唯識に学ぶ・誓喚の折々の記

私は、私の幸せを求めて、何故苦悩するのでしょうか。私の心の奥深くに潜む明と闇を読み解きたいと思っています。

第三能変 煩悩の心所 (1)

2014-01-31 21:39:47 | 第三能変 煩悩の心所について

 三は、煩悩の心所について説かれます(本頌の第十頌から第十四頌)が、その前に、善の心所が説きおわって、煩悩の心所の相はどのようなものであるのか、という問いが立てられます。『述記』はこの科段から、巻第六末に入ります。

 「是の如く已に善位の心所をば説きつ、煩悩の心所の其の相云何。」(『論』第六・十二左)

 『述記』第六初右 成唯識論述記巻第六

 「述して曰く、別して六位諸心所を解する中に、三の門を辨じ訖(オワ)る。此は第四に當る。初は前を結び後を問う。文の如く知るべし。次は頌等を挙げる。」

 遍行・別境・善・煩悩・随煩悩・不定の六位の心所の中に於て、すでに三位については説明し已った。ここは第四の煩悩について説明する。前の善の心所を結び、次に、煩悩の心所の相はどうであろうか。

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 今日から煩悩の心所について考えます。煩悩の心所は善の心所と対比します。善と煩悩を対比させているのですね。もうお気づきのことと思いますが、善の反対語は悪ですね。しかし悪といわずに煩悩と言っています。何故なのでしょうか。思うに、善は菩提・涅槃にかかわる心所なのですね。そうしましたら、菩提・涅槃を障へるのは何かといいますと煩悩なのです。煩悩障とか所知障といいますね。解脱をさえぎるものです。善悪という場合は相対的概念です。善悪は道徳規範になります。社会生活に於いては大切な規範でありますが、ここでいわれる煩悩は私自身が私に煩い悩むことなのです。自分で自分の心を乱すわけです。『述記』には「煩はこれ擾(にょう)の義。悩はこれ乱の義なり」と教えています。意味は心が騒がしく乱れるということです。煩も悩も自分の中で起こってくるといわれているのです。煩悩は何に由るのかというと、自分なのですね。自分に執われている心が起こすのです。また見たり・聞いたりすることに於て、私の心を煩わしく悩ませるということがあるのですが、これは対象が煩わしたり悩ませたりするわけではないのですね。そのような心を私が持っているということに起因するわけです。私たちは見える世界に執着していますから、見えない世界には眼を向けないのですね。そこが顛倒していると思うのです。「いまだうまれざる安養の浄土はこいしからずそうろうこと、まことに、よくよく煩悩の興盛にそうろうにこそ」(真聖P630)ですね。やっぱり私たちはこの世に執着していますから、それを成り立たせている煩悩に由って、私の生き方が決定されてくるのでしょうね。煩悩は人生の方向を障碍する働きをするのであるということを知っておく必要が有ると思うのです。それでは煩悩にはどのような種類が有るのか、これから伺って見たいと思います。

 

 煩悩の心所については、以前に概略を述べていますので、今回は、前回の説明文についての補足説明になると思います。

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第三能変 善の心所  第三の十二 三断分別門 他 (3)

2014-01-30 22:07:17 | 第三能変 善の心所  第三の十二 三断分

 昨日のつづきになりますが、皆さん方はどうでしょう、僕はほとんど「化身土巻末」を読んだことがないんです。「行巻」・「信巻」は眼を通すということはありますがね、まあそれも曖昧です。

 「顕浄土方便化身土文類六」(ケンジョウドホウベンケシンタドモンルイノ六)が正式名ですね。「それ、もろもろの修多羅(シュタラ)に拠って真偽を勘決して、外教邪偽(ゲキョウジャギ)の異執を教誡せば、」を問題提起の発端として論を進められていると思うのです。結帰は『論語』の文を以て、諸余の諸天神に帰依することはない、ことを論証されていられるように思います。しかしながら、まったく歯が立ちません、此れでは『教行信証』は読めないですね。昨日の、「北欝單越(ホクウツタンオツ)」の言葉から教えられたことであります。

 親鸞聖人は、有漏の善のもっている我執を見抜いておいでになるのでしょうね。有漏であっても、善行は善行なんですが、この善行の中に潜んでいる自己執着心が、阿頼耶識の中に蓄積され、やがて現行を生起し、迷悶を生む因となる、自力の限界性を本願の中に見出されたのではないでしょうか。

        悪性さらにやめがたし
          こころは蛇
蝎のごとくなり
          修善も雑毒なるゆえに
          虚仮の行とぞなづけたる
                (正像末和讃・愚禿悲嘆述懐)
 

 と、如来の恩徳を讃嘆されておられます。

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 「又無想定の果は見惑の所引なり、見惑の因が亡ずれば果も亦随って、喪す。無想定の如き入聖も亦断ぜず。但だ彼の果を断ずるを以て、善法は随順して聖に入るべきが故に。若し彼の果を成ずるときは、聖に入ることを得ず。下の(十二)縁生の中の如く、不生を断と名づく。其の因も亦断ず。縁縛を断ずる断はならば唯修所断なり。既に爾らば、悪趣の善業も亦見所断なるべし。今は縛を断ずるに拠ると云う、故に相違せず」)

