魯生のパクパク

占いという もう一つの眼

ラクチン

2021年12月31日 | 日記・エッセイ・コラム

どうも、「入国制限」の時、思ったように、オミクロンは関西うどんのような薄味らしい。
ちゃんとあるが、鈍感な人には無いに等しい。ホテルマネージャーのマスターキーのように誰の鍵でも開けられるウイルスだが、何も盗まれない。まあ、見られたら多少困ることもあるが、もはや、ワクチンのような存在だ。
オミクロンにかかっていれば、デルタ株にはかからないか軽症と言う報告もあるから、副作用が疑われるワクチンよりラクチンな、天然ワクチンに変化したのではないか。

コロナ変異もここまで来れば、ほぼ終息が見えてきた。
ワクチン後に死んだ人とオミクロンで死んだ人の数の比較はまだ出ないが、世界中、燎原の火のごとく広がっているわりには、死者数は目立たない。
メディアと専門家の先生方は相変わらず、「感染が、感染数が」と言うが、重症患者や死者数には触れない。それでも、「決して安心はできません、数が多ければ医療が逼迫するということもある」と、思わず、語るに落ちている。つまり軽症だと、.
具体的に軽症だと報告する研究者も「安心はできない」と付け加えなければ、テレビで放映してもらえないようだ。

どんな時でも、病気の存在は忘れてはいけないが、病気を怖れていては街も歩けない。今や、ほぼ平時の状態になっているのに、世の中は当分表に出られない空気だ。
実は、オミクロン蔓延こそが集団免疫の最終カードで、日本のコロナ遅延作戦は、既に成功しているのではなかろうか。


小文字O

2021年12月30日 | 日記・エッセイ・コラム

オミクロンとは「Oの小文字」の意味で、WHOが日頃お世話になっている習皇帝を畏れて同じ発音を避けた結果らしいが、COVID-19にせよ、Omicronにせよ、世界が中華帝国に席巻されていることを象徴する名前だ。

こうなると、COVID-19もOmicronも事実上、習皇帝の忌名だから、ChinaVirusなどと呼ばなくても、これからは、COVID-19が演説したとか、Omicronが中共皇帝に即位という風に呼べば良いだけの話だ。
日本では、習近平に遠慮しても、「尾身クローン」などと尾身さんには遠慮せんのか!と揶揄する声が上がったが、関西人は「i」と「e」を間違えないように緊張しているかも知れない。


土星水瓶

2021年12月29日 | 星の流れに

ソビエト連邦崩壊から30年。なぜソ連は崩壊したか改めて話題になっているが、占星術的には単純な話だ。土星が来たからだ!?
占星術的に見ても、実は、そんなに単純な話ではなく、様々な要因が絡まっているのだが、最もはっきりしている直接的な要因は、やはり土星だろう。

ロシアは帝政であれソ連であれ水瓶座だ。土星が来た星座には「萎縮」が起こり、後ろ向きになる。その土星(滞在星座)に対して他の惑星の位置角度が良ければ、堅実さや老成、温故知新となって、地味ながら良いことが起こるが、他惑星の角度が悪ければ、頑迷や悲観的になって悪評や死につながる。
30年前、土星が水瓶座に来た時、冥王星がサソリ座にいて凶。そこに木星が獅子座に来て凶。さらに崩壊のドサクサ時にはサソリ座の火星も作用した。ただし、サソリ座は魚座のゴルバチョフには幸運に作用した。

土星は30年周期だから、今、また水瓶座にいる。冥王星の水瓶座への影響も出始めている。問題は、天王星が凶角の牡牛座にいることだ。2023年には木星も牡牛座に来るが、土星はきわどく魚座に抜け、最悪の事態は逃れるが、替わって冥王星が来る。時代の転換そのものは逃れられないだろう。水瓶座は天秤座のプーチンには、楽ではないが吉角だ。2021年は木星も来ていたが、今日29日から魚座に去る。当然、日本も天秤座なので、水瓶座の表すデジタルやイノベーションで、地味だが良いことが始まっている。(これでも)


