魯生のパクパク

占いという もう一つの眼

他人の車

2023年11月29日 | 日記・エッセイ・コラム

日本も「ライドシェアー」と盛り上がっている。賛成だが、欧米の人権問題を日本で語るような違和感がある。文化背景が異なる中で、同じ事を同じように行うのはムリだ。
「物」を違う文化に持ち込めば、人はその文化なりに利用する。しかし、文化を持ち込んでも、根付かない。
昔、新しいファミレスの入り口で、スタッフが「ようこそ、○○へ!」と英語直訳風の挨拶で叫んでいて強烈な違和感があったが、この店はすぐ無くなった。文化は水や空気だ。人は異臭を避ける。もっとも近頃は、注文に「喜んで!」とこれまた直訳風に答えるが、違和感は無いらしい。時間を掛ければ文化は慣れる。
車は物だが、「ライドシェアー」は文化だ。

ライドシェアーを直入しても、欧米のようには広がらない。ウーバーイーツが広がったのは、日本にも昔から「出前」文化があったからで、玄関口で受け取っても、中まで配達員を入れるわけではないからだ。
日本人の見知らぬ人に対する警戒心と気遣いは極端から極端で、パーソナルスペース以前に、中に入れない「結界」をつくる。しかし逆に、いったんドアを開けると、言葉巧みな訪問販売員を上げて、お茶を入れる奥さんまでいた。

日本の「おもてなし」文化は、持って成す「もてなし」であって、形から入る。腹を割った人格の「つきあい」ではない。
日本人は家の中の「身内」には何でも許すが、門の外は敵だらけ、人を見れば泥棒と思う。
島国日本は、結界を張った村々の中で「身内」同士で暮らしてきたから、敵の中で個人を保つ意識を知らない。仕切られた枠の空間でのみ自分がある。戦時中、捕虜になった日本兵が、秘密情報を何でも話すので、アメリカ軍は驚いた。逆に、日本軍は捕虜を冷遇した。日本人には人格や人権の意味が解らなかった。
もてなしの象徴のような茶室は、枠と型の空間に入ることで安心感を得る。個人を捨てることで、集団瞑想のような感覚を共有できることに価値がある。

車内は茶室
茶室の発想は「結界」だ。もともと、弥生に渡来してきた人々は環濠集落や高地集落で暮らす大陸型だった。城郭都市や客家圍楼に見られるように、世界常識では物理的な防護壁で住空間は守られていた。しかし、海によって守られた島国に暮らす内に、日本の小集団の防御壁は鳥居やしめ縄の「結界」のように形骸化していったようだ。
紙や木で造られた立前の防御壁の中で、みなが武器を捨てる「結界」の儀式が生まれたのは、戦国時代と言えども、夷狄の心配の無い日本列島という安心世界にあったからだろう。「下剋上」が異様に聞こえるほど、日本は全体的には約束が守られる安心世界だった。大陸は下剋上など超越した暴力世界だ。
今日、日本の茶道が世界に受け入れられるようになったのは、世界の人が、地球が日本列島のように大きな枠で守られた世界であることを認識したからだろう。

タクシーには公的責任の所在があるから、知らない運転手でも乗るが、よその「知らない人」の運転に乗ってはいけないのは小学生の時から、日本の常識だ。
他人の運転する車に乗るということは、日本人にとっては個人の「結界」を破ることになる。つまり、全てを許す行為と言っても過言ではない。

心にある防御壁
昔、ヨーロッパをヒッチハイクした。その足で、カナダに行くとトロントの街中で普通の人がヒッチハイクをしている。赤ちゃんを抱っこした若いお母さんが、道脇で右手を伸ばして親指を立てて立っているのには驚いた。
乗る方も乗せる方も自分の判断で乗り乗せる。ゲルマン系とラテン系の違いはあるが、欧米文化の自我と、近頃日本で言われる自己責任とは、真逆に近い概念だ。
奴隷の中から生まれた一神教は、どんな状況にあっても自我を捨てない。しかし、環境依存型の東洋人は、奴隷になれば人格は失われ、集団に背けば捨てられる。それがいわゆる自己責任の意味だ。

警戒心の強い日本で、ヒッチハイクは難しいだろうと思っていたら、来日したヒッチハイカーには天国だというから、考えてみた。
日本人の警戒心とは結局、「結界」の内外であり、「結界の外」では警戒するが、車という「結界の内」にいる時には、「自分」を保てる。道端で自分の「結界」を捨てて「捨て身」で立っている外国人なら、優位な立場で安心して招き入れ、「おもてなし」できると思うのだろう。
日本人の感覚からすれば、日本にいる外国人は守られていない人、極端に言えば野良猫のような存在だ。自分の方が優位な立場で、野良猫に餌をやるように可愛がることが出来ると感じるのだろう。

