中国のテニス選手のスキャンダルは、ノーベル賞作家の幽閉抹殺より影響が大きい。
ノーベル文学賞や平和賞は、ノーベル賞委員会の作為的なメッセージで、理念問題だから、誰でも反応するわけではない。
しかし、身の下問題には誰でも反応する。誰でも身の下があるから、政治や理念などどうでも良い人が真っ先に反応する。だから、影響が大きい。
衣食住は個人的問題で身内以外は他人事だ。しかし、他とのかかわりである性には、文化的側面がある。頭と身体が連動するから、声を上げる。
性と婚姻は文化そのもの
性は、原始的なほど器官が支配するが、高度になるほど知的学習が支配する。さらに、知能が発達し観念世界が広がると、観念で性的興奮が生まれる。
通常、人間は知的学習レベルで性衝動に違いがある。後天的な経験や文化で、価値に対する欲望が生まれ、性もその欲望実現として刺激される。しかし、知的欲求が生殖欲求を超えると、肉体的衝動より幻想や妄想に刺激されるようになる。
何をどのように食べ、何を笑うかで、だいたいその人の知的領域や人格が窺えるように、性癖にも人格が現れる。裏を返せば、日頃の言動を見れば、妄想しなくても、閨房は見える。ただし、おバカキャラを本当に馬鹿だと思うような観察眼ではムリだ。表面だけではわからない。
個人の性的嗜好に、文化や知的レベルが影響するように、国家や民族、時代にも性文化の特徴が有る。
日本女性の場合、以前はマッチョに魅力を感じる人は少なかったが、欧米人の場合はかなり重要なファクターになる。また、日本男性の場合、昔はオッパイを見ても特に動揺することはなかった。どんな所でも授乳するのが当たり前で、混浴も特別なものではなかった。隠すものではなく、それを見てムラムラする方が変態だった。
昔、ロンドンで日本の春画展があり、英国女性たちが興味津々で押しかけていたが、そのころ日本ではそんなものの公開など考えられなかった。50年後の今ではロンドン並みになっている。文化的な性の様相は常に変化する。
ただ、その中で総じて、欧米の性文化は物理的であり、個人の権利そのものだが、東洋は情緒的で、肉体はかりそめの物だ。
欧米では名前の響きや顔や身体など個人に直結する特徴に関心を持ち、東洋では行為や言葉や地位に関心を持つ。そして東西とも、相手の持つ特徴を自分のものにすること、そこに融合することに興奮する。
源氏物語の中では、地位や和歌や行為は出てくるが、風貌は良しあし程度しか解らない。中国の古典読み物なども身分ばかりで、風貌のディテールは無い。
情緒に興奮する東洋では、肉体への執着が薄く、妾や結納など、人身売買的行為にはあまり敏感ではなく、身は任せても気はやらぬとか、契るとかの言葉に興奮する。そのせいか、東洋ではあまり肉体に関する形態的な美意識が発達しなかった。
しかし、ギリシャ彫刻の昔から、個人を物理的に認識する欧米は、個人と人権と性は切り離せない。極論すれば、欧米人の性行為は物理的人格の交わりだが、東洋人の交わりは心や社会背景との交わりであり、肉体は手段や道具に過ぎない。
このことが、東西相互の微妙な誤解を生む。
性を個人の人権問題と捉える欧米に対し、東洋は、いわば、環境や社会問題と捉える。
東洋では性欲は人格とは関係ない機械的なものと捉えるから、性の商品化にあまり抵抗がなく、結納を交わす婚姻も事実上の売買だが、誰も深くは考えない。さらに、中国では子が生まれなかった場合のスペアとして、もう一人付ける習慣があった。中東でも、旧約聖書にアブラハムはサラのそばめが産んだ子を自分たちの子と考えていたとある。
立て前と本音
ローマ発祥と言われる一夫一婦制は、人類史でみればかなり特殊な制度と言える。これが、ローマが席巻した欧州で常識になり、形式的にはそれが世界の常識になった。
しかし、この制度は建前であって、世界では、建前の裏で、みな伝統的な価値観に従って男女関係を営んでいる。
中国や中東など、氏族繁栄を最大の価値とする地域では、女は子を産む道具として羊のように考えられていたから、権力、財力のある者が、多くの女を養い子をなすのは当然であり、女もまた、擁護力のある男に「就職」するのが当然と考えられていた。
それが今日、一夫一婦制の陰で、意識の中に生きている。また、夫婦別姓で中韓が日本は遅れていると自慢するが、これは、女は男の家の子を産みさえすればいい他人だからで、現代に求められる夫婦別姓とは真逆と言っても良く、夫婦同姓の日本の方が、まだ情があり一歩進んでいるのだ。
日本の場合、渡来の氏族や、中国伝来の男系による家制度が建前になっているが、古層には母系による男女対等、完全自由恋愛(対隅婚)が息づいており、誰かに惹かれるのに、身分や財力に引かれることは実は少ない。