五黄の寅

2021年12月26日 | 占いばなし

さて、いつの間にか太陽も冬至を折り返し、事実上の2022年が始まった。
西暦では1月1日から新年だが、干支暦では新しい年の干支は立春から始まる。
2022年の干支は「壬寅」、九星は「五黄」だ。
36年に一回の、いわゆる「五黄の寅」で、大乱の年と言われている。
明治以後では、明治11年、大正3年、昭和25年、昭和61年と、今回で5回目だ。
大正3年の第一次大戦と、昭和25年の朝鮮戦争の印象が強いので、大戦争の年とも言われ、明治11年と昭和61年には、大戦争は起こってないが、大きな曲がり角ではあった。共通して言えることは、この後、日本にはつかの間のバブルが起こった。

寅年は木星が魚座のあたりに来るので、その後、牡羊座に来れば、天秤座の日本と180゜になり、千客万来でお祭り騒ぎになり、その後始末が待っている。
また、五黄と重なることで、森羅万象、物事が本来の能力を強く発揮し、それが寅年の特徴を際立たせることになり、「大乱」つまり、誰にも止められない、ごまかしの効かない事態が顕現する。
昭和25年の朝鮮戦争はどんな環境で始まったのか、今、もう一度、真剣に振り返る時だ。

五黄の寅の様相をもう少し子細に見ると
明治11年は戊寅、大正3年は甲寅、昭和25年は庚寅、昭和61年は丙寅で、戊寅と丙寅が強弱の目安である十二運の「長生」で穏やかなのに対し、大正3年の甲寅は「建禄」で最強、昭和25年の庚寅は「絶」の最弱と、極端なエネルギーが働く年だから、大戦争になったのだろう。朝鮮戦争は単なる地域紛争ではない。
来年2022年は壬寅の「病」で、脱力感があり、前回は1842年・天保13年に当たる。
天保の改革や異国船打払令の廃止。アヘン戦争の終結など、世界的に紛争終結の年となったようだが、来年もそうなってほしいものだ。


腰に手を

2021年12月22日 | 日記・エッセイ・コラム

岸田首相が「牛乳飲んでください」と、国民にお願いした。
コロナと冬休みで、消費先が無くなり、廃棄するしか無い状況が生じているという。
一方で、バターが不足で値上がりしている。不思議な話だ。流通の違いでそう簡単に替えられないのだろうが、過去の政策ミスの結果だろう。これまでも何度か、牛乳を廃棄する場面を見た記憶がある。

しかし今は、責任問題を挙げても始まらない。
首相が幾らお願いしても、みんなが牛乳を飲むような独裁国家ではないのは幸いだが、
とにかく、何とか「もったいない」ことにならないよう。牛乳を飲まなくては・・・
なのだが、コロナでみんな太ってしまって、肥満イメージがある牛乳には手が出ない。
風呂上がりに牛乳を飲む銭湯も、めっきり少なくなったが、家でも風呂上がりには腰に手を当て、牛乳を飲んでいるのだろうか。
考えてみれば、牛乳瓶が昔から一合瓶(180㏄)なのが問題だ。ストロー付きの紙パックに至ってはさらに小さい。風呂上がりなら二合は飲める(自販機の標準も350㏄)。
製造工程の都合で簡単には切り替えられないというのなら、この際、政府の好きなクーポン券を出して、もう一本無料にすれば良い。

まあ、そんなややこしいことをするより、「ガッテン」などのテレビ番組で、食材を取り上げた翌日には店頭は売り切れる。グルメ番組も、売られてもいないような希少食材を取り上げるより、
「あなたに迫る!骨粗鬆症」とか、「大谷翔平も牛乳を飲んでいた?」とか、「自家製バターの作り方」とか、各メディアもコロナをさんざん煽ったのだから、罪滅ぼしでもしてはどうか。
あっ!そうだ。「コロナにかかっても、牛乳を飲んでいた人は重症化しなかった」と、得意の「まことしやか」な番組を組んで、下に小さな字で「※個人差があります」と書いておけばダイジョウブだ (^^)
また、SNSでも、この際、牛乳利用法を提案すれば注目を浴びるだろう。

