魯生のパクパク

占いという もう一つの眼

生存方法

2019年07月27日 | 兄弟関係

 以前、夫が定年退職後20年余の80代の奥さんが困っていた。7人兄弟の末っ子は50代、会社経営をしているが、4~5年おきに会社が倒産しそうになり、その都度、借金を頼みに来る。今回もまた、来たが、こちらにはもう後がない。どうしたものだろう。
聞けば、これまで、本人が破産したことはなく、姉より豪華な家に家族4人で暮らしているという。長子の自分とは20歳以上も年が離れているので、我が子のような気持ちで無理をしてきた。毎回、つなぎ資金だからと用立ててきたが、後で還ってきたことがない。
今回、用立てるには、自宅を担保にいれ、老後資金に手を付けることになる。

もう余力が無い老人が捻出するには、大げさに言えば、命と引き換えだ。
それでも、今回も同じように、憔悴しきった顔で来られると可愛そうで、何とかしてやりたくなる。

このお姉さんには、
「それがこれまで、何度も倒産しそうになった原因ではないですか。お姉さんが死んだ後はどうするんですか。ここは自力で解決をしてもらい、それに失敗して路頭に迷うようなことがあれば、保護する余力を残しておくべきではありませんか」と話したところ、
結局、もう余力が無いと、詫びて断ったそうだ。
後日、話を聞くと、弟は他で都合を付け、それ以後、全く連絡を取ってこないで、恨んでいるそうだ。
これも、典型的な長女(長子)と末子の関係と言える。

長子は、情も道理も親の代理として考え、自分の能力にかかわらず、何とかしてやらなければならないと思いがちだが、弟妹、ことに末子は、親兄姉も他人も、基本的にはチョイスの対象でしかない。助けになる人は良い人で、思うようにしてくれない人は無用の人だ。
有名人に憧れマネをしたがり、偉い人や役に立ちそうな人を好むが、自分の役に立たない人には関心が無く、簡単にバカにし、厳しいことを言う人は恨む。
それでいて、その疎遠な人が偉くなったりすると、コロリと過去を忘れて接近する。
これは、原理原則にこだわらない、実利優先の弟妹型の生存能力だ。

これに比べ、原理原則を求めて生きようとする長子は、頑固で融通が利かず、自分に害になると解っている人物でも、ひとたび自分が関わったことを諦めきれず、深追いする。自分の分身のように考え、我慢をし、また自分が自省する時のように説教をする。 この相手が弟妹、末っ子の場合、メリットがある限りは聞いているが、他のスポンサーが現れたら、たちまちいなくなる。男女の仲でも末っ子はあっけらかんと浮気し、あっさり別れる。恋愛に「…だから好き」などと、道理や原則を持ち込む野暮は、長子だ。

長子は、人間関係にも原理原則を求め、因果因縁のつじつまを合わせようとするから、深く長い付き合いの傾向があり、長年会わなくても友は友だと思っているが、弟妹は会っている時が友達で、離れたら一度、他人になる。そして再び出会うと、いわば、そこで友達が始まる。こだわりなく浅く広く付き合う。同窓会なども、弟妹にとっては、昔の名簿録から新しい友人ができるようなものだ。同窓会で現在の自慢をしたり、出世した友に態度を変えるのも現金な弟妹だ。昔のままの関係で接したがるのは長子が多い。

したがって、弟妹は友達関係は多いが長続きしない。切ってはまた復活する。離再婚する夫婦も弟妹に多く、家庭内離婚など、腐っていても維持しようとするのは長子に多い。

民主主義は弟妹主義
古代の専制政治が、基本的に長子の原理主義に基づく人治主義だったのに対し、それを打ち破って登場した現代の民主主義は、数の力を借りる弟妹の、公論とルールで営まれるから、弟妹の方が現代の政治家に向いている。
集団の席に突然現れて顔を売ったり、世論の動向を察知して主張を変えたり、良く解ってなくても、難しい言葉やカタカナ語を振り回す。これは長子の最も苦手とすることだ。
長子の麻生元総理や森元総理が、デタラメな言葉遣いで評判を落としたのも、内容の原理原則さえ解っていれば、言葉使いはどうでも良いと思っているからであり、空気を読まない発言も、長子の唯我独尊からだ。

中国が、民主主義の喧噪をバカにしているのは、やはり古代からの長子国だからであり、空気を読まない横暴も長子国だからだろう。

長子の原型、一人っ子の日本は、空気を読まない唯我独尊に加え、人付き合いの「力のバ ランス」を知らないから、外交上で過剰に反応する。兄弟で揉まれてきた世界の国からすると、何を考えているのか全く見えないのに、驚くほど面白いことを考えていたり、突然、暴走して驚かせる。