 「論。余門分別如理応思」というは、述していわく。謂く有報無報何れの地にして何の地を縁ずるや、他は皆此に放って理の如く之を思うべし。

 善の心所の結文として、諸門分別において、善の心所を分析をしてきたけれども、それ以外においても、いかなる地に存在し、いかなる地を縁じて生起するのか等々考えなければならないことが多々あるけれども、それは、理に応じて考えるべきである、と締めくくり、十一の善の心所の所論すべて述べてきたということになります。

 尚、無想定等については、第二能変末那識の存在証明を示す、二教六理証2012年5月04日~07日の項を参照してください。

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第三能変 善の心所  第三の十二 三断分別門 他 (2)

2014-01-29 23:49:16 | 第三能変 善の心所  第三の十二 三断分

 昨日のつづきになります。『述記』の釈から学びます。

 「論。非見所斷至非所斷故 述曰。十二三斷。並非見斷。非障見故。非邪生故。以何爲證。五十七二十二根中。説十四法一分見所斷。一分修所斷。謂七色・命・五受・及意。十二一分修所斷。一分非所斷。謂即十四中六・及餘六。謂五受・意・信等五根・未知當知。彼説二六五受・及意。通見除故。以爲前六。其信等五・未知當知非見除故以爲後六二非所斷。謂後二無漏根。今擧唯善後六爲論。唯是修斷及與不斷 問此論下言無想定等是見斷故。又對法第四。一切往惡趣業果皆見斷。何妨善業見斷也 答彼不言善法斷縁縛名爲見斷。若不爾者。下修道煩惱亦招惡趣等。豈見所斷。故以此爲證。善非見斷。若言見斷。以此證非。略有四門。如下縁生中説 問分別業報可言見斷。修道業惑之果見道斷不。不斷違文。斷便違理。因未斷彼果豈斷也 答如無想天果・北欝單越果。雖亦斷彼。善豈斷耶。故知但果先亡因於後斷。何所以者。果麁障聖。入見斷果。因細不障見。入見不斷因。於善・染二因。三惡趣等皆名斷也。又無想定果見惑所引。見惑因亡果亦隨喪。如無想定。入聖亦不斷。但斷彼果。善法隨順可入聖故。若成彼果不得入聖。如下縁生中不生名斷。其因亦斷。斷縁縛斷。唯修所斷等。既爾惡趣善業亦見所斷。今據斷縛。故不相違。」(『述記』第六本下・・四十六右。大正43・443b)

 (「述して曰く。十二に三断においていう。並びに見断に非ず。見を障うるに非ざるが故に、邪に生ずるに非ざるが故に、何をもって証とするや。五十七の二十二根のうちに、十四法の一分は見所断(不生断、相応断)、一分は修所断(縁縛断)なりと説けり。謂く七の色と命と五受と及び意なり、十二の一分(有漏)は修所断なり、一分(無漏)は非所断なり。謂く十四のうちの六と及び余の六なりといえり。謂く五受と意と信等の五根と未知当知となり。彼に説く二の六というは、五受と及び意とは見に除かるるに通ずるが故に、もって前の六と為す。その信等の五と未知当知とは、見に除かるるに非ざるが故に、もって後の六と為す。二は非所断とは、謂く後の二の無漏根なり、いまは唯善の後の六をあげて論(あるいは証か?)唯是れ修断なり。及び不断なり。

  •  五受根と意根と信等の五根と未知当知根の合計十二根の中の一部は修所断であり、一部は非所断であると説かれているのですが、これを以て信等の六種は見所断ではないということがわかるわけです。

 問、この論の下(巻八、二十一)に無想定等は是れ見断なりと言うが故に。又対法の第四に、一切の悪趣に往く(不善の)業果は皆見断なりと。何ぞ善業も見断なることを妨げん。
 答、彼には善法に縁縛を断ずるを名づけて見断と為すと言わず。若し爾らずんば(善法が見断ならば)、下の修道の煩悩も亦悪趣等を招く、豈見所断ならんや。故に此れ(修惑は見断に非ざること)を以て証と為して善(修悪、所縁縛)は見断に非ずと云う。若し見断なりと言わば、此を以て非(非見断)なりと証す、略して四門有り。下(『述記』第八末・五十四以下)の縁生の中に説くが如し。
 問、分別の業報を見断と言うべし。修道の業惑の果は見道に断ずるや、不や。断ぜざれば文に違す。断ぜば理に違す。因(修惑)未だ断ぜざるに、彼の果を、豈(見道に)断ぜんや。
 答、無想天の果と
北欝單越(ホクウツタンオツ)の果の如きは、亦彼(果)を断ずと雖も、善(修道断)豈断(見道断)ぜんや。故に知る。ただ果は先に亡じ(見道不生断)、因(修惑)を後(修道)に断ずることを。何の所以とならば、果は麤にして聖を障う、見(道)に入る時、果を断ず。因は細にして見(道)を障ざれば、見に入る時、因を断ぜず。善・染の二因と三悪趣等に於て皆断(見道不生断)と名づくなり。