そうこうしているうちに、今度は牛乳不足で値上がり!てな、こともあるので、あまり推奨したくないのだが、実は、牛乳をまとめ買いして、他の客にニラまれたことがある。
一時流行ったが、牛乳パックに、市販のカスピ海ヨーグルトを入れておくと、1、2日で立派なヨーグルトができ、次からはそのヨーグルトがまた使える。この季節は常温で放置しておくだけだ。
毎日、ドンブリでジャム&ヨーグルトを食べているが、納豆と併食すれば便通の特効薬だ。


畜産大国

2021年12月20日 | 日記・エッセイ・コラム

中国のテニス選手のスキャンダルは、ノーベル賞作家の幽閉抹殺より影響が大きい。
ノーベル文学賞や平和賞は、ノーベル賞委員会の作為的なメッセージで、理念問題だから、誰でも反応するわけではない。
しかし、身の下問題には誰でも反応する。誰でも身の下があるから、政治や理念などどうでも良い人が真っ先に反応する。だから、影響が大きい。
衣食住は個人的問題で身内以外は他人事だ。しかし、他とのかかわりである性には、文化的側面がある。頭と身体が連動するから、声を上げる。

性と婚姻は文化そのもの
性は、原始的なほど器官が支配するが、高度になるほど知的学習が支配する。さらに、知能が発達し観念世界が広がると、観念で性的興奮が生まれる。
通常、人間は知的学習レベルで性衝動に違いがある。後天的な経験や文化で、価値に対する欲望が生まれ、性もその欲望実現として刺激される。しかし、知的欲求が生殖欲求を超えると、肉体的衝動より幻想や妄想に刺激されるようになる。

何をどのように食べ、何を笑うかで、だいたいその人の知的領域や人格が窺えるように、性癖にも人格が現れる。裏を返せば、日頃の言動を見れば、妄想しなくても、閨房は見える。ただし、おバカキャラを本当に馬鹿だと思うような観察眼ではムリだ。表面だけではわからない。
個人の性的嗜好に、文化や知的レベルが影響するように、国家や民族、時代にも性文化の特徴が有る。

日本女性の場合、以前はマッチョに魅力を感じる人は少なかったが、欧米人の場合はかなり重要なファクターになる。また、日本男性の場合、昔はオッパイを見ても特に動揺することはなかった。どんな所でも授乳するのが当たり前で、混浴も特別なものではなかった。隠すものではなく、それを見てムラムラする方が変態だった。
昔、ロンドンで日本の春画展があり、英国女性たちが興味津々で押しかけていたが、そのころ日本ではそんなものの公開など考えられなかった。50年後の今ではロンドン並みになっている。文化的な性の様相は常に変化する。

ただ、その中で総じて、欧米の性文化は物理的であり、個人の権利そのものだが、東洋は情緒的で、肉体はかりそめの物だ。
欧米では名前の響きや顔や身体など個人に直結する特徴に関心を持ち、東洋では行為や言葉や地位に関心を持つ。そして東西とも、相手の持つ特徴を自分のものにすること、そこに融合することに興奮する。
源氏物語の中では、地位や和歌や行為は出てくるが、風貌は良しあし程度しか解らない。中国の古典読み物なども身分ばかりで、風貌のディテールは無い。
情緒に興奮する東洋では、肉体への執着が薄く、妾や結納など、人身売買的行為にはあまり敏感ではなく、身は任せても気はやらぬとか、契るとかの言葉に興奮する。そのせいか、東洋ではあまり肉体に関する形態的な美意識が発達しなかった。

しかし、ギリシャ彫刻の昔から、個人を物理的に認識する欧米は、個人と人権と性は切り離せない。極論すれば、欧米人の性行為は物理的人格の交わりだが、東洋人の交わりは心や社会背景との交わりであり、肉体は手段や道具に過ぎない。
このことが、東西相互の微妙な誤解を生む。
性を個人の人権問題と捉える欧米に対し、東洋は、いわば、環境や社会問題と捉える。
東洋では性欲は人格とは関係ない機械的なものと捉えるから、性の商品化にあまり抵抗がなく、結納を交わす婚姻も事実上の売買だが、誰も深くは考えない。さらに、中国では子が生まれなかった場合のスペアとして、もう一人付ける習慣があった。中東でも、旧約聖書にアブラハムはサラのそばめが産んだ子を自分たちの子と考えていたとある。

