魯生のパクパク

占いという もう一つの眼

始まった

2010年06月30日 | 日記・エッセイ・コラム

No.946

また始まった
菅総理は、森総理、麻生総理と同じ、「自動車人間」のエンジンだから、言葉尻を心配していたが、(導く人
案の定、また、マスコミの揚げ足取りが始まった。

))))
「エマージング・カントリー」を「エマージェンシー・カンパニー」(緊急の会社)
「国連安全保障理事会」を「国連常任理事会」
「G8」を「G7」
メドベージェフ大統領を「ベドメージェフ」、
李明博(イ・ミョンバク)大統領を「イ・ミョンビャク」

・・・と、言い間違えたと、得意になって報じている。

菅総理は未知数だから、今後、何をするかは解らない。
しかし、
森総理、麻生総理の時に、戦艦大和に襲いかかる米軍機のように(ハエとは言わないが)、執拗に揚げ足取りをして、動きを封じ込めて撃沈したマスコミが、またも、同じパターンの攻撃を仕掛け始めた。

こういう表面的な報道に、反応する国民も国民で、マスコミになめられていることにも気づかず、一緒になってバカにし、非難し始める。

カエルの望む王様は、美しいコウノトリだ
見た目や言葉が美しければ、信頼できると思っていると、みな食べられてしまう。
アナウンサーで俳優上がりのレーガンは、見た目も言葉も美しく、最も人気ある大統領だったが、実は、双子の赤字の産みの親だった。

いったい日本のマスコミは何がしたいのだろう。
政策批判や不正疑惑なら解るが、ひたすら言葉尻の揚げ足取りをして、自国の顔を貶めることが、正義の味方と勘違いしている。

日本の代表の顔が定まらないことに、世界中が困っている。
もちろん、日本にとっても何の得にもならない。
いや、もしかしたら、神様がカエルに与えた最初の王様が、丸太ん棒だったことを考えれば、代表の顔が無いことは、賢明なことなのかも知れない。

ともあれ、森、麻生、菅・・・と、体裁を気にしないエンジンは、揚げ足を取りやすいかも知れないが、やることはやる。
党利党略、主義主張を越えて、温かい目で見守りながら、良いアドバイスをすれば、現実主義で、いくらでも方向転換をして仕事をする。

問題は、見た目の悪さに、国民が食わず嫌いで、食べなくなることだが、
横から、マスコミが、「わぁ~、バッチイ」と、焚き付けるから、ますます食べ手がいなくなり、また、新しいメニューの話になってしまう。
もう、日本には次の皿を待つゆとりはないはずだ。


風雲サッカー

2010年06月29日 | 日記・エッセイ・コラム

No.945

ドイツ-イングランド戦で、また、明らかな誤審が起こった。
スポーツに誤審はつきものだが、サッカーほど誤審が話題になるスポーツも少ない。

ワールドカップ、アメリカ大会の時、アメリカの野球評論家だったと思うが、「面白くないスポーツだ」と言っていた。
「なかなか点が入らない上、卑怯で女々しいスポーツだ」
サッカー不毛の地と言われた、アメリカならではの見方だが、
一面では、的を射ている。

サッカーは、リアルタイムで動く。
野球のように、得点権の攻守が替わるスポーツは、観て楽しむ様式美がある。源氏に「扇を射てみよ」と言った、平氏の発想に通じる。

一方、格闘技やサッカーのように、時差のないガチンコ勝負は、原始的で、観る方も興奮するが、ルールがなければ、終いには殺し合いになる。
ルールを守らせるのが審判だが、横で座って見ているわけではない。
選手と一緒に走り回る、戦場同行記者と同じで、自分も必死だ。

当然、見落としや感情が入る。裏金の噂も後を絶たない。
審判次第で、PKなど、勝敗を決定づけるから、
いかに、審判を味方にして、有利な判定をもらうかも、戦法になる。

ファールをもらうために、オーバーなアクションで痛がったり、相手より早くひっくり返ったりする。
サッカーには、なりふり構わない、実戦の汚さがある。
本当の戦場なら、死んだふりをして、突然襲いかかったりするから、死体でも突き刺してまわる。命がけだから何でもありだ。

野球のように、一人一人の見せ場があるスポーツからすれば、痛いふりなど、女々しい態度かも知れないが、サッカーは戦場だ。

源平合戦のような、美しいスポーツも良いが、むちゃな喧嘩も、また、スポーツ観戦のおもしろさだ。アメリカの観客は野球の乱闘を密かに期待している。

サッカーはシンプルだけに、国の個性が、戦い方にハッキリ現れる。
だから、戦争シミュレーションとして、そのぶつかり合いが面白い。
審判によって、試合の行方が変わるのも、戦場に突如、舞い起こる風雲嵐だ。想定外の事態が勝敗を左右する。