  •  北欝單越 - 北洲(北倶盧洲(ホックルシユウ))のこと。鬱単越は梵語ウッタラ・クル(Uttara-kuru)の音写。須弥四洲の一。須弥山のうちの北方の世界。形は方座のようで地盤は他の三洲よりも高い。そこに住む者は一千歳の寿命をたもち快楽もきわまりないという。仏を礼拝できない難がある。
     『教行信証』化身土・末(真聖p374)に『大方等大集経』巻第六「月蔵分」の中「諸天王護持品」第九を引用される中に出ています。

  すみません、今日はここまでにしておきます。(つづく)

 

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第三能変 善の心所  第三の十二 三断分別門 他

2014-01-28 22:32:00 | 第三能変 善の心所  第三の十二 三断分

 土井さん、昨日の記事をシエアしていただき有難うございます。

 この善の心所の後に、煩悩の心所についての所論が述べられるのですが、僕は煩悩の心所に先立って善の心所が述べられていることが大変重要なことだと思っています。

 善の心所は純粋経験だと思うんです。経験はすべて阿頼耶識に所蔵されるのですが、純粋経験がもとにあるのではないでしょうか。前六識は第七末那識の影響を受けて染汚されて、染汚された種子が阿頼耶識の中に熏習されると云われているのですが、第六意識の純粋経験が阿頼耶識を揺さぶる働きを持っているのではないのかと思うのです。

 第六意識が、第七末那識の自己執着心の隷属であったならば、永遠に第七末那識の染汚性からの解放はないのではないでしょうか。また、無慚愧の自覚を生み出す機縁、手がかりもなくなってしまうのではないでしょうか。

 無意識の領域には、純粋経験が熏習され、熏習された純粋経験が染汚され、染汚された経験が、種子として熏習されているという構造になる、この構造そのものが、私たちに、いかなる形にしろ求める、本当のものに出合いたいという催促が働いている。いうならば、私たちは常に純粋経験と染汚された経験の葛藤の渦の中で苦悩しているのではないでしょうか。

 善の心所は、私たちの生の基盤に純粋経験が働いていることを教えているのではないかと思います。親鸞聖人は、この純粋経験を廻向として読みとられたのではないでしょうか。

 

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 第三の十二 三断分別門

 「見所断(ケンショダン)には非ず、瑜伽論(ユガロン)に、信等の六種は唯修所断(タダシュショダン)なり、非所断(ヒショダン)なりと説けるが故に。」(『論』第六・十二左)

 (十一の善の心所は)見所断(見道で断じられるもの)ではない。何故ならば、『瑜伽論』巻第五十七に「信等の六種は、ただ修所断であり、非所断である」からと説かれているからである。

 疑問点は、善の心所を何故断たなければならないのかということですが、ここは、善の心所そのものを断ずるという意味ではなく、有漏の善の有漏を断ずるという意味なのです。有漏は煩悩を意味しますから、有漏の善の心所は、断ずるべきものということになります。善を有漏にしている煩悩ですね、煩悩・随煩悩・第七末那識の我執を断ずる、断ずることに於て有漏が断じられ、無漏になるわけです。その方法が、見所断ではなく、修所断か非所断であるということになります。  (詳細は明日述べます。)

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第三能変 善の心所  第三の九・十・十一 三性・三界・三学分別門

2014-01-27 22:49:06 | 第三能変 善の心所 第三の九・十・十一

 第三の九 三性分別門

 「十一ながら唯だ善なり。」(『論』第六・十二左)

 第三の十 三界分別門

 「軽安は欲には非ず、余は三界に通ず。」(『論』第六・十二左)

 第三の十一 三学分別門

 「皆学等の三なり。」(『論』第六・十二左)

 十一の善の心所は、すべて善である。軽安は欲界には存在しない。しかし他の十の善の心所は三界に通じて存在する。そして善の十一の心所のすべては、有学・無学・非学非無学の三に通じて存在する。

 善の十一の心所は、有学・無学・非学非無学(有情)の三者すべてに存在する、と説かれています。これは一切有情すべてに善の心所が有る、ということを述べているのですね。大変重要な所論だと思います。

 「論。十一唯善至皆學等三 述曰。第九三性。唯善。第十三界。輕安非欲。餘通三界。如前可知 問何故所治有唯在欲。如瞋害等。能治通三界。煩惱隔情多不遍界。善順於理即通三界 彼無所治豈有能治。欲有惛沈。輕安豈有。但以性相相治。不以界繋相望治之 第十一有學・無學・非學非無學。一切皆通。然學・無學身中皆通有漏・無漏。順學等故。如對法第三・五十八・九等皆爾。」(『述記』第六本下・四十五左。大正43・443a)

 (「述して曰く。第九に三性に於ては唯だ善なり。第十に三界に於ては軽安は欲に非ず、余は三界に通ず。前の如く知るべし。
 問、何が故に、所治は唯だ欲に在ること有り、瞋害等の如し、能治は三界に通ずるや。
 (答)煩悩は情を隔つるを以て多く界に遍せず。善は理に順ず、即ち三界に通ず。
 彼に所治無くんば豈に能治あらんや。
 欲には
惛沈(コンジン)あれども、軽安豈にあらんや、但し性相を以て相治す。界繋を以て相望して、之を治するにあらず。
 十一に有学・無学・非学非無学においていう。一切皆通ず。然るに学無学の身中には、皆通じて有漏・無漏あり。学等に順ずるが故に。対法第三、五十八・九等皆爾なり。」)
 

