七識と第八識、そして、第六識の異熟においては、自然に起こってくる意識なので、欲の心所ではないということです。それで遍行ではなく別境であると。有部の大地法を批判していくわけです。

 「斯の理趣に由って、欲は遍行に非ず」(『論』第五・二十八左)

 以上の理由によって、「欲」の心所は遍行ではないことを証明する。

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第三能変  受倶門・重解六位心所(10) 別境 ・欲について

2013-02-22 23:04:05 | 心の構造について

 「次解下三。合有二文。初以五門分別。後例餘門 論。次別境者謂欲至惠 述曰。第一列名釋別境義。解第二句上三字。以下二字及第三句全。如文別解 論。所縁事境至次初説故 述曰。釋第四句及解次言。釋別境名也。然別四境一一可知。五十五云。所樂・決定・串習・觀察四境別也 次別解五。第二出體。體中有二。初別出。後總非遍行。」(『述記』第六本上・五右。大正43・428b) 

 (「述して曰く。第一に名を列ねて別境の義を釈す。第二の句の上の三字を解く。以下の二字と及び第三の句の全とは、文に別に解するが如し。
 第四の句を釈す、及び次言を解く、別境の名を釈すなり。然るに別の四境一々に知るべし。五十五に云く、所楽と決定と串習(げんじゅう)と観察との四境別なり。次には別して五を解す。第二に体を出さば、体の中に二有り、初に別して出し、後に総じて遍行を非す。」)

 初めは五門に分けて説明する。(欲・勝解・念・定・慧)
 初の五門中の第一門は、別境の心所の名を列ねて個別に説明する(列名別義門)。
 第二門は、別境は、遍行ではないことを説明する(遮遍行門)。
 第三門は、別境の心所が生起することは不定である、単独か並び立つのかは一定していないことを説明する(独並門)
 第四門は、八識における別境の心所の有無について説明する(八識分別門)。
 第五門は、別境の心所が、いずれの受と相応するのかについて説明する(五受分別門)

 初に、欲の心所について説明する。

 「論。云何爲欲 述曰。自下各有二。初問。次答。此問也。答中有三。初解體・業。次廣前文。後破異執。此即問也 論。於所樂境至勤依爲業 述曰。然勤依者如此下説。及對法第十等皆云。信爲欲依。欲爲精進依。即入佛法次第依也。然欲既通三性。即唯善欲爲依。今又解。勤者勤劬。染法懈怠勤作諸惡亦是勤故。無記事勤即欲・勝解。若言精進。精進唯善。勤通三性。皆欲爲依。非唯善勤。下文説欲能起正勤。前解爲勝。下三師解。此中所説第一総意。」(『述記』第六本上・五右。大正43・428c)

 (「述して曰く。自下は各二有り。初は問い、次は答え。此れは問いなり。答えの中に三有り。初には体と業とを解し、次には前の文を広す、後には異執を破す、此れは即ち問いなり。然るに勤の依とは、此の下に説けるが如し、及び対法の第十等に皆云く、信を欲が依と為し、欲を精進依と為すと云えり。即ち仏法に入る次第の依なり。然るに欲は既に三性に通ず、即ち唯善の欲のみを依と為す。今又解す。勤には勤劬(ごんくー努力すること。)する、染法は懈怠あれども、勤て諸悪を作すは、またこれ勤なるが故に、無記の事において勤なるに、即ち欲と勝解となり。若し精進というときは、精進はただ善なり。勤は三性に通ず。みな欲を依となす。ただ善の勤のみにあらず。下の文に欲はよく正勤を起こすと説く。前解を勝となす。下に三師の解あり。このうちの所説は、第一に総意なり。」)

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第三能変  受倶門・重解六位心所(9) 別境 ・欲について

2013-02-21 00:15:38 | 心の構造について

 欲の心所について

 「云何なるをか欲と為す。所楽(しょぎょう)の境の於(うえ)に希望(けもう)するを以って性と為し、勤(ごん)が依たるを以って業と為す」(『論』第五・二十八右)

 問いと答えです。この答えについて三つの部分に分けられる。「初めに体と業とを解す。次に前の文を広ず。後に異執を破す。(云何為欲)これは即ち問いなり」(『述記』)

  その(1) 欲の本質的な働きと(性=体)と業とについて

  その(2) 欲の対象である所楽の境とは何かについて

  その(3) 欲を遍行とする有部の説を論破する

 「然るに勤が依たることは、この下に説くが如し。及び対法の第十等に皆な云く、信を欲が依となし、欲を精進依となすといえり。即ち仏法に入る次第の依なり。然るに欲はすでに三性に通ず。即ちただ善の欲のみ依となす」(『述記』)