戦争は正しい者が勝つとは限らない。強い者が勝つとも限らない。
科学的審判が見当されているし、やがてそうなるのだろうが、
不合理だからこそ、「ザ、サッカー」なのかも知れない。

負けても、「本当は勝っていたんだ」と言い訳けをする人にも、嬉しいシステムだ。
サッカーは単純だから、奥が深くて面白い。


天声物語

2010年06月28日 | 日記・エッセイ・コラム

No.944

占い的認識方法は、「一を聞いて十を知る」のではなく「一を聞いてXを知る」とでも言おうか、兆しから実態を知ることだ。

だから、説明をしようとしてはいけないし、説明のつくものはむしろ疑って掛かる。
兆しから実態に到る説明が付くぐらいなら、もはや、それは誰にでも目に見えることであり、考える(占う)必要のないものだ。

占い的な見方をしていると、会ったことも見たこともないものが、どんなものか直観的に分かる・・・と言うより、解ったと思ってしまうと言うべきだろう。そういう習性が身についてしまう。

別に占いでなくても、様々な経験をしてきた人には、自然に身についている能力だ。
しかし、同じように多くの体験をしながら、まったく何も身につかない人もいる。経験から学ぶ人と、学ばない人と言われる所以だ。
占いは、こういう経験則を、専門的に体得する術と言えるだろう。

有名人が有能とは限らないが、初めから何か普通ではない能力を持っている。だから、普通ではない人=有名人になる。
当然、とんでもない犯罪を平気でする人や、普通人から考えれば、恥知らずが多いが、それ自体が、普通ではない能力の片鱗だったりするから、結構、博打感がいい人もいる。

有名人ではなくても、犯罪者にも特殊能力がある人がいる。
以前も話した、使い込みをして宝くじが2度も当たったのに、それでも足りなかった人とか、犯罪者ではないが、何度も宝くじが当たるのを妬っかまれて、腹を立てて目の前で燃やした人など、とにかく、普通ではない人だ。

占いをやっていると、普通の人でも、普通ではなくなってくる。
というか、初めから普通ではないから、占いに凝るのかも知れない。

占いは昔から、九流術の一つ(陰陽)で、普通の人がすることではなかった。
今では、九流術は科学的方法論による、学術として社会システムに組み込まれているが、非論理そのものの占いや呪術は、そこからはじき出されて、とり残された異端となっている。

製品は語る
今日、メチャクチャ安い中国製のブラインドを買ったら、予想通り、取り付け具以外は全てプラスチックだった。
確かにこれで充分役に立つ。しかし、日本人にはできない発想だ。

日本人なら、品質にこだわり、細部にこだわり、完璧な物を作ろうとする。だから、手早く格好だけ付けた商品など売り出せない。
しかし、実用が目的なら、日本製の半値以下で売り出せるのだ。

どちらが良いかの問題ではない。中韓のこんな発想や生き方を、バカにしている内に、どんどん市場を奪われているのも事実だ。
中国製品を見れば、彼らの哲学が解る。


少年の心

2010年06月27日 | 日記・エッセイ・コラム

No.943

昔、あんなことを言っていたのに、今はこんなことを言っている。という、マスコミ得意の非難パターンがある。
去年言ったことと、今年言ったことが違う人は、確かに信頼できない。
しかし、人間は成長する。

20年前に言ったことと、今言うことが違うからと言って、非難することはできないと思う。
20年前に言ったことを非難するマインドこそ、失敗を許さない日本社会の閉塞性であり、それが、あらゆる成長の可能性を摘んでいる。

大学受験で一生が決まる社会の、問題が指摘されているが、未だに、官僚は死なず、お笑いまで高学歴がはびこり、学歴を競うクイズ番組が喜ばれている。

人の能力は、人それぞれの適齢期がある。
10代に勉強もせず不良と言われた人が、突如、目覚めて勉強を始め、30代で難関資格を突破したり、一流大学を卒業しても、それが人生最大の功績で、後は、何もできないボンクラで終わる人もいる。

受験で発揮した事務処理能力だけで、組織のシステムに食い込むと、後は保身だけで、トコトン特権をしゃぶり尽くして、天下りなど当然と考えている。

一方、受験能力と実戦能力は、真反対ぐらい違う能力だが、実戦能力は非常時しか試す時がない。テストなどできない能力だ。

ナポレオンが劣等生だったことや、大石内蔵助が昼行灯と言われたことなど、非常時に強い劣等生の例は、枚挙にいとまがない。
しかし、日本のシステムは、大器晩成や眠れる獅子を若葉の時に徹底的に潰してしまう。だから、大物がいなくなった。
エジソンやアインシュタインの開花時期は、他の子供とはズレていた。