 

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『阿毘達磨倶舎論』に学ぶ。第五節・分別根品第二 (4)

2014-01-26 14:54:43 | 『阿毘達磨倶舎論』

 先年、12月1日より更新が滞っていました『倶舎論』について久々に更新します。『倶舎論』は仏滅後900年に世親菩薩が著された仏教の原理を説く論書であることは、皆さまもよく御存じのことかと思います。部派仏教の代表格である説一切有部の根本聖典である『阿毘達磨大毘婆沙論』の教理を組織して、此れに批評を加えたものが『倶舎論』になります。
 世親菩薩は『倶舎論』編纂の後、兄無著菩薩の勧めにより大乗に帰入し、唯識を大成、『唯識三十頌』は今も仏教を学ぶものにとっては大変重要な論書の一つになっています。しかし、世親菩薩最晩年には『浄土論』(『無量寿経優婆提舎願生偈』)を著されて、自身の信仰の表白をされました。部派仏教から大乗仏教へ、大乗唯識から、その帰結としての『浄土論』への世親菩薩の求道の歩みは、今を生きる私たちに大きな示唆を与えています。
 法然上人は『選択集』において「往生浄土ヲ明す教トイウハ三経一論是ナリ。・・・一論トイフハ、天親ノ『往生論』是ナリ」(『真聖全』Ⅰp3)と、真実の浄土を明らかにする論であると明らかにされました。

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 今日は、「分別根品第二」二十二根を明かす中の第六頌を読んでみます。異説になります。

 「或流転所依 此生住受用 建立前十四 還滅後亦然」

 (或は流転(ルテン)の所依(ショエ)と、及び生(ショウ)と住(ジュウ)と受用(ジュユウ)とに、前の十四を建立(コンリュウ)す、還滅(ゲンメツ)の後も亦然(シカ)り。)

  •  流転 - 還滅の対。迷いの生存が続くこと。
  •  生 - 生起すること。
  •  住 - 維持され継続されること。
  •  受用 - 受け入れること。
  •  還滅 ー 流転の対。迷いの生存が滅び尽きてさとりの境地に至ること。
  •  後 - 後の八根。二十二根の中、流転に約して十四根を立て、還滅に約して八根を立てています。
  •  亦然 - 還滅にも生と住と受用の四の義があることを示しています。
  •  二十二根 - 眼・耳・鼻・舌・身・意の六内根、男女二根、命根、憂・喜・苦・楽・捨の五受根、信・勤・念・定・慧の五作根、未知当知・已知・具知の三無漏根。

 六内根は有情の心の依り所であり、また流転の依り所となる。
 
次に、誕生の基と為る男女二根をたてる。
 
次に、住の元として命根を立て、
 
次に、受用は五受根に依る。
 
ここまでが、前の十四根になります。(「前の十四を建立す」)

 後の八根は、
 
還滅の所依は信等の五作根に依る。
 
無漏の生は未知当知根に依る。
 無漏の住は已知根に依る。
 無漏の受用は具知根に依る。

 以上が異説になります。

 これは、「伝説すらく、五は四に於てし、四根は二種に於てし、五と八とは染と浄との中に、各々に増上を為す」を受けての異説になります。

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 五受根と三無漏根について説明される。

 第七頌・第八頌

 「身不悦名苦 即此悦名楽 及三定心悦 余処此名喜」
 「心不悦名憂 中捨二無別 見修無学道 依九立三根」

 (身(シン)の不悦(フエツ)を苦と名づく、即ち此の悦を楽と名づく、及び三定(サンジョウ)の心(シン)の悦なり、余処には此を喜(キ)と名づく、心の不悦を楽と名づく、中は捨なり、二別なし。見と修と無学道とに、九に依って三根を立つ。)

 苦・楽・捨の三受から、苦受から憂受を開き、楽受から喜受を開いて五受根と為す。

 五識相応の受は、身根から生起する受で、苦受・楽受は身受であり、第六識相応の受は心受で、憂受・喜受がこれにあたる。尚、第三句の第三静慮では五識がないから身受はない。但し、第三静慮の心悦を楽受と名づけ、第二静慮までの心悦を喜受と名づく。第六句の捨は身受・心受に通じ、非悦非不悦である。

 次に三無漏根ですが、意・喜・楽・捨及び信等の五根の九根に依って立てられ、見道に於いては未知当知根を、修道に於いては已知根を、無学道に於いては具知根を立てる。

 四諦の理を知る無漏の根をまとめて三無漏根というが、それぞれを未知当知根・已知根・具知根とに分けられ、その領分を明らかにしている。

  •  未知当知根 - 未だかって知らなかった四諦の理をすべて知ろうと欲する見道における力。
  •  已知根 - 修道においてさらに事に迷う修惑を断じるために四諦の理を知る力。
  •  具知根 - すべての惑を断じ尽くして、もはや修学すべきことのなくなった無学道において、すでに四諦の理を知り尽くしたとする智慧を具えていること。