欧米のようなキリスト教の下の民主主義国は、弟妹国の集まりであり、誰かを頂点とすることなく、互いに主権を持ち、戦争を含め、競い合いながら生存のバランスを取る。
モスリム国もこれと同じだが、国家主権意識より他宗教に対する宗教的主権意識とも言うべき、同族意識が強い。

朝鮮のように、大国の狭間に生きてきた国は末っ子であり、徹底したチョイスと、被害者意識による自己肯定を原動力とし、自分の成果を大いに誇示し、失敗は全て加害者、大国のせいにする。親兄姉が自分にしてくれるのは当然で、不都合は彼ら大国の失敗か悪意によると短絡し、直ちに反発する。しかも、困ると、その大国にすぐ助けを求める。

こうした、性行の違いは、生い立ちから身についたそれぞれの生存方法であり、それぞれに、幸も不幸も味わっている。


内部要因

2019年07月25日 | 星の流れに

放火事件の犯人のプロフィールが出て、あまりにも予想通りだったが、この件は今、触れる気になれない。
吉本やジャニーズ事務所の件が話題になっているが、全く関心が無いので、事情は知らない。ただ、芸能「興行」はサソリ座なので、天王星→牡牛座が影響しているのだろう。

なぜ、芸能興行がサソリ座なのか。
サソリ座は「生と死」。物事の表裏を意味する。したがって、パロディー、マンガ、そしてお笑いはこの分野になる。既存のものを、「こうとも言える」と、おちょくる意外性が笑いになる。
また、大衆芸能も、知的快楽のうち、天秤座の道を究めようとする美的快楽(芸術)に対し、サソリ座は肩を張らない娯楽の世界だ。

このため興行は、サソリ座のもう一つの側面である冥府魔道から、闇の力や暴力と結びつきやすい。絶対権力を持った者が牛耳り、絶対服従の世界になる。サソリ座の韓国が興行を国家ビジネスに据えたのも自然なことと言える。

様々な世界でサソリ座は今、思いがけない訪問者であたふたしているが、何れも、全くのハプニングではない。元々あった内部要因が刺激されているだけと言えるだろう。
惑星災禍


喪失時代

2019年07月20日 | 日記・エッセイ・コラム

 京都アニメーションの放火事件。物理的には過去にも風俗ビルなどで似たような事件があったが、全く違う衝撃だ。
世相事件で、こんなにやり場のない腹立たしさ、残念さを感じることは滅多にない。
ただの死亡や殺人ではない。文化殺人だ。

一人の死は、その人の積み重ねてきた、人との関わり、知識、知恵、思考の蓄積とポテンシャルが、全て消えることを意味する。
そうした潜在力を持つ人が、特に専門性を持った人が集団で活動する場は、人知を超える創造力を発揮する創造体だ。
今回の事件は、その創造体が殺されたのだ。創造体の死で失われた「夢」は、失われたものよりも巨大だ。
将来の夢が消える子供の死が痛ましいように、文化創造の世界における可能性の消失には、言葉にできない無念さがある。 世界中から支援のお金が送られてきても、失われた才能は還らない。

犯罪は災害だ
当然、こんな事件を引き起こした犯人への怒りは、今、世に満ちている。しかし、これは災害だ。一種の事故でもある。
犯罪の多くがそうであるように、犯罪は一人の犯罪者によって起きるのではなく、我々一人一人が関わる社会の歪みが、犯罪者を生み出す。
今回の犯人は紛れもなく狂人だ。しかし、計画性その他から見ても、間違いなく罪に問えるだろう。
では、犯罪者を断罪して、一件落着かと言えば、そんなことではどうにも腑に落ちない。

犯人が言う「パクった」には、哀しい自尊心が垣間見えて、これもまた、この世の不条理を突きつける。
自分と対等でもない、関係すらない有名人にいちゃもんを付ける心理は、いちゃもんを付けることで、あたかも対等のステージに対座しているような気持ちになれるからだ。(ネットにはそんな自慰が溢れている)
他人は他人、自分は自分と思える「自分」が無い人ほど、あること無いこと些細なことで目立つ人に食らいつく。(そういう国家すらある)