少なくとも以前は、日本人が道でヒッチハイクをしていたら異常に映ったし、「乗っていかないか?」と声を掛けられて乗るのは、良くてナンパ、悪ければ犯罪目的だと思われるだろう。だから、乗せてあげたい情況でも、よほどでなければ声を掛けられなかった。
しかし、情報時代の最近は、欧米での情況をそのまま取り入れるようになり、高速の入り口などでヒッチハイクをしている日本の若者も見かけるようになった。
また、ネットによる出会いやファンディングから、犯罪まで、見知らぬ人同士が間単に共同行動を取れるようになり、あたかも日本人も世界の人と同じ認識を持つているかのように見える時代になった。
LGBTや環境、人権問題と、今や日本も世界と同じ感覚で同じ行動を取っているかのように見える。良いことだが危険な大間違いを起こしやすい。

ネットは新世界だが、手近さ故に、日本人はネット世界を「結界の内」と錯覚する。これは、「結界」意識のない人々より、安心して何でも許しやすくなる。くどいが、警戒心の強い日本人だからこそ、殻から出たヤドカリ状態の危険が待っている。
欧米の動きは、サザエや牡蠣のようにかけがえのない自前の殻、心の防護壁を持って生きている人たちの行動だ。一枚しかない防御壁を大事にしている。
日本人は何でも流行にしてしまうという批判があるが、みんなで渡れば怖くない。つまり、自分の判断ではなくノリで行動する、環境依存型だ。

これほど環境依存している日本で、公的保証のない「知らない人」が運転する車に乗るだろうか。また実際、安全だろうか。乗せる側にも「自分の結界に入れる」という悪意の優位意識を持つ者もいるだろう。
ネットのノリで行動する人々には受け入れられるだろうが、実際、その人達が、みな善意と安全を得ているだろうか。

ライドシェアーは賛成だ。しかし、日本で実施するには、日本の文化に合わせて行う必要がある。参加者を明示的な登録制にするとか、提供者も利用者も互いに情報が知れる会員制にするとか、事故補償の嘱託金を定めるとか、とにかく、いかに「安心」に利用できるかが先で、便利さは二の次だ。


ブギウギ

2023年11月27日 | 占いばなし

『ブギウギ』がウケている。日頃は見ない朝ドラだが、服部メロディーに彩られた戦前戦後の芸能界の空気が楽しく、毎週録画してまとめて見ている。
笠置シズ子も服部良一も、何度かドラマ化されているが、今回は仮名でフィクションも交えているので、より面白い。

笠置シズ子は五黄の寅で、五黄は元来、「家族」をキーワードとする波瀾万丈の人生になり、さらに「寅」も波乱なので、五黄の寅は強烈と言われる。
実父も笠置シズ子と同い年で、やはり波瀾万丈の人生の同じ時、大阪にいたので、ことに興味深い。
服部良一は三碧で、三碧は雷の象意があり、光や音のように瞬間的なもの、映画や音楽に関係する。音楽では坂本龍一も三碧だ。

笠置シズ子と服部良一は、自動車人間でいえばどちらもボディーで教祖的であり、日干支は奇しくも両者とも「癸未」の申酉空亡で、両者とも自分の生まれ月が空亡している。
笠置シズ子は自分自身がジレンマを抱える人だが、服部良一は自分の世界にしか関心のないオタク型の人だ。いずれにせよ、どちらも器用な人ではない。これが幸いし戦争責任の責めから逃れることになった。
これに対し、「エール」の古関裕司は自動車人間のハンドルだから柔軟性がある職人で、コンピューターのように求めに応じて作曲することができ、軍歌でも「君の名は」でも作曲した。器用な作曲家と言えば筒美恭平もハンドルだ。

服部と笠置の大阪コンビの背景には、関東大震災がある。関東大震災で、東京の芸術芸能の関係者がみな関西に流れ、戦前は関西文化が主流になっていた。
今は逆に、関西の芸能人が関東に流れることで、結果的に関西弁ブームが起こっている。大阪万博があっても大阪ブームにはならなかったが、異なる背景でも、天王星84年周期としてはやはり戦前が来ている。


