魯生のパクパク

占いという もう一つの眼

土星去来

2014年10月30日 | 星の流れに

火星が射手座から山羊座に移った。9月中旬からの射手座40日間に起こったことが、年末からの射手座の運勢を垣間見せている。

御嶽山の噴火は、山羊座とサソリ座の問題だが、多くの犠牲者を出したのは、登山者であり、これは一つのスポーツ災害でもある。(スポーツは射手座)
この間に行われた仁川アジア大会も、スポーツ大会と言うより、トラブルの祭典だった。

一方で、不調だったミランの本田圭佑は、大活躍した。これは、双子座の本田にとって、射手座の火星が180゜の最強の位置に、天王星と、木星の加勢があったからだ。

射手座本人は、やはり驚かされることや頭にくることが多く、射手座カナダの議会で銃撃戦。一方、同じく射手座の小渕優子大臣は思いがけない内輪の不始末で泣かされ、かに座の松島みどり大臣は、ウチワで泣かされた。

中国を筆頭に、かに座は木星が去って失速中で、火星が山羊座に入り、さらに追い込まれ、やらなくて良いことをやる。

射手座の火星が見せた各出来事は、年末から3年間の土星(影響は11月中旬から)で本格化する。ただし、天秤座の時ほどひどいことにはならない。
道徳教育は、教育=射手座に、土星=古いものがやって来ることを意味し、これから3年、物議を醸すだろう。
マスコミやIT、ネットにも変動が起きる。良いことは悪くなり、悪いことは改革される。

土星の悪影響の例としては
この3年、土星がサソリ座中に起きたことで(まだ続いている)、朝鮮半島は言うまでもないが、日銀も黒田総裁も、やはり動きがとれなくなっている。
土星が入っている時には 、始めは成功しても、やがて無理が出てくる。

民間ロケットの失敗はロケットの名前が悪い。「アンタレス」はサソリ座だ。打ち上げの日も、山羊座に火星と月の同居する日であり、しかも、打ち上げ時間が2222GMT=8=山羊座。まるで、わざと狙ったかのような時刻だ。(山羊座とサソリ座の相互互換

 


引越案内

2014年10月28日 | 日記・エッセイ・コラム
ブログ人から追い立てを食らって、
ここに来て、初めての記事をあげてみました。
いろいろと勝手が違って、どうにも変な感じです。
これまで貼っていた世界時計も貼れなくなったので、気象協会の衛星写真に替えました。

年寄りには、引越は応えます
東京一郎・はるみ夫妻に、手伝ってもらいたいです

様子が分かったら、改めて模様替えするかもしれません。


ウナギ犬

2014年10月28日 | 占いばなし
エボラ騒動で、日本でも早速、空港検疫所で発熱患者が見つかり、
マスコミは大はしゃぎだ。
エボラは日本人より欧米人にインパクトがありそうな名前で、相当パニクっている。

確かに怖い病気であり、治療法も無い今、恐れられるのは無理もない。
患者の出たニューヨークでは、帰ってきた看護師の、「罪人の取り調べのように罵られた」と言う話からも、パニックぶりが伝わってくる。

しかし、盲動が一番怖い。慌てたところで何も解決しない。
この点、日本人は比較的パニクらない。
ただ、妙に冷静でお座なり対策なのと、パニクって対策を打ちまくるのと、どっちが良いかは、何とも言えない。

すっかり有名になった、エボラウイルスの写真だが、見た瞬間、「ウナギ犬だ!」と思った。

(ネットから勝手に借用させてもらいました)

その上、よくよく見ると、獅子座のサインが入っている。
これはまた、どういう偶然だろう???

ウナギ犬はあくまで印象だが(占いは印象)、ウナギは水瓶座、犬はサソリ座。ウナギ犬の頭のように見えるところに、獅子座のサイン。いずれも定着宮だ。

アフリカ発祥のこの騒ぎも、やはり、天王星現象だ。
センセーションの天王星が、牡羊座のアフリカにいる牡羊座時代の今だから、実情以上にパニックになる。

牡羊座時代に入って、世界的な話題になり、火星が牡羊座に凶角となる2013年暮れから現地で拡大。
木星が獅子座に入ると、WHOは「緊急事態」宣言をした。

エボラウイルスそのものは1976年に発見され、これも、土星が獅子座に入った時だった。しかも、天王星はサソリ座にいた。
つまり、病気そのものは定着宮に属し、今のこの騒ぎは、むしろ、牡羊座の天王星が演出している。
裏を返せば、大山鳴動の実態はネズミかもしれない。

