魯生のパクパク

占いという もう一つの眼

日本景観

2015年07月18日 | 日記・エッセイ・コラム

新国立競技場が、取りあえず白紙になって良かった。(魂胆は何であれ)
常識を遙かに超える建設費が却って幸いした。元の見積もり通りに、1300億に収まっていたら、そのまま建っていただろう。冗談じゃない、1300億でも、過去最高の3倍近い。
バブルの頃でも、国立の総合病院を建てるのに、全部コミで400億と聞いた記憶があるが、その3倍だ。
物の価値というものは、一概に計れないものだが、お金は最も効果のある使い方をして欲しい。

亀の甲より都市の考
白紙になって最も良かったことは、日本の首都に似つかわしくない、なめらかな曲線のデザインが無くなったことだ。
前の競技場も、当時は物議を醸したが、曲線の中に日本的調和を残していた。
今回の曲線は、作者がイラク人だけあって、モスクやアラブの王宮の曲線を思わせる。
中東風が日本に入って悪いことはないが、日本に入れば、唐草模様や橋の擬宝珠のように、日本の中に溶け込み調和させて、始めて活きてくる。

どの地域にも、「らしい風景」というものがある。欧州の、自然と人間のコントラスト。中東の、砂漠に忽然と浮き上がるアラビアンナイトの宮殿・・・
これらに対し、欧米人が日本に見る風景は、自然の中に溶け込む木と紙と土の家だ。
それは、例え、超現代的な東京であっても、皇居を中心に、神社の杜や木造建築に溶け込んだ高層ビルであり、ドバイや上海のように、既存の空間を押し倒して迫り出すものではない。

明治の建築物のように、日本は欧米的素材も、都市に包み込み、やがて、擬宝珠のように風景に取り込んでしまう。しかし、今回白紙に戻った、亀とも、生ガキとも言われるデザインは、その巨大さ故に、包み込むことは不可能だろう。
京都タワーや、京都駅で、場違いなデザインが物議を醸したが、少なくとも、日本的要素を考えてデザインされていたために、時間が経てば、自然に拒否感が薄れていった。

環境を全く無視し、天下ったUFOのような、ザハ氏の傍若無人のデザインは、やはり、周囲との調和を考える必要のない砂漠の民の発想だろう。
あんな物が東京の真ん中に居座れば、異質すぎて溶け込めず、周囲がそれに合わせて行くしかなく、東京の持つ、「それなりの調和性」が破壊されるだろう。

新国立競技場を、全く一から考えるのであれば、予算や工期の面から考えて、ごく標準的な構造にし、木材を多用した和風テイストで、大仏殿などを模した神社や仏閣のようなデザインにして欲しい。
日本人から見れば、ありきたりで、「そんなのもういいよ」と思えるような物こそ、日本に馴染み、しかも、外から見ればユニークなのだ。
例えば、日本人にとって当たり前の、神社の巨大な鳥居の風景は、世界のどこにも無い