立て前と本音
ローマ発祥と言われる一夫一婦制は、人類史でみればかなり特殊な制度と言える。これが、ローマが席巻した欧州で常識になり、形式的にはそれが世界の常識になった。
しかし、この制度は建前であって、世界では、建前の裏で、みな伝統的な価値観に従って男女関係を営んでいる。
中国や中東など、氏族繁栄を最大の価値とする地域では、女は子を産む道具として羊のように考えられていたから、権力、財力のある者が、多くの女を養い子をなすのは当然であり、女もまた、擁護力のある男に「就職」するのが当然と考えられていた。
それが今日、一夫一婦制の陰で、意識の中に生きている。また、夫婦別姓で中韓が日本は遅れていると自慢するが、これは、女は男の家の子を産みさえすればいい他人だからで、現代に求められる夫婦別姓とは真逆と言っても良く、夫婦同姓の日本の方が、まだ情があり一歩進んでいるのだ。

日本の場合、渡来の氏族や、中国伝来の男系による家制度が建前になっているが、古層には母系による男女対等、完全自由恋愛(対隅婚)が息づいており、誰かに惹かれるのに、身分や財力に引かれることは実は少ない。
あくまで一般論だが、日本人と比べ、家制度本家の中国人は徹底して地位や財産に惹かれる。日本人が、地位や財産を個人とは分けて考えるのに対し、中国人はその所有者そのものを魅力と感じる。
日本人が、魅力が無くても「割り切」って財力と結婚しようと思うのに対し、中国人の場合、金や地位がその人の魅力そのものと感じる。
日本の有名女優が、特別な財も地位もない一般人と結婚したと聞いて中国人が驚くが、日本人にはむしろその感覚の方が驚きだ。中国人の現実観は日本人にとっては「現金」でしかない。

こうしたズレはあるものの、日本も中国も人権の真空地帯に変わりなく、欧米人には理解できない。今日でも多くの娼婦を送り出し、「性売買追放週間」まである韓国が、慰安婦を性奴隷と欧米に吹聴したのは、欧米人が敏感に反応するからで、人権意識からではない。これは、中華式の戦術だ。

東洋の性や婚姻に西欧式の人権は皆無で、重要なことは義や功利だ。
人権問題で、欧米の価値観を押し付けるなと居直る中国では、歴史的に、属国に貢女を強いたり、権力者が女優をそばに置いたりするのは共産党も変わりない。
人権居直りの中共は、チベットに続き新疆自治区を、素晴らしい観光地と逆宣伝を始めたが、その魅力の一つに「美女」を挙げた。彼らが人権を理解することは死んでもなさそうだ。
新型兵器調達に余念のない中国だが、伝統的ハニートラップ兵器も健在だ。

東西文化理解の上で
さて、中国テニスの彭帥問題だが、坂上忍が、「大人の問題」のようなことを言ったらしく、人権問題だと炎上したらしい。エンタメ炎上に参戦する気はないが、彭帥問題は中国的世界で起こっていることを念頭に置く必要がある。
彭帥問題だけではない。中国の人権問題は、欧米の価値観が東洋には当てはまらないことを示している。
かと言って、中国の居直りが正しいわけではない。西洋式の人権や民主主義は、おおむね、人類進化の方向に沿っているのだと思う。しかし、日本人を含め、東洋人が西欧式の人権を理解するのは、そう単純ではない。互いに、水族館のガラスを隔てて理解しているようなものだ。

まず、渦中の彭帥の公開した内容と実体がどういうものか、良く解っていない。
ただ、おぼろげな事実は、単純に性的強要を訴えたものではなく、昔、一度は恋愛関係として受け止めたものが、再び火が付きかけたのにフラれた、怒りのようだ。単純には、いわゆる、痴情のもつれの類だ。前述のように中国の恋愛パターンの中では、あり得ることで、異常な関係ではないだろう。おそらく、坂上忍はこのことを言ったのだろうし、下世話な炎上パワーが真に欧米的人権を理解しているとも思えない。
アジア的文化問題にもかかわらず、ここまで問題になっているのは、当事者が中共政治の中核的存在であり、メンツと権謀のトリガーだったことだ。中共が例のごとく、雑で単純な「処置」をしたことで、欧米の「人権」に火が付いた。