 

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第三能変 善の心所  第三の八 別境相応門

2014-01-25 23:14:59 | 第三能変 善の心所 第三の八 別境相応門

 自下は、第八に前の別境と相応することを明らかにする。

 「此は別境と皆相応することを得、信等と欲等とは相違せざるが故に。」(『論』第六・十二右)

 (此)善の十一の心所と別境とはすべて相応する。何故ならば、信等の十一の善の心所と別境の中の善の欲(善法欲)とは相違しないからである。

「論。此與別境至不相違故 述曰。自下第八與前別境相應。以遍行通所以不説。不定四者彼中自説。所以不論。故唯言別境。皆不違彼故。有漏位無漏位皆得相應。然欲界十倶除輕安。上界具十一。如前理説。此據別境五倶起時。可得爲語。然彼有時一二等生故。」(『述記』第六本下・四十五右)

 (「述して曰く。自下は第八に前の別境との相応なり。遍行は通ずるを以て所以に説かず。

  •  遍行相応門を説かないのは、遍行は遍く通ずる心所である為に、善の心所と遍行は当然相応するから説かないのである、と。

不定の四は彼の中に自ら説く、所以に論ぜず。

  •  不定の心所である、悔(ケ)・眠(メン)・尋(ジン)・伺(シ)と善の心所との相応については『論』第七に説かれるので、此処では説かない。尚、不定の心所については、2010年3月30日~4月4日に概略を述べていますので参考にして下さい。

故に唯別境のみを言う。皆彼に違せざるが故に。有漏の位、無漏の位に皆相応することを得。然るに欲界には十と倶なり。軽安を除く。上界には十一を具す。前に理を以て説けるが故に。これは別境の五と倶起する時に據って、語(ゴ)と為すことを得べし。然るに彼は有る時に一二等生ずるが故に。」)

 本願文の「欲生」ですが、この場合の欲は善法欲を指していますね。貪欲とか愛欲、或は三界の中の欲界は否定される欲なのですが、ここも問題ですね。何故なら、善法欲によって不善が否定されつつ摂取されることを意味しているからですね。欲とは、「所楽の境に於て希望するを以て性と為し、勤の依たるを以て業と為す」と定義されています。願われる対象に対して希望を起す欲である、と。所楽の楽は願われるということになります。「善の欲は能く正勤を発す、彼に由って一切の善事を助成するが故に、論に此れ勤が依たるを以て業と為すと説くなり」と言われていますように、別境の欲と十一の善所の心所は相応するのである、と。

 これ等の善事は、苦悩の底に流れて、支え続けているのでしょうね。種子として善事は与えられているということでしょうか。阿頼耶識からいうとですね、一切種子識であるのが欲生なのでしょう。願うということは、恒に願われている存在であるということ、願われているということに、願いが生れる根源があるのでしょう、このように思われてなりません。

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第三能変 善の心所  第三の七 五受相応門

2014-01-24 22:57:25 | 第三能変・善の心所・第三の七、五受相応門

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 「一切ノ諸法ハ皆我心ニ不離。大海・江河・須彌・鐵圍。ミズシラヌ他方世界淨土菩提。乃
至一實眞如ノ妙理マデ。併ナカラ我心ノ内ニアリ。何況我身ノ頭目・手足・衣服・飮食等ヲヤ。
心ノ外ニ有ト思フハ迷亂也。此迷亂ニ依ガ故ニ。無始ヨリ以來。生死ニ輪迴スル身
ト成レリ。諸法ハ心ニ不離ト知ヌレバ。生死輪迴永絶テ。無上覺王ノ位ニ至ラズト
云事ナシ。サレバ誰モ皆心ノ外ニ有ト思ヘル物ノ形。悉ク是體性都無(たいしょうとむ)ノ法也。心ヲ執シテ實ト思モ又迷亂也。心ヲ執シテ心ノ外ニ
置ガ故也。空ヲ執シテ實ト思モ又迷亂也。心ノ外ニ空ノ相ヲ見ガ故也。所以ニ心ノ外ニ有ト覺ル相ハ。色モ心モ有モ無モ。皆悉ク
實ノ法ニ非ズ。此僻事形ヲ滅シ失ヒテ。不思議ノ智ヲ發シ。内ニ一心ヲ覺ルヲ。唯識

ノ眞實ノ觀ト名ク。(『法相二巻鈔』より)

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 第三能変 善の心所・第七、五受相応門(ゴジュソウオウモン)

 「此の善の十一は何れの受と相応する。」(『論』第六・十二右)

 (従来述べてきた善の心所である十一は、どの受と相応するのであろうか?)

