歴史番組「英雄たちの選択」で、阿倍仲麻呂を語っていた。日本の古代史の謎の偉人として、ロマンをかき立てられる人物だから、興味深く観た。
出演者は仲麻呂を絶賛。観ながら、仲麻呂は本当に素晴らしい人だ、現代の日本にこんな人が出てくるだろうか、と思ったが、観終わった感想は、「でもねえ」だった。
仲麻呂の国際感覚とは、あくまで当時の中華世界のことであり、今、その古代中華世界を再現しようとする中韓の価値観は、千年後の現代では、いかにも不都合な骨董品だ。
バカボンパパそっくりの習近平だが、「それでいいのだ」とは言い難い。
(それにしても、習近平を見る度に、腹巻き姿が目に浮かぶ)
皇帝が支配する中央集権の世界なら、特定の狭い社会に入り込む能力が、直ちに、国際的架け橋になるが、民主主義時代の国際貢献は、それだけの能力では架け橋になれないし、今は、どこにも行かなくても、世界に発信して影響力をもつこともできる。情報化ボーダレス時代は、世界中が宮廷社交界化している。
国家という枠組みで世界が動いていた時代が、終わろうとしている時、その原点に回帰しようとする、中国共産党やISのようなゾンビが現れるのも、大転換時代の必然かも知れない。
秩序が崩れて混乱が起きると、それまで姿を隠していた、魑魅魍魎が跋扈する。
各国で、独立論が盛んなのも、国家という枠組み終演の表れだ。近代国家の幻想が消えようとしている。
異邦の社会
とはいえ、今現在、その枠組みが解けたわけではない。未だ、国家は厳然と存在するし、50年や百年で地球連邦が生まれるわけでもない。実際、政治経済も学問芸術も、小さな集団社会が世界を動かしている。阿倍仲麻呂のように、コアな中央に入り込むことが、「出世」や「貢献」につながることは、今も同じだ。
いわゆる、出会いが人生を変え、世の中を動かす。現場に飛び込むことで出会い、歴史に参加するチャンスが生まれる。
異邦の地では、それだけで希少価値としての参加資格が得られる。
クビライとマルコ・ポーロ、信長とフロイス、家康と三浦按針など歴史に残る人々を始め、近代以後は、海外に出て行った武術家や芸術家の活躍はよく知られる所でもあるし、ジョン・レノンとオノ・ヨーコなどの例もあれば、逆に、日本に来て活躍する外人タレントもいる。
何れも本国にいれば、ただの人だったかも知れないが、異邦の地がチャンスを与えた。
しかし、もちろん、誰でも仲麻呂になれるわけではない。それなりの才能が有ったからこそチャンスが活かされたわけだが、異邦人の付加価値が大きな武器であったことは否めない。
また、異邦の地で成功しても、故国に帰って歓迎されるとは限らない。多くの場合は、むしろ排斥される。
福岡や大阪出身のタレントが、地元に帰って地元のためを思って何かを言ったりすると、その違和感に、すぐ、「おまえ、東京に魂売ったな」と言われるそうだが、日本全体にその傾向がある。
昔は、特にその傾向が強く、小澤征爾とN響の確執は、世界を知る日本人が増えた時代だったから、雨降って地固まったが、何事も権威だった藤田嗣治の時代は、社会が変わることでたちまち排斥され、日本を捨てるしかなかった。
阿倍仲麻呂が日本に帰ってきていたら、権力闘争に巻き込まれ、最終的には、やはり排斥されていたのではなかろうか。島国は、グローバルな愛国者には住みにくい所だ。
今でも、日本は権威社会だが、グローバル化で、かなり、ゆるくなってきている。
日本で、うだつが上がらないと、嘆いている若者は、自信があるなら、とりあえず、異邦の地に出てみてはどうだろう。
そういえば、今日は藤田嗣治の誕生日だ。