魯生のパクパク

占いという もう一つの眼

森の中で

2022年06月19日 | 日記・エッセイ・コラム

近年、自撮り棒が世界的ブームになった。ところが、これは何十年も前に日本人が特許を取り、全く認められず失効し、とっくに忘れられていたものだった。
発明にはタイミングが大切だと言われる。
どんなに素晴らしいアイデアも、それが必要とされる環境があり、人々がその環境に慣れ、ニーズを感じていなければ、「素晴らしい!」とは思われない。

「自撮り棒」が生まれた当時は、カメラは重く、写真を撮ることはまだ特別なことの一つで、
「スミマセン、このカメラで写してもらえますか?」と声をかけられても、「はい、はい」と喜んで応じ、それがコミュニケーションにもなった。
ところが、軽いデジカメやスマホで、食べる前に先ずパチリのような時代になると、何時でもどこでも何でも写す。誰かに頼まずスナップも撮りたい。そんな時代には、誰の目にも、「自撮り棒」は必然だった。まさに、誰でもが求める物になっていた。
発明した人は、数十年後にアイデアを認められたが、一文にもならなかった。

時代の森の中で
人と違う観点でものを考える人の発想や論理は、後世の常識になるようなことでも、その現場その時代の人には決して認められない。それは皆、森の木を見ている時代の森の子だからだ。
ガリレオもダーウインも、時代の森に足を取られたが、コペルニクスは、地動説を死ぬまで発表しなかった。社会的成功者はよく世間を知っていた。

時代の森の住人は、自らの森を見ることはない。まれに外から来た旅人や、何かの拍子に森の外に足を踏み出した「外れ者」が、森の話をすると、秩序を乱すとんでもない奴だと、「ホラ吹き」や「呆け者」のレッテルを貼り、何も見ないで安心する。
人は自分の概念に無いことを理解しようとはしない。違う考えを取り入れるには、一度、自分の認識を壊して再構築する苦痛が伴うからだ。だから、異見を聞けば、先ずレッテルを貼り、ゴミ箱に廃棄しようとする。

「自撮り棒」の特許ぐらいなら、知らないで済むが、今まさに自分が関る世界、その認識を否定されると、何とかして排除しなければ足下が崩れる(と感じる)。
どうしても、概念に無い世界を受け入れる時は、権威の裏付けが必要だ。権威とは論理ではなく情緒であり、論理が複雑になるほど、人は、好き嫌いの情緒で判断する。
「何がホントか解らない!」時は、ゴチャゴチャぬかす「小賢しい」理屈ではなく、腑に落ちる「ガッテン!」を求める。

思考停止のオールマイティ
レッテル貼りも結局は、情緒的選別の便利なツールだ。様々な思いを抱えた人を「輩」と決めつけ、聞く耳を持たず排除する。
野蛮人、ジャップ、ベトコン、毛唐、テロリスト、扇動家・・・人の歴史は排除レッテルの歴史でもある。
一方、受け入れるためにもレッテルは役に立つ。ご意見を拝聴する人を、「・・・様」と、自分より大きな存在に祭り上げ、身を託す母のように安心な言葉を聞こうとする。
専門家、学会、伝統、受賞者、公共放送・・・信頼に足るスジからの言葉なら、アッサリ考えを変える。いかなる理屈よりも安心の情緒に身を委ねたいのだ。
好も悪も、レッテル貼りは思考停止の自己放棄だ。レッテル貼りが横行するほど、社会は健全な思考が失われ、一方向への流れは、やがて激しい奔流になる。

お~い・・・もうろくジジイの世迷い言が、また始まったよ


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1 コメント

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Unknown (angeloprotettoretoru)
2022-06-19 01:21:55
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