 先ず、問いは出されます。『述記』は、「第七に五受倶也、問なり」と釈しています。

 「十は五と相応す、一は憂苦をば除く、逼迫の受有って調暢なるは無きが故に。」(『論』第六・十二右)

 十一の善の心所の中、軽安を除く十は五受と倶に相応する。遍く三界に通じているからである。もう一つの、軽安は、憂(受)・苦(受)を除く三受(楽受・喜受・捨受)と相応する。何故ならば、下界(欲界)は逼迫の二受があって調暢する軽安がないからである。

 十の善の心所の場合

  •  欲界 - すべて五受と相応する。
  •  色界の四地に於ては・ 初禅 - 楽受・喜受・苦受・捨受と相応する。 第二禅 - 楽受・喜受・捨受と相応する。 第三禅 - 楽受・捨受と相応する。 第四禅 - ただ捨受とのみ相応する。
  •  無色界 - ただ捨受とのみ相応する。

 軽安の場合

 憂受は欲界にのみ存在し、苦受は欲界と色界初禅に存在する為、欲界には軽安は存在せず、色界初禅に於いても苦受の場合は相応しない。

 「論。此善十一何受相應 述曰。第七五受倶問也 論。十五相應至無調暢故 述曰。十一中除輕安餘得五受倶。遍通三界故。輕安唯除憂・苦二受。唯下界有。逼迫二受無調暢輕安故 若爾雖定所引五識。應無輕安此理不然。所引善者。捨・樂倶故。然菩薩後得智。雖起苦根可名無漏。然無輕安。名迫受故。餘受可有。即通果心 若爾鼻・舌・身三非通果如何通 苦根雖名無漏。不言輕安倶。輕安倶時怡悦五識。苦受逼迫五識不倶。然實菩薩後得智中起五識。有輕安倶無失。但除苦受。定滋潤故。然上界三識。下界五識。」(『述記』第六本下・四十四左)

 暫く、『述記』の釈を伺いますと、 「述して曰く。十一の中に軽安を除く余は五受と倶なることを得。遍じて三界に通ぜるが故に、軽安はただ憂苦の二受を除く。唯下界にのみ逼迫の二受有って調暢する軽安無きが故に。若し爾らば、定所引の五識なりと雖も、軽安無かるべし。此の理然らず。所引の善なるものは、捨と楽と倶なるが故に。然るに菩薩の後得智は、苦根を起すと雖も、無漏と名づくべし。然るに軽安無し。迫受と名くるが故に。余の受は有るべし。即ち通果心(天眼耳識)なり。
 注 ・ 通果心(ツウカシン) - 神通によってもたらされた結果。通とは神通のこと。 
 若し爾らば、鼻舌身の三(識)は通果に非ざるは、如何に通ずるや。苦根を無漏と名づくと雖も、軽安と倶なりと言わず。軽安と倶なる時の怡悦(イエツ・
怡は喜ぶ、楽しむ。悦は喜ぶ、喜こび)の五識にも、苦受の逼迫する五識とは倶ならず。然るに実に菩薩の後得智の中に起す五識は、軽安と倶なること有りというに失無し。但だ苦受を除く。定に滋潤せらるる故に、然るに上二界には三識有り。下界には五識にあり。」)
 

 

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第三能変 善の心所  第三の六 八識分別門 (2)

2014-01-23 22:24:28 | 第三能変 善の心所 八識分別門

 第二師の説(護法正義)

 護法は説く。五識にも軽安は存在する、と。何故ならば、定に引かれて善であるものは、また調暢であるからである。また成所作智と倶にあるものには、必ず軽安が存在するからである、と。

 「五識にも亦軽安有り」という理由に二つ挙げています。

 第一の理由は、「定に引かれて善なる者は、亦調暢なること有るが故に」(定によって引き起こされた善である五識には調暢があるからである。)

 第二の理由は、「成所作智と倶なるには、必ず軽安有るが故に」(成所作智と倶にある五識<五識転じて成所作智と為る>は必ず軽安があるからである。)

 第一の理由から、『述記』には、護法の解釈(善であるもの)について、「もの」の解釈に三つあると述べています。

  1.  「唯だ仏に在り、意の引に由るが故に、五(識)に軽安有り。又五識成事智は倶に軽安有るが故に。」(無漏の五識)
  2.  「定所引の善に軽安有りとは、此は因位に在る有漏の五識なり。(有漏の五識)
  3.  「此の中に五識の色界に在るは、彼に鼻舌無し。文の中の言は総なるも、理実には三識(眼識・耳識・身識)なり、前文(軽安無しの義)に違せず。(有漏の三識)

 護法の正義は、有漏位・無漏位と通じて五識には軽安は存在すると説き、第二の釈を正義とされます。「定所引の善に軽安有り」というのは、身は欲界にありながらも、定によって引き起こされた善の有漏の五識の中には調暢があるので、そこには軽安は存在するというものです。(定によって引き起こされていない有漏の五識には軽安は存在しないということになります。)

 第一の解釈は、仏果から説かれていることになります。無漏の五識は調暢であるから、そこには軽安は存在し、成所作智と倶である無漏の五識には必ず軽安は存在すると釈しています。

 第二の解釈は、上記に述べた通りですが、有漏位・無漏位ともに軽安は存在するというものです。

 第三の解釈は、五識の色界について述べられています。色界には鼻識及び舌識は存在しない(鼻識・舌識は欲界にのみ存在する)ことから、眼識・耳識・身識の三識を指し、この三識には軽安は存在すると述べてるのです。

