魯生のパクパク

占いという もう一つの眼

不可思議

2024年02月25日 | 星の流れに

ロシアの反体制活動家、アレクセイ・ナワリヌイ氏が死亡した。普通に考えれば、プーチンによる暗殺だ。だが、それでは話しがあまりにも単純すぎる。
これまで暗殺された反体制活動家は、獄中ではなかった。見え見えの暗殺でも一応、表向きは責任の無い形を取ってきた。
それが、権力の手中にあり、しかも僻地に移送しておいて、暗殺する必要とメリットはどこにあるのだろう。しかも、選挙の前に。

仮に、ロシア国内でこの事実が広まったとしても、ロシア国民の多くが、「非国民だから、当然だろう!」と思うぐらい、ロシア国民は洗脳されているのだろうか。戦前の日本でも、反体制活動家に対する一般認識はそのようなものだったから、権力が暗殺しても何の問題もなく、むしろ、利点の方が多いと考えたのだろうか。
あるいは、プーチンの判断力が狂っているのだろうか、それとも、取り巻きの暴走を止められなくなっているのだろうか。
また、もしかして悪材料で追い詰めようとする、反露、反プーチン勢力の陰謀なのだろうか。

いずれにしても、さらに不可解なのは事後処理だ。遺体を家族に会わせなかったり、密葬を強制したりとか、ますます、権力側の犯行を裏付けることを重ねている。
ロシア軍の逃亡操縦士をスペインで暗殺したのは、ある意味合理性で腑に落ちるが、ナワリヌイ氏暗殺に合理的利益があるとすれば、ロシアという国の体質なのか、独裁国家の生態なのか。やはり、スターリン時代にあれだけのことをやっても何も起こらなかった国だからだろうか。とにかく、極端に単純なのか複雑なのか、不可思議だ。
中国でさえ、立前を重んじ、これほど露骨な暗殺はしない。

冥王星、キターッ!
何度も言うように、冥王星が水瓶座で動き始めた。冥王星は文字通り「冥府魔道」の星であり、問答無用の「力」を表す。
冥王と閻魔は同じようで違う。冥王は冥界の王だが、閻魔は役人だ。官僚帝国中国の閻魔は一つの役職で、全ての力を持っているわけでもないし違法なことはできない。しかし、冥王は冥界の王、絶対権力者であり、立前も理屈もない。やりたいようにやる暴君だ。
したがって、冥王星の表す人物はヤクザや各界の闇の帝王など、いわゆる「ドン」であり、サソリ座と同じ意味になる。サソリ座はセックスを表し死と再生の場となる。巨人を倒す小さな虫は原子核でもある。国で言えば朝鮮半島だ。

水瓶座に冥王星が来ると、水瓶座のロシアは冥王風になり、サソリ座の北朝鮮も来た。
一方、水瓶座に対峙する獅子座にとっては、これを相手にすることになる。獅子座の岸田首相は冥府にいるはずのドンに振り回され、南北朝鮮に振り回されている。
冥王星の来た星座には大量死が起こる。今ロシアは自国に大量死が起こっているが、その前の山羊座では、対峙するカニ座の中国が、コロナによる世界の大量死に振り回され没落が始まった。

これも何度も言うことだが、星の影響とは、自らの衝動による関わりの結果だ。
川があっても、飛び込まなければ溺れない。氾濫があってもそこに居なければ、早めに逃げれば巻き込まれない。それをやってしまう衝動が起きるのが星の影響だ。
ロシアも中国も、しなくても良いことをして影響を受けている。

なお、ナワリヌイ氏は双子座のシャーシsでサッカーの本田と類似。また、日干支はゼレンスキーと同じ丁亥。いずれにしてもプーチンとは相性が悪い。
この不可思議事件、占い的にあえて答を探すなら、不測の事故死がつじつまが合う。自分の星座に月が来ると情緒不安定になる。この日は双子座の月で、特別に個性の強い人が何らかの行動を起こした。この結果に一番慌てているのは政権側かもしれない。