受験能力だけではない。人生観も価値観も思想も、それぞれ個人の、体験や努力や学習によって日々成長していくものだ。
真剣に生きている人ほど、考え方は変わり、発言も変わってくる。
若い時に過激な人ほど、歳とともに思想が変わりやすい、それだけ真剣に考えて来たと言うことだろう。

若い時に左翼にならないのも、年取って右翼にならないのもバカだ・・・と、女性作家が言って、どちらからも非難されていた。

今は、右翼左翼の時代ではないが、若い頃の考え方を大きく変えた年寄りは多いだろうし、逆に、時代環境の変化にもかかわらず、まったく変えていないとすれば、何も考えなかった人と言えるだろう。

思想や価値観が変わる人を非難すべきではないし、変わった自分を恥じるべきでもないと思う。あくまで、進歩であり、成長なのだ。

もちろん、心は少年の日のままであって欲しいものだが


ゆく河の

2010年06月26日 | 日記・エッセイ・コラム

No.942

自動車文化の拡張期に、ガソリンスタンド、ドライブイン、モーテル・・・等の関連ビジネスが成長し、日本の風景を塗り替えた。

ところが、近頃は、これらの建物は郊外で廃墟となっている。
たまに、昔通った道路を走っていると。廃墟がそのまま残って、撤去もされず、凄惨な姿をさらしている。
往時の賑わいを思い起こすと供に、この景色を初めて見る若者には、どう映るのだろうと、興味をそそられる。

最近は、「道の駅」や、郊外のショッピングモールが、往時のニーズを吸収したこともあるが、もともと、張りぼて小屋のような建物で、美味くもないメニューでフンだくっていた、雲助商売であった。

本当にリーゾナブルで美味しい物を提供していたのなら、例え幹線道路が移っても、少なくとも、周辺の人はわざわざそこに食べに行ったはずだ。

こうした、雲助根性は、客に選択肢のない高速道路のサービスエリアではさらに酷く、学校給食より劣るような物を、平気で高額メニューで出していた。(学校給食が断然美味しい)

この背景は、利権がらみの特権業者だったことが大きいが、さすがに悪事は続かず、最近はサービスエリアの合理経営が始まり、商品サービスの向上で、道路利用客以外の顧客も利用するようになった。

時代というものは恐ろしくもあり、滑稽でもある
流行りの商売でぶいぶい言わせた店も人も、時が過ぎれば、跡形もなく消えてしまう。借入資金の返済はうまくいったのだろうか。

上手く生き延びた会社の名前には、元の姿をとどめるものがある。
「00ミシン」「××無線」「△△電気」・・・など、今の商売とのつながりが不可解な会社もある。それでも続いていることは立派だ。

一世を風靡した「ポケベル」は、昔ギャグとして懐かしい。
農業でも、農地解放、農協王国、二ちゃん農業、農業企業・・・と時代は変わっていく。

どんな商売であれ、流行り商売ほど危険なものはない。
商売を始める時は、30年ぐらい先を見越してみる必要がある。
企業も、隆盛の企業が20年先にどんな姿をしているか、わかったものではない。

学生の就職希望は常に、目立つ企業だそうだが、一流企業に就職を望むこと自体が、先の読めない無能を物語っているのかも知れない。
起業しようとか、中小企業を自分の手で大きくしてやろう、という学生が少ないことが、社会の老化を表している。


桶屋儲け

2010年06月25日 | 日記・エッセイ・コラム

No.941

「風が吹けば桶屋が儲かる」という話は誰でも知っているが、笑い話だと思われているせいか、現実問題として考える人は少ない。
世の中は、これよりもっと単純な理屈さえ通らない。

バブル崩壊の不良債権問題の時、銀行への資金注入に、国中がいっせいに反対した。
「われわれの税金を、放漫経営の銀行になんか出せるか」と言って、もめている内に、どんどん悪化して、手遅れになった。
その放漫経営によるバブルで、いい思いをしていたのは国民であり、銀行が窮地に陥っていた時に、バブル期の利ざやを貯め込んでいたのも国民だ。(貯め込めない人でも、好景気で仕事はあった)
そのあげく、失われた20年で、結局、預金を絞り出すことになった。

個人商店の、父ちゃんと母ちゃん.。父ちゃんが祭りの儲けを狙って大量仕入れをしようとすると、母ちゃんが、「生活に追われているのにそんな金は出せない」と怒鳴りつける。父ちゃんがビビって、何にもできないでいる内に、大量仕入れした隣の店が大儲けして、祭りは終わった。
今日も、母ちゃんは「うちは何で金がないんだ、何とかしろ」と怒鳴っている。