悪徳牧場主と保安官
そもそも中共の行為にはどこにも人権など無い。
全てが、政治の力学に終始し、その政治とは養豚・養鶏のように考えられている。良い餌を与えるのが良い政治であり、鶏インフルが発生したら、早急に殺処分するのが賢明な政治だ。これが、中国共産党が自慢する「特色ある民主主義」だ。
天安門で殺処分した後、順調な畜産経営をしてきたが、放し飼いを始めたら問題個体が増えてきた。
ノーベル平和賞の劉暁波や、今回の彭帥の場合、殺処分するには有名すぎる七面鳥なので、「風評被害」を考慮すれば殺せない。だから、殺さなかったことにして動物園に移し「自然に死ぬ」のを待つ。
また、別制度で放し飼いだった香港の豚や鶏をケージに入れるために、規格外のものを駆除し、規格品をケージに入れて餌をやれば、外の家畜もおとなしくケージに入ってくる。
実に手慣れた、伝統の畜産技術だ。

人権問題で中国に怒る欧米の主張が独善であることは否めない。しかし、中国共産党の行いは、それをはるかに超えて間違っている。
問題は、人権問題でも経済戦争でもない。中華文明の暗黒面を利用して世界制覇を試みるヤクザ集団の暴力に、世界が屈するか否かの問題なのだ。
世界は法治による平等な地球国家を目指しているが、ヤクザ国家は力関係による親分子分と縄張りしか理解できない。

1930年代、ギャングに支配されていたアメリカは法治を取り戻すのに相当苦労したが、もとはと言えば、禁酒法という愚かな善意のためだ。
今、ギャングと同じ手法で中国に席巻されている世界は、アメリカの中共承認とWTO容認という善意の結果だ。再び正常を取り戻すには、相当なエネルギーと身を切る覚悟を迫られる。
ギャングとの戦いは、正攻法では勝てない。ワイアットアープやフーバーのような毒を用いるしかなさそうだ。そして毒であることを常に忘れないことだ。
清濁併せ呑む。この勝負、ロシア抜きでは勝ち目はない。


凍土の下

2021年12月18日 | 日記・エッセイ・コラム

NHKのニュース解説で、大谷翔平、羽生結弦、ピアノの反田恭平が同い年で、さらに近い年齢に多くの若者が活躍していることの原因を、デジタル(Z)世代であるとし、今後の日本の希望の灯だと説いていた。
確かにその一面もあるが、それなら世界中の若者と同じ条件だ。
この解説で一言も触れなかったから、あえて言わなければならない。
これこそ、まさに「ゆとり世代」であり、ゆとり教育の成果ではないのか。

ゆとり教育の若者の異端性を、日本社会の中核世代が寄ってたかって誹謗し排撃し、終に、ゆとり教育の廃止に持ち込んだ。
日本社会と日本企業が、ここまで萎縮し、落ち込んできているのは、まさに、日本社会を担う中核世代の人々の「真面目な努力」の結果ではないのか。
ゆとり教育を叩いた世代は、偏差値世代そのものではないのか。

ゆとり世代の異端性を理解できない、日本を担う主流は、規格通りのことができない「ゆとりの無能」を矯正する必要があると嘆いたが、規格通りの農産品しか出荷できない流通システムの甚大なロスは、外から言われるまで気づけなかった。
ゆとり世代が見せてくれているのは、デジタルという新しい環境の成果ではない。
規格を外れて、変ちくりんな形に成長したトマトやキュウリの美味さや価値なのだ。

明治の大発展や、戦後の大成長は、「命がけ」を知る大人と、既存のワクから解放された自由な若者の熱気によるものであり、彼らには、一人の優等生もいなかった。なぜなら、基準の無い時代だったからであり、すべてが個人の人格と判断に基づいていたからだ。
今の日本は、萎縮し凝り固まった冬の土であり、ゆとり世代はそれを突き破る萌芽だ。
冬の凍土は鍬を入れてひっくり返さなければならないが、凍土自身にはそれができない。
幸か不幸か、コロナが大きな鍬になるだろう。そして、改めて「ゆとり教育」を復活すべき時だ。
世界学力コンテストなどどうでも良い。ゆとり教育のなかでも、自分が必要とすることは個々が勝手に学ぶ。金メダルはもらえないが、喧嘩に強い人間はいるのだ。貿易戦争や外交戦争に金メダルなどない。

