魯生のパクパク

占いという もう一つの眼

賭場の客

2019年02月28日 | 日記・エッセイ・コラム

中国の爆買いが消えて、焦っている小売業界の話が出ていた。中国政府が、メンツのために様々な規制をかけたのも一因だ。(タテマエは国内技術振興や外貨流出防止だろうが)何しろ、見栄、ハッタリが命の国だから、「爆買」などと言われたことがシャクに障ったのだろう。
逆に言えば、そう言って蔑視する日本人の態度こそ、愚かだ。
店では慇懃無礼にふるまいながら、店の裏で「豚に真珠だ」と話しているのを聞いたら、だれでも頭にくるだろう。

とりあえず、爆買いの熱気は冷めたが、中国の需要が無くなったわけではない。
買い出し客が消えても、日本企業は中国需要をつかむために、「アリババなど中国通販に積極参加して、売り上げを伸ばしている」と、経済評論家が紹介し、評価していた。
あ~あ、また、これだ

生産と流通の形が変わり、今まで幅を利かしてきた「問屋業」は衰退したが、代わって、AmazonやGoogleなどのIT企業が、生産を牛耳るようになってきた。これにいち早く注目した中国は、人口メリットを活かして、アリババや百度など、独自の模倣システムを展開し、国内に確立した上で、世界に進出しようとしている。
これに対し、日本ではソフトバンクや楽天があるものの、スケールにおいて比べ物にならない。

敗戦後、大躍進した日本の経済力は、実直な「ものづくり」に拠るものであり、金融でも取引でもなかった。重工業からハイテクに至る、世界のハードを築くことで繁栄できたものの、技術の飽和はニーズの停滞をもたらす。情報、流通による技術の消費の時代に入ると、日本は活力を失った。
替わって出てきたのが、中韓のような功利主義の国であり、白でも黒でもネズミ(金)さえ穫れば良い猫は、草食動物を狙う肉食獣だ。

しがない町人
日本では、猿蟹合戦のカニは良いヤツで、サルはとんでもない悪者だが、中韓の論理では、サルは賢く、カニは支配されるべき、愚か者になるだろう。
買いに来てくれなくなったから、相手方の流通ルートに入れて貰って、製品が売れると喜ぶ日本企業。
これは、各地の生産業が問屋に売って貰い、問屋業が生産と消費に決定的な主導権を握る、従来の権力構造と何も替わらない。「商」の天下だ。
売らせて下さいと、合弁会社で参入し、技術を提供して後のシェアを奪われる、侵略ビジネスの餌食だ。

日本から技術提携を受けた韓国企業が、何が何でもこだわったのは「シェア」であり、悪貨であろうと、「シェア」が良貨を駆逐することを知っていたからだ。
今、その本家である中国がスケールメリットを武器に、職人の日本を呑み込み、傘下に入れようとしている。

米中の覇権争いは、この「商」における、「問屋」の争いだが、有り体に言えば、ヤクザの縄張り争いだ。しがない職人の日本は、どっちの「親分さん」の縄張りで商売を「させてもらう」かを迫られている。
重商主義の幻影に惑わされた日本は、アメリカの親分さんに楯突き、指を詰められて傘下に入り、「民主組」の縄張りで繁盛させて貰ってきた。
今、「売れさえすれば、私らは幸せです」と、もみ手をしながら近づく「全体組」は、絶対服従の恐竜脳の世界だ。ひとたび呑み込まれたら、対等の会話をさせて貰えるような相手ではない。

韓国が「商」における中華の舎弟であったように、北朝鮮は「統治」における中華の舎弟だ。何れも中国の本質を恐ろしいほどに具現している。しかも、朝鮮半島と違い、中国は巨大だ。
中国の賭場の誘いで、最初に勝たせて貰って喜んでつぎ込むと、身ぐるみ剥がされ、家の登記簿から娘まで奪われ、スリランカのようなことになってしまう。
それでも、「商」の本質を心得ない、馬鹿正直な職人の日本企業は、良い商売をしているつもりで、中国親分の賭場に参加させて貰おうと日夜、苦労腐心している。
正直者の日本人には、「泥棒に追い銭」も、美談としか見えないのだろうか。


違う働き

2019年02月18日 | 星の流れに

またも起こった児童虐待だが、今回は射手座の木星の影響が強い。
それ以前から、勤労統計不正で窮地に立っていた厚生労働省だが、児童相談所問題まで加わった。厚労省は、福祉の魚座と、健康・労働・学校の乙女座が合体している組織だ。魚座と乙女座に対し90゜と相性の悪い射手座は、データや教育や法を表す。厚労省は今回この問題で苦しんでいるが、木星は吉星なので、結果的には改善がもたらされる。