本当に怖いのは
エボラ出血熱は、今の段階では単なるパニックだが、
天王星がサソリ座の時に発見されたということは、ペストなどと同類の、死を表すサソリ座と見て良いだろう。

ということは、これが最大の作用をもたらすのは、天王星が牡牛座の時だ。
つまり、2017~8年以降、牡牛座の地域だが、正直これが解らない。

基本的には、スイス、スエーデン、アイルランド、イラン等と言われているが、要は、牡羊座に近く裕福で美しい土地だ。牡羊座を独仏英からEUに広げれば、東欧や中東も考えられる。

天の摂理

2014年10月23日 | 占いばなし

占いで、頭が良い星というのはあるが、どうもあまり意味が無いように思う。
占いでも、一般でも、頭が良いという概念は、テーマを解決する能力のことだろう。学校では、問題に答える能力であり、社会では、生きていくための問題を解決する能力だ。

学校での能力は、必ず教師の想定内の答えであり、限られた問題しか無い。
しかし社会では、遭遇する想定外に答えることが、人より頭が良いことになる。
ところが、仮に正しい答えを出しても、他の誰もそれを理解せず、賛成しなかったとすれば、埋もれてしまうことになる。

コロンブスの卵は、結果が見えてから、みなが理解する。
しかし、集団行動の中では、卵の尻をつぶすことが許されないから、誰も結果を見ることがない。

科学的な研究のように、個人でも結果を出せることならまだしも、政治や経済など、人間の営みの判断となると、いかに知識、論理、推理に優れていても、他人に認めてもらえなければ発揮することができない。逆に、いかにボンクラでも、人受けする能力があれば、ほどほどに頭の良い人のような顔をして生きていくことができる。

結局のところ、賢い人を活用できるできないは、社会のレベルに比例するのであり、どんなに賢い人がいても、その社会に似合った人しか頭角を現さない。
これはスポーツチームのようなものから、企業、国家、ひいては人間社会全体に通じる。
だから人類は、賢いようで、結局は、愚かな歴史を繰り返す。

占いで、頭の良い星という場合。基本的には問題解決能力であり、運が良いとか、お金持ちになるとか、出世するとかとは関係ない。
逆に、運が良いのも頭が良いのとは関係ない。
しかし、運の良いのは、計り知ることのできない、その人の能力による。

勉強もできない、仕事もできない、怠け者で、スケベで病弱・・・そんな人が、スイスイと裕福に暮らしていけるのを見れば、誰でも「運が良いだけだ」と思うだろう。きっと、本人もそう思う。
しかし、これには人間世界の常識や価値観では、計ることのできない能力が働いている。
どんなに頭が良い優秀な人でも、「運悪く」悲惨な状況に追い込まれるのと、ちょうど逆の「ニーズ」に応えているからだ。

天網恢々疎にして漏らさず。人間は自然の摂理に逆らうことはできない。人間界で定めた価値観とは全く関係の無い原理が動いている。理解できない運の良さや悪さは、その原理にマッチしているかいないかであって、「あってはならない」運の良さは、天の摂理に応える「能力」によるものだ。


主客錯乱

2014年10月21日 | 日記・エッセイ・コラム

「ダーウインが来た」で、ヤマメとサクラマスの因果関係を話していた。
知ってはいても、両者の姿を比べると、あまりにも大きな違いに、改めて信じられないと思う。

幼少時代の生存競争に負けたグループが、やむなく川を下り海に出る。弱者を追い出して居残ったグループが小さなヤマメで、いじめられて故郷を追われ、海で大きくなって帰って来たのがサクラマスだ。

故郷を追われて帰ってきたと言えば、ユダヤ人のイスラエルだが、やはり、2000年の時を経て、強大な知力と財力を携えて帰ってきた。
海に出て大きくなって帰ってくるサクラマスは、10%に過ぎず、海での生き残りがいかに苦難に満ちているかを表している。そして、その苦難を生き抜いたからこそ、強大な体力を獲得できる。

