魯生のパクパク

占いという もう一つの眼

世界遺産

2015年07月05日 | 日記・エッセイ・コラム

世界遺産登録は成ったが、喜べない。
そもそも、この世界遺産というものは一体、何なんだろう。本当に残すべき価値があるものであれば、法隆寺や那智の滝のように、その地の人々が守り残していく。
わずか、100年や200年前の物を、「残すべき物」としてしまえば、時代の変化の中で、障害にもなり得る。

それだけではない。石で造られた、ピラミッドや神殿なら、放っておいてもそれほど金も掛からないだろうが、崩れ落ちて消滅しようとしている物を残そうとすれば、維持管理に、観光収入以上の、莫大な金が掛かる場合さえある。

年寄りの家は、あれもこれも想い出の品が増えて、どんどんゴミ屋敷になっていく。
核家族がそれぞれ墓を建てれば、日本中が墓だらけになり、それもすぐ、無縁墓に化する。

日本人は諸行無常を知る仏教徒のはずだ。それが、どこでどう間違えたか、物への執着に囚われ、消え去るべき物にまで、由緒いわれを求めて、大切なものを失っている。

今回の登録騒ぎは、何が何でも登録しようとする卑しい足下を見られて、賞やお墨付きを欲しがる卑しさでは一枚上の韓国に、見事に利用された。
日本の動きに食らいつき、自国の登録の取引に最大限活用した挙げ句、今後の新しい言いがかりの種にされてしまった。
今後これに絡む、どんな言いがかりが出てくるか、事あるごとにカードにされるだろう。

詐欺に遭った人に、第三者が冷たいのは、自分が欲をかいたからだと見られるからだが、今回の登録騒ぎは、まさに、欲をかいて、ガッポリ持って行かれた状態だ。

こんな、泥を塗られた世界遺産を手にするぐらいなら、
日本は、全ての世界遺産を返上した方が良い。
わざわざ、お墨付きを貰わなくても、日本にあること自体が、充分に世界が興味を持つ「世界的遺産」なのだから。


→「日本遺産