本来の姿 2

2024年02月23日 | 日記・エッセイ・コラム

ハワイや南洋の島に布教に来たキリスト教宣教師は、裸の胸を隠すように命じた。明治政府は欧米に認められるため、「文明開化」と称して、混浴や公での和服など様々な風習を禁止した。さらに、琉球処分の後、明治政府に送り込まれた教育指導の教師は、古来の風習どころか言葉まで禁じた。
そして、敗戦後の日本人は欧米文化に洗脳され、人前での授乳や、庭先での行水を恥ずべきものと信じるようになった。

日本のこうした変化は、すべて明治以降に起こったことであり、婚姻・戸籍制度など、自民党議員殿の信じる国風や国柄とは、明治政府による欧米崇拝によって形成された試行錯誤、一時の「気の迷い」に過ぎない。
明治以降150年の試行「錯誤」を直視し、良いところだけを残して、また本来の日本人の生き方で歩み始めても良いのではないか。

90代の沖縄生まれの「おばあ」に昔話を聞いた。小学校を終えると若者は浜辺などで恋の出逢いに集ったという。星あかりが海に映えて美しく、月夜は真昼のようで明るすぎたと青春時代を偲んでいた。
この話を聞きながら、東南アジアから環太平洋全域に広がる歌垣や、日本の古典に垣間見える恋の出逢いを思い、胸が熱くなった。今も沖縄の出生率は高い。
明治の日本教育、殊に戦前は、こういうことを野蛮、はしたないとすべて禁じたのだ。キリスト教の神による承認を男女関係の条件とする一夫一婦の価値観に、武士の「家」を合わせた夫婦同姓は、まさに外来種であり、これを「国柄」だと信じ込んでいる人々は「ボーボー」と自己主張する外来種のウシガエルそのものだ。

→「本来の姿3
→「本来の姿1


本来の姿 1

2024年02月22日 | 日記・エッセイ・コラム

夫婦別姓を否定する自民党には、自分自身は使い分けている女性議員がいる。
これを指摘すれば、何とでも言い訳するのだろうが、笑えるほど「いやらしい」。
近頃、スカート内を盗撮する警官が頻繁に検挙されるが、聖人君子の立場で働く警官は、どうしても本音が溜まってしまう。昔から、わいせつを取り締まる人には、陳腐なわいせつ基準があって、美術館の裸体画に布を掛けて隠した話は有名だが、今でも似たような話は少なくない。
また、元泥棒の防犯アドバイザーには危険箇所がすぐ分かる。それは加害者の目で見るからだ。つまり、「わいせつ」を言い立てる人には、劣情で見るからそう見える。まっすぐなものが曲がって見える心根を「いやらしい」という。

「美しい日本文化」を守る為に、性教育を否定し、夫婦別姓を否定する人は、同姓でなければ別れてしまうのだろうか。性教育などしなくても、コウノトリが性病を防いでくれるのだろうか。
では一体、その「美しい日本文化」は何時から始まったのだろう。明治以前には名字帯刀を許された人口は10%も無く、夫婦同姓は明治に全国民が姓を持ってからの話しだ。
明治からわずか150年、縄文からの日本1万6千年が1年なら、12月28日からの数日が日本文化の全てだというのだ。たとえ卑弥呼まで遡っても11月末からだ。

明治の戸籍制度を日本古来の文化だと強弁する、聖人君子の国会議員殿は、結局、自分自身が別姓で仕事せざるを得ない。
明治生まれの靖国神社を戦死者を祭る唯一の場と信じ、夫婦同姓が日本文化だと信じる人たちの正体は、明治憲法のゾンビ、亡霊だ。別にゾンビが悪いわけではない。「いやらしい」のは、自分が外来ゾンビであることに気づいていないことだ。
憲法改正は良いが、一度、失敗したはずの明治憲法を復活させることを改「正」と信じるゾンビに、日本が占領されていることは、底知れず恐ろしい。

本来の日本文化
縄文&弥生の日本文化の在来種が絶滅しかかっている中での憲法論議は、在来種と外来種=明治ゾンビの戦いだ。日本文化は外来文化を常に上手に織り込んできた。明治ゾンビのように、失敗した外来文化に再び染め直すことは「日本古来の伝統」ではない。
明治まで、日本の人口は4000万を超えたことがなかったが、明治ゾンビはその3倍の人口の減少を心配している。
外来ゾンビには理解できないだろうが、本当に人口増加を望むなら、夫婦同姓や男系のこだわりを捨てて、あるがまま、生まれるがままを受け入れる、日本古来の柔軟なルールに帰るのが一番だ。