日本人が日本で自然発生したと信じる人は別として、日本が渡来人によって席巻されたのは、現代の常識だ。
その渡来人の素性となると、また話がややこしくなるが、大方は大陸の戦乱から逃れてきた難民と考えるのが最もシンプルだ。実際、中国の辺境地域には、歴史的に多くの難民グループが存在している。

そして最後の難民グループこそは百済王朝の遺民であり、この時代に「日本」が生まれ、以来1500年、日本へのまとまった渡来人は途絶える。その後、唐や南蛮の知識を取り入れて発展した日本文明のベースは、外来文明に親和的な百済と言っても過言ではないだろう。

今もそうであるように、日本は決して美しいばかりの島ではない。息つく暇もないほどの天災列島だ。今日の日本文明と文化は、ここで鍛えられ育まれた。

ややこしい話
ヤマメとサクラマスの話が放送された19日、朝鮮日報に、また、「日本の中の韓民族史探訪」の記事が載っていた。
「日本の古代文明の中に刻まれた韓国文化の痕跡を訪ねる」教員の旅で、1987年以来、すでに34回目だそうだ。
今回は、それほど強調されていなかったが、これまでの記事のテーマは常に、
「日本にある見事な古代遺物はみな古代韓国のものだ」がテーマであり、直接間接に、日本に「教えてやった」か、「奪い取られた」物という視点だ。

百済遺跡と、日本の百済文物との関係は実にややこしい。
百済遺民が大挙日本に渡来しなかったのなら、「伝えた」と言うのは正しいかもしれない。しかし、百済の民は日本に移動したのだ。そして、日本の礎になった。

日本の文明文化を知ったとき、中国人のように、「古代中国は日本に生きている」と見るのは、中国人が自他をちゃんと区別できるからであり、それだけ自覚と分別があることを表している。

ところが、遙か古代、自分たちが追い出した民が、移住先で残し大切にしてきた物を、追われた民が残した遺物と同じだからといって、それは自分たちの物だという理屈は、まさに「みそくそ一緒」の、他者の冒涜であり、泥棒が持ち込んだ仏像を、元々自分の物だと主張する蒙昧感覚そのものだ。

四国の遍路道に、勝手に道標を貼ったことに腹を立てた人が、それを剥がして誹謗したからといって、自分の非を棚に上げて、誹謗だけに罪があるようなキャンペーンを張る。
この本末転倒の「ねじ込み」に、抵抗する前に反省するのが、仏国百済の末裔だ。

サクラマスが、苦労の末、立派になって帰ってくると、その産卵に紛れ込んで、ちびヤマメは精子をふりかける。
しかも、サクラマスはそのまま死んでしまうが、ヤマメはまた越冬して生き延びる。

花の命は短くて 苦しきことのみ多かりき


対角線上

2014年10月18日 | 占いばなし

韓国の野外公演で換気口が転落し、多くの犠牲者が出た。
何とも言葉を失うが、
占い的には基本的な現象だ。

先日も、御嶽山の地震と噴火との関係が、月が半周した対角線上であることを記したが、今回の転落事故も太陽の半周である半年後であることは重要だ。

今回の換気口転落事故は、セオル号沈没事故の裏に当たる。
太陽が天王星と合の時にセオル号事件(事故ではない)が起こり、今回の転落は180゜の衝の時に起こった。

全く別の現象のように見えるが、「若者の大量死」「船と音楽の海王星」「沈没と転落の天王星(水瓶座)」と、重要なポイントで一致している。
若者は牡羊座の火星であり、事故はハプニングの天王星が牡羊座で、セオル号の時には、その牡羊座の火星が天秤座にいて、今回は太陽が天秤座にいる。

セオル号以降も、韓国では様々な事故が起こっているが、若者と遊びに関わる事故として、今回の事故は対をなす。

ある出来事は、それに及ぼす惑星が、反対の位置に来るとき、対となるような出来事が起きる。
また、何事であれ、向かい合っている星座は表裏一体のパワーと現象を含んでいる。


幕間の間

2014年10月15日 | 日記・エッセイ・コラム

勧誘電話や迷惑メールにもイラ立つが、これはただ意思を堅く保ち放っておけばいい。しかし、DMにはうんざりする。
明らかな商売DMならまだしも、役所や健康保険、年金の通知はどうしようもない。一応、開けて確認しないわけにはいかないからだ。