今回の犯人も、自分が評価するものを、ライバル視、敵視することで自尊心を見いだし、無理心中することで、自分の存在を確立しようとしたのだろう。
このような狂気が生まれた背景には、年齢からして、不遇の世代が思い浮かび、とても、単純には責める気になれない。
今のアラフォーの置かれてきた時代は、乱世よりもひどいと思う。戦国乱世ならば、弱肉強食で束縛されることもなかったが、平成は不況なりにも安定社会で、ただ、ひたすら、システムに従うことを強いられた。少しでも踏み違えると、阻害され、いじめられ、活路を奪われる。かといって、戦国のように殺されることもなく、社会の飼い殺しとなる。
こんな時代でも、多くの人はガンバってきたのだから、そんなことは何の言い訳にもならない。
ただ、犯罪が社会の歪みであることを思うと、今回も、道連れ殺人の兆候があり、やはり時代の影が掛かっている。

認識が実体験を伴わず、他人も、痛みも、自分という存在も、情報でしかない時代。
行動の結果が、自分の行為ではなく、結果が突然表れたように感じれば、不満だけが蓄積し、それを打ち払うどのような行為もまた、情報レベルでしかない。
自分という存在を、直接他人に重ねて、他人と自分を同時にリセットする。
犯人は「しねー!しねー!」と叫んでいたと言うが、おそらくは自分に対して叫んでいたのだろう。そして、その二重性にも気づいていないのではなかろうか。

あらゆる意味で、とにかく哀しい


惑星災禍

2019年07月12日 | 星の流れに

天王星は凶星とされるが、基本は「ハプニング」「意外性」であって、必ずしも凶の意味は無い。多くの予想外は、対応できないために不幸につながることが多い。喜ばしいハプニングもあるのだ。

天王星が自分の星座に来ると、集中力やヒラメキが加わり、思いがけない成功や人気を博する。先日、天王星が来た牡牛座の榊原郁恵が、クイズ番組で適当に答えると、ことごとく当たり、自他共に驚いていたのも、そんな例だろう。
自分の星座に来た場合は、ある程度、準備や善後策をとれるが、他動的だとひたすら不幸を嘆くことになる。
他動的に来る場合の最大影響は、真反対、180゜の星座に来る場合で、思いがけない不孝が出現する。

天秤座の日本の反対は、牡羊座で、天王星が牡羊座に来た途端、突然、東日本大震災に見舞われた。しかし、この時の不幸を何倍にも広げたものは、原発事故だった。日本自身の来し方のあり方、怠慢による不幸の方が、後々までも傷を広げたことは否定できないだろう。
今、天王星は牡牛座に移ったが、これを180゜として迎えたのはサソリ座だ。
サソリ座の韓国は、突然、日本による「暴挙」の被害を受けていると大騒ぎだが、受けている苦痛ばかり叫びながら、これまでの経緯に対する反省は全く無い。

吉凶は自分次第
天王星を「凶星」にするのは、突然起こった現象に備えが無いことだ。また、回避する方法として重要なことは、落ち着いて謙虚に、過去と現状をよく把握することだ。
己の非をよく認識するほど、良策が打てる。 福島原発事故の時、備えが全く出来ていないことを、初めから認識していれば、一刻を争う対策が、果敢に打てたのではなかろうか。
原発神話に浸り、本当に目に見える結果が出るまで、皆、何とかなると思っていたのではなかっただろうか。
韓国は今、問題の現状を全く把握せず、旧態依然の思考で、「悪の日本」に、抗議ばかりしている。

つまり、思いがけない事態も、「火のないところに煙は立たない」。どこか自分にも原因がある。自分に原因があるのなら、自分で対策の余地がある。全て他から起こることなら対策の打ちようがない。これを災いと言う。
起こった事態に驚いて、目を覆ってしまえば、事態はさらに悪化する。
目の前の、「とんでもない」猫だましには、冷静にならなければならない。
落ち着いて考えれば、完全回避はできないまでも、次善の策は打てるだろう。
大切なことは、己の過信と欲を捨てて、事態を観察し、その上で、事に当たり新ためて信念と自信を持つことだ。
気づいたなら、失敗に落ち込む必要は無い。失敗は成功の元、災い転じて福と成すだ。


不孝孝行

2019年07月06日 | 兄弟関係

先日、「介護兄弟」で、弟妹の世話になるのは考え物だと書いたばかりだが、その後、また、こんな話を聞いた。
姉と弟の40代の姉弟。70代の母親が一人暮らしになったので、東京にいる弟が、自分が面倒を見ると連れ帰った。母親は夫が亡くなったばかりで、呆然としており、弟にしたがった。姉も市内に嫁いでいるが、遠くで毎日は面倒を見られないので、弟の積極性に任せた。
すると、3ヶ月もしないうちに、弟から、母が痴呆になったと連絡が入り、医者も認定しているという。