企業所得税の減税をするより、給料を上げるべきだ。と言う理屈は、目先はその通りだ。
しかし、企業が儲かれば雇用は増えるし、給料も上がる。今時の企業は階級闘争時代の企業ではない。まして日本の経営者は労使一体意識が徹底している。(外人のトップの給料と比較すれば歴然)

高速道路無料化は無駄使いだという理屈も、一見その通りだ。
しかし、渋滞緩和に加えて、流通のコストダウンによる経済効果を考えれば、間接的に、社会全体に何倍にもなって帰ってくる。

仮に、経済後進地域を特区にして、企業の税金を免除すれば、企業が続々移転し、莫大な雇用と経済流通が進み、個人所得や消費税、地価上昇からの税収が増えるだろう。

こういう、間接的経済効果については、誰も語ろうとしないし、仮に語っても、自分の財布に金が入らない限り、誰も耳を貸さない。

それどころか、逆に、目先の金さえ入れば、どういう仕組の金かより、何でも良いから現金を得ようとして、マルチ商法に引っかかる。
ギャンブルには、惜しまず金を出す人でも、税金の話になると、俄然、真顔になる。とにかく取られたくない。
だから、胴元のパチンコ屋の脱税も絶えない。

税金問題は、桶屋になって考えなければならない問題だ。


古代エゴ

2010年06月24日 | 日記・エッセイ・コラム

No.940

トヨタやホンダ、その他部品会社の中国工場で、ストが相次ぎ、製造が中断した。

日本の会社に言わせると、特に搾取していたわけではない。むしろ中国国内では良い方だったそうだ。しかし、日本国内から来ているホンダ幹部社員との格差が50倍もあり、その不満でストをしたら、日本の会社が妥協した。その結果、ストは連鎖反応的にヒートアップした。
中国経済の底上げにともなう現象だ。

この件で、欧米の調査会社は、欧米の企業とくらべ、日本企業の賃金は半分ぐらいだと、レポートしている。
ソニーのストリンガー会長や、日産のゴーン社長の8億以上の年俸の話と合わせて、色々と、考えさせられる。

何が起こっているのか
まず、階級が厳然と定着している、欧州から始まった資本主義の搾取と、共産主義を最も成功させた国と言われる、日本の資本主義との根本的な違いがある。

階級意識の上に成り立つ欧州の合理的搾取にくらべ、日本(東洋)の資本主義は、排他的な血統主義だから、国内では四民平等の反面、他族からは搾取する。

だから、グローバルな経済戦争の場で、平等意識の高い日本人では決断力に欠け、対外対応ができない。そこで、外の風である欧米式専制経営者を雇えば、欧米並み報酬が必要となる。

中韓がグローバル対応を上手くやっているのは、東洋の排他的エゴでありながら、かつ、国家や企業のトップが専制的だからだ。

欧米は、家長意識を近代的な「システム化された階級」に進化させたのに対し、東洋は、いまだに古代的な血族がそのまま機能している。
民族主義が影響力を持つ背景でもある。
日本は、国内だけは西欧を移入しシステム化したが、天皇を据えた血族であるため、対外的には古代のままでいる。

古代的血族主義とは、力のある集団が弱い集団を餌食にし、奴隷にするという原始的な意識だ。従って、どう言いつくろおうとも、開発途上国の低賃金を利用するのは、餌食、奴隷の発想から来ている。

欧米のシステム化された階級意識では、上層と下層には歴然と格差があるが、下層は餌食ではない。家畜や奴隷にはそれなりの栄養と休養を与えなければ、牧場経営は成り立たないことが解っている。
上下の格差秩序を前提とする共存主義だ。
このことが、経営者の高報酬と、それなりの労働賃金の配慮を生んでいる。

古代的な食うか食われるかの力関係の中では、狩られる側も、相手に対する思いやりなど持たない。相手が弱みを見せれば、どんどん弱点を突いていく。
日本の労使関係のような、理解し合う関係はあり得ない。
中途半端な妥協より、思い切った寛容と、ハッキリしたボーダーを示すことで、中国的言論の自由のようなコントロールが可能になる。

しかし、もちろん、それは過渡的な方法であって、日本企業が国内で確立したような、「最も成功した共産主義」を、グローバルスタンダードにすることこそが、日本企業が尊敬される道ではなかろうか。


岡目八目

2010年06月23日 | 日記・エッセイ・コラム

No.939

ワールドカップが始まると、日本中が、にわかファンや評論家になる。
勝手なことを言う素人評論家に、プロは「素人にはわからない」と思うだろうが、必ずしもそうではない。
どんなことでも、当事者より、関係のない第三者の方がよく解ることがある。

