魯生のパクパク

占いという もう一つの眼

日本の家

2015年07月13日 | 日記・エッセイ・コラム

新国立競技場の建設費が膨大に膨らんで、大問題になっている。何しろ過去の開催国の5倍の建設費だ。再考するかしないかで揉めているが、コンパクトで経費が掛からないオリンピックもウリだったはずで、建設費の高騰で、再考願いを出しても矛盾しないと思うのだが、一端提出した物が、できないでは、面目丸つぶれで、引くに引けない。

開催決定の日に心配した費用問題は、始まる前から起こっていたワケだ。(東京五輪
どうせ獲得できないだろうと思ったのか、費用など考えず、とにかく目立てば良いで、奇抜だけが取り柄のデザインを選択したのだろう。

しかし、東京五輪についての最大の心配は、前世紀的イベントを、前世紀的手法で行うことだ。建物だけではない。あらゆる手法が、古い方式で行われ、気づいた時には日本が、世界の経済トレンドから取り残されているのではないか心配だ。

そうでなくとも、開催した各国とも、オリンピック後遺症で悩んでいる。
さらに、今や、オリンピックやワールドカップによって活性化するには、世界の経済システムは不透明であり、既に、経済発展のカギは、工業生産からソフトの時代に入っている。あらゆる資本は物ではないところに向かっているのだ。

そんな中で、競技場だけでも5倍もの資金を投入する。
本当は、オリンピックそのものの返上をして欲しいが、そうもいかないだろうから、せめて建物に馬鹿なお金をかけることだけは止めて欲しい。

日本は、木と紙の家で知られている。
見た目はあのデザインのままで、竹と紙でできた、建物はできないものだろうか。

本音を言えば、あんな日本らしからぬデザインそのものが、納得できないのだが。