東京に行くまでは、全くそのような徴候はなかったので、驚いた姉が、東京に行って見ると、弟は共稼ぎで昼間は留守、子供達も学校や仕事で、帰ってこない。母親は見ず知らずの土地で友人知人も無く、出歩く術も分からないので、毎日、独りで家に閉じこもった状態でいた。その上、痴呆を疑った弟夫婦に、連れて行かれた医者に、痴呆を認定されたので、痴呆老人として、さらに、外出を禁じられている状態だった。

確かに、姉と会っても、すっかり無口で、何も話さない。
姉は、弟から聞かされているので、こんなものかと思ったが、出てくる前に、格安で手に入れた大島紬の古着を、母親に見せようと持ってきていた。出して見せると、突然、
「わあ!これ、私が着るわ!」 と言うなり、帯はあれを使って、これこれの時に着て行けば良いとか、饒舌に話し始め、弟一家は子供まで、あっけにとられてしまった。
誰もそんな姿を見たことがなかったからだ。
その後、母親が実家に帰って見ると言うので、弟から姉に、電車に乗せた時間と車両を事細かに連絡してきたが、姉が迎えに出ると、母親は自分で荷物を持って下りてきた。

知る限り、たいていの痴呆症とされている老人は、こんなものだ。
確かに老化はあるだろう。子が知る昔の親の姿ではないだろう。しかし、その異変に出遭ったとき、長子と弟妹では反応の仕方が異なる。
長子は「歳を取ったなあ・・・」と思い、
弟妹は「とうとう、惚けた!」と思う。
長子は親と対等で、良くも悪くも、いわば立場の違う友達のように感じているが、弟妹にとっての親は、親という存在、一つの役職のようなもので、社員から見る社長のようなものだ。

友達は、能力より人格を見るが、上司は人格より能力を見る。友達は能力が無くなっても友達だが、上司は能力が無ければ辞めて貰わなければ困る。
「介護兄弟」では、そういう、割り切り思考の弟妹をデジタルと説明したが、アナログ思考の長子は、親をそれほど敬っていなかった代わりに、能力が衰えても、「親」を辞めて貰おうとも思わない。境界がない。

もちろん、痴呆には重篤なものもあるが、ほとんどは環境次第で変化する。痴呆として扱われると、人として、どんどん劣化していく。多少の認知度が衰えるのは、生き物として当たり前のことだが、それに対し、至れり尽くせりや、行動制限をして、意思決定力を奪うと、一気に廃人になる。

痴呆のテストで、「今日は何曜日ですか?」、「昨夜は何を食べましたか?」などと聞いているのを見て、『おいおい、冗談じゃない!そんなこと、昔から分からねえよ!』と、呆れてしまった。現役でも、自由業や農業などは曜日を意識していないし、生活の乱れている人は、昨夜何を食べたかなど知ったこっちゃない。
何もしないで、家で話もしないでいると、曜日も食事も関心が無くなるのは当然だ。だからと言って、人としての能力を失ったわけではない。
もちろんそれだけで判断するわけではないが、専門家の判定が金科玉条ではない。

銭湯で、90歳ぐらいの人が、紙パンツをはいて服を着て、独りで帰ったのを見て、判断力を持てる暮らしをしているのだろうなと、感心した。
衰えと無能とは違うのだ。


観音信仰 2

2019年07月01日 | 探訪・紀行

突然の雨で、道は渋滞していたが、雨をしのげることがありがたかった。バス代400円は雨宿り代にしては安い。
橿原神宮東口に着くと、ちょうど雨雲が追いついて来た。
待合所の屋根の下に降りると、風と雨が激しさを増し、わずか4~50m先の駅舎まで駆け込めない。バス停の屋根も役に立たないから、目の前のビルの軒下に飛び込んだ。
自転車が並ぶ中央部は滝のように吹き込んでいる。角に寄るとかろうじて濡れない。
バスを乗り継ぐために降りたのだろう。80歳ぐらいの女の人も慌てて傘を持って軒下に飛び込んだが、中央部は土砂降りだ。
「こっちはマシですよ!」と、声をかけると、
「ありがとうございます」と近くに来た。
しばらくすると、
「ありがとうございました。バスが来ましたので」と、さっきから停まっているバスに乗りに行った。
バスが来た時、すぐに乗りに行かなかったのは、小康状態を待っていたのか、すぐ行くのは失礼だと思ったのだろうか、奈良の人ならそれもありそうだ。土砂降りは続いている。