 欲とは願い求める所の対象に対して、希望することを以って、その本質的な働きとし、勤の依り所となることを以って業とする心所である。

 『述記』の記述は仏教に入る次第、順番は信を欲の依り所とし、欲を精進の依り所とすると述べています。勤は精進のことです。同義になります。「仏法の大海はは信をもって能入と為す」、といわれますが、仏法を信ずることから信心獲得を欲しその欲からぐたいてきな精進・聞法が生まれてくるのですね。そして信心の智慧がもたらされるのでしょう。ですから信を欲の依り所とする、ということが大事なのでしょう。そして欲を精進の依り所とするのです。精進は善の心所ですね。ですから善に向かわしめる因と為るのが欲ということになります。「欲はすでに三性に通ず」といわれていますように、善・悪・無記に通じる心所なのですが、注意すべきは「ただ善の欲のみ依となす」ということ、即ち欲が善を推し進める原動力になるということを教えています。「善の欲は能く正勤を発す、彼に由って一切の善事を助成す」といわれるわけです。もう少しまとめてみますと、欲とは「所楽の境に於て」本来求めていること、楽われる対象を希望することが本性であって、そこから勤が出てくる。勤の依となるということ。良遍は「欲ノ心所ト云ハ、善ヲモ悪ヲモ無記ヲモネガイソムル心也」と三性に通ずるといっています。『述記』の記述も三性に通ずると教えていましたように、善にも、悪にも、無記にも動いていくのが欲の心所です。しかし「勤の依たるをもって業となす」といわれるところは、勤は勤精進だということですね。本願の三心でいいますと、私たちが本来求めていること(欲生)、その求めていることが今、決定した(勝解)ことから、至心・信楽が生まれ、その信が聞法(勤精進)に向かわしめ、信心の智慧を生みだしてくると云う事になりますでしょうか。安田理深先生はこのところを「欲・勝解を基礎として信が成り立つのである。『大無量寿経』の三心(至心・信楽・欲生)は、これに照らせば、心理的必然を語っているのである。論理的必然ではない。」(選集三・p275)と語っておられます。考えられたものではなく欲が起こる所に必然としてもたらされる、信心の心理ということがいえるのではないでしょうか。希望することを以って勤の依となる、ということ。ですから、欲とは希望することを直接因(本質的な働き)とし、勤精進を間接的因(二次的な働き)とする心所であるといえます。つまり、欲は勤精進の原動力になるということです。聞法の原動力になるのが欲生心ですね。

 「善の欲は」といわれていましたが、善の欲は善法欲といわれます。「欲を善法欲で語ることによって、仏道や善の達成を希求し、努力を心がけねばばらないこと、そうでなければ精進が生まれない。精進が無ければ善事も解脱も達成できない、精進努力の原動力は、欲、つまり善法欲なのであるということを明示するためであると思われる」と城福雅伸氏は語られていますが、その通りです。また「欲は三性に通ずるから不善の欲には不善の心所(勤)を起す業用がある。然し今は善の欲に約して善の勤即ち精進のみを挙げ、仏法に入るの次第を示す」と花田凌雲先生も述べられています。この間の事情については『述記』に解釈が施されています。その記述は「いま又解す。勤とは勤劬するなり。染法は懈怠なれども勤て諸悪を作すは、またこれ勤なるが故に、無記の事において勤なるに、即ち欲と勝解となり。もし精進というときは、精進はただ善なり。勤は三性に通ず。みな欲を依となす。ただ善の勤のみにあらず。下の文に欲は正勤を起すと説く。前解を勝となす。・・・」と説かれています。即ち精進は善の欲のみを依とする説と、精進はただ善であるが、勤は三性に通じるという説が挙げられていますが、最初の説が勝ると述べているのです。

     『述記」原文は後ほど記載します。

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第三能変  受倶門・重解六位心所(9) 別境について

2013-02-19 21:44:37 | 心の構造について

 お知らせ
 来たる23日(土)午後3時より、八尾市本町 聞成坊さんにおいて、唯識入門講座(第4回目)を行います。
今回の講義の要点は、先日「第四回目講義骨子」としてブログに掲載させていただいています。中心課題は「唯識無境と説かれているけれども、世間と仏教経典には我・法は有ると説かれている。これをいったいどう説明するのか。」を考えてみたいと思っています。

           ―     ・      ―

 別境の義を釈す。

 別境について その概略(列名釈義門)

 『唯識三十頌』 第十頌
 「初遍行触等 次別境謂欲 勝解念定慧 所縁事不同」
 この第十頌は第九頌を受けて述べられていますが、遍行については初能変に詳しく述べているので、ここでは省略し、別境について述べられます。ただ別境についても初能変 巻三にて述べられていますが簡略されていて、第三能変に至って詳しく述べられるているのです。
 別境という意味は、「論」と『述記』」から考えてみたいと思います。
 「次に別境とは、謂く、欲より慧に至るまでなり。所縁の境の事。多分不同にして、六位の中に於いて、初めに次いで説くが故に」 (『論』)第五・二十八右)

 「述して曰く、第一に名を列して別境の義を釈す。第二句の上の三字(次別境)を解す。以下の二字(謂欲)と第三句の全(勝解念定慧)は文に別に解するが如し。第四句(所縁事不同)を釈し、および次の言を解す。別境の名を釈すなり。一一に知るべし。五十五に、所楽と決定と串習げんじゅう)と観察との四境の別なりといえり。つぎに別に五を解す第二に出体なり。体のうちに二あり、初めに別を出す。後に総じて遍行に非ざることをいう。」(『述記』)