あくまで一般論だが、日本人と比べ、家制度本家の中国人は徹底して地位や財産に惹かれる。日本人が、地位や財産を個人とは分けて考えるのに対し、中国人はその所有者そのものを魅力と感じる。
日本人が、魅力が無くても「割り切」って財力と結婚しようと思うのに対し、中国人の場合、金や地位がその人の魅力そのものと感じる。
日本の有名女優が、特別な財も地位もない一般人と結婚したと聞いて中国人が驚くが、日本人にはむしろその感覚の方が驚きだ。中国人の現実観は日本人にとっては「現金」でしかない。
こうしたズレはあるものの、日本も中国も人権の真空地帯に変わりなく、欧米人には理解できない。今日でも多くの娼婦を送り出し、「性売買追放週間」まである韓国が、慰安婦を性奴隷と欧米に吹聴したのは、欧米人が敏感に反応するからで、人権意識からではない。これは、中華式の戦術だ。
東洋の性や婚姻に西欧式の人権は皆無で、重要なことは義や功利だ。
人権問題で、欧米の価値観を押し付けるなと居直る中国では、歴史的に、属国に貢女を強いたり、権力者が女優をそばに置いたりするのは共産党も変わりない。
人権居直りの中共は、チベットに続き新疆自治区を、素晴らしい観光地と逆宣伝を始めたが、その魅力の一つに「美女」を挙げた。彼らが人権を理解することは死んでもなさそうだ。
新型兵器調達に余念のない中国だが、伝統的ハニートラップ兵器も健在だ。
東西文化理解の上で
さて、中国テニスの彭帥問題だが、坂上忍が、「大人の問題」のようなことを言ったらしく、人権問題だと炎上したらしい。エンタメ炎上に参戦する気はないが、彭帥問題は中国的世界で起こっていることを念頭に置く必要がある。
彭帥問題だけではない。中国の人権問題は、欧米の価値観が東洋には当てはまらないことを示している。
かと言って、中国の居直りが正しいわけではない。西洋式の人権や民主主義は、おおむね、人類進化の方向に沿っているのだと思う。しかし、日本人を含め、東洋人が西欧式の人権を理解するのは、そう単純ではない。互いに、水族館のガラスを隔てて理解しているようなものだ。
まず、渦中の彭帥の公開した内容と実体がどういうものか、良く解っていない。
ただ、おぼろげな事実は、単純に性的強要を訴えたものではなく、昔、一度は恋愛関係として受け止めたものが、再び火が付きかけたのにフラれた、怒りのようだ。単純には、いわゆる、痴情のもつれの類だ。前述のように中国の恋愛パターンの中では、あり得ることで、異常な関係ではないだろう。おそらく、坂上忍はこのことを言ったのだろうし、下世話な炎上パワーが真に欧米的人権を理解しているとも思えない。
アジア的文化問題にもかかわらず、ここまで問題になっているのは、当事者が中共政治の中核的存在であり、メンツと権謀のトリガーだったことだ。中共が例のごとく、雑で単純な「処置」をしたことで、欧米の「人権」に火が付いた。
悪徳牧場主と保安官
そもそも中共の行為にはどこにも人権など無い。
全てが、政治の力学に終始し、その政治とは養豚・養鶏のように考えられている。良い餌を与えるのが良い政治であり、鶏インフルが発生したら、早急に殺処分するのが賢明な政治だ。これが、中国共産党が自慢する「特色ある民主主義」だ。
天安門で殺処分した後、順調な畜産経営をしてきたが、放し飼いを始めたら問題個体が増えてきた。
ノーベル平和賞の劉暁波や、今回の彭帥の場合、殺処分するには有名すぎる七面鳥なので、「風評被害」を考慮すれば殺せない。だから、殺さなかったことにして動物園に移し「自然に死ぬ」のを待つ。
また、別制度で放し飼いだった香港の豚や鶏をケージに入れるために、規格外のものを駆除し、規格品をケージに入れて餌をやれば、外の家畜もおとなしくケージに入ってくる。
実に手慣れた、伝統の畜産技術だ。
人権問題で中国に怒る欧米の主張が独善であることは否めない。しかし、中国共産党の行いは、それをはるかに超えて間違っている。
問題は、人権問題でも経済戦争でもない。中華文明の暗黒面を利用して世界制覇を試みるヤクザ集団の暴力に、世界が屈するか否かの問題なのだ。
世界は法治による平等な地球国家を目指しているが、ヤクザ国家は力関係による親分子分と縄張りしか理解できない。
1930年代、ギャングに支配されていたアメリカは法治を取り戻すのに相当苦労したが、もとはと言えば、禁酒法という愚かな善意のためだ。
今、ギャングと同じ手法で中国に席巻されている世界は、アメリカの中共承認とWTO容認という善意の結果だ。再び正常を取り戻すには、相当なエネルギーと身を切る覚悟を迫られる。
ギャングとの戦いは、正攻法では勝てない。ワイアットアープやフーバーのような毒を用いるしかなさそうだ。そして毒であることを常に忘れないことだ。
清濁併せ呑む。この勝負、ロシア抜きでは勝ち目はない。