一方、厚労省のように、90゜の惑星で悩んでいるのは、土星と冥王星が90゜のヤギ座に居る天秤座の日本と、オヒツジ座の英国・ドイツだ。ヤギ座が家に当たる日本は国境問題で、名誉や立場に当たる英独はブレグジット問題で苦しんでいる。
同じ惑星も、星座によって違う意味、働きをする。

双子座のアメリカにとっては射手座は対人・外交だから、木星が来て、相手にする人が「増え」て忙しくなる。ことに「若者」や「成功者」が相手で、金正恩、ベネズエラの新政権、
中国、ファーウエィなどとの関係で忙しくなる。

カニ座の中国にとってはヤギ座が対人・外交だから、土星「壁」と、冥王星「魔王」を相手にすることになり、既におおわらわだ。中国の前に現れた、包囲網の壁とヤクザのようなアメリカは、鏡に映った自身の姿でもある。横車を押そうとすれば、必然的に周囲が「壁」になり、「魔王」が現れる。チャレンジャーには必ず試練がある。問題は、何にチャレンジするかだ。
大谷翔平、池江璃花子ともカニ座で、大谷の故障の時、池江に何も起こらないことが却って不安だったが、今回、「やっぱり!」と衝撃を受けた。二人とも、無理のし過ぎで、病気も偶然ではない。どちらも下の子で、カニ座ではないが羽生結弦も浅田真央も下の子、自分でセーブすることを知らないガンバリ屋だから、超人的な結果を出すが、行くところまで行かなければ止まらない。
「乗り越えられない壁はない」ではなく、神様の意思だと思って、ゆっくり体を休めてほしい。むしろ、頑張りすぎて治療ダルマになり、却って、悪化させることを心配する。

 


豚年射年

2019年02月11日 | 占いばなし

狙っているわけではないのだろうが、なぜか、申年にはサルの事件、酉年にはトリの事件が起こる。亥年早々、豚コレラが広がっている。亥年は本来、ブタ年で、日本に伝わった古代、日本ではブタに馴染みがなかったのでイノシシに置き換えた。
豚コレラ(トンコレラ)は、野生のイノシシが介在しているそうだから、まさに亥年の事件だ。

一方、木星が射手座の現在、スポーツ用品のデサント株に、伊藤忠が敵対的TOBを仕掛けて話題になっている。射手座はスポーツだから、当然の現象だが、デサントのマークが三本の矢のようなデザインで、伊藤忠が商社という点も、できすぎた射手座の話題だ。

十二支の「亥」は、星座では射手座に当たる。
十二支は後ほどその性質が強くなり、星座は始めほどその性質が強い。亥の月は11月初めから12月初めで、太陽が射手座は11月末から12月末だから、双方が重なる12月初前後が「亥」と「射手座」の本質を最も表している。
表現が異なるので、一見、別物と思われるが、亥と射手座は同じ内容で、
イノシシは猪突猛進の猪武者が象徴的だが、下半身が馬の射手座も矢のように突っ走る性質で、目的が定まると抑えが効かなくなる。また、亥は多産で、射手座も性にオープンで教育好き。

木星が射手座に約一年間滞在する年が、ほぼ、亥年の一年間に当たることになる。
結局、豚コレラも、デサントも同じ、亥年の事件というわけだ。

ところで、政府与党は「亥年選挙」を迎えるに当たり、2007年の亥年大敗のトラウマから、かなり警戒しているが、当時は、変革・革命星の天王星が魚座に居て射手座の木星と悪い角度90゜、加えて、冥王星も射手座、金星は乙女座、土星まで乙女座圏に掛かかり、「T」字状態で、不安定な「亥」だった。
今年2019年の亥年は、魚座の海王星ぐらいで、それほど不安定な状況ではない。裏を返せば、選挙結果は亥年のせいではないということになる。
どちら様も おきばりやす

 

※訂正
亥月の期間を訂正しました。正しくは、立冬から大雪前まで


未来の門

2019年02月09日 | 日記・エッセイ・コラム

AI時代になると、仕事が無くなると騒がれているが、こんなことを恐れているようでは、時代の落伍者になる。
仕事が無くなるのではなく、苦役が無くなるのであって、そんな時代に、人間がどう暮らし、何を為すべきかが問われている。

労働人口の減少を恐れている日本こそ、世界に先駆けてロボットとAI活用の社会を実現する、大チャンスなのだが、日本はまたも、後手に回ることになりそうだ。
バブル崩壊以来、先進国の持つ様々な問題を、日本は真っ先に経験してきた。これは辛いことではあるが、裏を返せば、最も早く世界のトップリーダーになるチャンスを得た幸運でもある。