今、実際にできることは、手足を縛ったままの、結婚奨励や保育所の増設ではない。シングルマザーの保護と優遇のための、国立の「駆け込み寺と赤ちゃんポスト」。さらに、子供の保護を目的とする「子供の国」の設置だ。
保育園、幼稚園、学童保育、できれば老人センターとも一体化させて、親がどういう状態であろうと、ワンストップで子供を守る、子供養育施設だ。

子供を預けるのではなく、親が預かる逆転の発想だ。もちろん、全て自ら育てたい人はそうすれば良いが、様々な理由でそのゆとりのない人も安心して子供を産める環境を整える。これにより、親の負担がなくなり、児童虐待などのリスクも減る。施設制度そのものによる虐待の可能性もあるので、老人と同居あるいは交流する老保一体で、元気な者が互いに面倒を見あう場は、昔の大家族、もっと遡れば縄文集落を社会制度化し、全世代が関わり合う場をつくる。

莫大な費用に見えるが、参加者の相互協力を前提とすれば、個々に預けたり迎えに行ったりするより、社会支出は減るだろう。試算してみて欲しいものだ。
高校無償化が騒がしいが、これも外来種脳だ。ウソにウソを重ねるように、制度に制度を重ねても、政治資金問題同様、「賽の河原」の石積みで切りがない。今こそ、本来の日本に立ち返り、日本人の人間力を再生する好機だろう。

→「本来の姿2


活力再生

2024年02月16日 | 日記・エッセイ・コラム

服部メロディーが好きで、特に『蘇州夜曲』が好きなのだが、残念なことに国策映画に使われたので、中国で忌避封印され、日本でもやや日陰の歌になってしまった。それでも、名曲は多くの人にカバーされ、昨今、希には中国でも演奏する人がいる。服部良一自身も葬式に流してくれと言ったそうだから、『ブギウギ』を切っ掛けに、何とか見直されないものかと思ったが、話しはもう戦後に移った。

昔の中国の歌と言えば『夜來香』や『何日君再來』も名曲だが、『蘇州夜曲』のような情感が無い。『ブンガワンソロ』や『アリラン』、『茉莉花』、『さくら』のように、アジアの歌として『蘇州夜曲』は世界に知らしめる歌だ。
『東京ブギウギ』や『銀座カンカン娘』はよく知られたが、日陰者の『蘇州夜曲』こそ、政治を超えて、世界に残す歌だと思う。

活気の源泉
それはさておき、『ブギウギ』は楽しい。朝ドラにはお笑い芸人の出演がお約束だが、今回の東京支社長・黒田有は抜群だ。これまで、大阪人をやらせるならこの人という役者が何人かいたが、しばらく途絶えていた。そこに黒田だ。大阪のあくの強さや人情をそのまま体現している。

黒田有は大阪人だから違和感が無いが、趣里の大阪弁はよく頑張っているだけに、少々残念だ。聞いていると、今の若い女の子の大阪弁だ。言語指導している人が若いのではないかと思う。あるいは趣里の努力かも知れない。現在の最高齢の人でも笠置シズ子の大阪弁より新しいが、それでも、今のおばあちゃん言葉が恐らく当時の大阪弁に近いだろう。
百歳の滑舌をマネしても仕方ないが、当時の映画は残っている。せめて音声の残っている時代くらいは配慮して欲しい。サンマの言う「でんがな、まんがな」の時代だ。
通信が発達し全国が均質化している今に比べ、戦前戦後の大阪弁は、よりあくが強く、東京弁は上品だ。ただ、河内と船場では違う言語に聞こえるぐらい大阪弁も幅が広い。