 「論。有義五識至必有輕安故 述曰。此有三解。一云此唯在佛。由意引故五有輕安。又此五識成事智倶有輕安故。初約他引立宗。後論自倶引證。總約佛位。此解破前佛無無漏五識身解。即順三界分別之中。欲無輕安 第二又解。定所引善有輕安者。此在因位有漏五識。身在欲界定所引善五識之中。非無調暢。即如通果天眼・天耳。善者有輕安。無記者即無。破前所説因位五無。在果許有。此據因位。若在佛果此爲正義。或初地時。成所作智倶必有輕安故 若作此解。違前所説欲無輕安中第二正義。鼻・舌二識欲界所繋。有輕安故。彼前但據一切異生。及下意識。説之爲無。據理聖者後得智引五有輕安。不相違也。前文但對彼初師説。非爲盡理 第三又解。此中五識在色者。彼無鼻舌。文中言總。理實三識。不違前文。」(『述記』第六本下・四十三左。大正43・442c)

 (「述して曰く。此に三解有り。一に云く、此れは唯仏にのみ在り。定に引かるゝに由るが故に、五識に軽安有り。又此の五識の成事智と倶なるには、軽安有るが故に。初は他の引に約して宗を立つ。後は自と倶なるを論じて証を引く。総じて仏位に約す。此の解は、前の仏に無漏の五識身無しという解を破す。即ち三界分別の中に欲界に軽安なしというに順ぜり。
 第二に又解す。定所引の善に軽安有りとは、此は因位(十地)の有漏の五識に在り、身が欲界に在って定所引の善の五識の中には調暢無きに非ず。即ち通果の天眼天耳の如し。善のものには軽安有り、無記のものには即ち無し。前の所説(第一解)の因位の五識には無し、果(位)に在って有りと許すを破す。此は因位(五識)に
據る。若し仏果に在って此れを正義と為す。
 或は初地の説きより成所作智と倶なるには、必ず軽安有るが故に。若しこの解を作さば、前の所説の欲(界)に軽安無しという中の第二、正義に違すべし。鼻舌二識の欲界所繫なるに軽安あるが故に、彼の前(五識に軽安無しの義)は唯一切の異生と及び下の意識によって之を説いて無と為す。理によっていはば、聖者の後得智に引かれたる五識に軽安あり、相違せざるなり。前の文(欲界に軽安無し)は、但だ彼の初師に対して説く。理を盡せりと為すに非ず。
 第三に又解す。此の中に五識の色界に在るは、彼に鼻舌無し。文の中に言は総なるも、理実には三識なり、前文(軽安無し)に違せず。」)

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第三能変 善の心所  第三の六 八識分別門 (1)

2014-01-22 21:36:45 | 第三能変 善の心所 八識分別門

 第六門 八識分別門について 

 十一の善の心所について『成唯識論』にしたがってまとめて見たいと思います。八識における善の心所の相応を述べています。

 

 ①「此の十一種は。前に已に具に、第七・八識にては位(クライ)に随って有・無なりということを説きつ。第六識の中においては、定の位には皆具す。若し定に非ざる位ならば、唯だ軽安のみを闕(カ)きたり。
 ②有義は、五識には唯十種のみ有り、自性散動(ジショウサンドウ)にして軽安無きが故にと云う。
 ③有義は、五識にも亦軽安有り、定所引の善なる者は、亦調暢有るが故に、成所作智(ジョウショサチ))と倶なるには、必ず軽安有るが故にと云う。」(『論』第六・十一左~十二右)

 私たちの心は前五識(眼・耳・鼻・舌・身識)・第六識・第七識・第八識の四つの心をもっているのですが、善の心所はどこに働くのかと云う問題があるのですね。それに答えているのが本科段になります。

 先ず最初は、①について述べます。

 第八阿頼耶識と、第七末那識については、「前に已に具に説きつ」(前にすでに詳細に説いた通りである)と前置きをし、第七識・第八識は位に随って、有る場合と、無い場合が有るということを述べています。位というのは有漏位(煩悩の有る位)と無漏位(煩悩の穢れがない位)のことです。有漏位では阿頼耶識に善の心所は相応しない。無漏位になった時に、阿頼耶識はただ善性となるから五遍行と五別境と善の十一の心所が相応する。

 末那識については、未転依の位では善の心所は相応せず、転依した平等性智が起こった時は五遍行と五別境と十一の善の心所と相応する、といわれています。

 第六意識に於ては、定位には善の心所には十一みな相応し、定位でない場合(散位)には、ただ軽安を闕いた十が相応すると述べています。

 根本煩悩は我執ですから、ここは我執が有る場合は、善の心所は働かないというのです。そして無我の境地になりますと十一の心所はすべて働くといっています。即ち第七識も第八識にも我執が働いているときは善の心所は働かないといっているのです。働いているのは善でも悪でもない無記の心は働いているということになります。命は善でも悪でもなく無記(善とも悪ともきめることができないこと)なのです。ですから我執も無記になります。しかし我執そのものは無記なのですが、我執が起こっている時は煩悩が働いていますから、善の心は起きないのです。「法」を立場とする無漏位の境地に立ちますと善の心所はすべて働くことになるのですね。そして意識ですね。第六意識と善の相応については、定の位にあっては十一の心所すべてが働くといわれているのです。前五識はどうかといいますと、二説が出されています。第二師の説が護法正義になります。