名選手、名監督ならずともいう。
自分の思い通りに動けなかった人や、不運な挫折を繰り返した人は、成功と失敗の「間にあるもの」を良く知っている。

ことごとく努力が実った名選手にくらべ、結果を出せなかった人は、なぜ、うまくいかないのかを考え続けている。
どんなチームでも、基本は、天才選手ではない、凡庸な集団だ。
その凡庸集団を、いかにすれば使えるかと考えられるのは、自分自身が凡庸で苦労した人だ。もと天才選手は、みなを天才にしようとしてしまう。あるいは天才を集めようとする。

野球で言えば、往年の天才選手で監督になった、長島、王、野村は、三人三様のスタイルで面白い。
長島と王は、天才スターだから、最初は皆が天才であることを望んだが、誰も自分のようにはできないと気づくと、長島は天才集めをし、投手から打者へと苦労した王は、自分が変わることを選んだ。
また、捕手から現役監督を経験した野村は、始めから、選手の心理を読む能力を身につけていたので、監督のプロとなった。

野村は「自動車人間」では「シャーシs」だが、高度な分析ではほとんどがハンドルと言っていい。ハンドルの理詰め能力を使って、シャーシの自己顕示のキャッチフレーズにしたのが、「ID野球」だ。
王、長島のために月見草にされたという、ネガティブな自慢も、ここから来ている。(ハンドルの被害者論。シャーシの自己顕示)

この三人はそれぞれ名選手だったが、長島、王は、いきなり名監督にはなれなかった。

監督采配のウエイトが大きい野球と比べれば、サッカーの方が体験より大局観が必要なような気がする。つまり、より、戦場に近い。
宮本武蔵が天草の乱で手柄を挙げることはできなかったし、三方原で失禁した家康でも、後に野戦の知将といわれた。

「経験のないヤツにはわからない」と思うのも大きな間違いだ。
よく「人を殺さなければ殺人の小説は書けないか」と言われるが、まったくそんなことはない。
先日、イギリスで「切り裂きジャック」を研究していた男が、本当に同様の殺人をした。
徒然草で、狂人のまねだと言って裸で走れば、それを狂人と呼ぶという話があるが、まさに、単なる殺人鬼にすぎない。
調教師が馬だったとは聞いたことがない。

人の相談に乗る人も、決してその人にはなれない。だからこそ、当人が気づかない、解決策が見えてくる。
かと言って、他人のことはよく見えても、自分のことは気づかないものだ。
だから、人生の名選手より、凡庸な選手が案外良いことを言う。
迷ったら、優等生より落第生に聴く方が、ヒントになるかも知れない。
もちろん、自分自身で考えることが前提だが


冬始め日

2010年06月22日 | 星の流れに

No.938

もう、夏至だ。今日から日が短くなると思うと、なぜか悲しい

ワールドカップ
どの試合も面白いが、今終わった、チリとスイスも面白かった。
いきなりレッドカードのスイスは気の毒だったが、攻めと守りの真反対のチームカラーは、盾と矛。1点リードしながら最期の一瞬までバカのように攻め続けるチリを見ながら『攻撃は最大の防御』とはこういうことかと、終いには笑えてきた。いい試合だった。

菅政権
消費税10%を口にしたら、支持率が10%落ちた。
必ずしも、消費税全面反対で落ちたわけでもないようだ。ようやく、消費税に対する理解がかなり進んできたが、やはり、感情的な人にはトラウマがある。消費税と聞いただけで拒否反応が起こるのだろう。

どういう展開になるか解らないが、冥王星が山羊座にいる15年ぐらいの間に、大転換のステップとして、税制は確実に変わる。
税制は国家の根幹だからだ。
いずれにしても変わらざるを得ないものなら、ただ拒否をするより、みな積極的に、変革を前提に議論に加わる時だ。

朝型生活
環境省がCO2削減のために、早寝早起きの朝型生活を呼びかけるキャンペーンを始めた。良いことだと思う。やるなら徹底的にやって欲しい。
偉そうなことを言ってないで、早く、寝なくては、朝が来る 


大琉球

2010年06月21日 | 日記・エッセイ・コラム

No.937

菅総理が、昨年、喜納昌吉民主党参院議員に沖縄独立を語ったと、著書で語った・・・と、中国の新聞が伝えた

なんだか、何処まで、どうなんだか解らない話だが、
中国国内からの一般のコメントは、「琉球は元来中国の属国だから、独立させて、また中国の属国にせよ」と言った意見が出ているし、日本国内からは菅売国奴と誹謗が出ている。
みんな聞きかじりで勝手なことを言っている。