 『論』では所縁(認識対象)となる境の体は、それぞれがそれぞれの認識対象が異っているといい、その境は四境の別であると釈しています。所楽・決定(けつじょう)・串習を曾習(ぞうじゅう)・観察を所観の境と記されています。この境が五の別境に配されて述べられます。欲は所楽の境に対し、勝解は決定の境に対し、念は曾習の境に対し、定と慧は所観の境に対して活動するといわれています。

 次の別境とは、つまり、欲から慧に至るまでである。(別境の)認識対象となる境の体は、その多くが同じではなく、認識対象が異っているので別境という。六位の心所の中で、初めの遍行の次に述べられるから次別境といわれるのである。
尚、「多分不同」という意味は、五の別境がすべて異った境に対して活動するのであれば、不同でいいわけですが、定と慧は同じ認識対象としますから、多くは同じではない、多分不同であると述べられているのです。

 『唯識三十頌』聴記 安田理深先生の多分不同に関する講義を紹介します。(選集第三巻 P274)

 「別境という意味は、「所縁事不同」で語る。「所縁事不同」なるがゆえに、欲・勝解・念・定・慧を別境というのである。所縁事とは境であり、不同とは別々であるということである。 『成唯識論』では「多分不同」と「多分」を補っている。多分というのは、別境の心所は五つあるのであるから、境も五つあらねばならないが、定と慧の境は同じなので「多分」というのである。 
 欲  -  所楽の境(未来の境)
 勝解 -  決定の境(かって定まらなかったものが今、        決定した・・・・・現在の境) 
 念  -  曾習の境(過去にかって経験した境
 定     
      } -  所観の境(三世に通ずる境) 
 慧

 これは五つの作用である。作用は五つ。境は四つなので多分不同というのである。」と教えてくださっています。
巻三の記述は「欲は所楽の事を希望して転ず。・・・勝解は決定の事を印持して転ず。・・・念は唯曾習の事を明記して転ず。・・・定は能く心をして一境に専注ならしむ。・・・慧は唯徳等の事を簡擇して転ず」といわれています。

                      (つづく)

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第三能変  受倶門・重解六位心所(8) 五遍行を結す。

2013-02-18 21:48:30 | 心の構造について

 「此れに由って証知す、触等の五の法は、心が起こるときに必ず有り、故に遍行なることを。余の遍行に非ざる義をば、当に至って説かん」(『論』第五・二十七左)

 以上に由って、触等の五の法は、心を生起するときには必ず存在することがわかる。故にこれらの五の法が遍行であるということが証明されたのである。以下、遍行以外の心所について説く。これにより『三十頌』第十頌の第一句の頌を説き訖(おわ)る。

 『述記』に「然るに経部等が別に心所あることなしというを破して、故らにこの五は心が起こる時、みな生ずることを顕す」と述べられ、説一切有部等が大地法として挙げている十の心所を破して、遍行と別境に分類をしたことを鮮明に打ち出しているのです。これによって法相唯識が心所の分類において、より精密に・緻密にその哲学を構築していったことが伺え、今日の私たちが心の構造を尋ねるうえでの道しるべになることは間違いのない所です。

 巻三を読みます。「此の五は既に是れ遍行の所摂なるが故に、蔵識とは決定して相応す。其の遍行の相をば後に当に広釈せん。此の触等の五は異熟識と行相異なりと雖も。而も時と・依と同にして所縁と・事と等しきが故に相応と名づく」と結ばれています。

 触・作意・受・想・思、これが五遍行です。これによって認識は成立しているのです。一ついいますと、触の心所は外界と触れる、接触をする心所なのですが、ただ受動的に触れるということはありません、そこには必ず自分の心が能動的に働き触れているわけです。これはすべての心所に共通して言えることです。一つの事柄の両面性ですね。唯識無境といいますが、外界は存在しない、ということではないのです。認識していることは、自分の心の現れであるということなのです。またいずれ初能変の四分義(相分・見分・自証分・証自証分)において詳しくみていきます。第三能変においても前六識の認識構造は、自分の主観でもってしか認識はできないということを教えているのですね。

「論。由此證知至義至當説 述曰。結上所明。第三文也。然破經部等無別有心所。故顯此五心起皆生。如顯揚第一引證説有。餘欲等五經不説有。理不遍生故別境攝。觸等五法性・業。指前第三卷説。其餘非遍行之義如下當知。此結前生後也。即是解第一句頌訖。」(『述記』第六本上・四左。大正43・428b)

 (「述して曰く。上の所明を結す。第三の文なり。然るに経部等の別に心所有ること無と云うを破するが故に。此の五は心が起こるとき皆生ずと云うことを顕す。顕揚の第一に証を引いて有と説けるが如し。余の欲等の五をば経に有と説かず。理遍じて生ぜざるが故に、別境に摂む。触等の五法の性と業とは、前の第三巻に説きしを指す。其の余の非遍行の義は、下の如くまさに知るべし。此れは前を結し後を生ず。即ち是は第一句の頌を解し訖る。」)

            次回は『演秘』の解釈に学びます。 

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