 ②について

 第一師は、五識はただ善の心所は十種のみあると主張しています。五識は自性が散動であるために軽安がないからである、という。

 この師の説は、十八界の中、十五界(五根・五境・五識)は有漏であり、又、仏に無漏の五識は無いという立場になります。有漏の五識はその自性は散動である為に、有漏の五識には軽安は存在しないということですから、有漏位・無漏位とも軽安は存在しないということになり、有漏位には軽安を除いた十の善の心所があるという主張になります。

 ③については、次の機会に述べたいと思いますが、雑感を記しておきます。

 前五識そのものは感覚作用ですが、第六識の影響下にあるわけです、第六識に支えられて前五識は働いているという関係になります。「成所作智(ジョウショサチ)」とありますが、この智慧は前五識が転じたものなのです。(前五識が転じて仏智として顕れたものー仏の四智の一つ)表層の意識から深層の意識へと自分を見つめる眼差しが深まっていくのですが、深層の意識では善の心所は働かないというのです。これは何故かといいますと、命の根源は善悪を超えた平等の世界を戴いているのですね。しかし第六意識は善悪の判断を常にしているわけです。ですから第六識ですね。ここに心所として善が置かれているのですね。この表層の意識なのですが、これは第八阿頼耶識を根本識として影響を受けているのです。「五識は縁に随って現じ」・「意識は常に現起す」といわれています。深層の阿頼耶識を因とし、さまざまな縁を補助因として五識は表面に現れてくることになるのです。これを転識といいます。意識は自ずから分別を起こすことが出来、「内外門に転じ」といわれ、自己の内と外を対象とすることが出来るので有るといわれているのです。ですから「多くの縁を籍りず」と意識が生ずるためにには多くの縁を必要としないといわれているのです。阿頼耶識を根本原因とはするのですが、意識の働きは私の精神生活にとっては大変重要な役割を持っているのです。表層から深層へという流れは第六識がキーポイントになり、第七識で我執として色づけされ、第八識に種子として薫習されるのです。聞法するという行為も意識から生まれてくるということが大変意義の有ることだと思います。五識は「濤波の水に依るが如し」といわれますように、波が起こるには水という縁がなかったら起こり得ないのと同じように、五識は縁によって現れてくるのです。ですから現れる時もあり現れない時もあるわけです。意識の状態に依るわけです。その意識は深層の意識である第八識に影響を受けて目覚めている時はいつでも起こっているのです。その意識に善の心所が備わっているということは非常に意味のあることになります。第八識は純粋の自己ですからね。聞法も第八識に依るわけでしょう。ですから「聞法する」という意識が可能となるわけです。大事だと思います。横道にずれますが清沢先生に「天命に安んじて、人事を尽くす」というお言葉があります。「私が一身の行為についていうならば、人事を尽くして安んじることにすぎないようにみえるのだが、私はむしろ、天命に安んじて人事を尽くすといいたい。・・・まず天命に安んじるのでなければ人事を尽くすことができないからである。」(『転迷開悟碌』から)私はずいぶん前からこのお言葉には触れてはいましたが「人事を尽くす」という意味を読み切れていなかったようです。「天命に安んじる」だけを読んでいたのです。「人事を尽くす」という意識が大事なのでしょう。天命に安んじてそのままではないのでしょう。信心もそうでしょう。「獲得」せよといわれていますね。獲物を奪い取るがごとくということですね。これは命がけですよ。一命を落とすかもしれないのです。獲得ということは、能動的ですね。意識の働きだと思うわけです。この働きは第七識にとっては非常に厄介なのではないでしょうか。我執で持って色づけしようとするわけですが、判断に困るのではないでしょうか。それは究極の我執は究極の安らぎだからだと思うからです。意識で思うことが能動的に第八識に種子として蓄えられるということがあるのではないかと思うのです。それが聞法という縁に遇うことに於いていよいよ信心獲得という方向に進んでいくのではないでしょうか。また天命に安んじることに於いていよいよ人事を尽くしていける道が開かれているのではないでしょうか。

 意識と第八識の関係になるのではないでしょうか。意識したこと、経験のすべてを第八識は種子として蓄え縁に応じて意識に働きかけるのです。この働きは無間断ですね。この中立ちの役割を第七識が分担しているのです。この識は無始無終、無間断で、自己を思い続けているわけです。「自分さえよければいい」と思い込んでいる心なのですが、「そんなことはない、人のことも考え、思いやりのこころもある」と反論が返ってきますが、そのことが、自我愛なのでしょう。自我を満足さすための手段としているのです。これはみえません。見えない心なのです。その心が見えた時、「さればよきことも、あしきことも、業報にさしまかせて、ひとえに本願をたのみまいらすればこそ、他力にてはそうらえ」という視線、眼差しが生み出されてくるのではないでしょうか。そのはじめの一歩が「豊かな人生を生きるために」という問いを意識的に持つということが大切ではないかと思うのです。そうでなければ「善悪の宿業をこころえざるなり。よきこころのおこるも、宿善のもよおすゆえなり。悪事のおもわれせらるるも、悪業のはからうゆえなり」という御文は読み切れないのではないでしょうか。(『歎異抄』第十三条より)

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