戦後の経済発展は、日本人の活気で成し遂げられた。この時代の映画『社長太平記』や『大番』、『図々しい奴』など、観ている方が恥ずかしくなるような、なり振り構わぬ傍若無人の破壊精神だ。笠置シズ子の大阪弁も残っているはずだが、ドラマ関係者は見聞済みだろうか。記憶では、もっと人をおちょくったような、それでいて礼節をわきまえて用心深いざっくばらんな、本当に筆舌に尽くしがたい存在感があった。

戦後の高度成長を牽引したのは、苦難の戦中派とその中で育った焼け跡派など、戦前生まれだった。破壊者として現れた団塊世代だったが、実はその継承者に過ぎない。
いま、Z世代と言われる若者に、昭和がブームだそうだが、それを牽引しているのは、「懐かしい」高度成長期の生まれだろう。
流行は、大人世代の価値観に、若者が感化されて繰り返される。
団塊世代が焼け跡派を信奉したように、高度成長期の記憶をZ世代が肯定するなら、再び日本に活力が生まれ成長を始めるだろう。もちろん、新しいやり方、新しい方向へだが。


知の大海

2024年02月10日 | 日記・エッセイ・コラム

戦後教育で、近現代史を教えなかったことは、無責任だが、結果的に最良だったのかも知れない。国が学校で教える歴史は、どうしても偏ったものになるが、受験でその正解を強いられる様は、外国から見れば滑稽であり、同時に学歴社会の愚を映す。
現代のように様々な媒体から学べる環境では、本当に知りたい人は自分で学べるから、偏った歴史観を注入されることはない。
一方で、媒体そのものが偏っていれば、偏った知識に染められて、危険だという意見もある。ただ、これは歴史だけの問題ではないのだから、ネットリテラシーこそが学校の仕事になる。今や初等教育も丸暗記ではなく、学び方を教育する時代になった。

情報の未来社会では、学校は学ぶための基礎教育、つまりは「遊び」による人間教育に徹し、権威の大系による洗脳を根底から変えるべきだろう。ましてや、就職や資格のための学校など、もう要らない。中華史の科挙浪人のような、受験戦争に人生や社会資産を費やす社会に発展はない。
よく教育と学校が同義語で語られるが、学校は近代の手段に過ぎなかった。
「教育=学校」の概念を白紙に戻し、古来の「師から学ぶ知の大系」から、体験と対話による判断力養成で「知のネットワーク化」を模索しなければ、AIとは共存できないだろう。

情報知の大海原
多くの学校は、国や宗教の価値観の継承を目的に始まっている。
近代教育と学校制度は、キリスト教の価値観が色濃く反映され、異論・異端を排除する一神教精神を前提の「真実追究」が基本となり、科学面では大成功を収めた。
だが、これは、為政者にとっては、思想の「真実化」に極めて都合良く、様々な主義の教化を間単にした。それが、近代の大戦争時代の一因ともなっている。
人間の価値や能力を偏差値で数値化して疑わないような社会は、敗戦まで誰も疑わなかった戦前の軍国主義一辺倒と何ら変わりない、総白痴化だ。

情報知の大海を渡って行くには、燃料による動力ではなく風と水の方が役に立つ。数学より算数、方程式より柔軟なアルゴリズム思考の方が知的処理に役に立つ。
未来に求められる能力は記憶力ではなく、思考力、判断力、そして知恵だ。近代の教育制度が生まれる以前に立ち返り、知の集約や学びのあり方を根本から考えてみる必要があるのだが、それを為すべき知識人自身が近代教育システムに洗脳されている。また、高学歴社会で、社会常識が「高レベル」で均質化しているので、社会の自己変革は起こらない。結局は、情報環境の変化の中で、「古典的知」が崩壊するのを待つしかないのだろう。
近代教育の何が間違っていたのかは、錬金術や徒弟制度の頃まで立ち返って考えてみるしかなさそうだ。


不易流行

2024年02月07日 | 日記・エッセイ・コラム

近頃、若者が「。」に圧力や脅威を感じると言うことで、大人世代が動揺している。
「。」拒否は、主にネット上の通信文のことだろうが、解らなくもない。
ネットが日常会話の場になっている以上、通信文は会話であり、「。」が付けば成文化された「動かせぬもの」の権威を帯びるのだろう。