断続的に、ガシャーン、ギシャーンと、雷が落ちる。稲妻が波打つ雨を照らし出し、時折、傘を差した人が走って行く。どう見ても、傘の意味がない。
ようやく、雨がまっすぐ落ちるようになり、幾分、収まってきたので、駅舎まで走ることにした。
駅は、風呂上がりのように髪を濡らした人であふれ、携帯をのぞき込む人や電話をする人、空を見上げる人など、ザワついている。
この狭い改札から、駅中商店街に行くには、線路を越えて、雨を突ききらなければならないので、人がどんどん溜まる、
もう、ここまで走って来た勢いで、駆け抜けるしかない。

駅中商店街もザワついているが、幾分、人口密度に余裕がある。
ちょうど、京都行急行が来たので乗り込むと、席は空いているのに座らない人が何人もいる。見るからに全身ずぶ濡れだ。みな、傘を持った若い人で、傘を頼りに来たのだろう。
「落雷で遅れております・・・」と、アナウンスが入る。

ほとんどの人が濡れているが、ずぶ濡れは傘のある人だけだ。きっと傘が災いしたのだろう。傘が無ければ、ドラマのようには飛び出さない。
傘は防備の象徴だが、最悪の事態には役立たない。豪雨や台風には避難だ。夕立も、小雨を待つのが良策だが、若者は、傘があれば待つより、進む。

防備の為の軍事力も同じだ。どんなに武装しても、戦争が始まれば無傷では済まない。
軍備が役立つのは戦争をするまでだ。いざというときの心理的安心感と、狼藉者に対する警告に意味がある。戦争をするためではない。

ところが、軍備は傘のようなもので、あれば、使いたくなる。傘や長靴を買って貰った子供は、雨が待ち遠しくてたまらない。
年寄りは傘があってもよほどの用事がなければ出かけないが、若者は傘さえあれば、雨でも出かける。そして、土砂降りでずぶ濡れになる。
自称、発展途上国の若い中国は、次々と傘や長靴を買いそろえ、雨も降っていないのに、南シナ海で傘を差し、長靴でジャブジャブとやる。自分がずぶ濡れになるのは勝手だが、周りまで水浸しにされてはたまらない。

傘が無ければずぶ濡れにならなかったであろう日本のワカモノは、迷惑を考えて座席に座らないが、武器を持ったバカモノは周りの迷惑を考えない。

何はともあれ観音力
観音様のおかげで、ずぶ濡れを免れた壺坂参りだったが、経緯を思い返しながら、時刻表を、もう一度確認してみた。どこへ行くにも、ふらりと無計画に出かけるから、正確な時刻表など確認していなかった。

改めて行程を振り返ると、「壺阪寺前」に着いたとき、時間待ちをしていた「壺阪山駅行」のバスは、13:30であることが分かった。
寺の受付の人は、「次は、4:05(16:05)です」と教えてくれたが、その間に、14:35と、15:35がある。これは3月~11月の季節限定だが、運休期間の方が短く、今は運行中だ。
何で「14:05」しか言わなかったのかは、色々に考えられるのだが、「最終は14:05」だけが念頭にあったのだろう。日頃、自分が乗ることはないのかも知れない。

坂を登り切って、ようやく着いたばかりで、時刻表まで確かめに行く気力がなく、横着をして、人に頼ったことが、そもそもの間違いだった。
その上、嬉しそうに教えてくれた「近道」を使わないのも、申し訳ないような気がして、何も考えずに、「近道」に直行した。これもうかつだった。近道の入口の横にバス停があるのだから、自分の目で時刻表を再確認すべきだった。

「近道」を下りて、「壺阪寺口」で30分待って乗った件のバスは、15:36だったから、寺前のバス停の15:35には確実に乗れているし、もしかしたら、14:35にさえ、乗れていたかも知れない。
仮に、15:35だとして雨が降ったとしても、その前から時間待ちをするバスに乗っていられるから、濡れることはない。
そして雨の中、壺阪山駅に着けば、バス停は駅舎の真ん前にある。そこから、電車で橿原神宮に行き、京都行きに乗り換える場合、全く雨には濡れなかったことになる。

こんな、うかつな勝手をしても、ずぶ濡れにならなかったのは、やっぱり観音様のおかげだろうか???