貴重な人」2014


社会厚生

2021年12月16日 | 日記・エッセイ・コラム

燃料値上げで、苦しいイチゴ農家が、様々な工夫で出荷しているニュースが流れていた。

SDGsがどうのと、大騒ぎだが、何時からイチゴが冬の果物になったのか。これをおかしいと思い、冬のイチゴを買わない消費者がどれほどいるのだろう。 (「旬の復活」2011)
今の社会を冷静に見渡せば、トコトン、化石燃料で築いた砂上の楼閣であり、しかも、それが前提の緻密なルールを疑うこともなく、少しでも不具合が起これば非難ゴウゴウの犯人捜しが始まる。
石油値上げのニュースで、石油依存の反省など聞いたことがない。
イチゴ農家が困るのは、自然に逆らった生産社会だからで、最大の責任は消費者にある。

商業ベースに洗脳され、冬のイチゴや春のスイカで季節を失い、エアコンの消費を控えようと壁を厚くする。車を多用しながら燃費に拘り、次は電気にする。植物由来はエコだと飛行機で飛び回る。
結局、化石燃料で始まった生活様式をいかにして延命するかしか頭にない。世界の潮流に逆らえず、トヨタもとうとう電気自動車生産を始めるが、電気自動車は決してエコの救世主ではない。トヨタ社長の心中いかばかりか。
抜本的に悔い改め、食は季節に従い、移動や物流は風や光に従い、冷暖房は海や大地に従う、地球と共に生きる生き方に「厚生」しなければ、ただの、「臭いものに蓋」だ。

旬を尊ぶ食は言うまでもないが、物流は鉄道や飛行船や帆船を活かし、海水や地熱などを利用した都市の地域冷暖房や地下建築など、地球の風景から変えなければならない。高層ビルや高速道路は産業革命パラダイムに生まれた文明の腫瘍だ。
自然との融合社会を可能にするのは、経済原理なのか政治なのかは解らないが、少なくとも、世界中の人が来たるべき世界を共にイメージできなければ、何も始まらない。
ただ、あれを止めろこれを止めろと叫ぶより、未来を信じて、一人一人が新しい地平に踏み出すことから始まる。

小川も全て無駄なく水車発電し、太陽、風、地熱、ゴミ、あらゆるものを無駄にしない地域ミニ発電を一つの運動にする。移動には自転車や公共交通を使い、相乗り(ヒッチハイク)を文化にする。
社会全体で「早起きは三文の得」を実践し、太陽と共に起き日没と共に休む社会に切り替えるため、仕事の時間を朝6時ぐらいから昼までとする。サービス業は午後のものとし、夜間やりたいなら自家発電のみ・・・等々、社会の概念を変えなければならない。
突飛に聞こえるかも知れないが、夜を明るくしたのは化石エネルギー文化であり、わずかこの百年だ。
もちろん、グローバル化で昼夜のない世界もあるが、そこに関わる人にも睡眠時間があるのだから、それは別問題だ。
原点に帰ろう!


往時再現

2021年12月11日 | 日記・エッセイ・コラム

このところ、日米開戦80年で放送特集も多いが、証言するアラセン(百歳)の元気なことに感動する。しかし、もう最後の証言になるだろう。
30年前に、戦前戦中の証言バンクを作ろうとしたが、力不足で出来なかった。今ならクラウドで可能だが、その証言者がいなくなった。
挫折した一つの理由に、証言の真実性の問題があったが、これは集積した証言と記録をAIで判別すれば、十分に実態を浮かび上がらせることが出来る。

近年、NHKで膨大なアーカイブスや資料を駆使して、かなりリアルな戦中戦後を再現しているが、恣意的に取り上げられない部分があるように感じる。また、現代の状況や価値観からの封殺圧力もかかっている。
変に、SNSのような現代に置き換えたりせず、当時のままの報道や事物を報じれば、バイアス圧力はかからないだろう。
また、存在価値が薄れている新聞社は、縮刷版に替えてネット上で再発行すれば、利益を生めると思うのだが、後ろめたいのだろうか。