リモコン

2023年11月20日 | 日記・エッセイ・コラム

電気製品は、何でもリモコンで操作するようになって、便利な反面、問題も多い。
カードもそうだが、目的の数だけ揃えなければならなくなり、整理に困る。イザと言う時に、どれがどれだったかウロウロする。
電気製品など、今やリモコンありきで、リモコンが無くなると操作できなくなってしまうものもある。
これだけ、スマホを使う時代なのだから、電機メーカーはスマホで使えるようにするか、スマホがその機能を強化するとか、本当に、何とかして欲しい。

何でなん?
ところで、そのリモコンなのだが、電池の残量は十分あるのに、全く使えなくなることがよくある。多くの場合、電池をクルクル回したりすると使えるようになるから、接触の問題なのだろうと思うが、買ったばかりでもそんなことが起こるから、不思議でしょうがない。
ネットなどで調べても、やはり、「電池を回したり、出し入れすると利くことがあります」などと書いてあるだけだ。確かに目に見えない腐食があるかもしれないから、これはある程度有効なことは経験的に知っている。しかし結局、根本原因や解決策が見つからない。

買ったばかりなのに、あまりにも利かない電灯のリモコンに腹が立ち、よくよく見てみると、付属乾電池のプラス端子の形状の違いに気がついた。端子の突端にさらにヘソ状のと言うか乳首状のと言うか、小さな突起がある。(確か、昔は全部これだった)
これは最近あまり見かけなくなったマンガン乾電池の特徴らしく、アルカリ乾電池が平らなのに対し、大小にかかわらず必ず尖っているようだ。何故この違いがあるのか、大手電気量販店の店員に訊いたが、「???」という反応で、違いがあることさえ気づいていなかった。
仕方がないのでChatGPTに訊いてみると、構造上の違いだと言うが、信用できないので、さらに電池工業会のレポートを調べてみると、なるほど、マンガン乾電池は炭素棒が中を貫いている。詳しくは解らないが、この通電性を良くするためにプラス端子に突起があるのかも知れない。

ここまでこだわったのは、利きの悪いリモコンの電池をアルカリ乾電池に換えたら、嘘のように使えるようになったからで、通常、リモコンはマンガン乾電池に適性があると信じてきた常識を変えるべきか悩んだからだ。
新品の乾電池が利かない理由が、形状の違いによる接触問題なのか、電圧特性の違いなのか、それとも、端子素材の問題なのか、今後のこともあるので知りたかった。
取りあえず、リモコンも今後はアルカリ乾電池を使うことにした。


芸能問題

2023年11月16日 | 星の流れに

このところ続く、ジャニーズや宝塚の問題は、土星→魚座の影響だ。ショーや音楽は魚座なので、不幸の星である土星が来ると、ショーや音楽の世界に不幸が来る。
また、土星は時や過去を表すので、何れも過去の問題が浮上している。伝統(過去)芸能の歌舞伎界での猿之助事件も同じ影響だ。
一方で、『ブギウギ』のように、過去の芸能界を扱ったドラマは大ヒットだ。

土星は人の心を萎縮させ、悲観的にし、過去を振り向かせるので、土星が来た事柄の「過去」に人の関心が集まるようになる。目の前の華やかな事実に、過去のネガテブ面を見ようとし、目の前に存在しない過去には郷愁を感じる。

魚座に土星が来て起こる問題は、サソリ座やカニ座には「漁夫の利」になるので、サソリ座の韓国・朝鮮やカニ座の中国は、不幸中の幸いとなる。紅白のジャニーズに替わるK-POPなどがその例だろう。中国にはパレスチナ戦争がそれに当たる。宗教や海洋国家も魚座なので、中国は海洋国家の苦境が地味に幸いする。
なお、土星は山でもあるので、硫黄島では海洋に山が顔を出した。

この逆に木星は、未来のために現在を見ようとする。土星が起こす問題には解決策がないが、木星によって起こっている問題は、むしろ解決のための荒療治であり、未来には好結果を残す。木星は今年、「収入」や「食」の牡牛座にある。牡牛座は日本にとっての第8室であり、遺産、相続、他人の財布や食なので、海外からの投資や為替、中国の日本食輸入停止などが、日本の収入や食糧問題に影響し、これは長い目で見ればプラスになる。


言語滅裂

2023年11月14日 | 日記・エッセイ・コラム

「学徒鏡」持ってきて下さいと言われて、一瞬、どんな鏡のことだろうと悩んだ。
学徒出陣の時に学生が携帯したお守りのようなものだろうか。昔の学生が密かに身だしなみを気にしていた名残だろうか・・・???
聞き直すと、「額と鏡」だった。
関西に半世紀いるが、未だに関西弁には慣れない。今回の朝ドラ『ブギウギ』が好評な中、趣里の大阪弁は玉に瑕だと言われているらしい。関西弁は関東人が考えるほど甘くない。単語だけ並べて似たような発音をしてみても、会話全体のリズムには付いて行けない。