喜納昌吉議員の著書を読んだこともないし、読む気もない。だから、菅総理の発言趣旨がどういうものだったか知らない。

ただ、内容の如何に関わらず、先日、沖縄独立について少し触れたので、自分なりに補足したい。

先ず、中国が沖縄を中国の属国とすることは、まったく認められない。
歴史には様々な経緯があるが、歴史的な話をネタに「自分のもの」と言う論理は、侵略主義以外の何ものでもない。
その上、言語文化、血統的に、沖縄は明らかに海洋国日本の系統であり、漢字などの借用文物は別として、中国とは遠い存在だ。

いまだに、日本の侵略主義を非難する中国は、チベットやウイグルだけでなく、一般庶民とは言え、沖縄にまで欲を出す。
同様に、韓国は古代、自分たちが追い出した百済難民を理由に、野蛮倭国を文明化させてやったのだから、日本の文明や対馬は韓国のものだと、学者まで唱えている。

そんなことを言うなら、日本こそが百済だとも言えるので、追い出され、奪われた故郷を奪い返さなければならなくなる。
こんなミソクソ論こそが、侵略マインドだ。(アホ言うもんがアホ

一方で、沖縄が、必ず日本国であるという前提も賛同できない。
日本は多くの集団の複雑な集まりであるという点で、包括的に一つであり、同時に、個々の地域が独自の文化を持っている。

沖縄の人が子供の頃、標準語を使わなければ叱られた話をしていたが、同じ事は津軽などでも起こっていた。明治以後の共通語としての標準語の強制は全国的にあったが、日本語統一を実現させたのはテレビだった。皮肉なことに、そうなった今、郷土の言葉が見直されている。

先日の沖縄独立の話は、あくまで交渉術であって、他のどの県も基地を受け入れないのであれば、沖縄は勝手にさせてもらうと言う「切り札」のことだ。
しかし、仮に本当に沖縄が独立する場合の、沖縄独立の意味と現実性を考えてみた。

沖縄の独立提案は、日本人に改めて「国家とは何か、日本とは何か」を考え直させる機会になるし、何より、道州制を後押しするきっかけになる。

よしまた、琉球国が実現するようなことになれば、琉球の黄金時代が再来するかも知れない。

大琉球
米中の覇権の狭間で、日本を含め、周辺の弱小国はいやでも軍事的脅威にさらされている。
かと言って、現実に全面的な軍事力行使ができるような時代でもない。
しかし、また、だからと言って、日本のように「戦争はしません」と宣言するだけで、尊重してくれるような国が周りにはいない。
平和憲法の理念が実現するとしても、今日明日のことではない。

現実問題として、何らかの軍事バランスに依っていなければ平和を保てないわけだが、米中ロのどこの用心棒に頼るか考えると、究極の選択としては、米国が無難だろう。とても、中ロにはなりたくない。

日本の、完全自主防衛を米国が許すとしても、とんでも無い負担であり、米国のように軍事産業と一体化しなければ、日本経済が成り立たない。それは誰も望まない。かといって国内に米軍が来られるのもいやだ。

沖縄はどっちにしても米軍が居座っているなら、居直って、組事務所を貸して、米国から、家賃をもらえばいいし、米国は日本や韓国からみかじめ料をせしめればいい。気を遣いながら、日本から家賃をもらうより、よほど気楽だ。

そのうえ、独立国であれば、独自の経済政策をうてる。
韓国や台湾の経済発展には、隣に日本がいたことが大きいが、今後の展開を考えれば、中国の発展も利用できるし、グローバル化の時代にはシンガポールのような方法もある。第一、観光資源が莫大だ。

アメリカの傘下で経済発展した日本と比べても、軍事費が一切いらない。いっそのこと、第二の平和憲法国家になればいい。一切、軍事力を持たないのだから、日本よりすごい。

仮に独立したとしても、琉球と日本は、台湾以上に上手くやれるはずだ。どう考えても、琉球王国時代に勝る発展が可能だ。

それでもなお、日本のままが良いなら、最低限、特区の条件は欲しいし、出来れば自治区にして欲しいところだ。
企業所得税を0%にすれば、一気に経済発展する。


努力評価

2010年06月20日 | 日記・エッセイ・コラム

No.936

何を見ても、占い的な類型で見てしまうので、他の人とは全然違う楽しみ方をしているのだと思う。

歌のセリフもファッションもスポーツも、映画も小説も、学校も会社も男も女も・・・『これはどういう類型でどう違うのだろう』と考えてしまう。
「感じるままに生きよ」とか、「何一つ同じものはない」とか言う、理屈も気持ちも解るし、実際、生身の人間としては、そう生きているつもりだし、また、そうしか生きられない。

しかし、運命のような目に見えないものを理解するには、実在の裏にある、関係性から考えていかないと、何も見えてこない。

科学万能時代、経済や心の問題も、すべて科学的でなければならないとされた。経済や商売も、経験と勘の経営とバカにされ、経営学など、まことしやかな学問が流行ったが、経営学者が会社をつぶしたり、数学の天才達が金融危機を招いたりした。