近代遺産

2021年12月07日 | 日記・エッセイ・コラム

北京オリンピックの外交ボイコットに、
中国政府が「政治化はスポーツ精神に反する」と抗議した。
こんなにトンチンカンで図々しい論理は、中国からしか出てこない。
純粋にスポーツ精神の為のオリンピックなら、元来、政治や外交など関係ないのだから、外交使節が来なくても何も問題ないはずだ。
自分が、オリンピックを政治利用しているから、当てが外れただけだ。

一方で、ボイコットする側も、オリンピックの政治利用に加担してきたから、これを政治問題に絡めているわけで、今や、美しいオリンピック精神など信じているのは日本人ぐらいなのかも知れない。
東京2020でも北京でも、金の亡者と化したIOCの醜態がさらけ出されているし、オリンピックの政治利用は、ヒトラーの昔から常識になっている。
純粋なスポーツ精神の発露の場を求めるのであれば、とりあえず、オリンピックは完全に終わらせた方がいい。

その上で、各スポーツ団体の共催競技会にする方が金と政治を少しでも遠ざけられる。
そのスポーツ団体そのものが、また、金と権力の亡者で、とても任せられるようなものではないことも事実だ。中国の女子テニス選手・彭帥問題で、女子のWTAが筋を通したのに対し、ITF(国際テニス連盟)は中国の金を選んだ。
どちらが正しいかは、選手達や世界が判断することで、その判断が生かされる複層的なチェック機関などの智恵が必要だ。

何よりも、スポーツや競技の概念がこのまま続くのかさえ判らない。現在の競技やスタイルまで、実は近代に生まれたものであり、個人、国家、経済、物流などの新環境から生まれた産業革命パラダイムの産物だ。
今後、技術や環境が変われば、想像も出来ないような競技世界が生まれる。現在でも十分予測ができるのは、バーチャル環境による世界競技で、物理的に一堂に会する前提がなくなることだが、とにかく、現在の世界で物事を考えるべきではないし、無意味に保存し守ろうとすれば、ステージを失う。
何事も大転換の時代なのだ。

 


窮鼠退治

2021年12月04日 | 日記・エッセイ・コラム

バイデン・アメリカは「民主主義サミット」で、縄張りの杭打ちをしようとしているが、呼ばれなかったロシアが、白い目で見ている。
アメリカはグダグダだ。一体、何をしたいのだろう。当面の問題が中国である以上、ロシアと中国にクサビを打ち込むことが、喫緊の行動なのに、あえて、中国側に押し込んでいる。

ロシアがどんな状況で何をしようと、とりあえず、選挙のある国だ。
イランもそうだが、選挙の無い中国とは決定的に異なる。にもかかわらずロシアを排除し、アメリカの好みで恣意的に区分けした「民主主義」サミットでは説得力が無い。
バイデンが「ボケ」たわけではない。アメリカ国民がロシアに対する冷戦の記憶に取り憑かれているからだ。もちろん欧州は直接向き合っているが、それだけに現実的だ。

アメリカ民主主義のバックボーンはキリスト教だが、それが希薄になることで、内から崩れかけている。日本やベトナムという異端との戦争よりも、イスラム教との宗教戦争の方がボディーブローのように効いている。中国の脅威を前にしながら、ロシアとの確執に囚われるのは、一神教の宗教戦争が西欧文化に刻み込まれているからだろう。
民族主義相手なら、ナチスにも日本にも勝つことが出来た。中華民族主義もさして怖れることはない。民族主義は排他的な「一本の矢」だが、一神教は誰でも教化できる「三本の矢」だ。

一神教どうしで争えば、結束の弱い方が負ける。米ソ冷戦は共産主義という新型の一神教との争いだったが、一神教の背景がない中国の共産党は民族主義であり、マフィアやヤクザのような「情と腕力」の恐怖支配だ。アメリカにとっては、合法的に選ばれた警察と暴力団との戦いだ。
警察とは正規軍であり、日本の戦国時代、あるいはアフリカや中南米のように民心と国家が統一されていない状況では、誰が本当の官軍(正規軍・政府軍)か判らない。だから、アメリカは民主主義サミットと称して、正規軍の裏付けを作ろうとしている。1940年代の国連軍の再構築だが、だからこそ、ロシアを呼び込まなければ、賊軍になりかねない。