どうしても受け取らなければならないカードのようなものなら解るが、役所の仕事に絡んで商売する業者の、ムリからの「おたより」冊子など、明らかに経費の無駄遣いだ。

このネット時代に、どれだけの人が郵便物での通知を必要としているのだろう。
こんな事に金を使うぐらいなら、徴収をもう少し安くしろと思い、送られてくるたびに、血圧が上がる。早く死んでもらうための陰謀かもしれない。

しかし、それにしても、これだけ送られてくるのに、誰も文句を言わないのだろうか。

商売だろうが公用だろうが、うかつにDMを溜めてしまうと、開けるだけでも大仕事になる。
かといって、自動開封機まで買うほどではないから、ペーパーカッターを差し込んでは、ピッピ、バリバリ、ザッ、バサーッ、と開いていくのだが、役所など多くが、分厚いクラフト用紙を使っていて、何枚も開けているうちに、意外に力をかけていることに気づく。

時には、切り始めに「う~ん」と力んでいることがある。
どうせ紙だろと、安易に引っ張ろうとすると、
「へっ、そうは問屋はおろしまへん・・・」
と、意外な抵抗をする。ミクロンの紙にも五分の魂だ。

「くそっ、思い知らせてやる!」
改めて、深く差し込み直し、角度を変えて、グイッ、バサッ
「どうだ、思い知ったか、世話を焼かせやがって、フーッ」
と、気がつくと、中身の書類まで切っていた。

時代の幕間
これだけ迷惑なDMだが、これが全く無くなると、郵便や配送関係が困る。印刷業者が困る。
こういうことの一つ一つにも、産業転換の波が押し寄せているが、いきなり廃止というわけにも行かないのだろう。
それは解るが、役所も御用商人も、これが当たり前と思って続けてもらっては困る。早く次のことを始めてほしい。

時代の大転換は、こうした小さな波の一つ一つを飲み込みながら、いつの間にかすっかり様変わりを果たしている。
産業革命パラダイムの250年の中のシステム変化と、その前の、地産地消の手工業や農業の時代の変化とは、舞台が全く違う。幕が違う。つまりはパラダイムが全く異なるのだが、われわれは今まさに、その異なる、次なるパラダイムに移行しようとする景色の中にいる。


香港無情

2014年10月15日 | 日記・エッセイ・コラム

テレサ・テンの歌の中で、何故か「香港」には泣かされる。
作詞の荒木とよひさと、作曲の三木たかしのコンビがうまいのだろうが、恐らくは、テレサ・テンの心情を知る二人が、思いを込め、テレサ・テン自身も本気で歌ったからではなかろうか。好いた惚れたの、うそ歌には無い、せまるものがある。

この歌のリリースは、1989年3月だが、同6月には天安門事件が起こっている。

その後、テレサ・テンは香港を離れた。

多くの香港人、そしてテレサ・テンが恐れたように、中国共産党は、香港を中国化しようとしている。
学生や市民が抵抗しても、聞く耳を持つはずもない。

天安門事件の時と違い、膝元の北京ではないことに加え、あの事件で共産党は学習した。
あの時も、実際はそうだったのだが、中国人の熱しやすく冷めやすいタチからして、放っておけば、いずれ沈下する。

学生の感情だけで計画性の無い行動は、効果的な政府転覆策を持たず、やがて市民から離反し、内部から熱が冷める。実は、天安門も、時をおいて懐柔策をとれば、あんな虐殺までする必要は無かった。

おそらく、そのことは共産党も学習しただろう。中国にとっての対価は小さくなかった。
さらに今回は、世界に公言した一国二制度の香港だ。単純な内政問題では済まされない。

ただ、道理で考えれば明らかに損することでも、カッとなると何をするか解らないのが、大陸気質だ。
東シナ海、南シナ海に限らず、中ソ戦、中印戦、海南島、そして朝鮮戦争の前歴もある。

香港で悲劇が起こらないことを願っているが、学生中心の民主勢力にも、北京ほどの過激性は無さそうだし、世界世論を巻き込むほどの計画性も粘りも無さそうだ。
市民も商売第一で、結局のところ、共産主義だろうが民主主義だろうが、「飯くったか」が合い言葉の人々だ。

香港の学生が本気で共産化を拒否したいなら、中国周辺内外の反政府勢力や、国際的反権力サイバー集団と連携し、国際社会に訴え、中国内部の反権力グループを強化するしかない。
つまり、本気で中国共産党を打倒する意思がない限り、結局は、蟷螂の鎌であり、蛇に睨まれたカエルでしかない。
実際、天安門で脱出追放されたグループには、何もできていない。