中国地方と東海・関東は、環状言語圏の影響か、比較的扁平な話し方をするので、互換性があり、中国方言は東京弁に間単に馴染むが、中国方言と関西弁となると、文字に書けば似たような単語が並ぶものの、フランス語と米語ぐらいの隔たりがある。
東京弁は江戸弁とは異なるが、関東弁としての「息」は同じで、抑揚を抑えた扁平な言葉ながら、連結した合成語には抑揚が付く。
言語学者ではないから抑揚がつく条件は解らないが、東京弁で、「耳」、「飾り」を別々に指す時はどちらも扁平に発音する。しかし、「耳飾り」になるとリズムが付く。ところが関西弁だと、何れの単語にも始めから抑揚が付いており、合体しても当たり前のようにリズムが付く。
「額と鏡」も関東弁では扁平なので、「と」が独立してよく分かる。ところが、関西弁の「鏡」は、合成語の「学徒鏡」と発音する時と同じアクセントで「カガミ」と発音するから、関東や中国の耳には、早口で「ガクトカガミ」と言われると、「学徒鏡」にしか聞こえない。

こういうことは良く解っているつもりなのだが、未だに、気を抜くと混乱する。
半世紀いても、基本的に関西弁は話せない。すぐにムリだと覚った。話したくても、話せないから話さない。特に、大阪弁での多人数のタメ口は不可能だ。ジャズのセッションのように、リズムとスピードに乗った会話に完全に取り残される。
10代で話し始めれば何とか関西人風にはなれそうだが、20代後半からではムリだ。

ただ、何弁であれ、何語であれ、らしくしゃべるコツはある。その言葉独特のクセ、殊に音楽的側面をスムーズに使えると、らしく聞こえるが、正確な議論にはむしろ邪魔になる。ドナルド・キーンやデーブ・スペクターのように日本語の論理に関心のある人より、山形弁や大阪弁を話す人やアニメファンのノリの方が日本語が上手そうに聞こえる。
日本語の場合、考えながら、正しい論理で話そうとすれば東京弁の方が有効だが、人の心を掴み説得しようとするには、音楽性のある関西弁の方が有効だ。
関西の論客と言われる人は、話の内容より、その人の存在の方が印象に残り、妙に納得してしまう。

奥の深い関西弁には付いて行けないが、それでも長くいると感化されて、相当に関西弁混じりになり、何弁を話しているのか自分でも解らなくなった。でも、これはこれで良いのではないかと思う。

もともと動物に論理言語はなく、人間も言葉がなくても意志は通じるように出来ている。言葉がなくても好悪はすぐ通じるし、むしろその方が本音が分かる。何とか意思を伝達しようとすれば、自然に通じる。
言葉に囚われるから誤解が生まれる。多くの戦争が、案外、誤訳から始まっているという話もある。「正しい言葉」があると思うから言葉を信じて欺されたり怒ったりする。
言葉のルールを正したり言葉の心理を読むことと、真意を知ることとは別の問題だ。案外、デタラメな言葉の方が有効なコミュニケーション手段かも知れない。


クマさん

2023年11月13日 | 日記・エッセイ・コラム

「40代の男性が妻に襲われ死亡しました・・・」
よくある話だと聞き流していると、道に倒れているのを発見された・・・
何か変だとTV画面を見ると「クマに襲われた」だった。
老人アルアル、また、一人で笑った。

熊に女性が襲われ、熊を逮捕!?実はくまモンの着ぐるみを着ていた・・・
そんなシュールなニュースまで聞くかも知れないと、妄想が膨らむ。
日本全国クマさんだらけ。落語のハッつあんには出る幕もない。

クマさんと言えば、昔は女性でもトラが普通にいた。戦後でも聞いたような気がする。明治生まれの祖母は、「コシゲ」が恥ずかしく自分で「シゲ子」と名乗っていた。その当時は「子」が貴族風でハイカラだったが、今では逆に、「子」は絶滅危惧名だ。
「コシゲ」は「小春」と同時代で、坂田三吉の女房の「小春」や陽水の「小春おばさん」の頃には可愛い名前で、祖母と同世代の小学校の先生は「小菊」だった。
近頃は、個性的な名前の一方、大谷翔平など男子名の「平」や「太」「介」のような古風な名前も流行っている。あまり斬新な名前ばかりになると、古風な名前の方がかえってカッコ良くなる。