会話は「、」や「。」を付けなくても、呼吸で区切りや間合いが分かるが、文章は感触、ニュアンスが分からない。
文章と会話は違う世界と大人は思ってきた。しかし、ネットで文字慣れしている若者世代は、文字だけで呼吸を読み取る能力を付けている。あるいはそう錯覚しているのかも知れない。
現在の大人世代も、戦前世代の通信文には違和感を感じた。軍隊用語は言うまでもないが、通常の手紙も「候文」で、日常は使わない言葉や仮名遣いをしていた。
今の若者も、それと似たようなギャップを感じるのだろう。

ネット後の文章常識が、徐々に変化していることは事実だ。
しかし、だからと言って、若者に合わせて大人が腐心することはない。その世代にはその世代の会話や文章があるのは当前だし、その多様性によって社会に厚みができる。
言葉は時代によって変遷する生きものだ。手紙の候文がいつの間にか消え、一方でビジネス文書の陳腐な定型文が残っていたりする。

明治の言文一致運動から1世紀も経った70年代に、見慣れぬ会話体で書かれた雑誌記事に、「記事の文章ではない」と揶揄する人も多かった。それから半世紀経っと、ネットでは「。」無し文が一般化し始めた。
どの文体どの見方も間違いではない。言葉は環境変化の中で自然に変わっていく。聞き慣れない話し方や文章を、拒否する人も迎合する人もいる。そうした摺り合わせの中で息づいているのが言葉なのだから、ファッションと同じで、自分の信じるものを纏い用いれば良いのではなかろうか。

どんなファッションを見ても、自分の概念に無かったものを、「けしからん、みっともない」と思う人もいれば、「へえー!やってみよう」と思う人もいる。
シャツの裾を出すか出さないかと同じで、「。」問題もやがて新しい定型が生まれ、収まるところに収まる。
古今東西、言葉は違うが、その場の言葉が通じなくなったこともない「。」


メンタル

2024年02月05日 | 日記・エッセイ・コラム

イラン戦敗退で、監督や選手、戦い方ばかりが言われているが、心技体の心の部分が語られない。
戦いには「気合い」が欠かせない。実際、どの選手も応援は力になると言うし、応援する人達もそう思うから応援しているのだろう。
どんな戦いでも、「弔い合戦」の掛け声が上がると妙に強くなるし、明治維新も錦の御旗を上げた方が強くなった。また、「信なくば立たず」も大義がなければ集団行動は成り立たないことを説いている。

どんなに優秀な兵力を備えていても、大義のない戦は勝てない。様々な戦史にも侵略してきた大軍を、少数の防衛軍が防ぎ切った例は多い。地の利もあるが、何よりも死に物狂いの強さだろう。防衛戦争はゆとりのない戦争だから常に背水の陣で、精神的には守りではなく攻めになる。
日本は、強い強いと言われて、守りに入ったわけではないだろうが、アッサリ負けた。しかも、見るからに戦闘意欲に欠ける負け方だった。
一つには、相手がイラン、イラクという「こすっからさ」のメッカのような中東だったこと、また明らかに偏った中国の審判と言うこともあった。
しかし、本当に強ければ、この程度のハンデは乗り越える。中東の「こすっからさ」はイラクで既に体験している。反日審判だったとしても悪名高い2002年ほどではない。

結局、敗因は体力や能力ではなく、気力だった。中東と中国という悪環境の中、徐々にやる気が無くなっていき、後半、選手は「どう打開して良いか判らなくなった」と言っていた。監督も同じだろう。しかし、もし、普通の状態で戦っていれば、この環境さえ奮起の原動力になり、持てる経験と能力の中から突破口を掴んだはずだ。
しかし、このチームは初めから折れていた。伊東純也報道は、真偽の問題以上に、いや、真偽の騒音そのものがチームと協会を混乱させ、ショックのまま試合を迎えた。日本チームと言うより日本人の繊細さへの、強烈な爆弾攻撃だった。