テレサ・テンの死後、来年で20年になる。


時代胎動

2014年10月13日 | 日記・エッセイ・コラム

アノニマスが、民主主義を弾圧する中国と香港政府を攻撃すると宣言した。

一国だけ暴露したスノーデンは売名臭いが、匿名で世界中の国家を対象にする、ウィキリークスや、アノニマスはある程度、評価できる。
ある程度というのは、アノニマスのように、権力に対して自分たちの力を誇示するのも権力思考であり、国家悪と変わりないからだ。

しかし、明治維新にも、天狗党や勤王党のように、様々な試行錯誤があった。大転換時代の先駆けとしては、多少の矛盾はやむを得ないのかもしれない。

国家時代の終焉
アメリカという腕白大将にも困ったものだが、大国になりたがる中国共産党という古代ゾンビには可愛げが無い。
ただただ、不気味なだけだ。
国家の繁栄を軍事力だと信じていることがバカバカしい。

パクリだろうが何だろうが、商売上手なんだから、ビジネスで充分、世界を征服できるはずだ。ところが、儲かったとたん、軍事国家の性にはまってしまった。愚かなことだ。
おそらくこれで、中共は崩壊するだろう。それは勝手だが、周りまで巻き込まないでほしいものだ。

古代ゾンビの中共が、新大陸のアメリカをパクろうと、新大国関係などと、成金国家の自己顕示をしている時、世界はすでに、国家時代を陳腐化させる、グローバル化が進んでいる。

中共が、自分と同じ古代帝国と思い込んでいるアメリカは、民主主義国家だ。人が変われば国も変わる。
中共のように、産業を国家が管理しているのではない。
人と企業の意思に合わせて、国家の主張を変えていく。産業がグローバル化すれば、その代弁者となり、国家自体もグローバル化し、場合によっては、国家解散の可能性すら秘めている。

人により営まれる国家は解散できるが、国家権力により民衆を統治しようとする国家は、やがて崩壊するしかない。

グローバル企業やマネーが、近代国家をあざ笑うように世界中を走り回り、ネットパワーが、国家に挑戦しようとしている時に、中共はそれを自分の武器にしようとしている。
ネットを用いて民衆を統治し、他国の知財を盗み、管理機構を破壊しようとする。

国家権力が、自由のツールを支配しようとする。
そんな都合の良い謀略に、自由パワーが甘んずるはずがない。
アノニマスが正しいか正しくないかは別として、中共が台頭したと有頂天になっているとき、世界は既に、大きく胎動しているのだ。


荒行道場

2014年10月12日 | 日記・エッセイ・コラム

また台風だ。アメリカのニュースで取り上げるほどの、スーパー台風19号の名前は、ヴォンフォン=スズメバチだそうだ。
黄蜂の広東語らしいが、たまたま、音がいかにもスズメバチが飛び回る音のようで、怖そうだ。しかも、台風の風の音にも似ている。今度は直撃するらしい。

日本は山紫水明、四季折々の花鳥風月に恵まれ、その上、地震や台風も重要な主役で、時々、火山が噴火する。一時たりとも気が抜けるときが無い。
どう考えても、これだけ忙しい国は他に無いだろう。

台風も地震も、この狭い国土を狙い澄ましたようにやって来る。いかにも大陸に向かうように見せて、突然向きを変え、日本列島を総なめにする。

日本人はとんでもないところに暮らしている。かわいそうな民族だが、これが日本独特の文化を培った。
この環境に耐え、忍び、工夫を凝らし、しまいにはそれを文化にまで鍛え上げた日本人は、奇抜な発想と工夫の能力を持ち、粘り強く、しかも、あきらめがいい。

何でもかんでも世界一、のような、ナイーブなことを言う日本人はいなくなったが、日本のように複雑な感性を持つ民族は、そうはいないと思っても良いのではなかろうか。

今度の台風もまた、日本を苦しめるかもしれないが、月に群雲、花に風。
人も文化も鍛えられ、苦しむたびに大きくなる。
日本が、逆境に強い理由だ。
荒行がまたやってきた