命理学的には、名前が人生を支配するのではなく、運命が名前を支配する。どんな名前を付けても、運命と合致していなければ、その名前では呼ばれない。あだ名や役職名で呼ばれたり、結婚で姓が変わったりする。
古代の人物紹介のような長々しい名前でも、現代のキラキラネームでも、意味が同じなら同じ名前ということになる。木花之佐久夜毘売(このはなのさくやびめ)と花や咲の付く名前は同じ意味になる。
名前の始まりは、その人を形容するあだ名のようなものだったようだ。映画の「小さな巨人」はアメリカ原住民の伝統的名付けの例で、日本の古代名の付け方とも似ている。欧米の職業名や、誰それの子と言った名前なども、状態を説明する名前だったが、近頃は「かくあって欲しい」親の希望が名前になることが多いようだ。クマやトラや、沖縄に多いカマドなども丈夫で食いっぱぐれのない事を願う親の願望だった。

しかし、名前は運にそぐわなければ呼ばれないし、本人が自分の名前が嫌なことも少なくない。昔は一人の人間に様々な名前があり、東洋では表向きの名前と秘密の名前などの使い分けが多く、偉い人に命名されたり、自分で変えることも自然だった。
一つの名前を一生通すのは、税や兵役、契約社会のために国が戸籍を定めているからで、本来は、イカとスルメのように、情況により自由に変わっても良いものだ。

日本人は真面目だから国の意向に従っているが、香港人などは、ブルースリーやジャッキーチェンのように使い分ける。これは芸能人だからではなく香港の二重性だろう。カナダの英語学校で、香港人のビリーに先生が本名かと聞いたら、普通に「そうだ」と答え、先生が一瞬沈黙した。
日本人の芸名でカタカナ名の人は、そういう意味で逆に東洋的であり、日本人離れした国際感覚があるのかも知れない。

クマさんのK
落語のクマさんの本名は大抵、熊五郎で、あまり熊一郎は聞いたことがないところを見ると長男ではなさそうだ。ハッつあんは「初」も考えられるが大抵は「八」だろうから、何れも跡継ぎではない愉快なお人好しだ。ところが、落語の「トクさん」という名前は結構、抜け目ないところを見ると、頭文字が影響しているかもしれない。
ハッつあんの「H」は優しいお人好しだが、クマさんの「K」は可愛いの「K」なのか、センチメンタルでナルシスト。この「K」と相性の良いのが、腹の据わった男気の「M」で、ピンクレディーのミーとケイや、かこ様まこ様のようにバランスが良い。
トクさんの「T」は、大変で飛んでもない。見かけによらない根性があるから、落語では隅に置けない存在で、ヤマトタケルも活躍したのだろう。

森の中で出合うクマさんも、プーさんも、本当は怖い存在なのになぜか憎めないのは、「K」さんのせいかも知れないが、では、外国ではどうなのだろう。
熊が国の象徴のようなロシアでは、「蜜をなめる者」と形容し熊を直接呼ばないらしいがメドヴェージェフという。ロシアタカ派の元大統領がこの名前だ。


長子社会 4

2023年11月06日 | 兄弟関係

【未来は一人っ子社会】

制度と文化からの脱皮
実際に、未来社会に進むためには、「婚姻、税、選挙」からの脱皮が必要条件だ。
今後はAIとロボットで労働環境が変わり、古代アテネの貴族社会のようになるから、潤沢なベーシックインカムを前提とすれば、職業は生計と無縁になり貴賎がなく、多様な才能が花開く。今、盛んにAIの危険が叫ばれているが、これはAIを従来のコンピュータのような位置づけで信頼するからだ。AIは従来の計算機とは違う、言わば人格を持った奴隷としての付き合い方をすることで対処できる。ローマ時代には何度も奴隷の反乱があったようだが、押さえ切れたのは、知能労働までしていた奴隷を信頼していなかったからだろう。

未来世界では、古代氏族や「家」による「生計と養育のための婚姻」が不要になるから、国も婚姻を前提としない収入を基本にする必要がある。
婚姻制度を前提とする税制を廃止し、個人所得税も廃止する。代わりに内税とロボット税を増やす(人の代わりに生産するロボットから税金を取る)。つまり、税は不要になる・・・と言うより、そこに向かうのが未来志向であり、無税こそが未来の扉だ。