バタバタの日本の協会に対し、伊東の属するフランスのクラブは「人間性や振る舞いに疑問を呈したことは一度もない」と宣言し、「証拠を待つ」とした。日本の協会とは大きな違いだ。事件の決着が着く前に選手を疑うような態度が、チーム全体の志気を崩壊させた。高校野球などで見られる謹慎、萎縮と同じメンタリティーだ。
これは日本社会、日本人全体の問題であり、攻撃されると反撃する前に自省(自己点検)する。日本の内輪なら殊勝な態度で良いかも知れないが、外国相手ではウロウロしている内に次の矢を射込まれる。外との関わりに日本流は通用しない。

試合に負けた後、どの国の報道も辛辣で、決して日本の内輪の事情など気にすることなどなかった。勝ちだけを求める日本のサッカーファンも、選手の心情などどうでも良い。
まさに、勝てば官軍負ければ賊軍ということだが、プロセスや気合いを大事にする日本人ファンなら、もう少しチームのメンタルに着目しても良いのではないか。日本の強さの大きな部分として、団結力があったはずだ。


末期症状

2024年02月03日 | 日記・エッセイ・コラム

アジアカップの最中、このところ活躍めざましい伊東純也が「性加害」で告訴され、試合から外れた。
伊東純也に関しては、フランスの大統領夫人も大注目という話もあったほど、輝いていたが、半年前の事をアジア大会のタイミングで告訴報道とは一体???

伊東の生年月日を観て嘆息した。魚座だ。魚座に土星が来たことで、魚座に関する様々な事柄や魚座の人に「萎縮」、「束縛」が起こっている。
事の真相は藪の中だが、「酒」が絡んでいるのも魚座らしいし、女性二人というのも魚座らしい(話せば長くなる)。そう言えば、『藪の中』の芥川龍之介も魚座だった。

一方、週刊誌は射手座か双子座だが、ゴシップは双子座になる。芸能人は魚座の変容宮だから相性が悪い。今回の場合、週刊新潮がスポーツゴシップを取り上げそれが性加害訴訟と言うから、何もかも「変容宮」の世界だ。
「新潮」の名前は魚座で、スポーツと法は射手座だ。中でも足のスポーツ、サッカーは射手座と考えられる。足先は魚座で大腿部は射手座。

錯覚文化
さらにもう一つ興味深いのは、「性加害とは何か」という問題だ。性は水の星座の分野で、先祖や子孫はカニ座で、生殖はサソリ座、そして、性文化は魚座と考えられる。
性を意味づけるのは魚座であり、性行為という「苦行」を求める錯覚は魚座だ。LGBTやファッション、水商売、照明や香水、髪型も魚座に属する。
昔から、合意、不合意の判定裁判は難しく、イヤヨイヤヨも好きのうちの迷言もある。つまり、性行為に到る過程は、多分に文化や価値観が影響する。
また、マスコミの大好物「不倫」も、さしたる意味の無いものに、あたかも重大な意味があるかのような錯覚をもたらす言葉だ。

「姦通罪」は秩序重視の江戸時代の掟であり、江戸時代は妾や売春も認めていた。
戦後の新憲法では姦通罪がなくなり、公娼もなくなった。キリスト教文化を前提の婚姻は、婚外交渉を否定する文化の上に成り立っているから、「不倫」=離婚となり、離再婚を繰り返すアメリカ文化が生まれた。
しかし、マスコミが煽り立てる「不倫」は、姦通罪の「記憶」を前提にバッシングするものだが、売春を否定しながら、姦通罪を煽り立てているわけで、社会秩序の是非もなく、古い秩序の押しつけで稼ぐ、無責任極まりない悪辣商法だ。

サッカーは国の存亡に関わるような問題ではないが、文化的なイメージの側面で、ある程度は国益に関わっている。後でも先でもなく、世界に注目されるような時点を、あえて狙って報道することで、より大きな商売効果があると思ったのだろうか。誘致の贈収賄なら解らなくもないが、出場選手の性スキャンダルを煽ってしたり顔をする、報道センスそのものが思考萎縮の末期症状だ。週刊誌時代もまもなく終わる。

P.S.
この後、チーム全体が動揺したままイランに当たった日本チームは、あっけなく敗れた。
誰に褒められるかは知らないが、「新潮」の大手柄だ