これまで日本は、技術とノウハウをパクられ、それで儲けた金で、日本の足を引っ張り、武力で脅迫される。一方、国内では、原発事故を起こしても、さらに原発を維持しようと逆の努力をする。労働人口減少の心配をして、何の準備もなく外国から人を呼び込む。
中国が太陽電池を売りまくり、自動運転実験を進めている時、日本は法整備でごたついていた。
今また、AI時代突入の時、AI活用社会に踏み出すよりも、心配ばかりしている。

人口減少とAIの発達は、日本が世界のリーダーになれるかも知れない、大チャンスだ。
AI時代は、ロボットとAIに生産・苦役を任せて、人間は創造と進化に専念できる時代なのだが、逆に、これまでのような労働意識でAIと関われば、人間はAIに支配されることになる。なぜなら、産業革命パラダイムの労働は、人間を生産の道具(歯車)にすることだから、同じ概念のままでいれば、管理者に管理されることになる。資本家から、職能経営者、AIと入れ替わるだけに過ぎない。

ユートピアへの岐路
AI時代は、産業革命パラダイムの完成形として、人間が苦役から解放され、ユートピアのような時代が可能だが、それは、今まさにこの時代にかかっている。
ユートピアには賢人が住む。みなが賢人になれるわけではないが、みなが豊かな環境から、賢人は生まれる。
現行の婚姻や学校が、産業革命パラダイムの手段であることに気づき、それを捨て、ベーシックインカムのような生活保障を基本とすれば、自由と安心の社会の中で、学問、表現、スポーツなど、誰でもやりたいことをやれるようになる。
不可能要因ばかり挙げて、後ろを向くより、先ずユートピアをイメージして、今ある条件をフル活用する時が来ている。

婚姻は氏族が生産を安定させる古代の方法であり、学校は産革パラダイムの社会技術を一様に身につける手段だ。恋愛や性に婚姻は要らない。好奇心や学問に画一学校は要らない。
子どもは産みたい人が産みたいように産めば良いし、情報の時代に、集団拘束の学校は却って個の能力を削ぐ。生活の心配が無くなれば、何れも自由に高度化できる。
奴隷を前提としたアテネやローマの市民のように、苦役はロボットに任せ、日常の事務管理はAIに任せる。

そして、人間は奴隷の反乱を受けない能力を持たなければならない。AIに支配されないためには、人間が、人間にしか持てない能力を磨くことだ。
それは、前例のない事態に立ち向かう創造力であり、人間の持つ創造力は、常に自然と対峙する中で生まれた。
これからの教育は、子どもを自然の中で育てることであり、遊びと語らいの中で学び、創造力を鍛えていくことだ。漢字の書き順など全く知る必要はない。

とにかく、今誰もが当たり前だと思っている社会の常識、労働のモラルと言ったものを一切、ゼロから考えてみなければならない時が来ている。そこに、気づいた者が次世代の勝者になる。


カワウソ

2019年02月06日 | 日記・エッセイ・コラム

カワウソを密輸しようとして逮捕された連中がいて、ペットの飼い方について議論になっている。
最後まで飼う覚悟とか、ペット屋さんに出所を確かめるとか、ちゃんと勉強して飼うとか・・・議論百出だが、最も肝心な論点が欠けている。

そもそもペットは売買するものではない。

動物の売買は家畜、食肉、あるいは賭博用に取引されるものだ。ところが、ペットは家族だと言う人も、家畜同様に売買で手に入れている。お金を払って連れてきた家族など見たことがない。人間にお金を払うのは奴隷売買であり、実質上の売買である「結納」慣習さえも、市場で売られていた人と結婚するわけではない。

ペットを家族だと言うのなら、飼い主との縁を介して譲って貰ってはどうか、あるいは保護施設から引き取るのも良かろう。そんな縁故が無ければ、縁が無いと諦めるべきだ。恋人や友達を市場では買ってこない、出会いや紹介を通して知り合い、親しくなっていく。だから縁の無い人には相手がいない。
お金を出せば得られるペット売買が、当たり前になったために、逆に、人間関係まで殺伐としたものになっている。
結婚紹介会社に高額の金を払い、家族となる人を「買い求める」。これは双方が金を払っているのだから、互いに縁ではなく金の関係になる。そうでなくても、プレゼントやデートに、「相場」があり、恋愛さえも金で計られる昨今だ。
結婚紹介システムが悪いのではない。最初からお金を取るところに売買の非人間性がある。元々、婚姻制度そのものが問題だが、百歩譲って、結婚の縁が生じたことに礼をするのが人間性の尊重だろう。

ペットに対する感覚も、人間同士の関係も、殺伐としていることに誰も気づいていない。技術の発達が、不可能は無いと人間の敬虔さを失わせ、自らを、神でも人間でもない孤独に落とし込んでいる。人間性を知らない者が求める「癒やし」や「愛情」が、金メッキのむなしい物であること。それすらも気づけない。
仮想空間でしかコミュニケーションできない人間が、リアルを金で買う。全てが満たされているようで、何も満たされていない現実。