両性の自由を謳いながら人間を縛る婚姻制度が無くなれば、「結婚前提のお付き合い」も無くなり、親が子を育てる当然の「家族」概念も無くなる。親子の関係は自由で良いが、子供は基本として超大家族社会=未来国家が育てるものにする。尚これは、従来の労働者の社会主義や国家主義とは異なり、あえて言えば、聞こえは悪いが、大きな村や町内のような善意の掟社会のような概念だ。これは良識を前提とするので、不可能のように思えるが、社会が長子的な自省社会なら可能になる。ただし、この場合の自省は、古典的な弟妹型の畏れによる自粛ではない。自省は考えることであり、自粛は思考の停止だ。

また、古代の陶片追放の発想から変わらない「選挙」を、民主主義の根幹とするのは、形骸そのものだ。万民の意志を実現するのは数よりも、真意の抽出のはずで、近年、アンケート調査のウエイトが大きくなっているのも、選挙の優位性が後退していることの表れだろう。
今後のAI社会では、様々な社会動向から社会総意や、よりベターな選択肢を把握することが容易になる。人間はAIに管理されるのではなく、それを利用することで、今までよりましな判断が下せるだろう。具体的にどういうシステムかは別として、一刻も早く、選挙の廃止を考えなければ、選挙の無い国に蹂躙されるようなことになるだけだ。

なお、AIやロボットを活用する未来で重要なこととして、ロボットの労働に権利までは考えない。ロボットやペットの権利を考えるのなら、人間の存在は始めから必要ない。
こうした未来になれば、受験、就職の無意味な悩みが消え、様々な差別も前提を失い、出生率や同性婚云々の不毛な論議も無くなる。
これを可能にするのは全て、AIとロボットが実現する未来であり、今ここに実在しないからと言ってこうした未来を否定するのは、古代氏族制度に洗脳された、「因循姑息な音がする」ちょんまげ頭だろう。白紙から考えるのが長子であり、前例に倣うのが弟妹思考だが、長子の種を咲かせるのも弟妹だ。未来の長子社会に最も懸念されるのは、アイデアを実現させる持続性と統一性ということになるのかもしれない。

 


長子社会 3

2023年11月05日 | 兄弟関係

【未来は一人っ子社会】

一人っ子日本は内面が複雑
19世紀の日本は、立前は中華圏の長子的価値観だったが、実体は、「権力の無い天皇」を神の代理とし、さらに徳川家康も権現様とする幕藩複層社会のうえ、養子相続による融通性に富んだ、弟妹型社会のダイナミズムを内包していたので、神の下の欧米に対応できた。
中華式氏族の長子継承と異なり、日本では庶民に至るまで、家名継続の養子縁組が文化として定着しており、大陸ほどの格差はなかった。人口10倍の中国でも4000しかない姓氏が、日本では10万以上あると言われ、その各々が家名を守ろうとするのだから、日本社会の内面、実体は横並びの弟妹社会だった。(ただし、国の相対関係では一人っ子)

戦前まで日本社会は、家庭内では序列を保ちながらも、家同士は対等な競争関係にある弟妹資質を内包していたが、新憲法下で核家族化が進むにつれ、現在の日本には家庭内序列も家同士の競争も無くなり、「家」ではなく、「親子」を単位とする一人っ子、長子の価値観が社会に広がっている。

長子(一人っ子)は、理屈っぽいのに、過剰に物わかりが良く、争いを避けたいが為に、相手の言い分を「理解」し過ぎる、力無きインテリになりやすい。「自粛」も「過剰な思いやり」も「自虐的責任感」も長子のものだ。また、弟妹のように周囲の存在を意識できないから、自己主張も自己説明もなく独善的だ。
日本は対外的には昔から一人っ子の島国だが、現在の社会常識も長子(一人っ子)化している。今後ますますこの傾向は強くなるだろう。
しかし、長子の特長を活かせば、世界全体が長子化、個人化する未来世界では先駆けになれるかもしれない。

長子型を活かす未来社会
そのためには先ず、村社会を欧米合理主義で固めた、過度な集団思考を捨てなければならない。
学校や一括進学・就職を廃止し、年齢・地域・国を超える多様性意識を創らなければならないが、幸い、これを可能にする情報社会がますます広がっている。
公教育は、人格形成を目的とし、社会性と「学び目的探し」の遊びの場とする。勉強ではなく「遊び」こそが、最大の学びであることを周知する事が重要だ。
知識ならAIで充分だ。個性に合わせて、AIを秘書=家庭教師にし、全ての人が王様として教育を受ける。その前に、受験文化がいかに社会的ロスかも、考え直すべきだ。