ブードゥー経済学という言葉があるが、罵っている方か、罵られている方かどちらが、ブードゥーかわからない。

占い的見方は、初めからブードゥーだから、「正統学問」にどう言われようとかまわない。理路整然より、結果であり、有用性が重要だ。
そういう意味でも、ドンピシャリより、大まかな正解であることに主眼を置く。

類型化で見ていると、
サッカーの顔と、野球の顔には、かなりハッキリした違いがある。
日本の場合、野球の顔は大陸系だが、サッカーの顔は海洋系だ。
また、世界中で人気のある球技として、サッカーほど国民性の出るスポーツはないのではなかろうか。

集団で、単純なルールであり、常に瞬時の対応に迫られるから、格好の付けようがない。アフリカのチームが、あれだけの身体能力を持ちながら、意外と勝てないのは、興奮症で、きめ細かさが足りないからのように見受けられる。また、なりふり構わず、終始しつこくファール狙いをするチームもある。

オランダ戦で、日本はなかなか良くやった。結構、日本中満足しているようだったが、結果は負けだった。日本人は、結果よりプロセスや努力を評価する。
これによって、何事も短期的には負けることが多いが、長い目で見ると、結局、良い結果を残すように思える。
(文明開化、戦後復興など)


地域作り

2010年06月19日 | 日記・エッセイ・コラム

No.935

ファミレスの後ろの席で、30代の女友達同士が話している。
近所か、子供を通しての友達らしい。
テキパキした方が、旦那の不満をまくし立て、別居しようと思っていると言っている。
聞き役の方は、何を聞いても同調して、一緒になって怒っているが、反論はしない。隙を見ては、自分の方の話を挟む。

話が盛り上がっているわりには、結局、どちらも、相手の話を聞く気はない。自分の言いたいことだけ、双方勝手に喋っている。
テキパキ姐さんは、旦那への不満は何も解決しないまま、半分憂さを晴らし、半分自分の考えが正当化されたよう気になる。
聞き役さんは、
「せっかく友達になったんやから、これからも会おうな」
と、相手がいなくなることだけ心配している。

女性の会話は、会話することに意味があるので、問題解決は欲していないと言われるが、こんな調子の会話が当たり前になっているから、離婚が増えるのかも知れない。

世代が分断化し、家族以外の世代間の対話の場が無くなっている。
タテ型の秩序があった時代は、悩みを年上の人に相談したり、お節介なおばちゃんが、頼まれもしないのに、話を聞きつけて説教しに来たものだが、個人主義の現代では、互いにそういうことは遠慮する。

離婚とかの話になると、家族は子供の味方で、娘には
「離婚して、子供を連れて帰ってきなさい」が、圧倒的に多い。
しかし、最近でも、古風が残る九州から、関西に嫁に来た人が、父親から、「一度、嫁したら二度と帰ってくるな」と、言い渡されていたために、自殺したケースがあったので、それよりは良いかもしれない。

近年の、結婚、離婚の問題は、社会環境の変化と意識変化とのギャップがあるためで、本当に、「逆さまから考える」ような婚姻制度の変革が必要になっている。

婚姻制度の問題はさておき、
子供集団の再構築が必要なように、世代間の交流も必要になっている。
地域コミュニティー復活のための、祭りの復活も良いのだが、
慣習や価値観が失われている中で、昔のままの形を復活させても、結局は続かないと思う。

むしろ、防犯や防災を軸にした、地域作りそのものから始める方が、世代間の密度が上がるかも知れない。

国家と個人の関係で、個人主義が保証されてきたが、国家が当てにならない時代には、やはり、個々や地域の結びつきが重要になる。
原点の牡羊座の今は、また、そういう時代なのかもしれない。


末期言語

2010年06月18日 | 日記・エッセイ・コラム

No.934

近頃、日本語のおもしろさが無くなった。
お笑いはやたらあるが、直接的な大声や、おきまりのパターンで無理に笑わせようとするものが多い。ハリウッド映画の、中身のない刺激の連続と同じで、思い出して何度でも楽しめるようなものが無くなった。

これは、人間が持つコミュニケーション力、「人間力」のようなものが無くなって、見たまま、聞いたまましか理解できなくなっているからではないかと思う。
おそらく、テレビやネット、携帯の発達で、想像したり考えたり、待ったりすることや、目の前の人間の、言動の裏にある、不可視な「心」を理解しなくなったからではなかろうか。

昔は、紅白歌合戦のようなステージで、自分の歌のせりふを即興で替えて「今日は紅組が勝ったと手紙に書いた」のようなことを歌ったりした歌手がいて、皆もそれを喜んだが、近頃、紅白をあまり見ないせいか、そういう歌手を見たことがない。