こうした悲哀から脱出する第一歩としても、ペットの売買を止めるべきだ。
売れないとなれば、非情なブリーダービジネスは無くなり、殺処分が減り、人とペットの関係も深化する。ひいては、人の関係も改善するかも知れない。
何でも金で得られるから、粗末にする食品、ペット、そして人間関係・・・そんな諸々のものに対する、心からの感謝と思いが生まれるには、簡単に手に入らないことを知り、不足に対する寛容を知り、そして、手に入れるための努力と洞察力を知ることが大切だ。
そういう心がけがあれば、金で解決しようとしてハマる、結婚詐欺や、オレオレ詐欺に遭うことも無くなるだろう。


昭和平成 2

2019年02月01日 | 日記・エッセイ・コラム

「明治からの戦前」に匹敵する戦後74年は、昭和44年間と平成30年間になるわけだが、それがどんな時代であったかを、端的に象徴しているのは、
昭和の「サザエさん」と、平成の「ちびまる子ちゃん」だ。

サザエとまる子
平成の「サザエさん」と言われた「ちびまる子ちゃん」の作者が平成とともに亡くなり惜しまれているが、サザエさんの作者、長谷川町子も、バブル冷めやらぬ平成4年に亡くなっている。
「サザエさん」と「ちびまる子ちゃん」が、時代の鏡とすれば、どこに違いがあるのだろう。
最も大きなちがいは、長子と末っ子だ。
戦後の開拓成長期は長子の「サザエさん」が、身動きできない閉塞期には末っ子の「ちびまる子ちゃん」がスタンダードになった。「ちびまる子ちゃん」の設定は昭和後期だが、アニメは平成のもので、このことも「平成」の性質を表している。

サザエさんの失敗を恐れないノーテンキに対し、まる子ちゃんはグチグチと批判的で、ひがみっぽい傍観者の視点だ。
サザエさんの作者の長谷川町子は中間児で、さくらもここ同様の弟妹の批判精神で見ているが、基本的に長子のノーテンキをバカにしながらも憧れ、それを良しとしている。しかし、末っ子のまる子の視点は基本的に破天荒を嫌うネガティブだ。
バブル崩壊で萎縮した平成の、イジメやハラスメントが話題になる時代の、日本人の心情に共鳴するスタンダードにふさわしい。

兄弟姉妹で考えることの意味は、長子と弟妹の、立場と視点の違いにある。
長子は何も無い世界に立ち向かうから、独善的で失敗だらけだが、他人のせいにすることを知らず、批判的ではない。独善で弟妹を叱責することはあるが、失敗しても一貫した方向性は保ち、失敗から学ぼうとする。誰かのせいにしようにも、その誰かがいない世界だ。
弟妹は、親や長子など、「既に誰か」がいて、それに束縛される立場にいるから、失敗を恐れ、何か問題が起これば、既存の束縛のせいにする。さらに不都合から逃げ切れなくなると、無かったことにする。

サザエさんの時代は、起業が盛んで、就職先も多く、失敗を恐れる余裕も必要も無く、「明日があるさ」の時代だった。だから、失敗談が共感を呼び、それを笑い飛ばした。
まる子ちゃんの時代は、社会も常識も固まっており、みな、何とか枠の中に入ろうと就活に苦しみ、はみ出し者や失敗者を排除しようと、「非常識」狩りに目が向けられた。経営者は失敗だけを恐れ、目立つ者に批判的で、無害な弱者には優しくあるべきの心情が広がり、爆発的な笑いより、密かにクスッと笑う笑いが好まれた。

実際、昭和の漫才ブームの頃の笑いは、笑い死にしそうな人をよく見かけたが、近頃は上品な笑いで、「ウケる」と言うだけの場合もある。
一方で、昭和には無かった風景として、男がやたら泣くことだ。そして、泣くことを奨励する運動さえ現れた。兄弟関係でも、長子は泣けないが、末っ子は何ごとも泣いて訴える。これも、まる子の時代なのだろう。

平成に入ると、バブル世代が中堅となり、昭和の団塊世代に対する排斥ムードが広がった。これは、サザエさんのような傍若無人で多弁な昭和を、ちびまる子ちゃんのような平成の萎縮社会が嫌ったからだが、昭和のまる子が平成の語り部であることと、バブルに就職した世代が、平成を担っていることと通じている。
平成末期になると、今度は、別の意味で空気を読まない「ゆとり」世代が排斥の対象になったが、「ゆとり」の誕生こそが、平成の次の時代を告げるものである事を、”平成の人”は、まだ気づいていないようだ。