読み書きソロバンを機械がする時代には、人間は考える力と本来の道徳を身につける帝王学を学べるから、社会智が向上する。
記憶が無ければ考えることもできないじゃないかと、思う人もいるかも知れないが、思考に必要な事柄は、思考と共に記憶され、テストしなくても自然に憶える。単なる記憶量ならAIに任せれば良い。中華式選抜試験と欧米式学校で凝り固まっている日本教育は、AIで無用になる。当然それで訓練される職業も無くなる。未来に必要なことは「思考力・創造力」であり、それは、長子に向いている。

世界が驚く、「キテレツな智の宝庫」日本とは、正に一人っ子の独善と独創だ。この日本の特殊性を再増幅すれば、長子時代の未来において、日本は世界の智のメッカになるだろう。


長子社会 2

2023年11月04日 | 兄弟関係

【未来は一人っ子社会】

長子・一人っ子時代
人類の歴史は多数派である「弟妹」の歴史だった。
ところが、現代のように医学が発達し死ぬ子が減り、少子化が進むと、長子の比率が高くなり、社会に長子的価値観が広がる。親も長子、子も長子の関係は穏やかで理屈っぽく、互いの自由を認め、争いを避け競争意識がない。
誰かに習うことが嫌いな長子社会に、ネット時代が重なり、ますます、人に従い「習う」ことが薄らいできた。これが「ゆとり世代」や「Z世代」と言われる文化であり、弟妹さえも長子型の思考をする。
古典的弟妹型社会で育った50代以上の旧人類には理解できない感性と価値観が生まれ始めている。

何でも自分で考え想像してみる長子は、弟妹の気持ちをある程度推察できるが、弟妹には長子の気持ちは親と同様で、想像できない。表面的な言動だけを見て理解したつもりになる。
もちろん、弟妹も想像はするが、長子が自分の考えも疑いながら想像するのに対し、弟妹の想像はパターンに当てはめる「決めつけや思い込み」になる。親が痴呆だと決めつけるのは弟妹に多く、長子は「歳相応だから普通だろう」程度に受け止める。
余談だが、弟妹の書く小説の方が面白いのはイメージが具体的で現実感があり、読み手の想像の余地が多いからかも知れない。長子は、これが面白いだろうと作為的な過剰表現が多く、没入できないが、哲学的で考えさせるところはある。

現代日本の若者が海外に出て行こうとしないのは長子文化の影響もあるかもしれない。想像すれば解ることを体験してみたいとは思わないし、知らない人に心乱される苦労などしたくない。ただし、好奇心と思い込みで、恐怖を忘れるのも長子だ。
弟妹は状況次第で、服を着替えるように一瞬にして変われるが、現場対応が苦手な長子は納得するまでの時間が掛かる。もともと思考型の長子は出て行くまえに情報で想像する。
しかし、これが長子の欠点で、無心で体験してみなければ解らないこともあることが解らない。長子は事前に様々に想定し、心の準備が無ければ動けない。仮に突発事態に遭遇しても、「想定内」だったことにする。ホリエモンも長子だろう。

タテ型長子、横型弟妹
人類が経験したことのない長子世界が来れば、争いは無くなるかもしれない。戦争を好まない宗教や哲学は長子によって生まれ、教理で争う宗教は弟妹によって生まれたのではないかと考えられる。
各々の教祖が実際どうであったかは不明だが、全ては人間自身=己が解決する問題と考える仏教や儒教は長子の視点で、生まれる前から絶対的力=神が存在するキリスト教やイスラム教は弟妹の視点と言える。(一神教の神は古代ユダヤから存在していたので、キリストやマホメットの発想ではないが、被抑圧者の視点は弟妹と同じ)

タテ型長子社会の中華圏が19世紀の欧米に蹂躙されたのは、多分に、素早い対応が出来ない長子帝国が影響していたと思われる。現在の中国共産党も、何か起こると反応が遅く、逆に、弟妹型の韓国は何も解らない内からとにかく現象に反応し変わり身も早い。
一人っ子日本は外から見ると何を考えているのか解らない。強く押すと思いがけない行動に出る。破れかぶれはあるが、コツコツと積み上げるのが信条で、決断力は無い。

世界侵略をしたモンゴルは原則は長子相続だが、徹底した実力主義で、ヤクザ的、あるいは戦国武将的力関係で成り立っていたので、農耕型の安定社会は間単に崩された。
現在の中国は、幾度も征服されたこともあり、モンゴルの実力主義の影響を受けているが、漢民族の農耕的管理官僚社会で形骸化し、モンゴルのような臨機応変の行動は取れない。始めは上手く行っているように見えることも、結局、安定志向を求め進取性を失い他動的大崩壊を待つことになる。
この傾向は、一人っ子型の日本の方がもっと強いが、表面的な動きがないので大崩壊まで気づかれない。


