落書きで大騒ぎになった。良いことではないが、いまさら、それほど騒ぐことだろうかとも思う。古今東西、空気のようにあるからだ。
しかし、落書きを放置すると、犯罪都市になるという。
落書きは、極めて素朴な自己表現であり、芸術の衝動と原点は同じだ。
芸術と落書きが違うのは、落書きには自己との対話がない。
芸術は自己を磨き高めるための創作であって、
自己と作品との対話から生まれる。(客観化)
落書きは、ただの衝動だが、芸術は衝動と思考で、思想に昇華する。
そういう点で、落書きの中には極めて芸術性の高い「作品」もある。
実際、落書き防止には、消すより、芸術性の高い作品を書いておく方が防止効果があることでもわかる。
他人の作品をおかしてまで画かないのは、創作者意識があるからだ。
創作とならない落書きは、ただの衝動だから、それを自分で「押さえられない人」は、他人に押さえてもらうしかない犯罪者だ。
痴漢も落書きと同じ、自分の衝動を抑えられない人間だ。
両者とも、自分を客観視できない。自分の思いこみだけの衝動で行為する。
しかし、落書きも痴漢もいっこうに無くならないように、人間はもともと衝動的な動物だ。
プロ魂
さんまが「恋のから騒ぎ」メンバーに手を出すと、多くの人が思っているようだ。出演者の中にもそれを期待している者もいる。
だが、さんまの言葉は本当で、決して手を出さないだろう。
そこが、さんまのプロ魂であることが、素人には解らない。
昔から、「商売ものには手を出すな」という格言がある。
売り物の場合
売り手が、食い飽きているような物には、高い金を出す気がしないが、売り手すら手に入らないような物なら、金を出す満足感がある。
人気商売、信用商売の場合
アイドルのように、仮想恋人が誰かの物では、ファンとすれば自分の対象と思えない。
また、異性に弱みがあるような芸人では、突っ込みを笑えなくなる。芸人は捨て身で毒のある無頼漢でなければならない。
先生家業と呼ばれる、教師、医者などの信用商売は、人間を超越した存在であることを要求される。人間くささが漂うと、邪心のない公平な判断なのか、不安になり、頼ることができない。
個人的な感情を持つ俗物と分かれば、患者や生徒にはなりたくない。
だから、こういう信用商売の「商売もの」である生徒、患者に手を出す先生は、プロではない。
ところが、客はプロではないから、さんまを見るように先生を誤解する。そしてまた、客が個人的感情を持つのもしかたがない。
自分が信頼する先生ならなおさら、先生からも目をかけてほしい。
先生が自から手を出さなくても、猛攻におちるのは多々あることだ。
実際に手を出さなくても、腹いせや妄想で「先生に○○された」は昔からあった。
だから、先生家業の心得として「君子危うきに近寄らず」を、初めから承知していなければならない。先生育成は先ずそこから教えた。
しかし、それは昔の話らしい。近頃の先生家業はどうだろう。
学生の頃から「モテ慣れ」している医者は別かもしれないが、学校の先生はモンスターペアレント以前に、自ら破綻している。生徒も親もけじめ無く、大学でもセクハラ、パワハラ、何でもありだ。
聖職も警察官なら可愛げがあるが、裁判官までグチャグチャだ。
「商売ものに手を出す」素人に、プロの資格を与えることは、
オオカミに羊の番をさせるようなものだ。
世の中の全てがおかしくなっている一因には、点数だけで人間の価値を決める教育がある。
どんなにおいしそうな食べ物でも、衝動を我慢できなければ、盲導犬にはなれない。盲導犬にも劣る先生たちには鑑札と首輪が必要だ。