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久野里地里山の「なりわい広場」

2009-08-10 05:42:10 | 地域
深夜から朝へと強い雨が降り続いている。干しをしていた田んぼ、養鶏場の雨の降り込みと。明るくなるのを待って、ずぶぬれの一仕事になってしまった。久野川はまだ水量はさほどではないが、林道の方がまるで川になっていた。
久野での里地里山の活動の目的はここで暮す、地域の住民がそれぞれに、この土地を生かした生業をもって、暮してゆける方法を提案してゆくことだろう。あしがら農の会では、会員のまごのりさんの植木の圃場を「里地里山なりわいひろば」として再生する役割を担うことになった。昨日は十数名で現地に集まり、圃場を見せていただいた。ときどき見に行っていたが、改めて視点を変えてみてみると、素晴しい場所であることが改めて確認できた。4号古墳を取り囲む土地である。久野100塚といわれ、実際にそれに近い数の、5世紀から6世紀の古墳が久野諏訪の原丘陵に続いている。農の会の会員でもある旧石器が専門家の諏訪間さんから、古墳群の意義を先ず聞かせていただいた。

専門家の確かな視点での話は、どんな分野でも面白いものだが、自分が暮している土地の由来のような話が、「原点の確認」として、郷土史家のレベルではなく、研究者レベルの話を聞けると言う事は、幸運かつ貴重なことだ。足柄平野一番の土地に、古墳が出来て行った過程。そして今の状況。改めて4号古墳を守ってゆく事の意味が確認できた。守ってゆくというより、地域の生業創出を4号古墳を取り囲んで行ってゆく意義が、確認できた。小田原が交流の拠点である、位置付け。今歴史といえば、小田原城址が着目される街づくりだが、江戸時代の小田原が生れてくる原点が、実は縄文の後期辺りから醸成されている。これからの小田原を考える、視点をここに位置づけることは、とても意義深い事だと思われる。つまり、行き詰まった江戸後期の武家経済を、お百姓さんの視点で建て直しを主張した、二宮尊徳。中世の混乱から、独特の地域経済の発展を起こした北条氏。大切なことは、この文化を育んだ、小田原の土地と住民の持つ原点である。

貨幣資本主義が、輸出依存の経済が、新しい方向を見つけようともがき苦しむ時に、小田原発のなりわいが模索される意義は大きい。地域発の、庶民の視点での新しい暮らし方の提案は、今一番期待されるもの。庶民の暮らし感覚が、根っこにまだ存在する、久野という里地で、新しい日本人の生き方が提案できるかもしれない。私たちは既にいくつものヒントを持っている。あしがら農の会で蓄積してきた活動は、どのような暮らしが、永続性のある、人間らしい暮らしであるのかを確認してきたのだろう。田んぼを耕作し、お茶、大豆と食の自給のある暮らし。貨幣経済を超えた価値観を形成する、思想を育んできた活動であった。あしがら農の会が次の暮らしを提案する、重要な場面にあることを意識する。

里地里山のなりわい。山の産物、里の産物の生産交流。都会目当てに生産物を販売する形からの脱却。地域が地域として自立した、里地里山の暮らしの提案。4号古墳を取り囲むように、植えられている植木の見事さは、まごのりさんの眼を感じた。立派な木たちである。あの見事な木々を生かした場所を作り出せば、必ず、素晴しい交流拠点が生れるはずだ。先ず、人が集まりたくなる場所を作り出すこと。これが第一義である。経済から入る事は、行き詰った貨幣経済に汚染され、みすぼらしいことになるだろう。一切を払拭して、自分が居たい場所を作ること。自分が居たい場所は、誰だって行きたい場所であること。誰もがその場所を利用に先ず専念する。その場所は必ず、開かれた場所であること。圃場の片隅に堆肥が積まれていた。剪定枝で作られた、見事な農業者としてよだれが出るような堆肥だ。堆肥は直接はお金にはならないが、本当の堆肥がどんなものであるかが、示される意義の方に力点があるなと、直感した。
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