長子社会 1

2023年11月03日 | 兄弟関係

【未来は一人っ子社会】

長子は一人っ子
長子は元々は一人っ子で、次子との年齢差にもよるが、ほとんど一人っ子と同じ特性を持っている。弟妹がいれば、あしらい方を身につけるが、年が離れるほど一人っ子同様になる。
また、長子の親が弟妹の場合は、子供を自分の弟妹・部下扱いするので、弟妹型の要素が加わるが、成長後の長子は親と距離を置くようになる。

< 総領の甚六 >
昔、商店街が元気だった頃。ある商店街のランドマーク的なお店があった。仮にその店を一休さんの「桔梗屋」としよう。その店の5歳の一人娘が、みんなの前で名前を聞かれて
「桔梗屋弥生です」と答えて、一同大笑いになり、町内に語り継がれた。
もちろん、桔梗屋は屋号で、本名は別にある。
皆が笑ったのは、いつも呼ばれる屋号を姓だと思い込んでいる、子供らしい無邪気を可愛らしく思ったからだろう。

しかし、これが弟妹だったらこうはならなかった。自分の姓を知らなければ名前だけ言う。「上の名は?」と追求されれば、キョトンとして助け船を待つ。第一その前に、兄姉が姓を知る頃には自分も横で素早く憶えて、「斉藤弥生」ですと答え、なんと賢いと感心されるだろう。
弟妹は生まれたときから先達がいるから、考えることより、習い「憶える」ことが得意だ。ところが、見習う対象のない長子は、全て自分で「考える」。
『どうも名前には別に、一家の名前があるようだ』と気づいたら、自分で考え、これだろうと、勝手に決め込む。もちろん、手がかりがなければ、進んで尋ねもするが、どう見ても一家の名前はみなが呼ぶ桔梗屋だ。だから、誰に聞かなくても自分の姓?を知っていた。
長子が自分で考え、判断する例は、麻生太郎の「みぞうゆう」がある。ルールや世間の決まり事より、先ず自分で考える。

教育熱心な親が色々教えようとしても、あまり真剣に聞かない。物心ついた瞬間から自分で考えるから、教える人に対して素直ではなく、反応が悪い。実際、自分で納得しないことを無批判に受け入れる習慣がないから、「憶えが悪い」。
長子の親は子供の自主性を尊重するが、弟妹は人に聞いて憶えることに長けているから、それが向上の最良策と考え、自分も人に教えたがる。弟妹が親になり、我が子の長子に熱心に教育しようとすると、双方にとって色々と辛いことになる。

多産時代の長男相続
昔は兄弟10人ぐらいは普通だったから、多数派は弟妹で、世の価値観は弟妹型だった。反応が悪く、世間とずれている長子の思考や態度は、「総領の甚六」と揶揄された。
しかし、早くから親の手助けが出来ることや、長子の独創性や未知への対応力が経験知として認識されていたことで、長男相続が重視された。だが、これは長子が重要なのであって、長子が女なら長女でなければ意味がないのだが、男系の氏族文化では男にこだわったため、実は姉がいる弟妹の長男が後を継ぐことが多く、「賢しい長男」は弟のことが多かった。

人類の歴史は弟妹型の歴史だ。「習い覚え」、「素早い反応」、「競り勝ち」は、全て弟妹型の原理であり、「学校教育」、「情報や技術の輸入」、「敵を求める戦争」も全て弟妹型に起因する。当然日本も、維新や明治政府を率いたのは弟達だった。さらに言えば、日本神話は弟妹がヒーローで、大国主命も神武天皇も、ヤマトタケルも弟だ。
弟妹は競争相手によって自分を確認しようとするから、妥協より争いを好む。
長子は相手の存在が念頭にないから、挑戦を挑まれると譲り、難儀を避け別の道を探そうとする。弟妹に強く言われると「お前に任せる」と言う長子は少なくない。また、長子が親を助け、弟妹のために犠牲になることも多い。弟妹はそれを当たり前の光景とみているので、感謝する場合もあるが、中には親と同じように反発して嫌い、長子に反抗する場合もある。いわゆる「悪口」は、弟妹の長子への視点の場合が多く、長子には「告げ口」の相手がいなかった。
弟妹中心の古典的社会は、競争やチャレンジが好まれ、国家競争や戦争を含め、発展的な活気に溢れている。近頃はあまり聞かない言葉だが「発展家」は、ほとんど弟妹だ。