即物知識

2014年10月11日 | 日記・エッセイ・コラム

日本からも、イスラム国に参戦しようとする若者が出て、困惑が広がっている。
動機について、いろいろな人が解説しているが、どうも納得のいく話がない。よほど想定外だったのだろう。

貧困でもなければ、ヒロイズムでもない。社会に対する不平分子でもない。もちろんイスラム教に惹かれたわけでもない。

だが、この現象は、それほど難しい問題ではないと思う。
一言で言えば、サイバー時代の自己喪失だ。

もう何十年も前から、世の中はサイバーやファンタジーに、どっぷり染まっていた。そしてサイバーやアニメの世界のテーマ自体が、もっぱら虚構がメインになっていた。
「自分は本当の自分ではない」したがって、すべてが無意味なのだ。

この解りやすい不可解の世界に、先進国の若者は暮らしている。途上国や戦乱の国で、「あなたの苦痛は錯覚だ」と言っても、誰も納得しない。
色即是空なども、本当の苦境から生まれたのではない。苦境の時代にあっても、むしろ、ゆとりのある人や階層から生まれた。

飢えや苦痛から隔離され、観念の遊びの世界で生きていると、「自分は本当は空を飛べる」「ウンコをする自分は自分じゃない」「見える世界は錯覚であり、みなウソだ」・・・
大なり小なり、身体感覚が希薄になり、そんな思いが現実感を増してくる。

サイバー世界の無かった古代さえ、ゆとりがある人間はそう考えた。満たされた先進国で、サイバーに浸って育てば、自分の実感、存在感が持てなくなるのは当然のことだ。

イスラム国にいこうとした大学生が、
「どうせフィクションの中で暮らしているのだから、イスラム国にいけばまた別のフィクションの中にいくだけ」
のようなことを言っていたらしい。

ある意味では正解だが、彼の言うフィクションはどうも、アニメレベルの、具象的なフィクションであって、極論すれば、ドラえもんの、どこでもドアの向こうの世界のような現実感だ。

この世は欺瞞が支配していると観念的に理解するのではなく、アバターや、トム・クルーズが好んで演ずるようなSF(名前が出てこない)の設定を前提に考えている。物語を、比喩ではなく現実として考えているのだ。

例えば、「あいつの頭には蜘蛛の巣が張っている」と聞いたとき、本当に蜘蛛の巣が張っていると思い込み、レントゲン写真を見て、「ちゃんと脳があるじゃないか」と不思議がるようなものだ。
「あなたは本当の姿で生きていない」と言われると、実は自分は人間ではなかったのかと思ってしまう。

例えは、極端だが、昔のインテリバカにはそういう人がいた。論語読みの論語知らずだが、先進国の教養と情報の嵐の中では、社会全体がインテリになり、みな、賢いつもりだから、かえって、応用理解ができない人が増えている。

オウムに限らず、日本の政治、経済、外交まで、信じられないほど即物的近視眼で幼児化している。

イスラム国に行こうとした大学生を、理解できないのは、社会全体が、彼と同じ世界に生きているからで、知識として「あってはならない」異常だとは気づくが、当たり前になった精神の異常には、気づけなくなっているからだろう。


皆既月食

2014年10月09日 | 日記・エッセイ・コラム

晴天に、久々の皆既月食。あまり良い天気なので、河原に出てみたら、酒を飲みながら月見をしてるグループや、バイクにまたがって待っている人やら、みな、秋のイベントを楽しんでいた。

地球の影が完全に満月を覆うまで待つことにして、空を見ていると、飛び交う飛行機のなんと多いことか。
赤や青の光を点滅させながら、高く小さく、低く大きく、あらゆる方向から現れては消えていく。

そうしていても月はどんどん姿を変えていく。どこかで見たような気がして、思い出した。受精の顕微鏡映像だ。
まるで、飛行機の精子が、月の卵子に飛び込んで受精変化を起こしているようだ。

満月や飛行機とび込む皆既食

あれだけ雲一つ無い晴天なのに、途中で小さな雲が現れて食の進む月を隠してしまった。ほんとにピンポイントで重なったのが不思議で、これもまた自然の妙味かとおもしろく思った。

いかに天気が良くても、月だけぽかんと見ていては色気がない。ちょいと出てきた雲の、間の良さが、また格別の趣向となった。

翌日、学生相手の飲食店の大将が、
「昨夜、月食見ましたか。あの横に青い光がチカチカしていましたやろ、あれ、絶対、怪しい。UFOでっせ。20秒ぐらいで消えましたけどな」
内心、『飛行機だけど・・・』と、思ったが。
「ほーう」としか、言えなかった。