一方、歴史的に見れば、米中対決はローマとカルタゴの戦いだ。中国は単なる新興国ではない。歴史的なプライドを持っている。そのプライド故に、無理な戦争を起こしかねない。
ローマ対カルタゴは、軍事力の覇権とビジネスにおける覇権が戦争をすれば、最終的には軍事力覇権が勝つ例だろう。ローマもアメリカも、軍事・経済の覇権を兼ね備えていた。ソ連がアメリカに負けたのは経済であり、中国は未だ、経済力さえ覇権を握っていない。習近平が無謀な戦争を仕掛けているのは、コロナの失策による「窮鼠猫をかむ」だ。

アメリカが狙っているのは、習近平の失脚だが、習近平からプーチンを切り離さなければ、四面楚歌にはならない。
米ソ冷戦の最中、ソ連から中国を切り離したのはユダヤ人の冷徹な知恵だったが、バイデンにはその知恵袋が無いようだ。


入国制限

2021年12月01日 | 新鎖国論

オミクロン株、今回、日本は直ちにシャットアウトした。
「羮に懲りて膾を吹く」だが、もう日本に入ったそうだ。
ものの道理から考えて、コロナウイルスは代替わりするほど感染力は強くなるが、重症化率は下がる。オミクロン株は、普通の風邪とまで行かなくても、関西うどん並みの薄味になっているはずだ。変な例えだが、関西人には薄味の濃淡が判るが、塩味に馴染んだ関東人には味が無いようなものだ。
十分に塩辛コロナに馴染んだ世界には、ウイルスは有っても無いようなものになるだろう。

ワクチンで感染が治まっているとか、重症化が減らせるとか、ワクチンは無駄ではないと熱心に告げられるが、ワクチンが1割ほどしか間に合わなかったインドで、ワクチン漬けの地域より圧倒的に患者が少ないのは、「ド、ド、どうゆうこと!?」
戦争で儲かるのは軍需産業だが、コロナで儲けるのは誰だっけ?

新型鎖国
わけの解らないことだらけだが、
それでも、入国禁止はやらないよりやった方がいい。コロナ禍を避けるためではなく、日本が本来の能力を取り戻すためだ。日本は鎖国状態の方が、世界に優る文化力を育む。もちろん現代は、平安や江戸のようにはいかないが、情報化がむしろ日本の特性を増幅させるハズだ。これを機会に、何でもかんでも「人流」を呼び込むのは考え直した方がいい。

国際会議を始め、大抵のことはオンラインで可能になったし、人手不足は、外国人を当てにせずコロナで仕事を失った日本人を雇い、機械化を進める。長期滞在する外国人を呼び込む学術研究環境を整え、戦略兵器の中国観光客などは呼び込まず、別荘地のように上質な客を招ける日本にすべきだ。
旅客輸送は貨物輸送にシフトし、古いエネルギー利権は捨てて、再生可能新エネルギーに注力すれば、エネルギー供給国に気を遣わなくても良いし新しい産業になる。

入国禁止期間は、新型鎖国の道を探るまたとない検証ケースだ。
また、防疫の意味でも、空港またはその周辺に隔離を兼ねた、宇宙船のエアロックのような現代の出島を作ることだ。仕事も遊びも全て国内と同じように過ごせる都市レベルの一大地域にし、入国者は必ずそこで一ヶ月過ごさなければならないことにする。直接会えないだけで、日本国内の人とは普通に連絡できる。当然、長期滞在目的以外では入国できなくなるから、ここが観光目的になるぐらいの規模であれば、空港は業態変更で別の収益が見込める、無論、こうした入国制限は物流には影響しない。

バカげた妄想と思われるだろうが、この方が日本の付加価値が上がる。そして、もう一つ重要なことは、日本の全ての世界遺産を返上し、日本そのものを世界遺産に高めることだ。