また、ネットなどの書き込みを見ていると、どうも、ほとんど反語的なものが通用していない。
非難された人が、
「いや、00さんにお褒め頂くとは実に嬉しい、末代まで語り伝えます」のようなことを言うと、
「なに、喜こんどるんじゃ、ボケ」
のような反応がほとんどで、皮肉を皮肉で返すようなコミュニケーションが成り立たない。すぐ炎上になる。

昔でも、冗談が通じない人はいて、冗談の後の空気の悪さに
「これは、冗談だけど」と、断らなければならなかったり、
逆に、冗談の解らない人が、自分で冗談を言った後、相手も解ってないだろうと、無理に「冗談、冗談」と付け加えて、ますます面白くなくなったりすることがあった。

しかし、昨今は、お笑いブームとは裏腹に、ますます、冗談の通じない人が増えたような気がする反面、度の過ぎるイタズラが、日常に通用すると思う人も増えた。要するに、「人間力」に基づいた頃合いが無くなり、判断力が無くなった。

言ったまま、見たまましか、理解できない社会だから、バカにされて、バラマキ政治がはびこる。
「愛している」と言わなければ「愛」を理解できない社会は、
やがて、聞こえの良い、大きな嘘にだまされる。


大相撲

2010年06月17日 | 大転換

No.933

相撲界の相次ぐ不祥事が騒がしい。
相撲は魚座だから、当然、今のような問題が起こるわけだが、
これも大転換の一つではないかと思う。

相撲に関する大前提から考え直す必要がある。
当然のこととされている、「国技」だが、確かに、日本書紀にも出てくる「相撲」そのものは、日本の伝統スポーツかも知れないが、「大相撲」という「興行」は江戸時代から始まったものであり、
江戸相撲という、現在につながる形が固まったのは、これまた、やはり、ワットの蒸気機関と同じ時代だ。

興業としての大相撲は、様々な近代スポ-ツと同様に、産業革命パラダイムの中にあったものと言えそうだ。
サッカーにしても、オリンピックにしても、現在、興業としての問題が山積し、派手さの裏に、実は破綻の危機を含んでいる。

産革パラダイムの、スポーツ興業は、ルールや演出を整えて、金儲けシステムとして機能するのであって、オリンピック精神とか、神事とかは、実は、体の良い「演出」にすぎない。
相撲に到っては、「神聖」な土俵上で、現金を「ごっつあんです」と受け取っていく。

こういうショービジネスに、国が事実上の「国技」というお墨付きを与え、バックアップし、誰も不思議に思わないところが、まさに、産革パラダイムの現象なのだ。パラダイムの中にいる「時代の人々」は、パラダイムによる現象に疑問を持てない。
「神聖な国技」を前提に議論するから、どこまでも不毛なのだ。

相撲の問題は、興業ビジネスを国技とすることを止めて、神聖な神事と、スポーツビジネスの間に一線を画すことだ。
そのことにより、日本文化の神道は守られ、相撲プロレスは国際スポーツの可能性を開花する。


勝っても

2010年06月16日 | 日記・エッセイ・コラム

No.932

カメルーン戦。日本の勝利で、海外が驚いたのは当然だが、強化試合4連敗に、日本はダメだと思っていた90%の日本人も、岡田監督や本田を非難していた多くの人も、驚いた。

思いがけず勝利すると、今度は多くの人がオランダにも、デンマークにも・・・と、欲を出し始めた。昨日までどんな顔をしてどんなことを言っていたか、90分で、記憶がスッ飛んでしまったらしい。

人の心とはそんなものだ。
「勝てば官軍」は勝者の横暴のことを言うが、大衆の心は「勝てば神様、負ければ仇」だ。

スポーツや芸能人なら仕方ないかも知れない。
しかし、政治が、こんないい加減な大衆心理で動かされていくとしたら、人類はいつまで経っても成長しない。そして、実際そうなっている。

王や皇帝でも、大衆の心は無視できなかったが、民主主義となると、なお難しい。民主主義の政治家こそ、信念と勇気、そして智恵が必要になる。

ポーツマス条約の全権大使小村寿太郎が日本を発つ時、押し寄せた見送りの大群衆を見て、帰国は石を投げられるだろうと言った。
日露戦争大勝利を信じていた国民と、戦争の実態を知っていた外交の当事者の意識の違いとして、有名な話だ。

我々は大衆であり、個でもある。
一喜一憂する大衆となるか、冷静に状況を見つめる個となるか、それはそれぞれ、自分が決める問題だ。

「カッテモカブッテモオシメヨ!」 藤猛
  (勝って兜の緒を締めよ)


藤猛:日系3世米国人ボクサー。1967年世界チャンピオン勝利で絶叫