学生と、その話で盛り上がったのだろうか。かなり確信していた。

もろびとの心にかかる月あかり 影か光かUFOか雲か


賞象疑問

2014年10月08日 | 日記・エッセイ・コラム

生え抜きの日本人の技術がノーベル賞を獲得した。今回は殊に喜ばしい。しかし、これで儲けたのは中韓だ。

あらゆる賞と言うものに、あまり価値を感じないから、ノーベル賞にも、それほどの感動は無いが、現代世界を意味づけるものとしては、ノーベル賞が、やはり最高のイベントだろう。

賞をもらわなくても人類に貢献したものは数多あるし、日本の新幹線技術や、トンネル技術だって、世界の技術と文化経済に大きな貢献をしたと思う。

賞にあまり価値を感じないのは、形ある物を崇めてはならないという教えがありながら、仏像やマリア像を崇めることに複雑な思いがあることと同じだ。
人間は、どうしても物理的束縛から逃れられず、象形を求めてしまう。

LEDを見つめるだけで、その偉大さが理解できない人のためには、やはり、こうした賞が必要なのかもしれないが、身の回りのあらゆるものに、ノーベル賞以上の価値があることに気づくことが、仏の「教え」なのだ。
賞や象に注目すると、その背景にある偉大な存在が見えなくなる。

偶像崇拝
しかし、一方でまた、象からしか理解できない人には、偉大な背景に思いをはせるために、必要なものでもある。
仏像に心惹かれ、教えを求め始める人もいる。
日本において仏道が深く根を張ったことと、日本の「ものづくり」精神とは、無縁のものではないのだろう。

仏教発祥のインドや、それを伝えた大陸には、仏道は日本ほど浸透しなかった。それが結果なのか原因なのか、物しか信じられない人々は、金や軍事力を信じ、それを崇拝する。そのよって来たるところには無頓着だ。

日本の軍国主義が精神論だったのに対し、中国の軍国主義は極めて即物的だ。儲けたら真っ先に軍事につぎ込み、商売の駆け引きとして行使する。

この大陸の即物じいさんに、日本の花咲かじいさんは何でも喜んでお貸しする。
新幹線技術を提供したら、はじめから自分のものだと言いながら、家中に張り巡らし、町に売りに行く。
曰く「花咲じじいの新幹線は時代遅れじゃ」

一方で、国中に張り巡らしている新幹線は、シベリア鉄道やアウトバーンと同じで、ただの経済効果にとどまらず、
軍事政権にとっては、軍事目的であることに、お人好しの花咲かじいさんは気づかない。


四方山話

2014年10月06日 | 京都&ケンミン文化

「よもやま話」と言えば、あれこれ世間話をすることだが、四方の山の話という意味で、あちこちの話と思っていたら、「四方八方」の「よもやも」の読みが訛ったものだとの説があるそうだ。意味においては同じだから、山でも良かったのだろう。

落語の月亭八方の由来は知らないが、京都周辺には「四方」の姓が少なくない。
初めて会った人は、「しかたさん」と呼ばれて、「よも」ですと名乗っていた。そのやりとりを聞いて、どちらも初めて聞く名前だったので、横から、思わず「どこの出身ですか?」と聞くと、「代々、京都です」と反ってきた。

姓氏のルーツ辞典によると、「四方」姓は丹波方面で、佐々木源氏の流れなのだそうだ。最初に「しかたさん」と呼ばれたように、一般には「しかた」さんが多いような気がする。しかし、「よもやま」と言う言葉があるから、「よも」の方が先だったのかもしれない。

結婚して「しかた」さんになった知人の女性は、これも希少な姓で、もとは桓武平氏に由来する姓らしい。ご当人たちは知ってか知らずか、意外な源平合戦を続けている。

名の由来
人の姓や地名は、呼び方の音と漢字は、先ず別物と考えた方が良い。
ことに地名は、元の意味の言葉に当て字をし、さらにそれを、縁起の良い漢字に換えたりしているから、漢字の意味で、その土地の意味を考えてはいけない。
場合によっては、さらに、その漢字を読み替えて全く違う意味になっている場合さえある。

また、同じ意味でも、全然違う背景のこともある。
大阪の泉州は「いずみ」の多い土地から、泉になり、縁起の良い字をつけて和泉になった。
鹿児島の出水(いずみ)市も、やはり泉が多いから、そう呼ばれたと言われる。

同じ泉が湧きやすい環境でも、大阪の泉が海だったのに対し、鹿児島の出水は扇状地だった。
そのせいか、出水市では度々、土砂災害が起こっている。
一方、泉州では度々、高潮被害が起こっている。
いずれにせよ、水害に見舞われやすいと、名は体を表している。

同じ出水と書いて、京都には「でみず」と呼ぶ通りがある。
烏丸通りとの交差点付近の御所のあたりで水が湧き、浸水したことから名前がついたと言われる。
京都盆地の地下には巨大な水源があり、文字通り文化の源泉となっているが、これも一つの、文字通りということか。


仏心立国

2014年10月05日 | 日記・エッセイ・コラム

日本政府は、珍しく果敢に、世界の反捕鯨の大合唱に抗って「捕鯨文化」を残そうとしている。
反捕鯨の主張は、矛盾だらけの感情論で、全く納得いかないが、日本の方針も理解できない。

まず、政治経済面で、何の得にもならない。
日本は、いつも小さな事にこだわって、大局的な損得を見失う。良く言えば日本人の生真面目さのせいだろう。

外圧を逆手にとれば、大利を得られるのに、自分の生き方や方法にこだわり、損ばかりしている。
状況を見ずに、自分の論理で考える一人っ子だ。

スポーツも、ルールを変えるより、新ルールに対応することばかり考える。もっとも、全く反対に、状況ばかり見て、ルールの隙を突き、審判を買収する国もあるから、それよりはマシなのかもしれない。

食肉文化
反捕鯨の大合唱は、肉食を日本に教えた国が中心だ。また、彼らは幕末明治に来日したとき、肉を食わせろと要求しながら、食べる目的では捕鯨をしていなかった。
牧畜文化の人間にとっては、食肉は穀物同様に「作る」ものだった。それが今も続いている。

だから、反捕鯨は、必然的に畜産業の言い分と重なる。
畜産業界が仕組まなくても、欧米人の自然な感覚として、「食べる目的で作られていない生き物」を食べるのは、神に背くという道理が成り立つ。

つまり、食べる目的で作る肉なら、食べても良いのだ。
だから、欧米人はいまだに、畜産とを、遙か先祖からの伝統として守り続け、主要産業にしている。

これは、その伝統を持たない日本人には一大チャンスだ。鯨も牛も豚も、同じ肉じゃないかと考える日本人は、鯨はダメ、豚はダメと、宗教的な縛りにとらわれた人々と比べれば、バイオ利用の食肉産業に移行しやすい。
しかも、仏教の日本人には、に大きな抵抗感がある。

生き物を殺すこと自体に抵抗感がある日本人なら、「しない肉」には好感が持てる。ここは一つ、政府も畜産業界も一丸となって、集中的に「バイオ肉」の産業化に取り組むべきではないか。

食肉工業と知術立国
どういうしくみで実現できるのか細かいことは解らないが、一番の課題は栄養資材だろう。家畜が自前で消化していたことを、外的に製造しなければならない。
結局は、自動車を作るのと同じで、原料を輸入して「製造」しなければならないことになる。

しかし、もし、人工食肉の産業化に成功して、輸出までするようになれば、結局は現地工場での、現地生産になるだろう。これを、欧米の畜産業界が気づく前に、スピーディにやれば、今、日本に肉を売りつけているような国に工場を建て、牛屋に替わり食肉を牛耳ることができる。

円安誘導してみても、輸出モデルが成り立たなくなっていることが、ようやく、日本人にも見えてきた。日本の立て直しは、工業輸出ではなく、産業体質の転換しか無い。
集約生産なら、日本でもうけなくても良いのだ。食肉にしても、資源のある現地工場で作れば良い。

なおかつ食料は完全自給自足で、日本は金融や観光、知術産業に徹し、コンパクトで濃い国に生まれ変わるべきで、捕鯨など、無益な抵抗は止めてはどうだろう。

「はいはい、可愛いクジラ大好きです」と、言いながら、畜産国が得意になっているうちに、食肉産業に傾注すべきだ。

食肉工場」、「何様?」